心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

6章 「自尊心」の混乱と喪失−1  −自尊心の発達と阻害の過程−

 

 

「愛」と「自尊心」が織りなす心の罠

 

 「幼少期における愛への挫折」が、全ての問題の始まりであることを説明しました。

 では「幼少期に与えられるべき愛」の回復が解決への答えなのかと言うと、もうそうではありません。

 人は心を病む過程の中で、「愛されることが必要だ」と考えます。そして自分を愛してくれる人を探し求めようとします。しかし、それによって心の問題が解決することはありません。

 「愛されることが必要だ」と考えた時、人は「愛」を見失います。そして同時に、「自尊心」を見失います。

 

 なぜこんなことになってしまうのか。真の答えはどこにあるのか。

 ハイブリッド心理学が見出した答えをお伝えしたいと思います。

 

自尊心の成長過程−1:幼少期

 

 ここではまず、人間の心の発達過程における「自尊心」の成長について、健康な心においてのものと、それが心を病むメカニズムによって妨げられる姿を概観しておきたいと思います。

 そこから、真の問題がどこにあるのか、そして回復と克服への道がどこにあるのかを説明していきたいと思います。

 

 幼少期においては、前章で概観したように、「宇宙の愛」に見守られ、その安全感の中で、心を解き放ってこの世界に向って行くことが受けとめられるという安心感が、この子供に自信と自尊心の素朴な原型とも言えるものを与えるように思われます。

 それは、自分の「命」が、世界に生まれたこの「生」から歓迎されているという感覚でもあるでしょう。

 

 前章において、「愛される」ことが同時に「自分自身を肯定する」ことを意味する時期だという表現をしました。

 しかしこの時期の混沌とした自他未分離意識においては、「この自分が愛される」という、自意識の明瞭な意識ではなく、やはりもっと漠然とした、根源的な意識であったと考えるのが正解のように思われます。

 それはあくまで、「この世に生まれ出た」という、「命」への肯定の感覚です。それは同時に、「命」がそれを抱いてこの世に生まれ出た、「命の望み」への肯定の感覚だと思われます。

 

 事実、それが妨げられた姿とは、「感情分析」の実践によって遡られた時、「自分は愛されなかった」という感情ではもはやない、より根源的な「望むものが拒まれる」という感情であることが追体験されます。この具体的な例を、前章の終わりに、私自身の『悲しみの彼方への旅』から抜粋して紹介しました。

 事実、それが妨げられる姿とは、もちろん親が最もその大きな要因にはなっているとして、幼少期の子供自身の心においては、それはもはや「親との関係」という断片的なもの、さらに言えば浅はかなものでさえない、「命」と「生」との間に起きた挫折なのだ、というのがこの心理学の考えです。

 

 私自身が、それを象徴した夢をかつて良く見たのを思い出します。それは、幼少期を少し過ぎた頃の子供の自分が、怒りを親にぶつけ続けている姿の夢でした。

 私事のような話でもあり、同時に、私自身の治癒成長への歩みとして成された追体験でもあり、またその内容の分析が、この心理学の整理作業にもなりました。

 今、少し不思議な感慨と共に思い出しますが、私自身はこの人生で、「親に愛されたい」という感情を体験した記憶がありません。全てが妨げられた後から、意識の記憶が始まっているのでしょう。

 夢の中に現れた怒りは、「親が自分を愛さなかったことへの怒り」では明らかになく、「自分が望んだ愛の深さを理解しなかった者への怒り」であったように感じます。

 そこにあったこととは、親との関係という問題だけではなく、それを願って生まれたこの世界とのこん然一体が、実は「自意識」の登場によって損なわれたという、人間の心の根源的な(ごう)でもあったように感じます。

 

 「命の望みの挫折」として体験された幼少期の感情は、「根源的自己否定感情」としてこの人間の心の底に置き去りにされ、もはやなぜ自分が拒まれるべき人間なのかという論理性のない自己否定感情として残り続けることになります。

 なぜ自分は拒まれるべき存在なのか。強いて言えば、自分の「命」が「生」からの拒絶を受けた命だからです。

 この感情は、生まれいずる「自意識」としては受けとめるに(がた)く、子供の心で体験するにはあまりにも破壊的な、まるで人間以外のものを見るようなぞっとした目で見られるという「恐怖の色彩」だけは、もはや意識の形さえなくしたまま、あたかも脳に蓄積した悪感情物質の塊のような、「感情の膿」として残されることになります。

 

自尊心の成長過程−2:学童期以降

 

 「自意識」が芽生え始めると共に、それまでの「愛されることによる自尊心」ではなく、「愛されることに依存しない自尊心」への要請が、人間の心のDNAに作用し始めます。

 

 事実、人間の社会には、「愛されること」とはもう全く無関係な、生きるために学ぶべきことが山ほどあります。その習得を通して、やがてこの社会の中で「優れた者」として存在できるという大きな目標が、思春期になっていよいよその要請が強まる「自尊心という課題」に向けて掲げられることになります。

 

 心理メカニズムとしてより正確に言うならば、この学童期以降の「自尊心」とは、「愛されることに依存しない自尊心」というよりも、「自他分離意識に立った自尊心」として、幼少期の自他未分離意識の根源的な自己肯定感と区別した心理過程になると考えられます。

 「愛されることに依存しない自尊心」という表現は、必ずしも正しくない。これは実は、自尊心の最終的な到達においては、やはり「自分が愛される人間」だという安定した自信感も、大きな一つの源泉になるようです。

 つまり、まず言えるのは、人間の最終的な自尊心とは、実に総合的なものであるということです。この主な成り立ち過程を、このあと見て行きます。

 

自尊心の重要性

 

 「自尊心」の重要性についてここで説明しておきましょう。

 ハイブリッド心理学では、人間の心の「心理発達課題」は、幼少期からの成長の全段階を通じて、たった一つ、「自尊心の獲得」課題だけがあるのだと考えています。

 「まず幼少期に愛されることが課題」ではなく、です。「幼少期に愛されること」は、その一つの良い足場になるに過ぎない。もしくは、「幼少期に愛されること」は「課題」というよりも「前提」として、人間の脳が設計されているのではないかと。その前提が崩れるという異常事態が、現代社会ではおき始めているわけです。

 

 「自尊心」が心の成長の課題であるとは、それが心の幸福にとって決定的に重要であるということです。

 これは単純な話です。自尊心を持ち、自分を肯定的に感じると、湧き出る感情はおおよそ良いものになります。逆に、自分を否定的に感じると、悪い感情が多く湧き出てきます。

 自尊心があるとは、心が安全な状態だということであり、「喜び」「楽しみ」といった幸福につながる自発的な感情が多く湧き出てくるということです。自尊心が損なわれていた時、心は安全ではなく危険に満ち、「恐れ」や「怒り」といった心身に悪影響のある感情が多く湧き出てきます。これは不幸なことです。

 

自尊心への総合的な歩み

 

 幼少期の素朴な自尊心が、「根源的自己否定感情」によってどの程度妨げられるかは人により違いはあるとして、いずれにせよその後の「自尊心の獲得」という課題は、実に総合的なものとして成されるものと考えられます。

 

 自尊心にとって何が重要か。色んなことを言う人がいます。社会で勝ち組になること。人と信頼関係を持てること。異性にモテること。財産を築くこと。生きがいがあること。恐怖心をなくせること。人を愛せること。エトセトラ。

 「総合的」であるとは、そうしたさまざまな材料の中で「どれが」重要かという思考では、自尊心にとって本当に重要なことが見えない、ということです。

 

 これは「幸福とは何か」について、「入門編」ですでにお話したことと一緒です。

 「幸福」とは、この心理学においては、「欲求全体の調和ある充足」だと述べました。それは、「どの欲求が重要か」という思考法をすると、もう見えなくなると。

 「自尊心」を、この「幸福」という人生の総合的な側面から理解することもできます。

 つまり自尊心とは、自分の「幸福への能力」そして「人生への能力」という総合的なものについて感じるものです。

 真の自尊心とは、自分が自らによって幸福に向い得る生き方を持つ存在であり、自分の人生の羅針盤としてその自らの生き方を尊重し尊敬できるという感覚だと言うことができるでしょう。

 

 その意味で、「幸福」と「自尊心」は表裏一体のものだとも言えます。

 「幸福」は、「欲求全体の調和ある充足」であり、生き方の「結果状態」として、若干外面よりの話と言えるかも知れません。

 「自尊心」は、自分が自らの幸福への羅針盤であることへの自信であり、より内面よりの話と言えるでしょう。しかし何よりもこれが心の安全感を生み、湧き出る感情を全般的により良い感情とし、めぐりめぐって「結果」としての「幸福」さえ、外面にあまり依存することなく決定づけることになると言えます。

 内面における「自尊心」のあり方が、さらに重要になってくるゆえんです。

 

自尊心のための外面向け視点

 

 では実際、そのように重要な自尊心を高めるために、私たちはどのような生き方や思考法を選択すればいいのか

 そのためにこの心理学が採用する、最も基本的な生き方思想を、「入門編」ですでに説明しました。

 生き方姿勢や思考法は、基本的には人それぞれが自由に選択することができます。その中で、この心理学では、偏った善悪思考を脱し幸福を自ら追及するものと位置づけ実直な現実科学的思考によって向っていくという、「心理学的幸福主義」を基本思想として採用しています。

 

 まずは私たちが生きるこの世界とこの人生について、その成り立ちと、その中でうまく生きる知恵とノウハウを正しく仕入れることが大切です。

 それはやはり、道徳的思考や宗教的思考、もしくは何かの独断と偏見による思考ではない、客観的で現実的な科学的思考が、最も頼りになるものだと私は感じます。

 もちろんこの「科学」とは、物理科学や自然科学だけのことではなく、社会科学や人文科学、そしてもちろん医学などを含めた、総合的な意味での「科学」です。

 そうした科学的思考による知識を元にした、人生を生きるための建設的な思考法と行動法の知恵とノウハウが沢山出てきます。ハイブリッド心理学の「取り組み実践」では、この思考法と行動法の知恵とノウハウの習得実践を大きな領域として用意しています。「実践編」でそれを詳しく説明します。

 

科学的でない思考によって損なわれていく自尊心

 

 ここで一つ、科学的ではない思考を採用した場合に人が基本的に陥る、自尊心を損ない不幸に向う傾向について説明しておきましょう。

 それは外面世界を知る知恵とノウハウとして科学的思考の方が優れているという話どころではありません。非科学的思考は、内面の自尊心を自ら積極的にぐらつかせる作用をするのです。これは恐らく世の人に盲点のように作用しています。

 

 それは、科学的思考では「自分とは関係ない偶然」と捉えられるような外面出来事が、科学的思考以外においてはしばしは、「自分が良くできている」かさらには「自分が良い人間か」の問題として解釈される傾向があるということです。

 この典型が、「正しければ幸せになれる」という道徳的思考です。すると、「不幸なこと」が起きるとは、「自分が悪い」ということになってしまいます。

 これは、自分でコントロールしようもない外面出来事に出会うたびに、自己評価感情が左右されてしまうということです。

 これはかなり無意識のうちに作用するメカニズムであり、意識の上では「正しければ幸せに」などとは思考していなくても、ほとんどの非科学思考、例えば占いや運勢でものごとを考える思考などの裏で、実に広範囲に作用しているように思われます。

 

 科学的思考では、自分に降りかかった不幸災難は、その実害を痛むだけです。

 科学思考以外では、自分に降りかかった不幸災難は、その実害を痛むだけにとどまらず、「自分は駄目だ」という自己否定感情が、どうしても加わってしまうのです。

 物質的にはかなり豊かとなった現代社会、私たちが日常で出会う不幸災難は、実は実害としてはほとんどが取るに足りないもののように私は感じます。

 でも、それが自己評価感情につながるとなると、話は全く別です。かくして、現代人は自分の行く道が何かに塞がれているだけで、怒り始めるわけです。何でこんな目に合わなければならないかのかと。自分が一体何をしたと言うのかと。

 

 もちろんこの現代社会においても、私たちは時に人生での大きな損失や喪失に出会うことを免れません。そこで一時の失意と悲哀に打ちひしがれることもあるでしょう。ならばなおさら、それ以上のマイナス感情は捨てて、やがて前へと向きたいものです。

 しかし多くの人がそこで「自分は何も悪いことしていないのに」と嘆き、やがて意識するかしないでか、「自分が悪い」という押し沈んだ自己否定感情をまるで伴侶として連れ添って生きるかのように、その後の生涯を送る姿がしばしば見られます。

 

科学的思考による「根源的自己否定感情」の克服

 

 現代人が「根源的自己否定感情」を心の底に抱える存在である時、この根本的な克服のために、科学的な思考法の役割が決定的重要になってきます。

 

 なぜなら、根源的自己否定感情は論理性を持たない感情なので、科学的でない思考と見事に結合し、本人が自らその否定感情をあおるような思考になるのです。

3章で説明した「破滅感情のイメージ化」がまさにこのメカニズムです。あるべき何かを損なった駄目な自分は破滅に向うのだと。この思考を鵜呑みにして、そこから逃れようと駆り立てられた行動こそが、実はこの人を破滅に向わせることに得てしてなります。

 

 外面出来事については科学的思考に徹し、内面の破滅感情は心理メカニズム現象だという理性を心底から保った時、その感情は膿が流れた分だけ減るように、根底から消滅に向っていきます。

 もちろん実際場面においてそれは、「自分が否定されるというこの恐怖は科学的でない」などというその場しのぎの思考法ではなく、自己否定感情が刺激される場面においてもうまく行動できる思考法行動方を確立できたときに、そのように克服解消に向うということです。

 

自尊心が尻すぼみになる「外面の合計=自分」思考

 

 たとえ科学的思考に徹していてさえ、やがて自尊心が必然的に尻すぼみになってしまうような思考もあります。

 これは「盲点」というようなものではなく、あまり害のあるものでもありません。ただ人間の自尊心の最高次元を知らずにとどまるという程度の問題です。

 それでも、どうしても、それだと自尊心も尻すぼみになってしまう。そんな思考法です。

 

 それは自分がこの人生でできたこと、獲得したこと、そうした「結果として与えられたもの」の合計イコール自分だという感覚で自分を捉える思考です。

 これは生まれ持った容姿や才能、来歴で持った勉学や仕事や趣味などのあらゆる活動の結果として今あるもの、それに向けられる人々や社会からの評価、地位や金品や友人などの物質的もしくは精神的財産など、あらゆる側面における「自分が持つもの」の合計を、「自分」と感じる思考です。

 実際のところ、これは現代人が「自分」と自分の「人生」を考える基本的思考でもあるでしょう。実際のところ、それ以外の思考法があることなど考えようもないというのが、「普通」の現代人かも知れません。

 

 これがなぜ自尊心を尻すぼみにするのかと言うと、それはやはりどうしても自分ではどうしようもない制約の中にあるからです。

 社会でうまく生きる能力を獲得することは間違いなく自尊心につながりますが、実際にどれだけ社会で成功できるかは、その人の能力と、何よりも時代の流れがうまくマッチするかによって、大きく左右されます。実に単純なギャグで一躍人気者になる芸人が沢山いるように、どううまく衆目に出会うかによって、社会での成功と全く芽の出ない貧窮が紙一重となる時代に、今はなってきています。

 そのように、外面的な成功というのは、自分ではどうしようもない制約があることに加えて、限りある「命」を持つ動物であるにすぎない私たち人間は、年齢の積み重ねとともに、外面おける成功や幸運も、なにかと「取りこぼし」が増えてくるように私は感じます。

 

 「生きていればいいことがある」「信じていれば良いことが起きる」といったやや安直なプラス思考の誤りも、先に指摘した「外面出来事=自分の善悪」解釈と、この「得るもの合計=自分」思考から生まれると言えるでしょう。

 問題は、そのプラス思考が偶然当てはまれば気分が向上するであろう一方、当てはまらない現実を前に自分を、そして人生の方向性を見失うことが出てくることにあります。

 自分の外部で起きた、自分に好都合な事を「良いこと」と捉える思考をすると、「悪いこと」の方が間違いなく増えてくるでしょう。「現実」というものはそう特定個人に都合良くできているものではありません。

 これは自分の意志の配下にないものを「自分」の一部であるかのように解釈する思考ミスだと言えます。

 自分の外部で起きることは、科学的で自然な法則の下に起きる。それだけのことです。それをどう受けとめるかが、生き方姿勢の問題になります。

 

揺らぐことのない自尊心の最高次元

 

 それらの生き方姿勢とは対照的に、全く自尊心が揺らぐことのなくなる生き方があります。

 

 もちろんそれが、この心理学が目指すものです。

 前章では、病んだ心の根源にある「愛」の起源を遡り、そこで失われたものを回復する歩みが、この心理学の目指すものになるのだというプロローグを述べました。

 愛の起源の中で失われたものを回復する歩みとは、同時に、何ものにも揺らぐことのない自尊心への歩みでもあります。それは同時に、もはや何も恐れるものを持たない心という、人間の心の成長の一つの完成形へと向う歩みです。

 ですからこれは、自尊心からの視点における、そのプロローグと言えます。

 

 全く揺らぐことのない自尊心は、自分が何を与えられるかではなく、自分が何を生み出すかによって「自己」を捉える、「生み出すことに生きる」という姿勢の先に見出すことができます。

 そして、自らが「生み出す価値」に、「命」につながる「価値」を見出すごとに、それに向う自分の生き方とそれを支える自己の能力が、もはや何によっても揺らぐことない自尊心の基盤となり、その時人の心は同時に、何も恐れるものさえなく、与えられる必要さえない「愛」に満たされるようになります。

 これがこの心理学の目指す、人間の心の成長の完成形の、一つの姿であると言えるでしょう。

 

 手前味噌ですが、私自身はこの心理学の執筆活動によって、そのような心の成長形のはしくれのようなものを、幸運なことに視界に捉えるようになった自分を感じています。

 私にとってこの心理学の執筆活動は、私自身の命よりも大切なものです。これは私自身の命を超えた、より大きな命の連なりに、つながっていると感じるのです。ですから私は、今の私の命は、そのためのいわば仮のものとして与えられたものでしかないような感覚を、最近感じています。

 この感覚においては、恐れるものはもうありません。なぜなら仮のものに過ぎない自分がどうなろうとも、私がそのために存在するより大きなものは、いつまでも続くのですから。

 

自尊心のための内面向け視点

 

 人の心の成長の中で、自尊心の高まりがどのような次元へと向うにせよ、自尊心を高めていくために、自分自身の内面に対してどのような視点を持つことが望ましいかを言うことができます。

 

 そのための最も大切な考え方についても、「入門編」で述べた通りです。

 心がこうならねばと、自尊心を持てそうな心をどうイメージして心に押しつけても、心は決してその通りになってくれることはありません。心を解き放って現実へと向い、全力を尽くす過程が自ずと導く「内面の成熟」こそが、真の自尊心の基盤になります

 

 これを若い肉食獣を例に出して説明しました。ありのままの今の自分と、ありのままの今の現実を、今自分が生きる世界の全てと位置づけ、全力を尽くして向っていく過程が、失敗を繰り返す中での学習も経て、自ずとこの若い肉食獣の内面を無駄のないものへと成熟させていきます。やがてそれが彼を十分に自立させるだけの狩りの能力へと達した時、彼の姿は成獣の余裕さえ漂わせるものになります。

 つまり彼は自分に自信を持ったのです。

 これは、彼が自信を感じるものとは、彼が生きることを支え彼が幸福に近づくための能力であるという、整合性のある自尊心の姿です。

 人間の場合は、果たしてどうでしょうか。人が自分に自信を感じるものとは、本当にその人を幸福に近づける力を持つものでしょうか。

 

 人間の場合、心を解き放ち現実へと全力を尽くし向う過程とは、外面においては先に述べたように現実科学の知識による知恵とノウハウを仕入れた上で、内面においては、「人生における望み」に向かって全力を尽くす過程だと言えます。

 

「望み」の感情

 

 「望み」の感情とは、心理学的に定義するならば、「欲求」の感情の一連に位置づけられます。

 その中でも、より多くの欲求の「総合的な満足」のために、何か大きな目標を設定して向う感情が、「望み」の感情です。

 つまり「望み」とはまさに、「幸福」の実現を目指す欲求の感情です。

 それに向って、全ての努力と可能性を尽くして、生きることです。

 

 そこでは必ず、何らかの「現実の壁」にぶつかることもあるでしょう。失敗もするでしょう。

 しかし一面に偏った「あるべき姿」によって心に枠をはめることなく、ありのままの今の自分で、心を解き放ってありのままの現実へとぶつかっていくその歩みこそが、心を成長させ、やがてこの世界と人生を生きための知恵とノウハウが骨の髄にまで染み込んだ時、この人は自分の心に、自分を幸福に導くことのできる確固とした「人生を生きる能力」が築かれていることと、それを持つ自分への自信と自尊心を感じることができるでしょう。

 

「あるべき姿」「なるべき自分」を空想の中で掲げる生き方

 

 心を病むメカニズムの中で、人の心はまさにそれとは別の道へと向わせられてしまいます。

 心を解き放って現実に向うのではなく、まず空想の中で「あるべき姿」を掲げ、「なるべき自分」と「あるべき現実」から「今の現実」を鞭打ち叩くことを前進への原動力とする生き方です。

 

 この心理過程はまず、「根源的自己否定感情」を心の底に置き去りにしたまま、自意識の中で育ち始める子供の心が、心にひそむその論理性のない不安に、あとづけのような解釈を加えることから始まります。

 この世界には何か、「あるべき姿」を損なったものに対する、宇宙の全体から向けられる怒りのようなものが控えているらしいという観念に、それはなるでしょう。

 それが自他未分離の混沌意識の中で体験した「根源的自己否定感情」を、自他分離の明晰思考による「世界観」に投影したものだという心理学思考など、子供の心ではしようもありません。

 

 同時に、「善悪」および容姿才能性格など「人間の魅力価値」の観念が、本性的に、もしくは学習によって、子供の頭の中で始まります。

 そして「宇宙の全体から向けられる怒り」を、その善悪および人間の価値観念に結びつけるわけです。拒絶されるのは、自分が「悪い」「駄目」だからだ。良い子に、そして優れた人間にならなくちゃいけないんだ。そうでない人間はいなくなればいい。これがこの世界のおきてなんだ。

 こうして、子供心に、「あるべき姿」「なるべき自分」を人生の羅針盤と位置づける基本的思考が定着します。

 この世界には「あるべき姿」があり、「そうなれた」時、その者は万人から愛され賞賛される栄光を得るのであり、「そうなれなかった」時、その者は宇宙の全体から降ってくるかのような「怒り」によって攻撃されるのだ、という思考です。

 

 やがて、そうして解釈づけした「善悪と人間価値」基準を、この子供自身がまるで自分をその審判者であるかのように心の中で掲げる心理過程が起きるように思われます。

 自分は「あるべき姿」を知っている、ちゃんとした人間だ。あの人はあんな風に駄目だ。この人はこんな風に駄目だ。そもそも、皆はこの自分のように「あるべき姿」を意識していない。そんなんじゃ皆駄目だ。

 

「望みの停止」と「理想の高さへの自尊心」の奇妙なバランス

 

 当然のことながら、こうして「あるべき姿」「なるべき自分」を掲げるという行為は、「空想」の中で行なわれます。それは子供心なりに抱いた、これからの人生における「望み」の実現イメージであったはずです。

 その内容に、人によりそう差があるわけではありません。誰だって「幸せ」になりたいんです。後に人間の心を失った殺人犯罪者の来歴にも、世の善人と同じそれを願った時があったはずです。

 

 それは主に3つの「幸せの基本要素」とも呼べるテーマで構成されるでしょう。「愛」「優秀」そして「善」です。

 ただし心を病む過程の中で少し違ってくるのは、その3要素のどれもが少し硬直して融通がきかないものになっており、相互に相容れないものになってくることです。

 もう一つは、その「望み」に向ってありのままの自分で心を解き放ち現実に向うのではなく、もっぱら、もし「なれたら」それらを得られるであろう「なるべき自分」の自己理想像を空想の中で描くのが中心になります。

 

 まずはこの「理想意識の高さ」が、この子供にとっての自尊心になるでしょう。自分は他の子とは違って特別だという、本人はそうとは全く認識しないまま、気高くもすでに荒廃性を帯び始めている感情の中でです。本人はただ、理想意識の高さが「高潔さ」「高貴さ」だと感じます。

 ここにおいて「望みの停止」という心の荒廃化のプロセスと、「理想意識の高さによる自尊心」という感情が、奇妙に矛盾したままトレード・オフ・バランスの中で起きる姿を見ることができます。

 ここに、後にこの人間を病んだ心へと飛翔させる、「悪魔の契約」がつけいる隙間が出てくるのでしょう。

 それが、望みに向って心を解き放つ先にある真の自尊心にはならないものであることを教えられる大人はまずいません。むしろ逆に、子供の心に始まっているこの心を病む過程を、積極的に促そうとするかのような「道徳」が教えられがちです。

 高い理想意識を持てる人が良い人です。欲求を抑えられる人が良い人間です。大人しければいいのです。

 

 ここからは、心を病むメカニズム、愛の心理過程、自尊心の心理過程を組み合わせた、思春期に病んだ心が発動するまでの主なメカニズム過程の概観になります。

 

自己理想像の硬直性と人格の分裂

 

 「停止し始めている望み」と「高い理想への自尊心」という奇妙なバランスが、この子供の心にまず生み出す病んだ心の深刻な特徴が、「人格の分裂」になるでしょう。

 

 「愛」「優秀」「善」という幸せの3基本要素のそれぞれにおいて、健康な心の成長とは少し違う様子が、まずは融通の利かない硬直性に表れます。

 これは、「望みの停止」と「高い自己理想」が、根源的自己否定感情を背景にすることで、ありのままの自分を否定して別人を演じるという、「自己操縦」の中にある結果であるのがまず一面です。それは特定の型枠に自分を当てはめるということであり、基本的に柔軟性がありません。

 もう一面は、情動の荒廃化がすでに始まっていることによって、「愛」「優秀」「善」のそれぞれが否定的側面を帯びていることです。「愛」は人におもねる弱さを、「優秀」は他人を打ち負かす優越の攻撃性を、「善」は容赦ない責めを。

 本人は概してそれを、高い理想意識の表現として合理化する思考を持ちます。愛とは自己犠牲である。優越において一切の妥協は無用である。悪を決して許さないことが大切である。

 

 健康な心の成長の中で「望みに向う」とは、そうした否定的側面や硬直性を伴うものではないことへの理解が大切です。

 「愛」は心を解き放ち一体化へと向う、ハーモニーの輝きとして。「優秀」は自分や回りの人をより豊かにする、喜びと賞賛の誉れとして。「善」も、より大きな視点からの向上と、社会との一体化へ向うものとして。

 そこで「生み出すことに向う」活動は、「愛」「優秀」「善」が相容れないものではなしに、統合に向い得るものになります。そこに「幸福」の実現形があります。

 

 そうした健康な心の世界についても知らないまま、学童期に進む価値観や社会観の皮相化と荒廃化も帯びた形で、この子供の抱く理想の世界が描かれるわけです。

 まずもってそれは、外から眺めた見栄えが法外な重みを帯びたものになります。容姿才能性格という、人間の魅力価値のこれまた3大基本要素と言えるであろうそれぞれについて、理想を描く。

 

 こうして、「自己操縦」を背景として、「容姿」「才能」「性格」という3大魅力価値それぞれについて、「愛」「優秀」「善」という幸せ3要素のための理想が描かれるというマトリックスが、自己理想像や価値観思考の内容になってきます。

 ごく簡潔にその基本パターンを描写するならば、「容姿」「才能」「性格」という全てが、その秀逸性によって愛されるための、もしくは他人に優越するためのテーマになり得ます。善であるというのは主に「性格」に関係します。

 

 こうした状況において、「愛」「優秀」「善」の「否定的側面」の扱いが、相互に全く相容れない、分裂した人格傾向の切り替わり面になるという理解をしておくのが良いでしょう。

 「愛」のために自分を見失う迎合は、一方で「愛とは自己犠牲」と美化されますが、優越攻撃性からは全く受け入れがたい足手まといの感情になります。

 破壊的な優越衝動は、「愛」と「善」からは阻害要因もしくは悪とされます。

 容赦ない高潔道徳からは、自ら愛と優越を望むのはタブーになります。

 これら相互に全く相容れない側面は、子供の心においてはごく単純な「切り離し」という防衛メカニズムによって保護されたまま放置されます。

 その結果は、子供の心の中に、全く相容れない自己理想像が乱立するか、もしくはその奇妙な組み合わせから成る現存し得ない人間像のようなものになります。

 そのバリエーションを追うことはもはや本書の役割ではありませんが、ごく典型的なものをあげておけば、このようなものになるでしょう。一点の曇りも許さない容姿の理想像とともに、他人への攻撃的優越心を感じる。自分の容姿の欠点を感じると、外見は気にしない性格の良さを理想像に描く。勤勉に励む自己像の中で、自意識にとらわれた他人を糾弾する。

 

 こうしてつながりのない人格の断片が重なった時、そこに何かの意識の破綻のような闇が控えているであろうことを、この段階では指摘できるのみです。

 

「自己処罰感情」による自尊心の損ない

 

 心を病むメカニズムが人の自尊心を大きく損なっていくのは、まさにそうして自尊心のために空想の中で掲げたであろう「なるべき自分」から、「現実の自分」を見た時に自動的に湧き起こるようになってくる、「自己処罰感情」によってです。

 

 「自己処罰感情」は、2章で説明した通り、自分への否定的な評価感情自分への怒り、自分に向けられると予期する怒りへの恐怖愛と自尊心が損なわれることへのそれぞれの失意感情という、およそ5つのマイナス感情の合成と言える、体調悪化を伴う感情です。

 この自己処罰感情の発生によって、この人の自尊心は、まるで小さな雪だるまから始まる雪崩(なだれ)のように、大きく損なわれていく過程の中に置かれます。

 それが進行する姿が同時に、心が病む過程が進行する姿になります。

 

 「自己否定感情」の前に置かれては、空想の中で得た最初の自尊心など、ひとたまりもありません。なにせこっちは「現実」において、しかも体調さえ損ねるようなリアルさで起きるのですから。

 「自分は悪い」「自分は駄目だ」と、その感情は自分に伝えます。これはもちろん、自尊心を大きく損なう感情です。

 

「自己理想像の取り下げ」で深刻化する自尊心の損ない

 

 それにとどまりません。問題は、自己処罰感情から逃れようとして、「自己理想像の取り下げ」が起きてくることにあります。もうこんな自己処罰感情に苦しめられるくらいなら、別に自分はそんなのになれなくったっていい、と。自分は別にそんなものは望まない。それでいいんだ。

 これは同時に、「自己理想像の取り下げ」に巻き込まれるようにして、「望み」の感情が「断念」へと向うという流れになってきます。

 

 自尊心の成長にとって本当に深刻な問題が起きるのは、「自己処罰感情」そのものではなく、この「自己理想像の取り下げ」によってです。

 まず、本来の自尊心の成長過程の基盤である、「望み」の感情が失われていくこととして。「望みの停止」が起きるわけです。

 心を病む歯車が、ここで本格的な駆動を始めます。「望みの停止」は「情動の荒廃化」を引き起こします。気持ちがすさんできます。

 こうして「自己理想像の取り下げ」「望みの停止」「情動の荒廃化」という3つの歯車が回ることで、心の病理の中の「荒廃化」がまず現れます。

 

 さらにとんでもないメカニズムが待っています。自己処罰感情から「自己理想像の取り下げ」によって逃げることは、ごく一瞬だけ気分を楽にします。しかし何と、自己理想像がもうあまり意識されなくなったまま、それによる自己処罰感情は実は残り続けるという、とんでもないメカニズムです。

 

 なぜこんなことになってしまうのかと言うと、「自己理想像の取り下げ」が、「自分についた嘘」として成されるからです。

 心底から真剣に自己理想のあり方を問うた結果としてではなく、自己処罰感情から逃れるという緊迫した要請のために、「自己処罰感情などない自分」を演じるための一つの「自己の操作」のようなものとして、それはあったでしょう。しかしまさに心の底がその自己理想像こそが自己の評価基準として重要であることを知っているからこそそれを行なっていることにおいて、もはやはっきりと自分が自分に下す評価感情という形ではないにせよ、その理想から自分を評価した結果の感情を流し続けざるを得ません。

 

「荒廃化」と「外化」の中で進む心を病む過程

 

 この結果としてしばしば、自分自身ではなく他人が、この人の理想基準からの見下しの目を向けてくると体験されるようになってきます。

 このように自己内部の心理過程が外部に起きているように体験される心理現象を、外化(がいか)と呼んでいます。心の病理のもう一つの深刻な側面、「論理性の歪み」がこうして起きてきます。

 

 自己処罰感情から逃げようとして「自己理想像の取り下げ」を行なった心の動きは、この「外化」までで、まずは一まとまりの動きになるでしょう。

 これは結局、最初の自己処罰感情からせいぜい「自分への怒り」を薄めただけで、自己否定評価、怒りや軽蔑が向けられる恐怖、愛と自尊心の喪失への失意という他の要素はほどんど減らしもしない、自尊心をはなはだ損ねる状況に変わりはありません。

 否、怒りや軽蔑が向けられる恐怖については倍加する結果になる可能性が高く、結局自己否定感情の全体について何の軽減効果もないというのが正解でしょう。

 

 一方で、その代償としてこの人が自らの心に招いたベクトルが、この人の心を、坂道をころげ落ちるように進行する、心を病む過程へと向けることになります。

 自ら招いたベクトルとは、一つはすでに見ている「情動の荒廃化」です。

 そしてもう一つは、「外化」によって生まれた、他人が自分を怒り軽蔑するという感覚とイメージが、対人関係を広範囲に妨げることです。人との自然な親しみが損なわれ、敵対的な感覚が増えてきます。

 こうして自己処罰感情から逃れるための「自己理想像の取り下げ」は、もはや自尊心の損ないだけにとどまらずに、この人の心の基盤全体を一段階病んだものへと変貌させます。

 

 ここから起きてくることとは、他人が自分に向けてくると体験される軽蔑や怒りのイメージによって、一度取り下げた自己理想像が再び刺激されるということです。

 ここから先は人により進む先がかなり異なってきます。ある人は「どうせ自分なんて」という思考の中で、より広範囲な「自己の放棄」に向かうかも知れません。

 ある人は、刺激された自己理想像の誘惑に再び駆られるかも知れません。しかしそうして再び抱かれる「望み」は、最初の純粋な自己の望みとはもう異なっており、他人からの軽蔑に対する復讐的勝利への衝動という、「荒廃化した望み」へと変貌しています。

 そしてそこからやはり不可避的に、自己処罰感情が湧き起こることになる。これもやはり荒廃化を帯びてです。つまり破壊が快を帯びるという残忍な性質が加わったものとしてです。

 自己処罰感情は、「自虐」という様相を帯びてきます。他人から自分に向けられる目のイメージもやはり残忍なものと体験され、それを受けることは「屈辱」という感情を湧き起します。

 もう一つ加わっているものがあります。「自己理想像の取り下げ」に含まれた「自分への嘘」が、「自分をごまかしている人間」への軽蔑と嫌悪を加えるのです。これが再び、自己処罰感情と、他人の目のイメージに追加されます。

 

 深刻に心を病んでいく過程においては、ここで述べた心理過程が、人が自己処罰感情から逃れようとして、次々と自己理想を変えては消し変えては消すことを繰り返す中で進行することになります。その結果、内面はもはや手のほどこしようもない混乱と不安定状態になってしまうわけです。

 一方、このメカニズムには引っかからない形で、何らかの資質や行動能力がこの者に現実的で安定した自己評価を与える好材料となった時、それは自らの病んだ心を克服する歩みへの、良い援軍になります。

 

一貫とした本質へ

 

 「自尊心」という視点から、健康な心における成長と、一方にある、幼少期における愛の挫折から始まり「なるべき自分」という自己理想像の過程を経て、病んでいく心の過程を概観しました。

 一体なぜ後者のような姿が生まれるのか。何に問題があり、何を変えることが必要なのか。

 一貫した一つの同じ本質が、全てを貫いています。

 

 「入門編」においては、「怒り」の中で「あるべき姿」を掲げる思考法の中で、「愛」によって人を動かすことが見失われ、心を解き放って生きる先にある心の成長と幸福が見失われていることを説明しました。人生の転換は、幸福を自ら追及するものと位置づける、新しい人生観の先に開かれます。

 この「理論編」においては、ストレスに始まる心の病理の本質を理解する先に、「愛」の起源を遡った時、「心の障害」とは実は「愛」そのものであるという視点を得るところまできました。

 この根底において、心が病んでいくこの過程を一貫として貫く本質とは、「自ら望む」ことの喪失にあります。それが「心を解き放つ」ことの喪失とイコールです。

 

 これは一瞬、問題への視界を見失わせるような話でもあります。何よりも「なりたい自分」「なるべき自分」という「望み」の先に、この人の人生はあったのです。それが、人が泥沼のようにはまりこむ地獄のような心理過程となる。いったいどこで道がそれたのか。

 

 問題の根は、幼少期、学童期、そして思春期においてそれぞれ撒かれています。

 幼少期においては、「魂の愛への望み」から退却することとして。これは「生から受けた拒絶」によって、不可避的に起きていました。

 学童期においては、そうして幼少期段階にすでに起きている「望みの停止」によって、実は最初の時点ですでに「情動の荒廃化」が起きていることです。実はこれが、ここまでの説明の中で最初の「純粋な自己の望み」としていたような段階にも、すでに起きているのです。

 それが現代人にとってあまりにも自然な欲求であるかのような、「愛情要求」「自尊心衝動」です。

 そして思春期においては、最後の決定的な病んだ心への飛翔として。「望み」に向かい、ありのままの今を原点として、その足で汗をかいて歩むのではなく、何か「絶対なるもの」による無限の力を追い求めるようになった時、それはホーナイが述べた通り、同時に内面の地獄へとつながる道です。

 

 「なるべき自分」の自己理想像を掲げたことに、問題があったのではありません。

 同じ自己理想像に描かれた「望み」の内側で、人が「望み」を追い求めるあり方に微妙な狂いが起きていた。それが大きく、人の人生を損なわせていきます。

 

 視点をその内部、より深層へと移したいと思います。

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