心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

7章 「自尊心」の混乱と喪失−2  −なぜ自信が定着しないのか−

 

 

「自尊心」と「望み」の深層へ

 

 前章では、「愛」と並ぶ人間の心の大きなテーマ「自尊心」について、健康な心での発達過程と、心を病む過程におけるその損ないの姿を概観してきました。

 それは本来、極めて総合的なものであることを説明しました。真の自尊心とは、自らを幸福に導く思考法行動法と生き方姿勢を自分が持ち、それを自ら尊重尊敬できることです。それは科学的な思考で現実世界を捉え、「望み」の感情に向って全力を尽くして生きる過程が自ずと導くものです。

 一方、人が心を病む過程の中で、「なるべき自分」の絶対的理想像から自らに「自己処罰感情」を加え、自ら自尊心を損なっていく先に、そこから逃げようとする「自己理想像の取り下げ」を引き金にして、雪だるまが坂道をころげ落ちるように膨張していく、自尊心の損ないの過程を概観しました。それは同時に、心を病む過程そのものでもあります。

 

 全てが同じ「望み」という感情の中における、微妙な違い、微妙な狂いの先に起きています。

 この章では、その深層の細部にメスを当て、真の自尊心の、そしてハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」の中核になるものへの視点へとつなげたいと思います。

 

「魂への愛への願い」の穴埋め腹いせとしての「愛情要求」と「自尊心衝動」

 

 問題は私たち現代人が、もの心ついた時にすでに始まっています。

 もの心ついた時に、私たちは、最初の始まりで起きた問題の程度に応じて、2つの大きな欲求もしくは衝動が自分の中にあるのを自覚します。

 「愛情要求」「自尊心衝動」です。

 私たちの意識の記憶は、ここから始まります。そして最初に起きた問題の程度に応じて、これはすでに荒廃化を帯びています。なぜそれがそうであるのかの記憶は、もうありません。ただそれが自分達人間というものなのだと感じます。

 事実はそうではありません。それはすでに損なわれた望みの、「穴埋め」と「腹いせ」への衝動なのです。

 

 もの心ついた段階で、私たちはかなり複雑な心理メカニズムを抱えて生き始める。これがどうやら事実のようです。

 まず、最初の幼少期段階において、まだ自分と他人の区別さえない混沌とした意識の中で願った、この自分の「命」と、この世界を生きる「生」との、一体化の愛への願いがあったはずです。それは健康な心の過程においては、親から子供に向けられる「宇宙の愛」として、満たされていたのです。

 それがこの現代社会の中で、失われるようになった。

 あるいは、間もなくこの子供に生まれる「自意識」というものが、自らそれを妨げるという、人間の宿命があるのかも知れません。

 

「望みの充足」と「穴埋め」「腹いせ」のメカニズム

 

 ここで「望みの充足」のメカニズムというものを言うことができます。

 その先にある心の変化が、『下巻 −病んだ心から健康な心への道−』の最大テーマになってきます。

 

 ここでは、「望み」というものは、それを心の中で開放し解き放って、現実へと向う過程こそが、それを「充足」へと納めていくのだという基本原則を指摘しておきましょう。

 それは望み通りの結果が得られる歓喜のみによってではありません。たとえ望み通りの結果が得られないとしても、思いっきり望みを開放し向ったという充実感が、やがて必ず「心の豊かさ」という報酬を添えて、人を「望み」の感情から卒業させていくのです。

 これが「内面の成熟」の過程に他なりません。これによる「心の豊かさ」は、いかなる人工的意識努力で感じようとして感じられるものではなく、心の自然成長力の作用のみによって、そうなるのです。

 

 「望みの停止」という人工的意識操作によって「望み」の感情から抜け出そうとした時、「望みの充足」のメカニズムは作用せず、その代わりに「情動の荒廃化」が起きます。

 

 「情動の荒廃化」とは、破壊が快を帯びることだと説明しました。

 これはさらに細かい歯車を言うことができます。まず大元で願った「望み」に向うことが断念されます。すると収まりきれない何かを望む感情のエネルギーは、大元で願ったものに少し似ている他のものを要求する衝動に変化します。つまり「穴埋め」です。

 本当に大元で願ったものは得られないのですが、それに近いものを得るような気分にさせてくれるものを求めるわけです。

 ただし、「穴埋め」として欲するようになったもには、もはやどう追求しても、そして実際にどう叶えられようとも、充足に向うことはありません。その代わりに、大元で願ったものに近い何かを得るという刺激だけは必要となり、そのためにはより大きな刺激が必要になってきます。マリー・ヒリーが親の愛情の代わりに与えられたものを、「そんなものいらない!」とさらに高価なものを欲しがるようになっていったように。

 

 「穴埋め」を求める衝動は、「情動の荒廃化」の初期段階だと言えるでしょう。これが「貪欲」につながることは、1章でも説明した通りです。

 そして「穴埋め」さえにも心の中で背を向ける動きが起きた時、「情動の荒廃化」の完結段階が起きるようです。それは「腹いせ」への衝動です。

 ここではもう、望むものを本来自分に与い得た立場の者への、破壊攻撃の衝動がほとばしるだけになります。前章の終わりに紹介した猫の話のように。

 そして大元で願った「望み」の感情が心の中で切り捨てられる度合いが強くなるにつれて、破壊攻撃がもたらす「気が晴れる」というすさんだ快が一人歩きを始めるというメカニズムになるようです。

 

愛情要求と自尊心衝動の錯綜

 

 幼少期からの心理過程に再び視点を戻すと、ここで一つの結論を言うことができます。

 

 私たちがもの心ついた時に、心の中にその存在を見る大きな2つの感情、「愛情要求」と「自尊心衝動」には、幼少期の自他未分離意識の中で望んだ、そしてそれが満たされることが同時に自尊心を意味した、「宇宙の愛への願い」そして「一体化の愛への望み」が挫折したことを受けて残り続ける、「穴埋め」と「腹いせ」の衝動の側面があるということです。

 

 この最初の最初と言える時点で起きたことが、実に複雑なものだと考えるのが正解のようです。

 

 まず「穴埋め」として「愛情要求」が発生する。しかしそれは同時に「自尊心衝動」でもある。ただしこれは必然的に損なわれる。なぜなら愛されることに依存しない自尊心も求められるからです。

 

 「腹いせ」になった段階で、自分を愛すべきであった者に向ける怒り破壊の衝動は、「自尊心衝動」として形をはっきり成すようになります。それは「愛されることに依存しない自尊心」の要件を満たすかのようにに見えるからです。

 しかしそれは大元の望みであった愛を破壊し、愛への挫折を確定的なものにしてしまいます。これが自尊心を損ないます。

 

 問題は実に複雑ですが、答えは実に単純です。

 穴埋め腹いせに、答えはないということです。大元の望みに遡るのが答えだということです。

 このことを理解しないまま、愛と自尊心について人々が「どうすれば」と生涯を通して考える思考のことごとくが、不毛になります。

 

 ここではまず、この問題の始まりの複雑な構造が織りなす綾として、複雑で難解な人間心理のほとんど全てがあることをご理解頂こうかと思います。

 

愛されても満たされない「愛情要求」

 

 「愛」をまるで金品のような一方通行的なものとしてイメージし、「愛される」ことを求める。

 この「愛情要求」の感情が、大元の「一体化の愛への望み」の挫折の穴埋めであることは、「イメージ」のメカニズムによって生まれたものであることが考えられます。

 

 「イメージ」は、「望み」に向うことが一時的に妨げられた状態で起きるというメカニズムがあります。

 これは食欲を満たすことが妨げられ空腹になった時に、食べ物のイメージがさかんに現れるようになるという例でも分るでしょう。

 食べ物のイメージだけでは空腹を満たせないことは、誰でも分ります。実際に食欲を満たすとは、現実の食べ物に向う行動の中で、イメージはむしろ消える時です。

 

 「愛」においても同様に、「一体化の愛への望み」が妨げられることで、それが満たされた姿のイメージが現れます。そして人はそのイメージの実現への衝動に駆られることになります。それは「愛される自分の姿」「相手と親密な自分の姿」です。

 しかしそれをどう追い求めても、大元の「一体化の愛への望み」が満たされないことを、もはや人は分らなくなるのです!

 

 なぜこんなことが起きるのか。ここに根本的なからくりがあります。

 「愛される自分」のイメージは、まずは「一体化の愛」の穴埋めなのですが、同時に自尊心を感じさせるものにもなるということです。

 ですから、ここでの問題とは、人が「愛される自分」を求めても愛が満たされないことに気づかないという問題に加えて、それを自尊心のために求めていることと、自尊心が必然的に損なわれることに気づかないという問題が起きている、ということです。

 

 人は「愛情要求」の感情の中で、自分が「愛」を求めているのだと考えます。穴埋めの愛ですが。

 しかし実はそれは、「自尊心」を求めている感情でもある、ということです。

 そしてそれによって「自尊心」が満たされることも、ありません。なぜなら同時に、「愛されることに依存しない自尊心」がこの人の心に求められているという、脳のDNAに定められた抵抗不可能な宿命が作用しているからです。

 

 こうして、「愛情要求」をいくら満たそうとしても「愛」が満たされないという、多くの人が謎に感じる人間の心の現象を説明することができます。

 実際のところ、多くの「愛に飢えた」人が、実際に「愛された」としても寂しさや空虚感が消えないことを疑問に感じます。それどころか逆に、人と一緒にいる時、さらに「愛された」時にこそ、一番寂しさを感じるという心理状態も出てきます。かくして、「いくら体の関係を重ねても寂しさが消えない」という歌の文句が良く出てくるわけです。

 

怒りに変わる「思いやり」

 

 本人としては「愛」を求めていると思いながらも、実は「自尊心」も求めていることに気づかないでいる。

 この結果、私たちの日常の人間関係で実に頻繁に起きる心理現象としてあるのが、「怒りに変わる思いやり」です。

 「思いやり」からした行動が相手に良く受け取られないと、怒りを感じるというものです。

 

 これはまず「愛情要求」の感情を土台にして、相手に良くして相手からも愛されたいという感情から始まるでしょう。

 次にそのための行動をイメージ化します。そしてそれを行動化すると、それは愛の問題ではなく自尊心の問題に切りかわっています

 これはちょっとした親切心から、深い恋愛感情の中での行動に至るまで、実に広範囲に、普遍的に起きる、人間の心の基本的なメカニズムです。

 それはまるで、バニラクッキーの上にチョコを塗ったビスケットのようなものです。まず気持ちは「愛」というバニラ味で始まるのですが、表面に出る時には必ず、「自尊心」というチョコ味に、変わっているのです!

 

 そして表面に出た瞬間、自尊心は実はすでに損なわれています。自分が「愛されることに依存した自尊心衝動を抱いた」ことにおいてです。

 その結果、なんとこのメカニズムにおいては、相手が自分の「思いやり」をどう受けとめるかを示す前に、自尊心が傷つけられたという怒りが起きることさえもあるのです!

 

自意識思考の基本ミス

 

 これは心理学的には、人間が「自意識」で思考する中で起きる基本的なミスが原因であることを指摘できます。2つの思考ミスがあります。

 

 1つ目のミスは、自分が心の中だけで思いやったことを、相手にもそう分ることだと勘違いしてしまうことです。

 これは「気持ちが伝わるはず」という意識思考の場合もあるでしょうし、人の目と心が自分を取り囲んでいると体験される、はっきりと心の障害の愛情要求症候である場合もあるでしょう。

 いずれにせよその結果、自分が心の中だけで思いやったことに対して、相手は現実の行動で返すべきだという、実に身勝手な思考をする構図になってしまいがちです。

 これはとにかく、「思いやり」は大いに結構だとして、現実行動における相手との関係は、あまりそれを過大視せずに、客観的な視点で互いの向上を生み出す、建設的な行動を心がけるのみです。

 

 2つ目のミスとは、基本的に自分を知らないでいるということです。

 確かに「思いやり」として「愛」を求めているのは大いにいいでしょう。しかしそれを行動化する時点で、今度は見返りによって自尊心を得ようとして自分がいることも、しっかりと見据える必要があります。そしてそれが自分のこれからのより豊かな自尊心への成長のために最善の姿勢であるかのを、考えていくことです。

 

 この「自分を知らないでいる」という問題は、「自意識」の根本的な不完全さでもあります。

 人は「自分」というものを、得てして空想の中でイメージしてつかもうとします。そして心を病む過程で中心的な役割を演じることにもなる、「自己理想像」というものを描きます。それを基準に、「そうなれた」「いやなれていない」と、これまた空想の中で確認しようとします。

 しかし実際に「現実場面」に身を置いた時の「自分」とは、空想の中でイメージする「自分」とは大分違うということが実に多いのです。

 

「心の現実」と心の成長

 

 空想の中の自分と、現実場面の自分との違いは何か。

 

 言えるのは、空想の中であれば、見たくはない自分の短所や汚点などを、塗り消すことができるということです。

 それは多くの場合、人間としての未熟さを示す特徴になるでしょう。緊張や不安、自意識過剰や利己的な自己顕示欲、さらには怒りや嫉妬なども。空想の中であれば、自分はそんなもの持ってはいないとイメージすることが可能です。

 そしてそれこそが「自分のあるべき姿」だという想念に人がとらわれた時、現実場面の中で、塗り消したはずの自己の短所欠点が出てしまうことは、他人や社会がそうした短所欠点を見ようとする意地悪な目を向けてきたものとして体験されるかも知れません。人のせいで自分がそうなってしまった、と感じるのです。

 しかし、引き金が他人であろうと、人間としての未熟さを示す感情が湧き出るのであれば、それが「心の現実」なのです。

 それをありのままに受け入れ、失敗から学ぶ姿勢も含めて、対処法を学ぶことが、心の成長につながります。事実、心の成長への実際の歩みとは、そのようなものでしかないのです。

 

 ここに、「自分」というものを自意識の空想の中で捉えようとする姿勢と、現実を生きる中で捉えていくという姿勢の、根本的な違いというものが出てきます。

 これがハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」の全体を貫く命題と言えるものになってきます。

 

愛の荒廃化と浅薄化

 

 一体化の愛の挫折への「穴埋め」がさらに「腹いせ」へと荒廃化する場合、そこで抱かれる「愛情要求」も、よりすさんだ色彩を帯びてきます。

 それは「愛を求める衝動」が同時に「愛を破壊する衝動」でもあるという、複雑な人間心理を生み出します。

 

 これは幼少期における愛の阻害がより深刻なケ−スで起きます。

 一方で、愛が満たされない飢餓感情が生まれます。

 もう一方で、愛を求めた相手への怒り破壊衝動が生まれ、それを行動化することが自尊心衝動にもなります。

 かくして、愛をむさぼりながら同時にその相手を破壊するという、「サディズム」の心理が生まれるわけです。

 

 怒り破壊衝動が愛そのものを破壊することへの絶望と恐怖を刺激すると、今度はその怒り破壊への抑圧が生じるケースがあります。自らを相手の怒り破壊衝動に鞭打たせる位置へと堕とすことで、相手との緊密の構図を維持しようとする傾向が生まれます。

 かくして「サディズム」という心理としばしばペアをなす、「マゾヒズム」という心理が生まれるわけです。

 

 そのような極端なものでないとしても、愛を求めることが同時に、自分が愛されない屈辱への不安をかき立てるという人間心理が、現代社会を広くおおっていると言えるでしょう。

 その根底には、もはや現代人に避けられなくなっている、幼少期における愛の挫折があります。穴埋め見返しとしての、一方的に自分が愛されることへの願望と同時に、それを根底で生み出した一体化の愛への挫折が、愛されない自分と、自分を愛さない相手への怒りを潜在的に準備しています。それが何よりも自分の自尊心の破滅のように映るのです。

 自分から愛することが、危険なことになってきます。

 

 現代社会においては、これらの心理傾向の影響として、「愛」がきわめて浅薄化する傾向を指摘できるように感じます。

 「金品化した愛」もそうですし、「恋愛」というものがまるで「愛されることは勝ち」「愛することは負け」という感覚での腹のさぐり合いの中のあるかのような皮相さを、時に若者の文化の中に感じる昨今です。もちろん私自身がその心理の影を抱えた前半生を持ったからこそ、それを感じ取るのですが。

 

高めても自信にならない「自尊心衝動」

 

 「愛されても満たされない愛情要求」と似たようなパラドックスを、「自尊心」についても言うことができます。

 「高めても自信にならない自尊心衝動」です。

 

 「自尊心衝動」とは、文字通り「自尊心」を求める「衝動」です。さらに正確に言えば、「自尊心の感覚」を求める「衝動」です。

 「真の自尊心」ではなく。真の自尊心は、「衝動」によっては向うことができません

 

 先の説明からもお分りになるかと思いますが、「愛情要求」は、実はそれ自体が「自尊心衝動」でもあります。

 しかもその同じものの両面が、衝突し合うわけです。愛情要求からは傲慢な自尊心衝動が邪魔になり、自尊心衝動からは弱々しい愛情要求が足手まといに感じます。

 それはまるでだまし絵のようです。一つの同じものを、どの確度から見るかによって、別のものに見えます。そしてその両者が、衝突を起す。

 幼少期に起きた愛情願望の挫折が、そのような形で後を引きずるという心理メカニズムが、人間にはあるということです。

 

 一方で、人間の心には、幼少期の「愛されることが自尊心」という「自他未分離意識由来」の自尊心の領域とは別に、「自他分離意識由来」の自尊心の領域がある、と考えるのが良さそうです。

 自分と他人、善と悪といったことがらを、はっきりと分けて考える論理思考に立って、自分の生き方進み方を考える思考による、自尊心の領域です。

 言葉を分けやすいよう、「論理思考由来の自尊心」と呼んでおきましょう。

 

 「論理思考」は、「感情」からは多少自由が利く形で使うことができます。

 1たす1は2です。これは私たちが悲しみを感じていようが、怒りを感じていようが、1たす1は2です。

 これがそうではなくなってしまうのは、脳の障害の場合です。または心の障害として最も重度な「精神障害」でも、そうなってしまうかもしれません。ハイブリッド心理学ではあくまで、論理思考そのものは障害がないことを前提にして、心の成長と幸福に取り組む方法を用意しています。

 論理思考が多少感情からは自由が利くとは言え、「自尊心」というのは基本的には感情のことなので、「1たす1は2」にように完全に感情とは切り離して考えることはできません。どのように考えると自尊心がどのような方向に向うかという、心理学の知恵が重要になってくるゆえんです。

 

 幼少期の愛情挫折由来の「自尊心衝動」を、ということは同時に「愛情要求」を、「これを満たすことが自尊心につながる」という論理思考をしてしまうと、もう出口がなくなります。

 そもそも「自尊心」とは何か、という論理思考が重要になってきます。

 これは「真の自信」という、「高い自尊心」の表れとも言える感情について考えると良く分るようになります。

 

なぜ自信が定着しないのか

 

 前章で、人が「自尊心」のために抱く思考の類型として、主に3つをあげました。

 まず「正しければ幸せに」的な道徳思考もしくは宗教思考では、どうしても自尊心は損なわれがちです。不幸が起きれば自分が悪いという話になりますし、そもそも、自分で人生を切り開くのではない、少し他力本願な思考です。とても自尊心を持てるとは思われません。

 自分が持つもの得るものの合計を「自分」とする思考では、自尊心は尻すぼみになりがちです。

 「生み出す」ことに生き、生み出す歩みそのものを「自分」と捉える時、自尊心はもはや何によっても揺らぎない、最高次元へと高めることができます。

 これは人生を「長い目」で見て初めて言える結論です。私自身の人生の全てと、人生を生きた全ての人々の姿を見ることによって、間違いなくそうであろうという、結論です。

 

 「長い目」で見て初めて言える結論であるとは、「短い目」で見ていては分らない、ということです。

 人はごく一瞬、「自信」や「自尊心」を感じることはいくらでもあるものです。しかしそれが揺らぎないものとして定着することはなかなかありません。違う場面になると自信が消えていたり、時間が経ってみると同じ場面でも再び自信を感じることができなくなっていたりします。

 それは一度感じたと思った「自信」や「自尊心」が、真のものではなかったということです。

 真の「自信」や「自尊心」は、決してはかなく薄れてしまうものではありません。後戻りせず揺らぎなく定着した部分が、真の「自信」や「自尊心」です。

 

「自信」と似て非なる「高い自己評価(プライド)」感情

 

 「自信」や「自尊心」と呼ばれている一連の感情には、はかなく薄れてしまうタイプのものと、決してもう戻ることなく定着するタイプのものと、2種類があるということになります。

 その違いは、別に長い時間をかけて追わなくても、その時点で極めて明瞭に見分けられます。その2種類のタイプの感情は、心理メカニズムとして全く別ものなのです。

 

 一言でいえば、私たちが一般に「自信」「自尊心」として意識するのは、まず言って、真のそれではないものです。つまりはかなく薄れるタイプです。

 逆に、戻ることなく定着するタイプの、つまり真の「自信」「自尊心」は、まず言って私たちが一般に「自信」「自尊心」として意識することはありません。

 つまり、「自信」「自尊心」の意識感覚と、心理学的に見たその真偽は、全く逆なのです。

 「自信」「自尊心」をことさら感じる状態とは、むしろ自信と自尊心の低さを示すものです。

 

 私たちが一般に「自信」「自尊心」として意識するのは、むしろ「高い自己評価」の感情です。これは「プライド」の感情とも呼ばれます。

 

 「真の自信」は、「高い自己評価」とは全く異なるものです。

 これは「自信」という言葉の本来の意味がまさに示します。

 「自信」とは、「自分を信頼できる」「自分を信用できる」ということであり、「自分を信じて任せられる」ということです。もう自分のことをあれこれ意識しなくても、うまく行くように心が自動的に動いてくれる。この時、人は自分に真の自信を感じます。

 つまり、「自信」とは、もはや自分の姿を自己評価する必要さえなくなったほどの、成熟段階への到達です。

 

 これはたとえば「自転車に乗る」という単純な技能で示されます。

 実際に自転車に乗れる人は、「自分は自転車に乗れる!」という「自信」を感じてから乗るということなどは、まずありません。そんなことは意識もせずに、実際に乗れる運動能力で目的地へ行くだけです。

 「自分は自転車に乗れる!」という「自信」を感じてから乗るとしたら、それは実際はまだ自信が不十分だからです。

 逆の表現もできるでしょう。「自分は自転車に乗れる!」という「自信」をことさら感じる状態は、実は自分はそうではないのではないかという「不安」を抱えている時です。

 

 これを自転車に乗るという単純な技能ではなく、もっと総合的な目標、他ならぬ「人生」そして「幸福」への自信となった場合、人は一体どのように感じるか。これを考察することは、少し皮肉な目を持つことにややなってしまうのを感じます。

 私自身の人生の中で、自分の人生に自信を持った大人というのを、ほとんど見たことがありません。いかにもそれらしい、自信ある大人とは、自分自身というよりも、自分が乗っかっている人生のレールに、自信を感じているような姿であったようにも感じます。

 確かにそれは丈夫なレールでは恐らくあるのでしょう。しかしその先の駅が本当に「幸福」なのか、もしくはその人だけの「唯一無二の人生」であるのかは、はなはだ見えにくい話です。

 もちろん真の自信というのはもうあまり意識されなくなりますので、何気ない表面の下で、自分の人生に自信を持ってた人は多分いるのでしょうが・・。

 

「高い自己評価」「プライド」は「自意識」

 

 上述は、「真の自信」と「高い自己評価」の違いを、まずは上達の次元の違いという視点から見たものです。

 これはまだ比較的、両者の違いについて穏便な話、つまり「高い自己評価」「プライド」の感情にもそれほど害があるわけではない、ごく健全な心の成長過程における話です。

 

 害があるわけではないにせよ、上達の段階が「真の自信」に達した時、それは人間の意識構造として、まったく異なるものになるということです。

 「高い自己評価」「プライド」は、基本的に「自意識」の意識構造です。

 

 「自意識」は、人間の脳の高度さの表れとして生まれたものです。それは生身の身体だけでは他の動物に勝てない人間が、動物界の頂点に君臨するために、自分を知り、自分の弱さをカバーする能力を勝ち取るための、ツールとして、そしていわば通過点として設けた意識構造だと考えられます。

 「自意識」は、ツールとしての、通過点としての意識構造であって、それ自体が最終到達目標ではありません。特に「幸福」という目的においては。

 「幸福」という目的においては、「自意識」はむしろ阻害要因になります。「自分」が「見る自分」と「見られる自分」に分裂するのですから。「自己の分裂」こそが幸福を阻む最大の壁であることを、「入門編」でも説明しました。

 

 ツールとして、そして通過点として「自意識」を使ったら、早々にそれを抜け出して、それを用いない意識構造に戻すのが、「幸福」には望ましい心の使い方です。

 「自意識」を用いない意識構造とは、それが「心を解き放つ」ということです。

 あえて名前をつけるならば、「全人格意識」とでも呼べるでしょうか。

 

 「真の自信」とは、そのように、上達の段階としてもはや「自意識」を必要ないものとして抜け出した意識状態を言います。

 「真の自信」と、「高い自己評価」「プライド」は、意識構造そのものが違います。前者は全人格意識であり、後者は自意識です。

 

「自意識」と「悪魔の契約」

 

 「自意識」は、人間が自らの弱さをカバーするために獲得した、高度な脳の機能です。それは間違いなく、「幸福」という最終目標の下に生み出されたものであったはずです。

 しかし「自意識」そのものは、人間を概して幸福から遠ざける作用を持ちます。

 意識が「見る自分」と「見られる自分」に分裂する。さらに、「自意識」は基本的に「愛」を阻害します。「自意識」の中で「愛」はその感情を一時停止させます。

 「自意識」は基本的に、敵と戦うために生み出された意識構造です。幸福を感じ取るための意識構造ではありません。

 そして私たちが一番幸福を感じ取る感情とは、やはり「愛」であるように感じます。

 「自意識」とは、幸福を目指すために生み出されならがも、幸福を自ら破壊する側面がある。そのような、人間の業なのだと感じます。

 

 3章において、「病んだ心への飛翔」の根底に、「悪魔との契約」とも言える人間の心の動きがあることを説明しました。

 それは「自意識」のことであったのかも知れない、と感じます。悪魔は、「自意識」の中に「幸福」があるかのような錯覚を、人間に差し出したのです。

 そして人は「自意識」の中に幸福を求め、自己を分裂させ、内面の地獄へと落ちていく・・。

 

「空想を生きる生」の罠

 

 「真の自信」と「プライド」は全く異なるものである。それをまず上達の次元意識構造の違いから説明しました。

 次に、この2種類の感情が何によって生み出されるのかと言うメカニズムの決定的な違いが、人が自らの人生と幸福を壊し始めると言う、「病んだ心」への入り口とも言えるものになるように感じます。その先に、この「契約」の下に変形を始めた人間の心の中に、悪魔が住み着く場所が生まれてくる。そんな印象を感じます。

 

 「自己評価」「プライド」は、「空想」の中で生み出されます。頭の中で、静止画のように自分の姿を切り出したものを描き、それを眺めるという、「空想の作業」が、それを生み出します。

 

 「真の自信」は、ただ「現実を生きる体験を経ること」のみが、心の自然成長力を媒介にして生み出します。これはいかなる「頭の中」の思考作業によっても、生み出すことはできません。

 

 ここに来て、両者の違いは、上達の次元や意識構造の違いといった「結果」にとどまらず、この「生」を生きることそのものにおける、まったく違う方向への踏み出しであることを感じます。

 自信と自尊心を「高い自己評価」「プライド」として追い求めることは、「空想を生きる生」への歩みです。その先には病んだ心の幻想の世界があります。

 「真の自信」を目指すとは、「現実を生きる生」へと歩むことです。

 

 心の悩みを抱える多くの方が、「自分に自信を持てるような思考法」を模索します。

 それは根本的な誤りです。「自信」とは、思考法が生み出すものではなく、現実を生きることが生み出すものです。思考法でなすべきは、それを支える価値観や人生観を築くことです。

 これはハイブリッド心理学に取り組む多くの方が繰り返しがちな轍です。自分に自分を持てるような自分になりたい。それを動機に、この心理学を学び始めます。いいでしょう。そのための心理学です。

 しかし多くの方が、「もうこれで自分は大丈夫」だと思えるような思考法を得ることに躍起になっておられます。

 これは完全な誤りです。その背後に控える「こうなれれば」「こうなってしまっては」という感情の歪みを、何の現実を示すものでもない心理メカニズム現象と理解し、それに惑わされることなく、現実へと向かっていけるような思考法を築いて頂くための心理学なのです。

 それを、「もうこれで大丈夫」といえるような「自分への自信ハイブリッド心理学によって得てから、「現実の行動へと向おうと考えるという、根本的な誤り。

 

 では真の自信や自尊心とは、具体的にどのように感じられるものなのか。何を感じ取ることを羅針盤にすればいいのか。

 まさにそれを、自尊心とは総合的なものだという説明の中で述べました。

 真の自尊心とは、自分が自らによって幸福に向い得る生き方を持つ存在であり、自分の人生の羅針盤としてその自らの生き方を尊重し尊敬できるという感覚であると。

 

 そんなものを一体どのようにして築けばいいのか。

 何度でも言います。何度繰り返しても、繰り返し過ぎになることはまずないでしょう。それだけ、これは根本的でありながら見えなくなっているのが現代人だからです。

 それは、「人生の望み」に向って、心を解き放って「現実」に向って生きる体験を積み重ねていくしか、ないのです。これ以外に一切の方法はありません。

 

自尊心を追うことで自尊心を低下させていく罠・自尊心衝動の3類型

 

 このあまりにも基本的な心の知恵を知らないまま、人が人生ではまる、実に基本的な罠を言うことができます。

 自尊心を高めようとする意識が、長い目でまさに自尊心を低下させていくという罠です。

 本人がその罠に気づかないまま、なぜそれが起きるのかのメカニズムは実に単純です。

 短絡的思考による「自尊心の感覚」という結果ばかりを追い求めて、真の自尊心を生み出す「望みと現実に向う成長の過程」を見失ってしまうことです。

 

 これが「愛」「優秀」「善」という、前章で述べた幸せの基本3要素について働くのが、実に基本的な世の人の姿になります。

 その3つの材料において自尊心を感じる感覚を、人が「こうすれば自尊心を感じられるんだ」という安直な解釈をして、その後に「こうすれば」の思案変更とその試行錯誤を延々と繰り返す人生を送ることになります。

 やがてかなり時間が経って始めて、「こんなはずでは」と、自分が人生の方向を基本的に誤ったことに気づくかも知れません。

 

 そうした、人生の方向を誤らせがちな「自尊心思考」およびそれに基づく「自尊心衝動」を、3類型で言うことができます。

 

「愛され自尊心」の罠

 

 まず「愛され自尊心」。人に愛されたり、誉められたり、必要とされたりすると、自尊心を感じます。

 

 これ自体は実に自然な話です。問題は、どうすれば人に愛されるのかという、深い心の理解を失い、皮相なものになってくるケースです。

 多くの場合、愛されるために、これも前章で述べた容姿才能性格という人間の3大魅力価値を高めることが必要なのだと考えるでしょう。あるいは自己犠牲によって愛されるという極端な思考を抱くかも知れません。

 長い目で人に愛されるためには、まず「愛されること」を目当てにするのではない、総合的な自分の成長を目指すことが、間違いのない最短の道だと、この心理学からはアドバイスできます。

 

 そして、愛される前に、自分から愛せることです。

 実は人間の心の底はこのことを本能的に知っています。ホーナイは、心の障害にある人々がまず例外なく抱いている、「自分は愛されない」という沈んだ自己否定感情の直接的な要因は、「愛する能力」の欠如であると述べていました。

 ではどうすれば「愛する能力」が増大するのか。

 この心理学の全てがそれです。次章で出てくる「心の自立」というテーマ、そして『後冊 病んだ心から健康な心への道』の全てが、まさにそれを真正面に見据える内容になります。

 

「優越自尊心」の罠

 

 次に、「優越自尊心」。特に「打ち負かし自尊心」という形を帯びたものが問題になります。

 これは何らかの比較競争の中において上にいくこと、また何らかの勝負において相手を打ち負かすことに、自尊心を感じるというものです。

 

 これもやはり、ごく自然な話です。問題は、「競争の中で上に行く」さらには「人を打ち負かす」ことによる「自尊心」を追い求める一方で、そのための行動内容そのものについて自分が心底から価値をどう感じているかが視野の外に置き去りにされることです。

 これはもう現代人の人生競争そのもののような話でもあります。1章で述べたように、この社会で勝ち組みになることをゴールと考えて、競走大会への出場よろしく、スタートのピストルの音と同時におぎゃあと生まれ、競争の中の生涯を送る。

 

 重要なのは、そこで行なう活動や行動への、他人との競争勝負を抜きにした、自分単独で感じることのできる価値や楽しみだと、この心理学からはアドバイスできます。

 競争で勝つことばかりに意識が向き、自分単独で感じる価値や楽しみが見失われるほどに、それはストレスを膨張させるだけで、内実ある成果を生み出さなくなってきます。結果として、競争で勝つこともできなくなります。

 社会には確かに競争の側面もありますが、まずは競争の側面を抜きに、価値と楽しみを見出すことが、まさに人生の勝利のための基本法則だと言えます。前章で自尊心の最高次元につながるものとして指摘した、「生み出すことに生きる」という姿勢も、これと方向を同じくするものです。

 

 「愛され自尊心」も「優越自尊心」も、それ自体は、ごく健康な心の成長過程においても働くものであり、それ自体を「これがいけない」と否定したところで何も生まれるものではありません。

 「未熟」から「成熟」へと向かう「成長」とは、まず「愛され自尊心」「優越自尊心」から始まるとしても、結果ばかりを追い求める短絡思考から、価値を生み出す過程へのしっかりとした視点を培うこ とで、自然と「生み出す自尊心」へと移行していく。

 その時、「愛され自尊心」や「優越自尊心」そのものを単独に意識する感覚そのものが、もう消えていきます。

 これが健全な自尊心の、ひいては健全な心の成長の過程になるという大局観を持つのが良いでしょう。

 

 一方、心を病むメカニズムが介入するごとに、「愛され自尊心」と「優越自尊心」はその最初から相互に衝突し合い、雪だるま式に自尊心全体を損なってしまいます。

 前者は、自己否定感情から逃れるために「愛されること」「必要とされること」を求め、その中で自分自身の心の自由を踏みにじり、自尊心を自ら傷つけながら、愛されようとする相手への憎悪をつのらせる、というメカニズムがほぼ必至です。

 後者では、人を打ち負かし屈辱を味あわせる快として向うという荒廃した側面を帯びてきます。「競争心」「軽蔑衝動」そして「優越感」という感情が膨張する一方、対人関係全般と「愛」を損なう方向に人を向け、これがひいては「自分は愛されない」というすさんだ自己否定感情に向います。

 比較的深刻な心の障害ケースでは、自尊心のあり方について、緊急停止とも言える介入をして、その根本的な問い直しをすることが取り組み実践になってきます。

 

「否定できる自尊心」という人間の病

 

 「否定できる自尊心」「否定価値感覚」です。望ましくないものを、「それは駄目だ」としっかり否定できることに価値を感じる。否定できる自分に自尊心を感じる。

 

 これは人間の(やまい)です。

 健康な心においては、少なくとも他の動物においては、望ましくないものを排除することは、基本的にマイナスをゼロに戻すだけであって、プラスを増やす価値はあまりありません。払う労力を考えるならば、否定破壊がどううまく行ったとしても、それはやはりマイナス出来事です。

 

 人間だけが、望ましくないものを「それは駄目だ」と破壊否定できた時に、否定できた自分への自尊心を感じるような、プラス価値が得られたかのような錯覚を抱きます。

 やがて自ら積極的に、自分と他人の中にある望ましくない側面に目を向けることを良しとする感覚の中で生きます。

 もちろん真のプラス価値は、「ではこうすればいい」と、「建設」へと転じた時にこそ生まれます。そのことを十分にわきまえるのであれば、まず向上への準備ステップとして、問題がある事柄を把握し、正しく認識することは、当然有益なことです。

 

 問題は、そうして「それは駄目だ」「決して許さない」という否定そのものは実に妥当な内容だとして、「ではどうすればいいのか」という前進視点を全く失ったまま、「否定できる価値」だけが一人歩きし、さらには暴走を始める

 これが人間の心には起きる、ということです。

 

病んだ心の全ての歯車に「問題」はない

 

 この本ではここまで、心を病むメカニズムの歯車と、「愛情要求」と「自尊心衝動」がおりなす綾の中で動く心理過程を見てきました。

 その中で、結局何が「問題」なのか。何が本当に、「これが駄目だ」と、心に起きた異物のようなものとして否定破壊すべきものかと言うと、実は何もないのです。

 なぜなら、それが人間の弱さであり、人間の不完全性だからです。人間の成長は、その弱さと不完全性をまずありのままに受け入れ、失敗から学ぶことも含めて、その弱さと不完全性がどのように向上変化の歩みをしていくのかを、地道に体得して積み重ねていくことなのです。

 決して、その中の何かの要素を、「これがいけないんだ」と、除去すればいいというもの、もしくは除去できるものは、何もありません。

 それを受け入れ、それと共に生きる成長が、それを根底から変化させ、それを不要にしていくのです。

 

 たった一つだけ、そうした歯車の中で、取り除くべきものがあります。

 「否定できる自尊心」つまり否定価値感覚です。

 「それは駄目だ」と否定できることに価値を感じる。その瞬間、弱さと不完全性と共に生きる成長の道が、一瞬にして全て見失われます。

 同時に、否定価値感覚の中で人が抱く、「望む資格思考」という心の癌細胞。価値のある人間だけが望む資格があるという思考。そして望む資格を得た時、望みは叶えられるべきだと主張するかのような幻想。

 否定することに価値があるとすれば、まさに否定することに価値があるとする想念です。パラドックスです。

 

 実はこの否定価値感覚さえも、「これが駄目だ」と否定することで、取り除かれるものではないのです。

 むしろ逆に、否定できることで価値を抱こうとしたことの「価値」を知り、それが苦境に置かれた自分を救うためのものであったことに、むしろ感謝をした時、それはもはや役目を終え、過去の来歴の座へと収まっていきます。これはこの後の「病んだ心から健康な心への道」の章で詳しくたどっていきます。

 

自尊心は愛に還る

 

 まずは、ありのままに知ることです。

 

 「愛され自尊心」「優越自尊心」は、未熟からの成長においてはごく自然にそこから始まるものである中で、短絡的思考の中で真の自尊心につながる成長を見失う轍がある。

 「否定できる自尊心」に至り、成長の全体が見失われます。現実世界における成長がです。

 人はその代わりに、空想の世界の中で、何かを追い求めるようになります。

 

 この章では、まず「愛情要求」が同時に「自尊心衝動」でもあるという流れを説明しました。まず愛を求めていると感じてものが、やがて自尊心を求めるものに化けている。この流れは、人も比較的気づきやすいものです。

 一方、「自尊心衝動」が同時に「愛情要求」であるという流れは、それが帯びる荒廃化の度合いを強めるにつれて、人は自分では気づきにくくなります。世界の頂点に(のぼ)る優越感を、そして全ての他人を見下そうとする軽蔑衝動を、人はもはやそれが自分が愛を求めている感情であるとは、感じなくなります。

 

 しかしその先には、やはり「愛」があります。

 優越自尊心は、基本的に人の目を前提にして動きます。優越する自分を見る人の目が消えた無人島のよな場の中で、優越の輝きは消えます。そして「孤独」が見えてきます。

 否定できる自尊心も、同じように、そんな自分の姿を見る人の目が前提になります。その先には、駄目なものを許さずに否定できる高貴なる自分が愛されるという、幻想の世界があります。

 そして再び、それを生み出した根源を遡った時、「一体化の愛の挫折」という濃い情動の世界が見えてきます。

 

 自尊心が人に傷つけられたと感じることを、「自尊心損傷反応」と呼びます。それが生み出す典型的感情として、「怒り」があります。

 人が愛されない時に感じる怒りも、自尊心損傷反応として起きるものです。

 自尊心損傷反応は、相手の自尊心を同等もしくはそれ以上に傷つけ返すことによって「気分が晴れる」という回復のメカニズムを持ちます。それは相手を「愛情要求」に駆られた弱者へと落とすという意味があります。

 根底にはやはり、愛への挫折という同じ母体があります。

 

 ハイブリッド心理学では、人間の心の「成長課題」とは、「真の自尊心の獲得」というたった一つのことなのだと考えています。

 何のためにか。

 それが達成された時、「自意識」は消え去り、その代わりに、心は豊かな感情で満たされ、次の命のための、「子供への愛」という「宇宙の愛」が湧き出てくる。

 そのためにです。

 

 人間の心の成長は、「愛」で始まり、「自尊心」へと向かい、そしてまた「愛」に還っていく。そのようなものとしてあります。

 人の心が病むということの最大の本質は、その道をそれて、別の世界に向ったことにあります。

 

 その別れ道とは何だったのかに、視点を移しましょう。

inserted by FC2 system