心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

8章 「自尊心」の混乱と喪失−3  −悪魔の契約・「心の自立」への道−

 

 

不完全性の中の成長

 

 心を病むメカニズム過程の、自尊心への影響を説明してきました。

 その最後に、結局それらの心理メカニズム過程の全てにおいて、心に侵入した病気のような、異物として否定し除去すべきものは一切ないという結論を述べました。たった一つあるとすれば、それは「否定できる自尊心」という「否定価値感覚」そしてその上に人が抱く「望む資格思考」なのだと。

 

 事実、自尊心の、そして人間の心の成長の過程は、健康な心の過程においても、心を病む過程においても、最初は、人間として未熟な、弱い、不完全な姿から始まります。

 それはどうしても、心を病むメカニズムの影響を、人により程度の差こそあれ受けるものになるでしょう。

 

 愛されること、そして優越できることに感じる短絡的な自尊心の衝動から、それは始まるでしょう。

 誰もがそのために自分の理想像を描き、もし「そうなれたら」、自分に愛情と賞賛の祝福の座が与えられるという、実に自分に都合の良い空想を描きます。

 そこに「成長」への芽があることになります。「痛み」を伴う成長への、です。

 「現実」というのは、そうは都合良くできているものではないからです。

 まず間違いなく、その身勝手で未熟な空想の中で望みを抱いた自分の姿そのものが、その空想の中で描いた、完璧無比なる自己理想像と、見事にも食い違うでしょう。

 頭の中では、堂々と自分の意見を主張し、伸び伸びと感情を表現できる自分を描いても、「現実」の場面では、「緊張」や「不安」という邪魔な感情がまるで飼い慣れない動物のように動き出し、さらにはそんな自分の内面の存在に気づくこと自体が、淀みなく人とつながれる人間という姿を妨害します。

 誰もがそうして、この人生を始めるのです。

 

 しかしもしそこで人が、自分の人間としての弱さと不完全性を受け入れることができ、空想の通りにはいかない現実にありのままに心を晒すことを受け入れたならば、心の底は、痛みの中で、空想の中で抱いた内面衝動に対して根底から軌道修正をほどこし、次の同じ場面ではより無駄のない行動へと向うことが可能になるでしょう。

 そこに、心の自然治癒力と自然成長力が働くことになります。

 もちろん、内面の衝動が軌道修正されるだけではなく、外面の事柄をより正確に見極め、うまく行動できる知恵を仕入れることも不可欠としてです。

 

 そうして内面と外面の両面ともに生まれる変化は、その積み重ねの先に、やがて似たような行動場面においては、もはやほとんど意識することなく、自動的に、うまく行く行動ができるという姿に、人を変えていきます。

 この時人は真の自信を得るのです。

 これはまさに、若い肉食獣に例えて説明した真の自信への過程の、人間の人生における姿に他なりません。

 

人間の心の別れ道

 

 一方で、人は心を病む中で、それとは別の道に向かいます。

 心に「成長」があるなどとは絵空ごとだと否定するかのように、まず「あるべき姿」を掲げ、問題はいかに完璧にそれになれるかだとする道へ。

 やがて、その「あるべき姿」から、自己と人生と幸福を、破壊し始めるのです。

 

 人の心に「心を病むメカニズム」が作用することと、人が実際に「心を病む」こととは、大分違うことです。

 ハイブリッド心理学では、「心を病むメカニズム」とは、人間の心の本性そのものであると考えています。それが作用する部分を持たない、完璧に健康な心の人間というものは、この世に存在しないと考えています。

 心が健康であるとは、確かに、心を病むメカニズムのそれまでの影響量の少なさという観点もありますが、それ以上に、心を病むメカニズムの影響を持ちながらも「心の成長」へと向いていることが重要になってきます。

 心を病むとは、確かに、心を病むメカニズムの影響の残量の多さという観点もありますが、それ以上に、「心を病む」という心の動きを今現にしていることが、問題になってきます。

 

 「心を病む心の動き」とは、「心を病むメカニズム」を受け入れずに拒絶するという、心の動きです。

 その時、「心を病むメカニズム」は、怒涛の勢いで回り始めるのです。そして人の心が病んでいきます。パラドックスです。

 「心を病むメカニズム」を受け入れた時、「心を病むメカニズム」はその動きを穏やかなものへと変化させます。そして、「心を病むメカニズム」は、「心が成長するメカニズム」へと、変化するのです。

 

 人が心を病むのは、心を病むメカニズムによってではない。このパラドックスの詳細は、「心を病むメカニズム」の2つの章ですでに説明しました。

 事実、病んだ心の中で動く歯車のほぼ全ては、「学童期」までに揃います。しかし人が実際に心を病むのは、「思春期」に至ってです。そこで人が心を病むことを決定づけたのは、「メカニズム」という、歯車の自動的な連鎖ではなく、人が自らなした「積極的な動き」として、ある一線を越えた飛翔が、病んだ心の世界に向ってなされたことです。

 

「自立」という最大の「変化」への摂理

 

 この考察は、思春期を合図にして人の心に課せられる、もう一つの大きな旅立ちの命題を浮ばせます。

 それは「心の自立」です。

 

 そもそも「自立」は、生きるもの全てにおいて働く、「変化」への最大の摂理です。

 

 これはより正確には、鳥類および哺乳類という動物の進化段階において現れます。

 子はまず親の庇護の下で守られることからその「生」を始め、やがてある一定の時期に、親に守られる存在であることに別れを告げ、自立へと旅立つ時が訪れます。

 そしてやがて、自らが親となり次の命を守り育てる側へと変化するのです。それは「存在の中における変化」ではなく、「存在そのものの変化」だと言うことができるでしょう。

 

 皮肉なことに、動物の進化段階として頂点に立つ「人間」に至り、この「自立」という明確な一線の境界が不鮮明になってきてきます。

 

 これはもちろん、「社会」があまりにも高度に発達し、人がその中で守られる存在として生きるという、「自立のない生」という様相が多々出現した結果でもあります。

 高校や大学を出て就職し、親の下を離れたとしても、向う先の「会社」には、これまた「上司」という、まるで親との関係の焼き直しであるかのようなものが待っています。

 それはまた医療の進歩と学歴社会の進展によって、高齢化と少子化が進んだ結果でもあります。

 出生と自立と死、その中で生み出される次の命の、出生と自立と死。そうした「命のサイクル」そのものがややリアリティを失って、一度生まれた親子関係が緊縛の中で時の流れを流れていく。

 そんな印象を感じます。それはやや生命の躍動感に乏しい姿でもあります。

 そんな中で、「自立」というものが実に不明瞭なものとなる。かくして「いつまでも親のスネを」といった言葉も交わされる現代です。

 

 しかし、この「自立」という生きるもの全てにおける最大の「変化」への摂理が、人間の心の成長において重みを減らしているとは、とても思えません。

 それはもちろん特に、「自尊心」においてです。

 つまり「自立」をできていない自分とは、やはりあまり高い自尊心を感じることのできるものではないという摂理が、どうしても働くのではないかと考えられます。

 「自立なんて話をされても」とうそぶく心の底で、人の自尊心は損なわれているのかも知れません。

 自尊心の重要性を6章で指摘しました。自分で自分を尊重尊敬できるとは、心が安全であり、喜び楽しみなど「幸福」につながる感情が多く湧き出てくることです。自尊心が持てないと、心が危険に満ち、怒りと恐怖という、不幸につながる感情が多く湧き出てきます。

 「自立」がやはり、「幸福」にとって無視できない課題になるのです。

 

「心の自立」

 

 人間において、「幸福」にとって無視できない「自立」の明確な境界線は、外面ではなく内面において現れてくると考えています。

 それが、「心の自立」です。

 

 「心の自立」とは何か。

 それは「自立」というものを、まさにそのまま、外面について成す代わりに内面について、つまり「心」について成すものという実に単純な話を言うことができます。

 それは、親に守られ支えられた「心」を、自分自身で守り支える、ということです。

 

 この表現はすでに、心の障害に悩む方の多くにおいて、それとは逆方向への、何か積極的な入れ込みが起きていることを示唆することに気づかれる方も少なくないでしょう。

 心の障害に悩む多くの方が、親への憎しみを抱きます。普通の健康な心に育ててくれなかった。こんな病んだ心に育てられてしまった、と。

 それは単に来歴の不遇を振り返るのではなく、「自分で自分を支える」という命題を拒絶した、何か別の世界を、積極的に主張する言葉であるようにも感じます。

 それは「あるべきもの」の世界です。

 

「心の自立」と「未知への変化」

 

 心の障害に悩む方は、「幼少期に親に愛されなかったせいで心の自立ができなくなったのだ」と考えるかも知れません。

 それは事実ではありません。「心の自立」とは、そう考えるほどの苦境を、自分自身で受けとめるという選択のことを言うからです。

 

 事実、人は自分の心の中にある「未知」への変化を、「心の自立」の先に見出します。

 

 「子供の頃に十分な愛情を与えられなかった」という「問題」が解決する姿は、それが焦点になる心の障害への取り組み現場よりも、むしろ一般の人々の人生の中でしばしば観察されます。

 「自分が親になって初めて、親の気持ちが分った」というような話としてです。

 これは子供の頃に感じた問題が、そのままの姿において解決されたのではありません。問題そのものが、別の姿へと形を変えたのです。

 そうした中で、人が抱いていた怒りやわだかまりを捨て、全てを受け入れることができた時、その人に大きな心の成長が成され、心の豊かさが生まれる。そして次の命のための、「子供への愛」が湧き出てくる。ここに一つの大きな鍵があります。

 思春期において、心を病む道へと旅立った人は、それとは別の道を選んだのです。

 

 「心の自立」は、支えられて成すものではありません。支えられて進むことを自立とは言いません。

 支えられることを喪失して、なお前に歩むことを選択することを、自立と呼ぶのです。

 その時同時に、この人間の心に、真の自尊心が生まれます。

 

「自ら望む」という心の自立

 

 「自分の心を自分で守り支える」という「心の自立」を、さらに心理学的に分析することができます。

 

 3つの観点から考えることができます。

 1つ目に、「人生と幸福」という観点において。「心の自立」とは、自分の人生の生き方と、自分の幸福を、自分自身で考えて決断できるということです。その結果が外面においても自立になるのか、それとも他者の庇護の下で生きることになるのかも含めて、自分で決断できるということです。

 

 2つ目に、社会との関係において。1つ目と表裏一体のものでもありますが、「社会」を自分の目で見ることです。これが「依存」では、「親」などの「頼る人」の目を通して、社会を見る・・・否、「見る」のではなく「思い込む」ということになるでしょう・・・という形になります。「見る」のは「社会」ではなく「頼る人」の「顔色」になる、と。

 

 そして最後に、「自分と他人」の関係という観点において。それは自分の気持ちを人に受けとめてもらうという心のあり方ではなく、自分の気持ちを自分で受けとめるという心のあり方へと変化することです。

 これは、「自分と他人」というそれまでの関係性に、「自分自身との関係」という、新たな関係性を追加したことを意味します。

 「心の自立」とは、自分自身との関係をしっかりと持つということです。

 「自分が自分で分らなくなる」という心の障害とは、この「自分自身との関係」を築くことへの大きな妨げが起きているものであることは、これまでの全ての説明から容易に推測できると思います。その結果、「自己の重心」を失って、思考と感情の全体が「人が」「人が」と他人のことばかりに揺れ動く姿になっていく。

 

 上記3つの観点、「自分の人生と幸福を自分で考える」「自分の目で社会を見る」「自分の気持ちを自分で受けとめる」を合わせると、真の自尊心への歩みとして決定的なものが導き出されます。

 「自ら望むことができる」ということです。自分の感情を自分で受けとめ、自分の目で社会を見て、自分で自らの幸福を考えて、自分が何を望むのかを自分で決めることができる、ということです。

それに向い、「現実」に向って全力を尽くして生きていくことが、真の自尊心を生み出します。

 

 そうして自分の心を自分で受けとめるから、自分の心の中にある自然治癒力と自然成長力も、受け取ることができます。だから心に成長が起きるのです。

 「心の成長」と「心の自立」はとても強い関係があります。心が自立しないと、心が成長することもほとんどありません。自分の気持ちを人に受けとめてもらう必要がある一方で、自分の心にある自然治癒力と自然成長力を自分で受けとれないからです。

 

「心を病む」ことの正体

 

 人が心を病むとは、幼少期に起きた問題の影響のことではありません。その影響を受けて、人がなす選択なのです。もう一つの道として「心の自立」がある、人間の生き方における選択です。

 

 幼少期に起きた問題の影響としては、まず「生から受けた拒絶」による「根源的自己否定感情」を抱え始めたこと、それを受けて、「なりたい自分」が「なるべき自分」へと緊迫化したことがあります。その結果「自己処罰感情」が発生し、「自己理想像の取り下げ」も含めた混乱が起きたことがあります。

 それは同時に、「宇宙の愛」に守られることに挫折したことがもたらす心の荒廃化の中で、「愛情要求」と「自尊心衝動」が生まれたことでもあります。愛されること、優越すること、否定できることに短絡的な自尊心の感覚を追い求め、自尊心も、そして愛も逆に喪失していく心の歯車が生まれたことでもあります。

 それらは「心を病むメカニズム」の過程ではあっても、「心を病む」ことそのものではありません。それは「心を病む」というよりも、人間として「未熟」な姿です。

 それらは全て学童期までにすでに進展します。しかし人が実際に心を病むのは、思春期になってからです。

 

 思春期における「病んだ心の発動」は、一つは「感情の膿の組み込み」という難解なメカニズムによって、「現実覚醒レベルの低下」を特徴とする独自の心理機構「自己操縦心性」が発動を始めることが決定的なものとなります。

 そこでまず起きるのは、「空想と現実の重みづけの逆転」でした。「現実」は駄目なものだという三下り半の突きつけをなし、空想の世界を(あるじ)、現実の世界を従と位置づけ、理想と現実の「重ね合わせ思考」という独特な思考回路を使う、二極の極端に揺れる思考と感情の世界が始まります。

 「感情の膿」が程度の差こそあれ現代人に避けられないものであるのならば、実はこの「自己操縦心性」さえも、まだ「心を病む」ことではないとさえ言えるかも知れません。それは最後まで完全には逃れられない、人間の心の宿命のようにも思われます。

 

病むのは人間の思考

 

 「心を病む」ことの本質は、自己操縦心性そのものではなく、自己操縦心性の中にしばしば暴走した形で映されることになる、私たち人間自身の思考の中にあります。

 

 それが明らかに「健常性」を損なうほど深刻なものは、1章においてまず「論理性の歪み」として捉えられました。「自己の重心の喪失」が深刻化した先に、現実から乖離した何か不条理な論理の幻想の世界に、心がおおわれてしまうのです。

 その鮮烈な表れが例えば、町田市の女子高生殺害事件の少年の、「何も悪いことしていないのに無視されたから殺した」という言葉でした。

 

 それが持つ、人間の心の根源に関わる深い意味の一端が、「愛」の中で示され始めました。

 「真実と宇宙の愛の差し替え」です。今大人として生きる自分の人生において、自分を宇宙の中心とする愛こそが、「真実の愛」なのだと。

 「宇宙の愛」ではないものを、「真実の愛」ではなく「利己的な愛」だと人に感じさせるのは、確かに自己操縦心性のトリックかも知れません。しかしその根底には、私達自身の人間観があります。「十分な愛が与えられるべきだ」という「あるべき姿」ありきの人間観です。

 

 残されるのは、その「あるべきもの」という観念の絶対性です。それは「自尊心」と強く結びついていることが考えられます。

 その容赦のない絶対性に、法外な愛を要求することをはるかに越えた、見まごうことなく病んだ姿があります。もちろん、愛を要求した相手を殺すというような姿においてです。

 

 しかしこの「絶対」とはまさに、この心理学がその弊害を指摘することから始まる、私たち現代人の実に日常的な思考でもあるのです。「正しければ怒るのが当然だ」と、そして「絶対に許してはいけない」と。

 私たち現代人は、人が怒りの中でそのような思考を持つこと自体を、「心を病んでいる」とはあまり考えません。ただ怒りを抱くだけで済んでいるならば。

 しかしその「絶対に許してはいけない」という論理を究極的に突き詰めた先に、何があるのか。それが現実に起きた時初めて、世の人はそこに「病んだ心」があることを疑い始めます。

 人はその不条理さを、まず原因と結果の釣り合いで考えます。無視されたから殺すとは、確かに誰が見ても心を病んでいるとなるでしょう。

 しかし、結果の行動を原因と釣り合いのある範囲に何とか自制できている中で、人が怒りの中で「絶対に許せない」と考える思考が果たしてそれと本質的に違いがあるのかは、実に不明瞭です。何のことはない、同じものだと考えるほうが実に話が早いでしょう。

 

「絶対」という思考

 

 心を病むメカニズム過程において「絶対思考」は、「生から受けた拒絶」による「根源的自己否定感情」という不遇を、もの心つき始めた心が後づけの解釈を加えることで、まさにその本人が自らの心に取り込む悲劇として生み出されます。

 この世界には何か「あるべき姿」があって、それを損なった時、宇宙の全体から向ってくるような怒りを受けるのだ、と。

 そして実際、回りの大人たちが、それを促し固める言葉を子供に言います。「こうでなければいけません」という、「道徳」もしくは「躾」という絶対思考の言葉を。

 

 この子供はまず、「自尊心」のために、そうした「宇宙の怒り」の基準となるべき高い理想意識を抱くようになるでしょう。自分は「あるべき姿」を知っている、ちゃんとした人間だ。これを意識していない他の皆は駄目だ。

 そこに、「あるべきもの」の「絶対性」が生まれています。

 

 それはもはや、なぜそれが「あるべき姿」なのかという論理を持ちません。彼彼女自身が出生の来歴において受けた「生からの拒絶」が論理を持たないように。

 ただそれが「あるべき姿」なのです。なぜなら、それが「あるべき姿」なのだから。

 そしてその絶対性に基づき、人はやがて自らに「自己処罰感情」を加えるようになるのです。

 

 他者に向けられる怒りの行動と同じように、人は、人が自らに加えている「自己処罰感情」についても、原因と結果の釣り合いで考えます。

 いいでしょう。釣り合いが取れていると感じる範囲の自己処罰感情が人に迷惑をかけることはまずありません。ただし本来は不必要な、多大なる不幸を抱えることにはなりますが。

 やがてそれが明らかに「普通」の釣り合いを損なった時だけ、私たちはそこに病んだ心があることを感じます。それが「自傷」「自虐」として知られるようになります。

 そして、世の人はそれを前に、なぜそんなことをするのだと、理由が分らないと言います。そんなことをしても何にもならないのに、と。

 違います。なっているのです。自尊心に。

 それを分らないと言う世の人が、日常生活でしばしば感じる「憂うつ」「落ち込み」「自己嫌悪感情」を生み出す自己処罰感情と全く同じ、「あるべき姿」に伴う「絶対」の観念から、それは生まれているのです。

 

病んだ心に現れる絶対思考の不条理−1

 

 この「あるべき姿」に伴う「絶対」の観念の中に、病んだ心に特有の意味があります。

 それはただ単に理想の高さという絶対性ではありません。

 

 単に理想の高さの絶対性、つまり少しは人並み以上にという程度では満足できず、どうしても世界の頂点にまで行きたいという願望であれば、健康な心にもあることです。

 これは「優秀」という幸せの基本要素に関係するものです。人は誰でも、この世界に生まれたからには、何らかの面で優れた者として生まれることを願い、社会で優れた者としてあれる未来を夢見ます。

 「現実」は全ての人間にそう都合良くできているものではありません。何らかの失意や挫折を味わう体験を経る人間の方が、まず大部分になるでしょう。

 それでも、全力を尽くして望みに向かい続けることが、「望みが叶う」ことがなくても、「人生の充実」という代償を与えるメカニズムが、人間の脳には用意されています。これが人生の一つの答えになるのです。これが次の「病んだ心から健康な心への道」の章の主題になるものです。

 そうした「優秀」への望みを背景として、「身のほど知らず」な絶対的に高い理想を抱くことは、未熟な心には良くあることです。

 それでいいんです。好きなように「現実」へとぶつかっていき、自分の可能性を確かめていくのがいいでしょう。実際に資質と可能性がありそうな場合はなおさらです。

 

 「絶対思考」の病んだ側面は、むしろ「身のほど知らず」への激しい怒りを抱く姿の方に現れます。何のことはない、「ばかなこと夢見ていないで」と良くいう日本の親の姿の方にです。

 「望む資格思考」としてです。

 

「自ら望むこと」への穴埋め腹いせとしての「望む資格思考」

 

 「望む資格思考」とは、文字通り、「望む」ことに資格があると考える思考です。望みが叶うかどうかにはさまざまなハードルがあると考えるのではなく。

 「望む資格思考」は、まずマイナス側面が心を病む過程に明瞭に現れます。つまり「望む資格などない!」と、望みを叩き潰し塞ごうとする心の動きとしてです。これが自分に向けられた時、「望みの停止」が起き、「情動の荒廃化」が起きます。そこから、心が病んでいく過程が坂道を転げ落ちる雪だるまのように進行することになります。

 「望む資格思考」のプラス側面は、「望む資格」さえあれば後は望みが叶うかのような幻想に現れます。そこでは、「望み」はそれに向って全力を尽くす歩みではなく、資格条件によって「叶えられるべきもの」と化します。

 マイナス側面およびプラス側面とも、そこには同じ命題が流れています。

 それは「自ら望む」という感情の喪失です。

 

 その起源は明らかに、「生から受けた拒絶」、「根源的自己否定感情」にあります。

 それは自他未分離の混沌意識における、「望みの停止」だったのです。ありのままの自分で、心を解き放って生きていくという、最も根源的な「望み」の停止です。

 前章で説明した「穴埋めと腹いせ」のメカニズムがここに作用していることを見ることができます。

 「望む資格思考」のプラス側面、「望まざるして叶えられる」は、自ら望むことを奪われたことへの穴埋めに加えて、腹いせの怨念が混ざり始めている様子を見ることができます。

 「望む資格思考」のマイナス側面は明白です。今度は、自分が他人の望みを叩き潰す側に立ってやる。それははっきりと、「復讐」という姿を持つようになります。

 

 「望み」に向かい現実に向うことが、心の成長と、人生の充実を生みます。「望み」とは、人生そのものでもあります。

 「望む資格思考」とは、人生そのものの喪失であると言えます。

 「穴埋めと腹いせ」をどう追っても、もう満足が得られないというメカニズムは、ここでも例外なく作用します。

 人は、人生に満たされることがなくなります。その中で、「望む資格」だけが「貪欲」を帯びてきます。

 

 ここに、人間の心に巣くう悪魔の取りつく場所が生まれるようです。

 

「存在の善悪と地位」の幻想

 

 「望む資格」が、人の「生」の広範におよぶ時、それは「笑う資格」「喜ぶ資格」「楽しむ資格」といった「幸福への感情」全般におよぶようになります。

 それはやがて、「生きる資格」そのものにまで行き着くことは、想像に難くありません。

 自分が人のその資格を断ずる立場にあると考える。その時人は、自分が「人間の審判」をできる者だという幻想を抱くことになります。

 これが人類の歴史の中で起きた、最も悪しき人間性の損ないとして、組織化された形で行なわれたのが、ナチスによるユダヤ人大量虐殺でした。

 

 人間は生まれながらにして、その存在に善悪や地位があるという観念に、それはなります。

 「存在が善」である者は、全てが喜ばれ、望む資格がある。

 「存在が悪」である者は、全てが嫌われ、望む資格がない。

 「根源的自己否定感情」を宿命とする人間は、そうした「存在の善悪幻想」を、もの心つくと同時に、人それぞれに程度の差はあれ抱く。これも宿命なのかも知れません。

 

 そもそも「存在が善」であるとは、愛する相手は愛する者にとってその存在は限りなく善だという、実に単純な事実が起源であると思われます。

 それは「愛されることの恩恵」でもあります。「あばたもえくぼ」と言うように。この言葉が「恋は盲目」という文脈で語られる通り、「存在の善悪」とは、実は本来は、感情に流されて正しい判断ができなくなっている短絡的な人間思考だとも言えます。

 

 いずれにせよ、「存在の善悪」という観念には、出生の来歴において愛される祝福を喪失した者が抱く、怨念と嫉妬の影があるという印象を感じます。

 確かに人は誰でも、祝福されて、「存在が善」として生まれるべきだったのです。しかし自分はそうではなかった・・。

 もの心ついた時には、問題の始まりの記憶は消えています。あとはただ、「存在が悪」であるものへの漠然とした怒りが漂う中で、自分の人生が始まっていることを知るのです。そして「存在が悪」とは、自分のことなのか、それとも他人のことなのか、という放浪を心に抱えて生き始めます。

 そうして自ら愛する、そして愛されるという「愛」の直接的な濃い情動から退却した先に、それでも残る幸福への渇望の中空の興奮が見出したはけ口が、「存在の善悪」という観念になるのかも知れません。

 心理メカニズムの観点から言えば、「存在の善悪」観念とは、幼少期の愛の挫折に始まる「心を病むメカニズム」過程と、「正しければ幸せに」といった幸福を自ら築くものではなく他力本願に与えられるものと位置づける、心の成長とは逆の姿勢という、2つの大きなベクトルの結晶とも言えるものなのかも知れません。

 それだけ、「存在の善悪」とは、幾多の心の業を抱える人間の、宿命とも言える観念なのかも知れません。

 

日常生活の広範囲に影を投げる「存在の善悪と地位幻想」

 

 それだけ根深く強力な観念であるだけに、「存在の善悪幻想」は、私たちの日常生活の極めて広範囲に影を投げ、概して人の心を不幸に向ける作用をおよぼしています。

 3つ考慮したい点があります。「存在の善悪」への信奉度対人関係への影響、そして自己意識への影響です。

 

 まず、「存在の善悪」観念が知性思考にまでおよぶようになると、心を病んでいる印象が強くなってきます。そこまではいかないごく「普通」の現代人の場合、「存在の善悪」観念がしばしば無意識に作用します。

 「存在の善悪」観念の「信奉度」が強いとは、生きる姿勢や生活の中での思考法や行動法の全てを、「存在の善悪」そしてその優劣結果としての「存在の地位」の問題として考える傾向が強くなるということです。

 

 対人関係においては、「人間の()り分け」意識が、意識思考の中で、もしくは無意識に、働くようになります。

 無意識レベルでは、他人を「良い人」と「悪い人」に、実に漠然とした、論理性の貧弱な思考の中で選り分ける意識になります。その実体はその人に「優しい人」「親切な人」であるのがまず例外ないことでしょう。問題は、誰に対しても公平に対応できる大人としての行動力が育たなくなることにあるでしょう。

 知性思考にまで「存在の善悪と地位」がおよぶケースでは、「選民思考」というものが現れてきます。人種差別やナチスの思想へもつながる、人間性を損なう思考です。私の相談対応事例でも、比較的深刻な心の障害ケースの方の多くがその意識の存在を伝えてきました。

 他者に向ける「存在の善悪と地位審判」意識は、「他人」から自分に向けられる強い怒りと嫌悪の感覚を生み出します。また、本人がその理由のつながりを理解できないまま、自分の人間性に向けられる不信の感覚を生み出します。

 心の障害傾向が強くなるにつれて、そうして自分に向けられると感じる嫌悪や不信の目のイメージに対して、さらに怒り憎悪の反応を起しやすくなります。

 

 自己意識としては、他人が自分にどんな行動をしたかが、その場面における相手なりの行動というよりも、相手が自分をどう「存在の善悪と地位」の選り分けをしたかの問題として意識されるようになってきます。

 その結果は当然、その場面におけるその行動出来事の本来の意味重みを超えて、自分の存在の善悪と地位を断ぜられたという法外な重みで受け取ることによる、感情の大きな動揺になります。

 これは「他人」が概して自分への悪意を持つ存在だと感じられることにもつながるでしょう。本人が自ら抱く「存在の選り分け意識」とは、人間性を損なう心の行為であることの自覚が、心の底にはしっかりあるのです。だから他人に悪意を感じると同時に、自分の人間性への不信が向けられるイメージが生まれるのです。

 意識思考だけが、このつながりを見失います。なぜならその「選り分け意識」の基準となる「人はこうあるべき」という思考の高潔感、高貴感が、自らが持つ人間性を損なった意識への自覚を中和するからです。これはおそらく人が「良識」を自認する時、全てにおいて同時に無意識の中で作用しているメカニズムになるでしょう。

 

 また、6章で自尊心のための外面向け思考として指摘した、非科学的絶対思考のもたらすマイナス側面が、この「存在の善悪幻想」とのつながりで起きます。「神頼み」的思考や「おまじない」的思考の類です。

 本来自分には全く関係のない外部の出来事が、まるで自分の「存在の善悪」を言われたことであるかのように感じられてきてしまうのです!

 その結果は、「存在の善悪幻想」を生み出した、心を病むメカニズム過程と、幸福を「正しければ与えられる」ものとする意識姿勢の強さに応じて、漠然とした気分の落ち込みから、激情的な嘆き怒りにまで増大するでしょう。

 

「存在の善悪と地位幻想」克服への指針

 

 「存在の善悪と地位幻想」の克服は、人間に課せられた課題とも言える、大きな視点で位置づけられるものとこの心理学では考えています。

 その指針は、ハイブリッド心理学の取り組み実践の大枠とイコールです。

 非科学的な絶対思考で外面出来事を捉えず、現実科学的な思考に徹するとともに、人間の存在そのものに善悪や地位身分はないという理念に基づく、原理原則的な思考法と行動法を築くことが重要になってきます。もはや心理学以前の問題として、「基本的人権」といった社会理念の教養が問われることも出てくるでしょう。

 

 「存在が善」という祝福のイメージを、まるで社会と宇宙で定められた基準によるようなものとしてではなく、個人と個人の愛の感情の問題へと戻すことです。そして自分の来歴においてそれがどのように心の中で変遷したのかに、向き合うことです。

 そして、「まず十分に愛されるべき」といった思考を超える人間観を、模索することです。それは「心の自立」の先にある「未知」への変化に基づく人間観に他なりません。

 

 「存在の地位」のイメージについては、領域を明瞭にした「優秀」への望みと努力の問題へと解体することが指針になります。

 それは確かに、この社会において多少の競争の中にあるものかも知れません。しかしその領域で「優秀」であることは、単にその領域においてという、ただそれだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもありません。それが人間の存在そのものの優劣を決めるなどということはないこと、そして特定の領域での優越は、いつかは必ずはかなく崩れる運命に向き合うことが必要です。

 そして、優越できるという結果ではなく、望みに向かうことそのものの中にある成長と成熟への視点を獲得することが指針になります。やがてそれは結果としての優越をはるかに凌駕する価値を、人に与えることになるのです。

 

現代社会の心の荒廃と「存在の善悪と地位」

 

 「存在の善悪と地位幻想」は、人間が本性として持つ、人間性の負の側面だと言えます。それが人間の歴史を通して、人種差別や、民族間の争いや、いじめや、そして戦争を、生み出しています。

 もちろん正の側面も人間の本性としてあります。それは人間の存在そのものに善悪や地位身分はないと考える思考であり、全ての人間が同等に望む権利があると考える、自由主義、民主主義の社会へと結実する思考です。

 「同等に」望む権利と書きました。「平等に」ではなく。「平等」はしばしば、「努力なしに叶えられる」幻想として、「自ら望む」ことの喪失の先にしばしば主張される弊害があることを指摘しておきます。

 

 人類の歴史は、この2面の拮抗の中にあったとも言えるのでしょう。今世界大戦が終わり、地球全体を一つの連邦とする人間の姿勢が一応は優勢であることは、この2面がもう拮抗の問題ではなく、負の側面の克服へと明確に向っていることを、私は信じたいと思います。

 それでも一方、現代社会の心の荒廃の中で、人はこの「存在の善悪と地位幻想」を追うことに駆られがちです。勝ち組負け組意識、一流大学、一流企業、ブランド意識、セレブ、そういった観念を追うことが人生と化す根底に、「存在の善悪と地位幻想」があるのかも知れません。

 最近とみに増加が目立つ無差別殺傷事件も、そうした「存在の善悪と地位」の審判バトルの幻想の中で膨張した憎悪が、「他人」一般への殺意にまで至ったものであることは想像に難くありません。

 

 「いじめ」もそうした表れに他なりません。一度「存在が悪」とされた者は、以降それに応じた扱いを受ける。この集団幻想にささげられる生贄(いけにえ)のターゲットを求める目が自分に向けられる恐怖から逃れるため、また生贄を決める病んだ興奮から、「次は誰だ」という血走った目を抱き始める子供達。

 「いじめは悪」だなんてことは、恐らく子供自身に分り切っているように思われます。負の側面を糾弾するだけの閉塞感が、まさにそうした負の側面の引き金になります。

 狭い教室に閉じこもって考えるのではなく、正の側面を開放する、伸び伸びとした別環境を与えることが、どんな小難しい理屈よりも「いじめ」の解決には役立ちます。そうした大人の側の知恵も育てたいものです。

 

 「存在の善悪と地位幻想」が心に流れてしまうこと自体は、「心を病む」ことではありません。それは「未熟」を表すものです。

 「心を病む」とは、存在の善悪と地位幻想が「正しい正しくない」という知的思考にまで侵入してくること、そしてその破壊性の側面の膨張にあります。

 

「人間の感情を支配すべき文律(ぶんりつ)」の幻想

 

 人が心を病む姿は、「愛される祝福」という個人の情動の世界が、「自己の重心の喪失」の中で、やがて個人の心の中にではなく、人間の外部に存在する文律(ぶんりつ)として、それを「支配すべき論理」が思考されるようになってくるという姿に現われ始めます。

 何のことはない、これは「善悪」というものが人間を超えて存在するかのように思考する、「情緒道徳」の思考がそれです。ただし心を病むという問題が関係するのは、それが明らかに個人の自尊心の文脈において、破壊的な攻撃性を帯びて述べられるケースになるでしょう。

 

 私が最近相談対応した事例でも、若い男性の述べた言葉にこんなものがありました。自分よりできの悪い人間が幸せになってたまるか。もっと悲壮感を漂わせるべきなのだ。優秀な人間によって生かされているということを自覚すべきなのだ。彼は私に、「人間の優劣」が何によって決まるかの意見を聞きたがっているようでした。

 私はその論理が正しいか正しくないか以前に、人の感情が「べき」の下にコントロールされるかのように考える幻想的思考を、心の障害として取り組む必要があるという説明をするのに、大分難儀しました。

 

 似たような不条理な思考は、インターネットで心の悩みの掲示板を訪れればすぐ見ることができます。

 「なぜ自殺してはいけないのか」など。その質問を真に受けて訳の分らない話をする大人の言葉の全てが答えにならないのは、恐らく火を見るよりも明らかです。

 そもそも自殺したいという心の状態が、問題であるわけです。それは個人の情動の問題です。

 それを、「いけない」という、個人の外部にある「善悪規律」の問題として問う思考。

 

 実はこのように「こう感じるべき」という文律(ぶんりつ)が宇宙に漂うかのように感じられる感覚は、4章で「愛情要求症候」の2番目に説明した、「自己人格の相手依存」の影響もあります。

 来歴のどこかで、自分のありままの思考や感情を切り捨てた「自己放棄」が起きているのです。

 その結果、自分が「どう感じるべき」かを外部に求め、それに基づいて自分の感情を操縦しようとする基本的姿勢が背景にあります。

 それがやがて、「人間の感情を支配すべき文律」が宇宙に存在するかのような幻想感覚を生み出す、というメカニズムが考えられます。

 

病んだ心に現れる絶対思考の不条理−2

 

 心を病む姿が深刻になるにつれて、「存在の善悪と地位」そして「望む資格」の絶対思考は、その容赦ない残忍な破壊性を増し、他者との間に飛び交わされるだけではなく、自分自身に向けられることになります。こんなやつに望む資格などない、と。

 そこに同時に、常人には理解不可能な論理の思考が現れてきます。それが「自傷」「自虐」の不可解さとして人の目に映ることになります。

 

 「実践編」に登場する最も深刻な事例の女性は、長い「感情分析」の取り組みの中で、頭ごなしの道徳思考に隠されていた残忍な「望む資格思考」を暴露していきました。「望む資格がない奴が高望みする醜さが許せない!」と。

 その中において、彼女自身が自殺企図へ向った思考としてです。

 これは彼女が自分の心の中に、ありのままの自分を受け入れて生きていこうとする心の部分が明らかに芽生えてきた、取り組みの最終局面とも言える時に出された言葉でした。内面の強さが増した分、彼女の心の闇を生み出したものの正体も、はっきりとその情緒論理をさらけ出すようになったのです。

 そんな山場の局面で彼女から述べられた言葉の幾つかが、私にもその時点では意味が不可解なものでした。

 一つは「外面を何も破壊しないで維持し続ける、という時点で激しくフラストレーションを感じる。その時点で負けだと思う」と。それが現実的利益をまったくもたらさない行動であることはもう十分にわかっているはずであるにも関わらずです。

 「負け」とは、誰に対して、何においての「負け」なのか。私のその問いに、彼女は「自分に対して」とだけ答えました。

 もう一つはさらに、意味が不可解というよりも、明らかに、彼女自身の心に芽生えてきた健康な心の部分に、自ら敵対する奇怪な言葉でした。

 「死ななければならないです。こんな状態はだめ、死なずにまただらだら生活を続けるなんてだめです。その弱さを認めちゃいけない。冷静な部分を持ってはいけない」と。

 これは一体何なのか。

 

 思春期において「心を病む」という飛翔とは別の別れ道として、「心の自立」があることを説明しました。病んだ心とは、「心の依存」の世界にとどまった状態です。

 それは特に、先に述べた「自己人格の相手依存」に現れます。自分の心が人の目に依存する。自分の人格の維持が、相手に依存する。そして、人の心が自分を取り囲んでいるという幻想におおわれる。

 しかしその明らかな「依存」とは裏腹に、その融通の効かない極端へと偏った思考は、むしろその中に「自立」さえも追い求めているかのようです。それは頑として、人の言うことを聞き入れようとはしません。感情における依存と、思考における「極端という名の自立」の奇妙な組み合わせが、そこにはあります。

 私が相談対応した比較的深刻な事例のほぼ全てが、人の目に揺らぐ感情に悩む一方で、他人を概して悪人に見る思考観念を抱いていました。この奇妙な組み合わせは一体何なのか。

 私自身の治癒体験と、全ての相談対応経験と、この心理学の全ての整理作業を踏まえた時、それはもはや何の疑いもない命題を浮き上がらせていました。

 

「自分は他人とは違う特別」

 

 病んだ心の根幹に流れる、もはや疑う余地のない最大の命題。

 それは「自分は他人とは違う特別」、なのです。

 

 病んだ心は、それによって支えられているのです。その支えを失った時、病んだ心は自ら「死」を選びます。否、自ら「死」を選ぶことによってその命題を守ろうとするのです。「ただの人間」としてぬるま湯のような現実の中で生き続けている他人とは違うのだ、と。だから、彼女は死を決行できない自分を「負け」だと感じたのです。

 この「他人とは違う特別」は、意識の表面がその材料として何を問題視するかということもある一方、最後にはもはや何の論理性もない漠然とした、それでも決定的な要請として、病んだ心の根核に横たわるようです。

 ですから、意識の表面が自己評価について試行錯誤をしている中で、その表面思考には大した違いはなくとも、ふとしたタイミングのように、この病んだ心の根核に触れた時、病んだ心は自らの存続危機に動揺し、この人間に「死の衝動」を囁くということが起きてきます。

 

 それが例えば私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』では、大学卒業後の就職を模索する思考の中で、今まで自分を支えていた「自分は他人とは違う特別」という感覚の断念と同時に、深刻な希死念慮が初めて出現してきた場面となって表れます。

 私はその思考を自ら日記に記した時、自分の心に起きた変化への明らかな引き金となっている観念に、自ら傍点を入れていました。

 

 白いシャツにネクタイをつけて、スーツを着て、ある程度さまになっているとは思う一方、皆の注目を奪うような容貌の自分というものを求める気持ちを、何となく断念する気分を僕は感じた。そして自分はごく普通のありふれたサラリーマンに・・。

 次に僕は、もはや仕事や将来というものに、これまで持っていたほどの情熱を感じられなくなっていることに気づいた。・・(略)・・いっそ見せつけの自殺でもしようか。そんなことをしたって何の役にも立たないことは分っている・・。

 全てが単なる重荷にしか感じられない。死んだ方がずっと楽だ。自殺するとしたら、やはりタイマーを使っての感電死が最も適切だろう。この考えには現実感を感じる・・。(P.159

 

 自分は他人とは違う特別。

 これが、自他未分離意識の中で、「宇宙の愛」に守られ、自分が宇宙の中心であれた自尊心を奪われた心の、穴埋めと見返しとして抱いた究極的な根核であるのを感じます。

 それは本来、皆と同じように、「存在が善」として生まれたかったのです。しかしそれが妨げられた。

 心はその見返し復讐に、「自分は他の人間とは違う」という絶対感覚を、自尊心衝動への道として選んだのです。今生きるこの現実世界において、自分が宇宙の中心となる特別な存在だと感じる感覚を。

 

自分が「神」になる誤り

 

 この考察は、病んだ心に現れる絶対思考の不条理の先に、自尊心のために人間が抱く外面出来事への絶対思考という問題に、奇妙なシンクロを見出します。

 全てが一つの問題に収斂(しゅうれん)します。

 

 「神」という観念です。その絶対的な特別性の観念です。

 そこにあるのは、人が自らを神だと思い始める、という問題なのです。

 

 現代社会においては、もはや「自分こそが神だ」と公言する者はあまりいません。それはすでに多数の宗教や神話が語られ、万人が崇拝しひれ伏す対象の座に座ろうとする傲慢への(そし)りを受ける恐れがあると同時に、「狂言」と呼ばれる見栄えの良くないものだからに過ぎないようにも思われます。

 事実、現代において人が「自分は神だ」という言葉を出すのは、病んだ心が最も深刻化した時ということになります。

 今年2008年の3月に土浦で起きた8人の無差別殺傷事件を起した金川容疑者が、その一人でした。

 4日前に一度、市内の72歳男性を刺殺した後、自宅に置いた携帯電話のメールに残したのが、「私は神だ」という言葉でした。部屋の壁には赤色のペンキで「死」と書いていたとのことです。

 

 一方で、人は怒る中で、「あるべきではない」「絶対に許せない」という観念を抱きながら、そう怒ったところで現実が変わるわけでもないことを意識の表面では自覚していながらも、怒ることをやめることができません。

 それは、そのように怒れば、人間の世界を支配するべき何かのシナリオの支配者が、その怒りを見届け、世界のシナリオを書き直してくれるはずだとでもいうような幻想の感覚を、頭でというよりも体の芯に染み込ませているからなのです。

 そして人はその「あるべきこと」が「正しい」という「絶対」の感覚を抱きます。それはつまり、自分が世界のシナリオとなるべきものを納めた最高権限の部屋にいるという感覚以外の何ものでもないでしょう。

 その思考論理を見た時、もしこの世に宗教と神話がなく、ただ神の観念だけがあるとすれば、それは明らかに「自分が神だ」とする思考以外の何ものでもないのです。

 

「庇護の幻想」と「あるべき世界」

 

 そもそも「神」という観念は、心理学的には、人間が高度な脳の機能として持つことになった「空想力」によって逆に、あまりにも広範囲な「恐怖」を抱く存在になったことに、その根源的な起源があると考えられます。

 その「恐怖」とは、そのあまりにも多くが、現実に存在する脅威ではなく、可能性を過剰に先取りした恐怖であり、「たたり」「亡霊」のような非現実的な観念への恐怖であり、さらには「死」という、本来恐怖したところでどうにもならない定めへの恐怖です。

 そうした現実を越えた恐怖を抱くごとに、人間は同時に、現実を越えた何か絶対的なものを思い浮かべてそれにすがるという情緒を持つようになった動物でもあります。

 その代表が、言うまでもなく「神」です。

 

 これは「信仰」という人間の一つの大きな思考領域であり、それ自体は、心を病むこととはまた別のテーマです。

 それでも言えるのは、本来現実科学的な思考によって克服が可能な恐怖に対して、現実を超えた絶対的観念に頼る範囲が大きくなるにつれて、当然、この現実世界における日常生活、対人関係や仕事などさまざまな場面でも、何か不合理な絶対思考に頼る傾向が強くなるであろうことです。

 そこに、「心を病む」ことへの決定的な一歩が起きる土壌がより濃くなってくることになります。

 

 人間の「信仰」思考と心を病むことの関係は、詳しく考察するとそれだけで一冊の本が書けてしまうようなテーマですが、ここではごく簡潔に延べておきましょう。

 「心を病む」ことへの土壌につながる、2つのベクトルが生まれることが考えられます。

 

 一つは、「あるべきもの」という観念の不合理な絶対性が高まることです。

 「あるべきもの」という観念は、「庇護」の下で発生します。守られ、愛されることが約束された世界であると同時に、それを受ける者はそれに値する者でなければなりません。だから「あるべき姿のある世界」になります。

 「自立」を成したとき、「あるべき姿のある世界」は消えます。その先には善悪のない大草原の海原が広がり、道をどう切り広くかは何がどう「あるべき」かという善悪の問題よりも、自らが何を望み、何を成すかという意志と行動の問題となります。

 

 ですから、たとえ一般に「信仰」と呼ばれる宗教的思考の持ち主ではなくても、「恐怖」に対する現実科学的思考による克服ができないごとに、人はどうしても無意識の内に「庇護の幻想」の感覚とともに、「あるべきもの」の絶対性の感覚を抱くというメカニズムが考えられます。

 それが、心を病むメカニズムの過程で生まれる、「なるべき自分」そして短絡的な「愛され自尊心」「優越自尊心」「否定できる自尊心」の基準となる理想像に、その絶対性の感覚をより強くつけ加えることになります。

 ただしこの一つ目のベクトルは、これまでの説明に対してあまり新しい話ではありません。人間が「心を病むメカニズム」を本性の一面として持つことと、人間の心にこの広義での「信仰思考」という土壌があることは、かなり重なっていることなのであろうということです。

 

人間の「対等性」と「共感」の喪失・「人間性」の損ない

 

 現実を越えた「絶対的なもの」という観念が「心を病む」ことに関連する2つ目のベクトルが、思春期に至り心を病む飛翔への、決定的な新たな要素を生み出します。

 それはこの個人の、他人全般への「対等性の感覚」の喪失です。

 

 現実を越えた「絶対的なもの」という感覚が、心を病むメカニズムの過程で抱かれる「自尊心」に付加される中で、この個人が、自分を他人とはもはや「同じ人間」だとは思わないような感覚の中で「自尊心」へと駆り立てられるという様相になってくる、ということです。

 その具体的な現れが、この章で焦点を当てた、病んだ心に現れる各種の絶対思考でした。

 「望む資格思考」、「選民思考」にまで向う「存在の善悪と地位幻想」、「人間の感情を支配すべき文律」の幻想、自分の中の健康な心を許すまいとする感情の根底に見える、「自分は他人とは違う特別」という自尊心、そして最後に、その究極的な命題が最も病んだ心においてはっきりと述べられる、「自分が神だ」という言葉。

 それは全て、「人間の存在の地位」をめぐる極端な差異意識の表れだと言えます。

 

 それがこの個人から、「共感」の能力を奪うことになります。

 「他人」というものが、基本的に自分と同じ存在だとは感じられなくなる。

 

 

 これは「愛する能力」が根底で妨げられることでもあります。これが前章で述べたように、心の障害にある人が例外なく抱く、「自分は愛されない」という沈んだ自己否定感情への根底要因になります。心の表面ではどのような「特別に愛される」ための材料を意識していようとです。

 さらにこれは、心の障害にある人が同じく例外なく悩むようになる、自分の「人間性」への不信の感覚の根底原因になります。「人間性」とは、成熟による豊かさを別にするならば、「心の純粋」と「共感能力」が重要な実体要素になるものだからです。

 

 これは次第に、自己否定感情の内容と性質が、「なるべき自分」の理想像を基準にした自己軽蔑や自己処罰というよりも、「なるべき自分」を掲げることになった根底の「根源的自己否定感情」に再び近づいてくることを意味します。

 「根源的自己否定感情」においては、自他未分離意識の中で論理性のない、自分が「生からの拒絶」を受けた存在だという意識として。

 「自己の人間性への不信」においては、自意識の中で「共感」を失い、誰とも心のつながりを持てない、傲慢で自己中心的な人間だという意識として。

 実はこれは、情緒の流れが「自己の絶対性」というテーマに至り、問題の根源が再び意識の俎上(そじょう)に上がり、全ての問題の克服への、明確な課題が姿を現すターニングポイントが訪れることを意味します。

 それがこのあとの流れの中でより明瞭となり、やがて一つの鮮明な課題が浮かび上がっていきます。

 「自意識の罪」としてです。

 

自意識の自己中心性と傲慢・「罪」と「罰」

 

 問題は、思春期になって急速に重みを増す、「人間の存在の地位」への差異意識に、「感情の膿の組み込み」が合流することによって起きます。

 「感情の膿の組み込み」が人の意識表面にもたらす基本的な影響を、3章で説明しました。それはこの世界に「破滅が潜む」というイメージであり、「人に向けられる目」における破滅のイメージです。こんな風に見られたら、もうお終いだ、と。

 

 それが「人間存在の選り分け」に合流する結果とは、「人間の存在の地位」が、この個人の内面において「神」の座から、「うじむし」といった、人間ではない「おぞましい」ものへの嫌悪と怒りに値する存在の座へと、幻想的な極端化を帯びることです。

 これが、今まで述べた「心を病むメカニズム」の全てに反映することになります。なぜならそれは自分と他人という、「人間の存在」をめぐる感情と思考のメカニズムだからです。

 愛情要求と自尊心衝動という、心の中心を占める感情に、「存在の善悪と地位」の論理が伴うようになります。存在の善悪と地位を決する何かの優越性によって、愛と勝利が得られるはずだという論理。

 

 それがここまでの「心を病むメカニズム」の過程に反映された結果とは、自ら人を愛することを全くしないまま、何かの優越性により愛が一方的に自分に与えられることを求める、攻撃的な競争心です。

 そして「否定できる自尊心」によって、ものごとに向ける否定的な目の中で、「望む資格」を容赦なく否定しようとする思考の蔓延になるでしょう。そんな人間に良いものは与えられるべきではない、と。

 これらが「神」の座の栄光から「うじむし」への怒り嫌悪という極端を、揺れ動くものになるわけです。

 

 これはこの人間を、事実、自己中心的で傲慢にします。

 「善」であることは、「自分が誰よりも与えられるべきだ」と宣言するのと同じ位置づけになります。「存在の善悪と地位幻想」の中で、「善」はどうしても「傲慢で利己的な善」と化する性質があります。

 そして心の底に、「罪」「罰」というもう一つの大きな感情テーマを生み出します。

 

 「罪悪感」も心の障害につきものの悪感情です。それは他者への感情や思考に、荒廃化した「人間の選り分け意識」が伴うことで、結果的にどうしても人の心を踏みにじる動きを自らがしていることを、心の底自身が感じ取っていることの表れです。

 これが今まで説明した「心を病むメカニズム」の全ての歯車と組み合わさる姿の説明は、もうこれ以上細かい説明はいいでしょう。一言でそれを言うならば、心を病むメカニズムの中で動く思考と感情の全てが、同時に、「心を踏みにじる」という姿を帯びるようになるということです。

 それは人の心をであり、また同時に、自分の心をということになるでしょう。

 心の表面はこうしたつながりを理解しません。心はその時、「破滅イメージ」に追い詰められた怒りに駆られているからです。そして意識の焦点が自分の深い姿勢に向った時、強い罪悪感が湧き出るという流れになります。

 

 こうして、この人間の心に、「愛」「自尊心」の混乱と喪失という問題にクロスするように、「罪」「罰」という命題が深く影を落とすようになります。

 本人はもはやこうした自分の感情の理由を自覚することは全くできず、心を病む過程が生み出すさまざまな悪感情に、最後にこの「罪と罰」の感情を加えたものが、いわゆる「うつ状態」として人の目に触れることになります。

 

悪魔の契約・心の自立への道

 

 心を病むメカニズムは、以上でほぼ全てとなります。

 その中において、結局人が心を病むという決定的な場面はどこにあるのかと問いた時、再び、「心を病むメカニズム」が作用することと、「心を病む」こととは違う、というパラドックスに戻ります。

 

 「自己操縦心性の発動」にその決定的な意識基盤があることは事実です。しかし自己操縦心性そのものは、程度の差こそあれ現代人に宿命となるものです。

 残された、病んだ心に特有の絶対思考についてこの章で詳しく説明しました。その根核には、自分を神だと考え始める、人間の傲慢があります。しかしこれも、心を病むという現象にとどまらず、人間が犯す基本的な思考の誤りです。

 

 全てが、人間の不完全性として、「未熟」として起きます。

 心を病むとは、自らのその不完全性を受け入れることをできずに、不完全性を拒否した完全なる絶対を求め始める心の「動き」そのものにあります。

 全ての心を病むメカニズムの歯車に、それに惑わされることなく方向修正し、心の成長に向かうための答えがあります。それを学び、実践する積み重ねが、心を成長させます。それはとても地道な歩みです。

 それを一度、「これが駄目だ」と頭越しに否定することで何かが得られるような感覚に足を取られた瞬間、全てが別のものへとさま変わりしてしまいます。心を病むメカニズムの歯車が、そのまま、病んだ心の歯車として人の心を支配します。

 

 その点やはり、「心を病む」ことへの決定的な跳躍台とも言える特別な役割が、「否定価値感覚」にあります。

 否定価値感覚が浮ぶこと自体は、「未熟」の表れです。問題は、自分の心に流れるそうした感覚や感情を受けて、これから自分がどこに向おうとするかなのです。

 自分の心に浮ぶ否定価値感覚さえも受け入れ、前に進む思考をするという選択肢があります。

 それを、「この否定価値感覚が駄目だ」と否定価値感覚を向け始めた時、それは心を病む動きとなる。この一枚の感覚の違いに、治癒成長との分水嶺が現れます。

 それは「今を生きる」ことの喪失です。心は、今を生きる代わりに、「これが駄目だ」と否定できた空想の世界へと、「現実」との接点を失い向っていく。

 

 それが人生において引き起こす問題とは何か。この本を通してさまざまな視点で見てきたその本質は、たった一点の不実な心の転換にあります。

 「自ら望む」という無条件の感情を押し殺し、その代わりに「条件」を通して望む思考に向かう中で、やがてその「条件」が神格化の高みさえ帯びた時、「愛」と「自尊心」の幻想の中で、現実を破壊し始める人間の姿を見るのです。

 そこにホーナイが「悪魔の契約」に例えた、人間の心の罠の悲劇があります。

 

 それが行き着く先とは何か。「罪」と「罰」という最後に加わった要素も加味し、ここで簡潔に述べることができます。

 それは「嘆きと苦しみによる解決」とでも言える事態です。

 嘆くことの中で自分が正しいと感じ、「傲慢で利己的な善」へと向かいます。そして「罪」の意識が生まれる。「苦しみ」は自らに加える「罰」として、成長と向上への具体的思考を欠いたまま、自己の傲慢と自己中心性への中和剤として機能します。

 そして私たち人間にとりごく単純な感覚として、嘆き苦しむ人間はそれだけで高貴なのです。これが自尊心として逆手に取られ、再び自分が宇宙の中心として振舞う情緒の論理に戻るのです。「苦しみ」によって「復讐」の色彩を濃くして。そして全ての歯車の動きの繰り返しです。

 

 その結果はもはや、「憎悪と破壊」の、ひたすらの膨張です。それが「苦しみ」を再び増大させ、駒がこの膨張の始まりに戻る。憎悪と破壊と苦しみの膨張の、永遠の繰り返しが生まれます。

 最終的に生み出されるのは、ただひたすら破壊へと向う感情の塊です。その時、人の心には明らかに、「悪魔」が住み着いています。

 

 解決への出口は、「心の自立」の先にあります。

 なぜなら「心の自立」の中で、全ての問題の根源となった感情の論理が、根底から変わるからです。

 まずそれは「愛」という問題の始まりの感情に現れます。「心の自立」の中で、愛は怒りに変わらないものへと、変化します。

 そして問題の終結となる「罪悪」です。実は「罪悪感」ほど、「庇護の幻想」と「心の自立」の中で位置づけを変える感情はないでしょう。「罪」は「庇護の幻想」の中で、「許される」かどうかという他者との関係の問題となる一方、「心の自立」の中で、「罪」は自分自身の心の根底との関係の問題になるからです。そこに、このメカニズムの過程で混乱と喪失の中にあった、自らの「人間性」の成長へと回復する道が始まります。

 それは「自らが神になる」という過ちを捨てた時に始まります。自らが神になるのをやめた時、人はありのままの人間として生きる成長と、他者との本当の共感と信頼を取り戻すことが可能になるのです。

 

 ですから「取り組み実践」としてここでは、「自ら望む」ことをやめ「条件を通して望む」ようになった不実な転換ということに対応して、2つの大きな指針を言うことができるでしょう。

 一つは、まずは何よりも「心の自立」について、具体的な心の姿勢や思考法などを学ぶことです。

 そしてもう一つは、「条件を通して望む」という過ちの先にある人生の末路を知り、それを越える価値観人生観を築くことです。美貌と才能に恵まれた有名人の自殺は珍しいものではありません。彼彼女は何を求めたことに、人生の道の誤りがあったのか。それを越えるものとは何か。

 

 それは一言でいえば、次の4つの方向性から成るものと言えます。

 (1)「条件」によって「存在の善悪と地位」の高みに昇るという幻想を脱し

 (2)自尊心を「生み出すこと」、およびそのための科学的思考に基盤を置いた思考法と行動法の知恵とノウハウに基盤を置き、それを支えとして、

 (3)荒廃化した「存在の善悪と地位」への衝動を抱く前に、来歴の中で望んだより純粋な望みへと還り、

 (4) それに向かって現実を生きる体験を積み重ねる中にある「成長」へと向かうことです。

 

 そのために、心の基本的な歯車の回し方をどのように変えるのが望ましいかという克服方向性について、この本では同時に説明しました。何度でもじっくり読み返すことで、その基本的理解を深めて頂ければと思います。

 一方、それによって実際に心の治癒と成長に向かうとは、「今の心」では全く知りえない「未知」へと歩むということであり、そのための道しるべが必要になります。

 『下巻 −病んだ心から健康な心への道−』にて、その道のりを詳しく説明していきます。

inserted by FC2 system