心の成長と治癒と豊かさの道 第4巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(下)−病んだ心から健康な心への道−

1章 基本の姿勢と歩み−1  −基本姿勢への3つの大指針−

 

 

病んだ心から健康な心への成長の道・3つの大指針

 

 ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」は、上巻3章で述べた、病んだ心への基本対処指針に、上巻4章以降の、「愛」と「自尊心」をめぐる心理過程への視点を加え、その上で、すでに起きている問題を原点として受け入れて始まる道のりへの視野を築くことによって、支えられるものになります。

 

 つまり、それは極めて大きな指針として、3つの事柄を総合したものになります。

 第1に、感情の本質への一貫とした姿勢を築くことです。

 第2に、自己の真実に向かうことです。

 第3に、現実を生きることです。

 ハイブリッド心理学による「取り組み実践」とは結局何をするのか。これがその説明の始まりになります。

 

 ここではまず、心が病む方向に向いた姿勢を、根本的な治癒と成長に向かい得る姿勢へと方向転換することについて、一通りの取り組み内容を説明します。これは、心の障害傾向が深刻であるほど、深い取り組みが必要になるものと言えます。

 一方、心の障害というほどでもないケースでは、ここで述べる取り組みはあまり意識的に深追いする必要はなく、次章からの、より具体的な人生の前進の歩みへと目を移して頂くことも可能でしょう。

 そうした、ケースに応じた取り組み実践の進み方の違いは、「実践編」にて、具体事例を通して見て頂くこととし、ここでは、心を病む過程への考察を踏まえた、治癒と成長への道のりの全体を説明していきたいと思います。

 

大指針その1:感情への一貫した姿勢の確立

 

 上巻3章で述べた通り、歪んだ感情そのものは、病んだ心が湧き出させるものではありません。それは私たち自身の誤った思考が生み出しているものです。病んだ心は、その強度と表現に、「イメージによる感情の操り」を主なメカニズムとした、極端な歪みをもたらしてしまうのです。

 

 ですからまずは、感情の強度と表現の極端さには惑わされることなく、感情の本質を理解すると同時に、それに対する、心の成長への一貫とした姿勢を確立することが極めて重要になります。

 感情の強度と表現の極端性については緩和措置を取りながら、根本的な克服のために根底となる思考の修正に向う。

 これが、ハイブリッド心理学による取り組み実践の、1つ目の大指針になります。

 

 上巻の説明の全てが、この最初の大指針のためのものです。

 「愛」「自尊心」という、人間の生涯を貫く2大感情について、その本質を理解し、一貫とした姿勢を確立することが大切です。

 これまでの説明で、「愛情要求」「自尊心衝動」という2つの主要な感情が生み出されるメカニズムを説明しました。それは愛と自尊心がまだ未分離なまま、人が出生の中で抱いた最初の「根源的な望み」が停止され、穴埋めと腹いせを帯びた感情として始まります。その短絡的な衝動をどう追っても、愛も、自尊心も得られることはおよそなく、逆にそのどちらをも損なっていく傾向があることを説明しました。

 「愛され自尊心」「打ち負かし自尊心」「否定できる自尊心」から、「生み出す自尊心」への転換が、基本的な指針になります。人生を生きることへの真の自信は、「生み出す自尊心」を基本的な羅針盤にして、望みに向かい現実に向かって全力を尽くして生きる体験の積み重ねのみが生み出すものです。

 

 問題は、「望み」というものを私たちがどう心に捉えることができるかになってくるでしょう。

 心を病む過程とは、望みの停止によって心が荒廃化する過程です。これがすでに起きていることを受け入れ、克服への方向性を見出し歩むことが課題になってきます。

 

 さらに重大な問題が、人がありのままの自分で望む感情を押し殺し、「条件を通して望む」ようになる中で、その条件を手にした別の人間になり切ろうとする心の過程にあります。

 大元の純粋な「望み」の感情が見失われ、「条件」そのものが「望み」であるかのように見えてきます。「条件」によって「望む資格」「与えられる資格」が得られるという、傲慢な思考を抱き始めます。 その背景に「存在の善悪と地位」という幻想が結びつく時、人はありのままの人間としての成長を見失ない、他者への共感を失いってしまいます。

 これが事実、人の心に傲慢な「利己性」と「自己中心性」を生み出します。それが生み出す「踏みにじり」が、「罪」「罰」という新たなる問題を生み出します。

 心の表面は「あるべきもの」を思考する高貴さの感覚に包まれる中で、心の底は、自分が共感を欠いた、傲慢で利己的な心の動きを取っていることを、全て知っています。心に「罪と罰」の感情が流れ、それが再び自分と他人に向けられることになります。

 こうして、自ら望むことをやめ、「条件」を通して望もうとする先に、「条件」が神格化の高みさえ帯びた時、同時に現実を破壊し始める人間の姿を見るのです。

 

 ここに至り、問題は幼少期に起きたことの影響を超え、人間の心に課せられた業の次元へと変化しているのを感じます。感情の本質への一貫した姿勢を探ろうとする私たちの目は、ここで一瞬その視界を失うかも知れません。

 解決と克服への方向性は、「心の自立」の先にあることを述べました。「庇護と依存」の幻想世界から「心の自立」へと旅立つ中で、ここでまだ答えを出していない感情の位置づけが、根本から変わることになるからです。

 

 「存在の善悪と地位」という感覚観念が、人間の抱える深い業であり、その下で成される「踏みにじり」が深い罪であることを、まず知的に理解できることが大切です。

 ナチスによるユダヤ人虐殺のような、人類の歴史を通して人間が犯した全ての罪が、その感覚観念が「正しい」という情緒論理を帯びたところに生まれています。事実、「存在の善悪の地位」の観念が「真実」の感覚さえ帯び、「自分が神だ」という確信にさえ至った時、人の心は明らかに健常のはるか彼方の病んだ心の世界に向かいます。

 

「存在の善悪と地位」と「望み」

 

 一方で、「存在の善悪と地位」が、私たち人間が抱く「望み」に広く影を投げていることを認めなくてはならないでしょう。「なりたい自分」「なるべき自分」の先に、存在が善となり、存在の地位が高い人間になるんだという幻想が背景にあります。

 事実、人がこの世に生まれ、まだ自分と他人との区別さえない自他未分離意識の中で最初に抱いたであろう「望み」を、ハイブリッド心理学では「根源的な望み」と呼んでいます。私たち人間は、もの心つき「自意識」を持つようになる中で、その「根源的な望み」を何らかの程度において損ないながら、その記憶を失う。そんな宿命を持つようになったと、この心理学では考えています。

 その結果、もの心つき「自意識」が芽生えた時、私たちの記憶に始まる「望み」は、何らかの程度において、「穴埋め」と「腹いせ」という荒廃化の要素を帯びた、「存在の善悪と地位」への衝動が大きなものとなる。そのように思われます。

 

 ただし、もしそうした荒廃化の要素がなかったとしても、そこには明らかに、人間の根源的な望みが何か含まれているはずです。

 それは「存在が悪」であるものへの否定糾弾「存在の地位が低い」ものへの軽蔑迫害という、人間性を欠いた負の感情の側面ではなく、「存在が善」であることへの喜びと自尊心と、優れた姿によって「存在の(ほま)れ」にあることへの憧れと望みという、心を満たす正の感情においてのものであったように思われます。

 幼少期に起きる問題の根源の強度に比例して、そうした「存在の善と誉れ」への望みは、荒廃化した「存在の善悪と地位」への衝動へと変化していく。そのような大きなメカニズムがあるものと思われます。

 

「自意識の業」の克服

 

 「存在の善悪と地位」が「望み」に広く影を投げると同時に、人の心に「罪と罰」を生み出す。

 これが「自意識の罪」として、ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」の最後の場面で、自らの心に暴露され、解かれます。その時、全ての問題の解決と、心の真の成長と、人間の真実が姿を現します。

 ここではまだその片鱗の影さえも視界に捉える段階ではありません。この後の、長い道のりの先にそれがあるのです。順を追ってこの道のりを説明していきます。

 

 「愛」と「自尊心」の本質への理解と、一貫した姿勢を模索すると同時に、私たちはまず、「庇護と依存」から「心の自立」への転換の中で変化する感情について、理解を深める必要があります。

 それはまず「罪と罰」になるでしょう。

 「庇護と依存」の中で、それは「許されるかどうか」の問題となり、自己の成長につながりません。

 「心の自立」の中で、「罪と罰」は人に許されるかどうかの問題ではなく、自分自身の人間性をどう方向づけるかという、自らの心の成長の問題となるのです。私たちはこれに対する、一貫とした姿勢を築く必要があります。

 「愛」がその先にあります。これはまさに文豪ドストエフスキー『罪と罰』によって描写したものに符合する流れになりそうです。

 これらがどう解決されるのかを模索する歩みが、ここから始まるのです。

 

 これが、幼少期に始まる今までの過去の問題を概観した、「病んだ心から健康な心への道」のスタートラインになります。

 

大指針その2:自己の真実に向かう・「自己への真摯さ」

 

 心を病むメカニズムについて正確に理解することそのものは、この「病んだ心から健康な心への道」を歩むことを、一歩も意味しません。

 人は問題を正しく認識し、それを決して見逃さずに否定することが解決への一歩だと考えがちです。

 それは誤りです。問題を知ることと、解決を知ることとは、全く別のことなのです。

 

 まずは感情の本質を理解し、一貫とした望ましい姿勢を知る。これが第一歩です。

 そしてそれは人それぞれの問題の多様性にかかわらず、普遍的です。私たちはそれを正しい医学の知識のように学ぶことができます。

 しかし正しい知識を持つことそのものは、「成長」ではありません。それは「成長」への準備に過ぎません。

 「成長」は、そうした正しい知識を携えて、実際の対象に取り組むことから始まります。実際の対象とは、私たち自身の心であり、人生です。そしてそれはすでに来歴において起きている問題を人それぞれが抱える、唯一無二のものであり、それをスタートラインとした、それぞれの「唯一無二の成長」が課題になるのです。

 

 ここで2つ目の大指針を言うことができます。

 それは「自分を知る」ということです。自分をありのままに正確に知るということです。

 

 逆に言えば、心を病む過程とは、ありのままの自分から目をそむけ、自分に嘘をつき自分をごまかした思考におおわれてしまう過程でもあるということです。

 これは1つ目の大指針が見失われた結果起きた問題と言えるでしょう。心の成長への望ましい姿勢を知らないまま、感情の強度と表現に惑わされ、自分自身から逃げ、自己の真実を見失った心の状態が、やはり人それぞれの形ですでに起きていることになります。

 

「自分につく嘘」の過程と克服への指針

 

 事実、心を病むメカニズムには、おおよそ3つの「自分に嘘をつく」過程が含まれます。

 来歴の中で病んだ心の部分を残すごとに、この「自分に嘘をつく」ベクトルが、心の成長への道をこれから歩もうとする中で、今だに作用することになります。

 まずはこれとの格闘が課題になるでしょう。これは事実、深刻な心の障害傾向を抱えたケースほど、茨の道の様相になるのが実情です。ハイブリッド心理学ではそのために、「感情分析」という専門的な取り組み実践を用意しています。

 ここでは、心の障害傾向の有無に関わらず、克服への一般的な指針になることをお伝えしておきましょう。

 

 まず最も意識努力によって取り組みやすい「自分につく嘘」は、短絡的な自尊心衝動を満たそうとして、内実についてのしっかりとした思考がないままに抱いた価値観や理想です。

 これが「自分につく嘘」の第1群と言えます。

 

 「愛され自尊心」のために抱いた、「愛とは自己犠牲」「信頼とは相手を疑わないこと」といった安直な思考。それは悪徳商法の被害にあうための思考法です。

 「打ち負かし自尊心」のために、とにかく人に勝つことだけに駆られ、そこで行なうことの内実価値を見失うケース。ただ偏差値で上にいくことだけを考え、人生の楽しみ喜びなど無縁の、ストレスに駆られた人生を送るという、実によく見かける世の人の姿があります。これも、短絡的な自尊心衝動によって、「人生とはこんなもの」と自分についた嘘と言えます。

 「否定できる自尊心」の中で、ただ物事の悪い面にだけ目をむけ、破壊だけに向かうようになった心。それを自尊心だと考えるなら、その底には実は、本当は自分では何も生み出させないという損なわれた自尊心があるのかも知れません。

 これらに、まずは向き合うことです。「生み出す自尊心」が、そうした虚構の自尊心を解くと共に、明確な答えの方向性を指し示してくれるはずです。また次の「現実を生きる」という大指針の中で、多くの答えが見出されることになるでしょう。

 深刻なケースでは、こうした価値観思考が、来歴における「自己放棄」の影響によって、人の言葉を受け売りするだけのような浅薄な思考の蔓延したものになりがちです。まず自分自身のしっかりした考えを模索するという、ゼロからの地道な歩みが時に必要になります。

 

「自己理想像の取り下げ」との死闘

 

 意識努力によって取り組みたい、第2群の、そして最も本格的な「自分につく嘘」は、「自己理想像の取り下げ」になるでしょう。これこそが、「望みの停止」により「情動の荒廃化」を引き起こし心が悪化する、本流過程だからです。

 

 人が「自己理想像の取り下げ」の引き金として意識する心理は、主に2つあります。

 一つは自尊心の過程を概観した上巻6章で主に触れた、「自己処罰感情」への恐れです。

 そしてもう一つが、前章で焦点を当てた、「存在の善悪と地位幻想」からの、「望む資格思考」です。

 いずれにせよ、自己理想を断念するという心の過程が、それを望む自分の気持ちにしっかりと向きあうことなく、安直にあるいは頭ごしに自己理想像を切り捨てるという取り下げの側面を帯びるごとに、それは「情動の荒廃化」という代償を生み出すものになるというメカニズムを言うことができます。

 それに対して、自己理想を望む自分の感情をしっかりと受けとめた上で、その理想内容の妥当性について、先に述べた短絡的自尊心衝動の見直しなども含めた検討をしたり、とことん自分の可能性と現実の壁を確かめるような向き合いをするごとに、その歩みは、たとえ実際に自己理想に到達できない結果になったとしても、心の荒廃化を招くことはなく、逆に心の豊かさを生み出すことにつながります。

 

 そのために、来歴の中で一度行った「自己理想像の取り下げ」をくつがえすことは、「死闘」とも言える苦しい歩みになるのが実情であるように感じます。

 それはまさに綺麗事ではありません。「自己理想像の取り下げ」をかつて自分にさせた悪感情の全てに、恐らく再度対面することになるからです。それに対して、ここで述べている大指針の全てを動員し、自己理想への自分の感情の新たなる確定を見出す必要があるのです。

 それが「死闘」とも言える姿とは、例えば私の『悲しみの彼方への旅』では次のような場面でした。

 

 しかしこの時、私の中でターニングポイントとも言うべき変化が起きていました。一度、完全に偽りのない自己の本心に立つことで、そこから死にもの狂いで自己を確立しようとする意志が生まれていたのです。

 この、どうしようもないほどの自分への怒りに取り組むためには、どうすれば良いのか・・。

 今まで、「自分の容貌など気にしない」ことが望ましいことだと感じていた。だが結局僕は自分の容貌を気にしているし、美貌であることが自分にとって重要なことだと感じている。この気持ちを断念することなどでは全くないはずだ。

 自分の容貌を気にする自分などあの子にふさわしくないと考えていた。だが「容貌など気にしない」ことで、代わりに性格の豊かさが与えられるわけでもない。ならば僕は彼女に与えることができる自分の価値としても、外見を良くする努力をすることの方が正しいように思える。かなり目立つようになってしまったこの顔の歪みは、とにかく何とかしたい・・。

 そうして私は、歯医者に通い、親不知を抜き始めます。(P.74

 

 ちなみに私自身はこのように、自分の外見を良くしたいという願望もとことん追求する前半生を持ちました。それはやはり「存在の地位」への衝動も伴う中で、容姿才能性格という人間の3大魅力価値を望む人間のごく自然な本能として、私には作用していたものと感じます。

 それがここで説明しているような向き合い姿勢の中で、自分の外見への願望は、人の目の中での輝きというものから、ごく自分だけでも楽しむものへと変化し、最後には外見への願望そのものが私の中で消滅しつつある今日この頃を感じています。

 こうした、「望みに向かう」ことの先にある心の境地の変遷が、この「病んだ心から健康な心への道」の最大のテーマになるものと言えます。最後に見出すのは、驚くべきどんでん返しとも言える、人間の心の真実であることを、ここで前触れしておきましょう。

 

「自己理想像の取り下げ」からの抜け出し指針

 

 いずれにせよ、それぞれの人がどんな自己理想をどこまで追うのが良いかに、既定の答えはありません。

 そもそも人が自分の容姿才能性格をどう高めたいと望むかは、それぞれが生まれ持った資質を持ち駒とした上で、どんな容姿才能性格がどんな重みで人に好まれるかという時代や地域の背景によって、どうにでも変化することです。その範囲で人がどうそれを望もうが無頓着であろうが、心理学的には全く口を挟む問題はありません。

 心理学的に問題になってくるのは、一度心に芽生えた「望み」「自己理想像」に対してどのような姿勢を取るかです。

 

 もし「自己理想像の取り下げ」が起きているようであれば、引き金として意識する2つの主な心理に対応して、抜け出すための指針があります。

 

 一つは自己処罰感情への恐れからの場合。ごく一般的には「失敗への恐れ」でもあります。

 

 これはまずはごく単純に、自己理想に近づくための現実的な知恵とノウハウが不足してる面を改善することを、ハイブリッド心理学からはお勧めします。

 ごく単純に、思考法と行動法のノウハウが不足しているのです。実に単純な話です。正しい知恵とノウハウを、まず仕入れることです。

 これは、「入門編」から指摘している情緒道徳的な思考や、自尊心のための思考法として望ましくないものとして指摘した非科学的思考の影響がかなりあります。「気持ちが大切」「欲を追わずに」といった「精神論」「気持ち論」ばかりが思考をおおい、ごく現実的な知恵とノウハウがすっかり視野から消えているケースが大部分です。それは時に、現実的解法を知れば1秒で済む問題を、精神論によってああでもないこうでもないと一生考えあぐねているようなありさまです。

 

 ですから、「失敗への恐怖」を前にしり込みするのをどう克服するかという、一見するとごく心理学向きの課題に対しては、ハイブリッド心理学ではむしろ、まずは心理学以前ともいえるような、ごく実践的な思考法行動法の知恵とノウハウのアドバイスを、相談事例では行うようにしています。多くの問題が、あっけないほど簡単に解決してしまったりするのです。

 つまり「失敗への恐怖」に最初から取り組もうとするのはあまり良い方法ではありません。「成功へのノウハウ」にまず取り組めばいいのです。

 それが習得されるごとに、ごく現実的なノウハウ不足に基づく「自己理想の取り下げ」は、自然に捨て去られていくでしょう。

 

「恐怖を消す」ことを課題に考える根本的誤り

 

 ここでさらに、世の人々が「恐怖」に対して取りがちな、根本的に誤った姿勢を指摘することができます。

 それは「恐怖」を感じることを良くないことだと考え、「恐怖を消す」ことが課題だと考え始める姿勢です。

 これは完全な誤りです。まさにその姿勢によって、人は「恐怖の克服」から大きく遠ざけられます。

 「恐怖を消す」ことが課題なのではありません。恐怖が起きる状況にある、現実問題に正しく対処できることが課題なのです。それを着実に実践するごとに、恐怖は意識して消そうとすることなく根底から消えていきます。

 

 一方で多くの人が、恐怖を感じる自分をふがいないと感じ、「恐怖を感じないことが課題」だと考え、「どうすれば恐怖のない自分になれるか」と、そこにあったはずの現実問題をすっかり視野の外に置いて、ただ自分の心にじっと見入ることを始めてしまうのです。

 その結果は、ほぼ例外ない、そこにあったはずの現実問題全体からの逃避です。それは実際の外面的な逃避であったり、内面において「気にしなければいい」といった安直な思考で、問題対処思考を捨ててしまうことであったりするでしょう。

 あるいは、そこにあったはずの現実問題を見失ったまま、すっかり関係ない方法で自分の心を「鍛えよう」と考え始めるかも知れません。そうして「対人恐怖」に悩む人が、街頭でいきなり大声で歌を歌うといった「訓練」を考えている話を聞いて、思わず絶句したことがあるのは「入門編」でも話した通りです。

 

 「恐怖の克服」は、「恐怖を消す」のではなく、「現実問題を正しく知る」ことが答えです。そして科学的思考と、現実問題への知恵とノウハウを携え、最後には恐怖を感じるままそこに向かうことが答えになります。その先に恐怖は根底から消えます。

 これはこの「病んだ心から健康な心への道」で一貫して歩む、一つの側面になります。

 

「自己の真の望み」への格闘

 

 さらに深い問題は、どうしても失敗への恐怖が残らざるを得ないような、重大な望みと自己理想を、人が断念する過程にあります。

 それはごく一般的な失敗への不安として始まったとして、やがて人は「自分にはそんなものは」「どうせ自分には」といった思考の中で、自分の可能性を自ら閉ざすことに至ります。

 そして人生そのものが、見失われるのです。

 その時人は、主に「望む資格思考」という観念の中で、それが「正しい」ことなのだ、と考えます。

 そこに、本来「望み」と「現実」があり、「努力」と「可能性」と「限界」があるというダイナミックな命の過程が消え去り、「正しいかどうか」という「善悪」の論理命題として、全てが命の動きを止める、人間の心の闇が現れます。

 

 この、「望まないのが正しい」という命題によって見失われた「望み」と「自己理想」への向き合いが、「死闘」の様相にもなり得るものであり、そうして死のものぐるいで「望み」を模索し続けるということが、ここで説明している3つの大指針による総合的な歩みの方向なのだと言うことができます。

 

 人生を生きる真の自信は、望みに向かい現実に向かう体験のみが生み出す。これをこの心理学の原点として説明しました。しかしそれは「正しい望み」がうまく見つかってから始まる、というようなものではありません。

 自分にとって真実と言える望みを死にものぐるいで探していく歩みが、この心理学の実践の歩みなのです。真の望みが分ってこの歩みが始まるのではなく、これは真の望みに近づいていく歩みなのです。

 そのための、まずは基本姿勢を、3つの大指針として説明しています。

 

 感情の本質を理解し、一貫とした姿勢を見出すことです。それが自己理想のあり方も変え始めるでしょう。

 今まで起きている自分への嘘の過程の全てに、再度向き合う必要があります。感情の本質への理解と一貫した姿勢を踏まえて、全ての思考を見直し、しっかりとした自分の考え方を持てるようにします。現実的な思考法行動法のノウハウも学びます。当然、自己理想も次第に現実性のあるものを描くことができるようになるはずです。

 「望む資格思考」の底に潜む、人間の、そして自己の心の闇に向き合うことが必要です。もし自分の望みと自己理想に傲慢な「存在の善悪と地位」への衝動が含まれていた時は、自分の望みを悪として断じるのではなく、1)対等な権利を尊重する健康な社会から見て理不尽で不条理な情緒論理部分を正しく認識するとともに、2)「存在の善悪と地位への条件」という意味合いを除いた、純粋なその内実に自分が感じている魅力や願望を感じ分けることが、この心理学の取り組みになります。2)「感情分析」の実践になります。

 

 どんな望みや自己理想であっても、そこに「生み出す」ことにつながる要素がある限り、それに向かう姿勢が大切になります。

 なぜなら、望ましくない側面を含むもの全てを否定し断じることによって、自分が何かを得るという感覚に陥った時、まさに人が自分が全ての人間の存在を審判する神の座にあると考え始める、病んだ心の世界への飛翔台が現れるからです。

 事実、そこから「病んだ心」が駆動を始めていたのです。傲慢な自己中心性に駆られながら「罪と罰」の感情に追い立てられ、「嘆きと苦しみによる解決」が行く着く先となり、苦しみと憎悪が膨張する中でただひたすら破壊へと向かう感情の塊が生み出される心がです。

 

「望みの停止」の底に横たわる「ニセへの憎悪」の心の闇

 

 ここでもう一つ、人が自ら望むことをやめてしまう根底で起きている特別な心理メカニズムを理解しておくのが良いでしょう。心の障害傾向の深刻さとほぼイコールの重さで、この道のりですぐ向き合わなければならない、問題の根核とも言えるものになるからです。

 

 それは「ニセへの憎悪」です。

 これが問題の始まりの深刻さに等しい激しさで、この人間の心の底に横たわっています。

 そしてこの心理の起源そのものは、もはや病んだものではなく、むしろ人間の真実とも言えるものがあることに、解くことが極めて困難になる深い問題が起きることになります。

 

 それは心の純粋への深い願いであり、それを損なったものへの激しい憎しみです。

 この始まりは、2章で解説した幼少期の問題の始まりにおいて起きていました。それは「世界に嘘が潜む」という感覚です。

 事実、この問題の始まりが起きた時、この子供を取り囲んでいた大人達に嘘が充満していたのは間違いないと思われる事態があります。それがこの人間の人生の挫折の全ての大元である、「根源的自己否定感情」を生み出したのです。

 それに対する、激しい憎しみがあります。

 

 そしてこれに始まる「心を病むメカニズム」の過程とは、自ら望む時、自分がニセとして望まなければならないことになる宿命があるメカニズムなのです。

 なぜならそれは根源的自己否定感情を否定し去るために駆動するメカニズムだからです。生から受けた拒絶などなかった自分を演じるために。

 これが第3の「自分につく嘘」であり、もはやこれは意識努力で解くことはできません。この「自分につく嘘」が成されてから、意識が始まるからです。

 これが現実のこの人間の心の状況と合わせて生み出す結果とは、自ら望もうとして湧き出る感情とは、あさましい貪欲さで存在の善と地位をむさぼろうとして別人を演じようとする、ニセの者の情動の姿になってしまうのです!

 これはまさに、この人間自身が来歴の中で激しく憎んだものそのものです。

 これが本人の意識に暴露される状況を、私は『悲しみの彼方への旅』で次のように描写しました。

 

 本当の愛なんてない。自分は真実を知っている。真実の愛に一番近いのはこの自分だ。

 僕の中には、自分があの子に対して他の人にはない純粋で真実の愛を自分が持っていると思おうとする気持ちがある・・。愛が僕にとって最も大きな問題のようです。

 自分の心を透かした先に見えてくるのは、想念だけの愛を押しつける不実な傲慢と、相手を操縦し、振り向かせ、利用し、枯渇した自分の心を満たそうと相手の情動を吸い取る、搾取もしくは寄生とも言うべき、人間の一つのおぞましい存在様式でした。

 私はそれを来歴の中で憎んできました。そして今まさに、私は自分が憎んだものの正体を、自分自身の中に感じ始めていたのです。

 逃げるような身構えの中で愛を語る不実。

 その裏には、自分自身への秘められた糾弾がありました。それが暴かれたとき、私は無力に崩れ落ち、全てを失い、自らによって偽者の烙印を押された無様な姿を晒すのです。(P.299

 

 かくしてこの人間は、自ら望むことは絶対にできなくなります。絶対にです!

 「自分がニセになる恐怖」はさらに、あらゆる「努力」への禁避(きんひ)(タブー)姿勢となって「無気力無関心」を引き起こし、「引きこもり」の原因になったり、人に励まされることへの憎悪にも近い嫌悪をしばしば生み出します。うつ病の人を励ますのが逆効果だと言われる原因の一つが、これにあります。

 

 心を病む過程においては、この心の底の闇が、「望む資格思考」が「正しい」という情緒命題を伴うことで、葬り去られます。

 結果として心の表面に現れるのは、全ての他人に「ニセ」を映し出し、それを糾弾し、激しく怒りと憎しみを向け、そんな他人どもに良いものが与えられる資格など、そして望む資格などないという攻撃的な思考の中で生きるという、病んだ心の典型的な姿です。

 事実ここに、「存在の善悪と地位」を求め始めた人間が、「根源的自己否定感情」という心を病む宿命を裏にして、自意識の傲慢な自己中心性の「罪」に圧迫されながら、「嘆きと苦しみによる解決」の地獄へと向かう、心を病むメカニズムの大きな根核が完成するのです。

 

 解決の出口は、「心の自立」の先にあります。それは、このような心の闇の問題からも克服に向かう出口なのです。

 

 この根核が情緒的な圧迫源として心に潜む程度は、人それぞれです。それはまず、最初の表面では見ることはできません。言えるのは、他人に対する硬直したマイナス感情が心をおおっているケースほど、この根核が激しいものとして潜んでいるであろうということになるでしょう。

 いずれにせよ、ハイブリッド心理学ではそれを無理に掘り起こそうとするアプローチは考えていません。ここで3つの大指針として述べている通り、まず感情への一貫とした姿勢を学びます。そこに、「存在の善悪と地位」の不条理性への理解が、重要なステップとして含まれます。

 そして「心の自立」の先に、全ての根底論理が変化する世界を、見据えるのです。そこにこの根核が解かれる、この心理学の歩みの最後の場面が訪れます。

 この3つの大指針への姿勢が培われるごとに、それはより清明さを増し、自己の成長という報酬がより確実なものとして、通りやすくなるでしょう。

 

「自己への真摯さ」の重要性

 

 このような克服への歩みに向かう基本的な姿勢として、「自己を知る」「自己の真実に向かう」という、強い姿勢が大切になります。

 これはホーナイが「自己への真摯さ」として、治癒と成長への最大の原動力として指摘したものでもありました。

 

 もはや心理学以前の問題として、物事を自分の頭でしっかり吟味しながら考える思考の習慣の有無が問われるでしょう。心を病む過程とは、まさにそれとは正反対方向へと人を誘惑する要因に満ちているものだからです。それに流され、「自己への真摯」を失った思考を身につけるごとに、全てが混乱の中で出口を失います。

 「逃げ」「ごまかし」「いい逃れ」といった思考の型が典型的問題になります。「だって」「どうせ」「でも」といった接続詞で思考がつながる中で、最初に認識した自己の問題が消えてしまうのが典型的です。結局、自分の問題を自分で把握して向上を考えるという内容が、何もなくなってしまうのです。

 その結果至るのが、「人はこう」「人がどう」と、思考の重心がことごとく他人へと向かう、「自己の重心の喪失」思考になります。

 

 第1群の「自分につく嘘」への対処として述べた通り、短絡的な自尊心衝動に流れてしっかりした内実がないままに抱いた価値観や理想を見直し、その目を自分に向けることです。

 そして第2群の「自分につく嘘」として指摘した「理想像の取り下げ」への対処である、現実的ノウハウの目で自分を助ける道を考える。これがまず指針になります。

 それがこの後の歩みの中で、第3の「自分につく嘘」を根底から突破するための成長につながります。

 

大指針その3:現実を生きる

 

 「現実を生きる」という3つ目の大原則は、「現実的な知恵とノウハウ」や、「自己の真実に向かう」こことして、今までの話ですでに出始めています。

 あらためて「現実を生きる」という姿勢が持つ側面をまとめると、次の3つになります。

 

 (1)「精神論」「気持ち論」ではない、現実を生きる知恵とノウハウ。これについて先に指摘しました。これをうまく仕入れることが大切です。

 ここで一つ述べておくならば、「社会を生きるスキル」の正しい内容は、学校や家庭で教えられるものとは全く違うのが現実です。これは驚愕すべき状況です。私はこれを社会人生活の中で、かなり良い仕事に恵まれる幸運によって、初めて知りました。

 それはまさに実際に社会に出る前に伝えられた「やる気」「社会人マナー」と言った「精神論」「気持ち論」とは別世界の、「役割」「根本目的」さらには「価値の創出」といった知的な原則によるものです。

 このより詳しい内容を、「実践編」を皮切りにして説明していきます。

 

 (2)「感情」が起きる基本的メカニズムから、「現実を生きる」ということの基本的な位置づけを説明することができます。これをこの後説明します。

 

 (3)「自分」というものを自意識の空想で捉えることの誤り。これは7章で自意識の根本的な不完全さとして説明しました。これがまさに心を病む第一歩として作用します。

 従って、自意識の空想ではなく、「現実の中で身をもって自分を知る」という具体的な心の姿勢を習得することが極めて重要になってきます。

 

「自意識」で「自分」を考える罠

 

 「自意識」、つまり行動を止めた空想の中で意識する「自分」として捉えたものを「自分」だと考えた時、人は心の成長を見失います。

 なぜなら本来の「自分」とは「現実行動」の「自分」であって、自意識の空想の中で抱く「自分」は、あくまで「現実の自分」を変える先の目標として抱くのが正しい「意識の使い方」です。

 それを、自意識の中で抱く「自分」を「自分」だと感じ始めると、人は「現実の自分を変える」ということの実質がどんなものなのかを、すっかり見失うのです。

 

 ただし先に述べた第3の「自分につく嘘」、つまり根源的自己否定感情の塗り消しにおいては、「自意識」というものが、その構造そのものにおいて、現実の自分そして自己の真実を(あざむ)こうとする内容で生み出されます。

 その結果、「現実の自己の向上」を人にむしろ否定させるものとして働くようにさえなってしまいます。

 つまり「自意識」とは、本来人間がより豊かさを獲得するために生まれた心の機能でありながらも、結果的にはむしろそれを妨害し、自ら「現実を貧困化」させるように人間自身を陥れるものと化したという、心理学的事実があります。

 

 ですから、私たちは、この「自意識」というものの罠をよく理解し、それに惑わされることのない、「現実を生きる」という意識姿勢の具体的な内容を学ぶことが大切になってきます。

 その意味、ここから始まるハイブリッド心理学の歩みの道とは、基本的に「自意識」という人間の業から抜け出す道とも位置づけられるものになるのです。

 

 ここでは上記3側面のうちの後ろ2つ、つまり「感情」が生まれる基本的メカニズムを理解し、それに正しく沿った、現実行動の中で身をもって自分を知っていき、そこから向上への具体的思考法行動法を考えるという姿勢について、詳しく説明しておきます。

 

「感情」は「心の現実」が決定する

 

 まず、「感情」というものがそもそもどのようなメカニズムで決まるのかを理解することが大切です。

 それを無視して「感情」を良くしようとする努力は、当然、ことごとく無駄になり、さらには大抵の場合、裏目に出てしまいます。

 

 「感情」は、心を取り巻く現実状況全体、つまり「心の現実」の全体結果として、心のメカニズムによる所定のものが流れるようにできています。それを小手先の思考で変えようとするのは、全くの無駄です。

 「感情をコントロールする」と良くいいますが、それは感情を生み出す「心の現実状況」をうまくコントロールするということなのです。

 

 一方、人間の高度な脳には、感情を多少自分で意識して調整する機能が備わっています。

 「感情の演技」「感情の強制」と呼べる心の機能です。「こんな感情」という「イメージ」を浮かべ、その型に合わせて心を(しぼ)りだすとでも言える意識の使い方になります。

 この「感情の強制」は、息を止めて思いきり力むと頭に血が昇るという、まさにそれを比喩ではなく実際の生理的変化として多少とも伴う、いわば「心の無酸素運動」です。こんなものを行う機能が、人間の心にはあるのですね。

 他ならぬその神経生理的圧力部分が、人に「ストレス」として知覚されるものの正体です。

 この「感情の強制」を「感情をコントロ−ル」することだと勘違いして、人生で多用するようになると、はっきり言って、心が壊れます。そうして心そのものがコントロ−ルの効かないものになってしまうのが「心の病」として表面化することは、3章でも説明した通りです。

 

「心の現実」とは何か

 

 では感情が結局それにより決まる、「心の現実」とは何か。

 これは一見してかなり複雑なものと感じるかも知れませんが、実はかなり単純な構造であるのが、どうやら正解のようです。

 それは結局、(1)「欲求」がどう満たされているか、(2) 「望み」にどう向かっているか

 この、たった2つの構造から成るようです。

 

 これは、脳の構造から、(1)身体生理のレベルと、(2)高度な精神レベルという2層から構成されると考えるのが分りやすいでしょう。

 人間の場合、「高度な精神レベル」に、さらに意識表面無意識層が分かれるという構造が考えられます。ここが少し話が複雑になる部分です。

 

 こうした「階層構造」の考えは、もちろん私のオリジナルではなく、脳科学では常識です。動物の進化とともに、原始的な脳神経の層の上に、より高度な脳神経の層が次々と積み重なって加えられていきます。

 そして一般に、上位の層が積み重なると、下位の層の機能は吸収され、上位の層の機能が前面に出ます。

 ですから、私たちも、膝の下を叩くと足が勝手に動く神経反射の機能があるのですが、普段はそうした反射ではなく、私たち自身の「意志」という上位の脳機能が前面になって、手足を動かしているわけです。

 

 何を言いたいのかというと、「心の現実」とは結局、「望み」にどう向かっているかなのだ、ということです!

 どんな望みがあるか。それをどう意識表面が自覚して、どんな姿勢でいるか。そして望みの自覚から充足までのどんな段階にいるか。心が望みをしっかりと受けとめて、全力で向かうことができているか。

 「欲求」がどう満たされるかという、短期的な事柄は、「心の現実」においてはもはやあまり優勢でなくなるのが人間の場合です。ですから、どう「欲求」を満たそうと空しさが伴うという人間心理が起きるメカニズムが、ここでご理解頂けると思います。

 

 一方で、人間は「望み」について、自ら望むことをやめ条件を通して望むという、「望み」をありのままに自覚し一直線に向かうのとはおおよそ異なる、屈折し、錯綜したあらぬ思考を抱くことになった存在です。

 つまり、人間は自分の感情を決定する自分自身の「心の現実」を、全く正しく自覚しない存在になってしまったのです。

 かくして、「感情」はコントロールを失い、糸の切れた凧のように、進む先が不明なものになってしまいます。

意識の表面は「現実」から目をそらすことができても、心の底は「現実」を見ることをやめることはありません。さらには、意識の表面が「心の現実」から目をそらしているという事実を、さらに一つの「心の現実」として感知し、「現実を生きることのできない自分」という自己卑下感情を流すのです。

 

 事実はこうです。自分の「心の現実」への視界を失い、現実外界に対しても科学的思考を(おこた)り、情緒道徳の思考の中で「気持ちが大切」とばかりに、コントロールを失った自分の感情に見入る。

 その背景には、ここまで説明した心を病むメカニズム過程の終着として、「存在の善悪と地位」への衝動と「ニセへの憎悪」があります。

 その結果とは、「自分がどんな感情であれているか」の一点に、「存在の善悪と地位」の高揚の幻想と、「ニセへの憎悪」が自分自身に向かってくる破滅への不安の幻想が、自己循環の中で暴走を始めるという姿です。

 「感情がこうであれば」という表面の硬い思考の底に、広大な幻想の世界があります。「こんな感情」であれば人に愛され賞賛される。「こんな感情」の自分は白い目で見られる。そんな風に見られたら、もうお終いだ・・。

 そうして現実行動との接点を失った中で、気分の昇降の極端さが「健常性」を失ったものとして表面化したものが、「躁うつ障害」と診断されることになります。

 

「現実を生きる」ことを支点にした人生の再建

 

 もしそうした状態が起きているのであれば、まずはそれを、「心の現実」として、ありのままに知ることです。

 そこから、自分の感情がどのように生み出されているのかという、ブレのない視野を取り戻し、着実なコントロールを取り戻した、治癒と成長への歩みが始まるからです。

 ハイブリッド心理学の取り組み実践とはそのように、自己の生き方と、思考法と行動法の全てを、自分がどう「望みに向かい現実に向かう」ことをしているのかという「心の現実」の視点から把握し直し、感情への一貫とした姿勢の下で、それを全面的に再建する取り組みなのだと言えます。

 当然、「人がこうしたから」「人にこう見られたから」といった、「自己の重心」を喪失した思考とは、全く別世界の思考をするようになることを意味します。

 

 それを、単に頭の中の思考作業によって行うのではなく、「現実を生きる」という体験を通して積み重ねていくのが、この心理学の実践の歩みです。

 頭の中の思考作業だけでできるのは、感情の本質を理解し、一貫とした姿勢の望ましいものを学ぶことまでです。それを単純に自分に当てはめることが、歩みになることはありません。心の底は、そこで再び自分につく嘘の中で、自己の真の望みから遠ざかっている自分を、しっかり見ているのですから。

 感情の本質と一貫した姿勢を学ぶ先は、全てが「現実の体験」の中に現れます。自分が本当にはどんな感情を抱いているのかも。それを受けて、自分がこれからどこに向かおうとするのかも。

 それを心の中にほとばしらせる「現実を生きる体験」に、身を委ねることです。そうして現実の自分を知り、現実の社会と世界を知り、それを生きる時間に心を晒すことです

 

 それが、「心を解き放つ」ということなのです。

 

重要な通り道を知る

 

 「病んだ心から健康な心への道」への、基本姿勢について説明してきました。

 これは自分が向く方角を、今までの生き方から、新しい生き方へと向き直すという段階の話です。まだ歩みの前進はしていません。

 この先は、実際にこの道を歩むことで、どんな通過点があり、どんなゴ−ルがあるのかの、おおよその地図を持つ必要があります。それを次章から説明します。

 

 ここでは、そうした通過点のために、特に重要な事前知識を、3つほど簡潔にお知らせしておきます。

 1つ目に、「建設的絶望」という通り道があること。

 2つ目に、感情への一貫した姿勢として、「現実世界における罪と罰」への理解が重要であること。

 3つ目に、「存在の善悪と地位」の衝動への向き合い方。これは先に「真の望みへの死闘」として、「生み出す要素がある限り向かうことが大切」と指摘しましたが、さらに詳しく説明しておきます。これが、この歩みのゴールへと直結するものになるからです。

 

「建設的絶望」の通り道

 

 自分がどう「望み」に向かうことができているかに真正面から向き合うことは、人を「真の望み」に近づける道をひらくと同時に、すでに起きていたにもかかわらず目をそむけ続けていた望みの挫折、つまり人生における「絶望」に、人の心を晒させることになるかも知れません。

 これはもちろん「すでに起きていた絶望」に限られる話ではありません。「望み」に、より真摯に向き合うほどに、私たちはより明瞭に、そしてより直接的に、それがこの現実世界において叶えられるものではないという「限界」と、その先にある「絶望」に、心を晒すことになります。

 

 これがむしろ逆に、「真の望みに近づく」上での、極めて重要な意味を持ってきます。なぜなら、私たちの「望み」が概して「穴埋め」と「腹いせ」の心理を帯びている時、その「誤った望み」に一度絶望することが、「誤った望み」に惑わされ見えないままでいた、「真の望み」への視界が回復することが考えられるからです。

 これを「建設的絶望」と呼んでいます。

 心の障害傾向が深刻であるほど、その大きな通り道が現れることが考えられます。この詳しい内容を、次章以降で説明します。

 

現実世界における「罪」と「罰」

 

 そうした「建設的絶望」を通る時に問われてくるのが、何よりも「罪」と「罰」への私たち自身の思考になるでしょう。

 なぜなら「絶望」とは、「自己と現実の限界」への直面という基本状況に加えて、ケースバイケースで、自己の「罪」への直面という状況も加えるものとして起きるものだからです。

 心を病む過程においては、「存在の善悪と地位」への衝動の中で自らが帯びた「傲慢な利己性と自己中心性」が、「絶望」とともに前面に現れる「罪と罰」において、「自己の罪」としてスポットライトを受けることになります。

 これが事実、心を病む過程の中で人の心に生まれた闇の、最大の転換点になるはずです。

 

 人は心を病む過程において、自ら望むことをやめること、そして他人の中に「傲慢な利己性と自己中心性」を映し出し、それを否定糾弾することによって自己の高潔さを感じるという思考の道を選びます。

 そしてその高潔さにおいて自分が誰よりも与えられるべきだと主張する、傲慢な自己中心性に再び向かうのです。ここに、「嘆きと苦しみによる解決」だけが向かう先となる、メビウスの輪が生まれます。

 自ら望むことを選んだ時、この全てが覆ります。

 「嘆きと苦しみによる解決」が解かれる一方、自己の傲慢の罪がこの人の心自身に、白日の下に晒されると同時に、自らの罪を他人に押しつけた罪という、重ね加えられた罪をこの人間は背負うことになるのです。

 

 私たちはそれに対する、つまり「罪」と「罰」のあり方についての一貫とした姿勢を確立する必要があります。

 罪と罰への姿勢として意味を持つのは、こうした出来事が起きる前に確立していた姿勢です。特に、内面における罪と罰の受けとめ方においてはです。

 この心理学が採用する思想においては、「罰」は、それが犯した現実的そして客観的な罪に対して、適切な釣り合いで成されるべきです。人はその内面感情によって罰を受けるべきではありません。

 内面感情は、客観的外面における適切な罰を受けることにおいて、その人自身の心がそれを受けとめる成長に任せるのが良いのです。

 

 一方、人は心を病む姿勢の中で、内面感情の良し悪しを問い、罰を向けようとします。

 「感情のあるべき姿」を考えるのです。そして「あるべき感情」とは違うらしいものに激しい怒りを向けます。「望む資格」を剥奪することが、罰になります。

 これが当然、自分自身の心にはね返ってくるわけです。

 「あるべき感情」とは違う感情を抱くごとに、自分に望む資格などないと考え、情動の荒廃化を自ら推進します。欲求はさらにすさんで貪欲となり、その野蛮な利己性を他人に映し出して、本来は見えないはずの他人の内面感情を自分が透視できるかのような感覚の中で、他人に怒りを向けます。

 同時に、自分の感情を見透かす他人の白い目に囲まれているという幻想を抱くようになります。「罰」を向ける攻撃的感情の応報のイメ−ジがこの人の心を満たし始めた時、この人の心は明らかに病んでいます。

 

「罪と罰」への姿勢の転換指針

 

 まずは、「感情のあるべき姿」を掲げるそうした「罪と罰」への姿勢そのものが、先に述べたように、「どんな感情であれているか」の先に「存在の善悪と地位」の広大な幻想を抱く姿勢から生まれている、という「心の現実」を理解するのが良いでしょう。

 こんな利己的な感情の自分には望む資格などないと考える姿勢の裏に、そうして「あるべき姿」を損なったものを激しく糾弾する自分の高潔さによって、「存在の善と地位」に向かおうとする傲慢な衝動がある、というループが控えています。

 結局、「こんな感情の自分では」という自己否定感情も、逆に「こんな感情であれれば」という「あるべき感情」によって傲慢な「存在の善と地位」を得ようとする衝動の、同じコインの表と裏の関係にあるものでしかないのです。

 全てが幻想の中にあります。この全体の不毛さを感じ取ることが大切です。

 

 次に、「罪と罰」の釣り合いの適切さへの理解が重要になります。これは「司法」つまり私たちの社会で起きた「罪」を処理するための法律のあり方として、社会の日常のテーマでもあります。

 病んだ心に見られるのは、その釣り合いを欠いた、法外な大きさの罰の観念です。

 無差別殺人事件も、恐らくは、その人間が来歴の中で他人から受けた精神的被害への報復として、他人が自分になした「罪」に対して下す「罰」として、本来無関係な人々を殺すという事態が起きていることが想像されます。

 それは、自分への優しさが足りない相手を、その罰として殺すとでもいうような情緒の論理です。「人は優しくなければ生きていく資格がない」という、実に優しさのない言葉を、人がまるで名言だと感じているかのように語るのをよく見かけるものです。

 

 こうした「法外な大きさの罰」は、一つには「存在の善悪と地位幻想」が背景にあるものと思われます。個々の行動の善悪を審議できる目を持たず、人の存在そのものに善悪の審判をしようとする姿勢があるのです。その結果、「罰」は「存在そのものの否定」という話になってしまうのでしょう。

 もう一つは、人が他者に「罰の怒り」を向ける中で、「悪いのはお前の方だ」という怒りの応酬の空想の中で、罰の大きさが次第にエスカレーションして、最後に行き着く「罰として死ね」という命題が、最後に表面に出る。そんな心理過程もあるのでしょう。

 

「復讐」の是否の選択

 

 「存在の善悪と地位」の感覚観念の不条理さと、それが人間性の負の側面であることは、すでに指摘してきました。この観念を脱することは、人間に課せられた宿題です。

 もう一つここで言えるのは、「復讐」「報復」が「罰」として成されてはいけない、という人間思想の採用です。ハイブリッド心理学は、「復讐」を肯定しない思想を明確に支持します。

 事実、「復讐」を是とする思考が、人類の歴史の中で続けられる、戦争などの悲劇を生み出しているのです。

 

 この視点で言うならば、人が「正しければ怒って当然だ」と、「怒り」が「正しさ」と結びつく根本ポイントとは、実は「復讐」を是とする、「復讐」が「正しい」という感情の論理なのであろうと思われます。

 「入門編」において、「怒り」自らにダメージを与える有害な感情であることを説明し、「怒り」は本来「正しさ」とは無関係であることを説明しました。「正しい罰」は「怒り」として成されるものではなく、むしろ「愛」の下に、社会を守る技術として成されるのが「正しい」ものだと説明しました。

 それに感銘を受け、この心理学の実践を始めた方々の中にも、やはりそれでも怒ることをやめることができないままでいる方が少なくありません。そしてその時、「怒り」にどうも「正しい」という感覚が伴っているようなのです。

 それは結局、自分が受けた心理的打撃に対して、「復讐」「報復」として起きた「怒り」が「正しい」、つまり基本的に復讐を是とするその人の姿勢があるものと思われます。

 

 事実、「復讐」を自分の心において是とするか、それともそれが未来に対して何も生み出さないことを見据え、復讐への感情を捨てるかは、人間に課せられた最大の心の課題とも言えるように感じます。事実人間の歴史は、この命題に対する2つの姿勢の拮抗の中に、今だあるように感じます。

 これは私自身においても、人生の中で一度自らに問うた、大きな人生の命題でした。そして私は「復讐」ではなく、「未来の自分の幸福」への歩みを選択することを、はっきりと意識思考において選択したのです。

 それは『悲しみの彼方への旅』で描いた中で、もっともすさんだ感情からの脱出の時期だったように記憶しています。そうして憎しみを捨てた時、根源的な悲しみが湧き上がってきます。私はそうして自らの心に導かれ、自分が人生で本当に追い求めたものへと還っていったのです。

 

 「復讐の放棄」は、このように、その影響の広がりがはかり知れない、極めて大きな根源的選択であるように感じます。

 「復讐の放棄」が成されるのは、私自身がそうであったように、「復讐を放棄することが正しい」という情緒論理によるのではなく、「過去への復讐よりも未来への幸福を選ぶ」こととしてであるように思われます。つまり「復讐が正しいか正しくないか」という論理命題の中における選択ではなく、「復讐が正しいか」を論理命題として取り上げることそのものからの別れの、選択なのです。

 

 この「病んだ心から健康な心への道」も、「復讐の放棄」という根源が起点になります。なぜなら心を病む過程の全てが、「愛されない憎しみ」から始まっていたからです。

 

「心の自立」と「罪と罰」の先にある「心の浄化」

 

 復讐を根本的に放棄する選択と同時に、「復讐」「報復」を「罰」として位置づけてはならない。この社会思想の選択が問われます。

 そして現代の、私たちが勝ち取った自由と人権を尊重する社会では、「復讐」「報復」を「罰」としてはならないという原則が、事実、法律にも採用されています。復讐は、それ自体が新たな罪になります。

 

 「復讐」を「罰」に位置づけてはならない。これと馴染むもう一つの禁則を言えます。

 「望む資格の剥奪」を「罰」に位置づけてはならない、ということです。

 他人や自分について「望む資格なんかない」と、「望む資格」を断じようとする思考は、自分が受けた精神的ダメージへの報復として抱くのがまず大抵です。それは自分を軽んじた相手への報復思考であったり、理想に到達できない自分への報復思考であったりするでしょう。

 

 復讐を是と感じるのは、「心の依存」に関連があります。

 「庇護と依存」の中にある時、人は復讐を「正しい」ものと感じがちです。一方「心の自立」に向かう中で、人は復讐の放棄を選択できるようになります。

 これは復讐が「正しいか」という論理の考え方が「心の依存」と「心の自立」で変わるのではなく、「心の自立」によって、復讐ではなく未来の幸福を選ぶという前進への力を持つということになるのでしょう。

 「罰」として「望む資格の剥奪」があるという観念も、「心の依存」と関係します。

 「心の依存」の中で、「望んでもいいよ」それとも「望んじゃ駄目だよ」と人に言われることが、意味のあることに感じます。

 「心の自立」をした時、人に望んでいい悪いと言われることは、そもそも全く無意味なことです。自分の心は自分が支えるのですから。自分が何を望むかは、自分の心が決めます。

 

 「心の依存」の中で、「望み」は「与えられること」ばかりに終始する、利己的で貪欲なものになりがちです。

 「心の自立」の中で、「自ら生み出す」ことが「望み」の中に見えてきます。これは「望み」そのものが根底から「利己性」「貪欲性」を薄める方向に向かい始めるということです。

 「自分の罪」に出会った時、「心の依存」の中にいる人は、自分の「望む資格」を断じることを「罰」と考えます。そして望みがさらに荒廃化します。望むことはますます難しくなります。さもなければ、「許し」を得てそのまま望む。これは「甘え」「わがまま」と呼ばれます。結局、「依存」の中では、罪をおかす失敗体験が成長につながらないのです。

 「心の自立」の中で、自ら望み続けることを選択した先に、「自分の罪」に出会った時、心は根底からその罪を自らに反映させ、同じ過ちを起さないよう自らの心を変え始めます。罪を受け入れて望む時、「望み」はもはや明瞭に「利己性」を捨て、「望み」そのものが「利他性」のベクトルを帯びるようになり始めるのです。

 

 ここに、「心の浄化」という、病んだ心からの回復の、最大の転換点が生まれることになります。

 全てが、「心の自立」を要として生まれる変化なのです。

 

「存在の善悪と地位」の先にある分水嶺

 

 最後に、「存在の善悪と地位」という、問題の要となる感覚観念への姿勢について説明しておきます。

 

 その観念が、不条理であり、人間がそれにより人間性を損なっていく根源であることを説明しました。

 しかしそれは、人が「存在の善と誉れ」の「望み」へと、自ら全力を尽くして向かうことをやめた時に起きる問題なのです。

 自ら全力を尽くして向かうことをやめ、努力を尽くすことなく与えられた条件だけでそれが得られるという幻想にとらわれ、その「条件」が神格化し、高みを帯びたその「条件」の理想から現実を見下し始めた時、全ての問題が始まるのです。

 パラドックスです。「存在の善と誉れ」を望むのをやめることが、人を傲慢な「存在の善悪と地位」の観念に向かわせる・・。

 

 これは結局、同じ内容であるかのような「望み」において、自らを高めることに喜びと楽しみを見出す方向ではなく、自分より劣ったものを見下し打ち負かせる優越を求める方向に向かうことに、問題の根源があるということです。

 「望み」が描く「理想」の内容ではなく、理想をめぐって向上に向くか、それとも見下しに向くかで、人間の心の世界が一変します。上を向いた時、「憧れ」「意欲」の感情が湧き出、下を向いた時、「侮蔑」「陰鬱」の感情が流れます。

 人間の心は未熟から始まります。そこで誰もが同じように、「存在の善と地位」を望んでこの世に生まれます。

 そこで、自らを高めることに心を向けるか、それとも他を見下すことに心を向けるか。この、同じ小さな歯車の上で、磁石の針が向いた方向の違いが、心を病む過程と、心が成長する過程という全てを、決するのです。

 

 自らを高めることに心を向けた時、 問題は「自己」とこの「現実世界」の全体との関係になります。そこから学ぶことと向上することが始まります。この歩みは、それだけで心が充実してくるので、やがて「存在の善悪と地位」における他人との比較そのものが、意味を失い始めるのです。

 それが「生み出す」ということなのです。

 

 他を見下すことに心を向けた時、問題は「自分」と「他人の目」との関係になります。「現実世界」を見る目が失われていく中で、他人との競争だけが心をおおい、愛は失われ、すさんだ感情だけが心を満たすようになります。

 そして学ぶことと向上することがおろそかになる結果、自己の現実が貧弱化していきます。他人との競争に心をやつすほど、人は実際に競争で勝てなくなります。そして「競争社会」への怒りを抱き、他人の「存在の善悪と地位」への衝動を傲慢だと糾弾する思考に駆られます。

 その一方で、他人を糾弾する高潔さによって自分こそが「存在の善と地位」を得るという傲慢へと向かう。出口のないメビウスの輪に向かうわけです。

 

 ですから、言えることはこういうことです。

 この現実社会は、確かに競争社会である一面があります。誰もがその競争の上に置かれていることも事実です。

 しかし、誰もがそこで同じ競争心に駆られていると思うなかれ。社会が競争であるとは、大自然の食物連鎖を人間が見て絵に描いているような話であって、結果論でしかありません。

 実際私が長い社会人生活を経て初めて知ったのは、実はこの「競争社会」で上に行くほど、大らかな心の持ち主も多いということでした。これは実際に社会に出る前に私が抱いていたイメージとは、むしろ逆でした。

 もちろん、すさんだ競争心だけで上に登っている人も沢山いるでしょう。現実の人間は、とても多様です。今の自分の心のイメージで決めつけずに、自分の目で、この社会と人々のことを知っていけばいいのです。

 

 そのための基本姿勢の大指針を、この章で説明しました。

 感情への一貫とした姿勢を築くこと。自分をよく知ること。そして現実を生きること。

 それは、まず今見える「望み」に向かうことから、その一歩を踏み出すことができます。

 自分は他を見下すことしかできなくなってしまった。そう感じる方もおられるでしょう。同じです。そこで「他を見下す」上での「条件基準」を明瞭にし、それを通して望んだものに、「生み出す」方向において向かい直すことです。感情への一貫とした姿勢を携えて、自分をよく知り直すことから始めればいいのです。

 

 その先に、ここで少し事前知識として触れた、「建設的絶望」を経ての「真の望み」への接近や、罪と罰の先にある「心の浄化」がどのように通過点として必要になるのかは、もう人それぞれです。まずは基本的な「心の成長」への歩みを知ることからになります。

 

人生の鍵へ

 

 その先は唯一無二です。それぞれの人がそれぞれの人生に唯一無二の、自分の人生の生き方を探究する道が始まります。

 

 次章からは、この章で説明した基本姿勢を携え、それぞれの人がそれぞれの唯一無二の人生を探す歩みにおいて、前進のために必要となる問題を解くための、人生の鍵をお渡しします。

 そして、この歩みの先にある、「否定価値の放棄」という最大の中間道標と、この歩みのゴールの大よその姿を説明します。

 ゴールにあるものとは、一言でいえば、揺らぎない自尊心に支えられ、愛によって満たされ、もはや恐れるものの何もない心です。

 

 それはあくまで長い歩みの積み重ねの先にあるものであり、この限りある人生の中で、それぞれの人がどの地点まで行くことができるのかは、再びケースバイケースになるでしょう。

 それでも、その歩みの先のゴールは、「望みに向かい現実に向かう」という成長への原点において、全てが覆るような大どんでん返しとも言える姿に、実はなります。そしてそれが人間の歴史を通して言葉を変えながら真実として語られてきたものと完全に符合する時、私はそこにやはり人間の心の真実があるように感じるのです。

 それを理解し、私たちの人生がその中にある真実としてイメージすることは、きっと私たちの人生をより有意義なものにすることに役立つと、私は信じています。

 

 いずれにせよ、ハイブリッド心理学の取り組みにおいて、「どこまで行けたか」「どうなれたか」を問う作業は、実践に含まれることはありません。

 大切なのは、方向を知り、それを歩むことです。

 そしてその一歩一歩に、「どうなれたか」を越えて、一貫して成長を続ける心の芯があることを感じ取った時、事実、この歩みのゴールへと向かう揺るぎない成長が、始まるのです。

 

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