心の成長と治癒と豊かさの道 第4巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(下)−病んだ心から健康な心への道−

2章 基本の姿勢と歩み−2  −「望み」と「自立」という最初の鍵−

 

 

唯一無二の人生の生き方の確立へ

 

 基本姿勢の方向転換として、どれだけ前章で述べた取り組みを進める必要があるかはケースバイケースとして、根本的な治癒と成長の前進の入り口に立つための要件を、一言でいうことができます。

 それは、それぞれの人が、それぞれの唯一無二の人生の生き方の確立に向かう姿勢です。

 

 まずはこの前進姿勢の要点を、再び3つほど説明したいと思います。

 

 第1に、「自分なり」の、唯一無二の人生の生き方を確立するということです。他人をお手本にすることは、もちろん参考にはできるでしょうが、最終的には、人をお手本にして自分の生き方にすることはできない、ということです。

 これは、全ての人が、唯一無二のハンディと資質を持った、唯一無二の存在であると考えるのが良いでしょう。最終的に何をどう行動できるかは、全ての人に唯一無二の答えがあるということです。

 なぜなら、自分のハンディと資質をありのままに十分に知ることができるのは、その人自身しかいないからです。それを踏まえて、自分に何ができ、何ができないのかを決めることができるのは、自分しかいません。

 そうであるなら、「普通にできることが大切」「そんなことできるのが普通」といった、自分の行動基準を外部に求める思考の完全なる不毛さを、まずしっかりと確認するのがいいでしょう。

 

 一方で、私たちは自分を取り巻く外部について、しっかりと知らなければならない事柄が沢山あります。

 それが第2の要点になります。社会を良く知ることです。

 ただし、自分が何をどうできるべきかについては何も言うものではないものとしたままにおいてです。

 この社会には、何をどうできるべきだと誰が言おうと言うまいと、一定の法則と一定の偶然の中で、ものごとが動いています。それをうまく知り、うまく行動する知恵とノウハウを仕入れていくことです。

 それが学校や家庭でほとんど教えられていない状況は、前章で述べた通りです。具体的な内容については、「実践編」を始めとして、今後さまざまな形でお伝えしていきたいと思います。

 

 それと、自らのハンディと資質を突き合わせて、この社会における自分なりの「行動原則」を、しっかりと築くことが大切です。

 多くの方において、それはゼロからの積み重ねをし直すことをお勧めすることになると思います。それだけ現代人は、人の言葉の受け売りと、「普通」といった全く芯のない基準に、漠然と身を委ねる生き方をしていた状況があります。

 それを、唯一無二の自分のハンディと資質はこうであり、社会の法則はこうであるという2面を突き合わせて、これからの人生においてうまく行くものとして揺らぎなく信用できる、確実なものだけを、自分なりの行動原則として組み立てていくことです。

 これは、大自然において動物が成長し自立していく姿に他なりません。それは本来、とてもシンプルなことであるように感じます。自分なりにとにかく生きていく方法を見つけるという課題があること。そして「未熟」から始めるものとして、死にもの狂いで模索するものであることにおいてです。

 それを、人間の場合、「こうできていてどうこう」と、てんでばらばらの人の言葉に左右されたり、最初から死にもの狂いではないスマートさを追い求めたりして、話がすっかり複雑になってしまいます。

 

 そうした本来のシンプルさに立ち返る指針として、第3の要点として、「感情」に見入り追うことなかれ

 「こんな感情であれれば」「こんな感情では」と、「感情」を基準にして自分の行動を考え始めた時、こうして述べたような「自分なりの唯一無二の行動原則」が、完全に見失われます。

 前章で述べたように、「感情」は結果でしかありません。それを、「こんな感情だから」と、感情を見て行動の仕方を考え始め、視線が自己の唯一無二性と社会からそれた時、どう行動していいのかがすっかり分らなくなっていき、「感情」がどんどん下り坂に向かうのです。

 もちろん、感情を無視して行動すべきということではありません。もし行動を妨げる感情が流れてしまうのであれば、それをハンディとして計算に入れて、ここで述べた「自分なりの行動原則」を模索すれば良いのです。

 

 一方で、追うべき「感情」が一つだけあります。

 「望み」です。

 

 「唯一無二の人生の生き方」に向かう基本的な前進姿勢の先に、幾つかの特別な感情が見えてきます。 そこに、真の心の成長と人間の真実に向かう、普遍的な道のりがあります。

 その先に、揺らぎない自尊心に支えられ、愛によって満たされ、もはや恐れるもののない心というゴールがあります。

 そこに至るための「人生の鍵」となる、幾つかの特別な感情と、それに対する向き合い方について説明していきましょう。

 

第1の鍵:「望み」

 

 人生の最大の鍵は、「望み」にあります。これが全てを貫く最大の鍵になります。

 

 「望み」は、それに向かうことが人に人生の充実を感じさせ、それに向かって現実を生きることが「心の成長」を生み出す、人生のための特別な感情です。

 まず目をとめたいのは、「望み」に向かうことで人生が充実するのは、「望みが叶う」ことにはあまり限定されない形においてであることです。

 むしろ逆に、人が望みに向かって最も人生を充実させるのは、大きく長期的な望みに向かい、望みが叶うかどうかは心の視界にすら入っていないような時です。これは実に深い何かを示唆しているように思われます。

 それはたとえばオリンピックに向けて長い格闘をするスポーツ選手に見ることができます。今年2008年の北京五輪で見事に2種目連覇を果した北島選手は、200メートル平泳ぎの決勝の日、寂しさを感じたという言葉が報道されていました。

 

 一方で、望みが「叶う」という結果だけに目が奪われ、さらには「そうなれた」瞬間が来るまでは一時(いっとき)たりとも心の平安を見出せなくなる、「なるべき自分」を追い求める心理があります。「叶う」までは、心が充実するどころか、不安とストレスに駆られる時間が続きます。それを終わりにするために、1秒でも早く「なるべき自分」に向かって走らなければならなくなります。

 似たような「望み」ではあっても、このあまりの対比に、私たちは心理学の目を向けることになります。

 

望みの「穴埋め」と「腹いせ」の幻想

 

 「叶う」という結果ばかりに目が奪われるのは、「真の望み」が実はすでに挫折していながら、それに目をそむけ、「穴埋め」と「腹いせ」を追い求めるようになるという心理メカニズムとして理解することができます。

 「穴埋め」は、本来望んだものとは異なるが、近い何か別の代用品による満足を求めます。「腹いせ」になると、望んだものを自分に与え得たものに破壊攻撃を向けることで、「気が晴れる」ことを求めます。

 「真の望みの挫折」に蓋をして、「穴埋め」と「腹いせ」を求めることで、望みに向かう人生の充実は失われたまま、錯覚のような「叶う」という感覚ばかりを追い求めるようになってしまうのです。これが「貪欲」というものにもつながるメカニズムとなります。

 

 ここでまず理解しておきたいのは、「望み」の根底での穴埋めは本来できない、ということです。

 できるのは枝葉の実現形だと言えるでしょう。銀座の高級寿司屋の代わりに、近所の回転寿司でたらふく食ってそれなりに満足するように。

 「望み」そのものの穴埋めはできないとは、「愛」への望みを「愛」以外のもので埋めることはできないということです。だから高級レストランが残業でデートを中止にした穴埋めになるとしても、浮気でデートを中止にした穴埋めにはもうできないのです。

 

 それでも人が穴埋めの蜃気楼を追い続けるようになるのは、「イメージ」「空想」に、「望み」の感情が巻き込まれた時に起きます。

 穴埋めとして何かの「イメージ」が描かれるのですが、それが何かの望みを満たすものだという感情を「空想」の中で抱いた時、人はそれが、自分が大元で本当に望んだものとは異なる「穴埋め」であることが分らなくなり、自分がそれを望んでいるのだと思い込みます。

 あくまで、「空想」の中では、そう思うことができるのです。

 「現実」の中で、それが事実ではないことが明るみに出ます。満たされるはずなのに、そうではない自分。

 しかしそれでも人が「空想」の中での思い込みを続ける時、人はその事態が、自分が望みに叶う条件に達していないからだと考え始めます。

 そして、穴埋めの蜃気楼を満たすために、自分がその条件に叶う完璧さにならなければならないのだと考え始めます。

 

 それだけ強い錯覚を起す「穴埋め」とは、「望みが叶うような自分の姿を人に見られる」というものになるでしょう。

 「叶う」ことに限定されずに、それに向かうことが人生の充実を生み出す「真の望み」への挫折の穴埋めが、望みが叶うべき「姿」を「人に見られる」という静止画のようなイメージとなる。

 そんな自分の姿が、人に愛され賞賛される。それが「愛」であり「自尊心」なのだと、そして「人生」なのだと、人は「空想」の中で考えます。

 それてそれが自分の「望み」なのだと考えます。確かにそう考えるのも無理のない話です。

 この「動」から「静」への静かな転換と共に、人の心の中で、人生の歯車が大きく狂う道が始まります。

 事実、これが「人間」という不完全な存在であるようです。

 その時、人の心の中で、「真の望み」の記憶は消え去っています。

 

 穴埋めのイメージを、いかに人がそれを望んでいるのだと思い込むことに成功したとしても、真の望みへの挫折は同時に、「腹いせ」の心理を帯びさせます。怒りと破壊の衝動が伴ってくるのです。

 もう自分がどう得るかではなく、他人が得るもの、そして自分が望みながら得られなかった価値あるものを、叩き潰そうとする情動が生まれます。

 それは「嫉妬」でもあります。しかし「嫉妬」は嫌な感情なので、人はそこに自分が何か「正しい」ことをしているという感覚を加えようとします。それは、条件に満たないものは望む資格がないという思考になります。

 望む資格がないのに望んでいるから、叩き潰すのです。その者が求める「愛」と「自尊心」と「人生」をです。「資格がある人」を前にすると、嫉妬と敗北感で苦しむようになってきます。

 「望む資格思考」という心の癌細胞が、こうして生まれると同時に、私たちはそこに、「条件」を通して望もうとした先に、逆にその「条件」によって自分自身を破壊し始める人間の姿を見ることになります。

 

第2の鍵:「自立」

 

 「心の自立」の中で、人は「真の望み」へと近づくことができます。

 

 これは2つのメカニズムによって支えられるようです。

 一つは、「庇護と依存」の中で「望み」はもともと「与えられる」ことに傾いており、その挫折を塗り消そうとする「穴埋め」と「腹いせ」が意味を持ち続けやすいからです。穴埋めとして映り得る、「与えられる」ものの別の形。そして「与えられる」はずだったものへの怒り。

 「自立」とは、自らが「生み出す側」「与える側」に回ることであり、生み出すことの中に望みがある時、そこにはもう意味のある「穴埋め」や「腹いせ」というものが、そもそもなくってくることを意味するからです。

 

 もう一つは、「心の自立」の中で、人は「望んでもいいよ」と人に言われることによってではなく、自分自身の判断で望むかどうかを決めることができるようになるからです。心の自立とは、自分の心を自分で支えることだからです。

 自分で判断するのですから、より正真の「真の望み」に近づくことができるわけです。

 これは当然の話です。「真の望み」とは、人それぞれに唯一無二のものだからです。それを人に「これこれなら望んでもいいよ。これがお前の真の望みなのだと思えばいいのだよ」と言われたところで、それが真の望みであることは期待が薄いことであるように思われます。

 そうして人の目との間で、どう望むのが「正しい」かという情緒の論理が意識の上で転がされるようになった時、人の心の中で「真の望み」が完全に葬り去られます。

 

 問題は、「心の自立」というものが、どうすればできるのかになるでしょう。

 そもそも人間は、大自然における動物の「自立」の姿からは、高度な社会の発達とともに根本的に遠ざけられるようになった存在です。

 今や、自分の「命」というものが、それを守ることが自らの意志と努力によって切り開くことではなく、社会がそうする義務があるかのように人々に思考され、人は自分の「命」については逆に、「なぜ自殺してはいけないのか」などという奇怪な思考を抱き始めている時代です。

 「庇護と依存」の幻想が、広く人の心をおおい始めているのが現代社会です。否、それはもう「幻想」でさえなくなり始めているのかも知れません。

 高度な社会によって、人が自ら自分の命を守る意志を持つことなく生かされるのは、まあ便利な話ではあります。しかしそれが遠回りにではあっても、人に人生を見失わせる結果になるのは、なんとか心理学からの手を打ちたいものだと感じます。

 

 ではどうすれば「心の自立」という内面の変化を起すことができるか。

 まず最初に、実に単純な話を言うことができます。

 それを望むことです。それが最初です。そうであれば、この心理学から、そのための具体的方法と、その先にある道のりをお伝えすることができます。

 一方、それを望まない方に、それを望ませるための方法は、残念ながら今の私にはあまり考えつかず、ハイブリッド心理学は「心の自立」に立つ、「自らによる心の成長」を望まれる方を前提とした後の方法論を守備範囲とするのが現状です。

 それでも、その方法とその先にある「変化」をお伝えすることが、より多くの方にそれを望みやすくすることができるかも知れません。

 

「心の自立」への3つの前進軸

 

 私たちは「心の自立」へと、大きく3つの軸を通して前進することができると、ハイブリッド心理学では考えています。

 第1の軸は、「心の自立」に立った生き方思想と思考法行動法です。

 第2の軸は、「恐怖の克服」です。

 第3の軸は、「未知」です。

 

心の自立への第1の前進軸:生き方思想と思考法行動法

 

 心の自立への第1の前進軸は、「心の自立」に立った生き方思想を採用し、それに沿った思考法行動法を日々積み重ねることです。

 

 その最も基礎となる生き方思想が、「入門編」で説明した「心理学的幸福主義」に他なりません。科学的世界観に立ち、「善悪」の考え方を根本的に変革し幸福を自ら追求するものと位置づける生き方思想です。その先には、「善悪」という観念を完全に放棄して自己をこの世界全体に対峙させる、「サバイバル世界観」と、それに立つ人生観があります。

 この対極にある「心の依存」に立つ生き方思想とは、「情緒道徳」に他なりません。内面感情の良し悪しを問い、5W1Hの論理性の欠けた思考の中で、正しい者が幸福になれるはずだという漠然とした思考をします。

 

 情緒道徳で言われる、たとえば「人のためは善」「思いやりを大切に」といった内容については、まずはその論理性をしっかりと考えることがお勧めになります。そもそも「善悪」とは何かから、正確な定義をしたい。それは社会の向上に対してどんな利益もしくは害をもたらすものかという、客観的な観点から思考したいものです。

 善悪はあくまで外面行動に問うものと位置づけ、内面感情については、そうした外面行動に対して、そして心の健康と幸福に対してどんな役割と位置づけを持つかという、心理学的そして医学的な中立な目を向けることがお勧めになります。

 内面感情に善悪を問う姿勢がどうしても残る方が、相談対応の中でも少なくありません。その根底にあるのは、正しく良い内面感情によって人に愛されるべきだという観念と姿勢であるように思われます。

 そこで思考される「感情の善悪」の内容にあまり「間違い」はありません。しかしその姿勢によって現実に生み出されるのは、善悪の目で縛りつけてガチガチに固まり、伸び伸びした良い感情が湧き出るべくもない心であり、感情を人に受けとめてもらうという姿勢によって、自分の感情を自分で受けとめることができない、ひいては心の自然成長力と自然治癒力も自分で受け取れない、結果、心が成長しないという事実だということをまずしっかりと見据えることが大切です。

 「心の成長」について実に単純な、全くの無知でいるわけです。まずは「心の成長」とはどんなものなのかを知るのがいいでしょう。4章以降の「未知への大きな前進」と「人生の答え」の章がその中核になります。

 

 そうした「心の成長」に向かって、まず「自尊心」「愛」についての、一貫として揺らぎない姿勢を築いていくことが極めて重要になります。

 

 「自尊心」を「生み出す自尊心」へと舵取りすることが重要になります。それが生み出す堅固な自尊心が、自ら望みに向うこと、そして自ら愛に向うことに立ちはだかる「恐怖」を減少させてくれるからです。

 「生み出す自尊心」の増大は、必ず生活の内面と外面が豊かになることを伴います。これはそれだけでも私たちが「幸福」へと近づき始めるということです。

 このために、短絡的な自尊心衝動との闘いが、まずは大きな実践課題になるでしょう。「愛され自尊心」「打ち負かし自尊心」「否定できる自尊心」が何の豊かさもあとに残さず、逆に内面を貧困化させていることを見据えることです。

 そうした短絡的な自尊心衝動は、「愛情要求」と綾をおりなす形で、幼少期の愛の挫折から生まれていることを見据える必要があるでしょう。その挫折が深ければ深いほど、愛情要求と自尊心衝動が衝突しながら激しくなる、出口のない錯綜と混乱が起きます。

 

 それを内面でやり過ごし、自尊心については「生み出す自尊心」へと舵取り変更し、「愛」についてはまずその成り立ちを正しく理解することが大切です。

 「愛」一体化を求める自然な感情の先に開花します。愛は人工的に、「愛がこうあらねば」と心に強制しても生まれるものではありません。愛は正しければ与えられるものではなく、心の成長の結果自然に湧き出てくるものです。

 「愛」に向うための誤った姿勢の典型は、「相手を認めること」「認め合うこと」さらにはより広く「分かり合うこと」を「愛」だと考える姿勢です。これがなぜ誤りかというと、まさに「愛情要求」と「自尊心衝動」を満たすことを目当てに生まれる思考だからです。

 これは愛と自尊心の双方を損い、「分かり合えない部分」からほころびが始まる、怒りの向け合い応酬へと向いがちです。真の愛は、互いが別個の人格であることを認める上にこそ築かれます。それが最初の時点で損なわれています。

 この誤った姿勢から、しばしば人は「相手を信じる」ことを考えはじめます。その内容は、「自分のことを良く見てくれる」「親しさを約束してくれる」というような内容です。これは実質的に愛の感情を伴わないまま愛を求める束縛へと向かい、関係が破綻するのが必至となる心理メカニズムです。

 「愛」に向う正しい姿勢とは、「喜びと楽しみの共有」に向う姿勢です。漠然とした「間柄の確保維持」ではなく、その愛において何を一緒にするのかを、明確にすることです。

 相手と共有できる楽しみが自分の中に見出せない時に、「愛」をどう作り出せばいいかと問うことは、もうできません。それは愛の問題ではなく、生き方全体の問題、そして心の成長全体の問題になります。

 

 「生み出す自尊心」が自ら意識して一貫として築いていくものになる一方、「愛」は心の治癒と成長が生み出す変化に委ねるべきものになります。

 もちろんそれは何も意識しなくていいという話ではなく、心の治癒と成長が生み出す愛の成長と増大の芽に、自ら積極的に目を向け耳をすませることが大切になってきます。

 それは一言でいえば、「魂の感情」です。「人生の答え」の章でその概要を理解し、この「病んだ心から健康な心への道」のスタート地点からそれを道標として意識していくことがとても重要になります。

 

 日々の生活の中での思考を、「正しければ幸せに」といった情緒道徳的な思考ではなく、ではそれが一体どんな社会の仕組みで可能なのかという、社会を広く見る思考へと、大きく方向転換したいものです。

 社会がいかに自分に良くしてくれるかと、それについての不安や不平不満だけに終始する思考ではなく、詳しさや正確さはあまり問いませんので、この社会がどう成り立っているのかの政治や制度、そしてその裏にある大きな世界経済の流れを知るのがいいでしょう。そのさらに根底には、地球環境というものがあります。そこには私たちが「与えられる」ものの、明瞭な限界が現れてきます。

 日々の思考の関心をそのようなものに方向修正することは、自然と私たちの脳に刻まれた「心の自立」のDNAを刺激してくれるはずです。

 

心の自立への第2の前進軸:恐怖の克服

 

 一方、この現実世界にある「与えられるものの限界」は、私たちにとって何らかの脅威ともなるものでもあります。これが心の自立への第2の軸につながってきます。

 それは「恐怖の克服」です。

 

 「恐怖の克服」を知らず、恐怖への「耐性」がないことは、人の心を基本的に未成長の「依存」の段階にとどまらせ、日常の思考と行動を「心の依存」に傾いたものにしてしまいます。

 この傾向は、相談対応を含めた私の経験からも、大抵の女性がその中にあるように感じられます。もちろん男性にもはっきりとその傾向の方がおられます。

 「恐怖」というものに対して、全く論理的な思考ができていないのです。「恐怖」は答えがないことであり、「助けて!守って!」という依存の衝動をほとばしらせることと、自尊心を大きく損なう「無力感」の引き金だけになっているようです。

 さらには、「恐怖」の感情を、「かよわさ」や「感受性」の表れと考え、それによって人に愛される性質だと考え始めると、「恐怖」は克服するどころか、自ら(あお)り立て倍増するものになってしまいます。

 

 「耐えられない恐怖」を抱えることは、実は「心の病理」と直接的な関係があると、私は考えています。

 上巻1章で説明した「論理性の歪み」の重篤度が、さまに「耐えられない恐怖」をその人が心に抱えたであろう強度と、まさに比例するように観察されます。自分で耐えることができない恐怖を抱えるほど、自分が守られるべきだという幻想的な論理に心がおおわれてしまうのです。

 「幽霊」「心霊現象」への恐怖といった、一見すると心の障害には関係のない話が、実際には「心を病む基礎体質」のように作用しています。実際、そうした恐怖のあまり人が「発狂」してしまう姿と、深刻な心の障害が悪化した時に起きる「解離症状」は、心理学的にはほぼ同一のものだと考えられます。

 

 恐怖を自ら克服することは、「心の自立」の極めて太い柱になります。それが揺らぎない自尊心の源となり、日々心が安定し、湧き出る感情もよりプラスの感情が増えてきます。

 恐怖の克服ができないと、脅威になり得る「現実の不完全性」に目を向けることができず、「こうであるべき」という思考ばかりに心がおおわれることになります。心が「依存」の中にとどまり成長せず、「真の望み」に近づけることがないまま、やがて「現実の不完全性」という運命が不可避に訪れ、恐怖と嘆き怒りの中でその生涯を終えることになりがちです。

 人は恐怖を克服する中で「心の自立」へと向かうと同時に、「現実の不完全性」をありのままに見ることができるようになります。それは確かに脅威ではあるのですが、「心の自立」の中で「真の望み」に近づく時、それはあらゆる「現実の不完全性」による恐怖を凌駕するものになってくるのです。ここに、もはや恐れるものの何もない心という世界が見えてきます。

 こうして「恐怖の克服」が、人生の大きな鍵としてその位置づけを現すようになってきます。

 

 相談対応においては、まず最初の軸として説明した生き方姿勢や思考法行動法は、いったん内面感情とは別問題として切り離し、外面のごく現実問題について考える際に検討してもらうようアドバイスを進めるのが通例です。

 強い心の依存性そのものについては、むしろその依存思考を徹底的に追求し、依存することで何がどう解決するかを、具体的にじっくりと考えてもらうのを、私は定石的アプローチとして用いています。

 そこには「愛されれば安全」といった、論理性を欠いた思考があります。では愛されれば何がどう解決するのか。

 より具体的に考えるほどに、愛されたところで何も解決しない現実が見えてきます。実際に危険が迫った時、最後に自分を助けられるのは自分自身しかいません。

 そうした気づきが、人の心に自然と「心の自立」へのベクトルを芽生えさせます。それに乗せる形で、生き方姿勢や思考法行動法の方向転換に取り組むのが良い進め方です。

 もちろん恐怖の克服も、心の自立への姿勢の中で進めるものです。その具体的アプローチは、ほとんどの人が根本的な誤りの中にいるものへの取り組みになります。それをこのあと説明します。

 

心の自立への第3の前進軸:「未知」

 

 心の自立への第3の、そして最後の軸は、「未知」です。

 これはハイブリッド心理学からも良く分からないという話ではありません。上述の2つの軸までは、どうであったものがどう変わるかという内容を、一応分った上で進むものになります。

 「心の自立」に向かう最後のベクトルは、それが完全に「未知」として進むものになるということです。ある通り道を通ったあとの自分を、今の自分は知ることはできない。そんな通り道を通ることで、より一歩「心の自立」へと成長し「真の望み」へと近づいた自分へと変化していくことです。

 これは実は、「今の自分」が一度崩壊し、今の意識が破滅する闇の谷間を通るということでもあります。「未知」であるとは、あらゆる意味においてつながりのない別世界へと移行することを言います。つながりがあるのであれば、何らかの形で先が分るということですから。

 それが一切できない。これは、この道を通るために、私たちは一度命綱を切って暗黒の闇に身を投げ出さなければならないということなのです。

 ここから、心の治癒と成長に向かう変化が、異次元のレベルの様相になります。

 しかし、もし「今の心とは根本的に違う心への治癒と成長」と言うのであれば、このようなものとして起きるというのが、むしろ理屈が合った話であるように思われます。

 

 これはまた、「望みに向かい現実に向かう」という心の成長への原則において、大どんでん返しとも言える事態が現れてくるということでもあります。

 大きなどんでん返しが2つあります。

 一つの大どんでん返しは今言うことができます。すでに前章で前触れした「建設的絶望」です。

 私たち人間は、絶望を経て真の望みに近づいていく存在なのだと言うことです。これはこの根本的成長変化の入り口となる大どんでん返しです。

 もう一つの大どんでん返しは、この道の最後に現れます。それはあまりに大きなレベルにおけるどんでん返しになり、それが通過する過程の全体がそこで消えるかのような、まっさらなゴールが生まれる大どんでん返しになりますので、その最後にお伝えするのが良いでしょう。

 それが同時に、ハイブリッド心理学が見出した、そして人間の歴史を通して言葉を変えながら伝えられてきた、人間の心の真実になるのです。

 そしてそれが、「心を病む」という問題に向き合ってこそより鮮明に見えてくるものであることを振り返る時、人間の心というものへの深い感慨にただ打たれるばかりです。

 

 ここで3つの軸を通して向かうものとして概観した、「心の自立」とともに「真の望み」に近づくという心の過程は、事実、極めて難解で複雑であるのが実情です。

 私自身が自らそれを体験し、さまざまな人間の事例と、この心理学による相談援助の事例も合わせ、人によりどのようにそしてなぜこうした心の治癒と成長の起き方が異なってくるのかを分析研究し、おおおよそ納得のいく考えをまとめるまでに、自ら体験するための数十年間の人生の時間と、この心理学を整理し始めてからの6年間の考察の時間を必要とすることになりました。

 事実それは、心の表面での思考のあり方と、心の底からの生きる姿勢のあり方と、現実行動体験を経ることによる内面変化と、そして脳の年齢構造とも言える背景基盤の、全ての総合結果として前進するものと思われます。

 

 いずれにせよ意識努力によって実践するのは、「心の自立」に立脚した生き方思想と思考法行動法を携え、自分なりの唯一無二の人生と、自己の真実に向かい、真の望みを探り続けることです。

 そのための鍵の見え方について、引き続き説明を続けましょう。

 

「望み」への基本姿勢

 

 「望み」の感情は、心の中で思いっきり開放します。それが求めるものを心の中でできるだけ明瞭に描き浮かべ、それを求める自分の感情をしっかりと自分で受けとめるのがいいことです。

 それがどれだけ大切な望みか。それが叶ったらどのように自分が幸せになると感じているのか。それに向かおうとする気持ちが今実際どれだけあるか。

 望みが現実においてどう向かい得るものかという検討に、心をじっくりと晒すのが良いことです。それは行動法の知恵とノウハウによって、大分違った話になってくるでしょう。

 もちろんそれが現実において向かい得る望みであるのであれば、社会を広く見る視線を持ち、行動法の知恵とノウハウを駆使して、全ての努力と全ての可能性を尽くして向かうのが良いことです。それが人生の充実と、楽しみと喜びを生み出してくれます。そこで生きる体験が、心を成長させます。

 現実のハードルがあまりにも高い場合、あるいは望みに向かう時の恐れがあまりに強いなどの内面の障壁がある場合は、心の中で望みを開放したまま、「行動」はとどまるのもいいでしょう。これは「望みの停止」ではなく、「情動の荒廃化」も引き起こしません。

 これが正しい「心の使い方」です。それを日々積み重ねることで、心が成長します。そして心が成長した時、以前なら向かうことができなかった望みにも向かうことができるようになってきます。

 

 自ら望むことを良しとしない「望む資格」の観念があるのであれば、まずその妥当性にとことん向き合う必要があります。

 ごく基本的な思考法としては、「人のためは善」といった情緒道徳の思考があるのであれば、先に心の自立への第1軸として説明したように、そもそも善悪とは何かについて根本的に問い直すのがいいでしょう。

 問題が深刻なケースで典型的なのは、「どうせ自分が感じること考えることなんて」という「自己放棄」が来歴の中で成され、何をどう望むのが「正しい」かについて人が言う言葉の受け売りの中で混乱し、向かい得る望みを人生の中で喪失したケースになるでしょう。

 この場合は、人の言葉の受け売りの一つ一つについて、その論理的な妥当性を解きほぐし、自分自身の頭で考えるという心の芯を回復させると同時に、来歴の中で望むことをやめさせた感情に再び向き直す、長く地道な取り組みが必要になります。専門的な援助の活用が望ましいものになります。

 そこには激しい「ニセへの憎悪」の底流もあるかも知れません。意識の表面で葬り去っていた絶望の感情を、開封することが必要になるかも知れません。その先に、もはや死に絶えていたかのような自己の生命力が再生される、「未知」の扉が開かれるのを待つ必要があるかも知れません。これは次章以降で説明する流れになってきます。

 「望みが見えない」ケースについては、最後に、この道のりの最後に現れる「人間の心の真実」を知ることが、自分がこれから何を望むべきかについて何かの示唆を与えてくれるのではないかと、私は期待しています。その結果だけを自分に当てはめる誤りを避けるように、最後にそれをお伝えします。

 

「望み」の感情分析と基本姿勢

 

 「望みの感情」の質を感じ分けることが良い取り組みになります。これは「感情分析」の実践になります。

 「望みの感情」の質は、心を病む過程の進行に応じて、基本的に3つの質的な変化をします。

 

 より純粋な望みは、望みの大きな対象や目標に惹かれ向かうエネルギーを湧き立たせ、望みの対象や目標の姿が心に大きく浮ぶものです。憧れの人や、叶えたい大きな夢。

 より純粋な望みは、たとえ「叶う」ことがなくてもフラストレーションを起こしません。向かい続けていることが、それだけで人に幸福につながる良い感情を与えます。穴埋めの蜃気楼を追うことで起きる「貪欲化」も起きず、さらに現実において「叶えられる」ことががなくてさえも、そこに向かうことにおいて、心が満たされるのです。

 だから、「初恋」は多くの人にとって、生涯に渡って特別な感情として記憶の中に残り続けるものになるわけです。それは「純粋な望みの感情」の代表的なものです。

 

 「皮相化と荒廃化」を帯びた望みになってくると、叶えられないことがフラストレーション嫉妬を引き起こします。純粋な望みが挫折した事実を塗り消そうとする、怒りに傾いた情動が背景にあるからです。

 「皮相化と荒廃化」を帯びた望みは、「自分の姿」と「人の目」が意識の前面で重みを持ってくるのが特徴です。望みの対象や目標の内実よりも、結果を得た自分の姿の見栄えが強烈に情動を刺激するようになります。

 望みの対象そのものの価値というよりも、それを得ることによる「情動的利得」というものが濃くなってきます。自分を羨む他人のイメージや、箔がついた自分のイメージ

 これが同時に、「望みの感情」に、何か「うさんくさい」ものを付随させているという、浅薄感を伴わせるものにもなってきます。「望む資格思考」と、自分がニセを演じる者になってしまうことへの恐怖が心に飛び交うようになるのも、この段階です。

 

 最後に、「望み」という積極的な感情が消え去り、「見栄え」を主な基準として、他人や自分自身に向ける否定的感情の蔓延が現れます。この場合はもう「感じ分ける」実践を問う段階ではなく、望みへの基本姿勢を問う段階へと戻るべきものになります。

 

心の成長への2つの通り道

 

 心を病むという問題がほとんどない方であれば、基本的な生き方姿勢と、思考法行動法の知恵とノウハウの活用を携えて、より純粋な望みの側面により積極的に意識を向け、そこに向かう現実行動へと自分を後押ししていくことで、人生は大きく開花するでしょう。ただしこれは実は、この理論書の全体の助けはあまり必要としないケースだとも言えるかも知れません。

 

 心の悩みが、そして心の障害傾向が深刻になるほどに、この『理論編』の全体をじっくり読んで知る、人間の心のメカニズムへの知識を活用し、望みの感情における純粋な要素と、皮相化荒廃化した要素を感じ分ける「感情分析」が重要になってきます。

 より純粋な望みの側面に積極的に向かうことが心を成長させる一方で、皮相化荒廃化した要素の側面が、心の闇の世界に引きずり込まれる動揺の種になることに向き合っていく、心の成長と治癒への格闘がここに始まることになります。

 そのために、さらなる「人生の鍵」を手にする必要があるでしょう。その助けを借りて、「未知」への軸に向かうことが、最終的な解決への通り道になります。

 

 心の成長への、2つの異なる道のりの姿があることになります。

 一つは、比較的健康な心に育った方が、「未知への軸」を知ることなく人生をそれなりに開花できる姿。

 もう一つは、心を病む問題を抱えた方が「未知への軸」の先に根本的克服と人生の開花に至る姿。

 

 この2つの中間形を、私は知りません。つまり、はっきりと心を病む問題があるならば、「未知」へと向かう闇の谷を通る道の先にのみ答えがあるということになります。それがこの心理学理論の理屈上の帰結であると同時に、全ての実際の事例がそれに完全に符合しています。はっきりと「別の心」へと治癒成長するという話を言うのであれば、それがむしろ理屈の合った話になるでしょう。

 

 しかし、心を病むという問題がもはや程度の差こそあれ万人に避けられないものとなった現代社会において、この「未知」への軸の方向性こそが、そしてその中間道標としてある「否定価値の放棄」という大きな扉が、私たち人間の新しい生き方と幸福への方向性を示唆するものになると、私は信じています。

 つまり誰もが、「未知」への軸の先に人間性の根底からの異次元の成長に向かい得るということであり、実は健康な心で育った先に真の心の成長を遂げた人物も、明瞭に意識はしない中においてであっても、この「未知」への軸の道を通ったのではないかと私は考えています。

 逆に言えば、「未知」への軸を通らない限り、人は真の心の成長と、その先にある人間の真実を知らない範囲での「幸福」にとどまる、と言うことができそうです。

 

「存在の善悪と地位」への望みの解体

 

 「存在の善悪と地位」は、質を変えた望みの感情が同時に混在しながら、人の人生を大きく貫く、「望み」の大きな普遍テーマと言えるでしょう。

 人の心は、「存在の善と誉れ」を願ってこの世に生まれる。これに例外はないでしょう。しかし「生から受けた拒絶」の中で、「根源的自己否定感情」を抱くと同時に、「存在の善と誉れ」への望みは、何らかの程度において「存在の善悪と地位」への荒廃化した情緒を帯び、そこから「自意識」というものが始まると、この心理学では考えています。

 

 前章でも述べたように、まずは「存在の善悪と地位」という観念の理不尽と不条理を知性理性で理解できることが、心を病む歯車の回転強度を減らす、第一歩になります。

 自分の中にある「存在の善悪と地位」へのすさんだ情動に駄目出しをして「正そう」とすることは、何の効果もありません。なぜならそうして「駄目なものを否定できる自分」が存在の高みに昇るという、幻想の中に再び向かう堂々めぐりに過ぎないからです。

 「存在の善悪と地位」へのすさんだ情動はただ流すにとどめ、「存在の善と誉れ」を願う、より純粋な望みの感情の要素に、積極的に意識を向けることです。さらに、何によって自分が「存在の善と誉れ」を望んでいるのかという、容姿なり能力なり性格なりの「条件」を明瞭化し、「存在の善と誉れ」という結果報酬よりも、その内実そのものの価値について、社会を広く見る心の自立姿勢に立った目でじっくりと吟味し直すことです。そしてそこに「生み出す」ものが一片でもあるのであれば、それに向かって全力と全ての可能性を尽くすことです。もちろんそのための行動法の知恵とノウハウを仕入れながらです。

 

 心を病む過程からの流れを振り返ると、こういうことになります。

 (1)自ら望むことをやめ、(2)条件を通して望もうとする先に、(3)やがてその条件が神格化の高みさえ帯びた時、同時に自分自身を破壊し始める。これがその根核でした。

 そこに示される、大きく3つの歯車を、逆に回していくということになります。

 

 (3)「神格化」の不条理部分から、解いていきます。人を神からうじむしまでの「存在の地位」に選別する人間思想から、対等に望む権利と、努力による向上と現実の限界をありのままに見る、自由な社会における人間観へ。

 (2)「望むもの」が、「条件」の先に見える「存在の善悪と地位」へと流れていくのを、「条件」そのものの価値を、新たな人間観社会観から吟味し、そこに魅力を感じるのであれば、全力と全ての可能性を尽くして、向かうことを考えます。

 ここから心の成長が始まります。しかしこの先は一様の右肩上がりの過程ではなく、心を病む問題を抱えた程度において、(1)自ら望むことをやめさせた根源という心の闇の世界への向き合いも伴なう二面的な様相となり、「未知」への軸の先にある根本解決への道が続くのは先に述べた通りです。

 自ら望むことをやめさせた根源とは、他ならぬ「存在の善悪と地位」の不条理が心の底深くに植えつけたものであり、これは意識思考においてその不条理を脱するだけでは根本解消はできず、「未知」への軸がそれを解くものになるという流れになります。

 

人生のエッセンス・心の成長成熟による「存在の善悪と地位」と「愛」の変遷

 

 心の健康度によって大分異なる道のりがあるにせよ、心の治癒成長に応じて「存在の善悪と地位」の意識感覚が人の心の中でどう変遷していくかを知っておくのは、歩む先をしっかりと視界に入れておくために良いことです。それは人間の生涯を通して向かうことが課題となる、シンプルに3つに分かれる心の境地の変遷だと言えるでしょう。

 もう一つの大きな人生の命題への、人の意識感覚の変遷が、それにセットになるように生まれます。

 それは「愛」です。

 「存在の善悪と地位」への人間の意識とともに、「愛」が大きな変遷をします。それは「依存」と「自立」そしてその先にある「成熟」という3つの心の成長段階に支配されます。

 これは、人間の人生のエッセンスそのものだと言えるでしょう。

 

 「依存」の中で、人は「存在の善悪と地位」について、自分の目で社会を見てその内容の妥当性を吟味することができず、主にその見栄え印象によって、盲目的に魅惑されるか、もしくは追い立てられます。「存在の善悪と地位」の高みにあるらしい人物に愛され、その人物の世界に自分も所属することで、自分も「存在の善悪と地位」の高みに昇れるのだと感じます。

 人間の心のDNAが事実「自立」をこの者に指図している状況において、これは事実、この人間に浅ましい「寄生」とも呼ぶべき情動の断片を持たせることになります。これがまさに、この者が自分で気づくことを最も恐れる、隠された自分軽蔑と自己糾弾の火種になるのです。

 これを塗り消すために、この者は意識の表面で、この上ない高貴なる人間の理想を掲げ、その意識の高さによって自分が「存在の善と地位」の高みに値するという幻想に、しがみつかなければならなくなります。

 「愛」は、この者にとって「与えられるべきもの」です。つまりこの人は自分から愛することができません。たとえ意識表面でいかに「自分から愛せること」という理想を掲げ、そう意識することにおいて自分がそうできているという錯覚にひたるとしてもです。心の底はそれが事実ではないことを恐らく知っており、それがこの人の心に途切れることのない自己不全感を流すことになります。

 人に愛された時に、人を愛することができます。ですから、自分が愛されるタイプの人間だという自己像が、死活問題になります。自ら愛することができない代わりに、自分からできるのは、人を嫌いになることです

 これは大分辛辣(しんらつ)な描写であり、自分がその具現であると考えるのは無用です。人間の中には、必ず「依存」と「自立」へのベクトルが常にあるからです。自分が「依存」だけの不具人間になってしまったというイメージそのものが、「存在の善悪と地位」の幻想に飛翔しようとする、心を病むメカニズムの中の小さな根核の歯車が生み出した幻想です。

 それをただ見据え、「自立」のベクトルへと意識を向ければいいのです。

 

 人は「心の自立」に向かう中で、来歴の中で自分の中に取り込んだ「存在の善悪と地位」の不条理を、自分の目で見るありのままの社会に照らし合わせながら、疑い始めることができるようになります。そして「存在の悪と身分」という不条理部分を捨て、「存在の善と誉れ」というより純粋な望みへと向かうことで、心の成長が始まります。

 心が成長するにつれて、自分から人を愛することができるようになってきます。もう自分から人を嫌う必要はなくなってきます。なぜなら、それが意味を持つのは、人を嫌うことで自分の方が愛されるべき存在だという幻想を保つためであり、それが必要になるのは「依存」の中にいる場合だからです。

 それでもこの人が誰をどれだけ愛せるかは、引き続き「存在の善と誉れ」の尺度の中にあります。その人が持つ尺度において、より価値の高い相手をより愛することができます。その尺度において価値が低いと感じる相手は、特に嫌うこともないでしょうが、特に愛することもできません。

 これはもういたしかたのない、「未熟」から始まる人間の心の、成長の途上のありのままの姿です。そこに「存在の価値」の尺度と、その上にある競争という様相が多々生まれることは、命あるものが「生存競争」の中にあるという大自然の摂理の反映でもあります。

 

「不完全性の中の成長」

 

 「未熟」から始まり「心の自立」へと向かうその姿は、事実、不完全です。

 この不完全性を嫌い、次の「成熟」へと至った結果の完成形をただ空想の中で浮かべ、それに満たない不完全性を糾弾する高潔さによって自分が存在の善悪と地位の高みに昇るという幻想を抱き始めた時、人は心を病む道へと向かいます。

 これは結局、「依存」の世界に心が固着しているということです。そこに「依存の神格化」とも言うべき、人間の心の罠でもあり業でもあるものがあります。

 それをただ見据え、自らの中にある不完全性の闇を受け入れ、「存在の善と誉れ」へのより純粋な望みに向かおうとする自分を許した時、「未知」の軸の先にある「成熟」への歩みが始まるのです。

 

 これが、「不完全性の中の成長」とこの心理学が呼んでいる、人間の心の成長の真の姿です。

 

「心の成熟」と「無条件の愛」

 

 「成熟」に至り、「存在の善悪と地位」は完全に消え去ります。そこではもはや、「存在の善と誉れ」による差別化さえ、消え去ります。

 「愛」は無条件になります。この人はもう何も恐れることなく、誰でも愛することができます

 なぜそれが可能になるのか。明瞭な答えがあります。これは最後にお伝えします。

 そしてこの最終形は、恐らく「未知」への軸を通った先にのみあると、私は考えています。

 

心の成長と闇のスパイラル・「未知」への軸へ

 

 「望み」という第1の、そして最大なる人生の鍵と、次の、命あるものの最大の摂理である「自立」という第2の鍵のあり方によって、どう人生が開かれるかに大分異なる別れ道が現れる。この分岐点までを説明してきました。

 ここから先は、自ら望むことをやめさせた根源の、心の闇とも向き合う道のりの説明をします。

 

 「望み」の感情のより純粋な側面に向かうことが心を成長させ始める一方で、相変わらず心を闇の世界へと引きずり込むものの正体が、より明瞭になっていきます。

 この2面的様相の歩みは、極めて混沌としたものであり、完全なるケースバイケースの唯一無二のものになります。それでも、その道に現れる人生の鍵は普遍的です。それを手にし、次に進むべき道への扉を一つ一つ開けていく歩みが、鍵の現れる順序は不同のまま、スパイラルつまり螺旋階段的に続きます。

 心の成長によって内面の力が増大する一方で、心の闇の正体が次第に視界に近づいてきます。

 

 しかしその先のどこかで、突然、全てのつながりが失われる、「未知」への軸の歩みが始まるのです。

 そこまでの、混沌としたスパイラルの中で現れる人生の鍵を概観しておきましょう。

 

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