3章 基本の姿勢と歩み−3 −望みを捨てさせた根源へ−
真の望みへの道
ここから、「心を病む」という問題の根源へも向き合い、それを越えて根本的な心の治癒、そしてさらなる心の成長へと向かう道のりを説明します。
この章で説明するのは、「未知」への軸が始まる前の、やや混沌とした局面です。
より純粋な望みに向かうことで心の成長が前進する一方で、それでも心に深く残り続ける、自ら望むのをやめさせた根源の正体へと近づいていく、2面的な様相の道のりです。
その途上に、現れる順序は不同のまま、普遍的な幾つかの人生の鍵が現れる過程がスパイラル状に続きます。
前章で、比較的健康な心で育った人の場合の、「望み」と「自立」という最初の鍵によって、そのまま人生の開花へと向かう道があることも説明しました。より純粋な望みに向かい、現実を生きる知恵とノウハウを活用することでそれが可能になると。
しかしハイブリッド心理学が「真の心の成長」と呼ぶ異次元への成長変化は、「未知」への軸を経て「真の望み」に向かうことのみにあります。真の心の成長を遂げた誰もが、実はこの道を通っているのではないかと。
つまり、「より純粋な望み」とは、実はまだ「真の望み」ではないのです。それはまだ「真の望み」を見失った穴埋めを何らかの程度において帯びたものです。
「根源的な望み」というものも言いました。それもまだ見えてはいません。それは人の心がそれを願って生まれる、自他未分離意識の中で抱いた「望み」です。これも、「真の望み」が見出される中で、同時に回復するものになります。
この道のりはまず、真の望みを捨てさせたものの根源へと向き合うものとして始まります。
そのための鍵を説明していきましょう。
「望む資格」から「自ら望む成長」へ
ここから先に進むための、大きな条件があります。
「情緒道徳」と「望む資格思考」を抜け出るまでの「心の自立」を果たすことです。
情緒道徳と望む資格思考は、「心の依存」の中にある思考です。内面感情の善悪を問い、それによって望む資格、愛される資格を考える思考です。つまり、人が自分の気持ちを見ること、自分の気持ちが人に受けとめられることを前提とした思考法です。
それがいい悪いではありません。それは自分の気持ちを自分で受けとめることをしない心の姿勢であり、自分の中にある心の自然治癒力と自然成長力も、自分で受けとれない心の姿勢であるため、心が成長せず、前進が起きないからです。それだけです。実に単純な話です。
善悪は、客観的な外面行動について考えます。善悪はもともと、他者との関係、そして社会の中で起きる命題です。
内面感情の良し悪しは、そうした善悪よりも、自分自身の望みの問題として考えます。
たとえば「人への優しさが善」という命題であれば、まずその論理性の貧弱な思考を、外面行動の客観的内容について5W1Hをしっかりと考慮した上で、「善悪」という社会における問題と、自分の内面の個人的な「望み」の問題に分けることが大切です。
「善悪」は、社会の向上という客観的な観点から考えるのが望ましい話です。
一方、優しくされて気分よく感じるのは、個人的な感情です。これは必ずしも「善悪」に関係するものではありません。
人への思いやりのある行動はもちろん結構なことです。一方それがどんな嘘偽りない気持ちから行われているのかどうかは、もうその人個人の問題であって、善悪を問う問題ではありません。
本当に心底から人に優しい気持ちであれる自分を望むか。これがその人個人の「望み」の問題になります。
人に愛されようとして優しさを演じる「偽善」が許せない、と感じる場合、そこには「愛情要求」と「ニセへの憎悪」という、病んだ心の歯車が働いていることに、まずこの心理学では自己理解の取り組みを進めます。
その根底に、愛への深い挫折があることが分析された時、事実問題の焦点は、他人の偽善への怒りではなく、自分自身の深い内面へと移っています。深い悲しみと怒りが、自ら望むのをやめさせた根源として見えてきます。
それが自分の気持ちを自分で受けとめるということなのです。そこから心の成長が始まります。
内面の良い気持ちや姿勢が人に認められるべきだという考え方は、しごくもっともなものではあります。しかしそうした「結果の報酬」を求めた時、嘘偽りない本当のありのままの自分の感情を感じ取ることは、事実難しいことのように思われます。
「心の依存」の中で、「どう望むのが正しいか」という思考を始めた時、人は自分の真の感情と、なぜありのままに望むことができなくなったのかの根源を、感じ取れなくなります。
「心の自立」が、自己の真実と、真の望みへの、出発点になるのです。
ただし、「自分は心の自立ができない」と感じる方が、この先に全く進めないと言うものでもありません。「心の依存と自立」のこのような意味を深く理解し、心の自立を果せない自分に絶望することが、実は「心の自立」が始まっていることを意味するのです。パラドックスです。
これは同時に、次章で説明する「未知」の軸がすでに始まっていることを示します。「建設的絶望」の過程としてです。
「心の自立」とは事実、全ての生きるもののDNAに刻まれながら、その固体自身にとっては「未知」のまま向かうものです。私たち人間の場合大切なのは、それをただ本能的発現に任せるだけではなく、その芽が自分の中にあるのであれば、自分から積極的にそれに気づいていくことだと言えるでしょう。
そうして誰もが、自分の感情を自分自身だけが受けとめる、この道のりを歩み始めることができます。
自己の真実と、真の望みのために。その先に、人間の真実が待っています。
そのためにまず、より純粋な望みに向かう心の成長とともに、真の望みを捨てさせた根源へと、まず向き合っていくのです。
第3の鍵:「遡り」
真の望みを捨てさせた根源が、人の来歴の奥深くにあります。
人は来歴の中で、真の望み、さらにはより純粋な望みに挫折する中で、皮相化荒廃化した望みを抱くことにより、さらに自ら望むことは困難となり、「望みの停止」により「情動の荒廃化」を引き起こす中で、やがてすさんだ自分の心に向き合うことになります。
この来歴を遡る、つまり逆にたどることが、人に自ら望むことをやめさせた根源を解くと同時に、すさんだ心を清らかな心へと回復させる、「心の浄化」という神秘なる心の作用へ向かう道への、第一歩の踏み出しとなります。
すさんだ心の前には、皮相化荒廃化した望みがあり、さらにその前にはより純粋な望みが、誰の来歴の中にもあったはずなのです。そうした変わり目には、何があったのか。
前章でも説明した「自己の真実に向かう」という姿勢が、人がそれを解き、より純粋な望み、そして真の望みへと還っていく道を開くことになります。
これが「遡り」という、人生の第3の鍵になります。
私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』も、まさにこの「遡り」という神秘な歩が、その全体を貫く大きなテーマとなったものでした。
事実は混沌としたパラドックスの中にあります。人はまず、自ら望もうとすることで自分自身が憎む相手になることを避けるために、自ら望むことをやめるのです。そしてその代わりに、憎むべき相手を探して憎むことに生き始めます。そして自分が望んだものを見失い、人生を見失う・・。
そのパラドックスへと戻る「遡り」は、例えば『悲しみの彼方への旅』では次のような場面でした。
同時に、私の中で、来歴の遡りが始まっていました。自分が純粋な愛に挫折したのはいつからだったのか・・。
・・(略)・・
僕の中には、自分の容貌によって女の子に注目させようとする衝動があった。それでいながら、僕は〃恋愛のことしか頭にない〃彼女達に軽蔑を向けていた。
そうなった根底には、自分が女の子と自然に親しくできないことへの挫折感と屈辱感があったように思える。僕は中学の時、心の中では恋愛至上主義のような感情を抱きながら、外では女の子にぎこちない態度しか取れない自分をじれったく感じた。男の子のような活発な女子に対して、きさくで親しみやすい自分を演じようとしたこともあった。だが何となく気後れから、自らその「試み」から「退却」した。以後その女子からは自分が「変な男」という感じで見られるという感覚を僕は持った。
僕は、自分自身が理想的な姿になれなかったから、その原因を他人の中に求めた。僕は自分の不満感を、回りには愛するに値する人間が少なすぎるからだと自分に説明した・・。(P.72)
第4の鍵:「死」
ではなぜ純粋な愛に挫折したのか。その根源に遡らせる、さらに強力な誘因が必要になります。
その一つが「死」という、人生の第4の鍵になります。
事実「死」は、「遡り」ととても密接した関係にあります。「遡り」の先には「命」があり「死」があるからでしょう。人が死に際して走馬灯のように過去を遡ることも、よく語られます。
「死」は、心の「依存」と「自立」の中で、やはりその位置づけを全く異ならせます。
「心の依存」の中で、「死」は人に見せつけるものとして、復讐か、もしくは人の心の中に自分が抱かれ続ける幻想として、「与えられる」ものとしての愛への「手段」となります。
「心の自立」の中で、「死」は自らの「命」を問う、「命の洗濯」とも言える役割を果すものになります。
これは私たちの日常生活でも、かなり頻繁に見聞きする話でもあります。人が死に直面するような体験を経て、根本的に変化したと。その変化とは、人生を生きる上での嘘や無駄を捨て、自らの命を最大限に生かす揺ぎない前進に向うといった、まずは良い変化です。
さらに時に見るのは、人が死を前にして、目をおおうほどに醜く荒廃化させた心を、清らかなものへと回復させる瞬間があることです。それを犯罪者の事例として知る時、それはほとんど常に「現実における死」を前にした時でした。
その端的なものが、上巻5章で紹介したマリー・ヒリーの事例でした。
彼女のケースでは、取り戻した清らかな心によって、もはや社会的には許され得るであろう幸福にさえ背を向け、自らの出生へと遡り、自らの命を神に捧げることが、彼女にとって真に清らかな心を取り戻すことの完成であるかのように、彼女はその生涯を終えたのです。
その他にも、残忍な犯罪者がその生涯の終わりに際して、清らかな方向へと心を変化させたらしい様子を、世界の犯罪史を紐解く中で目にすることができます。
至上最高の快楽殺人者と言われたテッド・バンディもその一人です。死刑執行直前の姿でした。「自分は暴力中毒になっていた」。もはや快楽殺人者だった彼とは違う、静かな表情でただそれだけを言う彼の目は、僅かに涙を滲ませていました。
そして私たちの記憶に鮮明に残る、大阪池田小の児童殺傷事件の宅間守死刑囚。彼は自らが犯した事件について、「犯行途中で“もう十分や、誰か止めてくれ”と思ったが、勢いがついて自分では止められなかった」といった供述をしていました。
彼にとって殺人は快楽というよりも、社会への憎しみの表現だったのでしょう。彼は最後まで社会への憎悪を捨てることができず、早期の死刑を自ら望みこの世を去りました。それでも彼が最後に残した言葉は、「獄中結婚」した妻に「ありがとうと伝えて」と、職員に託した伝言でした。その言葉に、彼の心に取り戻された人間の心の一端を感じます。
もう一つ、TVドキュメンタリー番組の中で見た、ある終身刑の老人の姿が、私の記憶に印象深く残っています。内縁の妻を殺した罪による服役でした。
もはやベッドから起き上がる力さえままならず、身よりもなく、あとは死を待つだけのこの老囚人の元を、心のケアとして時折牧師が訪れます。
「今何が欲しいですか」そう優しく問いかける牧師の腕に、骨と皮だけのしなびた手ですがり、涙を流しながら老囚人が言った言葉は、「聖書が欲しい」というものでした。自分の冒した大きな罪を悔い改めたい。それが彼の「最後の望み」になったのです。
私は、常に「死」を意識して生きています。別にその具体的な心配があるわけではありません。すこぶる健康であり、百歳まで元気にスキーをするのが人生の目標の一つです。
「死」を常に意識するのは、「今」を大切に生きるためにです。自分が生きる時間を、1秒でも無駄にはしたくないからです。そして、自分がこの人生で何をする人間であるのかを、自分の命が何のためにあるのかを、問うためです。
私自身はその答えを、この執筆活動の中に見出しています。それを見据える時、自分がこれからの人生でどんな暮らしぶりができるかなどは、毛の先の微塵ほどの意味もないような気さえ、時にしてくるのです。もちろんいいに越したことはありませんが。
これらの話は何を意味しているのか。
「死」を前にした時、人生において本当に重要なものが見えてくる、ということです。これを安全な心理学的技術として使わない手はないでしょう。
もし自らの人生を充実したものにしたいのであれば、私たちはこの生きている日々において、「時間」が決して無限のものではなく有限であること、そして必ず訪れる「死」がいつ来るのかについて、私たちは何の制御もできないことに向き合い、今気にかけることそしてこれから行おうとすることの中で、何が本当に重要なのかをふるいにかけるという心の実践を、もっと積極的に取り入れるのが良いでしょう。
第5の鍵:愛と自尊心の対立
では「死」を前にして見えてくる、本当に大切なものとは何なのか。残忍な犯罪者たちが死を前にした時、初めて彼らの心に現れたものは何だったのか。
それはまず「愛」です。「死」を前にした時、「愛」が現れます。
老囚人が「聖書が欲しい」という言葉の中で求めたものも、神の愛でした。
では人生で「愛」が最も重要なものでしょうか。「愛」を求めることに、答えがあるのでしょうか。
明らかに違います。
明らかに、人は「愛」だけで生きる存在ではありません。もう一つ「自尊心」というものが、人間の心において、「幸福への条件」として極めて重要なものになります。
そして「自尊心」を「愛」に依存した時、人は「愛」を失うと同時に「自尊心」を失うのです。
もし人間が「愛」だけで生きることのできる動物であれば、人間の心の問題はこうも複雑にはならなかったでしょう。
実際のところ、「愛」だけでは腹は満たされません。食うためには稼がなければならず、そのためには社会で勝てなければなりません。そうした強さへの指標として、「自尊心」という感情があります。
かといって愛に背をむけて我利我利亡者になっても、自尊心は大して増えません。「愛」そのものが、自尊心の大きな条件になっているからです。
「愛」と「自尊心」が重なるものでありながらも、多分に相容れない面を同時に持っている。これが事実であり、それが人間の心の最大の課題でもあるでしょう。
「愛」が大きく私たちの心を魅了するものである一方、私たちがそれを求めることによって自らの自尊心を失うのならば、それは心にとって一つの危機になります。
だから自分を守るために、「愛」にそうやすやすとは近づけないという事態が起きてきます。形だけの真似事恋愛のような愛の話ではなく、本当に重要な愛においてはです。
ですから、皆さんも思い出してみるといいと思います。少年少女時代、初恋の人に近づこうとすることは、何の不安もない、良い気分だけのことだったでしょうか。
「愛」が「一体化」への感情である時、事実それは「自由」と相容れない面を持つことにもなります。
これは健康な心においてさえ、そうです。相手と一体化している間、自由は多分に犠牲になるからです。
自らの「心の自由」を保てることは、自尊心の重要な条件にもなります。「自由」を求めることはさらに、明らかに人間の真実の一つです。
もし愛が自由を殺すものであるのならば、自由を選ぶために愛を殺さなければならないという選択に立たされることになります。
第6の鍵:「恐怖」
「愛」と「自尊心」が重なるものでありながらも、相容れない側面を持ち、一方を求めることで他方を失う可能性がある。そこにもう一つの要因が加わることで、人が「望み」に向かうことができなくなる事態が起きてきます。
それは「恐怖」です。
愛を求めることで自尊心を失うことへの恐れがある時、私たちは愛に向かうことができなくなります。
いや実は、愛に向かうことができなくなる以前に、自尊心を失うことを怯える自分自身の姿によって、すでに愛は損なわれていたのかも知れません。
自尊心に向かうと愛を失うと怯えた時、私たちは自尊心に向かえなくなります。実は、愛を失うことに怯えたことに、すでに自尊心が損なわれていたのかも知れません。
もし自尊心によって愛を失うことを恐れなければ、私たちは自尊心に向かうことができます。
愛の犠牲として自尊心を失うことに脅かされることがない時、私たちは愛することができます。
愛を失うことを恐れなければ、私たちは、真に愛することができるのかも知れません。
「恐怖の克服」
かくして、「恐怖の克服」というテーマが大きな鍵になってきます。
「恐怖の克服」を正しく知るために、「恐怖」という感情について知っておかなければならない、決定的な心理学的事実があります。
「恐怖」は、まず当然の話として、「危険を回避せよ」という脳の信号として生まれたものです。
しかし「恐怖」はその本来の目的のために、極めて不完全な感情の機能だということです。
第一に、恐怖の感情は危険を必ずしも正確に感知するものではありません。かなり不正確だということです。これは特に「空想力」が発達した人間においてそうです。極めて曖昧な理由でも恐怖が起きることがあります。
第二に、恐怖の感情は、危険からの実際の回避行動に適した感情ではありません。これは動物の世界からしてそうです。ヘビににらまれたカエル。臆病なタヌキは敵に襲われると恐怖のあまり失神してしまうと聞きます。「死んだふり」という機能もあるかも知れませんが、自ら敵の餌食になるような話です。人間も、「腰が抜ける」とよく言います。
2つ目の話から、自明的に言える事実をつけ加えることができます。それは、恐怖の感情は心の健康に極めて害が大きいということです。怒りのように「自ら」自分に害を与えるのではなく、まずは外部の引き金による感情ですが、心の健康への有害度そのものは、恐らく怒りの数倍になるでしょう。
ですから、「恐怖の克服」としてまず決定的に重要なことがあります。この2つの問題を共に克服しなければならないということです。恐怖の感情では現実の危険を正しく知ることができないこと。そして恐怖の感情の不利益と有害性です。
多くの方が、後者片方のみの克服を、「恐怖の克服」と考えます。これは完全な誤りです。
「恐怖の克服」とは、「恐怖感情による危険回避システム」という脳の機能そのものを、全く別の危険回避システムに移行させるのが答えです。それは「知性と理性による危険回避システム」です。
基本的に、「危険」や「脅威」の認識判断を、「感情」には頼らないのが重要な方向性になります。
多くの方が、「恐怖の克服」とは「恐怖を感じないこと」だと考えます。恐怖を感じないことが、良いこと。恐怖を感じるのは弱さであり、情けないことだと。
これは完全な誤りです。そう考えた時点でアウトです。
それは恐怖の感情を何かの判断に使っているということです。その時点で、もう恐怖の克服はできません。
さらに多くの人は、恐怖の感情を積極的に利用さえします。恐がる「かよわさ」を演じたり、「霊感能力」を自慢するかのように。
恐怖の感情が人生を妨げていることを感じないうちは、それで済むかも知れません。しかし本当に重要な「愛」と「自尊心」に向うことに「恐怖」が大きな壁になることを前にして、好都合な部分だけ残して不都合な部分だけなくそうとしても、そうは問屋が卸しません。
真の「恐怖の克服」は、まずは危険と脅威の判断を「恐怖の感情」に頼らずに行なう、現実科学的な目と思考を築くことにあります。そしてやはり現実科学的な対処行動ができるようになることです。
それでも「恐怖の感情」は湧くのです。そこに自らの恐怖の克服能力にとっての「未知」がある限り。
それを知り、知性と理性で「正しく安全を知る」ことと同時に、その「恐怖の感情を生きた」時、恐怖の感情は根底から消滅に向って行くのです。
これが正しい「恐怖の克服」です。
それが果された時、この人間の心に大きな「自尊心」が獲得され、同時に、未知の「愛」の感情が湧き出るようになってきます。
「生み出す自尊心」へ
「心を病むメカニズム」の過程において、「恐怖」はまず明瞭な論理性を持たないまま、個人の心に取り込まれます。
それが「根源的自己否定感情」であり、さらに意識の許容範囲を越えたものが「感情の膿」です。
全てが後づけで、「恐がる理由」が個人の心に作り出されます。自分は失敗するのが恐いんだ。自分は人に嫌われるのが恐いんだ、と。
そうして後づけで作り出した「恐がる理由」が外部にあるものが、恐怖の対象であり「脅威」なのだと考え始めます。そしてその脅威を消すための行動に駆られ始めるのです。
やがてそれが、人を恐れる自分を処罰したり、「引きこもり」になったり、自分を嫌う他人を殺したりすことに至ります。
不適切な解釈づけによって、自らが描いた「脅威」を、「こうなっては駄目だ」と消し去ろうと駆られることで、まさに「現実において自分を脅かす事態」を自ら作り出してしまうのです。
ハイブリッド心理学の「病んだ心から健康な心への道」の歩みは、これを逆に戻すことを行ないます。
恐怖への誤った解釈づけは、まず例外なく、自尊心衝動への短絡的な姿勢と結びついて発達します。
愛される必要がある。優越しなければならない。否定できなければならない。そう考えると、この世界はうまく行かないこと、妨げるものだらけになります。さらに、この人と同じ短絡思考を持つ大勢の人々との間で、戦争が始まるような様相になります。かくして生きることは恐怖だらけになります。
何よりも、自尊心への舵取りを大きく方向転換することが重要になるでしょう。「生み出す」ことにおける自尊心へ。外部は敵ではなくなります。恐怖は大きくその度合いを減らし始めます。
ここで「生み出す」とは、「喜び」「楽しみ」そして「あらゆる向上」のことを言います。害のあるものやトラブルを生み出すことはもちろん含めません。ですから「価値の生み出し」ともよく言っています。
「価値の生み出し」に向うと、「生み出す価値」に応じて自尊心が高まってきます。そして心がより純粋に「生み出す価値」に向かい、「自分の姿」への意識が薄れるにつれて、自尊心は自意識を伴わない、そして後戻りのない、真の自尊心へと質的に変化していきます。
「生み出す」ことにおける自尊心は、「愛と自尊心の対立」への答えにもなります。生み出す自尊心に向った時、自尊心はもう「愛」との対立を引き起こさないからです。
自尊心に向うことで愛を失うという恐怖は、必要なくなるということです。だから私たちは「生み出す自尊心」に、何も恐れることなく向うことができるのです。
ただし「生み出す自尊心」によって、恐れることなく愛に向うことまで可能になるかと言うと、残念ながらそこまではできません。
「生み出す自尊心」によって愛を損なうことはありません。だから「生み出す自尊心」に向うことができます。
愛に向うことで自尊心を損なう時、私たちは愛に向うことができなくなります。愛に向うことで「生み出す自尊心」が損なわれることはまずありませんが、別の自尊心が損なわれる可能性は出てきます。
それを恐れた時、私たちは愛に向うことができなくなります。
人生で本当に大切なもの・・
私たちは、人生でより大切なものが奪われる脅威に対して、より強い恐怖を感じます。これは当然のことです。
しかし人が、その人の人生にとり本当に大切なものをどれだけ自覚しているかは、とても曖昧です。実は本当に大切なものから表面の意識で目をそらしていたり、実は全く大切ではないものを、何よりも重要だと考えたりしているかも知れません。
これはまず、上巻6章で説明した「自意識の根本的不完全性」の影響があります。「現実を生きる」ことを見失い、自意識の中で描いた自己像を「自分」だと思い始め、「現実の自分」を正しく知ることが、そして向き合うことが、できなくなってしまうのです。
それは、自分の人生で本当に大切なものが、自分でも分らなくなっていくということです。
「恐怖の克服」への根本的な誤りが、それに拍車をかけます。「恐怖の克服」とは、恐怖を感じないで済むことだと。
「そんなもの大切ではない」と思い込むことに成功したら、確かに恐怖は多少薄らぎます。
しかしその代わりに、この人は人生で大きなものを失う方向に向うことになります。自分の人生で本当に大切なものを自ら否定し、背を向けるという方向に。
自ら愛に向う恐怖
心を病むメカニズムの中で、自分から愛に向うことは、人に「真の恐怖」を与える様相になります。
この恐怖の源泉は複合的です。まず愛されるために必要な「なるべき自分」を損なってしまう事態、そしてその結果起きるであろう激しい自己処罰感情への予期不安、「愛を求め無力化する自分」が一方の自尊心衝動と激しく引き起こす葛藤への恐怖。
そしてそれら全ての根底に、もはやそうした恐怖の明確な論理づけが不可能な、「根源的自己否定感情」そして「感情の膿」に触れる恐怖が横たわっています。
そして最終的に、そうして愛に向うことに恐怖を感じることが、自尊心を損なってしまいます。怯えている姿とは、その理由が何であれ自尊心を損なうものだからです。
だから私たちは、自ら愛に向うことをためらい始めます。そして自ら愛に向わなくても条件によって愛が得られると考えたりし始めます。「愛とは〜すること」と、愛を愛以外のもので解釈して、自ら愛に向うことをやめた言い訳を始めたりします。
自ら愛に向うことができなくなることは、やはり自尊心を損ないます。「自ら愛せる」ことへの自尊心というものが、やはりあります。
そして実はこの「自ら愛せる自尊心」こそが、「愛される自信」への、容姿才能性格という人間の3大魅力価値をはるかに凌駕する、安定した源泉です。ホーナイがこれを「愛する能力」として指摘したように。
「愛される自信」とは、「愛される保証」を意味するものではありません。私たちはどんなに「愛する能力」を獲得したとしても、どうしても自分を愛することのない他人に出会う「現実」があります。
その「現実」を恐れて「愛される保証」を求め始めた時、人は「愛する能力」を大きく失うのです。そして自ら愛に向うことに完全に背を向けてしまいます。
「愛される保証」を求め始めた時、それは同時にこの人を「傲慢」にします。
ここにターニングポイントが生まれます。「愛される保証」を求めたことが、逆に人に嫌われる危険を生み出し始めるのです。
それを再び恐れ、さらに「こうすれば愛されるはずだ」という思考に駆られた時、それはやがて「こうであれば愛されるべきだ」という「信念」にまで高みを帯びるかも知れません。
やがて人はその「信念」に基づき、そのための「なるべき姿」にいかに近づけるかを「自尊心」だと思い始めます。これはもはや大元の「愛」とは大分違う顔をした感情です。
この時、このターニングポイントに、人の心に住む悪魔が取りつく隙間が生まれるようです。
第7の鍵:「罪」と「罰」
「こうすれば愛されるべきだ」という「信念」を抱いた人は、自分を愛さない人間を悪だと思い始めます。そしてその他人を破壊しようとします。この「破壊」は、「相手を嫌いになる」から、「殺人」までに至ります。
ここに「罪」が生まれます。それはとても深い「罪」です。現実の外面で引き起こす出来事の客観的な「罪」の内容の大きさと深さに関わりなく、その人の心において、その人自身にとっての深い「罪」になるのです。
そして人はこの「罪」を恐れて、さらに自ら愛に向うことができなくなるかも知れません。
自ら愛に向うことが、同時に、「罰」への恐怖を伴うようになるからです。
自ら愛に向うことができなくなるだけで済むなら、まだ損失は浅いのかも知れません。
自ら愛に向う時の恐怖を嫌い、「愛は別に自分にとって大切ではない」と考え始めた時、人は愛そのものを根底から失っていく茨の道に立たされることになります。
「こうなれれば愛されるべきだ」という「なるべき姿」を掲げた「自尊心」そのものが、「罪」の影を帯びるようになります。自尊心に向うことが「罰」への恐怖を生み出すのです。この時人の心は、明らかに病んだ姿を示し始めています。
それでも人は、「人間とは罪を抱える存在なのだ」といった難解な哲学で、自分に言い訳を始めるかも知れません。
成長への痛み
心を病むメカニズムの影響がどうであれ、自ら愛に向う時に湧き出る恐怖は、答えの見えない恐怖として、まず私たちの前に立ちはだかります。
それはまず多くの場合、本当に大切な「愛への望み」を自ら壊してしまうことへの恐怖として、私たちの前に現れるでしょう。
「私はあなたが好きです」さらには「私はあなたを愛しています」と言うことは、「私もあなたが好きです」そして「私もあなたを愛しています」と言われる可能性を生み出すと同時に、「私はあなたが嫌いです」と言われる可能性を生み出します。
事実、これが「心の痛み」を伴わないことは、永遠にないでしょう。
一方、「痛み」を恐れるかどうかには、人間の別れ道があります。
「痛み」がただ「痛み」としてだけ訪れる時、それは恐れの対象になります。
しかし「痛み」に「成長」が伴う時、それは「成長への痛み」になります。
自らの痛みが「成長への痛み」であることを知った人間は、痛むことを恐れなくなります。これが人に大きな自尊心を与えます。
愛を失う痛みが「成長への痛み」であることを知った人間は、自ら愛に向うことを恐れなくなります。この時人は真の自尊心を獲得します。
愛を失う痛みが「成長への痛み」であることを知る人間は、ほとんどいません。
「成長」を知らないからです。
第8の鍵:「成長」
「成長」とは常に、「未知への変化」のことを言います。
全てが完全な既知として定められた中での進歩を、あまり成長とは言いません。生きるものは必ず、「成長」によって、何かしらが今まで知られているものとは違う、「未知」を示すようになります。それがごく僅かな量的な違いにとどまるとしてもです。
これが完全に定められた既知の中に収まるものとは、「命」のあるものの「成長」の話ではなく、人工的な工業生産物のような話になってきます。
「成長」は、「自立」と共にあります。なぜなら「依存」の中で、全てが「既知」の世界にとどまるからです。
「依存」は、「あるべきもの」がある世界です。あるべき姿になることで、守られ、愛される世界です。だからそれが「あるべきこと」になります。それを知り、その通りになることが、「成長」であるように感じます。これは錯覚です。
「自立」は、「あるべきもの」のない世界です。なぜなら、「あるべき姿」になったとしても、守られることも、愛されることもないかも知れないからです。
なぜ自立すると、「あるべきもの」のない世界になってしまうのか。
「現実」に、自分が直接触れるからです。「現実」は、必ずしも「あるべき」通りの世界ではありません。
「依存」は、自分を守る大きな目を通して「現実」に触れます。否、自分を守る大きな目の中で生き、「現実」には触れません。自分を守る大きな目が、自分の代わりに「現実」に対応してくれます。だから「依存」です。
「自立」とは、自分を守る大きな目の外に出て、自分の目で「現実」を見ることです。
「心の自立」の中で心を病む歯車の全てが位置づけを変える
すでに述べているように、「心の自立」の中で、人がその中で心を病んでいく感情の全てが、その位置づけを変化させます。
何よりも明白な位置づけの変化を起す感情は、「恐怖」になるでしょう。「依存」の中で、「恐怖」は、「私を守って下さい」という合図です。自分の気持ちを人に受けとめてもらい、恐怖から守ってもらう必要があります。それが「あるべきこと」になります。
そのためには、自分も、「あるべき姿」でいる必要があります。
しかし「あるべき姿」になることで自分が守られるべきだ、さらに愛されるべきだと考え始めた時、この人は「傲慢」になります。そしてこの「傲慢」によって、人は愛されることがなくなり、さらには「罪」を抱え、「罰」を恐れる存在になります。
なぜこんなことが起きてしまうのか。事実、「自立」が定められているからと言えるでしょう。もう「自立」すべき時が、事実来ているのです。それを別のものにすり代えた時、人間の心で何かの歯車が狂い始める・・。
「心の自立」においては、自分の気持ちを受け取るのは、自分自身です。「恐怖」は、人に守ってもらうための感情から、自ら克服しなければならない感情として、大きくその位置づけを変化させて人の心に現れるようになります。
「守られるに値する」ための「あるべき姿」も、もうありません。これは反面で「心の自由」が得られることを意味します。
「罪と罰」も大きくその位置づけを変えます。「依存」においては、それはどう「大きな目」に許されるかの問題です。しかし「心の自立」の先には、もうその「大きな目」がないのです。
これは「罪と罰」が、人の目との関係ではなく、自分自身との関係の問題になってくるということです。
これが人にその貪欲で傲慢な利己性を開放させることになるのか、それとも根底からの人間性の浄化へと向わせることになるのかは、ここではまだ未定です。
「心の自立」と「心の浄化」
「心の依存」そして「庇護の世界」では、どうしても心に「荒廃化」のベクトルが働きます。
それとのバランスを取るための「規律」が必要になってきます。「道徳」が必要になってきます。
なぜ「依存」の中では「荒廃化」へのベクトルが働くのか。
一つは、「自立」が本来は「望み」としてあったはずだとこの心理学では考えます。本人がそれをどう意識していようと、少なくとも自尊心が損なわれているのは事実でしょう。結局、「望みの停止」が起きているということであり、「情動の荒廃化」のメカニズが働くということです。
もう一つは、庇護と依存の世界では、どうしても「価値」は限りのあるパイを分け合うものという構図になり、「欲求」というものがどうしてもわれ先にという競争心と貪欲を帯びる傾向があります。
こうした「庇護と依存の世界」で、さらに「存在の善悪と地位」の幻想が抱かれるごとに、人は残忍で傲慢な「望む資格思考」や「選民思考」を抱くようになり、「共感」を喪失し、「踏みにじり」が起きた時、そこにはっきりと「罪」が現れてきます。
「庇護と依存の世界」では、「罪」は「罰」を受けることで抑制されます。
ただしこれは「欲」が「貪欲」であることを根底から変えるものではなく、結局は「罰」との力関係のような話になってきます。
自分の「罪」を認めず「罰」を免れようとすること、そして自分の欲を通そうとすることは、「わがまま」「甘え」として、人の心に問題視されるものとなります。
「心の自立」の先には、こうした「荒廃化」と「罪」を回復に向わせる道があります。
「心の浄化」と「おぎない」です。
「心の浄化」は、心を根底からもう荒廃化した感情を湧き出さないものへと回復させ、「おぎない」は単に「罰」による「罪」の「けじめ」を越えて、心の根底からの他者との調和の回復へと向う道になります。
ただしこれは「心の自立」だけで自動的に起きることではありません。
もし問題が最初からごく薄いものであったのならば、「心の自立」は自然とこの「心の浄化」と「おぎない」のメカニズムを人の心に作用させるかも知れません。
しかし問題が一定の段階に達した後に、この「心の浄化」と「おぎない」を再び作用させることができるかどうかには、多少とも何かのプラスアルファが必要になってきます。
まずは何よりも、この人間自身が、自らの心を浄化させたいと望むどうかが問われてくるでしょう。
これは本人がまず自分の心の荒廃を、言い訳することなく認めること、そして心の浄化への姿勢を理解すること、この2つが必須になります。
荒廃化した欲望を固定化させたまま、「心の自立」に向うという話も、心理学の理論上はあり得る話です。この場合はもはや「甘え」「わがまま」という問題ではなく、一つの集団とその外敵という、大自然における出来事に近くなってきます。
ただし実際の世の犯罪者がこの姿であることはあまりなく、何らかの心の依存性による問題を伴っている形になるでしょう。
「おぎない」と「心の浄化」のメカニズム
いずれにせよ、この心理学による「病んだ心から健康な心への道」は、「自らの心の浄化」を一つの課題動機として本人が意識する先にあるものになります。
「心の浄化」については、「遡り」と「死」という2つの鍵をすでに説明しました。「心の自立」に立つことで、私達はこの2つの鍵を手に取れることになります。
「遡り」は、「穴埋め」と「腹いせ」による変形を帯びた欲求を、より大元の純粋な望みの感情へと遡ることです。
これは「心の自立」によって可能性が開かれてきます。なぜなら、「穴埋め」と「腹いせ」は「庇護と依存の世界」で意味を持つからです。
庇護の世界とは、自分に向けられた目のある世界です。だから、自分がこの世に生まれた中で願った大元の「望み」が妨げられた時、人の目に見られることで望みが叶ったと感じようとする「穴埋め」の蜃気楼と、自分に良いものを与えてくれるべきであった者達への、「腹いせ」が成り立つのです。
「心の自立」とは、自分に向けられた目のある世界からさらに外側に出ていくことです。つまり、自分に向けられる目がもうない世界です。それはもう「穴埋め」と「腹いせ」が意味を持たない世界です。
人にどう「見られた」ところで、本当に自分の望みを満たし幸福になることとは全く違うということが、見分けがつくようになるです。
「死」は、「依存」の中で、苦しみを見せつけ与えられる特権を得るための、あるいは人の目に罪悪感を植えつけるという「腹いせ」の完成のための道具になり得ます。
「自立」の中で、「死」は自らの命を洗浄するために向き合うものになります。
「おぎない」は、「罰」を受けることを越えて、他者との調和の回復へと人を向けます。そのための「おぎない」の内容がどのようなものになるのかは、もちろんケースバイケースです。
それでも言えるのは、「おぎない」が他者との調和の、そして信頼の回復になるのは、「共感」の回復が基盤になってです。
真の「共感」は、「心の自立」の先に生まれます。
なぜならば、「心の自立」が自分の気持ちを自分で受けとめることである時、これは同時に、この人が人の気持ちも受けとれる強さを持ち始める第一歩になるからです。
「心の依存」の中で、人は他者への共感と思いやりを失います。なぜなら、「心の依存」が自分の気持ちを人に受けとめてもらう必要がある心の状態である時、自分の気持ちを自分で受けとめることができないのに人の気持ちを受けとめることができるとは、まず考えにくい話です。
「庇護と依存の世界」で「共感」が失われるのは、真に対等な他者との関係がないからでもあります。あるのは自分を守り愛するべき大きな目と、その寵愛をいかに与えられるかを競う、「存在の善悪と地位」をめぐる争いです。
そこで人は守られ愛されるための「あるべき姿」として、「思いやり」を掲げるかも知れません。
しかしそれによって実際に人を思いやれることはありません。それは「思いやり」を思いやっているだけであって、人を自分と同等に、別個の人格を持つ人間として思いやることはできません。
そして実際にはそうではないまま、「人を思いやる自分」が誰よりも守られ愛されるべきだという、「傲慢」に再び向います。
心の底だけが実はこのことを知っています。そして本人にはもはや理由の分らない「罪と罰」の感情を心に流します。
人は「罪」を消すために「あるべき姿」になることが必要なのだと再び考えます。そして傲慢の罪へと再び向う。永遠に出口のないメビウスの輪が、ここに完成します。
「真の愛」への出会い
すでに深刻な荒廃化を帯びた心が、どれだけの「心の浄化」と「他者との共感の回復」に向うかは、このように「心の自立」を基本的な基盤とした上で、まずは本人が「心の浄化」へと自ら向うことに委ねられることになります。
事実この段階で、このような出来事は現代社会の日常では目にすることのほとんどないものになってきます。そこに、ハイブリッド心理学のような特別な取り組みが必要になるゆえんがあります。
さらに、荒廃化した心から真に清らかな心への回復には、もはや意識的努力ではどうにもできない要因も関連していることが、例えばマリー・ヒリーの事例に示されます。
それは「真の愛との出会い」です。
現代社会の人間関係にまず見受けられるような、ただ「普通」というレールに乗ることで成立しているような希薄な愛ではなく、腹の探り合いの中で得ようとするような虚飾に満ちた愛でもなく、何の混じり気もない、ただそれだけのためにある「愛」ということになるでしょう。
これはもうこの心理学が人に与えることのできるものではありません。
ただし、「心の浄化」を発現させるための「真の愛」とは、そんな純粋な愛情の持ち主の他人と出会うということよりも、この本人の側の、純粋に人を愛する気持ちとの出会いのことなのです。
それが人それぞれにおいてどんな形になるのかは、もはやここで見通すべくもありません。この心理学からは、ただそれが視界に訪れた時はしっかりと見据えるよう、あらかじめお伝えしておけるのみです。
「未知」への軸・最後の鍵へ
「望み」と「自立」という全ての基盤となる鍵において道を踏み外し始めた心は、「遡り」「死」の鍵を置き去りにしたまま、「愛と自尊心の対立」に翻弄される先に、「恐怖」によって前進を阻まれ、「罪と罰」という第7の鍵により、自らの人生の破壊へと向うターニングポイントが訪れる。そんな印象を感じます。
事実、人間は「罪と罰」という命題の下に、人間を破壊し始める。そんな存在です。
そして第8の「成長」という鍵により、再びそこからの回復と克服へのターニングポイントを手にするのです。
人生の鍵は、実はこれで終わりではありません。最後にもう一つ、人間の心の業を生み出す最大の鍵が出てきます。
それは「空想と現実」という鍵です。この鍵の下に、人は幸福を願いながら自らそれを破壊し、人間が人間を破壊するようになったのです。
なぜそんなことが起きてしまうのか。この心の業の克服のために、私たちはまずこの章で述べた道のりをしばらくは歩かなくてはならなでしょう。これは不確かな道です。なぜなら、人間はこの「心の自立」において根本的に不完全な存在だからです。
自らのその限界と、人間の不完全性を受け入れた時、人間の心の業からの脱出への、「未知」へと至る明確な道が現れます。
それがハイブリッド心理学の見出した、「病んだ心から健康な心への道」に他なりません。
「心の自立」への不確かな道を歩く積み重ねの先に、「否定価値の放棄」という最大の道標となる扉が現れます。
その扉を開いた時、この道はもはや揺らぎない道として、私たちの前に開かれます。