心の成長と治癒と豊かさの道 第4巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(下)−病んだ心から健康な心への道−

4章 「未知」への大きな前進−1 −「自己操縦心性の崩壊」という根本治癒−

 

 

未知への軸の入り口・「建設的絶望体験」

                    

 「未知」への軸の道のりは、「建設的絶望体験」から始まります。

 これが「真の望み」「真の心の成長」に向かう道のりの、入り口になります。

 

 「建設的絶望体験」とは、文字通り、建設的な役割を果す絶望体験です。

 絶望を経て、今まで知り得なかった人生の喜びを知る。絶望して初めて、人生を生きるとはどういうことなのかが分かってくる。そんな「絶望」の体験です。

 

 もちろんこれは何の突飛な話でもなく、私たちが日常生活の中でしばしば目にし耳にするものでもあります。

 それは枚挙にいとまがありません。一般教養の世界で誰もが知るのが、ベートーベン『苦悩を突き抜け歓喜へ至る』でしょう。「自意識」の中で閉ざされた人生の幸福が、「絶望」によって、自意識を伴わない「歓喜」の感情として解き放たれたのです。

 前章でも触れたように、人が「死」に直面するような体験を経て、根本的な変化を遂げることは良く知られた話です。その時人の心の中でまず間違いなく、それまでの望みが断たれ別の何かが開放されるという過程が、起きていたのであろうことが考えられます。

 「入門編」では、「自分の顔を失った人」の話をしました。交通事故の際に、顔に深刻な火傷を負ってしまった人たちです。そうして「人に見られる」ことで生きる道を断たれた先に、普通の人々さえ知らない人生の喜びを見出した。「人生をやり直せたとしても、馬鹿だと思われるだろうけど事故に遭った自分の方を選ぶ」と。

 

「容赦ない現実」を受け入れることの難しさ

 

 ただしそうした「絶望体験」が「建設的」なものになるとは、普通の人には想像の難しい、生易しい話ではないことは事実です。

 人はどうしても、今まで自分が守られた世界に自分がまだいるという幻想に、しがみ続けようとしてしまうのです。そして「容赦のない現実」を前にして、「これはあるべきことではない」という思考に向かい、怒りと嘆きの中で人生を生き始めるのです。

 

 事実、そうした「現実」を受け入れることは、とても難しいことです。映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』で有名なマイケル・J・フォックスは、30歳という若さでパーキンソン病にかかった現実を受け入れるまでに、8年間かかったそうです。

 それまで彼は、その「現実」を心からしめ出そうと、症状を薬で押さえ、健康を装った出演を続ける一方で、酒に溺れる日々を送るようになりました。家族への愛を失い、八つ当たりし、やがて家族からも去られてしまいます。

 そうして8年目にして、やっと、彼の心の中で、この「現実」を受け入れるという、心の未知なる歯車が動き始めたのです。彼は、この、「パーキンソン病にある者」という自分の現実こそが、自分の生きる原点なのだと受け入れました。そしてそこから前に進むことに、意味を見出したのです。

 それは、パーキンソン病という病にある自分の姿をありのままに世界に晒し、同じ病に苦しむ多くの人々と手を取り合って、その克服へと歩むことでした。それは彼だけにしか成し得ない、彼だからこそ可能な、唯一無二の前進への道でした。

 これを契機として、彼の心に家族への愛が戻り、治療法研究のための財団も設立し、新たな人生へと歩み始めます。

 

 日常生活の中で見聞きする、そのような「建設的絶望体験」をした人物達の話を考えると、印象としてまず2つの事実があるように感じます。

 まず、彼らがもともとバイタリティのある人物であり、基本的に前向きに生きていた人であったであろうこと。

 もう一つは、それでもやはり、その体験は彼らにとり、最初は「あるべからざる絶望」以外の何ものでもないものとしてあったことです。

 その時彼らは、全く光の見えない闇の中に、事実置かれたのです。決して「絶望の先に歓喜があるさ」などと考える「心の持ちよう」で至った生易しいものではないのです。

 

 事実、それはあまりにも受け入れ難い体験として人の心に訪れます。マイケル・J・フォックスの場合も、彼は何よりも映画の舞台で活躍し続けることを望みました。だからこそ彼はこの容赦ない現実を受け入れることができず、自分を失いかけたのです。

 これをもし、パーキンソン病にかかったことを知った時点で、「仕方ない諦めるか」とうそぶくように映画の舞台への望みを断念し、例えば早々に別の職業を考えるなど始めていたら、彼はもう人生の輝きも何もない、抜け殻のような残りの生涯に向かったかも知れません。

 彼はまず最初のその誤りを免れました。あまりにも安易に自ら望みを停止させるという誤りを。「可能性」がある限り、彼は映画の舞台に立ち続けます。しかし、過酷な現実が、彼の心を圧迫し始めます。

 彼の中で未知なる心の生命力が解き放たれたのは、その後だったのです。

 

「建設的絶望体験」の心理メカニズム

 

 「望みに向かい現実に向かう」ことを心の成長の原則と考えるハイブリッド心理学の視点から、「建設的絶望体験」のメカニズムを言うことができます。

 それがまさに、「真の望み」に人がどう近づくのかを説明する、重大なメカニズムとなるのです。

 

 彼らは、心の表面の意識よりもはるかに深い芯のところで、「自ら望む」ことを最後まで捨てることを踏みとどまったということです。たとえ心の表面の意識が絶望の嵐に吹きすさんでいてもです。

 心の深い芯が「自ら望む」ことを保ったまま、心の表層にあった「望み」が崩壊した後に、「真の望み」が芽を出したのです。

 

 もし人が穴埋め腹いせの幻想として描かれた「誤った望み」を抱き続けていた場合、それに一度絶望することが、「真の望み」に戻るための建設的な契機になる。

 これが、「建設的絶望」のメカニズムになります。

 

 ただし、私たちの「意識」は、この建設的側面を、その「絶望」のさなかには体験できません

 「意識」そのものが、穴埋め腹いせの幻想が描かれた後で始まるというメカニズムが考えられるのです。穴埋め腹いせの幻想は、意識が始まる前に、意識の外部で描かれます。「意識」は、それを「現実」だと思い込むことの中で始まります。

 事実、それは「現実」としか感じようもないものです。自分がこの「現実」の中で、これこれを望んでいるのだと。その望みが断たれるとは、不幸になるということであり、人生の終わりであり、破滅なのだと。それが、この「現実」なのだと感じます。

 「意識」は、まずその「望み」に向うことをしなければなりません。

 とことん望みに向う。そしてその根元まで突き詰めた時、それは根元からぽっきりと挫折して果てるのです。

 その後、「真の望み」が、まるで乳歯が落ちたあとの永久歯のように、芽生えてきます。

 

 これは、この心理学が考える「自意識」の構造に符合します。人の心は、まず自他未分離意識による「根源的な望み」を抱いてこの世に生まれ、それが程度の差こそあれ何らかの挫折を受け、何らかの皮相化と荒廃化を帯びた内容によって、「自意識」が始まるのです。

 「自意識」を持つ意識構造へ成長した時、「根源的な望み」の記憶はもう消えています。

 

「望み」の根本的不完全性

 

 ここに、「未知」への軸の道のりの入り口にある、1つ目の大どんでん返しが現れます。

 

 つまり、「望みに向かい現実に向かう」ことが心の成長の大原則である一方、私たちが意識において抱くことのできる「望み」は、根本的に、「真の望み」ではあり得ない不完全性があるということです。

 

 なぜなら、そもそも「望み」は、「空想」「自意識」の中で作り出されるものだからです。これがこの根本的不完全性の由来です。

 「望み」とは、できるだけ多くの欲求の調和した満足を得られるような、「幸福になれる自分」という大きな目標像を定めることとして描かれるものです。これは根本的に、「空想」と「自意識」に依存します。

 そして「自意識」は、今まで説明してきたように、とても不完全な意識機能です。それは「心を解き放つ」ことによる心の成長と幸福をもとから多少阻害している意識の器です。さらに、「愛」を明らかに阻害している意識の器です。

 そして自他未分離意識の中で抱いた「根源的自己否定感情」というものを人間が宿命づけられた結果、もの心つき「自意識」が芽生えた時点で、私たちは「根源的な望み」とそれを包含する「真の望み」に対して、何らかの穴埋めと腹いせを帯びた「望み」しか「自意識」においては持てない、ということです。

 

 ですから、私たちはまず「望み」を心の中で思いっきり開放し、描けるだけ描くのが良いのですが、その先に、そうして望みを描いた「自意識」を一度崩壊消滅させるのが、実は「望みに向かい現実に向かう」という心の成長の基本サイクルだということになります。

 何のことはありません。この基本はすでに「建設的絶望」以前の話として、基本姿勢の3つ目の大指針、「現実を生きる」こととして、9章で言っています。「現実を生きる体験」に身を委ね、ありのままの自分と現実の世界を知ることだと。

 それが、「心を解き放つ」ことなのだと。

 「建設的絶望体験」とは、そうした「現実を生きる」という基本の、一つのバージョンに過ぎません。

 ただしあまりにも辛く、その代わりにあまりにも計り知り得ない「未知」への成長の一歩になるものとして。

 

 つまり私たち人間は、「絶望」を通して「真の望み」に近づいていく存在なのだ、ということです。

 その時現れる「真の望み」とは何なのか。そこにこそ、人間の真実が現れます。

 私たちはこれを理解し、絶望を経て真の望みに近づいていくために、望み続ける必要があるのです。

 

病んだ心の根本治癒現象「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」

 

 「心を病むメカニズム」の過程においては、このことがより鮮明に示される現象があります。

 他なりません。それが、ハイブリッド心理学が「病んだ心の根本治癒現象」として見出した、「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」です。

 

 それはまさに、病んだ心が自らに絶望し崩壊するとでも言うべき現象です。

 前章で述べた、心の成長と闇に向き合う2面的な様相の道のりの中で、「自己の真実」に向かう歩みが前進することによって、それは早晩訪れることになります。

 

 3つのベクトルが重なって起きることが観察されます。

 (1)「心の自立」に向かう生き方の修正検討

 (2)「自ら望む」ことをやめ「条件によって」望むようになった来歴と現在の内面への「感情分析」

 (3)現実生活上の何らかの問題の緊迫化。この3つです。

 その時、今まで「条件によって望む」ことに駆られ、「なるべき自分」の理想像を基準にした揺れ動きに終始していた感情の動揺が、次第に、その理想像に近づけるかどうかよりもはるかに深い問題が自分の心にあるという、漠然とした自覚へと変化することが観察されます。

 そしてある時突然、心の状態が急変するのです。

 

 心が「完全なる絶望」におおわれます。「自分は中身のない見せかけだけの人間だった」「自分はもう駄目だ」という重苦しい感情だけに心がおおわれ、生きることの全てが無意味となり、一切の前向きな感情と思考が消え去ります。

 本人には何が起きているのか分りません。恐らくそこでは、自分を支えている衝動が、内部において完全に矛盾し葛藤し合っており、完全に出口のないものであることが、頭で理解するよりも心の底が感じ取るということが起きているのです。そしてそれを何とか塗り消そうとして駆りたてられていた「人の目の中で何ものかになろうとする衝動」が、心の深い根底で、自らに絶望して崩壊したのであろうことが推察されます。

 

 相談援助の中でこれに該当する感情悪化が見られた時、私はすかさず「ただ実存を守れ」という指図を伝えることだけをします。

 この感情悪化においては、しばしば希死念慮が起きやすく、何も知らないでいるとただ心理状況の悪化だとしか認識されず、深刻な心の障害傾向の場合は自殺念慮の危険が否定できないものになるからです。

 ですから、まずはこれが治癒現象であることを伝え、自分の身体をもはや自分のものではないものと見立て、ただ守るようにと指示するのです。そんな意味で「実存を守れ」といった言葉を使っています。

 事実深刻な心の障害ケースでは、これを根本的治癒現象とするハイブリッド心理学の考えが、最後に首の皮一枚で、相談者に自殺をとどまらせるものになることもあります。

 

 さらに、ここで起きていることの意味を、本人が感じ取るのも良いことです。事実、それは「生における拒絶」を受けた最初の出生の来歴へと、還ることなのです。それを、今の大人の自分の心で、受けとめてあげることです。

 思い切り泣くのもいいでしょう。そして死んだように眠るのがいいでしょう。事実それは今までの人生において、最も深い眠りになるかも知れません。

 私はこの現象が起きる様子について、その時この人間の心の中で、あらゆる「人の目」が消え去り、「生きる」ことの根源に関わる、この人間の「魂」と「神」との間だけの対話が行われる。そんな印象を感じています。その時この人の「意識」は、自分の心に何が起きているのかを知ることはできません。

 「神」はこう告げるはずです。「生き続けなさい」と。

 

 なお「感情分析」などハイブリッド心理学の取り組み実践が、こうした危険性を「副作用」的にもたらすという心配は無用です。

 取り組み実践がその純粋な形においてこうした危険をもたらす可能性は、ゼロです。自己分析が純粋に心に危険をおよぼすことはないことは、精神分析上の定説でもあります。心の防御機能が自動的に働くからです。

 それでも心の治癒と成長への取り組みは真空の中で行なわれるものではなく、現実生活の中で進められるものである以上、現実生活上の困苦が自殺衝動をまねく危険性は、こうした心理学の取り組み実践以前の問題として、あり続けるでしょう。

 幸い、相談対応の半ばでそうした不幸な結果を体験したことは、私自身はありません。

 

「自己操縦心性の崩壊」の治癒効果

 

 「ただ実存を守る」ことでなんとかやり過ごした後、数日から数週間という多少の時間を経ると、心に「未知の状態」が訪れていることが、本人に明瞭になります。

 

 それはまず例外なく、「大きな開放感」を伴う、極めて良い気分の出現です。しばしばそれは「生まれて初めて体験する」ような、良い気分です。

 これは同時に「現実感の増大」を伴ないます。彼彼女が思春期のある時からその中で圧迫されるようになった、「イメージによって操られる感情」の半透明のベールが一段階取り去られた様子が感じられます。

 もう一つ例外なく観察されるのが、心の機能全般の向上です。集中力が高まり、頭が良く回るようになります。「こんなことは初めてです」と本人からの報告を受けることがよくあります。

 例えば「実践編」で取り上げる男性は、自己操縦心性の崩壊による苦しい数日間を抜け出る頃、こんな言葉を伝えてきました。「ようやく苦しい状況から、復活しつつあります。頭がよく回ることにビックリです。今までとは違う回り方です」

 明らかに、感情がどう改善されたかを超えて、脳のレベルで治癒改善が起きていると考えられます。

 

 一方、この「心性崩壊」が、先に触れた「建設的絶望体験」の人々と同じような、生きる姿の根本変化を生み出すかどうかには、多少人により違いがあることが、最近分ってきました。

 

 ハイブリッド心理学を体系化し始めた当初、私はこの「心性崩壊」を、それにより「ただありのままに生きる感情」が開放される、そして「生きる喜び」が湧き出てくる、そんな根本治癒効果があるものとして説明しました。

 事実それが私の経験だったのです。『悲しみの彼方への旅』にその壮大な流れを描写したように。

 しかし相談事例も増えてきた今、心性崩壊が単独でもたらす効果と、生き方姿勢の意識的改善に起因する効果の相乗的な役割関係が、次第に見えてきているところです。

 

「心の障害」からの根本治癒を決するもの

 

 「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」という現象による「心の障害」の根本治癒の効果は、は、どんな姿勢の中でそれが訪れたかによって、大きく3つのパターンになるようです。

 

 最も劇的な根本変化が起きるのは、心の自立に立脚した生き方姿勢と思考法行動法の獲得に向かう中で、自己の深層感情への深い洞察も伴ないながらそれが起きたケースです。

 その場合は、まさに「心の再生」とも呼ぶべき、まるで別人に変化していくような、心の全ての面での改善が起きます。

 

 最もそれを特徴づけるのは、「ありのままに生きることを喜ぶ感情の出現」になるでしょう。

 今までの、「こうなるべき」自分の圧迫的イメージと、分厚いガラスを隔てたような現実という意識状態、そして理想像と現実の食い違いが自動的に引き起こす感情の動揺をやりくりするのに四苦八苦していた心の状態が消え去り、「イメージ」のない清明な意識だけがあり、そして「現実」が目の前にあり、自分は生きている。ただそれでいいのだ、という感覚が心の中心部から湧き出るのを感じるようになります。

 これは同時に、病んだ心を抱えて人生を歩んできたこの人物が、「愛されることを必要とせずに自分から愛することができる」という感情を、人生で初めて体験し始める節目になります。

 深刻な心の障害傾向の中で、それは構造的に不可能です。「自分から愛する」ことを「意識する」こと、そして愛を願う感情を自ら抱くことまでは可能ではあっても、「愛されることを必要とせずに愛せる」という感情は、心の底に安全感を損なった感情の塊を抱えた時、固い蓋がされて湧き出ることはありません。

 それは「求めるもの」としての「愛」と、質があまりにも違うのです。実際に体験して初めて、もはや同じ「愛」という言葉で表現される、全く別の感情なのだということが分かってきます。

 

 これが、2章で「存在の善悪と地位」と「愛」のあり方のセットとして説明した、「自立」の姿へと、実際にこの人物が立ち始めることを意味します。

 「存在の悪と身分」という闇の要素を持たない、「存在の善と誉れ」への純粋な前進に向かう内面のエネルギーが開放され始めます。実際にこの人物が誰をどれだけ愛せるかは、やはり「存在の善と誉れ」のこの人自身の尺度の中にありますが、それが実際、この人物が「望みに向かい現実に向かう」という唯一無二の心の成長の歩みの目標対象にもなってくるわけです。

 一方、こうした「心の再生」は一度で心を入れ替えるものではなく、心の成長と闇に向き合う2面的なスパイラルの道のりが引続き続くことになります。そして再び「心性崩壊」と「膿の放出」を経て、さらに一段階未知の次元へと成長する。

 その都度、「未知」の質が大きくなっていきます。その先に、「愛」が「無条件」となる、「成熟」というゴールの段階へと向かう道があります。これは次章以降の流れになります。

 

 「情緒道徳」および「望む資格思考」という「心の依存」の中にとどまる生き方姿勢の段階で「心性崩壊」と「膿の放出」が起きた場合、それでもそれを根本治癒現象と位置づけて受け入れる先に、心の安定度が飛躍的に向上します。

 「開放感」が一時的に得られ、「現実感の増大」が後戻りない形で起きてきます。ただし「生きる喜び」が出現するといった、感情内容の根本変化はあまり見られないことがその後の経過で見えてきます。

 これはいわば「成長なき治癒」が起きたという印象を感じさせるものになります。つまり「イメージによって操られる感情」で足元からさらわれるような感情動揺の極端さの度合いが減少し、もはやかなり健康な心で相変わらずマイナス思考を抱いているような印象です。

 それでも「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」を治癒現象と心得て乗り越えた後の、心の基盤の安定性の向上は、今までの心理医療の世界で知られたものをはるかに越える、目を見張るものがあります。

 そこでは恐らく、生き方姿勢や思考法行動法といった、通常で言う「心」のあり方はあまり変わらないまま、心の土台の下でイメージが自動的に感情を操るという病理性が減少する、いわば脳のレベルでの治癒が単独に起きているものと思われます。

 その「イメージ」とは、人の目と心が自分を取り囲んでいるという幻想感覚であり、意識の土台レベルで「庇護と依存の幻想」がこの人の心を支配していたものです。それが減少することで、この人がこれから改めて、病んだ心の度合いのより少ない人と同じ形で、「心の自立」に立脚した生き方思考の変革と、その先にある「自己の再生」パターンでの根本治癒成長へと向かう道が開かれることを意味します。

 

 最後に、このような根本治癒現象がまだあまり正しく認識されていない現在、世の人が心の障害に向ける姿勢は、まさに根本治癒の過程を避け、障害を後生大事に維持しようとしているものになってしまっているように、私には感じられます。

 全ての問題の根本が、感情の本質を見る目を持たず、感情の強度と表現の極端さだけに目を向ける姿勢にあります。そうして心の障害を「普通」であることを良しとする基準から「診断」し、「病気」として「治療」する必要があるのだと考え、心の障害を根底から克服するための「心の成長」の場であるはずの社会生活そのものから退却してしまう。

 心の障害に悩む人々と、その克服を援助する側の人々の双方に、同じ、「気持ちが大切」「こんな感情になってはいけない」という、感情の良し悪しだけに見入る姿勢があります。その先に、説明してきた「存在の善悪と地位」をめぐる心の闇が広がるという、メビウスの輪がやはりあります。

 

 感情の強度と表現の極端さに惑わされることなく、感情の本質を見る目が重要です。全ての感情に、心の成長と幸福へのその人の現在状況を示す、バロメーターの役割があります。恐怖や絶望のような、全ての悪感情においてもです。

 決して、「こんな感情になってはいけない」ものなど、何もないのです。

 

「成長の痛み」を知る

 

 「建設的絶望体験」、そして「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」という根本治癒現象を概観した時、そこに一貫としてテーマとなる心の命題を言うことができます。

 それは「成長への痛み」です。

 先に「間違った望みに絶望することが真の望みに戻る契機となる」と述べましたが、痛みを伴なう体験が成長への大きな契機になるという心のメカニズムについて、ここで改めて説明します。

 

 まずここでもやはり、「心の依存」にとどまるのと「心の自立」に向かうのとで、話が全く異なってくることを言うことができます。

 

 「心の依存」の中では、「絶望」を始めとした心の痛みが成長を生み出すことはありません

 これはまず基本的に、「依存」の中では心の自然成長力と自然治癒力を自分で受け取れないので、成長が起きようもないという原理的な話をできます。ただしこれはもちろんこの心理学からの推測であり、意識で確かめようもありません。

 感覚的な話として言えるのは、「心の依存」の中では、「心の痛み」は、自分が受ける「おしおき」のようなものとして受け取られるしかないということです。それによって同じ過ちを繰り返すことは確かに減るかも知れませんが、結局それは自分に加える制限をより多くするということです。

 人は情緒道徳思考の中で、自分を責め自分を鞭打つことによって、自分がより清らかな心の、成熟した人間になれることを期待します。しかし残念ながらそうはなりません。それは単に車のブレーキを以前よりはしっかり踏むようになるということです。

 「心の自立」の中で、心を痛む体験は、それとは全く異次元の、車のエンジンや車体の性能そしてガソリンの品質さえも改善向上させ、全く別の洗練された高級車になっていく変化を生み出すものなのです。

 

 「心の自立」においてそうした根本変化を生み出すのが、他ならぬ、「自ら望む」という、心の成長の源泉が開かれているという原理になると、この心理学では考えています。

 心の自立の中で、「自ら望む」ことが消えることはありません。生きている限り。そもそも、自ら望む心に移行することを、「心の自立」と定義しています。

 「自ら望む」という成長への源泉が開かれ、作用を続けている中に、「心の痛み」が投入される。それが心の根源へと働きかけ、まるで受胎後の細胞が次々と分裂し高度な身体器官へと変貌を遂げていくように、心の中で未知なる生命力が作用し、心が体験した痛みの(てつ)をもう踏まないようなものへと、湧き出る「欲求」「衝動」そのものの質が変化してくるのです。これこそが「心の成熟」のメカニズムに他なりません。

 「心の依存」ではこうはなりません。「欲求」「衝動」は稚拙で利己的であるまま、それにいかにブレーキをかけるかの調整がうまくなるかどうかという変化だけにとどまります。

 

 「欲求」「衝動」そのものが、心が体験した痛みを反映したものへと、根底から変化する。

 これを基本的な原理とした、「心の痛みを経る成長」のメカニズムを、3つの心理側面について説明することができます。

 まず「特別扱い幻想の破綻」。印象としては、これはこの「病んだ心から健康な心への道」において、かなり初期段階から必要不可欠なものになると感じます。

 あとの2つは「根源的な恐怖の克服」「おぎないによる心の浄化」です。これは、「心の自立」への姿勢が確立した後に見えてくる、この道のりのかなり後半でより焦点を浴びるものになります。治癒と成長の答えが、まさにそこに見えてきます。

 

「特別扱い幻想」の破綻

 

 まず「人生の望み」という大枠において基本的な意味を持つのが、自分が「特別扱い」に値するという期待の破綻です。

 

 そもそも、私たちの「人生の望み」というのは、まずそうした「特別扱い」を望む、稚拙な内容で始まるのが事実のように思われます。いかに自分が他の人とは違う、特別な存在になれるか。特別な人に、どれだけ特別に愛され認められるか。

 そのために自らその「特別さ」を生み出すために自分の足で汗をかいて歩んでいくか、それとも「特別扱いされる人間になる」という受け身の構図だけに目が奪われるかに、人生の別れ道が現れることになります。

 変化はまず後者に、表面には何も違いが見えないまま始まるでしょう。「特別さ」の内実価値よりも「特別扱いされる」という受け身の構図だけに心を奪われ、自分から生み出すことをあまりしないまま、いかに他人より恵まれた人間であるかに優越感を抱けるかという、皮相化荒廃化した望みへと質を変化させ始めます。

 いずれにせよ「現実」というものはそう都合が良くできているものではありません。別れ道のそれぞれを歩み始めた双方とも、天狗になる時と失意に沈む時が訪れることになります。

 

 2つの道を歩む者の心の状態の違いがはっきりと表れてくるのは、その後です。

 前者、つまり「特別さ」の内実価値の生み出しに向かった者は、自分だけが特別扱いの人間であることを望んだことの稚拙さを、そこで身をもって理解するでしょう。内実を生み出すためには、地道で謙虚な努力が必要なのです。

 そうして身をもって体験した痛みを越えて、前を向き続けるこの人間の心に湧き出るようになる「未知」の感覚とは、人生とはどんな恵まれた条件が与えられるかではなく、与えられた場からいかに前進するかにあるのだ、という感覚になるでしょう。

 前進へのエネルギーは量的質的にも増大します。歩むことそのものに意味を感じるにつれ、「結果」への執着心が薄れてきます。

 与えられた場からの「前進」とは、究極的に何を意味するのか。それは、「存在の善と誉れ」さえもが、「無条件」になってくる世界です。そこでは誰もが、「存在の善と誉れ」の最高の座に向かえるのです。これは最終章の流れになります。

 後者、つまり受け身の特別扱い構図だけに目が奪われた者の末路は、悲劇です。生み出すことに向かった人間の内面など知る由もなく、「存在の善と誉れ」に向かうことができた人間を、見せかけばかりの天狗だと軽蔑し、目が自分自身に転じると不遇を嘆き怒ることの中で、生涯を送ることになります。

 

 「建設的絶望体験」「自己操縦心性の崩壊」は、この「特別扱い幻想の破綻」という心理側面において、本質が同じものと思われます。前者はそれが通常の意識世界で起き、後者は意識下で起きるというメカニズムになるわけです。

 

 ベートーベンの場合も、マイケル・J・フォックスの場合も、音楽家として、そして俳優として、まずは恵まれた資質条件にいわばあぐらをかいた中で、彼らはまず人生の高みに向かったのでしょう。しかし運命は、その「恵まれた条件」を剥奪したわけです。絶望が訪れ、やがて彼らは未知の、真の人生の喜びを見出します。

 それは結局、自分が特別に恵まれた人間だという天狗になる中では、真の人生の喜びには到達し得ない「脆い自意識」という足かせがあるのだと、心理学的には考えられます。結局それは、特別に愛され賞賛される自分という空想にひたるという、地に足のついていない手段による「薄氷の幸福」に過ぎないのだと。

 自分が特別扱いされるべき人間だという自意識の殻が、絶望により打ち砕かれることで、真の人生の喜びにつながる道が開かれるということになります。自分から絶望を起そうと考えるのは全く不毛でしょうが、この自意識の足かせの事実は、もはや心理学的定理として認めていいのではないでしょうか。

 

 「自己操縦心性の崩壊」で起きることは、それに比べて、当然ながら極めて難解です。

 それはこの人間が出生の来歴において「生からの拒絶」を受けたという、自分が「存在の悪と低い身分」の人間だという毒のような感情の塊を、脳のレベルで遮断し、それを塗り消すための、自分が神のように宇宙の中心として振舞う権利を、「あるべき姿」を抱く意識の気高さによって得るという情動前提を帯びた、人の目に囲まれた自分という幻想世界の、崩壊なのです。

 そうした前提期待が、外面現実における喪失によって打ち破られるのではなく、「自分の心が虚構の構造にある」という、この病んだ心自らによる自覚によって打ち破られ、自ら崩壊するとでも表現できる出来事になります。

 その後に、「ありのままの自分とありのままの現実」をそのまま生きる心が、再生されます。

 

「現実との調和」・喪失を越える人間観生命観へ

 

 これらの側面を概観した時、ハイブリッド心理学は、人間の心が持つ生命力について、一つのはっきりとした方向性を見出します。

 それは「現実との調和」です。人は誰もが、全く唯一無二の存在として、その唯一無二性に調和した、この現実世界を生きる唯一無二の道を持つ。「自ら望む」という心の自立に立ち、自己操縦心性の崩壊と建設的絶望体験という、意識下および意識上のメカニズム過程の先に、人はそれを見出す可能性を持つのだと考えます。

 

 それは同時に、ハイブリッド心理学が採用する、一つの確固たる人間観そして生命観につながります。

 人間はどんな喪失を経ても、生きることを喜び得るのだということです。そもそも、「命」というものがそのようにできているのではないかと。

 また逆に、そのような「喪失を受け入れた先にある唯一無二の人生」という人生観そして人間観に立ってこそ、私たちはあらゆる絶望を乗り越え、「特別扱い幻想」の下で眠ったままであった心の生命力を開放する方向に向かい得るのだと言えるでしょう。

 

「心性崩壊」とともにある基本姿勢からの取り組み

 

 「自己操縦心性の崩壊」のこの「特別扱い幻想の破綻」の側面は、「心の自立」にまだ向いていない、9章で述べた基本姿勢への取り組み段階から、起こり得るものになります。

 そこでまだ「心の依存」の姿勢にとどまるにつれて、心性崩壊の効果は脳のレベルでの心の安定性向上だけにとどまり、人生の真の喜びなどはまだ問うべくもありません。再び同じ地点から「心の自立」に立脚した生き方姿勢と思考法行動法の検討への地道な取り組みを進める必要があります。より安定した心でです。

 そしてやがてまた心性崩壊の体験を迎える。その都度、脳のDNAに刻まれた「心の自立」への本能が刺激され、やがて清明な意識の中で心の自立思考を抱いた時、はっきりとこの人の目にもこの道のりが見えてくることになります。自ら望むことを是とする思考へ。生み出すことによる真の自尊心へ。それを支えにして、真の望みを捨てさせた根源へ。

 そして再び、まだ答えは見えないまま、この未知への軸へ。

 

鮮明さを増す「濃い感情」たち

 

 自己操縦心性の崩壊は、それを最初に体験した時は、何が起きているのか分からないまま、ただ「完全なる絶望」だけに心がおおわれるという様相になりがちですが、何度かそれを体験し、心の土台の安定度が増してくるごとに、起きていることの情緒的な意味が自分でも分かるようになってきます。

 それは、今までの自分が、「こうなれれば」という空想に駆り立てられていた一方で、その幻想が破綻した時に現れてくる濃い感情が、自分の中にはあるという事実に、まずなるでしょう。

 この「濃い感情」も、この道のりを歩んでいる地点に応じて、大きく変化していきます。

 本人の関心も、「絶望からの再生」という流れの劇的さの結果側面から、次第に、「こうなれれば」という空想と、それが解かれた時に流れる濃い感情と、それを越えた時に自分に生まれる変化に、より強く移っていくはずです。それらは表面ではつながりのないまま、見えない大きなからくりの中にあることが、おぼろげに感じられるようになってきます。

 

 「濃い感情」とは、「愛」「恐怖」そして「罪」になるでしょう。

 一方「自尊心」は、基本姿勢および最初の踏み出しの段階で、明確な方向性を見出している必要があります。それは言うまでもなく「生み出す自尊心」です。それが、基本姿勢から先の実際の歩みの全てを、支えるのです。

 「愛」は、「愛されることを必要とせずに愛することができる」という感情を視界に捉えるにつれて、深い「愛への願い」をこの人に抱かせるものになるでしょう。実際にその感情を感じることができるのは、まだ心の安全が確保されるごく一瞬にすぎず、より大切な「愛」に向かおうとするほどに、そこに「恐怖」が同時にあることが分かってきます。それを越えるものは何なのか。その答えを探し求めようとする意欲が、さらにこの道のりの先へと向かうための大きな原動力になります。

 人生を貫く、これらの感情への答えが出る道へと、進んでいくのです。

 「愛」への答えが見出されるのは、最後です。その前に、まず「恐怖」「罪」の答えへの方向性を見出す必要があります。

 

根源的な恐怖の克服へ

 

 「恐怖」については、まず「生み出す自尊心」と、社会行動場面における建設的行動法が、大きくそれを減少させ始めていることが必要です。それがまだである場合は、該当する取り組み初期段階にまだいるということです。

 

 日常生活での基本的な恐怖の克服ができてくるごとに、自己操縦心性の崩壊に前後して心に流れる「恐怖」は、「現実世界」における「現実的な脅威」とはもはや何の釣り合いもない、「論理性のない恐怖」であることが、次第により鮮明になってきます。

 それはただ「体に流れる恐怖」です。事実それが現実の外面における危険には釣り合いようもないことを実感するにつれ、それが「感情の膿」という、自分の心の揺れ動きに「障害」とも呼べる病的な側面を帯びさせた根源であることが、本人自身にも良く分かってきます。

 

 それは小手先の思考法で薄めることができるような、生易しいものではありません。外面における安全を確保した上で、それが現実における危険を何も示しているものではない、心理メカニズム現象なのだという理性を保ちながら、自分がどうにかなってしまうかのように体の中を流れる恐怖の感情に、ただ耐え、やり過ごすのみです。

 事実、この現実論理を持たない生理的恐怖の感情は、現実的な危険を前にした場合の通常の恐怖の感情とは異なり、一定の時間後に突然消え去るという、かなり特異な挙動を示します。まさに、脳の中でホルモンが流れて消えたというような、体内物質による現象という印象を感じさせます。

 極度の精神疲労の感覚を残しながら、目に見えるように神経の緊張が解けていきます。

 そして数日間以上の時間を経て、自分が未知の状態へと変化していることに気づくのです。病んだ心に特有の情緒的不安定さが根底から減少した、別人のような自分という方向へです。

 

「否定価値の放棄」の最大道標を見据えて

 

 このような「感情の膿の放出」の体験を経る都度、「感情基調の上昇」が進むようになってきます。さまざまな出来事がある時ない時を通して、心に湧き出る感情が基本的にプラスのものが増えていき、マイスのものが減っていきます。

 それはまず、氷点下以下のマイナス世界における温度上昇として、自分でも気づきにくいものとして始まるでしょう。やがてそれがプラスマイナス0度のゼロ線の通過が近づく頃には、自分でも目に見えて「感情基調の上昇」が分かるようになってきます。

 

 ただし本当にゼロ線の通過に向かうためには、その前にまだ大きな通過点があります。

 それがこの道のりの最大の中間道標となる、「否定価値の放棄」です。

 

 心を病むメカニズムの過程を通して、「否定できる価値」が、全ての心の歯車を病んだ方向へと回す力を加え続けてきたのです。それを根本的に捨て去らない限り、事実この人は、自分自身に加える否定糾弾の価値ゆえに、恐怖と、マイナスに傾いた感情の基調を維持せざるを得ません。

 「それでは駄目」だからと考えて「否定価値感覚」を捨てようと考えるのは、全く同じことの繰り返しの、何の役にも立たない思考です。

 「否定価値の放棄」は、今まさにこうして始まっている、「心の痛みを経る成長」と、それを良しとせずに自分の心を病む方向に向かわせた根源との間の、心の底からの選択として成されるのです。

 それを見据え、今はまず「痛み」の中にある成長とは何なのかを、真正面から見つめなければなりません。

 

「感情の膿」の3種類

 

 次第にその正体を鮮明にしていく「感情の膿」は、およそ3種類の感情色彩のもので構成されるようです。

 そのうちの2つは、「心を病むメカニズム」を最初から駆動させていた、「根源的自己否定感情」と、文字通りそう定義した「感情の膿」です。

 それに加えて、心を病むメカニズムの中で、「感情の膿」がさらに特別な変形を帯びたと思われるものがあります。ハイブリッド心理学ではそれに「アク毒」という風変わりな名前をつけています。その名の通り、極めて毒気の強い膿のような自己嫌悪感情になります。

 

 幼少期において、意識体験の許容範囲を越えた「恐怖の色彩」だけが切り離され蓄積する。この「感情の膿」の定義をそのまま思わせるのが、「まるで人間ではない相互理解不可能な異形のものを見るようなゾッとする冷たい目」を自分が向けられる、という恐怖の感情です。対する自分とは、ホーナイが「基本的不安」として指摘した、まさに「敵に囲まれ、孤独で、無力だ」という感情です。

 これはそのまま、「感情の膿」と呼んでいます。

 現実外界においては人と建設的な関係を持てるようになるにつれ、現実世界から切り離された内面に流れるその感情は、ただそれが流れるのを受け入れる時間を経て、やがて根底から消えていきます。

 

「心の浄化」への出口・「アク毒の放出」のメカニズム

 

 それが「アク毒」になると、「相互理解不可能だと冷たく見られる」だけにとどまらず、「おぞましさ」つまり人間が抱き得るあらゆる怒りと軽蔑と嫌悪が向けられる「精神的な醜さ下劣さ」にある自分という、幻想的な自己嫌悪感情へと化します。

 強度な場合、それは吐き気脂汗貧血などを起すほどの、身体健康状況の悪化を伴なうものとなり、身もだえするような自己嫌悪感情として、上述のオリジナルの「感情の膿」に比べ、はるかに耐えることが困難なものとなってきます。

 これは境界性人格障害においてはかなり典型的な症状でもあります。感情が悪化する中で、「存在への嘔吐」といった言葉を自分に向けながら、自傷自殺企図に向かう姿をネット上で良くみかけます。リストカットなどの自傷が時に快感を伴なっているらしい様子とは、その背景に慢性化した「アク毒」の圧迫があると考えれば辻褄が合います。自分を処罰する苦痛の高貴さの感覚が、麻薬として機能するからです。

 

 これは明らかに、幼少期に置き去りにされた問題の表面化ではなく、その後のメカニズム過程の中でこの人間が自らの心に進行させた、「情動の荒廃化」の「罪」の感情であるとハイブリッド心理学では考えています。

 この「罪」とは、(1)望みの停止による情動の荒廃化により基本的に進行させた、すさんだ攻撃性(2)自らは望まないことで、すさんだ攻撃性を他人の中に見てそれを見下し糾弾することで、自分を高貴な存在だと感じるという「荒廃化の反転」の偽善性(3)自分は他人とは違う特別という「存在の善悪と地位」への衝動の中で持つようになった、他人への「踏みにじり」傾向、が基本的な発生源となります。

 それが、罪以前の問題としてこの人間が心の中で抱え続けてきた、さまざまな自己否定感情、自己軽蔑感情の内容と合成されるわけです。

 一方、「罪」に対して向けられる「罰」とは、この人間が来歴の中で抱き続けてきた、その中には一片の真実さえ含まれる、「ニセへの憎悪」です。

 この結果とは、傲慢な偽善によって他人を踏みにじりながら、自己の貧窮を補うための情動を他人からむさぼる寄生虫ともいうべき、幻想的な「おぞましい自分」というイメージであり、来歴を通して憎み続けていた人間達よりもさらに憎むべき人間に自分がなってしまったという、破滅的感情です。

 

 これはあたかも、「情動の荒廃化の反転」によって意識表面からは「アク抜き」された自分の情緒の荒廃性の色彩が、その「アク」だけが蓄積したものが「感情の膿」と結合して、脳に蓄積する毒と化した、というようなメカニズムを思わせるものになります。それで「アク毒」などという風変わりな名前をつけている次第です。

 これが、現実外界において起きていることとは全く無関係に、心を病むメカニズムの進行によって必然的に起きるものであることを、しっかりと理解する必要があります。

 同時に、この「膿の放出」に耐え、前を向き続ける中にこそ、「心の浄化」への出口があることを。

 特に、この過程の中に置かれた人ほど、自分自身でそのことをしっかりと理解することが大切です。

 

「おぎない」による心の浄化・性善説的人間観へ

 

 出口のある方向性が、たった一つだけあります。

 

 「心の依存」と「情緒道徳」の思考の中で、こうした「罪」は、全く出口のないものになります。そこでできるのは、いかに激しく自分を責めて痛めつけるかを、人の目に晒し、許しを乞うことだけです。

 そしてこの「罪悪感」が心理メカニズムとして生まれるものであることにおいて、その人はこの「罪と罰」について、論理的思考を働かせることができません。罪悪感に刈られた時は自分を激しく苦しめ、内面のバオイリズムが転じ罪悪感が薄れると、今度はこうして自分が苦しんだことへの復讐を、再び世界と他人に向ける攻撃性へと戻るのです。

 

 出口に通じる、たった一つの道に向かうためには、2つの大きな要件があります。

 「心の自立」「人間観」です。

 

 「心の自立」においては、「気持ち」に依存し「気持ち」が人に見られることで人生が良くなるという思考の世界を抜け出し、自分の気持ちは自分が受けとめ、他者との関係は「現実において生み出す」ものにおいて考えるという確固たる姿勢を取ることです。

 「心の自立」に立ち、現実世界がどのように動いているのかを、人の言葉の受け売りの中で考えるのをやめ、自分の目で見て、自分なりに理解し、その中での自分の行動原則を築いていくことです。

 現実世界における「罪と罰」の正しいあり方を、しっかりと理解することです。それは内面感情に対して問うべきものではありません。「罪」は、社会における行動の客観的な事実において判断するものです。「罰」は、それに釣り合いのある範囲で、怒りなどの感情によって下すものではなく、法律などの技術によって、報復や復讐のためではなく、同じ過ちを犯さないため、そして自分達を守るために、愛の下で行うのが正しいあり方です。

 

 事実、上述のような「アク毒」の情緒的内容が鮮明になってくるのは、「心の自立」へと歩み出し、「自己操縦心性の崩壊」も何度か体験し、心の土台の安定性が増し、人への建設的行動法も取れるようになった頃です。それ以前は、ただ「自分への絶望と吐き気」だけにおおわれ、何が起きているのか分かりません。

 自己の内面における「罪」の情緒的意味がより鮮明になるごとに、その引き金となった現実外界の出来事において、たとえ他人が他人自身の「情動の荒廃化の反転」に基づいてこの人に非難罵倒を浴びせたとしても、この人はその論理的妥当性を自分で十分に吟味できるようになっているはずです。

 つまり、内面において確かに自分が「精神的な醜さと下劣さ」を抱えたという事実と、その一方で現実世界において前を向き続けることができる自分を、知るはずです。

 

 前に進む方向性は、「人間観」によって決せられることになります。

 もしこの人が「性悪説」的な人間観を持ち、人間の本性を開放すればそれはどうせそうした醜く傲慢な利己性なのだと考えるのであれば、この人はたとえ心の自立を果たしていたとしても、前に進む道を失います。再び同じ痛い目に戻るだけの話だからです。

 

 たった一つだけ、出口に向かい得るのは、情緒道徳を脱し、この社会を大自然に見立てたサバイバル世界として向かうことを選択した中で、なおも「科学的性善説人間観」とも言えるものを持った人間です。

 攻撃性は、「阻害」があるところに生まれるものです。もし自己建設の強さによって阻害を取り除くことができ、「安全」に心がおおわれた時、愛と調和が、人間の本性として湧き出てくるはずである。

 事実それが、私が科学図鑑を隅から隅まで眺めるのを楽しみにした少年時代を通して培った、科学思考の先に持った人間観でした。それが、後に翻弄されるようになる心の障害から抜け出るために精神分析を選んだ、最後に残された賭けのようなものだったのです。

 

 しかしこの道を歩み、「愛されることを必要とせずに愛することができる」という感情を視界に捉え始めた人であれば、もう分かるはずです。

 阻害を取り除いた時に時に湧き出る、人間の本性とは、愛であり調和であると。

 

道を歩む「未知への望み」・「利他の情動」へ

 

 人間観の違いが生み出す変化とは何か。

 それはこの時点で目に見ることはできません。科学的性善説人間観を持ち、前を向き続けることを選んだとしても、身もだえするような自己嫌悪感情が魔法のように消えることはありません。魔法のように清らかになった自分の心など、そこには見えません。

 たった一つ、この人間に起きるものとは、やはり「望み」なのです。それは「未知への望み」です。

 

 心の自立に立ち、自分の目で世界を見る視線を持ち、それでも人間の本性が愛であることを信じ続けることを選んだ時、心の底から、別の自分へと変わりたいという「望み」が生まれるのです。

 それが心の根源に染み透った時、この人自身にさえ見えないまま、「心の浄化」への神秘なる生命力が、初めて作用を始めます。

 

 この「アク毒」も、一定時間の間、その幻想的な自己嫌悪感情を心に流れさせたあと、突然消え去ります。「今終わった」と分かるように。

 全ての感情が消え去ります。もう何の思考も働きません。

 

 やがて、「まっさら」な心の状態が訪れます。

 時間が経過するごとに、全てが終わったのだということが、次第に分かってきます。もはや「こうであるべき」、自意識なしに人と親しくできる自分といった自己理想像イメージもなく、ぶ厚いガラスを隔てた現実の他人という意識状態も消え、今まで「望むこと」につきまとっていた利己性や自己中心性の危険の感覚も、もう消えています。

 そして、ただこの現実を生きる自分が、今ここにあるという、確信のような感覚が、しっかりと自分の中に生まれているのを知ります。

 

 心から湧き出る「欲求」「衝動」は、最初から「利他性」を持ったものが次第に増えてきます。

 これは「罪」「罰」のさらに先にある、「おぎない」という命題によるメカニズムが考えられます。

 「おぎない」とは、「罰」が過去の「罪」の清算であり「けじめ」であるとして、さらにそれに越えて未来へと向ける、「罪と罰」という一連の軸の中にあるベクトルです。

 「罪をいちど犯した人間」として生きることを受け入れ、それでも前に進むことを選んだ時、「欲求」「衝動」は、最初から「利他性」を帯びます。これが、この心理学の考える「心の浄化」のメカニズムです。それは「罪のない純真さ」によって人から愛されるといった話とは、全く無縁です。

 

「普通」を越えた彼方にある「根源的自己否定感情」の解決

 

 全ての始まりにあったと思われる「根源的自己否定感情」は、最後まで消えずに残ります。

 否、それが真正面から「意識」によって見据えられ消えるのは、最後のゴールにおいて、「真の望み」が見出される時です。

 実は、それが見える前に、この「心の障害」そして「心の悩み」に取り組み始めたこの人の長い道のりは、もう終わりを迎えても良い段階に近づいているのです。「根源的自己否定感情」の解決がどうなったのかは見えないままにです。十分にごく「普通」の心の健康と幸福が獲得され始めてくる中で、それも消えていったかのように。

 

 「根源的自己否定感情」の正体とその克服は、やはり私たちのこの「普通」の日常とは別の世界にあります。

 それが私たちの「意識」によってはっきりと視界に捉えられるのは、「普通」を越えた世界にある、何か人生で本当に大切なものを探し求める、「普通」を越えた人生の旅に向かった時になるでしょう。

 そこまで行くことを望むか、そして行く必要があるのかは、もはや心の成長と健康の問題ではなく、「人生における出会い」の問題になってくるのかも知れません。

 その時、「根源的自己否定感情」は、もはや上述の「感情の膿」のような情緒的意味さえ形をとらない、さらにいえばもの心ついてからの、「自意識」のある私たちの心における「意識」の形さえとらない、ただ深淵を前にしたように体に流れる恐怖になるのです。

 

 その克服は、もはや今まで述べた「恐怖の克服」の原理ではできないものになります。それはもう何の論理性も持たず、「安全を知る」ことさえできないからです。

 「真の望み」だけが、それを突破します。これは「望みの大きさが恐怖を凌駕する」という、恐怖の克服のもう一つの原理によるものです。若い獣が初めての行動をする時の恐怖を、どう突破するかを考えると分かりやすでしょう。それはもう理屈で消すものではないのです。最後に、そこに向かう「望み」の大きさだけが、「恐怖」を凌駕できるものになります。

 その時人は、「もはや何も恐れるもののない心」を知ります。

 

 その道をどこまで歩むのかは、もはやこの心理学の「実践」を越えた、人それぞれの人生に委ねられるでしょう。

 しかしこの心理学への取り組みを始めた全ての方において、大きな課題となる道標がまだ残されています。

 それが「否定価値の放棄」です。

 

 それを自らに問うべき時は、もう間もなくです。

 

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