5章 「未知」への大きな前進−2 −「否定価値の放棄」の扉を開ける−
新しい人生の扉の前へ
人は「成長への痛み」を知った時、生きることの根本を覆す、大きな扉の前に立つことになります。
それは私たちが今まで「成長」として教えられてきたこととは、全く別の世界にあります。
私たちは今まで、人としての「あるべき姿」を知り、それを損なったものを決して許さないことが、そして「あるべき姿」を守れるようになることが、「成長」だと教えられてきました。
しかし、そこに「真の成長」などはありません。「真の成長」は、この不完全な現実と、不完全な自己にありのままに心を晒し、出口の見えない闇に身を打たれ、のたうち回る苦しみの先に、それでも前を向き続けることを選んだ時に、心の自然治癒力と自然成長力が神秘なる生命力をおよぼす結果として、「未知」の中に現れるのです。
それは前章で述べたような、劇的な「建設的絶望体験」や「自己操縦心性の崩壊」に限られる話ではありません。
実は、私たちの心が起こす悪感情のほとんどが、それを「望み」に対する自分のあり方への心の反応であることを感じ取り、より真正面に「望み」に向かうように私たち自身に伝えるためのシグナルとして受けとめた時、全てが私たちに「成長」への作用を働かせてくれるものなのです。
「成長」は、常に、「体験」の中にあります。
そのことを身を持って知ったのであれば、この道のりの途上にある最大の中間道標として今目の前にある、そして人間の心が病む根底にあり続けた根核の歯車を心の底から捨て去るための、大きな扉を開けることを自らに問うのがいいでしょう。
それが、「否定価値の放棄」という、この心理学の取り組みのひとまずの達成目標となる扉です。
「否定価値の放棄」
「否定価値の放棄」とは、現実において何も生み出すものではない「否定できることに価値を感じる感覚」を、心の底から放棄することです。
これはどういうことか。
何でも許す、などという話では全くありません。それは、空想の世界を「人生」だと考えて、そこから「現実」を見るということをやめるということなのです。
「現実」にありのままに心が晒されて湧き出る感情こそを、「自分」として生きていくことを心底から選択することなのです。
これが私たちの人生におよぼす影響とは何か。
事実、それは私たちが今まで「決して許さないことに意味がある」と考えながら抱いていた、「あるべきもの」への信念を捨て去り、何も定められたもののない大平原を生きる者として、自分自身を位置づけるものになるように思われます。
なぜなら、「これだけは守らなければ」と考える「信念」とは、「空想」の世界で抱くものだからです。
科学的性善説人間観を信じるという話も同じではないか。そう問う方もおられるかも知れません。
まさにそこに、「否定価値の放棄」を今ここで問うことの意味があります。
「否定価値の放棄」の放棄は、こうして自分の中に起きた「成長への痛み」に立って成すものだからです。それを経ないままに、頭の中でいくら思案を重ねても、この「否定価値の放棄」の扉が開かれることはありません。
なぜなら、「否定価値の放棄」で問うのは、自分自身が「成長への痛み」の中で自分自身に否定を向けたことの意味だからです。
それは、自分を成長させたのか。
それが自分を成長させ、心を浄化したことなど、何もありません。心の成長と浄化をもたらしたのは、望みに向かい、現実に向かって行動し、そこで躓いた中で、全ての思考をやめありのままに心を晒すことが、建設的絶望の闇の谷を経て、自分に未知なる成長をさせた、「現実を生きる体験」だったのです。
それはあらかじめ計画できたものなどでは、全くなかったはずです。「こうであればいい」と「ちゃんと分かっている」こととは、真の成長と呼べるものではおよそないのです。
事実、そこにあるのは、「自己と現実の不完全性」です。
私達は、それを許さないことが正しいのだと、教えられてきました。「あるべき姿」を損なったものに、決して心を許してはいけない、と。ところがこの「成長への痛み」の体験とは、図らずもその教えを反故にしてしまったかのような「失敗」として、訪れるのです。
それが何よりも、自分を成長させた。
それは事実、「あるべき姿」によって自分を縛ることをしなくても、ありのままに心を解き放ってこの現実を生きることで、豊かな心へと成長していくことのできる、しっかりとした方向性を獲得し始めた心の芯が、もうできているということなのです。
残されたのは、それを本当に開放するという、最後の扉を開くことです。
「否定することの価値」を問う
「否定価値の放棄」は、ハイブリッド心理学の実践においては、「何でも許す」という思考法のことではなく、自分自身の中にある「否定価値感覚」を「感情分析」の助けもかりて把握し、その中に含まれる特有の不合理部分を感じ取り、心底からその不合理部分を生み出したものを捨て去ることであると言えます。
不合理部分とは、他ならぬ、自分を「神の座」にあるものだとするためだけに心に動く否定思考です。
「神頼み」的な依存思考を、完全に脱していることが前提になります。
「生み出す自尊心」に立ち、自分を神だと考える熱狂が現実において何も生み出すものではなく、実際のところ、「完全完璧」なるものは「現実世界」においては存在しないことを、心底から実感していることが前提になります。「謙虚」が実を生むのであり、「傲慢」とは愚かさであることを知っていることが、前提になります。
「愛されることを必要とせずに愛することができる」という感情を、すでに視界に捉え始めたことが、前提になります。
「不完全性」を否定したことによってではなく、ありのままにそれを生きたことで自分が成長する、「成長への痛み」を知ったことが前提になります。
それでも心の成長と闇に向かい合うこの道のりにおいては、今だ来歴を通して抱くことがあまりにも自動と化していた、自己への否定感情が残っています。
それは一体何のためにあるのかと、問うのです。
「不完全性の受容」・「神」になるのをやめる
私の中でそれが成されたのは、1997年の暮れの頃のことでした。ちょっとした出来事の中で、相変わらず「どうせ〃こんな性格〃の自分など何の役にも立たない」という自己否定感情を抱いた時でした。
それはもう、私自身が獲得した思考法と行動法においては、何の論理的合理性もないものであることが、私には感じられていました。それで、この自己否定感情は一体何なのだろうと、自分自身に向き合ったのです。
なぜお前はそれを否定するのだ。一瞬だけ「神」が姿を現し、そして姿を消します。
私の中に、ホーナイの言葉が浮んでいました。人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない。(『神経症と人間の成長』誠心書房、P.196)
その直後に、私の中で決定的な自覚が成されました。
僕は何も自分が神だなどと考えているわけではなく、不完全な人間の一人であることを認めている。それでも、望ましくない程度があまりの基準を超えたものを怒り否定するのは、当然のことではないか。
だがそれは、不完全な存在である人間の中に、「この先は許されない」という一線を引くことになる。しかし人間が不完全な存在であるのなら、人間が考えるその一線の位置も、かなり不完全なものだということになる。僕はそれを絶対的なものだと感じたのだ・・。
これは自分が神になるということなのだ! 僕は間違っている!
自分は役に立たないなんてことはない!
この自覚の瞬間、私の心は一気に軽くなりました。あまりにも気分が軽くなってしまったので、このことを日記に書くことさえ、その日はしませんでした。少し後になって日記に書いたのは、とにかくこの時、自分が、「もっと早くこうなっていなかったのが悔しい」と感じた、ということでした。
実際、私の心の基本的な風景は、この自覚を境目に、北国の冷たい街路から、南国の開放された大地へと変わりました。この時点ではまだかなり荒涼としたものではありましたが。
自分が心の闇を持つ、人とは違う人間だという感覚が消え、「明るい人々」と全く同じように行動する自分を感じ始めました。引き続き自分の心に取り組む中で、「感情基調の上昇」を自分でもはっきりと感じるようになり、5年後の2002年に、ゼロ線の通過を含む大きな人生の転換を迎えることになります。
この自覚での私の思考を、「不完全性の受容」と呼んでいます。「否定価値の放棄」は、「不完全性の受容」として成す、という等式が言えます。
「不完全性の受容」とは、「現実の不完全性」を、その全ての面において受容することです。現実に起きている出来事を前にして、「これはあるべきことではない」という思考を、一切やめることです。
その意味において、これは心を病む道のりの中で「現実」を嘆き見下す感情を抱き続けていた人にとって、「現実との和解」を取り戻すことでもあると言うことができるでしょう。
「否定価値の放棄」の3側面
この心理学に取り組まれる方が、どのような思考でこの「否定価値の放棄」という大きな扉を開けることができるかは、まだかなりの未知数の中にあるのが実情です。
それでも言えるのは、この「否定価値の放棄」とは、「心の姿勢」や「思考法行動法」など、「今の自分を成長向上させる」という転換とは異質な、「自分の中にある何かへの決別」という転換であるということです。
「今の自分を成長向上させる」こととしては、この道のりの歩みとして説明してきた、基本姿勢の3つの大指針「感情の本質への一貫とした姿勢」「自己の真実に向かう」「現実を生きる」、そこから「望み」と「心の自立」に向かうこと、「愛」「自尊心」そして「恐怖の克服」へと向かうための思考法行動法などがあります。それを習得するごとに、「今のこの自分」が次第に成長していることを感じ取ることができます。
「否定価値の放棄」によって成すものとは、それらとは異質です。
それは結局のところ、「自意識」という人間の業への、決別であるように思われます。私たちが人生を通してその中で翻弄された、「自分」という業への、決別です。
それは、「自意識」にとらわれた「自分」という心の業に別れを告げ、ありのままの現実を心を解き放って生きるという、「自己の本性」をありのままに開放する新しい生き方への、旅立ちなのです。
この「決別」には、およそ大きな3つの側面があると思われます。恐らくはそのどの側面を意識が焦点とするかによって、この「否定価値の放棄」の自覚体験の思考内容と、その扉をあける開放度の段階変化のようなものが現れてくるように思われます。
一つは、「自分」というものを、空想によって捉えるのをやめることです。
もう一つは、「愛がこうあるべきだ」という考え方をやめることです。
そして最後に、自分が神になるのをやめることです。
「現実を生きている」そのままが「自分」
一つの側面は、「空想と現実」という、意識の大枠のあり方についての自覚です。これがまずは基本側面になるでしょう。
「空想」の中で「こんな自分」を捉えたものを、「自分」と考える。そしてやはり「空想」の中で「なるべき自分」を考える。そして「現実」の中で起きた出来事から再び、「現実の自分」を「空想」の中で捉える。それを、「空想」の中で抱いた自己理想像と照らし合わせて断じる。
『悲しみの彼方への旅』でも書いた言葉ですが、「現実を生きる」ということができていません。基本的に空想の世界で生きているということです。
それとは全く異なる、「今ここにある自分」が「自分」なのであり、その「成長」は、今これからを生きる体験という、「未知」の先にあるという意識世界へ。
「自分」とは、今そのように行動したもの、感情として湧いたもの、思考したもの、そして意志したもの、その全てが「自分」です。それを「こんな自分」という、キャラクターを浮かべるかのような一つのイメージを練り上げることは、無駄です。考えるべきは、それらの一つ一つをそのまま、自らの心の成長と幸福にとりどんな位置づけのものであり、どのように方向づけるのが望ましいかです。
そうであれば、「こんな自分なんて」という、空想の中の「理想の自分」と「現実の自分」の2つのキャラクターの比較作業など、何の意味もないことが分かってくると思います。
「愛がこうあるべき」への別れ
意識の大枠における転換が「空想から現実へ」だとして、次の側面は情緒の内容における転換です。
この重大なものが「愛」における意識姿勢の転換に現れると思われます。
これは私自身の体験において、先に紹介した自覚体験とはまた別のものとして、時期としては少し前に、すでにあったように記憶しています。それはやはり、私の内面に何かの別世界を開いたものでした。
私はそれまで、「愛が損なわれたもの」を決して許さずに憎んで生きていました。それが、「愛されることを必要とせずに愛することができる」という未知の感情を心の中に見出し始めていた頃のある時、私の中で、「愛への姿勢」の根本的な選択の中で、放棄されたのです。
選択とは、「愛が損なわれたものを許す」ことでした。
それは、私の中に生まれ始めていた、「愛されることを必要とせずに愛することができる」という感情の芽を、大きな成長へと解き放つことになりました。
これは私の中で、一種の「思考戦争」とも言えるような、価値観の検討思考であったように記憶しています。愛はこうあるべきだ。こうした姿は絶対に許してはいけない。
いや、それを許すことに愛があるのではないか。
この「思考戦争」は短期に決せられました。許した時に心の風景が一変し、自分の中に愛が湧いてくるのが、すぐ分かったからです。そうであればもう何も迷う理由はありませんでした。
これは私の中で、「愛」を「弱さ」を基準にして考えることから卒業することでもあったように感じます。
愛がこうあるべきだ。それを私は、「愛されるべき側」に一方的に味方をする論理の中で考えていたのです。いいでしょう。では、人はそのように人を愛するべきだという「正しさ」はもう済んだ話として、実際にそのようにあなたは人を愛せますか?
私はそのような問いを、自分に向けるようになったのです。
そして気づきました。そのためには、強くなる必要があるのだと。
これは同時に、〃自分をあるべき姿通りには愛することをしなかった、自分の来歴を生み出した人々〃への私の感覚を変化させました。彼らは、悪かったのではなく、弱かったのだと。
弱かったから、彼ら自身を守ることで精一杯で、あるべき姿通りのおおらかさで愛することはできなかったのだ。
やがて私は、いつの日のことだったか、自然と、全てを許すという選択へと導びかれていました。自分が強くなりたい、という意志の下で。自分自分から愛せるために。
同時に、まだ何も真っ白で見えないまま、そこにつながる道に自分が立ったことを、意識さえしない心の底で感じていたのではないかと、今としては思い返します。その道を生み出すものとは、自分が何を与えられたかの条件ではなく、何を望むかという「意志」そのものに他ならなかったのです。
第3の側面が、先の自覚体験として紹介した、「神になるのをやめる」という思考の側面です。
私自身は、やはりこの側面が、「否定価値の放棄」の扉を最後に大きく解き放つ、決定的なものになるように感じています。
それはまず、論理性のない「こうである〃べき〃」という全ての観念の崩壊を、私の中にもたらしました。
「論理性のない〃べき〃」とは、「〜のためには」という目的前提がない「べき」です。人は働く〃べき〃である。人に優しくする〃べき〃である。
何のために? 収入が欲しければ、そして人が好きなのであれば、そうすればいいのです。
もちろん、「べき」は実際のところ、心理学的に分析すれば結局は人間の「欲求」に行き着きます。それでも、人間は自分の欲求が何なのかを自分で分からなくなりながら、「べき」という観念におおわれていく存在のようです。その、いわば触媒が、自分を神の座に置こうとする衝動なのです。
「神のような絶対」という感覚が、人間の広大な意識の世界のたもとを決しています。人間は、高度に発達した「空想力」によって、「現実」を越えたものへの「恐怖」を抱くようになった存在だからです。
それに対してどのような根底の姿勢を取るかによって、「愛」も、「自尊心」も、そして自らの「命」と「人生」も、心の中におけるそのあり方が変化してくるのです。
その変化が軸とするのは、やはり「庇護と依存」の世界から、「自立」の世界へという転換だと思われます。
変化は、「庇護と依存」が「自立」に転換するということそのものよりも、「自立」の先にある「未知」にあります。
「庇護と依存」の世界の中で、人は「既知」にとどまります。そして現実を越えた恐怖から逃れようとするあまりに、「これだけは」という絶対思考を抱くようになります。そしてその絶対思考から、やがて自分自身を破壊し始めるのです。
その根底には、もはや「神」という観念を使わないままに、自分が神の座にあると考える思考があります。あまりにもそれを自然なものと感じながら、怒りの中で生きている、現代社会の人々の姿を感じます。
全てが、自意識の「空想」の中に閉ざされたこととしてです。
第9の鍵:「空想」と「現実」
こうして私達は、人生への最後の、9番目の鍵を手に取ることになります。
それは「空想」と「現実」です。
「空想」は本来、私たち人間が、自分をより豊かに、より幸福にするためにあったものであるはずです。
しかし人は「空想」によって、現実には存在しない「脅威」を描き、それを許すまいとして、逆に現実を破滅へと追いやる行動へと駆られていきます。そして自らの幸福を破壊していくのです。
幸福のためにあったはずのものによって、幸福を破壊することになった。
なぜこんなことになってしまったのか。
再び謎解きへ
この謎解きは、2004年、私がY子さんへの援助の中で、「愛」の謎を解いてから間もなく、その続きとして始められました。
私はこの歩みを経て、穏やかで豊かな心を、自分の中に見出せるようになっていました。問題の根源は一体何だったのか、そして何が自分をそこから救い、自分を成長させたのかの核心が、それを体験した私自身にさえ良く見えないままにです。
ただ私の心を打つのは、「心を病む」という、人間が自らの幸福の破壊へと駆られることの、あまりの不条理でした。
病んだ心のメカニズムの中で、それを最も印象づけたものが、他ならぬ「自己操縦心性」という心の仕組みでした。
上巻3章で述べたように、それが単独でつかざどる機能は、ごく僅かです。歪んだ感情は、私たち人間自身の、歪んだ思考が生み出します。自己操縦心性が行うことは、たった一つ、そこに生まれた「空想」に、それこそが「現実」だという、重みづけの逆転を行ってしまうのです。
何よりもそれが破壊的でした。それさえなければ、人間はこのように自分自身を、そして他人を、破壊しなくても済んだはずなのです。
「自己操縦心性」は、何でそんなことをさせようとしたのか。
心を病むことの最も破壊的な側面は、自己操縦心性が行う「要求と真実の差し替え」にあるように感じられました。
「愛」は一体化への感情としてあります。人がその中で守られてこの世に生まれるべき、「宇宙の愛」に満たされなかった時、自己操縦心性は、それをいつまでも求め続けるこの人間の要求を、「真実」と差し替えます。「宇宙の愛」に満たないものは、「真実の愛」ではないと。「ニセの愛」だと。
そしてその人間に向けられる、「宇宙の愛」ではなく限界のある他の種類の「真実の愛」を、この人間自らが「ニセへの憎悪」の下に破壊するように仕向けるのです。なによりもその愛を必要としたのはその人自身であるにもかかわらずです!
なぜそんなことを自己操縦心性はしようとしたのか。
自己操縦心性の起源へ
私はそれまで、「自己操縦心性」を、防御システムが起す一種の暴走のようなものではないかと考えていました。
そんな話が、私たち人間の体には実際にあります。「免疫システム」です。それが暴走する「アレルギー反応」は、時に人を死に至らしめたりもします。それと同じことが、心における危険回避システムに起きたのではないか。それが「自己操縦心性」として作動するようになるのではないか。
しかしこの考えは、何の解決への糸口も示唆するものではありませんでした。
答えは、驚くべき大どんでん返しの中にありました。未知への軸にある2つの大どんでん返しの話ではなく、心を病むメカニズムの根源の、さらに起源にある大どんでん返しになります。
それは私がY子さんの危機への対処をひとまず終え、私自身の日常生活の中で心に起きるちょっとした揺れを自己分析していた時のことです。まあ交際相手候補とのやり取りの中で、相手が期待通りの振舞いを寄越さなかった時に起きた、へこんだ気分のようなものです。
私はその感情の流れの中に含まれる、ある特有の要素に注目しました。
「高く掲げる価値」の絶対性
それは、「こうであれれば」という姿の価値の絶対性の感覚でした。
それはまるで、輝く水晶のように「高く掲げる価値」になります。その価値の輝きによって、自分が誰よりも勝利し愛される人間になる。高く掲げた水晶の放つ光線によって、全ての人間が、その持ち主である自分にひれ伏し、自分を愛する。そんなイメージです。
ただしこのイメージが示す通り、高く掲げた水晶は「自分自身」ではありません。水晶の輝きによって自分が愛され勝利することを期待する人は、実は「本当の自分自身はみずぼらしく愛されない人間だ」という感情を心の底に隠し持つことになります。
そして自分が持つその「高く掲げた水晶」を、実はそれはただの石ではないかと否定された時、この人の心の世界で水晶の輝きは消え、皆が自分にひれ伏し愛する世界は一挙に崩壊し、かわりに「まがいもの」と断罪された押し込められた自己像が現れます。そしてその相手とは、一切の相互理解も、一切の共感もあり得ない異形なる他人という関係になるわけです。
もはや外面行動には何の影響もない薄さで心の中に映されるその映像が、来歴を通して自分を翻弄し続けてきたものの根核であるのを、私は感じていました。そこにある「価値の絶対性」をめぐって、さまざまな変形と軋轢の中にあえぐ過去の私の心があったのです。
事実、心を病む過程とは、「高く掲げる価値」の絶対性をめぐる、人間の心の病理なのだと言えるでしょう。
そこで起きる感情反応は、まるで、宗教における価値の否定と同じもののように感じられました。
自分自身を否定されたわけではない。でも自分自身にとっての「神」そのものという、あまりに絶対的な価値を否定されたという感覚。その後では、その相手との調和はもうあり得ず、あり得るのは敵対か離反だけになります。
これは「全能万能」の価値とも言えます。それがあれば何でもでき、何でも手に入る。宗教における「神」と同等の「絶対性」を、その「価値」が帯びるのです。
心理学の観点から見るならば、人の出生において「全能万能」という感覚は、「宇宙の愛」によって与えられるものと考えられます。親の無限の愛に守られ、無限の力を与えられることによって、幼い自分でも、何でもできる。その素朴な安心感と期待の中で、現実世界へと歩み出すわけです。
自己操縦心性とは、幼い心が抱くこの無限と万能への期待に、宗教における「神」にも匹敵する、融通の効かない絶対性の重みを付与するものであるように思えました。やがてそこから自分自身を破壊へと追いやるほどの絶対性を。
そう考えると、「自己操縦心性」というものが、もはや「防御システムの暴走」といった消極的なイメージではなく、何か非常に積極的に、人間の心の世界の何かを志向しているものであるように感じられてきました。
全能万能の空想は、間違いなく人間自身が誰でも抱くものです。自分は何でもできるんだ。この「現実の自分」とは別の、何でもできる自分こそが本当の自分だ。
それは幼さと未熟さが人間誰にでも抱かせる思考です。自己操縦心性は、そこに最後に、病的な逆転を加えてしまうのです。「現実の自分」は、そもそも現実じゃない。空想の世界こそが、現実である。そうでない現実とはニセだ。ニセを破壊せよ! 現実の自分を、そして現実の世界を全てを、破壊せよ!
一体この逆転は、何のために行われたのか。なぜ、自己操縦心性は、この人間に「現実は現実じゃない」と思わせようとしたのか・・。
自己操縦心性の起源は「傷ついた自分への愛」だった!
その瞬間浮かんだのは、カルフォルニア洲史上最悪と呼ばれる児童虐待体験を克服して、自らの人生を獲得した半生を綴ったベストセラー、『“It”と呼ばれた子』の著者、デイブ・ペルザーでした。
あの地獄のような虐待の中で、最後まで彼の希望を失わせずにいたもの、それは彼の空想力でした。彼は自分がスーパーマンになる空想によって、ぎりぎりのところで人間への希望を保ったのです。これは現実じゃない、僕はスーパーマンなんだ。この空想の世界の方がむしろ本当なんだ。
この思考が、彼をあの地獄から救ったのです。
「現実からの逃避」。私は最初その言葉を思い浮かべました。
それは間違いでした。彼の中で「空想世界」は、明らかに生きていくための前進でした。これは明らかに、単なる自己防衛を超えた、人間の脳が獲得した、遥かに高度な、豊かな創造性の機能だったのです。
これが「自己操縦心性」の起源です。
ではなぜ「自己操縦心性」はそれを行おうとしたのか。
それは「愛」でした。地獄の中に生きる自分自身の心を救おうとするための、自分自身への「傷ついたものへの愛」という「真の愛」の一つだったのです。
これは私自身のこの心理学の整理の道のりにおける、あまりにも大きなどんでん返しでした。「自己操縦心性」は決して「病んだ悪の心性」などではなかった。それは自分自身への「傷ついたものへの愛」から生まれたものだった!
私はそう考え、涙が溢れてくるのを感じました。私は初めて、自分自身の心理学によって涙を流しました。
自己操縦心性は安らかな眠りの中へ・・
「自己操縦心性」が純粋に持つ機能とは、「空想と現実の逆転」のみです。それ以外の、思考と感情の内容そのものは、全て私たち自身が作り出したものです。
そして自己操縦心性が「空想と現実の逆転」によって行おうとしたのは、傷ついた自分を救うことだったのです。
それを理解するのであれば、私たちには、選択が示されることになります。
自己操縦心性がその起源において果した役割に感謝し、その役割を、今度は自分自身が引き受けることです。
苦境に置かれた自己の現実と不完全性をありのままに認め、もう「空想と現実の逆転」には頼ることなく、自らの心の成長と幸福に向かうために自らを導いていくことです。
その選択を果たした時、自己操縦心性は、憎悪を宿した赤い攻撃色に光るその目を、青く穏やかな色に変え、静かに、そして心安らかにその役目を終えるように、私には浮んでくるのです。
そして自己操縦心性は、安らかな眠りの中へ・・。
「未知」の増大・『マトリックス』の世界へ
「未知」への軸の道のりは、「否定価値の放棄」によって終わるのではなく、むしろ逆に、そこからが本当の始まりになります。
なぜなら、「否定価値の放棄」によって、本当に「望み」が開放されることが、始まるからです。「否定価値の放棄」を成していない限り、心のエネルギーは「あるべき姿」をめぐる歯車の動きに向けられ、ありのままの「望み」の開放に赴くことはないからです。
自分が神になることをやめたことの影響は、計り知れないものがあります。
一言でいえば、私は「ただの人間」に戻ったのです。
「これでは駄目だ」という否定思考と否定感情のことごとくが、もはや意味をほとんど持たず、実際のところ別にそれでいいとすれば済んでしまうことで、今の私たちの生活は溢れ返っているのを心底から感じるようになりました。
小さなことでくよくよすることが次第に全くなくなっていきました。一種それは、自分が能天気で薄情な人間に変わってしまったかという懸念さえ、時として感じさせるものでもありました。
確かにそれは一面では事実でもあります。健康がすっかり回復したことで、心を病んでいた時の苦しみを、私自身が思い出せなくなってきたのです。人の苦しみを理解せよと言われても、外に出て遊び回りることにワクワクする気持ちで、意識がもうあまりそうした世界に気が回せないという風情でもありました。
それでもやがてまた心理学の世界に戻ってきたのは、他ならぬ、「普通という基準」さえもその意味を失う、「普通を越えた彼方」にある「望み」を追い続けるこの未知の軸への歩みを、私が後までやめなかったからです。
その都度、「未知」は増大します。
根源的自己否定感情という深淵があり、感情の膿という内なる脅威があり、自己操縦心性はそこから私たち自身の心を守るために存在し、自己操縦心性が描き出した「現実らしき世界」のイメージの中で、私たちの「心」は動いている。
この大局構造は、恒久的なもののように思われます。望みに向かい、自己と現実の不完全性に出会い、心性崩壊の闇を通り抜けた時、この大局構造はより一歩、心の純粋な完成形へと近づく。
ただしそれが「完璧」に果たされることは、恐らく現実の人間においては、ないのでしょう。それが人間の不完全性というものです。
これはあたかも、映画『マトリックス』の世界を私に浮かばせます。
人間が「現実」だと考えているものは、実は、人間を電源として繋いで「栽培」している巨大コンピューターが、人間たちの脳に映し出している夢に過ぎない。巨大な「畑」で沢山のコードに繋がれ眠りの中で栽培されている人間は、その夢の世界をすっかり「現実」だと思い込むことの中で、一生を終えていくのです。
一部の人間が「覚醒」し、「真実」に向かいます。コードから身体を脱出させ、仲間を募りながら、巨大コンピューターへの戦いを挑むのです。やがて巨大コンピューターが破壊され、新しい世界がリロードされます。
新しい「現実」が始まります。しかしそれもまた、「マトリックス」の世界なのです。そこにあった「真実への戦い」は、「真実への欲求」を持つ人間の気休めのために、「マトリックス」が用意した、それもまた夢だったのです。
「望みは人の目の中に始まり魂へ向かう」
それと全く同じことが、この人間の心には起きる仕組みがあるということになります。
「こうなれれば」と、「空想」の中で描くことから、私たちの「望み」は始まります。そうなれれば、人は自分のことをこう思うだろう。そうした「人の目」をイメージします。そんな「人の目」があるのが、この「現実」の世界であり社会なのだと感じます。
しかし、このハイブリッド心理学の取り組みの道のりにおいて、そうした「人の目」にある「現実」と「幻想」を切り分ける姿勢と共に「望み」と「現実」へと向かった時、「幻想」を生み出していた心の根源が暴露され、今までの「現実」世界は一度崩壊し、新しい「現実」がリロードされるのです。「こうなれれば」という「衝動」も、「人の目」のイメージも消えた、「新しい現実」がです。
これは実際に「自己操縦心性の崩壊」を何度も体験するようになった身から言えば、アナロジーどころではなく、そのものの話です。
そして、その「新しい現実」も、再び、自己操縦心性の中にある・・。
これは実際のところ、何とも難解で不思議な話です。私たちが「現実」だと感じていることのどこまでが本当に「現実」なのか、私たちには分からないということです。
実のところ、現代人の多くが「社会の現実」としてそれを追うことに駆られている、「人生の勝ち組負け組」など、幻想に過ぎないのです。これは断言できます。私自身がもう卒業した幻想として。
さらに、そうした短絡的な自尊心衝動を離れ、「生み出す」ことに生きた時の世界との調和の感覚も、やはり人間のこの深層のメカニズムによって描かれている、幻想に過ぎないのかも知れないのです。
たとえば今私が、この執筆活動に自分の生きる意味を見出していることも、自分の書いたものに意味を感じて下さるであろう人々の目があるという「イメージ」に、結局支えられています。それも「幻想」に過ぎないかも知れないのです。
それでもこの道のりが映画『マトリックス』とは違うところとは、人間の心の場合は、ゴ−ルとなる完成形らしいものが、やはりあることです。
そして、「望み」に向かうその歩みにおいて、その完成形に向かってどのように「未知」が質的に変化するかが、私自身の体験においてもかなり明瞭になってきました。
私はそれを一言で、「望みは人の目の中に始まり魂へ向かう」と表現しています。
「望み」は、「自意識」を使った「空想」の中で、「人の目」の中にある自分を描くこととして始まります。そして望みに向かい現実に向かうことの中で、「現実と自己の不完全性」によってそれは果て、同時に新しい現実世界がリロードされる。
その時、「望み」に質的変化が起き、ある感情の質が次第に強く加わってきます。
人間の真実・人生の答えへ
私はそれを「魂の感情」と呼んでいます。「人の目」が完全に消えた「望み」の感情です。
その先にあるものは何か。そこに「命」があり、「真の望み」が見出される、この歩みのゴールがあります。
それは同時に、「望みに向かい現実に向かう」というこの道のりに現れる、最後の、そして最大の、あまりにも巨大な大どんでん返しになります。
しかし、そこに私は、今まで人間の歴史を通して、言葉を変えながら伝えられてきたものと完全に符合する、「人間の真実」を見ます。
そしてそれこそが、たとえハイブリッド心理学のこの道のりをその通りに歩むことがない場合においても、それを理解することが、何よりも私たち人間の心に安らぎと、今ここにある命をより有意義に感じさせてくれるものになるはずだと、私は感じているのです。
視点をそうした「増大する未知」へと移し、人間の真実と真の望みへの答えとなる、「人生の鍵」への追加となる鍵をお渡ししたいと思います。