心の成長と治癒と豊かさの道 第4巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(下)−病んだ心から健康な心への道−

6章 人生の答え−1  −「魂の成長」のメカニズム−

 

 

心の真実へ

 

 人間の心の真実は、「普通」という曖昧な基準に惑わされることなく、私たちの心に「命の重み」を与えてくれる「望み」を追い続けた先に、見出されるもののように思われます。

 

 人は「真の望み」から遠ざかるごとに、自分自身の「命」の重みを感じ取ることができなくなり、代わりに、「人の目」がまさに命の重みを持つかのように感じる。そんな法則性を言えそうです。それで「人にこう見られたらもう破滅だ」と自殺したり、自分を良く見てくれなかった相手を、殺したりするのです。

 「真の望み」に近づくごとに、私たちの心の中で「人の目」イメージが薄れていきます。それは脳のレベルでと言えるほどの、大きな変化として理解することが大切です。

 そして代わりに、自分の「命」の重みが、ありのままに感じ取れるようになってくるのです。その時人生は、生きる喜びと楽しさに満たされてきます。

 

 ここから終章にかけて、人の心のこの変遷を貫く、人間の心の真実をお伝えしたいと思います。

 

「未知」の増大

 

 「否定価値の放棄」の扉を過ぎて心に進行するようになる「未知の増大」は、「望み」に向かい現実に向かった時に現れる、「濃い感情たち」に、まずその姿を現します。

 これは4章ですでに説明しました。3つのつながりのない世界の中に、それがあります。

 

 (1)「こうなれれば」という空想。それが私たちの「望み」の基本的な姿でもあります。そこには「人の目」のイメージがあります。心を病むごとに、イメージが「強迫的」になり、「現実」はぶ厚いガラスを隔てたように感じられるようになります。

 (2)望みに向かい、自己と現実の不完全性にありのままに心を晒した時に現れる、濃い感情。それは「愛」「恐怖」「罪」です。「自尊心」は、これを見据える苦しみを支えるために、「心の自立」の中で「生み出す自尊心」として先に増大していることが必要です。

 ここで「人の目」のイメージと「自意識」が消え去ります。一度闇の中を通ることによって、心が解き放たれるのです。

 (3)それらの濃い感情にただ打たれ、それらが過ぎ去った後に現れる、未知の自分。これは(1)の空想イメージが消え去った、「ただこのありのままの現実を生きる自分」への確信の増大として、意識にはまず捉えられます。

 心に湧き出る感情は、より豊かさを増します。「愛されることを必要とせずに愛することができる」という感情としてです。

 

始まりから

 

 一体どのようにしてそうなるのか、この心理学の道のりの歩みを、その始まりから紐解きましょう。

 

 始まりはまず、「気持ちが大切」「感情がこうならなければ」と自分の心にじっと見入る、「感情依存」とこの心理学で呼んでいる、典型的な心の悩みの姿から考えるのがいいでしょう。「気持ちが大切」と自分の心にじっと見入る一方で、「現実」が放置されどんどん悪くなっていってしまうのです。これでは感情が良くなるはずもありません。

 人はその姿勢の中で、自分のありのままの感情を葬り去り、「感情の強制」という心の無酸素運動を自分に強いりながら、自分の気持ちが人に見られることで人生が良くなるという「庇護と依存」の幻想の中で、人にどう見られるかに心が足元からすくわれ、極端に揺れ動く感情に翻弄されるようになります。

 その姿勢の裏にある「存在の善悪と地位」への傲慢な衝動の闇から目をそむけたまま、「あるべき姿」通りではない不完全な現実と自己の人生を怒り嘆くことの中で、人生を生き始めるのです。

 

 方向転換への歩みは、「心の自立」について学ぶことから始まります。

 それは自分の気持ちを自分で受けとめ、自分の幸福を自分で考え、そのために自分から望むということです。望みに向かい現実へと向かうために、この社会を自分の目で見て、人の言葉の受け売りではなしに、自分の頭で自分なりの行動原則を築いていくことです。そのために、心の自立に立脚した人生観社会観そして人間観と、それに沿った行動学を学んでいくことです。

 自分に嘘をつかずに、自分の心に流れる感情をありのままに認め、そこに潜む心のメカニズムをぜひじっくりと学ぶことです。それを深く知るごとに、出口がどこにあるのかも見えてくるようになるからです。

 自分の心はこうで、人間とはこういうものだと、決めつけてはいけません。確かに「今の心」で考えるのならそうなるでしょうが、それで決めつけるのは、「今の心」を後生大事に現状維持することを選んでいるということです。そこまで分かった上のことであれば、別に異論はありませんが。

 

 「心の自立」の中で、私たち人間を惑わす主な感情の論理が、根底から変化します。この論理転換をあらかじめ知っておくことが、向こうからやってくる「未知」をしっかりと捉えるのに良いことです。

 それぞれが別個の人格であることを尊重する、これからの社会観に立って、「存在の善悪と地位」が不条理であることを理解する必要があります。望むことは自由であり、その代わりに、叶うかどうかは与えられた条件や資格で決まるのではない、社会と人間の多様性があります。

 現実社会における「罪」と「罰」の正しいあり方を理解することが重要です。なぜなら、私たちの「自意識」が描くことができる「望み」には、どうしても「生から受けた拒絶」という幼少期の挫折に対する、穴埋めと腹いせの皮相化と荒廃化を帯びた、「存在の善悪と地位」へのすさんだ競争心の衝動を含んでしまう面があるからです。何をどう望むのが、そして望むことを許させるのが「正しい」のかという混乱に、心が惑わされてしまうのです。

 

 そこに別れ道が見えてくることになります。「望み」が含むすさんだ衝動の側面を断じて、自らは望まないことを是とするか。それとも、「望み」の中に含まれる、より純粋な「存在の善と誉れ」への願いに向かって、全力を尽くして向かうことを是とするか。

 「心のあるべき姿」を掲げ、心の悪しき面に目を向け、それを断じることに守るべきものがあると考え始めた時、人は自分が神になろうとする不実と傲慢に気づかないまま、「悪魔との契約」の中で自らの魂を失い、「嘆きと苦しみによる解決」という名の自己破壊へと向かうことになります。

 「現実において生み出す」ことを指針として選び、「望み」の中にある一片の建設的要素に着目して、「現実」へと向かった時、そこに「自己と現実の不完全性」が現れます。

 ここで全てがはじけます。もし恵まれた星の下に育った心の健康な人であれば、思考法と行動法の知恵とノウハウを活用して、そのまま人生の開花へと進むことができるでしょう。

 自己の内面に心の闇を抱え、それでもこ道を進むことを選んだ人間に、ここで「成長への痛み」が訪れることになります。全てが見えなくなる闇が訪れ、この者はこの者自身の「神」との、生きることを決する対話に立たされることになります。最後にこの者を支えるのは、科学の思考に立つ、性善説的な人間観になるでしょう。

 

 ハイブリッド心理学の道のりは、この全てが重なった、とても限定された細い一本の道としてあります。

 これ以外の道がないとは、とてもではないですが言えません。ただ、私は知りません。

 もちろんハイブリッド心理学とは全く別の言葉で、人生の道を説明するものが沢山あります。しかしそれが「真実」に至るものは、地図の尺度や精緻さが違うだけで、その本質は全く同じものなのではないか、と私は考えています。

 

 そうして「心の真実」に向かうごとに、3つのつながりのない世界が、見えてくるのです。

 「人の目」の中に描かれる「望み」と、それに向かい「現実を生きた」時に、自意識が消え去り現れてくる濃い感情と、そしてその後に訪れる、確信を増した、このありのままの現実を生きる自分がです。

 より鮮明さを増しながら。

 

「自意識へ向かえ」

 

 ここで一つ、熱心に心理学を学ぼうとし始めた方が抱きがちな思考について触れておきましょう。

 

 どうすれば「自意識過剰」をなくせるか。どのようにして、いかに「人の目を意識しない自分」になれるかといった思考の虜になっている方を、よく見かけます。他ならぬ私が、最初はそれでした。

 その望みからすれば、「人の目をイメージした望み」などは、切って捨てたい唾棄すべきものと考えるかも知れません。

 それで「心を解き放って生きる」ことを謳う、さらには詳しい心理分析理論なども持っている、この心理学なり他の心理学なりを学んで、「自意識を取り除く」「人の目を気にしないでいられる」ために、「そうか、こうすればいいんだ」と思えるものを得ようとする。

 そしてこの最終章で述べられる「心の完成形」についても、それが分れば自分も「こうすればいいと分かる」のゴールに至れるのだ、と期待するかも知れません。

 

 それは陸上のトラック競技で言う「周回違い」になっていることにご注意です。それはまだスタートしたばかりの段階、さらには、スタート地点にまだ立ってもいない段階かも知れません。

 それはまさに、「こんな自分が人に見られる」という、バリバリの「心の依存」と「存在の善悪と地位」への衝動の結晶とも言える、典型的な思考です。

 

 1章で「基本姿勢」についても言った、「自己の真実」へと向かうことが、最初の一歩です。小手先の思考で自分を変えようとする焦りを解除し、まず問題として何が起きているのかを知ることから始めます。そしてその根底に流れる心のメカニズムを知り、その一つ一つの歯車について、どのように回し方を変えるのが良いかを、地道に理解していくことが大切です。

 「自意識」を意識努力で捨てようとするのは、誤りです。「自意識」はそんなやわなものではありません。まずそれが多少とも歪んだ内容を帯びて生み出されてから、私たちの意識は始まるのです。

 まずはそれをありのままに知ることです。自意識を捨てたければ、まず捨てようとしないことです。これは上巻3章でも言いました。自意識から抜け出したければ、抜け出そうとしないことだと。

 自意識をなくすことに自意識を向けるのではなく、それが求めているものを知ることです。そこにある「望み」を明らかにすることです。

 まず「自意識へ向かえ」が指針になります。ありのままにです。

 

 私たちの「望み」は、常に「自意識の空想」と「現実」の狭間にあります。

 そこで私たちの心は大抵、「人の目を通して望む」一方で、「人の目を気にする自分」が許せない、という奇妙かつ典型的な矛盾を抱えます。時にそれは「人の目を気にしない自分が人の目に見られる勝利」とでも言うべきパラドックスです。

 その結果はもはや自明です。それが成立するのは「空想」の中においてのみであり、「現実」に出るやいなや、破綻が起きるのです。人の目を気にする無様な姿が人に見られ、望めなくなる自分、という形で。

 「成長への痛み」が、そこにあります。ありのままの自分を知り、心のメカニズムを正しく知るという第一歩からの歩みが、そこに始まるのです。

 

「学び方」への示唆

 

 あまりにも学ぶべきことが多いと目まいがするようであれば、メール相談などの援助を活用するのも良いことです。実際に必要なのは、膨大な知識ではなく、今必要になる一つの心の転換を知るための、ほんの僅かな「気づき」だけなのです。

 「実践編」など、実際の事例を読むことをお勧めします。そこには、どのような言葉がそうした「気づき」を導くのかの、宝の山があるはずです。私もできるだけ沢山の事例を書いてきたいと思っています。

 この「理論編」で書いていることは、生涯を通して理解を進めて頂きたいことです。速読で一回読んだら終わり、というようなものとするのはお勧めではありません。私自身は本を音符のスキャンのように読むのではなく、「実演奏時間で読む」ように時間をかける主義ですが、この本の実演奏時間は、もちろん人生を生きる時間そのものも含めて、「生涯」です。

 実際の体験の中で、身をもって学ぶことのできる心の転換は、その都度一つです。その一つ一つを、生涯に渡って(かて)となる自動的な駆動力として定着させたいのであれば、人生のどこかで、それを「言葉」として何度も反復して心の芯にまで刻み込むという作業をすることが大切です。

 この「理論編」も、そうした「言葉」を適宜拾い出すための、生涯に渡って活用する家庭医学書のように手元に置いて頂ければと思います。

 

自意識を抜け出す・「自分の殻を破る」

 

 今まで説明してきたように、「自意識」というのはとても中途半端な意識構造です。

 まずはその空想の中で「望み」を描くことにより、「幸福」を目指すためのツールとして、それはあります。一方、その中にとどまり続けることは、逆に幸福を阻害することにつながる、諸刃の剣です。幸福を阻害するのは、「現実」という地から足が離れること、そして「愛」を妨げること、この2つが主因と言えます。

 

 従って、(1)自意識によってまず「望み」を描くのですが、(2)その「望み」に向かって心を解き放つこと、さらに(3)現実場面へと向かい、その結果に心を晒すこと、という3段階を経るのが、「正しい心の使い方」になるわけです。

 すると心が、「自意識」の空想世界から、「現実を生きる」ことへと解き放たれます。

 心が緊張から解き放たれ、「現実」のさまざまなものとの一体感を基盤とした、喜びや楽しみ、さらに愛が湧き出てきます。それが「幸福」の源泉になるわけです。

 

 そのような「心の使い方」が重要であることは、私たち人間も本能的に感じ取ってはおり、日常の中でも「自意識の殻を破る」「自分の殻を破る」といった言葉で表現されます。

 さらにそれが出来ているらしい、生き生き伸び伸びとして情緒性豊かな姿が、その見栄えにおいて理想として人の心に抱かれたりします。自意識の中でです。そして、「さあ自分の殻に閉じこもってばかりいないで」といった「励まし」が言われるようになったりします。

 かくして混乱が起きるわけです。そう言われたところで、すぐそれができるほど簡単な話ではありません。そう言われただけで出来るような話であれば、誰だってとうの昔にすでにやっています。

 

 実際に「自分の殻を破る」とは、上述した3段階をしっかりと踏むことで、可能になります。

 問題は大きく2面から起きます。

 一つは「恐れ」のために、上記(3)の現実行動、さらには(2)の「望み」へと心を解き放つことさえも、やめてしまうということが起きてくることです。それが現実行動の停止だけにとどまるものはまだ害はありませんが、「望み」へと心を解き放つことをやめた時、心が生命力を失い始めます。

 もう一つの問題は、そもそも心を解き放つことを良しとしない思考が出てくることです。自意識の中にじっとこもったまま、「あるべき姿」を考え、自意識の中で、「そうなれた」ことを監視し続ける姿勢です。この典型は「情緒道徳」の思考です。

 この2つの問題が大抵一緒に働き、人はしばしば自意識の中に閉じた心に向かってしまいます。事実これが、この心理学の取り組みの道のりのスタート地点になるわけです。

 

 ですから、自意識を抜け出し心を解き放つという「心の使い方」に向かうためには、大きく2面からのベクトルが必要になることになります。

 一つは、何らかの形で「恐れ」を突破できることです。「恐れを突破する」とは、先の見えない闇に一度飛び込むということです。先が分かる範囲とは、結局恐怖を避けることができる範囲ですから。「望み」もその範囲に収めようと考え始めると、「成長」を捨てることに「なります。

 もう一つは、心を解き放つことを良しとする思考を築くことです。「心の自立」に立脚することと、科学的な性善説的人間観に立つことが重要なポイントになります。

 これは一体何を意味しているのでしょうか。それはつまり、「〃こうすれば自分は大丈夫だと自意識で考えたこと〃が破綻しても大丈夫」と思えるような思考法と行動法を、打ち立てるということなのです。

 

「魂の成長」のメカニズム

 

 そのために必要な準備知識を、この本で説明してきました。しかし最終的に「〃こうすれば大丈夫〃が破綻しても大丈夫」と言えるだけの支えのエッセンスは、結局2つになると考えています。

 一つは、この前進を常にその場で支えるものです。それは「現実において生み出す」ことへの自尊心です。

 もう一つは、この前進に向かい続けることの全体を支える、動機づけです。この歩みの先に何が得られるのかの報酬であり励みになるものです。

 それは、「心を解き放って生きる」ことの先にある「未知」が、この先どのような変遷を経て「真の望み」の見出し、もしくは「心の純粋な完成形」へと限りなく近づくのかの、おおよその姿と、なぜそうなるのかの、心の仕組みについての理解です。すでに心に起きたことを理解するための「心を病むメカニズム」ではなく、全く未知なる人間の心の世界を説明するという、この心理学がこれからの人生を生きる全ての人と、これからの社会のために示す試論になるでしょう。

 それをこの心理学では、「魂の成長のメカニズム」と呼んでいます。

 

 この2つが密接につながってきます。「生み出す自尊心」が、「心を病むメカニズム」からの脱出のための、最も基本的なエンジンです。

 それが「魂の成長」とこの心理学で呼んでいる、神秘なる心の自然治癒力と自然成長力による「未知の増大」の結晶に、そのままつながっていき、「魂の成長のメカニズム」によって、真の望みが見出されるゴールへと向かいます。

 この流れを説明していきましょう。

 

「魂の感情」

 

 私たちの心で自意識が突き破られ、「自分」や「他人」のイメージが消えた中で流れる濃い感情を、ハイブリッド心理学では「魂の感情」と呼んでいます。

 

 「魂」とは、日常用語においては「肉体に宿る命の源」などと解釈され、かなり神秘的な概念ですが、ハイブリッド心理学においては、まずは「感情の生命力の源」と定義しています。「霊魂」という神秘なものよりも、まずはあくまで人間の脳の機能として考えています。

 しかし実際のところ、自意識が解かれて流れる濃い感情というのは、私たち自身の意識コントロールを越えた、まるでもう一つの人格体が心にはあるかのような印象さえ感じさせるのが事実です。その印象は、まさに日常用語での「魂」とほぼ一致しており、この言葉をそのまま使っています。

 これは逆に、人間の場合、命の重みを感じさせる魂の感情の層の上に、ごく表層的な思考と感情の層が分離されて重なっているという心の二層構造を考えるのが正解だということのように思われます。

 

 日常生活においては、この「魂の感情」は、大きな感動や、言葉にできない情動のほとばしりなどとして体験されます。

 苦労して山頂に上って見られる、あまりにも雄大な光景に心を打たれる時の感情。あまりにも美味しい料理に感動する瞬間。スポーツの試合に勝った瞬間に体から湧き出る雄たけび。

 今年2008年の北京五輪でフェンシング銀メダルに輝いた太田選手は、彼にとって最も重要だったと語る2回戦で、宿敵の韓国選手に勝ち、一見して落ち着いた様子で握手を交わして数歩歩き出した時、突然発狂したかのような絶叫の雄たけびを上げていた様子が報道されていました。それは全身のエネルギーを消耗する、スポーツ選手にとってはあまり賢い行動ではないとのことですが、我慢できなかったそうです。平泳ぎ2種目制覇の北島選手も、100メートルで世界新記録を出して1位になった瞬間、やはり動物のような雄たけびを上げていましたね。

 

 この例で分かるように、「魂の感情」は、まず(1)意識するしないにせよ「望み」に向かっている準備段階があり、(2)その望みが「現実と交わる」とでも言える場面を迎え、(3)どっと魂の感情が流れる、という基本メカニズムを言うことができます。

 このごく日常場面を取り上げた例を思い浮かべるだけでも、その次に来るものが自然に浮かんできます。(4)その後、この人の日常の感情は、それ以前とは異なるものになるのです。そうした感動体験を経た人は、心の芯に何かを得た揺るぎないものを一つ持つことになる。これは何となくイメージできるのではないかと思います。

 オリンピックへの挑戦といった特別なものはさておき、これが再び同様な、(1)「望み」に向かう準備段階へと戻った時、それは前の同じ時よりも、より力強く安定した前進の感情を人に与えているものになります。つまりもう結果についてはあまり悩まないままに、望みへと向かうことができるようになるのです。

 

 上述が「現実と交わる」タイプの「魂の感情」とは多少異なるものとして、「現実と交わらない」タイプの「魂の感情」というのもあります。これはとても深い情緒性を感じさせる感情で、この歩みの先にいくほどその重みが増してきます。

 一言でいえば、「現実世界を越えて流れる感情」とでも呼べるものであり、人がそれを表現する時には漠然としたイメージによって描写されます。その分、あまりにも非現実的、非科学的な描写に流れる嫌いもあると言えるかも知れません。

 『悲しみの彼方への旅』の冒頭詩はまさにこの「現実と交わらないタイプの魂の感情」を表現したものです。

 また、テノール歌手の秋川雅史さんが歌って、クラシック歌曲として初めてのミリオンセラーを記録した『千の風になって』が、人にこのタイプの「魂の感情」を湧き起させるものの代表的好例と言えます。作者不詳のその歌詞を載せておきましょう。

 

私のお墓の前で 泣かないでください  そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ  冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる  夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください  そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています

あの大きな空を 吹きわたっています

 

「未知」の出現メカニズム

 

 「未知」が解き放たれる心の仕組みについて、3つのものを説明してきました。

 (a)「成長への痛み」の中で現れる3つのつながりのない世界と濃い感情

 (b)自意識を抜け出すまでの「心の使い方」

 (c)「魂の感情」(現実と交わるタイプ)が湧き出るメカニズム

 これらは全て、一貫した心の仕組みとしてあります。それを構成する歯車のフルバージョンは次のような5段階になります。

 (1)「自意識」が「望み」 を描く。これは「イメージ」のみの段階です。

 (2)「望み」へと心を解き放つ「望み」への感情を思いっきり感じ取ることです。

 (3)現実行動」へと向かう。

 (4)「望み」と「現実」が交わる場面を迎える。どう「叶う」ことが起きるかに応じ、全てがはじけるように、どっと濃い感情が湧き出る。

 (5)濃い感情が通り過ぎ、「未知」へと変化している自分を知る。再び(1)へ。「望み」そのものの質が変化してくることになります。

 

「病んだ心から健康な心への道」における「未知」への4つの節目

 

 ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」は、上述の心の仕組みを基盤とした、壮大な「未知」への変化の過程としてあります。

 それは大きく4つの節目を経る、人間性の根底からの成長変化の過程となります。

 

 第1の節目 ・・・ 「魂感性土台の出現」。病んだ心からの治癒成長における、治癒の兆候となる一つの節目です。「魂の感情」を時折感じ取れるようになってきます。

 第2の節目 ・・・ 「否定価値の放棄」。「魂感性土台の体験」あたりから、「感情基調の上昇」が始まるようになってきます。さらに心の成長と闇に取り組む歩みの先に、「否定価値の放棄」の扉があります。

 否定価値の放棄とは、空想の中の「あるべき姿がある世界」ではなく、「ありのままの現実」を、心の底から自己の立つ地とする選択です。これは「現実との交わり」を通過口とする「魂」と、この人の「心」ががっちりと手を組んだ姿を思わせます。

 第3の節目 ・・・「魂の望みへの前進」。「望み」から「人の目イメージ」が消え去ります。「望み」の全体が「魂の感情」で支えられるようになり、生活の全てにわたり心が揺らぎない充実感に満たされるようになってきます。

 ぜひこの段階を基本的な目標にしたいものです。生きる方向性が揺るぎないものとなり、生きる体験を経るごとに、自分の人間性がより豊かになるのが実感として感じられてきます。

 最後の節目 ・・・「命の感性の獲得」。この道のりのゴールです。「真の望み」が見出され、この道のりにおける最大の大どんでん返しが現れ、そこに人間の真実が示されます。揺らぎない自尊心に支えられ、愛によって満たされ、もはや何も恐れるもののない心という境地が見えてきます。

 

第1の未知の節目:「魂感性土台」の出現

 

 「魂の感情」を感じ取る「感性」つまり感情の土台を、「魂感性土台」と呼んでいます。

 比較的深刻な心の障害傾向から取り組み始めた場合に、これを感じ取れることが、治癒の兆候を示す節目として現れます。

 

 心を病む度合いが強いと、「現実覚醒レベル」が低下した半夢意識状態に心がおおわれ、「現実との一体化感覚」を特徴とする「魂の感情」がほとんど湧き出ません。

 それが、「自己操縦心性の崩壊」を主な治癒メカニズムとして、心の圧迫度が減ることで、やがて大きな「開放感」の出現と同時に、「魂の感情」を時折感じ取れるようになってきます。

 これを「魂感性土台の体験」と呼んでいます。

 たとえば、「心性崩壊」の治癒効果について紹介した、「頭が今までと違って良く動くのにビックリです」と報告した男性は、2、3回の心性崩壊体験の後、今までにない開放感を感じた状態を、次のように報告してきました。

 

近くの公園に夕方ボーとしていたら、夕焼けって、こんなにきれいなんだ、と感動。周りにいる人たちの姿を見て、平和だなと感じる。風景がきれいだと心から思ったのは何年ぶりだろうか。

 

 もちろんこのような「開放感」はすぐ定着するものではなく、引き続き「人の目イメージ」におおわれた心の動揺への格闘を続けます。

 その際、そのように全く異なる感性の領域が自分の中にあるという実際の体験が、これから自分の心のどの部分に積極的に軸足をおいて考えていくかという、自己の根本的な変化への前進方向性を、生み出し始めるのです。

 私のそのような説明に対し、その男性は後日、次のような感想を送ってきました。私たち人間の心に、自分でも驚くような未知の領域があることを、如実に語っていると思います。

 その言葉からは、「自意識」が消滅していること、そして「現実世界との一体感」が出現していることも分かります。

 

 その時の感覚と現在の不安感覚はまったく違います。同じ人間の感性とは思えません。

「あーきれいな夕焼け」と感じた時、自分と夕焼けがとけ込んでいました。自分という存在さえ忘れて、生きていることさえも忘れていました。「きれい」とは後で言語化したもので、実際は言葉にならない感情が湧いていました。

 

 これが同時に、「心の自立」に立脚した思考法行動法を習得し定着させていく、「健康な心の世界」を目指した本格的な取り組み実践の段階の始まりになります。

 「望み」はまだ依存性を背景とした「存在の善悪と地位」への皮相化荒廃化した衝動に流されがちです。それでもその建設的側面に向かうことが、早晩「特別扱いへの期待の破綻」を「心性崩壊」として再び促し、心はより安定度を増し、より純粋な「存在の善と誉れ」への望みの側面へと向かうことができるようになってきます。

 

「魂」による「感情基調」

 

 このように、「魂の感情」は、「望みに向かい現実と交わった」時にどっと濃く流れるというのが基本的な姿になります。そして定常状態に戻っても、心は一歩何かの変化を加えたものになっているというメカニズムです。

 一方、深刻な心の障害傾向からの取り組みにおいては、「魂感性土台」の出現を兆候として、「感情基調の上昇」が徐々に始まるようになってきます。

 これは実は、「感情の基調」と呼んでいる、何かの出来事がある時ない時を通して心に流れ続ける感情の基調とは、「魂の基調感情」に他ならない、と言えそうです。

 

 つまり、「魂感性土台の体験」以前においても、実際は魂の感情が流れ続けているということです。自意識を伴なわず、自分や他人といったはっきりした対象イメージを持たない感情です。

 その最も典型的なものは、「漠然とした怒り」です。自分が何に怒っているのか分かりません。私自身の体験の中で表現した言葉を使えば、「空気に対して怒っている」ような風情になります。自分でも何に対して怒っているのか分からないようなものが、そのはけ口を求めているのですから、人はどうしても「八つ当たり」をしてしまうわけです。

 

 心の障害につきものの悪感情は、実はその大半が「魂の感情」です。

 現実に釣り合わない悪感情であることにおいて、人はそれを「症状」のように感じるのですが、実はそれは自分自身の「命」に対するその人の位置を如実に示しているものです。

 たとえば、虚無感空虚感漠然とした悲しみ抑うつ感情空虚感自分の「命」から悲しみ「愛」から、この人が遠ざかっていることへの魂の感情であり、「望み」に向かうようにと心が伝えているシグナルなのです。

 しかし人がそれを「こんな感情になってはいけない」と頭越しに踏みにじった時、心が自分自身によって押しつぶされそうになっていることが、「抑うつ」の感情として現れます。

 それらはむしろ、健康な感情なのです。病んでいるのは、この人の思考であり姿勢の方です。

 

「心の依存vs自立」と「魂の感情」

 

 「魂感性土台の体験」を兆候として「感情基調の上昇」が始まるようになる姿とは、同時に、意識表面ではまったく見えないまま、「心の自立」への姿勢が心の根底において前進する時でもあります。

 逆に、「魂感性土台の体験」を経ても「感情基調の上昇」があまり見られないケースがあります。これは明らかに心の根底が「依存の世界」にとどまっているケースです。

 

 「心の自立」は外面での表面的な自立をどう思考してもなかなか生まれるものではなく、人生観社会観そして世界観といった価値観思考の領域への取り組みが鍵になるように感じています。当然、性別による違いも含めた、文化的な背景も関係しています。

 

 「心の自立」とは、外面における自立と依存にはほとんど無関係であり、まずは「自分の気持ちを人に受けとめてもらうのではなく自分で受けとめる」という変化です。そして、社会を人の目を通してではなく、自分の目で見ることへの変化です。

 「心の自立」によって、魂の感情の体験を節目にした、感情の基調の上昇が始まるという全体構図になります。

 なぜそのようなことが起きるのか。自分の気持ちを自分で受けとめるということが、同時に、心の自然治癒力と自然成長力を自分で受け取るということを意味するからだと、この心理学では考えています。

 魂の感情と、心の自然治癒力と自然成長力を、自分の心で一緒に受けとめることで、魂の感情に成長と浄化への作用が起きる、というメカニズムが考えられます。

 

 それを如実に描写している流れを、『悲しみの彼方への旅』から、2つの場面として紹介しましょう。

 それは同時に、病んだ心の中で人が抱く「他人への憎悪」の底に、「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」という根源的なテーマが、「心の自立」の中で暴露されていく過程でもあります。

 まず最初は、心の根底が「依存」の中にあった時のものです。大学3年の秋口の頃です。

 

 夏休み明け、私の心の中は、人々への自然な振る舞いのできない自分へのすさんだ感情を湧きあがらせることから歩みを再開しました。愛しさを感じた下級生の子にも、どんな振る舞いをできるかと意識しても、ちぐはぐで何もできない自分。どうせ自分は嫌われるのだ、という絶望的ですさんだ孤独感。

 自分は一体これからどのように生きていけばいいのか・・。

 私の頭の中に、他人を憎むことに徹する自分の姿が浮かびます。しかし幸いそれは不完全でした。憎しみに徹することを放棄して、寂しさをさらけ出す自分を思い浮べた時、あの根源的な悲しみが湧き起ってくる・・。

 でもそれは暖かいものを前にした時の悲しみなのだ。現実の人間達はまるっきり違う。そうした人間達の前で、僕はまるっきり無力になるより他はないのか・・。(P.57

 

 ここでは、「望み」の感情の全てが、「どう振舞えてどう見られるか」という「皮相化」「心の依存」にあった様子がうかがえます。

 そこで「現実行動場面」に向かいます。しかし「現実」にはね返されるように、豊かさのある魂の感情は湧き出ず、代わりに「憎悪」が、そして「孤独感」が湧き出るのです。これも自意識が解けた「魂の感情」です。

 「心の依存」においては、意識が「人の目」に駆られ、自らの魂には向けられなくなり、生命力ある魂の感情が感じ取れなくなる一方で、魂の「怒り」と「憎悪」の感情だけは漠然と意識に漏れ出すという図式を言えそうです。

 

「魂の関係性」

 

 「心の自立」において「自分の気持ちを自分で受けとめる」という「自分自身との二者関係」が、「魂の感情」の感じ取り方に決定的な影響をおよぼしている、ということになります。

 「心の自立」の中で、人は自分自身の魂の感情を、しっかりと感じ取れるようになります。

 「心の依存」の中で、人は自分自身の魂の感情をしっかりと感じ取ることができません。

 

 「魂」は、自分自身との間だけにまず関係を持とうとします。これを「魂の関係性」と呼んでいます。

 「魂」は、私たちの日常で言う「他人」には、一切関わりを持とうとはしません。

 もし「魂」が自分自身以外に関係を持とうとするものがあるとすれば、それは「神」です。もちろんこれはもうメカニズムの話ではなく、魂の感情にはやはりどうしても「神」にまつわる情緒があるということです。かなり濃いものとしてです。

 

 ここで重要な視点が浮かんできます。魂は、自分自身に受けとめられずに、自分自身に無視されていることにおいて、何よりも不満を抱いているかも知れないのです。この青年が抱いた他人への憎悪は、本当の根源は、他人ではなく自分にあるのかも知れないのです。

 「魂」は、自分の声が自分自身の「心」に聞き届けられることを常に求めています。「心」が「魂」を無視すると、「魂」がすさんでくるようです。これが「望みの停止による情動の荒廃化」をさらに説明する、根底メカニズム解釈と言えるでしょう。

 

「心の自立」と「魂の浄化」・「人の目イメージ」の消滅

 

 事実、それから8か月後、私の心の根底に「心の自立」への姿勢が生まれ、似たような場面で、全く異なる濃い感情が解き放たれます。

 

 この変化を促したものは、「自己の真実に向かう」という強い姿勢と歩みにあります。私の場合、価値観思考はもとからすでに心の自立を志向していました。まず心の表層に価値観思考の準備があり、「自己の真実に向かう」歩みが、心の根底における「心の自立」を前進させるという、基本的な構図を言うことができそうです。

 そして、「望み」そのものは似たように「皮相化」と「心の依存」の中で描かれながらも、「現実との交わり」によって、心はブロックされることなく「魂の世界」へと突入するのです。そして濃い感情が溢れてきます。

 それは、「魂の愛への望み」の感情でした。

 

 そうして自分の中の無力感をそのまま感じるようになった私の意識が、いままで表面的な理性で隠していたかのような、深い感情に到達します。

 私は大学のキャンパスで、前方にあの子が友人と一緒に歩いているのを見ます。

 自分がもうすぐ彼女らを追い越す。彼女の方を向いて、優しい表情で「さよなら」とあいさつしようか・・。もうあの子が目の前に来ています。

 しかし震える私の心は、私の体を別の方向へと歩かせ、私はベンチに座り、全身の力が抜けているのを感じていました。

 もう自分への怒りは感じませんでした。ただ恐かったために彼女に近づくことのできなかった自分を、私は受け入れていました。

 そのまま帰った私の心の中に、あの子へのあまりにも強い思いが湧きます。私は駆られるように、ホーナイの愛についての記述を読みました。自分の心の問題を克服しようという意志の中で。

 それは、自己の弱さ、そして強さ、その全てをも委ねた愛の感情でした。他者との競争もない、敵意も軽蔑もない、そして愛が報いられないことへの怒りさえない、愛に身を捧げようとする感情でした。(P.82

 

 ここに、端的な心の変化の構図が示されます。

 「心の依存」の中ですっかり「他人の目」のイメージに向いている時に流れる、「他人全般」への憎悪。それは自分に「存在の悪と身分」を断じた他人と社会への憎悪です。

 「心の自立」の中で、まず他人全般への憎悪が空虚感へと薄れていく変化が起きています。この抜粋部分の直前です。やがて特定人物を焦点とした「愛への願望」が意識に芽生え、「現実との交わり」の中で一気に解き放たれるのです。特定人物とは、この人間自身にとっての「存在の善と誉れにある者」と言えるでしょう。

 

 その後に私に現れた変化に、目をみはるものがあります。「他人全般の目」のイメージが、消滅しているのです。

 その「他人の目イメージ」は、心に感じる重みを徐々に減らしながらも、持続し続けていたものでした。それが、魂の濃い「愛への望み」の感情が解き放たれた時、「不連続的」な切り替わりとして消滅したたのです。

 これは実に不思議なメカニズムを思わせます。「魂の愛への望みの感情」が抑圧されている時、それは「他人の目のイメージ」に化けるという公式が言えそうです。

 これは意識上では全く前後のつながりのないことであり、意識上では、愛への感情が湧き出たのとは別の事柄であるかのように感じます。まるで脳に変化が起きたかのようです。後日私に、「僕はもう〃神経症者〃ではない!」という大きな治癒感覚が訪れることになります。

 

 流れ全体のメカニズムもかなり難解ですが、次のように考えています。

 つまり、「心の自立」の中で、望みに向かい現実と交わる場面で解き放たれる「魂の望みの感情」を、自分で受けとめます。そこに心の自然治癒力と自然成長力が働き、心の深層と表層での2つの変化が同時に起きます。

 心の深層では、自分自身に受けとめられた魂が、成長します。「愛されない憎しみ」という未熟と依存性の感情から、「ただ愛する感情」という成熟と浄化へ。

 心の表層では、成長した魂の感情基調が一段階反映された安定化が起きます。イメージはなしに、望みの感情による前進力を増した心の状態へとです。

 

「否定価値の放棄」へと歩む

 

 ここからは、基本的には同じ仕組みによる心の治癒成長が、「望みに向かい現実に向かう」体験の繰り返しの中で、感情の基調の右肩上がりの上昇を感じさせる形で起きることになります。

 

 「望み」は、上述のような恋愛感情になるにせよ、別のケースでは主に仕事への感情になるにせよ、「愛と誉れ」を軸としたものになるはずです。それは「存在の善と誉れ」のその人自身の尺度の中にあり、「望み」のイメージはまず「特定相手の目」を前提とした皮相化と依存性を、心の未熟段階に応じて帯びた形で描かれます。

 そして現実へと向かい、現実と交わった時、「愛と誉れ」への魂の感情が解き放たれます。これは大きな歓喜狂おしいほどの情熱になる場合もあれば、軽い失意大きな絶望になることもあるでしょう。

 しかし心が「人の目への依存」にブロックされ怒り反応で元に戻ることにならない限り、魂の感情を自分自身で受けとめる中に一貫として生まれる「充実感」が、この人の心に一貫して成長と成熟への作用を働かせるようになります。

 

 一方、感情基調の上昇と、内面の強さと豊かさの増大が、この人に今までの人生で得られることのなかった「自分の人間性への自信」を芽生えさせ、それが「望み」に向かう強さを増大させるという好循環が始まります。

 だからといって安堵もできないのがこの段階であり、「成長への痛み」もつきものになります。そこで「自分は特別」という期待の崩壊や、根源的な恐怖の克服、そして荒廃化していた自己の情緒への自覚に悶える中で、この現実社会との調和のとれた「唯一無二の自己」の居場所と生き方をつかんでいくという流れになってきます。

 

 そして、「成長への痛み」を経た自己に立って、「否定価値の放棄」を、自らに問うのです。

 

第2の未知の節目:「否定価値の放棄」

 

 「否定価値の放棄」は、「自分自身との関係」という視点からも、この歩みのひとまずの達成目標にもなる節目です。

 自ら神になろうとすること、もしくは自分を神の座に置こうとすることを、心の底から放棄し、ありのままの自己と現実の不完全性を受け入れることは、空想の中で「あるべき姿」をめぐるマイナス感情に駆られ続けてきた今までの人生の、ひとまずの終焉を意味することになります。

 「愛がこうあるべき」という観念を心の底から放棄し、同時にそこに愛が湧き出ることを知った時、それは新たな人生の始まりを意味します。私たちの人生の実際の内容は「自尊心」の軸によって大きく方向づけられるのが大抵ですが、自尊心の根底には、自尊心が意味を持つための人や社会とのつながりがあり、愛によってその感じ取り方が根底から変化するからです。

 

 「感情の基調」は、ここで一気に不連続的な上昇を迎えます。

 それはまずごく単純に、「あるべき姿」からの見下し否定という、マイナス感情の基本的源泉が消滅したことによるものです。暖かい空気がすぐに湧き出るわけではありませんが、ともかく、冷気の強力な発生源が全て取り去れた、新しい心の光景が広がります。

 これは同時に、自分自身の「魂」との関係性が回復したことを示すことでもあるように思われます。心のエネルギーを基本的に「あるべき姿」へと自分と現実を練り上げる作業にではなく、自らの中にある心の自然治癒力と自然成長力の育生のために注ぐという転換によってです。

 ここで起きる感情基調の一気の上昇とは、実際のところ、今までの人生を通して否定され無視され続けてきた「魂」が、自分自身によって迎え入れられた安堵の表れでもあるように、私には感じられます。

 

「魂の成長責任」の回復

 

 思い返せば、「心を病むメカニズム」の始まりにおいて起きていたこととは、もの心ついて「自意識」が芽生え始めた心にとって、とうてい認めがたい、「こうであるべき」だったものとは似ても似つかない「濃い感情」が流れる自分の姿であったように思われます。

 それは愛情への願望を抱きながらも妨げられ、怒りと恐怖に駆られ、信頼を損ない、安定を失った、自分の中の自分です。そんなものを表に出しながら生きていくわけにはいきません。

 そうして、自分の中の「濃い感情」を封印し、まるでそれはなかったものであるかのように、その代わりに自分の中に練り上げる「あるべき感情」を外部に捜し求めるという人生が始まっていたのです。

 その根底で、自分自身に無視された魂は、漠然とした怒りをただ沈黙の中に閉ざす時間をすごしていた・・。

 

 ハイブリッド心理学の取り組み実践のここまでの歩みは、残された知性理性を最大限に活用し、まず心の表層から、「生み出す自尊心」の支えを得て、「心の自立」へと向かう歩みとして成されます。

 そしてその結果得た「強さ」によって、漠然とした怒りの中に封印された「魂」を、迎え入れるのです。

 それは、自分で自分を成長させるという、本来の「魂の成長責任」を、自分が再度引き受けるということでもあるでしょう。

 

 つまり、「否定価値の放棄」は、成長の終わりではなく、始まりです。

 そしてここからは、知性と理性ではなく、魂がその歩みを導くものになるのです。なぜなら、「幸福」は結局、知性と理性そのものの中にはなく、「感情」のあり方に依存するからです。そして「感情」に生命力を与えるのは、「魂の感情」だからです。

 ですから、ハイブリッド心理学の取り組み実践の「習得」はここでひとまずの達成を得たとして、これからは、その習得した心の姿勢をフル活用して人生を歩む、長い道が始まることになります。それはもちろん、一つとして同じもののない、人それぞれに唯一無二の人生になります。

 

 残された課題は、この道のりのゴールの姿と、それに向かうための、あと少しの心の知恵になります。

 それはもはや、この心理学の実践を超えた、それぞれの「人生における出会い」にも依存するものになるでしょう。

 しかしそれが至るゴールこそが、この道のりが誰においても、どこまで行けたか、「どうなれた」かの問題ではなく、「方向性を知りそれを歩む」ことに意味があるのだということを、何よりも強く示唆するものになるであろうと、私は考えています。

 

 そこに示される「人間の真実」を説明し、最後に追加となる、人生の答えへの鍵をお渡ししたいと思います。

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