心の成長と治癒と豊かさの道 第4巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(下)−病んだ心から健康な心への道−

7章 人生の答え−2  −「魂の望み」への歩み−

 

 

「病んだ心からの治癒」を越えて

 

 ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」は、ひとまずの習得目標とも言える「否定価値の放棄」を経て、さらに2つの大きな「未知」の出現の節目によって、そのゴールへと至るものになります。

 残り2つの節目も、自意識から解放された「魂の感情」の役割の増大によるものになります。

 つまり、「未知の増大」のメカニズムとは、「魂の成長」のメカニズムに、他なりません。

 

 これら「未知」の節目を振り返るならば、第1の未知の節目「魂感性土台の出現」であり、これは「心の自立」と「病んだ心の治癒」の前進をはっきりと示す最初の兆候として現れます。

 第2の未知の節目「否定価値の放棄」です。これはありのままの自己と現実の不完全性を受け入れることで、「自分自身との関係」の回復を成し遂げるものと言えます。

 ここで感情の基調が一気に上昇します。まず「否定する価値」というマイナス感情の最大源泉が消え去ることによって。そして、自分自身に受け入れられた「魂」の基調感情が向上することによってです。感情の基調とは、結局のところ「魂の基調感情」なのです。

 

 「否定価値の放棄」は、病んだ心からこの歩みを開始したケースにおいては、ごく普通の一般の人々と同じ心の健康度を回復したことを意味します。

 それがまだ2つの大きな未知の節目を残した段階であるとは、逆に言えば、ごく普通のそこそこ心が健康な人々においても、さらなる心の健康と成長、そして人生の幸福に向かうという課題、もしくはその余地があるということになります。

 ここからはもう、心の障害傾向のあるなしに関わらず、全ての人が同じ土俵に立った、未知への成長の歩みがあるということになります。

 あるいはそれは、自らの病んだ心に向き合ってここまで来た人の方が、最初からそこそこ健康な心に育った幸運な人たちよりも、先に進むのが容易になるというアドバンデージが出てくるのかも知れません。

 なぜなら、この先の歩みも、私たちの「人生の望み」にある穴埋めと腹いせの幻想を解いていく過程としてあるからです。

 それは、「人生のレール」という幻想を解いていく歩みだとも言えるかも知れません。

 

レールのない人生への前進・「自己の唯一無二性」

 

 「否定価値の放棄」は、それだけではまだ「生きる喜び」が安定して湧き出るようになる段階からは、まだ大分手前であると考えています。

 なぜなら、全ての不完全性の受容によって迎え入れた自分自身の「魂」は、この段階ではまだはなはだ未熟だからです。

 「否定価値の放棄」によって、全ての悩みが消えると期待するのは誤りです。私自身の体験から言えば、この段階でもう「自分の心に悩む」という感覚はほとんど消えます。そこにはただ不完全な自己と不完全な現実を前にした人生の格闘があるのです。

 

 それでも、ここまでと同じように、「望み」の感情のより純粋な要素を切り分け、その建設的側面へと自分をあと押ししていく歩みは、再び「成長への痛み」の体験も経ながら、「魂の成長」のメカニズムを作用させ、定常的な心が自意識の少ない魂の感情をより多く含むものへと安定化していき、感情の基調も右肩上がりに上昇を続けるようになるはずです。

 それが停滞に陥らない限り、やがて「ゼロ線の通過」を迎えることになります。日々の日常での感情の基調が、マイナスからプラスへと転じる瞬間です。

 

 「停滞」の原因は、病んだ心の始まりから同じです。「どうせ」といった観念の中で望みが停止することです。「望む資格」思考への格闘も結構残っていると考えるのが正解でしょう。

 事実「ゼロ線の通過」は、私自身の体験を振り返っても、あらゆる側面において「どうせ」といった自己限定的な思考が消えた時期と一致しているように感じます。仕事面についてもそうですし、人間関係についてもです。趣味や友人関係、そして異性との交際や結婚などの将来設計についても。

 

 それを私の体験においても最も強く促したのは、何よりも「自己の唯一無二性の感覚」でした。

 「否定価値の放棄」を過ぎた段階とは、いわばちょうどの「病み上がり」が私の実感です。もう自分は普通の人々と同じだという基本的な感覚の一方で、やはり来歴から引きずったものがあるということになるでしょう。全てがうまくとは行かない面が、やはり自分にはあるようだ・・と。

 一方で、「否定できる価値」が根底から捨て去られたことは、その価値のために星の数ほどあった「あるべき姿」が次第に音を立てて崩壊していくような日々を訪れさせたと記憶しています。日々の生活で出会うさまざまなことが、それでいいとすれば済んでしまうことに溢れ返っています。別に何の問題でもない。

 これは一面、自分が道徳観念の欠如した人間になろうとしているかという錯覚さえ、私に感じさせたものです。結果的にはその心配は無用です。『入門編』でも書いた話ですが、開放された人間の本性は、道徳よりもはるかに良識的であると、今は感じています。

 

 いずれにせよ、「あるべき姿」が音を立てて崩壊していく中で、私の中に次第にはっきりしてきた感覚は、「自分が唯一無二の人間」、さらに言えば「自分はこのような唯一無二の生きもの」なのだという、確信的とも言える「自己の唯一無二性の感覚」でした。

 一人でいるのを好む性格、宴会というものがどうしても好きになれない感覚・・。今まではそれを、「皆にうちとける自分」というイメージとの硬いガラス越しのきしみのように感じていたのが、今はもう、ただ自分の好きにするのがいい、必要があればどのようにでも人と接するし、スキーなどの趣味を人と楽しむこともできる。時に腰が重く感じてやめることもある。それがこの自分という生きものなのだ・・と。

 全てが、唯一無二の自己の「望み」と、生まれ持った来歴からの資質や能力とハンディの問題になりました。そして再び、自分の「望み」を阻むものへの取り組みを、これまでと全く同じように進めるのです。

 それは次第に、来歴から引きずった心の底の感情もさらに解きほぐし、現実世界を生きる歩みは心をより成長させ、感情の基調は目に見えて右上がりに上昇します。それはまさに、春の訪れを体で感じるように・・。

 

感情基調の「ゼロ線の通過」・「生きる喜び」の出現

 

 「ゼロ線の通過」とは、感情の基調がプラスに転じる境目です。これはメカニズムとしては、魂の基調感情のゼロ線の通過だと言えます。感情の基調とは、魂の基調感情だからです。

 つまり、魂が、基本的に喜びや楽しみなどのプラス感情をいつも感じるようになるということです。

 

 これは感情が「心の現実」への反応であるという法則にやはり支配されます。「望み」に、「現実」においてどのように向かうことができているかということです。これは1章で述べました。

 常にプラス感情を感じるようになる心の状態とは、「望み」が、追い続けても満たされないものではなくなったということです。「望み」が、穴埋め腹いせの幻想を帯びなくなったということです。

 「自意識」が描く「望み」は、どうしても穴埋め腹いせの幻想を帯びる性質があります。

 つまり、「自意識」が解除された「魂の感情」そのものによる「望み」が、心にしっかりと位置を占めるようになった段階です。

 

 「魂の望み」が心の首座を占めるようになる。これはどういうことか。

 これは実際のところ、かなり難解な話です。そもそも、「魂の望み」の感情とはどのようなものなのか。

 

 事実、「ゼロ線の通過」は、私自身の体験において極めて印象的な、不思議な体験となりました。

 それは、「自分にはもう悲しむ理由がない」という大きな感慨であり、大きな「まっさら」の感覚でした。2002年春のことです。

 「悲しみ」が、私がそれまで人生をその中で過ごした感情でした。それがもう心の底のところで、消えようとしている。何が起きているのかは全く分からないまま、私はその感慨に身を委ねました。

 この大きな感慨が心理メカニズムとしてはどういうことなのかを説明するのは、やや難儀を感じます。心に起きていることと、それを迎え入れる人間自身の意識の関係が織りなす色模様という話になります。これはもう心理学を越えて文学の世界になるかも知れません。

 それでも言えるのは、魂が悲しまなくなったということなのでしょう。もう魂が悲しみから立ち上がり、前を向いて歩き始めたのです。

 

 『悲しみの彼方への旅』で書いたように、それから間もなく、私自身の心の変化が私自身に極めて明瞭になってきました。自分の回りの空気がブルーから明るいピンク色に変化したかのようです。この時私の心には、事実「生きる喜び」が流れ始めてきていたのではないかと感じます。

 さらにはっきりした変化が起きていることが、子供に接することで分かりました。私の心に明らかに、「子供への愛」が湧き出してきていたのです。もちろんそれを感じようとも全く意識することなく。完全な「無」からとしてです。

 

 これらの節目変化とは、心の表層意識よりも深いところで、「ありのままに生きるという魂の望み」が開放され、私の心の首座を獲得したということではないかと考えています。

 これは人工的意識努力を越えた心の自然治癒力と自然成長力が生み出したものです。「子供への愛」の感情も、この「魂の成長」に伴なって、いかなる人工的意識努力とも関係ないものとして湧き出たもののように感じています。

 この点は得てして「子供への愛」の感情を自分の心に「捻出」しようとする思考に駆られがちな、女性の方に重要な示唆になるのではないかと感じます。やはり「こんな感情にならなければ」を捨てることが第一歩です。

 

「人生」を見出す

 

 それから3か月後、私はさらに決定的な人生の転機を迎えます。『悲しみの彼方への旅』のラスト場面で書いた、「人生の見出し体験」と呼んでいるものです。

 それは「自分の人生は一体何だったのか」という深い疑念への答えが、「容赦のない現実」をまざまざと目の前にして出された時でした。

 それは「ちっぽけな人生」だ! 僕は今ようやく「人生」というものが分かったような気がする。残された人生を最大限に生きたい。心の底からそう思う、と。

 この瞬間を境目にして、私の心からは「空虚感」「無気力感」が消え、生活の全てが「充実感」で満たされるようになりました。それが明らかに、私のそれまでの人生と、その後の人生を大きく2分割するほどの、大きな境目になったのです。

 

 この節目変化を、私のその時の意識表面の思考で捉えようとすると、完全にその本質を見失います。

 確かに、似たような思考の中で「生きる気力の回復」をするという話を良く聞きます。この広大な光景に比べて、何と自分のちっぽけなことよ、と。

 ただしそこで、「だから何でも頑張れる〃はず〃だ」といった思考を始めると、完全に本質を見失うことになります。

 実際に「生きる気力の回復」が起きるのは、「魂の感情」が湧き出た場合だと、ここまでの説明を読んだ方であればお分かりと思います。一方、「頑張れる〃はず〃だ」になると、自意識の中でイメージによる「感情の強制」という名の心の無酸素運動をする、心を病む方向です。

 同じような表面思考でも、全く逆の作用を心が示す。その根底にある本質への目が重要であるゆえんです。

 

第3の未知の節目:「魂の望み」への前進

 

 2002年の春から私の心に起きた一連の変化を、「魂の成長」そして「未知の増大」における第3の節目として考えることができます。

 人生の原点としてこの心理学が考える、「望みに向かい現実に向かう」ことにおいて、「望み」が「魂の感情」に支えられるようになった段階です。望みが最初から「自意識」をあまり帯びず、穴埋め腹いせの幻想もなく、それに向かうことが人生の喜びと充実を生む。

 この人生の原点の、正真の充足形がここに達成されるのです。

 それは同時に、感情の基調がプラスになる時です。

 そして、「生きる喜び」を感じるようになる時です。

 

 これが、「否定価値の放棄」をひとまずの習得目標とした道のりにおいて、ここまでの取り組み実践をそのまま継続することによって至る、ぜひ到達したい目標地点だと言えます。

 「心を解き放って生きる」というハイブリッド心理学の主題の実現だとも言えるでしょう。

 この先の人生には、さまざまな側面があります。仕事、恋愛と結婚、趣味や友人との交際。そこにはもちろん全てが自由になるものではく、さまざまな社会のレールに沿って満足どころを探っていかなければならない面もででくるでしょう。しかしその制約が生きることの喜びをそぐことには、もうならないように思われます。

 

 それでも、一度感じた「生きる喜び」を、再び見失わせるような「人の目」の洪水の中に、私たちの人生があることも事実です。

 ここからは、「魂の望み」に向かって生きるという方向性での、力強さを増すことがテーマになってきます。

 

「魂の望みへの前進」で見えてくる「命」

 

 「魂の望み」に向かう力強さを増すものとして、ここではっきりと視野に入ってくるのが、他ならぬ「命」です。

 私自身の体験を振り返っても、「望み」がまだ自意識にとどまっていたとき、自分の「命」はどうもその「重み」が分からない、いわば他人事のような感覚であったと感じます。

 それが、「魂の望み」に向かうようになると、はっきりと自分の「命の重み」というものを感じるようになるのです。これも思考法という人工的意識努力を超えた変化です。

 

 同時に、「死」という「人生の鍵」が、その神秘なる力をここで発し始めるように感じます。

 「死」に向き合った時、人生で本当に大切なものが見えてくる。その鍵を使う時が訪れます。

 

 「命」と「死」の重みの感覚が私の人生を大きく支える転機は、「ゼロ線の通過」から3年後の2005年に訪れました。会社を辞め、執筆活動に専念するようになったことです。

 「人生見出し体験」の中で、自分はもう何だってできる、海外勤務だっていいとは考えたものの、私は再び心理学への情熱を感じ、人間の生涯を貫く心理メカニズムの整理に熱中し始めました。それが今までの仕事への意欲を奪い去るのは、もう時間の問題でした。

 こうした転機そのものについては、魂の成長の先に誰にでもあることかどうかを考えるのは、難しい話のように思われます。私の場合も、ここまで宿命的と感じる分野を持たなければ、別にどの仕事でも大いに情熱を感じて進めることができたように感じます。

 それでも私には選択肢が他にはないことが、次第にはっきりしてきます。それが私の唯一無二の人生なのでしょう。

 

 一方、人がどこでどのように「社会のレール」を捨てる人生を選ぶかについても、可能性はいくらでもあるのだと感じています。

 さらなる「魂の成長」と、それを自分の中に感じた人間がどのように「決断」を成すのか。そうした人生の到達地点についての話になってきます。

 

命をかけて「自己の真実」と「魂」に向かった時「恐れ」が消え未知の「愛」が現れる

 

 執筆を自分の人生と定めた時の私自身の意識変化も、極めて印象の深いものでした。

 それを決意した日、私はむしろ経済的な見通しが立つまでは会社勤めを続けるしかないと、自分に言い聞かせるつもりで、心を整理しようとしたのです。経済的な見通しをつけてからという私の計画にとって、身をさいなむような仕事への気力低下は予定外のものでした。

 それで、この泣きたくなるような情けない気分は一体何なのだろうと、「感情分析」の実践に入ったのです。どうやら僕の心は、「現実」を良く分かっていないようだ。その点についてじっくりと自分の心と話し合おう、というような意識づもりで。

 しかし自分の心に流れる、滅入る気分の意味をじっくり分析する先に見えたのは、それとは全く逆の結論でした。それはもう迷いようもない重みのある感情だったのです。

 それは、「自分ではないことをしている!」という感情でした。これはもう「生きる」ことをやめることそのものを意味することであるのが、もう私にははっきりと分かっていました。

 

 私の心は再び活力を取り戻しました。仕事へのやる気も感じます。もう自分は本名の今までの人間ではなく、これから社会で「島野隆」というペンネームで生きていく人間なのだと、自分自身に宣言したのです。だから、会社の仕事は、もう仮の姿です。その前提で、「島野隆」でいることへの助けとして、収入のあるこの仕事をすればいい。

 それが、私が「島野アイデンティティ」と自ら呼んでいるものを獲得した、明確な境目になりました。

 そうは言っても、執筆に専念したい気持ちを押さえることは、もう無理がありました。ほどなくして、早期退職制度に応募して会社を辞めることになります。

 

 この瞬間を境目にして私自身に起きた心の変化も、印象深いものがあります。

 恐れるものがなくなってきたのです。もはや自分の勤めるこの大企業そのものも、自分と対等なものでしかない。

 同時に、この頃になって、私は他人へのおおらかな愛情の感覚を自分の中に感じるようになっていました。これは2003年あたりからサイトを通じて知り合った方々への援助活動を始めたことも大きな要因です。それが、この「島野アイデンティティの獲得」を境目に、さらにしっかりとした感覚になってきました。

 もう経済的な見通しなどは二の次に過ぎない。命をかけてこの執筆活動に向かう。その決意を心に刻むごとに、心に起きる変化は明瞭でした。もう恐れるものはないという感覚と共に、自分は人を愛せる、という感覚がはっきりと心から返ってくるのが感じられるのです。

 

 もちろんこれも思考法や「心の持ちよう」を越えた話です。私の意識にあったのは、あくまで自分の「命」を捧げられるようなライフワークへと向かうという、自分の人生についての意識です。

 一方その後に湧き出た「自分は人を愛せる」という感情とは、病んだ心の中で、喉から手が出るように欲しいものとして考えたものでもあります。

 それを自分の中に湧き出せようといくら努力したところで、それは生まれるものではありません。

 一方、全く話が変わり、自分の「命」に向かった時、「自分は人を愛せる」という感情が湧き出てくる・・。

 

 私はこの感覚変化について、「既知の愛を捨て、命をかけて自己の真実に向かった時、既知の愛を越える未知の愛が湧き出る」とサイトなどで表現しました。

 「既知の愛」とは何か。それは、自分に嘘をついて得ようとした愛です。「こうであれば」という「あるべき姿」を演じることで手に入れようとする愛です。

 

「愛されるため」の意識世界の崩壊

 

 これは一体何を言っているのでしょうか。

 私たちはまず、「なりたい自分」を描くことで望みます。それは確かに「あるべき姿」を映し出した世界でもあります。私たちはそこに向かうしかありません。それをやめるのは望みの停止になるからです。

 しかしそれは必ず「自分への嘘」を含みます。その「なりたい自分」「あるべき姿」とはあくまで自意識が描いた「姿」であって、私たち自身ではないからです。ですから、私たちは「なりたい自分」に近づくよう一生懸命努力するのですが、それは同時に自分に嘘をついた自分にもなるということです。

 

 そこにターニングポイントがあります。「なりたい自分」そして「あるべき姿」を描いたのは、それを通して「愛」を得たかったからです。人に愛されたかったからです。そしてそこに向かいます。そうするしかありません。

 ターニングポイントが訪れます。自分に嘘をついて、愛することはできないということです。

 人に愛されるために自分に嘘をつくのですが、自分に嘘をついているのはとても嫌なことなので、愛されるためにそうしたはずの相手さえ、もう愛せなくなってしまうのです。

 ここで全ての前提が崩れます。愛されることを求めることと、そのために必要であったあるべき姿という全てを、捨てるという選択肢が現れてくるのです。

 自分で愛せない相手から、愛されることを求めるのはあまり意味のある話ではありません。もう愛される必要もなければ、あるべき姿もいらなくなるのです。心が自由になります。しかしこれは、今までの「愛されるために」という意識世界全体の崩壊を意味します。

そこに、命をかけて、自己の真実を問うのです。これが人生のどんな選択の内側で起きていることかはさまざまな姿として、事実それは人生をかけるような決断になります。

 答えはもう決まっています。命をかけて自己の真実をとるのです。それは自分の魂に向かうということです。

 すると魂から、未知の愛が湧き出てきます。

 新しい世界が始まります。「自ら愛する」という世界へ。

 

人間の心の自立と成長の真実・「不完全性の中の成長」

 

 これは一体何をお話ししているかと言うと、今お話ししている段階に至り、ここまでの道のりとして話した、望みに向かい現実に向かうという「心の成長」と、愛される必要があるという依存性への別れ、つまり「心の自立」、そして「自己操縦心性の崩壊」という意識の破綻と、「魂の成長」のメカニズムによる「未知の増大」の全てが、一点において同時に起きるのが見えてくる、ということをお話ししています。

 これが、人間の「心の自立と成長」の真実のメカニズムだということが言えそうです。

 

 「否定価値の放棄」について説明した5章の最後に、「望みは人の目に始まり魂へ向かう」という言葉を載せました。これが、最後まで完璧な完全形にはなり得ない人間の心の、「不完全性の中にある成長」だということになります。

 そこでは、心の成長と自立に向かう歩みと、魂の成長に抜け出る間に、常に意識破綻の闇が現れることになります。

 

 マリー・ヒリーの物語も、それを劇的に示した事例でした。彼女が最後にその清らかな愛と心を取り戻したのは、別人を演じることでジョンの愛情を得ようとする今までの努力を捨てたあとでした。

 そこから湧き出た愛こそが、真の愛でした。それはあまりの清らかさへと回復したがゆえに、逆に彼女は自ら死を選ぶような道に向かったのです。神の下に戻るために・・。

 自分に嘘をつくことをやめてただ愛する感情を見出し、それに命をかけて向かう時、人は「既知の愛」を一度失うという闇を通り、その後に、何もない大地から芽を出す草花のように、大きな「未知の愛」が生まれているのを見出すのです。

 

 なぜこのような形になってしまうのか。なぜそこに意識破綻の闇が介在するのか。

 「根源的自己否定感情」があるからです。この最後の闇が克服されない限り、人間の心の成長の真実は、そのようなものの中にあります。

 

「人生」の幻想

 

 命をかけて自己の真実に向かった時、そこに未知の愛が現れる。

 それを身を持って知った後、私の心をまずしみじみと打ったのは、その逆形とも言える奇妙な人間の心のメカニズムでした。

 自分に嘘をついて得る愛を追い求め続けた時、そこに「人生の幻想」が現れる、とでも言える現象です。

 

 思い返せば、執筆への専念の決意のほんの3年前まで、組織の中で認められることの中に人生があるかのように感じていた、別人の自分がいます。2001年の年末考課で、期待通りの評価をしてこない上司への嘆きをつづった日記。執筆に専念するようになり、始めた日記の読み直しがそこに来た時、その時の屈折した感情が私の中に蘇ります。

 確かに私のその時の仕事はかなり先端的なもので、改めて考えてももっと評価されてしかるべきものだ、と感じました。しかし私が同時に感じるのは、あれほど入れ込んでいたその仕事の内容そのものへの、あまりにもあっけないほどの、今となっての無関心でした。

 私はその日記にこんなメモを記入しました。

 

 自分がその中で重要な役割を果たすことに誇りを感じることができた組織があり、事実自分にはそれだけの能力はあったかも知れない。

 だが、それだけ。「能力を示せる仕事」があった一方で、その仕事をする意味を与える「命」は失われていたような気がする。

 そう思い返し、少し悲しみが流れた。

 

 なぜ悲しみが流れるのか。私が追い求めたのは「愛」だったからです。仕事の内容そのものは、結局かなり副次的なものであったように思えます。その時は逆に感じていたのですが。

 自分が重要だと見られることに誇りを感じられる集団。そしてそれを可能にするはずの「能力」

 でも結局心の底で追い求めたのは「愛」だった。それを与えてくれる組織だという感覚があったから、私はその組織に結局最後まで愛着感を感じながら、完全には受け入れらなかったという感情にいた自分を、感慨深く思い出します。

 さらに振り返れば、システム開発の仕事を天職だと感じ、仕事への馬力を注いだ頂点とも言える時期に、私はその意欲が突然消え去り、全てが空白のエアポケットに入り込んだような瞬間を体験していたこともありました。20代も終わる頃です。今の私への伏線は、その時、もうすでにあったのかも知れません。サイトの掲示板にもその時のことを書きました。

 

 最初に就職した会社での、徹夜をして一晩でプログラム1本を書き上げた日。馬の目を抜くような厳しいスケジュールの大プロジェクトを、中心設計者となり引っ張り、その成果では社長賞を受賞するも、同時に人間関係への失意の中で大手コンピュータ企業へ。

 格段にデカいプロジェクトで仕事をするようになり、分刻みのスケジュールの中で、時に打ち合わせ場所の移動のために短距離走のように走る自分に、バリバリの有能な人材という自己像に酔った時も。

 しかしそんな中のある日、突然目の前の仕事の全てに全く意味感を感じられずに、頭が真っ白になっている自分を、見出すわけです。いったい僕はなんでこんなことをしているのだろう。僕の人生はいったい何でここに来たのだろう。

 そしていたたまれない気分になり、職場を抜け出して、おだやかな日差しの中、公園に接する街路をゆっくりと歩きます。仕事のことなど微塵も考えることができない僕の脳裏に映り流れていたのは、やはり小学校時代の漠然とした映像であったりしました。

 こんなことしてない自分という人生も、本当はあったのかも知れない・・と。そうして30分ほど時間をつぶし、仕方なく職場に戻り、ただ淡々と仕事を続けた。

 思い出すと何となく目がうるうるしてきます。『悲しみの彼方への旅』で書いた、青白い夕方の空気の中を歩き続けた自分と重なるような・・。

 

「人工的自己アイデンティティ熱症(自分病)」

 

 これと全く似た心理を描写した、独特な文学があります。

 一つは太宰治の『トカトントン』で、輝くように何かに打ち込む人の姿に魅了され、「これだ!」とのめり込むも、やがてどこからともなく聞こえてくる大工の「トカトントン」という音を聞いた瞬間、すべてがバカらしく無意味なことのように白けてしまう日々を、つらつらと綴る男の手紙。

 やがてこの熱狂と白けの間隔はしだいに狭まり、「火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン」・・。

 最後の、この手紙を受け取った「むざんにも無学無思想の男であった某作家の返事」が秀逸です。「十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね」と。これはどうも4章で解説した「アク毒」のことではないかと私は感じます。ネット文庫でも読めますので、興味ある方は一読頂ければと思います。

 

 もう一つは、高野悦子の『二十歳の原点』です。自殺する少し前に書かれた彼女の日記は、「これが自分」という「自己アイデンティティ感覚」を完成させようとする衝動にとりつかれながら、逆に自己の空虚に身をさいなまれていく、心の闇の罠の存在を鮮烈に表現しています。

 自己創造を完成させるまで私は死にません。

 ・・・・

 本を読む気なし。何でも入ってくるものはすらっと受け入れる純粋無垢の状態。封鎖でも何でもやってやる。しょせん死ぬ身。自殺?敗北か。

 大体、何でこんなこと書いているんだろう。サアネ、ワタシニモワカリマセンデスワ、オホホホ

 ・・・・

 自殺は卑きょう者のすることだ。

 そして最後の日記は622日。

 今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何と言うことはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。

 その2日後、1969624日未明、彼女は鉄道自殺します。

 

 私はこのように「これが自分だ!」という感覚にとりつかれ、その一方でその内実が空虚になる人間心理を、「人工的自己アイデンティティ熱症」と名をつけました。「自分病」と呼んで指摘している識者の方もおられるようです。この方が分かりやすいかも知れませんね。

 

 この「自分病」が、現代社会に蔓延していると言えるのかも知れません。いかに「勝ち組」になれるかと駆られ、いかに人よりも先に行けるかが勝利だと感じる、人生のレールの幻想を抱いて生きている沢山の人々。それが「現実」なのだと思い込みながら・・。

 人は幼少期における「宇宙の愛」に守られることに挫折したことへの穴埋めを、やがて人生のレールに守られることに求めるのかも知れません。

 しかし「宇宙の愛」は本来、自らを内面において支える強さへとやがて成長するための足場として、あったのではないかと思われます。その肩代わりを外面現実の何かに求め始めた時、人は逆に、「不完全な現実」によって脅かされるようになります。これはもう必然的です。

 全てが、心の底に眠ったままの「愛への望み」を置き去りにしたまま・・。

 

「匿名性において生み出す」・「揺らぎない自尊心」への第一歩

 

 こうした「症状」にある人に対して、「あなたが本当に求めているのは愛なのですよ」と言うだけでは、あまり解決への出口は見えてこないように思われます。

 ハイブリッド心理学が示す道は、自分の心を、そして人間の心を、ゼロから知って学び直すと共に、「心の自立」と「人間の存在の平等」に立脚した価値観と思考法行動法を学び、生き方の全てをゼロから再構築するものです。

 

 より純粋な望みへと向かい、「生み出す価値」への目を育てることです。価値を生み出すのが「自分」だということにこだわらずに、生み出す価値そのものを、ただ高めることに意識を注ぎます。

 これを「匿名性において生み出す」と呼んでいます。

 「匿名」であるとは、誰ともつかないということです。「未熟」から始まるこの道のりの常として、私たちはどうしても「自己顕示欲」の中で、「自分」がどう見られるか、一方で「誰が」どう人に見られているかという、結果イメージばかりに意識が向かいがちです。それがひいては、「こう見られなければ」「こんな風に見られてしまっては」と自分にストレスを加えるという結果を生み出すわけです。

 その視線を、価値を生み出すのが「自分」であろうと「誰」であろうと構わずに、生み出される「価値」そのものに目を向けることです。これが「人物を問わない」魂の感情に実によく馴染みます。

 これがひいては、足手まといの「自己顕示欲」によって動揺する自分を抱えながらも、それに惑わされずに安心して人と接することのできる、しっかりとした方向性を私たちに与えてくれるのです。

 

 ここで「自尊心」は、「自分」についての自信というよりも、自分が生み出す「価値」そのものへの自信へという、質的な変化を始めます。

 実はこれが、「揺らぎない自尊心」への第一歩になるのです。

 「生み出す自尊心」が一貫してこの道の歩みを支えるとして、「自尊心」が「自分」について意識したものである時、それは揺らぎないものとすることはできません。私たちが不完全な存在である限り、「自分」というのはどうしても状態に揺れが、さらに言えばいつかは必ず衰えが、あるからだということになるでしょう。

 「自尊心」が「揺らぎない」ものになり始めるのは、自尊心が「自分」への意識ではなくなってきた時です。これは何とも不思議な話です。

 

 そのような「揺らぎない自尊心」をさらに支えにして、「自己操縦心性の崩壊」を始めとした「成長への痛み」を通り、望みを捨てさせたものへも向き合い、心の自立と成長に向かい、魂の感情に抜け出すまでに「意識の破綻」の闇があることを知っていきます。

 それを、命をかけて自己の真実に向かうことで、越えていくのです。

 なぜ命をかけてまで自己の真実を問う必要があるのか。そこに「根源的自己否定感情」があります。

 

 「魂の望み」に向かって「人生」を生きた時、私たちはそこに自己の人間性の根底からの揺らぎない成長の道を知ります。もう迷うことは何もありません。

 私たちの心に残された、全ての問題の始まりの根核を乗り越えさせるのも、この前進への揺らぎない意志に他なりません。その時私たちは同時に、人間の真実人生の答えを手にするのです。

 

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