終章 人生の答え−3 −人間の真実・「神の国」から「放たれた野」へ−
「根源的自己否定感情」への向き合いへ
人生にレールが用意されているかのようなこの現代社会の中で、「魂の望み」に向かって生き、社会との折り合いをつけながら唯一無二の自分の人生を模索する歩みは、人それぞれの紆余曲折を必要とするものになるかも知れません。
それでも、その歩みの中で、心の問題の全ての根源にある根核に向き合い、それを乗り越えて見出す人間の真実と、その真実に従って生きる人生とは、実はとてもシンプルなものであるように、私には感じられています。
私自身の心の成長の歩みにおいて、退職後の次の節目は、『悲しみの彼方への旅』の出版へと向かった2006年から、翌年にかけてありました。
それは執筆への専念を決めた時にも増して、深い印象を残す出来事となりました。
事実その本の出版が、私の人生における大きな節目でもあったように感じます。私はその本の出版によって、自分の全てをありのままにこの世界に晒し、もう何も隠すもののない人間になることを選んだのです。それが、この現実世界との一体化の中に調和した自分を生み出すものであるかのように。
それを機として、私の中で最後まで残された「根源的自己否定感情」に向き合い、それを乗り越えて行く節目が生まれたように感じています。
それを最後まで導いたのが、初恋女性の存在でした。物語の続きが多少あったことになります。
事実、私にとっての初恋は、何も問題はないかのような外面と、自分だけが悪くて駄目な子なんだという内面に分断されていた、私の少年期の魂を救ったものであったように感じます。それは、何も見えない闇の中に遠く輝き続ける恒星のように、最後まで私を導くものになりました。
初恋の人に近づこうとする時に流れる、心が打ち震える不安、とでもいう単純な話でもあります。「魂」にとっては、ライフワークが何になるかということよりも、こっち方が実は直接的な情動テーマなのかも知れません。
詳しくは続編のような小説の形で、いずれお伝えする時が来るでしょう。私自身にとっても印象的な日記を少し紹介します。
その後私は初恋女性とは、ごく時折に食事やお酒を共にする間柄を続けました。そこではもうごく親しい幼馴染の一人として、穏やかな親交の感情にある自分を感じます。それがこの「現実世界」における初恋女性との関係であることを、知性も理性も、そしてそれが根を張る感情も理解しています。
しかし実際に初恋女性に会う機会が近づくごとに、それとは全く別の、魂が打ち震える感情が心に流れるのを感じるのです。
出版する本のことも話そうかと、2006年の春にまた初恋女性と会う機会を持った時、そうした「魂の恐れ」の感情の下に隠された根源的な心の世界が、私の中で鮮明になります。
そこにあるのは、大きな「魂の愛への望み」の感情でした。一方で、それが「依存」の心を残した中にある時、「寄生」とも呼ぶべき受け入れ難い自己像を伴なうという事実があるのです。それが「自意識の不完全」であるように思われます。
魂は、それを恐れているのです。全てが、だまし絵のパラドックスの中にあるかのようです。高貴なる望みが自己を陥れ、その痛みが再び愛への望みに戻る・・。
この時の私には、何か特有の顔立ちの女性にあまりにも強く心を惹きこまれる感情という、来歴の中で抱いた感情のなごりも少し残っていました。その感情の自己分析も書かれています。
もはや私の心を足元からさらうような強さはないまま、私はそれらの感情の「動揺」が、「命の重み」に直接結びついていることを感じました。「愛」が、命そのものであるかのように・・。
全てが、「現実」とは交わりようもないままにです。
2006.3.1(水)
今日昼過ぎに短いメールを出しておいた。桜が咲く頃会わないか、ということで。
今午後6時だがまだ返信はない。すぐ返信が来るのを期待していた部分も心の一部にはあったろうし、その分、そうでなかったことで僕の中に少し何かの反応が起きたようだった。
彼女からの返信が来ない・・・・。 それで心を埋めていたものの一部をぽっかりと失うような感覚、とでも言うものなのか。それは自分にとっての「命」が失われる感覚とも言えるのだろう。「愛は命そのものなのだ」 そんなことを考えたりした。
午後5時、買い物のためショッピングセンターに寄っていた時僕の中に現れていたのは、少し足がすくむような感覚と、「自分が生きる世界」の中で彼女が占めていた部分がぽっかり消えたのを埋めようとするかのように、洋菓子屋の店員の美少女を見ようとする衝動だった。そして、ほんの一瞬それを見たものの、自分の現実生活として、それ以上のことは求めずに家路に向かった時に流れた、悲しみだった。
それらの感覚は、「現実」とは別に流れている。僕はあくまで、自分が現実の上にしっかりと立つことができ、それを十分に維持させ得る程度の弱さでしかない感情たちだが、それでも僕はこの感情の中で十分に疲労消耗感を感じている。
なぜこんなことが起きるのかというと、愛は存在の根本であり、感情の膿も同様に、存在の根本に関わるものなのだ。まずそんな言葉が浮かぶ。感情の膿は、今まで考えていた以上に、愛に近いものであるように思えてくる。
そうして自分の中に起きる感情を静かな目で見据えた時、改めて感じるのは、自分の抱いた感情が、“持てる者”の世界に自分が入っていけるという感覚だったということだ。Kakoちゃんの場合がまさにそうだし、洋菓子屋の女の子の場合も、その美しさの輝きが、これから自分の持つ世界に含まれると感じた時、“持てる者”の世界に自分が入るというのと似た意味を持っていたのだろうと思う。
それとの対照にあるのが、僕が桜の咲く頃また会おうと書いたのに対して、敬遠を感じている彼女のイメージだった。“持つ者”としての彼女をイメージした時にそれをまた思い出した時、僕は一方的に相手の持つ世界を与えられようとする、寄生者とも言うべき構図の中にあった。
そして現実において、彼女が誰を相手として選ぶかは、その人間がいかに多くの価値を持っているかによるであろうとも考える。その時僕の中に、自分が価値を得ていこうという、野心とも言える願望が湧くのを感じる。そしてそれは静かに消えていく。
そのあと僕の中に一瞬現れたのは、何かあまりにも大きな輝きを見るような思いの対象としての、彼女のイメージだった。それは僕が人生をかけて求めた夢・・ もしくは闇の中で取り戻した命・・ そんな、感動にも似たイメージだった。
そしてそれは、現実から離れた精神においてこそ、抱き得たイメージでもあったのを感じた。
翌日、「返事がないというイメージを引き金にした感情」がさらに湧き出ます。
そこに繰り広げられたのは、これらの感情が全て同時に消滅していく収束点までの過程とも言えるものでした。
「根源的自己否定感情」とは、自分が最も望み求める愛そのものから拒絶されることへの恐れであるように思われます。それが「魂の抱く恐怖」なのです。これは根源的自己否定感情が「生から受けた拒絶」として生まれたことにおいて、必然と思われます。
それは、「依存」から「自立」へと向かおうとするこの不完全な人間が、「愛」を求めようとすると、「寄生者」としての自己への自らによる糾弾に出会うことへの恐れでもあるように思われます。
そうであるならば、「魂の恐れ」とは、「自意識」への恐れだということです。「自意識の罪」への恐れです。ここに、人間の意識の発生の根源における業のようなものが示されるように感じます。
これはいわば、最も大きく愛を求める「神」から、自己の情緒的荒廃によって拒絶されるという構図です。しかし全てはこの人間の内部で描かれたものです。本当に「神」がこの者を拒絶しようとしたのかどうかの答えは、「未知」の中にあります。
選択肢が現れることになります。「愛されるため」として描かれた意識世界に別れを告げるか、それとも「神」に愛されるためにという位置づけで、「あるべき姿」から自分を責めるかです。これは再び無意識の中で自らを神の座に置こうとする傲慢と、望みの停止による情緒的荒廃に戻る、メビウスの輪を意味します。
私の中で、選択はもちろんすでに決まっています。「心の成長と自立」に向かい、「愛されるため」の意識世界の崩壊を経て「魂の成長」に抜け出る過程へと、「自己の不完全性の受容」の中で向かうのです。
「魂の愛への望み」は鮮明さを増し、もはや自分の感情とさえ思えない、愛を願い、同時に罰を与えられ、愛のために身を投げ打って死を選ぼうとする少女のイメージさえ浮かばせるものになります。
「アク毒」が放出され、全てが消え去り、さらに一歩「心の自立」へと前進した新しい世界がリロードされます。
2006.3.2(木)
八方の宿に到着してからのメモ。
家から出発しようとする頃、僕の中に見えていたのは、僕を牽制するように見下す目を向けているKakoちゃんのイメージだった。実際、彼女が僕の精神世界における至高の価値の象徴であった時、〃会うことを誘った僕に対して応じなかった彼女〃の姿は、僕は天国への資格はないと審判を下されたという構図なのかも知れない、と少し後で考えたりした。
あとは、「何かが恐い」という感覚だった。やはり続いていた漠然とした軽い興奮感は、実は恐怖だとも思えた。部外者として神の国に入るという、違和感の強い怖れの構図のようなものを思い浮かべた。
そして3つ目に浮かべたイメージは、Kakoちゃんとは別の女性が僕に愛の笑顔を向けるイメージだった。Kakoの世界が僕のものにならない時、代わりに求めるものという意味があったのだろう。
スキー部後輩のS君を拾って八方に向かい出してから、僕は少しふさぎ入るような哀愁感を感じていた。こうしてKakoちゃんのイメージの波に揺れる自分がおかしいのだ、と嘆くような感情も流れていた。
あとはただ、あまりに強い思いの相手が得られないという悲しみの感覚。思いを抱いたまま命を断つ人のイメージが浮かんだ。「生きる喜び」と書いた自分がか・・.と考えたりする。まるでティーンの女の子のような感情だと浮かぶ。小さな子供のように彼女にこがれ、その思いが得られない純朴な悲しみに、あとは浸るのみだった。
2006.3.6(月)
前の日記からの続き。
宿での寝床につきながら僕が感じていたのは、僕がKakoちゃんに対して行った働きかけについての、濃い嫌悪感の感じられる構図だった。その中で、僕は彼女の、Rを始めとした交友関係に入ろうとしている。もはやKakoちゃん本人との交友関係が消えたような形でだ。そんな僕を、そうした人々が何か「図々しい異物」を見るような白い目を向ける、というイメージが流れていた。それはやはりごく薄い感情として流れたものではあったが、それが苦しみを伴う感情であるのを自覚するのに充分だった。
金曜八方で滑る頃、ただ広大な雪と空が広がる斜面の中で、そうした全ての感情は消えていた。僕には特に、彼女の友人に会う興味はない。彼女にとっても友人を僕に合わせる興味もない。そんなイメージが僕の中に浮かんでいた。・・(略)・・
ここで起きているのは、「病んだ心から健康な心への道」として今まで説明したことの全てが、同時に凝縮されて起きる過程です。
望みに向かい、現実に交わることで、濃い魂の感情が解き放たれます。そこに自己の情緒的荒廃と自意識の罪が暴露され、それを責めようとする否定価値さえもを放棄して、新しい世界へ。
もう一つ、新たに鮮明になってきていることがあります。
「魂」が、もはや「自分」とは別の独自の生命体であるかのような感覚で感じられてくるということです。
「魂の感情」はこれまで、開放感と共に湧き出る感動であったり、望みに向かって現実に交わり出てくる、自己の本能のほとばしりのような感情であったり、心の底に置き去りにされた感情が蘇ってきたものであったりしました。それは「自分」がこの「現実世界」について感じるべきものを指し示すものとして体験されたように思います。
それがこの段階に来て、「現実世界」についての感情がかなりの安定性を獲得するようになって感じる「魂の感情」とは、もはや自分が「現実世界」について感じるべき何かというよりも、「魂」が独自の世界を持ち、その中で生きているという感覚を私に感じさせるのです。
「魂」は、「自分」ではない。それは、「自分」とは別の生命体なのだ。
そんな感覚が私の中に生まれ始めていました。
「魂が抱く恐れ」つまり「根源的自己否定感情」が真正面から見据えられ、それが消える時は、1年後に訪れました。また食事でもしようかというやり取りを、初恋女性と交わしていた時です。
もはや私には、1年前のような心の揺れ動きさえありませんでした。それでもまだほんの僅かに、自分の中の何かが何かを恐がっている感覚が流れるのを感じたのです。
そこにはもう、実際に動いているものとしての「自意識の罪」はありません。それでも「魂」は、愛に向かうと自意識の罪に出会うのではないかと恐れている、とでも言える風情です。それはまさに、何かの小さな生命体が一人で何かを恐がっているかのようで、私はそれを優しくなだめることが自分の役割であるかのように、自己の内面に向き合ったのです。
他にはもう何もなく、そこにはただ恐がっている魂がある。
その恐れを克服できるものとは、何なのか・・。
答えが出され、私の中で怯えていた魂の恐怖が消えたのを感じます。
私の目に沢山の涙が溢れました。
2007.5.13(日)
・・(略)・・僕はそれについて、自分の中に起きる感情を全て見尽くしたいという考えでいて、こんな場面でかつて自分にあった、「平穏の幻想」が壊される、もしくは何かが崩壊する幻想の中に投げ込まれるような出来事もあったのを思い出した。「あの下級生」の女性とまた連絡を取った時の事もそうだった。1年前になるか・・.と。
そんな中で、僕は間もなく最終考察を書く内容のことを考えていた。「恐れの克服」ということになる。
我々にとって「恐怖」とは、結局何なのか。それは「自己像」をめぐるもののようだった。そしてその根底には、魂が抱く、愛が失われることへの恐れがあるように思えた。
「心」が抱く怖れは、科学によって克服する。だが「魂の怖れ」は、科学では克服できない。
それは何によって克服できるのか、と考えた。すぐには答えは見つからなかった。事実僕はその答えが分からないまま、魂が抱く恐怖の中に晒され、ただ耐えるだけの体験を持っていた。
それは救いのないことのように思えた。だが、何かが救えるはずであることも感じた。だから今僕がいる、と。
「神」に救いを求める、というのも浮かんだ。だがそれは僕が使う観念ではない。
あとは・・・・ 「命」・・ か、と思えた。「命」が守られれば、「愛」が守られる。「現実」がどのような形になろうとしてもだ。
そこにおいて「怯える必要はない」と魂をなだめる役割が、「心」にはあるように思えた。では「命」が消えた時どうなるのか。
「命」を看取った時、魂に魂が宿る。そこにおいて「愛」は永遠となる。
そう分かった時、僕は泣いた。そこには、まだ僕の中で怯えていた魂の安堵があったのかも知れない・・。
もはや「現実」からは切り離された、私の内面だけに起きたこの小さな出来事が、私にとって大きな節目になったようでした。
心の底から、全ての「恐れ」が消え去ったのを感じたのです。
後日、私の心にさらに増大した「未知」が訪れたのを知ります。
それは、この世界の全ての「命」を愛することができる、この世界の全てを喜ぶことができる、という感情でした。「愛」は「無条件」になったのです。
再び、それを告げる印象的な時間が私に訪れます。
2007.7.1 (日)
日記を書く頻度が減っている。とにかく心理学本原稿に向う日々が、もはやほとんど迷いのない感情の中で向う形で続いているという感じだ。
書くほどのことでもないが、昨日の新聞に健康キャンペーンとかで,初恋女性の親友のRがパーソナリティの一人として出ていて、何となくイメージにあったよりもまだ変わらぬ若々しさなどに惹かれ、HPを覗いたりした。
そして流れる歌声にしばし聞き入る。そのクセのない美しい歌声の先にある、最も華やいでいながら落ち着きのある、輝く女性達の世界という象徴の感覚と共に、そこに流れる“愛せたことに誇りを感じる”と言った歌詞の中に、自分の心の最も中心にある琴線が共鳴する感覚に、少しときめく感覚の中で感慨を感じる。
今までで最も純粋に、その輝きを素直な心で見上げ、喜ぶことのできる心が自分の中にあるのを感じる。CDのジャケットに映されたRの笑顔が、溢れる愛と喜びの表現として、それを受け取れる感情が自分の中にあるのを感じる。同時にそれが、Kakoちゃんのいた世界なのだ、という感慨と共に。
私の日常の感覚が、さらに新しいものになりました。自分が誰でも愛せるという感覚を、とても安定したものとして感じます。近所の人も、街ですれ違う人も、TVに出ている人も。
同時に、もう何も恐れる必要がないことを感じます。
それを支える感覚とは、とても神秘論的な話になってきます。自分は、連綿としてつながりのある「命」というとても大きなものの、ほんの一部の仮の姿でしかないのです。自分がどうなったとしても、その大きなものはいつまでも生き続けます。そうであるのならば、もう何も恐れる必要はありません。
もちろん私の体験は、そうした心の感覚のごく片鱗を感じるようになったというだけのことであって、「現実世界」を生きる私の直接の「心」の方は、まだまだ未熟なものだと感じます。
それでもその感覚の中に、人間の心の成長の完成とも言えるゴールの姿が映し出されているように、私には感じられるのです。
ハイブリッド心理学では、私がそのように片鱗を体験した感覚の先に、人間の心の成長の完成形そしてゴールと言えるものがあると考えています。
それが「未知」の第4の、そして最後の節目段階と考えられます。
これを、「命の感性の獲得」と呼んでいます。
「命の感性」とは、「魂の感性」つまり「魂の感情」を感じ取れる感性とは、またさらに異なるものです。事実「魂の感情」による「未知」であれば、第3の節目の「魂の望みへの前進」によって最高段階に至ったはずです。
それではまだ「魂が抱く恐れ」が残り続けていたことになります。
これは一体どういうことか。結論は、私自身が予想だにしなかったものとなりました。
「魂」と「心の表層」の二層構造という考えは、2006年の段階ですでにはっきりと見えていました。しかしここで至った結論は、それを根底からさらに変えるものになりました。
それは、「命」というものが、「魂」とはまたさらに別の実体としてあるというものです。「命」と「魂」と「心」がそれぞれ独立した実体として存在するという、三元論構造になります。
こうなる理屈とは、「恐怖の克服」の原理にあります。「安全を知り恐怖を生きる」が、恐怖の克服の第1原理とも言えるものでした。
それでも克服されない恐怖は、それを凌駕する「望み」によって消え去ります。これが恐怖の克服の第2原理だと言えます。
「心が抱く恐怖」の根本的克服は、「心の望み」ではできません。金銭への不安を、金銭欲で消し去ることはできません。
「魂の望み」が、「心が抱く恐怖」を凌駕します。命をかけて進む道を持った人は、金銭に煩わなくなります。そのような「価値の生み出しへの望み」も「魂の望み」によって支えられます。
「魂が抱く恐怖」は、「魂の望み」よりもさらに上位の「望み」のみによって克服できます。
それは「命」が持っている「望み」だということになります。「命の望み」が「魂の恐れ」を凌駕するのです。
そして、「命」が望むものとは、「愛」です。それを感じ取る「感性」が獲得された時、人の心からあらゆる「恐れ」が消え去るということになります。
私の最後の体験の中で感じ取ったものとは、「魂の望み」をさらに超えた、「命の望み」だということになります。
これが「命の感性」の定義になります。つまり、「命の望み」を感じ取る感性です。それは同時に、「命」そのものを実体として感じ取る感性です。
そうであれば、「望み」の最大の主体者は、明らかに「魂」ではなく「命」です。
「魂」とは、それとはまた別の存在です。それはいわば「命」を「心」に伝えるための「伝令体」とでもいうような、神秘的な概念で捉えられるものになります。「魂」は、「命」を「意識」に伝えるために存在しています。それは、人物を特定しない変幻自在の実存として存在しています。だから「千の風」にもなれるのです。
生物学的に言うならば、「命」の望みとは間違いなく「命を継ぐこと」です。これが科学的表現です。それが私たちの意識においては、「愛」になるということです。
人間以外の動物においては、「命」と「意識」が同じものであるように思われます。だから、全ての動物が、「生きる」ことに疑問を抱くこともなく、生きることを喜んで生きています。そして「生きる」ことについて、何の恐れも抱いていません。
人間だけが、「命」と「意識」が分離してしまったのです。「命」が見失われたまま、「自意識」だけが一人歩きする世界へ・・。人間だけが、生きることを喜ばずに生きる存在になったわけです。それで「生きる」ことを恐れて、自分から死んでしまったりします。
もう一つここから、私たちは人が自殺をしたりする「うつ」の心理について、最終的な解釈を加えることができます。愛が本来「命」があることにおいて無条件である時、「条件」を通して「愛」を得ようとし、「条件」が満たないものは愛に値しないとすることは、必然的に「命の否定」をすることになるということです。
こうして至る結論とは、「真の望み」は「自分」が抱くのではない、ということです。
「真の望み」は、「命」が抱くものです。まだ「自分」に接点を持つ「魂」でさえない、「命」という実体がです。
これが、「望みに向かい現実に向かう」ことを心の成長への原点と考えるハイブリッド心理学の歩みが至る、最後の、そして最大の大どんでん返しになります。
絶望を経て真の望みに近づいていきます。しかし真の望みに到達した時、それはもう「自分」が抱くものではなくなる。
このようにして至った結論は、徹底的な現実科学的思考を旨とした私の心理学理論整理において、あまりにも予想だにできない結果となりました。
しかしそれは同時に、あまりにも辻褄が合ってくるのです。
「心を病む」ことの根源が、「命」が生まれ「意識」が発生し、自分と他人の区別さえできない混沌とした原初的意識から、人間の高度で清明な自意識が分かれてくる過程を巻き込んで起きていたであろうと思われること。従って今の私たち自身の「意識」の中でそれを遡って見通そうとしても、ある段階から先が見えなくなること。心の障害が「愛」の障害として発生し、人間は「愛」を求めながら不思議なほど愛に満たされるのが難しいこと。
良く言われる寓話のような話ですが、人間は生まれる前には一体化の愛の中にいるのだが、その一体化の片われと別れてこの世に生まれてくる。だから現世でパートナーを探し求めさ迷うのだと。人間が「霊魂」という観念を抱き、物質としての身体に「魂」が宿ったものが「生きている」状態であり、死ぬ時には魂が身体から離れていくのだとイメージされること。
それらが科学からはどう解釈されるべきかはさておき、ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」における心の治癒と成長は、まるで同じ人間のものとは思えないような意識様態つまり「感性」の根本的変化として、「人の目イメージ」の中の自意識から、それが完全に消え去った「魂の感性」の先に、「命」が自分とは別の大きな実体として存在しているという感覚の中にゴールを見出すこと。
そして事実、「現実科学」は、結局「命」について何も知らないのです。これは例えば分子生物学者福岡伸一による『生物と無生物のあいだ』で、叙情的に述べられたことでもありました。「結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである」「私たちは、自然の流れの前にひざまずく以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ」と。
こうして人間の太古の昔から、言葉をさまざまに変えながら「真実」と呼ばれて語り継がれてきたであろうさまざまな事柄が、全て同じ内容へと収束する事実を、ハイブリッド心理学でも見出すのです。
それは「欲」を追うことの不毛さという話に至るものでもあります。謙虚と敬虔を重んじ、自らを謹んで神に敬虔を捧げることを説いた太古からの人々が、同じこの「真実」を知っていたのかも知れません。
現代人が、この「真実」を見失います。望むのは自分だと錯覚して、「叶えられること」ばかりに目を奪われ、「貪欲」へと走り、人生を見失っていく。そして殺し合いなどのさまざまな人間の悲劇が生まれます。
もしこれが真実であるのならば、実際のところ私たちがこの「現世」で抱くさまざまな思い煩いは、実に無駄なものなのです。それらは全て、捨てても良いものなのです。そしてただ「生きる」ことに、身を委ねればいいのです。
ならばあるいは、その先に第5の、本当の未知の節目が待っているのかも知れない。そんな気さえ私にはしてくるのです・・。
それでもハイブリッド心理学の歩みは、この最終結論を自分に「当てはめる」という方法は取らない、パラドックスの道へと進みます。
この人間の真実を、「あるべき姿」という絶対性の中に閉じこめ、それによって心に枠をはめ、心を縛ることを良しとする宗教や道徳とは、全く正反対の逆の方向を向いて歩み始めます。
望むのです。とことん望み尽くすのです。「あるべき姿」に別れを告げて。
本当に望むのは「自分」ではなく、「命」であることを知るために。
そしてそれが「愛」であることを知るために・・。
人生の答えをお伝えする時が来ました。「望み」という最初の、そして最大の鍵に戻ります。
そこに、補助となる鍵を2つ加える必要があります。
魂の感情によって望むようになると、もはや「叶えられる」ことを必要とさえしない形で、望みに向かうことが私たちの心を満たし、生活と人生をより豊かで充実したものへと向上させていくようになります。
心が満たされるだけではありません。望みに向かい続け、その中で人生を生きることによって、「望みの感情」の質そのものが変化してくるのです。
ここに、「望み」という最大の鍵に加える、最初の補助キーの使い方が出てきます。
その使い方とは、「望み続ける」というものです。「こうなれれば」終わりというものはありません。最後まで、望み続けるのです。
この補助キーの名前は、「成熟」と言います。
「望み続ける」ことによって起きる「望みの成熟」には、主に2つの側面があると考えています。
一つは、「豊かさ」の感覚の出現と増大です。これは質的に加わってくるものという側面です。
もう一つは、「与えられる」という方向における望みから、「自ら与える」という方向における望みへの変化です。これは望みの内容そのものの変化の側面です。
望みに「豊かさ」の感覚が加わり、「自ら与える」という方向のものへと変化してくる。これが、「匿名性において生み出す」ことを第一歩とした「揺らぎない自尊心」の獲得へと人を至らせます。
魂の感情による「望み」も、まずは「存在の善と誉れ」つまり愛され褒め称えられることへの願望として始まると考えるのが正解と思われます。
それでも、その望みの感情を心の中で思いっきり開放し、実現へと向かって努力する過程そのものが、人に「充実感」という報酬を与え始めます。
その中で人はやがて、思い描いたような「達成」がたとえ得られないとしても、そこに自分の心を満たすものがあることを、自覚し始めます。それはやがて、望みの「達成」そのものよりも、望みの「過程」そのものに「楽しみ」「喜び」があるという感覚へと、変化して行きます。
これが同時に「豊かさ」の感覚となります。
なぜなら、「望み」そのものが、「楽しみ」「喜び」という宝を尽きることなく湧き出させる財産になってくるからです。「望み続けることができる」ことが、同時に揺らぎない自尊心の基盤になってくるのです。
2007年に、39歳にして米メジャーリーグの最年長ルーキーとなった元巨人軍の桑田真澄投手が、このことを語っていたのが印象に残っています。「野球を好きでい続けるのが、僕の誇りなんです」と。
「人生の豊かさ」とは、この「望みという財産」の豊かさに他ならないように思われます。
実際のところ、いかに金銭的財産や美貌や才能に恵まれ、沢山の友人に囲まれたとしても、「望みの豊かさ」が欠けているのであれば、その人の人生が豊かであるとは、イメージしにくい話です。
「揺らぎない自尊心」は、「匿名性における価値の生み出し」に引続き、この「人生の豊かさの感覚」によって、最初の獲得段階に至るものと思われます。
「自分」へのとらわれを脱した形で生み出すものを持ち、自らがそこに豊かさを感じるものである時、それを基盤とした自尊心はもはや他人からはどのようにしても傷つけようがなくなるからです。
「望み続ける」ことによる望みの成熟変化は、「望み」の内容そのものが、人に愛され褒め称えられることを目指すものでは次第になくなっていき、むしろこれから人に愛され褒め称えられることを願ってこの人生を歩み始める人へと、自分が得たものをおすそ分けするかのように、「自ら与える」ことが「望み」となってくるという変化に現れます。
これは望みに向かい続けることが、それだけで心を満たす「価値」を自分に与えるものである時、必然的な流れでもあるように感じます。「価値」が自分の心という樽を一杯に満たしてもまだ増え続けることによって、当然それは心の樽から溢れ出て、「価値」が人に分け与えられるものとなることを自ら望んでいるかのように感じられてくるのです。
自ら与えることが望みとなった人間の感情を、与えられることを望みとして生きている人間は、知ることはありません。これは本人自身でさえもそうです。愛情と賞賛が「与えられる」という、頭にイメージしたこの「栄光」がなくなるとは、あとはもう負け犬の落ち穂拾いのようなものだ、と感じるのです。
そこに何らかの純粋な「望み」があるのであれば、それに向かい続けるしかありません。そしてその中で、ただ望みに向かい続けることが、それだけで人生の充実と豊かさをもたらすことを、知っていくのです。
そして実際に「人生の豊かさ」を感じ始めた時、気づくはずです。「叶えられる栄光」よりも、むしろこっちの方が大きいのではないか・・と。
その時、人はもはや生涯に渡って「空虚」などとは縁のない、「人生の獲得」を達成しています。
年を重ねるごとに、身体的には当然衰えに向かうようになります。しかし心の豊かさが、逆に年を重ねるごとに増えていくのが感じられるようになってくるでしょう。そしてその揺らぎない穏やかな望みの感情の大きな充実感に、「自分の人生はこのためにあったのだ」と感じられるようになってくるはずです。
そんな好例として、2人の女性がいます。一人は「世界のプリマ」と呼ばれた森下洋子さんです。何かのTV CMの一場面でしたが、「年をとるほど人生が楽しい」と語った言葉が印象的でした。
もう一人は映画界の妖精と謳われた、オードリー・ヘップバーンです。彼女はやがて映画界を引退し、その後ユネスコ親善大使としての活動に、残りの生涯を捧げました。それは当然、かつての映画界のきらびやかさも、世界の賞賛と憧れを集める栄光もない、水や電気さえ満足ではない途上国の片隅で、飢餓に瀕する幼い子供たちに囲まれた、地味な生活です。
しかしそこには、子供たちに囲まれて溢れる笑顔の彼女の姿がありました。彼女はその生活について、「私はこの活動をするために女優をしていたのだ」と語ったそうです。
では「愛における自尊心」はどうなるのか。これについて、答えをまだ言わないままでいました。
「生み出す自尊心」だけでは、恐れることなく愛に向かうことははできないと、3章でも述べました。そこに「人生の豊かさを知る自尊心」が加わることによって、「揺らぎない自尊心」への最初の到達段階へと至ります。それでも、自分が本当に求める愛に直接向かおうとすることは、「魂の恐れ」を伴ないます。そこに「根源的自己否定感情」がある限り。
「自尊心」について最初に述べ始めた上巻6章でも、自尊心の最終的な到達においては「自分が愛される人間」だという安定した自信感も大きな源泉になると述べました。
容姿や才能や性格といった「自己の属性」によって自分が愛される人間だという「自意識」を抱く人間は、実は心の底では、まさにその「傲慢」によって、本当の自分は愛されないという深い自己否定感情を抱えるようになります。これはもうお分かりだと思います。
同時に、それを「自意識の罪」として恐れる感情を、「魂」が抱き続けるのです。これは「魂」が「自意識」に圧迫されて、まだ未熟な部分において起きることだと言えます。
答えは、「魂の成熟」にあるようです。
「魂の成熟」とは何か。
「望みの成熟」について今説明しました。それは「豊かさ」の感覚が増すことと、「自ら与える望み」へと内容変化が起きることです。これは確かに、「魂の成熟」の一側面であり、そこにおいて「自分は愛される人間であろう」という感覚が増大してくることも事実と思われます。
しかしこれは自尊心の最終的な到達段階とは、まだ異なるもののように感じます。「・・であろう」という言葉を使った通り、それは心の表層部分でそう推測するという話です。
「自分は愛される人間だ」という揺らぎない感覚は、「命の感性」と同時に生まれてくるように思われます。
そこにおいては、もはや「なぜそうなのか」という理由さえないようです。なぜなら、それが「命」だからです。「命」とは「愛」であり、自分が「命」であることにおいて、自分が愛される存在であることについて、もはや何の疑念を抱く必要さえないということになるのでしょう。
ではこの途上段階を埋めるものは何か。
それは「命の感性」へと直接向かうためにはどうすればいいかの答えでもあります。
答えは、「魂の愛への望み」の感情にあります。
「愛情要求」という、「皮相な自尊心」とも重なる衝動ではありません。人はその中で「自尊心のために愛されることが必要だ」と考え、自尊心も、そして愛も失うのです。それをどう追っても、魂が成長することはありません。
転換は、「魂の愛への望み」の感情にあります。それは「結果」がどうなるのかを問うことなく、ただ愛を願い求める感情です。
この「魂の愛への望み」の感情を自分自身で受けとめた時、人の心の中で、魂が成熟へと歩み始めるのです。
「魂が成熟する」とは、魂が成長することによって、「魂」が他の沢山の「魂」との絆を深め、絆がより大きく豊かになっていく。そんなことであるように感じます。その時「心」は、この現実世界における「孤独」にはもう左右されずに、寂しさを感じなくなってくるのです。
そして心に愛が満たされてくるのです。
それはどのように「愛された経験」を豊富に持つことで築かれるものでもありません。
自分自身が、「魂の愛への望み」の感情を受けとめ続けることによって、いわば「魂の自然成長力」によって芽生え、豊かさを増してくるのです。
その時人の心に、「現実を生きる体験を経る」ことにも匹敵する、さらにはそれを越えさえもするような、「心の成長」が起きます。なぜなら、自ら愛することは、勇気が必要なことだからです。無防備になってただ求める愛へと向かうことは、恐怖を伴なうことからです。
それに比べれば、自分はそんなめめしい感情などもっての他だ、もしくはとうの昔に卒業した、という顔をすることは、実に容易です。その代償として、「命を否定する者」になりながら・・。
ですから、まずこの道を歩む過程においては、「魂の愛への望み」の感情を、自分で否定することなく支えることが、「愛し続けることができる」という揺らぎない自尊心になってくるという、途上段階があると言えます。
事実これは多くの文学や歌曲などで表現されているものでもあるでしょう。嫉妬とフラストレーションの苦しみに流され、全てを心から切り捨ててしまおうとする衝動と向き合う中で見出す、ただ愛し続ける感情・・。それは『悲しみの彼方への旅』で描写したものでもありました。
まずはそれを歩むことです。その先に、「命」がつながってくる時が訪れます。
では「命の感性」が獲得された時、「自尊心」はどのような次元へと到達するのか。
私の感覚を言うならば、「自尊心」の意識全体が消滅します。
もはや「自分」というテーマが、消えるのです。もちろんこれは、「自意識」が「意識の構造」レベルで捨て去られるということです。ならば自尊心という意識そのものが消滅するというのも理屈に合っているように感じます。
そうした、「命の世界」へと、歩み続けることです。「魂の愛への願い」を支え続け、望み続けることによって。
実はそれでもまだ終わりではありません。「望み続ける」ことだけによる「魂の成熟」は、実はまだ僅かでもあるようです。
そこにもう一つ、とても大切な心の姿勢、いわば魂の営みとも言えるものが出てきます。
人生の答えへの、最後の鍵をお渡しする時がきました。
これも「望み」という最大の鍵と一緒に使います。
その使い方は、「看取る」というものになります。つまり、「望みを看取る」ということです。
そしてこの鍵の名は、「命」です。
私たちが生きるこの「現実世界」はとても不完全なものであり、それは時に取り戻すことのできない損失や喪失を含むものです。それに対して、「これはあるべきことではない」という思考を一切放棄する。それが「不完全性の受容」です。
同時に、「望みの感情」を、最後まで、それが消えるまで、しっかりと見続けるのです。これを「望みを看取る」と表現しています。
叶えられなかった願いの感情は、最後に悲しみの涙を溢れさせます。それに目を背けることなく、その悲しみと、時には嘆きを、受けとめることです。
心が病む過程においては、今だ看取られないまま眠っている、出生の最も早期段階における「魂の愛への望みの挫折」という問題が心の底にあることになります。
私たちはまずそれを思い出すことができません。おそらくどんな風に思い出そうとしても、激しい怒りや恐怖から、全てが始まっているようなものになります。なぜ自分は怒り怯えたのか。そこから前の記憶はもうありません。
これはそれで別に問題ありません。
なぜなら、心の問題の全ての始まりとは、過去の記憶の問題ではなく、出生の瞬間から今に至るまで私たちの心の中で生き続けている「魂」が、今抱き続けている感情だからです。
ですから、それが「ある」のであれば、それはいつかその声を「心」に届けようとする時が訪れます。それにしっかりと耳をすませることです。
私たちの人格が「心」と「魂」から成り立っている時、私たち自身の「魂」から、私たち自身の「心」へと、さまざまな声が伝えられようとしているのが分かると思います。それを感じ取ったものを、私たちは「魂の感情」として感じます。
一方で、「魂」は独自の生命力のようなものを持ち、「魂」そのものを見ることはできません。それはもはや「私たち自身」でさえないような気さえ、私にはしてきます。
そうであれば、魂が抱いた愛への願いを見届けることは、この現実世界における「愛の活動」とは別の世界のこととして存在するものにもなり得ます。
いつ、それが交わるのかは、分かりません。それは最後まで、交わらないのかも知れません。
それでも言えるのは、私たちの「心」に「命」を与えているのは、「魂」だということです。そして「魂」が「愛」をつかさどるものである時、「命」とは「愛」なのだということです。
一方で、私たちが生きている限り、私たちが直接使うことができるのは、「心」の方です。そしてこれはまず「自尊心」をつかさどるのだと言えるでしょう。
ですから、まずは「自尊心」を目指すことです。「愛」を支え、守り得るような、自尊心をです。そのための基本的な考え方を、この本で「人生の鍵」として説明しました。
この「心」と「魂」という2つが交わる世界を、最後まで追いつづけることです。
そしてその2つの世界を、最後までしっかりと見続けることです。
Y子さんへの「心の大手術」ともいうべき出来事の中で、「愛」と「自己操縦心性」の謎解きを済ませてから、もうじき1か月になろうとした頃でした。
Y子さんの心の中に、置き去りにした魂の声が届く時が訪れました。
それは、もう間もなく、彼女が私の援助から一人立ちする次の旅立ちへの、一つの兆しであったように、今の私には感慨深く思い出されます。
夕方、窓をあけてPCに向かっていました。
静かな戸外に、近所のおばさんの声が聞こえてきました。誰かを送り出しているのか、嬉しそうな、愛情ある声でした。
悲しくなってまた涙が溢れてきます。悲しい・・・、とても悲しいのです。
わたしもあんな声をかけてほしかった。ただ喜んでほしかった。暖かく見守って欲しかった。
・・・でも、それを今求めているのかと、自分自身の気持に耳を傾けていると、そうではないようです。
わたしは見てほしかった。気付いてほしかった。
存在を、わたしという存在を、ゆるしてほしかった。
ありのままに居ることをゆるしてほしかった。
・・・そのようです。
何かをして欲しいのではない。ただ、わたしに存在させて欲しい。存在が分離することなく。
全てが繋がってきました。この世界に存在するために分離していた。切り離されて捨てられていた部分が痛み、それに気付き、私は今泣いているのです。
この痛みは、私自身に痛まれるために、あがってきたのだと思います。
やっと出会えた痛み。たくさんあるもののほんの一部です、きっと。
不思議ですが、今、悲しいのですが、前のように誰かに抱きしめていて欲しい、暖かさが欲しいとは、思っていません。
出来事は外側でなく、内側で起こっています。
今必要なのは、わたし自身の心。向き合ってる主体も、対象も。
悲しいですが、真実の感情。しっかりと悲しんでいます。ここにもう気まずさはありません。出会うべきものにやっと出会ってる感じです。
自分の弱さをひしひしと感じます。わたしに今できるのは、それを感じることだけです。
果たされることのなかった「魂の愛への願い」は、それを最後まで看取った時、「看取った側」の魂に変化をもたらすようです。これは「看取られた側」が自分であっても他人であっても同じようです。魂にはもともと「自分」と「他人」の区別があまりないので、そういうことになっているのかも知れません。
その時、「看取った側」の魂が、豊かになる、そう感じています。「魂に魂が宿る」そんな印象を感じます。
そうして人は魂の願いを一つ看取るたびに、魂が一つ豊かになっていく。
そしてやがて、豊かになった魂から、愛が溢れてくる。そんな印象を感じます。
これはもちろん、人の死に立ち会う「臨終」というものが、まさにそのような位置づけを持っていることなのでしょう。
一方で、私たちがこの現実世界を生きている限り、私たちの大きな課題は、この「現実世界における人生」にあります。
現実世界には現実世界の生き方というものがあり、そこには沢山の知恵とノウハウがあります。まずはそれを実践することです。
一方で、「魂」は自分自身の「心」との間だけの関係を持ち続ける。これが私たちの日々の生活に、何かの変化を与えるように私は思っています。それは与えられたレールの上をただ進むような、この現代社会における「普通」とは、もはや世界の異なる、その人だけの、魂がこもった生き方の世界ということになるでしょう。
それが、「唯一無二の人生」になるわけです。
ぜひそれを探し続けて欲しい。それが、私がこの本を書くことによって、社会の人々に伝えたかったことです。
最後まで、2つの世界があります。その多面を同時に持つのが、私たち人間という存在の「本質」です。
「姿」として見えるのは、その一面だけでしかありません。多面を同時に持つ「一つの本質」は、もはや「姿」として「見る」ことはできません。
多面を同時に見ることです。そこに「未知」が現れます。その「未知」の変化に向かうのが、「成長」です。だから私はこの心理学に「ハイブリッド」という名をつけました。
最後に、ちょっとした感慨を書いて、この本を終わりたいと思います。
もはや「心理学」の話ではありません。「心理学」は「現実世界」についての話です。
「魂の世界」の先に、何があるのかは分かりません。言えるのは、ただそれが「ある」ということだけです。
人の魂は「神の国」に生まれ、「現実世界」という名の「放たれた野」へと旅立っていく。
私はこの「現実世界」を、「善悪」という「あるべき姿」のない、サバイバルの世界だと考えることを選択しました。
それによって、この「現実世界」の中で自立を果たした時、自分の心に「宇宙の愛」が生まれるように感じるからです。そしてそれを次の子供たちへと向ける。
「宇宙の愛」から旅立ち、そして再び、自分の心の中の、「宇宙の愛」と還っていく。
それは同時に、「神の国」に生まれ、「放たれた野」へと旅立つことで、次の子供たちのための「神の国」を、自分自身の心の中に生み出すことであるような気がするのです。
それが人間の心のDNAに設計された摂理なのだと。
ならば、「神の国」から出て「放たれた野」へと向かうことは、それが「神」の指図したことでもあったような気もしてくるのです。人は「神はこう命じた」と、神を知っているかのように話します。しかしそれは本当は、神が望んだことではなかったではないかと・・。
同時に、人間は弱い存在です。全ての命に終わりがあり、その時再び、「神の国」に還っていくのでしょう。そして再び、大きな存在に守られる・・。
ですから私は、自分の命が終わるまで、自分はあくまで、善悪のない大自然における一匹の強い獣でいたい。そう思うのです。
そして死ぬ時、自分は再び「神の国」に還っていくのだ・・、と。
そう思いながら、再び「現実」へ・・・・ 再び執筆へと、私は向かいます。