ケース・スタディ
感情分析過程の例
01 精神分析における自己欺瞞発見の際の感情の微妙 2003.8.1
■はじめに
精神分析の過程で治癒ポイントになる「気づき」は、その多くが「自己欺瞞の発見」の形をとります。
これについては「感情分析」技法による人格改善治療の4.無意識を知るとはで説明しました。
ここではその実際の例をご紹介しようと思います。
それが、かなり微妙な感情の吟味をする作業であるということをお伝えするのが目的です。
その微妙な気づきの有無が、「感情に流される」か、それともその中に潜む自己欺瞞に気づいて、健康な心への方向転換が起きるか、という違いを導くものです。
精神分析が知的な自己理解でもなく、カタルシスでもない部分であり、この微妙に気づくためには本当にじっくりと自分の感情に向き合う努力が必要だということが言えます。
これはハイブリッド療法での感情分析という位置付けにとどまらず、精神分析一般に言えることでしょう。
ここでは吟味される感情の微妙具合を伝えられるような、私自身のごく最近の自己分析例を紹介します。
なおこれは感情の微妙さを伝えるのが目的であり、心理障害の治癒過程そのものをお伝えするものではありません。
心理障害の治癒過程で起きるのは、もっと内容的に激しく動揺に満ちた感情です。
そこでも、感情に潜む自己欺瞞に気づくことの微妙さは同じことだと言えます。
■本体
ここでもう一つ前置きをつけ加えておくと、分析による気づきとは、自分についていた嘘が消えていく瞬間です。
そこには「病気が治った喜び」「なりたい自分になれた喜び」などは全くなく、自分に嘘をつくことで得たつもりになっていたものの本来の喪失を知る、静かな感情が流れます。
そのようなものだということを知っておくのも無駄ではないでしょう。
この体験はこれを書いているごく最近にあったことです。
ちょっと流れを書くと、先日、私は自分の感情の基調がこれまでにない「外向的」なものであるのに気づきました。
これもちょっと微妙な話で、「外向的な性格になる瞬間」という珍しい話なので書いておきましょう。
この時「自分が外向的になっている」と感じたのは、今まで「自分が外向的になれた」と考えた時とは違う、不思議な感覚でした。
今までは、「人と積極的につきあう気分」が出た時に、「自分が外向的になって来た」と考えましたが、今回は違いました。
人に近づこうとする気持ちではなく、何か自己の中心点というものが外にある、という感覚でした。
こんな感覚は初めてであり、この日は会社の会議でスピーチなどしたりもしていましたが、その感覚が一貫としていたので、自分の「人格状態」にとってかなり確実なことなのだろうと考えたりしていました。
人が本当に外向的性格でいるというのは、おそらくこの延長で、最初から「人と積極的に交わる」という意識そのものがない、最初から自分はまわりの人々と何か一体のように感じている状態なのだろうな、と感じます。
もちろん、これを頭で想像して、「皆と一体の感覚を持つ自分」になろうとする、という、変幻自在な自己操縦心性の罠がありますのでご注意を。
ただ上の日、ほんのかすかにですが、この「新しい感覚」に何か落ち着けない部分もあるような感覚もありました。
後から言える話ですが、この手の「落ち着けない」も、やはり無意識の原因があるもので、大抵その後の自己分析で現われて来ます。
上の「外向的な気分」を感じたまさにその日の夜、家に帰って夕食の後、少し時間ができた時、今度は自分がやけに漠然とした悲しみを感じているのに気づきました。
少し以前には、結構メンタル・サイト系への興味などもあり、幾つかの掲示板を覗いて、自分の活動にも関連するもののように関心を抱いていましたが、今ではすっかり「手軽なネット交流は自分の活躍の場ではない」と感じており、メンタル・サイトへの関心もすっかり薄れていて、見るところもほとんどありませんでした。
その後PCに向かっても特にやることもなく、何しようかと思っている内に、自分が漠然とした悲しみを感じているのに気づいたわけです。
それでちょっとその感情を吟味すると、自分の中に、「人との笑いや語らい、触れ合い」といったものが、「今、ここにある」ことを求めている気持ちがあるのに気づきました。「ひととのつながりが今ここにある」ことを求める気持ちを感じると、同時に悲しみが伴っている、それを自覚しました。
翌日朝、その感情の流れが続いているようで、何か沈んだ気分があるのを自覚しました。
それは何なのかと吟味する内に、ちょっと別の連想から、自分に孤独感がある、そしてその孤独感を人に見せることは「嘆かわしい悲しみ」を引き起こす、というイメージが明瞭になって来ました。
孤独感は私の来歴で濃く流れ続けていたものなので、今その残滓が残っているとしても不思議はないでしょう。
むしろその孤独感へのその後の自分の「対応」がどうも変、というか気になったのです。
孤独感を人に見せることは、「癒えない悲しみ」を引き起こすという意味がありました。
私の中で外界はその孤独感を癒してくれるものではなく、むしろ隠さなければならないものだったのです。
それが人に見られることは、「自分が異形の者」として遠ざけられた目で見られることを意味していました。
自分を本当に慰める者はいない。孤独感を感じること、ましてそれを人に見られることは、悲しみを和らげることではなく、悲しみを加えることを意味していました。
このため孤独感を癒すことではなく、否定することに私の気持ちは向かっていたわけです。
(なおこのような心理は、感情的なかかわりを避け精神的平安を求める「離反型態度」に主に関連があります)
自分にとって孤独感は癒えることのない悲しみだったんだ、としみじみ感じました。
そして自分はそれが消えた時に喜び、それが現われた時に悲しむ、というのが基本的な態度のようになっていたのに気づきました。
それは先に孤独感があってこそ生まれる態度であり、結局は孤独感があるということなのです。
とりあえずここまで。
この自己分析によって私が得たのは、「孤独感」をないものとして感じようとした自己欺瞞に気づいただけです。
結局あった孤独感に対してどうするのか。
何もしません。それは幼児期からの残存感情であり、「今を生きる」自分がどうこうすべき感情ではないからです。
感情は、真意を把握するだけで、それ以上の変える努力は一切しません。
これが当サイトで説明している取り組み方法の基本態度です。
この自己分析の後に、とても落ち着いた悲しみ感が残りました。
でもそれは、落ち着けなさや不明感の全くない、しみじみとした、何か「前に進める喜び」を含んだような悲しみです。
この孤独感がどうなるか、それを考えることもしません。
仕事の合間に、残った悲しみ感を感じながらも、同僚と楽しく会話してたりします。
それは「癒えない悲しみ」ではない。
そんな気分が起きていました。
■おわりに
この気づきの意味や効果有効性などについては、考察を省略しておきます。
ごく最近のことであり、それが人格の変化に対してどんな意味があったのかは、かなり後になってから詳しく分析することで初めて言えることです。
感情メカニズム的な話をちょっとしておくと、「人とのつながりが今ここにある」ことを求める気持ちは、孤独感を否定しようとする手段として生まれていたのかも知れません。外向的な気分が出るまでは、これらの全体が意識の底に埋もれていたのでしょう。
もうひとつ、「これと同じ自覚ができれば同じ効果が得られる」とは決して考えないで下さい。
精神分析の過程は、人それぞれが自分という未踏の山を登るような過程です。
どのような自覚が、いつどの段階で起きるのが、どのような効果をもたらすのか、全く千差万別です。
今回はあくまでその微妙さ加減をお伝えしたく掲載しました。
それでもはっきり感じるのは、ここで述べた自己分析体験ひとつでも、何か、体に沢山まとわり付けている小石をひとつ取り除いたような確かな感覚があることです。
心の中にあった不純物のひとつが消えたという感覚です。
精神分析の過程では、このような一個だけの効果は取り立てたものではないとしても、その膨大な積み重ねが、人間をやがて根本的に変えていくものです。