ケース・スタディ
感情分析過程の例
02 ハイブリッド療法の姿勢と感情分析過程が典型的に現れた数日間の体験

5■ 2002年12月10日(火)  自己分析(2) 埋もれていた自己欺瞞が明らかになる 2003.9.2

 翌日の午前、もう自分はAさんに面しても動揺しなくて済むんじゃないか、と考え、会うか電話で話しましょうとメールを出しました。
 ここには私の側の色んなものが表れています。Aさんの側からすればどうでもいいような、私自身の内面の話を弁解するような感覚。これはまだ自己欺瞞が残っていることに該当します。ただ、その話を「治療アプローチの説明」として持ち出したこと自体は、この時の私として率直に考え得た、ごまかしのない話です。また、前日の自己分析を経て、「治療者の仮面」をかぶる身構えが少し減少し、裸の自分を見せる方向に少し動いているのが感じられます。

 Aさん、おはよう。しまのです。
 会うか電話で一度話を聞く方向で考えましょう。メールだけで軌道に乗せることを考えていましたが、やはりちょっと無理もあるかも知れませんしね。あともう一つ理由があって、少し面白い話なので伝えておきますと、私としても人の心の問題に本格的に関わるのは最初なので、何かを不安に感じていた面があったのですよ。

 昨日Aさんとメールを交わした時は、ちょっとその不安が的中するかというような感覚もあり、しかもその時仕事のお客さんからメールでお小言を頂いてちょっと気持ちが動揺したのが重なり、一時的に緊迫感が起きたんです。でそのことを昨日自分で吟味しながら考えていて、結局原因は、私が「事態に対応できないでおどおどしてしまう」ことで自分のプライドが傷つくのを恐れていたことが分りました。

 これを自覚するまでは、自分はそんな稚拙なプライドなどもう持っていないと頭では考えていましたが、意識の下ではそうでなかった訳です。無意識にあるうちは、それを脅かすものが、得たいの知れない危険に感じてとにかく排除しようという焦りの衝動が起きた訳です。これを自覚したことで、得たいの知れない恐怖感は消えた訳です。得たいの知れた不安についても、今回は消える方向にあると思います。

 何故これを話したかというと、Aさんに頑張って欲しいのは、こんな感じの自分への取り組みです。今の私の話は1日でほとんで済んだ話ですが、心理障害の背景には同じ仕組で複雑さと強固さではるかに大きなこんがらかりがあり、専門的な地図を頼りに何年掛りという話になります。

 そんな訳で、今まで私が周到に中性を装ってAさんに接しようとしたのも、専門的な配慮以外に私自身の防衛から過剰なものがあったので、少し解除です。「何でも受け入れます」と言ったもの少し過剰な表現でしたね。私も生身の人間です。毒を吐かれれば引くし、収まれば近づける。けどそれがその人の根本的なものとは思っていないし、それを消す可能性も信じている。そんな形で受け入れます。

 少し長くなりましたが、私が手伝おうとしていることがどんなことかは少し分ったと思います。Aさんならできると思います。今後ですが、最初に全部を話してしまいたいなら、時間を取って聞きましょう。会うのもいいですが私は千葉なのでやはり電話の方がいいかも知れませんね。メールも可。まあ考えといて下さい。


 結論から言うと、Aさん自身はあまり分析的アプローチへの関心がなく、私の長く理屈っぽいメールについては、彼女の持ち合わせの聡明さもあり、とくに煩わして心労を与えてしまったようなこともないようですが、多少とも右の耳から左の耳に抜けるようなちんぷんかんぷんなものであったと想像しています。
 彼女はそんな時に特に文句を言うわけでもなく、読み流していたようで、また、もっと直感的な言葉でのやりとりが別途生まれる、そんな感じでこの一件の後も連絡が続いた方です。

 さて、このメールへのAさんからの反応はないまま、私の内部でちょっとした地震のような動揺が始まりました。
 その自己分析の中で、私は隠されていた自己欺瞞の感情の膿のようなものに出会い、それを放出し味わう過程を経て、もはやこのメールを出した時の私とは違う自分に、そのままAさんに同じ顔で面することはできない自分に、至ったのです。

 上のメールを出して、土日にでも電話か会うかしましょうというポーズを見せた後、私には何か本質的な落ち着けなさの不安感覚が起きていました。
 それは前日のような、怒りにであって怖気ずく自分といった具体的な姿ではなく、漠然とした、何か自分自身が根本的にまずいポーズの構図にあるという感覚です。それは私がまだ残していた、女性に面する際の気後れや緊張などの形で表面に漏れ出していた、心の一番底の感情の膿のようなものでした。
 空想に表れる自分とAさんのイメージも、今回の援助作業というより、何か人間心理のある象徴のような姿に変わっています。
 私はその正体を突きとめようと、自己分析を続けます。会社の中で。歯医者の中で。帰りの電車の中で。
 連想は思いもかけない内容に発展し、私は自己欺瞞の感情の膿を知ります。
 そしてこの自己欺瞞を捨て去ります。それはこの感情の膿をめぐって駆動していた自己操縦心性が自らの破綻を自覚する瞬間です。私はその破綻の瞬間をありありと自覚します。これがまさに自分が「感情分析」として説明しようとしていた無意識メカニズムそのものだったからです。

2002.12.10(火)

 午前のうちに、Aさんに会うか電話で話しましょうとメールを出す。
 午後、何となく落着かない気分。Aさんに対して、しきりに、自分は女性に対しては心理的問題が残っているとか、言い訳をする自分を考えている。やがてその連想は、彼女の前で泣き出す子供のような自分のイメージになる。“堂々と立派な振りをしていたけど、僕本当は弱虫なんだよ〜”と泣き出すような自分のイメージ。

 一方で時折やはり現れるのは、僕に首ったけになる彼女のイメージ。彼女が出会った中で、最も頼れる、優位に立つ自分というイメージ。
 早めに退社して歯の矯正治療通院へ。治療を受けながら、自分が一体自分の何を恥じているのかと考える。
やがて、こうして“自分はどうなのだろう”とこだわっている状態そのものに、何か自己嫌悪が向けられているのに気づく。

 そのすぐ後、連想の中に現れたのは、数日前に見た結構リアルな雰囲気の夢だった。
 TVのニュースの終わり頃、男のアナウンサーが、「か」の音に詰って、どもってしまう。アナウンサーはそのあと何も言えないまま、無音のまま番組が終わってしまうのだ。その裏では、それまでスムーズにニュースを読んでいたアナウンサーが、「か」の音に詰った瞬間、破綻のようなパニックで「自分の中に折り曲げられた」緊迫感が伝わってくるのだった。
 いったんCMが流れるが、読めなかった部分を挽回しようと、同じ所からニュースが再開する。しかし、やはり同じ所で詰り、アナウンサーは再びパニックに。
 僕は、そのまま済ませばいいものを、と少し心配しながら眺めている。そんな夢だった。

 それは駄目な男の象徴だった。自信がなくうろたえて、うわの空になって、全く頼りにならない男。相対的に頼りないのでなく、絶対的に頼りにならない情けない男。そこには容赦ない軽蔑と嫌悪が向けられるのだ。要は「自信がないとは、駄目だね」というものだ。逆に、「自信がある。それは素晴らしいことだ」。

 ここまで考えてきて、僕はおかしくなった。それは少し滑稽な大人の姿だ。
 だが少しして悲しくなった。実際に、それが大人だった。そうした大人達の中で、僕は育ったのだ。彼らは子供の何も見ていなかった。自信がなくて不安な子供を優しく励ますことも、教えることもなく、自信のある振る舞いをした時誉め、自信がなく沈む様子を頭ごしに叱った。単に子供を痛めつける「愛情」だったのだ。
 僕はその「愛情」を、今悲しみの中で放棄しているのかも知れない。
 子供は、自信を感じると良いと思い、自信がないのを感じると駄目だと思う。子供は自分を育てることを知らなくなる。何故こんなことを求めたのか。


 自信があることに自信を感じる。自信がないことで自信を失う。
 この循環感情は恐らく心理障害全てにおいて、背景的メカニズムとして共通するものです。
 (参照:心理障害の感情メカニズム 2.4 プライドの感情メカニズム (2)プライド実現への衝動
 ただし、実際人は病んだ心の中で、「自信がある自分」を喉から手が出るほど渇望する感情にとらわれますので、この循環の罠を解除できるのは、長い取り組みの中で何とか自分への自信が獲得できた、その後の本当に最後の段階になって、と考えて良いと思います。
 これから取り組みを行う方は、安易に「自信の有無は気にしない」と考えるのではく、真の自信とは何か、また「自信ある姿」を目指すことが決して真の自信を育てるものではないことを理解することに向けて頂きたいと思います。
 (参照:「自己建設型」の生き方へ 9.自分への真の自信の確立

 私の場合、この「自信ある自分の姿」に思い上がる自己操縦心性の残骸を捨てる時が、この時訪れたわけです。

 電車から降り、家に向かう頃、思考がさらに進んだ。
 「自信があるとは素晴らしい」という稚拙な高揚が、地に足の着いたものを育て得ない。何故そんなものを求めるのか。その目が、今度は自分自身に向かってきたのだ。
 4月の「ゼロ線の通過」を経て再開した心理学に関して、自分が誇ろうとする態度が、まさに自分に自信のあることを素晴らしいと自賛する中空のおおらかさの色彩を帯びていた。「自分は完全に治りました」という「治癒経験」と言う時に、今までも何となく軽薄感があるのに引っかかっていた。

 今日Aさんに電話で話しましょうとメールを入れてからの落ち着きのなさは、これに関係していたのだ。「心の指導者」として自分が抱いていた立場は、まさに、自分が人間としての自信を持っているという究極のポーズだった。

 この自覚は急速に、Aさんを支えようと考えていた僕に冷水をかけるものだった。
 僕はその意欲が急に薄れるのを感じた。これはまずい事態だった。今回の「介入」の構図では、あくまで僕はAさんに対して絶対的支持者として支え続けるはずだった。そうでなければ彼女の側の「抵抗」に対処することができないという前提があった。

 だがこの意欲の薄れた気分は、もはや否定しようがなかった。一方でAさんを支えようという意欲は、僕は示し続ける必要がある。
 まさにこれがひとつの、自己治療のおあつらえのケースだった。真の自己とは別の何ものかになろうとしていた衝動が自己への自覚により挫折する。何ものかでいようとした自己の、ひとつの破綻だった。これに僕がどう対処したか、その結果をAさんにも伝えられるだろう。この問題をどう克服するかだ。どう克服するかと言うと...

 とまで考え、はっと気づいた。僕は確信を持って、吐き捨てるように、“克服しないんだよ!”と自分に言った。
 そして何と泣き出してしまった。まさに、これが答えなのだ。それ以外には何もない。最も分りやすい例題としてサイトにも紹介できる。その皮肉を思い浮かべ、笑いながら泣いた。

 気分が落着いてくると、ただ、自分がAさんに対して偽の姿を見せてしまったと思えた。
 電話で話をするというのも、その時聞くだけならと考えようとも思ったのだが、とても全て聞く気にはなれない、というのが正直なものと思えた。支え続ける気にはなれない。それが本心だった。
 こう考えて、僕にとって今回のAさんへの接触は、“学びえた失敗”となった。自分の偽善を知り、意欲の失せたことを正直に考えながらメールを見ると、今回の僕のメールに対する返信は何も来ていないようだった。その時、彼女は僕の心変わりを、というか偽善を見抜いて、攻撃の怒りを向けてくる女性としてイメージされた。「最悪の偽善」などという言葉が彼女から向けられるのが空想に現れた。


 何が起きたのかを説明します。

感情の膿の消去

 まず私が自覚したのは、「自信があることを善とし自信がないことを悪とする」思考パターンです。「か」の音に詰まったアナウンサーを見て緊迫感を感じた夢は、その思考パターンが自分の中で感情の膿として存在していたことを示していました。
 私はこのサイトの説明にも表現しているように、理性的思考においては頭ごなしの善悪思考は持たないようになっていました。しかし感情の膿と自己操縦心性は、現実覚醒の低下した心理状態で、現実理性とは無関係に動きます。どんなに理性思考がそこから脱していても、感情の膿が「ある」なら、その独自の論理を備えた感情が動くのです。

 その感情の膿が消える方向に向かうかどうかは、心の底からそれを非現実的なものと実感するかどうかによります。頭で「この感情は非現実的だ」と考えても意味はあまりありません。無意識がそれを非現実的であると感じ取った時、感情の膿は消える方向に向かいます。
 私にはこの時、「自信のない姿」を見ても頭ごなしに軽蔑するのでない人への肯定的感情や、「自信溢れる姿」を見てもあまり価値あるものとは感じない感覚、という心理的基盤が準備されていたと思います。

 それで「自信のない姿を晒す」ことへの恐怖という感情の膿が、この時消える方向に向かったようです。

 その時意識は、悪感情が消えるという感覚を持ちません。むしろ感情の膿の中で失ったものへの痛みを感じます。
 私の中では、それは自分が来歴で得ることのなかった愛情への悲しみとなって表現されていました。自分に自信がなくて落ち込んでいた自分を、ただ「そんなんじゃ駄目だ」と叱った親たち。この親たちへの怒りではなく悲しみとして感じたことが、感情の膿が消えることの表現です。何故怒らないか。その親の姿は自分自身でもあったからです。これが、感情の膿を自己内部の問題として消化吸収する、ひとつの姿です。

自己操縦心性の崩壊

 感情の膿が消えるのと同時に、それを一種のエネルギーのように駆動していた自己操縦心性も消去に向かいます。

 その最初の表れは、「なぜ人はそんなものを求めるのか」という疑問感です。人は「自信ある姿」を思い描いたところで本当の自信を得ることはない。なのに、一体人は何を考えて「自信のない姿」を頭ごなしに踏みつけようとしたのか。。

 自己操縦心性の崩れは、自己の内面にやがて到達します。
 「自信ある姿」を思い描いてその通りになろうとする衝動。その衝動は決して自覚されることはありません。何故ならそれを自覚することは、現実の自分が実は思い描いた姿ではないという自己嫌悪を意味するからです。
 このため意識上では、自己操縦心性の崩壊は、それに紐付いて維持されていた数々の感情の消滅となって現れます。

 私の中では、Aさんを援助しようとする情熱が急速に消滅していく現象として現れました。
 この前後の因果関係は、全く感じ取られることはありません。完全に無意識の連鎖の中で進行します。
 私は今までの自己分析経験から、この関連を理解しています。理解していても因果関係が全く感じ取れないのは変わりません。ただし、これが自己欺瞞の崩壊する瞬間であり、受け入れるべき出来事であるという姿勢を瞬時に取ったわけです。
 その瞬間、自己操縦心性が完全に崩壊します。
 どっと、自己操縦心性を支えにしていた感情がなだれ落ち、怒涛のような感情が湧き出します。
 あとはただこの感情動揺の中で、落ち着くまで、心と体を休める時間を持つだけです。

自己操縦心性崩壊後の人格変動

 自己操縦心性が崩壊した直後、それにより防御されてきた自己嫌悪感情の膿が表面化します。
 あたかも地震の後の液状化現象で水がどっと溢れてくるかのような感じです。
 考え得る最悪の自己像が現れ、人間に向けるものとは思えないようなおぞましい嫌悪が自分に向かってくる幻想的イメ−ジが現れます。
 おそらくこれが最も辛い瞬間です。
 この例は本格的治癒の後の、安定化へ向かう好循環の中で起きたものであるため、動揺は十分耐えられる程度ですが、最初の本格的治癒では人格全体で優勢な地位を占めていた自己操縦心性が崩壊することになるため、自己の存在そのものへの全否定感情が起きます
 分析過程のメカニズムを理解すると共に、このことを十分理解し、絶対に自殺衝動などを行動化することがないよう、ベッドに体をしばり付けてでも自分の体を維持することを、心にくいで打ちつけておく必要があります。

 この最悪の状態は、もはや何の思考も伴わない中で、時間の経過の中で膿が水に溶けて消えていくように去って行きます。
 その後まず自覚するのは、自分がもう前の自分ではない、という確信を伴った感覚です。
 これは「なりたい自分になれた」という喜びを全く伴いません。「こうなりたい」という考えを生み出した心性そのものが崩壊しているからです。
 むしろ、多少とも、自分がもう以前の自分ではなくなってしまったことで、対人行動上で支障が起きる可能性があります。ここからは、新しい自分で前向きに生きる、これからの生活そのものの問題となります。
 私の場合は、明らかに、以前の「何があっても支えます」と言った自分がもはや存在しないことを、何とか片を付ける必要を感じました。
 自分の内面が変わったと言っても、外の世界では連続したものとして自分を見る目を向けてきます。
 なんとも複雑で混沌に満ちた状況ですが、新しい自分の感情で、自分にできる最善の誠実な対応を考えるだけです。

 自己操縦心性の崩壊が辛い体験となるのは、この病んだ心性が除去されることから来るものだけではありません。
 この心性とベクトルを同じくした、真の自己を源泉とする感情も、これに巻き込まれる形で挫かれる結果になることを、しばしば避けることができません。
 私がAさんを救いたいという感情は、その援助姿勢については思い上がった感情から支えられていましたが、何か自分の来歴を投影してAさんの苦境を感じ取り、救うことを願った気持ちは、あまり偽りの要素を含むものではありませんでした。
 自己欺瞞を受け入れる瞬間にどっと涙が出てしまったのは、その願いが自らによって挫折した悲しみでもありました。

 いずれにせよ、ここで起きる変化の核はあくまで自己操縦心性の崩壊という治癒現象だとしても、この変化の結果は「治癒」にとどまらない全人格および生活そのものを巻き込んだ変化になります。
 

inserted by FC2 system