ケース・スタディ
感情分析過程の例
02 ハイブリッド療法の姿勢と感情分析過程が典型的に現れた数日間の体験

7■ おわりに 2003.9.2

 ここでご紹介した数日間の過程が、当面はハイブリッド心理療法の具体的実例説明になります。

 これは「はじめに」にで説明した通り、ハイブリッド療法の姿勢と、感情分析のメカニズムをコンパクトに抽出したような特異な事例です。これは心理障害の治癒過程の「本編」ではありません。すでに問題の核が片付いた後の、付録のようなエピソードです。

 何を言いたいかと言うと、2つのことをお伝えしたいと思います。

 まず第1に、心理障害治癒の「本編」は、これよりもはるかに混沌として長期の取り組みの中で行われることです。
 このケーススタディでは私自身が既に自己の基盤を獲得した上で、自滅的論理を持つ感情を発見し、それを捨て去る過程として起きました。一方、心理障害の治癒全体の過程で、最初に起きる本格的治癒ポイントは、自己の基盤がまだない状態で、人格全体を支配した自己操縦心性が崩壊するという巨大な動揺の過程を想定しています。
 「想定しています」などという表現を用いるのも、これはひとりの人間の生涯で一度起き得るかどうかという、「臨床的観察」の困難な過程だからです。実際のところそれは「臨床的観察」を超えた、人間の「生涯の過程」そのものです。
 私自身は、自ら心理障害に陥ると同時に、その研究者でもあるという複合的人間世界を内面に抱えた前半生で、この過程を詳細に見る経験を得ることができました。これはかなりの巻数を要する長編小説の形で出したいと思っています。

 それが世にどのように認められるかに関わらず、今感じるのは、同じことが誰にでも起き得るということです。
 外的資質、社会的地位、それらが一定の価値基準の中で順序立てられたとしても、与えられた生をどれだけ自らのものとして受け入れ、その中で輝くかにはもはや何の優劣もないでしょう。いや、「優劣」という言葉を使うこと自体が誤りです。「命」が生まれ、思う存分その生をまっとうする。それに向かおうとする人間の心の闇に落ち、そこから明るい世界につながる長く暗い道を歩む体験は、誰においても、人間における多様性を超えたドラマであるように思えます。
 これは心の内面に悩む全ての人が、その克服の道のりにおいて独自のドラマを持ちえる。それを見出し、伝え、同じ道のりを歩む勇気を次の人に与える。そんな活動に私は残りの人生の力を尽くしたいと思っています。

 2つ目に、人間の変化の可能性と、その方向性です。
 このケーススタディで紹介した数日間だけでも、私は自分がもう数日前の自分とは違う人間だという感覚を確実に感じました。同じような経験が、自己分析取り組みの中で10数年、数十年に渡り幾度となく起こり得ることになりますし、実際私自身その途上にあります。
 このサイトを始めた時に、Introduction3 治るとどんな気分?の最後に「あるいは基本性格そのものが変わってくるかもしれない」と書きましたが、これが実際その通りであるのを最近感じています。
 私自身の基調感情の変化として、ゼロ線の通過は2002年4月12日の夜20時頃にありました。そうと自覚してなかったので正確に測った訳ではありませんが、もしこの状況を分かっていたら何時何分にゼロ線の通過が起きた、とか言えるような明瞭な変化です。つまり「何となく良くなった」でなく、「何時間前の自分と今の自分はこう違う」と言えるほどの変化が、いずれ自分でも把握できる形で起きるということです。

 この変化の可能性は未知数です。
 私は今だに自分が変化しているのを感じているし、その変化の量はむしろ最近の方が大きいようにも感じています。ひとことで言えば、内向的性格が外向的性格に変わるという分かりやすい変化という点でです。
 恐らくこれは、マイナス20度からマイナス10度への変化が体感的にあまり違わないのに、プラス10度からプラス20度への変化は刻々と体感される。そんな変化が人格に起こりえる。その具体的な姿を今後とも伝えることに努力したいと思っています。

 未知数の変化が起こり得るのは、未知の自分に出会うことを選択することで開かれる可能性です。
 それは「こうなりたい自分」を目指す姿勢の先にはありません。「姿」つまりイメージは、人間が生きる姿を外から一瞬の時を止めて映像化したものに過ぎません。それは「今を生きる」生命のエネルギーを持ちません。「こうなりたい自分」を目指した人間は、絵画の中に魂を吸い込まれるかのように、生きる主体としての自己を失います。
 「こうなりたい自分」を目指すのをやめるとは、「心を解き放つ」ことです。私たちは生きています。生きているから、自分がどうでありたいと考えます。その姿を思い描き、自分をそれに当てはめようとした時に、生きる力の源泉そのものが見えなくなってなってしまいます。固定化された「自分の姿」を捨て、それを生み出していた大元の感情に身を任せる。

 「こうなりたい自分の姿」を捨てることは、幼少からその中で育った巣を離れ、大界に飛び出すのと同じです。
 そこには既定の「姿」はありません。すごしやすい地かもしれないしそうでないかも知れない。自己の本能もそうです。草食獣の本能を持つ者かも知れないし、肉食獣の本能を持つ者かも知れない。説明してきたハイブリッド療法の姿勢には、本能の善悪はありません。肉食獣が自らの本能を悪と反省して草食獣になろうとすることは求めません。
 ハイブリッド療法では、全ての「生」を肯定します。

 では、この過程を通して私たちは一貫して何を目指せるのか。「なりたい自分」ではない、その目標とは?
 それは、心理構造理論の最後、「1.7 目指す人格像とは」で述べた通り、内面に矛盾を抱えないことです。心の中に亀裂があったり、対立する感情があったり、2面に分かれたりとかするのではない、湧き出るままの感情で一色の、まっさらな心。それを目指すことが、この取り組みに一貫する方向性です。
 従って、この取り組みは最後まで、自分の未知の本当の感情に出会う歩みとして行われます。

 これは最終的には、人間としての自己の本能の開放を志向します。その結果見出される自己は何か怪物のようなものかも知れません。
 ここに道徳の問題が多少絡んできます。
 「本能を開放するなど、反社会性のことだ。人間は本能と理性の矛盾を抱える存在である。」
 多くの人はその考えの中で、実際内面の矛盾を温存したまま生涯を送ります。
 しかし、カレン・ホーナイに始まるこの取り組みの理念は、それとは異なります。人間の攻撃性は、本性ではなく、本性を阻害したところから生まれると考えます。従って未知の自分に出会い、心を開放した時、その人間は自分自身と、そして他者との、調和に向かうという楽観的な見通しに立っています。
 この楽観論は微動だにしません。なぜなら性善説と性悪説は、検証する課題ではなく、私たちの選択だからです。実際人は、性善説に立つことで人を善いものと感じ、その感情の中で生きるし、性悪説に立つことで人の本性を悪と感じ敵意の中で生きます。それは答えではなくその人の生き方の表現でしかありません。

 この取り組みは、完全な性善説に立っています。
 

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