ColunmとEssay
2 心理障害のメカニズム
03 耽美的な苦しみ 2003/04/05

 「リストカットの心理」には、どうやら2種類のものがあるようです。
 詳しい話はおいといて、リストカットをする人のことを巷でいう言葉が2つあることが、それを物語っているように思われます。
 「かまってちゃん」と「ほんとにつらいちゃん」です。
 「かまってちゃん」の場合は、苦しむ自分を人に見せつけるような、なにかの機能を自傷行為が果たしているような心理メカニズムが考えられます。前のコラムの「苦しみの機能」で描いたのはそれに該当します。
 一方「ほんとにつらいちゃん」にとってのリストカットとは、何か耽美的な快楽の色彩を帯びているようなのです。オナニーのように気持ちがいいことだとか、リストカットをしないよう我慢するのが辛いという声を見たことがあります。

 健康な人間にとっては身の毛もよだつようなことが、ある人間にとって快楽となる..
 これを一体どのように理解したら良いのでしょうか。

 前のコラムで転載した小説の続きのところで、主人公は精神的に破綻して心理学や精神分析を勉強し始めた頃の自分を振り返り、昔の記録をたどる中で、自分が書いた、自殺を美化したような詩を見つけます。
 そして先に述懐した苦しみの意味とは違うものがそこにあったことを感じて、再び述懐を続けます。
 さて、夏休みも過ぎる頃になると、サークルに対する僕の感情も多少は落ち着いていくのだが、そうした中、前の「結ぼれ風」の後にサークル帳に書いた僕の文章に、どうも何か違う雰囲気があるのを感じる。

 人に何かを伝えようという「意図性」が薄れ、何か自分の世界に入り込んでいるような。。
 ちょっと「キモい」感もある(苦笑)。

 さっき言ったリストカットとかの心理には主に2つの流れがあって、それを巷では「かまってちゃん」と「ほんとにつらいちゃん」と呼んでいるようだ。
 さっき話した、この頃の僕の「高貴な苦しみ」には敵前行動的な心理があって、どちらかというと前者の「苦しみ自慢」の心理に近いものだったと思う。

 一方、この後の僕の文章に現れたのは、何か自分の苦しみを耽美的なもののように耽っている雰囲気だ。
 僕はそこに、リストカットを一種の快感であるかのように耽る女性とかの心理と共通するものがあるような気がする。

 それは、「忘我」だ。
 もう自分を忘れよう。痛みの中ででも。と。
 僕が人間心理を考えて、この忘我欲求が大きな役割をもつものであることを考えるようになったのも、ごく最近のことだ。
 自分を忘れ、大きなものに包まれる感覚の中に身を委ねる。これは人間の基本的感情のひとつなのだろう。苦しみから救われる瞬間に現れる開放の感覚、赤子が母親に身を委ねる感覚、神に祈る、霊媒になる、そうしたトランス状態、ハイビートなサウンドの中で踊り狂う、ランニング・ハイ状態..、それらには同じ感覚が底流に流れているのだろうと思う。その瞬間、ドーパミン(だったっけ?)とかの脳内麻薬が放出されるってゆうやつだ。

..(中略)..

 最後の「窓から翔んで」というのは何か自殺を連想させる文章だ。
 この頃の僕にはまだ自殺念慮というものはなかったが、そこには、窓から飛ぶという忘我状態への想いが表現されている。

 もはや苦しみ感はほとんど感じられない平穏の中で、こうしたキモい耽美の世界に向かったのは何故か。

 大きな、明白な理由がある。
 絶望だ。

 絶望があったから、苦しみの中での耽美が、輝きを持つのだ。

 いずれにせよこの時の僕は、自分の中に現れた深遠な色の感情を、少し離れた所から眺め、何かの情緒かのように表現していたに過ぎなかった。
 自分がどれほど本当に苦しんでいるのかと同様、自分が如何に大きな絶望を抱えているのかを僕が知るのは、まだ大分先のことだった。

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