ColunmとEssay
2 心理障害のメカニズム
04 自己操縦心性 2003/04/12

 「自己操縦心性」は心理障害の核となる「人格体」として私が定義しているものです。
 これは不安を背景にして人格の一部が分離発達し、独自のメカニズムの中で人格内部の分裂と葛藤を生み出し、その不整合状態や破綻状態が表面的な各種の心理障害症状として表れます。
 従ってこれを捉えて駆逐することが私の考える心理療法の中心になります。

 しかしこれはその時の本人の意識が生まれる土台であるため、本人自身がこれを捉えること、まして駆逐することは非常に困難とならざるを得ません。
 ひとことで言うと、理性による命綱を付けた上で、自らの病んだ精神部分に飛び込みその破綻を味わうことで、人格の根底が病んだ心性を自ら放棄するのを促すような過程になります。
 これをできるだけ多くの人に可能とするような、用意周到な心理療法理論を考えているわけです。

 様々な場所と文調で自己操縦心性について書いていきますが、小説の中で主人公が語っているものを、少し長いですが引用しておきます。
 精神的破綻の後に、精神分析や臨床心理学を勉強し、自分をどうにか治そうと考え始めたころの自分を振り返っての述懐です。
...もう一つの誤りとは、自分の中に潜む心の問題の強大さに気付いていなかったことだ。
 人間的意志がどんなに気高く強固なものであっても、それは意志の力で打ち勝てるような代物ではなかった。僕はやはり同じ轍の中にいた。「自分が理想通りの人間ではないことを知って成長した人間」というイメージが新たな自己理想像になっただけだったのだ。それは人にそう見せたいという仮面でしかなかった。

 このあと僕は、こうした「自己理想像を生きる」心性が仕掛けた罠の通りに動揺して行く。
 これは心理学的には「自己操縦心性」と言えるものだ。

 現実の自己に立脚して生きるのではなく、空想した自己の理想像に照らし合わせて、現実の自己がそれにぴったりと重なることを目指して生きる。
 自分の理想像を空想するだけなら、健康な心でもあることだ。だがこの心性の決定的な問題は、それが、根本的な自己否定の上で、危機感の中で成り立っていることにある。本当の自分を「駄目なもの」と否定し、その上で描いた自己理想像になり切ろうとする衝動に駆られる。やがて自分が自己を否定したことは脇に置き、意識の表面から消し去る。こうして心の底で自分に対して持っている感情と、意識の表面での自己が乖離して行く。そうして、本当に生まれ持った自己とは別の人間を生きるのだ。
 人は一度嘘をつき始めると、ほころびが現れる度につじつまを合わせようと新たな嘘を必要とするものだ。嘘が嘘を呼び、やがて最初についた嘘が何であったのかも分からなくなっていく。その行き先に待ち構えているのは、混乱の中への破綻だ。まっとうな人間になることへの絶望感が広がり、最後には全てにかたをつける自己破壊へと向かう。自己操縦心性は、まさにこの通りの動きをする。
 心理障害を生み出す人格構造の核とも言えるものだ。

 自己否定を脇に置き、無意識化するというのは、日常の生活の中で何か用事を忘れるというような単純な話ではない。
 それは僕が少年時代に、「僕だけが駄目な人間なのだ」という感情を日常の自己から切り離し、そして上村隆子への愛情を切り離した、その来歴に直結している。
 切り離された感情は、体内に閉じ込められた膿のように潜伏し、無意識となって自己操縦心性を支配する。それは別の人格体であるかのようだ。この人格構造を背景とした自己操縦心性は理性の表面で制御できるようなものではなく、思考や感情の土台のレベルで動く。どんな風に考えようとも、その自己操縦心性の中で思考が動くのだ。

 意志の力でそれを変えることはできない。
 自己を否定した来歴へ、感情の膿へと遡る必要があるのだ。

 この心性に何とか折り合いをつけ、それなりに安定した人格でいることもあり得る。世の中の多くの人は多少ともそんな部分を持っているだろう。現代の競争社会の中で十分に愛されることなく育った不安から、「良い子」「善い人」でいるよう自分を操縦する。あるいはその反対に、反社会的な人生や傲慢なプライドの中で生きる者もいる。
 その折り合いに失敗した者が心理障害に陥る。そして自分が心理障害者であるという諦めのなかでネガティブな折り合いをつけるのだ。

 僕はそのどれもができなかった。
 その心性と折り合いをつけることもできなかったし、折り合いがつかない結果の苦しみを精神の病気として諦めることもできなかった。
 それは、僕の来歴と内的外的資質、それら全ての結果として僕が抱いた自己理想像が、まさにその心性を抜け出るしかない方向を向いた、偶然の産物であったように思う。

 自己理想像を追い求める衝動が、まさにその衝動へ対決する方向へ自分を導いた。だから僕は心理学を勉強した。心理学を学んで自己操縦心性を知り、それと対決したのではなかった。
 僕がそれを知ったのは、全てが終わったあとだったのだ。

 このあと僕が向かった動揺は、自己操縦心性の動き方を典型的に示すものだ。
 まず自己理想像の方向へ向かう意志が表れ、自分がそれを達成するかのような気分になる。気分は爽快に、活発になり、生き生きと活動することもできる。
 まず必ず、自己操縦心性は自己理想像を実現したかのような上昇への方向へ向かう。何故なら、自己が現実にどうであるかよりも、自分の頭の中で自己をどう評価できるかが重要なのであり、まさに現実を重視しないその心性にとっては、自己像を描けたことが自己理想を達成しているかのような意味を持つのだ。空想の中では、どんな風に振舞うとしても何の体力もいらない。
 しかし、空想から現実へと踏み出すたびに、現実が足を引っ張る。すると自己操縦心性が裏の姿を現わす。理想的自己通りに振舞おうとする強迫は不快な拘束感に姿を変え、自分が素晴らしい存在と感じた高揚感は何の価値もない人間という自己嫌悪感に姿を変える。心性は下降の方向への駆動を始める。やがて、こうして自己を詐称した者への罰を、自らに加えるようになる。
 うつや無気力が表れ、ここで初めて人の目に触れる「症状」が表面化する。それをどう扱うか、精神の病気として薬で治そうとするか、心理療法を試みるか、宗教にすがるか、そんな流れだ。

 誰も自己操縦心性の姿を捉えていない。
 症状から逃れようとする試みも、自己操縦心性の罠の中で動き、やがて「病気」に折り合いをつけるだけだ。皆、「この病気は治すものではなく付き合っていくもの」と言ったり、「病気ではなく個性」と言ったりする。

 僕もそれを捉えていなかった。
 だが僕の心の旅は、それを捉えないまま、それに直面する方向に向かった。
それは一つの運命でもあったような気がする。

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