ColunmとEssay
4 現代と社会・症例考察その他
01 今起きた「死」を前に 2003/04/08

 私には現在ひとりだけ、心の病と闘っている女性で時折メールなどで連絡をする方がいます。
 まだカウンセリング活動などできる状況ではないのですが、その女性には自分の生い立ちに重なるものがあり、どうしても他人事と割り切れずそうしている次第です。

 その詳しい話は置いといて、その女性とやはりネットを通じてとても親しくしていた、同じ心の問題を抱えて頑張っておられたある女性が先日自宅で首を吊り亡くなっていたとのことを、昨日の朝、その女性自身のHPの掲示板への身内の方の書き込みで知りました。
 この女性とは直接かかわりを持ったことはありませんでしたが、先の女性のHPの掲示板などでお互いの存在は知っている人であり、そうして生きている身近にいた人が自殺をしたという事実を知ったとき、頭の中が白くなる感を覚えました。

 この方の日記などを見ると、この数日、元彼に虐待を受けたという怒りの中で訴訟を起こそうと躍起になっていた様子があり、その日の朝、日記に短く、自分が愛に狂ったぶざまな人間だと、「ばかなゆめからさめます さようなら」との言葉が残されていました。

 その方の死が私自身にとってどのように悲しいことかを考える以前に、心を打つのは、「死」という事実、それが今までの現実とはあまりにかけ離れたその異質性のようなものでした。
 先の女性とも励まし会う言葉を交わしたり、時には毒を吐くような言葉を自分のHPに載せたり..そうしたものが今はもう、全くないものとして、「死」の後の「無」だけがある。。
 一体何が起きたのか、これは間違いではないか、今見たことは事実ではなく、彼女は今も生きていて、何かの悪ふざけでこんなシナリオを組んだのではないか。。

 しかし、何度見てもその事実を伝える身内の方の言葉はそのままであり、それが事実であることを認めるしかないのだと告げているように思われました。

 「死」そのもののあっけなさが、逆にその重さをひしひしと感じさせます。
 彼女は実際悪夢の中を生きたような人生だったかもしれません。
 その悪夢を彼女はあっけなく自分で終わりにしたのです。
 でも、彼女はそれによってひとつの悪夢を終わりにする代わりに、残された人達の永遠の苦しみと後悔という新しい現実を、もっと多くの数の悪夢を、作り出してしまったのです。

 私は先の女性のことが心配になりました。
 彼女はまだ心の病と格闘している身です。しかも自分の片割れでもあるかのように感じていた友人の死を知っての動揺は想像するに余りあるものがあります。

 彼女自身、最近かなり辛い状況の中で、自分のHPを閉鎖するに至り、その後数回日記が更新されているのを見て、それについて彼女にメールを出し、久しぶりに気丈な文調で「がんばります」との返事をもらった直後のことでした。

 この事で彼女に何か言葉をかけようかという考えも少しは浮かびましたが、自分にはそれはとてもできないと感じました。彼女の置かれた場と私のいる場があまりに違うからです。どんな言葉をかけようにもそれはあまりに皮相なものになってしまうような気がしました。

 この出来事についての彼女の気持ちがもしかしたら書かれているかもしれない、と、唯一残っていた日記のページを見ようとしましたが、それが消されているのを見ました。
 この女性がネット上に残した痕跡も、これで全て消えたことになります。
 私は一瞬嫌な気持ちを感じましたが、すぐ、彼女が日記のページを消したことは、彼女が今行動をしている、彼女がまだ生きる模索をしていることの証だと考えることが正しいと思いました。

 自ら命を絶ったことを、もはやそこに旅立ってしまった人に責めることはできません。
 できるのは、ただ彼女の冥福を祈ることと、残された家族の方の心が癒される時が来るのを祈るだけです。

 人間の心に罠があり、そこに落ちる人がいることは事実です。
 だが、それが人間の本質ではない、それを乗り越える力も人間にはあるのであり、それこそが人間の本質であることに私は確信を持っています。
 それを支え続けること、この心の罠と闘う決意を、この出来事はより強めました。

 今は亡きひとつの魂に向けて...
 私は書き続けます。

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