ColunmとEssay
4 現代と社会・症例考察その他
02 酒鬼薔薇聖斗を生み出したもの 2003/07/16

 犯人であった12歳の男子中学1年生が補導されたばかりの、長崎男児誘拐殺人事件。
 「第2の酒鬼薔薇聖斗」という言葉を連想させる事件でした。

 以前私は、「酒鬼薔薇聖斗」を生んだ環境がどんなものであったのかと、両親による手記を読んだことがあります。
 これほど凄惨な少年犯罪者の心理を生み出すものは何なのか、もちろん私自身の心理学の目で検討しようと思ったのです。

 ところが、それは「検討する」までもない、典型的なものでした。
 何が典型的かと言うと、親の言動に子供を大きく混乱させるような矛盾があり、かつ親がそれを矛盾とは全く考えていない、ということにおいてです。
 これが、子供本人の心からすれば、かなり辛い形で、自分だけが悪者であるかのように行われる、というのがより一般的特徴です。

 子供に対して行われる歪んだ躾や養育態度の中でも、私は「嘘と矛盾」に特に注目していました。
 酒鬼薔薇事件のケースは、私が「矛盾の悪影響」について考えていた姿そのものでした。

 「暴力はいけません」という親自身が、パニックになって鬼のように叩く。
 その親自身が、「嘘をついてはいけません」という。
 これが、3人兄弟の喧嘩が起きた時に、長男であった彼だけを激しく叱る形で行われたようです。

 またこの親は自らを、「白黒はっきりさせないと」気が済まない性格といい、誰が悪いのかはっきりさせることを信条にしているようなことを述べていたように記憶しています。
 長男の躾については、「喧嘩がうるさくなると、パニックになって長男を叩いてしまった」と懐古しています。
 でも「長男の躾は間違っていなかった」「ちゃんとしつけた」と述懐していました。
 そして、自分は長男に裏切られたと述べていました。

 もうひとつ、これは私自身は特に考えていなかった、特徴的なことがありました。
 それは子供に現われた、明らかな異常性について、何かが麻痺しているような見方でした。

 この長男の場合、事件の前に既に相当の異常な事件を起こしていました。
 それでも、「心の根は優しい子」という、何かが抜けたような見方しかできなかったのです。
 そこには、自分の子供が心を病んでいるという感覚が全く欠落していたように感じました。
 いや、より正確に言えば、子供が健全に一人立ちできない姿を無意識の内に仮定している、あえて表現するならば「駄目な子供を健気に愛し支える自分」という異様な雰囲気が漂っていました。

 この手記集の終わりの方で、少年鑑別所の生活に落ち着き始めた少年の述懐が、私の胸に痛く響きました。

 夢を見たというのです。
 誰かが自分の首を絞めようとしている。
 苦しみながらその男の顔を見たら、それは自分だった、と。

 上に述べた親の方は、心理障害と診断されることもなく、その思考の矛盾を指摘されることもなく、この少年に命の尊さを教えることに残りの人生をそそぎたいと述べていました。
 これを読み終えた時、真の悪魔は、誰の目にも全く触れることなく、この親の心の中に生きているかのような印象が残りました。


 さて今回の長崎の事件ですが、まだ詳しい生育環境は伝えられていない現在において、すでにある特徴が目を引きました。
 それは、この犯人の少年が、「成績も良く礼儀正しく優しい子」、「どこにでもいる普通の子」が、近隣住民の見た姿だったということです。

 しかし本当にこの少年の心がどうなっているかという目があれば、決してそのような言葉は出なかったはずと考えています。
 実際、幼児としか遊ばない、同級生達の言葉から伝えられる「頭がいいけどキレると恐い」、幼稚園でも良く癇癪を起こし、思い通りにならないとハサミを振りまわしたりした、等、明らかに心を病んでいる兆候が現われていたようです。
 このような子供の心の変化を見る目がない。それが日本の平均的大人像なのでしょう。

 そもそも、このような事件を「どこにでもいる普通の子」が起こした事件として驚く見方、そしてこのような「子供の心理の解明」が必要だと、未知の事態が起きたかのように伝えることが、社会一般の人間心理への不理解を象徴しているように感じます。

 この少年の残虐性が、果たしてどのような環境から生まれたのか。

 酒鬼薔薇事件の場合は、長男が下の兄弟に対して、かなり不公平な叱られ方をしていたことに、幼少の者への攻撃性が生まれたことが、典型的ケースとして考えられました。

 今回の長崎のケースでは、幼少の者へ特定的に情動が向けられた背景を示す情報は、まだ目にしていません。

 一方で、酒鬼薔薇事件と強烈に共通する特徴がすぐ目を引きました。
 幼稚園でハサミを振りまわした件についてたしなめる保育士に、この親は不満を示したというのです。
 「子どものわがままを優先させてほしい」と。

 マスコミでは「溺愛」と言う言葉が伝えられましたが、この言葉ではあまりに本質が欠けているように思います。
 「溺愛」が必ずしも子供の心を病ませるとは言えないと感じます。

 しかし明らかに子供の心を病ませた特徴、それは上に述べた、「子供の情緒が未熟で一人立ちできない」という前提を押し付けているかのような形での「溺愛」です。
 これは、常に親の励ましがないと子供が決断できない、行動できない、という姿として、子供の心を病む典型的なパターンのひとつです。
 このような環境で子供が自分への自信を激しく損なって育つのは火を見るより明らかです。

 今回のケースでは、酒鬼薔薇事件に比べ残虐性の程度は下がると思いますが、小学校1年の頃に親の離婚と復縁を短期間の内に経験した経緯あたりに、何かより幼少者への情動性を作るきっかけになるような要因があったのではないか、と想像しています。

 少年犯罪の防止については主に「命の尊さを教える」という言葉が言われますが、大人自身、今の世の中で実際に起きていることも含めて、いかに矛盾や嘘のない、押し付けでない話としてそれを説明するか、が問われているように感じます。

 ここで話を終えたいところですが、では私ならどう説明するのか、と聞かれたら。

 子供に「命の尊さって何?」と聞かれたら「そりゃ誰だって自分の命は大切だよ」と言ったことしか説明しないと思います。
 それ以上の説明をするとしたら、真摯な宗教思想が問われます。それを欠いた説教は押しつけになりがちですし、私自身は宗教心はありません。健康な愛情を子供に注ぎ、子供自身の事については対等な個人として自由にさせるので十分と考えています。

 もう少し子供の年齢が上がり、真剣にその問いを考えるのであれば、世の中には「善悪思想」と「契約思想」があり、私自身は前者には立たず後者に立つことをありのままに説明したいと思います。その上で、心理的健康や社会におけるルール違反の処罰の問題として、それらを説明したいと思います。

 
 
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