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ハイブリッド心理学辞典
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歩みの学び
 歩み-1 心の問題の仕組みとその克服

歩み1-2 心を病む仕組みとその克服
基本説明理解の前提  「半夢状態」という「心の病み」の根核  「心の病み」の発現と克服のメカニズム  理解のポイント
「心の病み」の理解への基本的視点
病んだ心の特徴要素・・・度を越えたマイナス感情/情動の荒廃化/論理性の歪み/自己の分裂と疎外  心の健康への基本課題
心が病むまでの心理メカニズムの流れ
心理メカニズムへの視点  3つの初期成長段階の位置づけ・・・基本情緒傾向の発現と刷り込み/「心と魂の分離」/生き方思考の基盤の醸成/「人生」への意識の始まり/「思春期要請」  心が病むまでの心理要素の流れ・・・「根源的自己否定感情」/「感情の膿」/「情動の荒廃化」の始まり/「否定価値感性」/「受動価値感性」/「なるべき自分」と自己処罰感情/「情動の荒廃化」の進行/「自己操縦心性」と「外化」/「情動の荒廃化」の膨張  「現実の否定」という「心の病み」の本質
「心の病み」の克服(1) - 「心の病みの治癒」と「心の成長」
「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」の治癒メカニズム  「成長」の一環としての「治癒」  「心の死と再生」  「自己操縦心性の崩壊」から健康な心での「脱皮成長」へ  「受動価値感性」からの抜け出しと「心の死と再生」  「成長」への「真実」へと向かう  「命の生涯」という「見えない真実」  「心の病み」の治癒と「心の死と再生」  一貫した成長の歩みへ  歩みの段階に応じた成長への根底テーマ
「心の病み」の克服(2) - 「心の病みの治癒」と「成長」を決する3つの根本姿勢意識姿勢の3つのテーマ  「青年期」という節目・「現実を生きる」という生き方モードへの転換  心の病みの治癒  前進への転換  「心の豊かさ」への飛躍的変化  「魂の愛への望み」の感情への向き合い  「命の生涯」への回帰・「治癒」を超えた歩みへ
最終更新:2019.5.20
基本説明 
「病み」とは「健康を損なった病的状態」のことであり、「心の病み」とは一言で、「度を越えたマイナス感情に不合理に心が支配される状態」だとまずは定義できるでしょう。
2つ側面があることになります。
まず「度を越えたマイナス感情」という、感情情緒面問題
そして「不合理に心が支配される」という、思考、あるいは意識明晰性における問題

・理解の前提
この詳しい理解にあたり、まず前提として押さえておきたい観点2つあります。
一つは、という身体面健康を損なっていることによる症状病状は、ここで言う「心の病み」とは一応別のものとして考えるという前提です。これについてはハイブリッド心理学専門外であり、あくまで脳そのもの健康状態において起き上記状態を、「心の病み」として考察します。

そしてもう一つ心理学からはこれが重要重大視点になりますが、「単なる」「未熟」はこれもまた「病み」とは分けて考える、ということです。
つまり、問題対処知恵持たなかったり、「若さ」ゆえの「心の弱さ」といった「未熟」重なることで、いとも容易「度を越えたマイナス感情に不合理に心が支配されて」しまうのが、人間というものなのだということです。
重要なのは、そこからどう「成長」へと転じることができるかです。自分未熟認めることができ、問題解決向上への知恵学ぶことができた時、何よりもそれによって得る前進力の感覚こそが、マイナス感情動揺吹き飛ばす力になるでしょう。一方、そうできずにただ不遇不満かこつ時、何より自ら前に進む方向と力を見失ってしまうことが、この人ストレス打ち負け心を病むような姿にも陥り得る、最大原因になると言えるでしょう。
そこには確かに、結果として「心を病む」という問題があるとしても、根本的原因、そして克服テーマとしてあるのは全て「未熟」という問題なのだ、と言えるようなものとしてです。少なくとも身体的健康損なわれていないのであれば。
それでもやはり、「単なる未熟」ではすまない問題加わることがある。これがまさに、ハイブリッド心理学「心が病むメカニズム」として注目するものになります。

・「半夢状態」という「心の病み」の根核
実はこの「心が病むメカニズム」原型もしくは示唆形とも言える、健康な脳で起きる現象を、私たちの誰も知り、そして限りなく例外ない全ての人が、実際体験しています。私たちはそこでしばしば理不尽な感情に不合理に翻弄される自分自身目のあたりにするものとしてです。
睡眠中「夢」です。
当然そこでは、理性による感情コントロール利きません。「単なる未熟ではすまない問題」とは、まさにこれに関係しています。つまり、起きながらにして半部夢を見ているような、「現実覚醒レベル」が低下した意識状態に置かれる。これが「心の病み」呼ぶものの、根核になるものだとハイブリッド心理学では考えます。それによって、「度を越えたマイナス感情に不合理に心が支配される状態」が、明晰理性によるコントロールできなくなってしまうのだ、と。
これを踏まえれば、「心の病み」定義をこう言い換えることができるでしょう。それは、「半夢状態の中で度を越えたマイナス感情に心が翻弄される状態」だと。

・「心の病み」の発現と克服のメカニズム
そうした「心の病み」がどのように生まれ、そして根本克服されるのかについて、ハイブリッド心理学明確独自理論を持っています。
一言でこのようにまとめられます。まず「幼少期」の否定的体験によって、人の心に、マイナス感情の塊である「心の闇」が埋め込まれる。その際、幼い心では受けとめることのできない破壊的な恐怖や破滅の感情は、単純な「切り離し」のメカニズムによって心から抑圧され、「なにごともなかったような平静」が「学童期」までの間は保たれる。しかし「思春期」となり、人生形成への脳の成長変化に伴い、もはや単純な「切り離し」ではすまなくなった恐怖や破滅の感情「膿」のように意識下でくすぶり始めると同時に、この世界と人生に破滅の恐怖が潜んでいるという観念に脅かされた半夢状の意識状態が出現するのだ、と。
それが、ハイブリッド心理学「自己操縦心性」と呼ぶ、「病んだ心」メカニズムです。
克服についても続けましょう。「病んだ心」からの抜け出しは、社会へと自分の足立って歩くことが課題となる「青年期」において、この人人生歩みにおける大きな転換点として訪れ得るものになります。
それは、「現実」へと向かって生きようとする心の動きが空想上の自己破滅の可能性をとらえて起きる絶望感情を、現実において破滅はないという認識を保ちながらただ流すことによって、「今までの心が死に、新たな心が再生する」という「心の死と再生」として生まれる、というものです。これを「自己操縦心性の崩壊」による治癒呼んでいます。
これがまさにこの人の、人生への旅立ちになるでしょう。

・理解のポイント
理解ポイント2つになるでしょう。まず、この人人生しばしばこうむることになるであろう悪感情動揺原因として「心の病み」役割です。
端的に言うならば、これはゼロなのだというのがハイブリッド心理学考えです。例えば腫瘍のせいで頭痛起きるというような「原因」になるものとしてではです。
つまりまず幼少期否定的体験により「マイナス感情の塊」である「心の闇」植えつけられてしまうこと、そしてそこにさまざま「未熟」要因重なることで、いとも容易「度を越えたマイナス感情に不合理に心が支配される状態」になってしまうのは、健康な心働きとしても十分理解できることであり、そこにある「未熟」を認め、心の学び人生歩むことでやがて根本的な克服へも至り得る道が、私たちのには用意されています。ここまで問題全て「未熟」起きたことなのだと言えます。
しかし「単なる未熟」ではすまないものとして加わる可能性があるのが、破滅的恐怖や絶望感情「抑圧」され「膿」のようにうずくことで生まれる半夢状の意識状態であり、そこでは悪感情動揺理性的コントロール利かなくなる。ハイブリッド心理学では、「心の病み」厳密にはこの要素のみ指すものとして定義しています。
睡眠時の話で言えば、「夢に感情が映し出される」のであって「夢が感情を生み出す」のではないのと同様、「心の病み」悪感情動揺生み出すのではなく特有の形でその抜け出し克服困難にさせるのが「心の病み」だということです。悪感情動揺生み出すのは病みではなく、あくまでその人未熟なありかた全体です。
この点では、冒頭指摘した情緒面および意識明晰性における問題という2つ側面の内、厳密心の病み側面とは後者なのだ、ということになります。

そうして平常意識内での克服困難となる心の病み状態は、どのよう克服され得るのか。
それは「心の死と再生」を取る。これが理解ポイント2つ目になるでしょう。今の心はもうこの先立ち行かないという「完全な絶望感」一度おおわれ、「精神の死」とも言える状態経て、しばらく時間を置いて、雑念雑情が消えた、すがすがしく軽快な心の状態生まれる、というものです。
実はこの「心の死と再生」は、私たち人間飛躍的成熟するための、基本的メカニズムだとハイブリッド心理学が考えるものです。そこで人の心成熟させるものとは、意識表面絶望感どのようなものかよりも、それまでの、成熟できずに空回りしていた心打ち破られること、そして今まで置き去りにされていた、自分自身心の底「命」の重みのある感情接することです。加えて、意識表面絶望感越えて、いかに心の底成熟した心への視野持っているかが、になるでしょう。
病んだ心からの抜け出しにおいてはそれが、「現実に向かって生きる」という青年期課題に、思春期において発動した「病んだ心」である「自己操縦心性」自らに絶望するような打ち破られ心の底のように置き去りにされた、幼少期の、出生への深い絶望と破綻の感情あらわになる、というになります。
そこで吐き出され絶望感同様に、理性的コントロール利かないものであり、基盤まだ弱いこの段階だけに、「希死念慮」「自殺衝動」への危険出てくる可能性考慮する必要があるでしょう。それでもこれをなんとかやり過ごした後、必ず劇的に健康度を増した新たな心の状態出現するのです。何よりもこの心の仕組み本人伝えることが、心の病み乗り越え健康な心での新たな成長の道向かうための援軍になるででしょう。

病んだ心「発症」から克服までの心の仕組み流れとしてあるのは、ここで述べたものだけだとはもちろん考えません。
それでもこれが、人の人生宿命のように用意された、一つの道だとハイブリッド心理学は考えるのです。「愛」求め生まれ出た幼少期躓きを抱え、思春期情緒不安定になり、そして青年期入り口において心の危機迎え、そこにある病みから何とか抜け出す。そうして人生へと歩み出す人が決して稀ではないのが、「人間」という不完全存在の、一つ姿なのだ、と。
同時これが、単に病んだ心から健康な心への抜け出しであるのを超えて、この後人生における、未知の異次元の心の豊かさの世界に向かっての心の成熟変化の、原型にもなるものであるのをハイブリッド心理学は見出します。
「今までの心」打ち破られ置き去りにされていた「魂」感情向き合う時間を経て、「命」が、この人間に、より豊かさを増した新たな心芽生えさせる、という変遷変化です。ここでその変化内容一言表現しておけば、それは「人の目」の空想の中で生きようとした心死にまっさらな「現実」に向かって「命」のありのままの前進力によって生きる心増大していく変化だと言えるでしょう。

以下にて細かい観点ごとにハイブリッド心理学考えを説明します。
「心の病み」の理解への基本的視点
心が病むまでの心理メカニズムの流れ
「心の病み」の克服(1) - 「心の病みの治癒」と「心の成長」

「心の病み」の克服(2) - 「心の病みの治癒」と「成長」を決する3つの根本姿勢

「心の病み」の理解への基本的視点 
「心の病み」理解するための基本的視点は、
1.まずはどのよう「心の状態」「心が病んでいる」というものとして捉えるのか、特徴要素分析整理明瞭にする、そしてに、
2.その「原因」探求究明するという、2段階のものになります。

「原因」への理解視点が、同時に、克服へのアプローチ視点大枠決めると言えるでしょう。
大きくはまず脳生理学的学的アプローチ視点と、心理学的アプローチ視点分かれると言えるでしょう。脳生理学的学的視点としては、損傷病変として、「神経伝達物質」ホルモン機能的不調原因なのだというアプローチ視点取るならば、克服「薬」や、食事および運動など生活習慣改善だという考えになるでしょう。
心理学的視点としては、この人外部から受け「心の傷」によるものだと考えるならば、克服のためには、この人辛さ理解寄り添うような援助必要だという考えになるでしょう。根本的原因はそれよりも、この人自ら前進成長するための方向見失っていることにあるのだ、という考え取るならば、自助努力型ノウハウを伝え、それをどう選択実践するかは最終的には本人委ねる、というアプローチになるでしょう。
ハイブリッド心理学は、ここで述べた3つ目のものに該当するということになります。
この3つアプローチのうち、結局どれが一番正しく適切、あるいは効果があかという議論は、ハイブリッド心理学ではしません。結局、人それぞれだと考えます。日常生活妨げられるほど精神的困窮にあるのであれば、やはり寄り添うような援助の手が求められるかも知れませんし、外面的には比較的問題なさそうな一方で面に深い混乱感じている、そして何より自らの成長望むケースにおいて、ハイブリッド心理学のようなアプローチ役に立つでしょう。心理的というのは考えられないというのであれば、まず生活習慣改善徹底的取り組むのもいいでしょう。

・病んだ心の特徴要素
ここではまず、どのアプローチを取るにせよ押さえておきたい、「心を病む」とはどのような状態を言うのかの、心のあり方特徴要素について、ハイブリッド心理学考えをまとめます。
基本説明で述べた「度を越えたマイナス感情に不合理に心が支配される状態」という定義が、詳しい考察への入り口になるでしょう。そこには大きく感情面思考(意識)の明晰性の面における問題がある。より詳しくどのよう問題として、それを把握できるか。
『理論編上巻』では、病んだ心における「病理」つまり健常との違いとなる本質的特徴を、「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」「論理性の歪み」4つとして整理しています。「度を越えたストレス」「度を越えたマイナス感情」とした方が分かりやすいかと思います。「自己の分裂と疎外」感情思考両面にまたがる、「人格統合」における問題と言えるでしょう。
簡潔にまとめるとのようになります。

問題領域 特徴要素 特徴内容
感情面 度を越えた
 マイナス感情
その人が置かれた現実の状況に比べて、不釣合いな強さもしくは長さで、怒り悲しみ怖れ不安絶望感といったマイナス感情にある。あるいは訳もなくそうしたマイナス感情にしばしば駆られる。
情動の荒廃化 攻撃性、破壊性を帯びた感情頻繁湧くようになる。この結果3つタイプ心の状態生み出すと言えるでしょう。
a.攻撃性自制をあまり伴うことなく外部向かう粗暴な人間像につながる。
b.攻撃的感情自制おおう全般的な感情制止生まれ内面的閉塞不活発な人間像につながる。
c.破壊攻撃の衝動自分自身向かう激しい自己嫌悪感情や、悶絶するような苦しみ精神状態を生み出し、自傷自殺企図危険が出てくる。
思考(意識)
 の明晰性
論理性の歪み
(現実覚醒
レベルの低下)
一つ一つ観念つながり方である「論理性」が、正常性明晰性を欠いたものになってくる。極端決めつけ支離滅裂荒唐無稽(こうとうむけい)といったものへ。
ただし論理的思考得手不得手やその内容明晰性による心の病み以前問題でもあり、心の病みにおいて起きる問題とは、その人なり論理的思考が意味を成さなくなるような、起きながらにして夢の中にいるような、「現実覚醒レベル」が低下した意識状態だというのがハイブリッド心理学の考えです。それにより、感情による操り人形のような心の状態になってしまうことだ、と。上述のような感情によるものとしてです。これが「病んだ心」おおよそ構造だと言えます。
人格統合面 自己の
 分裂と疎外
自分自身から遠ざけられる。また自分というものが一つのまとまりあるものでなくなってくる
これは基本的には、自分の感情への向き合い方誤り、そして自分というものの育て方への無知積み重なった結果だとハイブリッド心理学は考えます。つまり上述のような心の状態悩む中で、根本克服への知恵持たないまま、自分の感情にふたをしたり、別の自分を演じてみるといった対応繰り返す先に、自分というものが分からなくなり収集がつななくなるという、さらに混迷加える結果へと至るものです。
「度を越えたマイナス感情」も、こうした心の状態最終的表面表れるもの理解できます。

*なお自分の思考自分のものでなくなり幻聴として体験されるといった統合失調症状レベルのものは、脳機能レベル健康損なっていることが考えられ、理解の前提として述べた「心の病み」範囲越えているのではないかというのがハイブリッド心理学での考えです。

・心の健康への基本課題
上記のような病んだ心特徴要素はそのまま、心の健康への基本課題示すものだと言えるでしょう。
つまりそれは、
 「これが自分の感じ方であり考え方だ!」自信をもって前に進むことができるような、一貫した自分の確立へと向かう
 空想やイメージで惑う心抜け出し「現実」しっかりと足をつけた前進へと向かう
 すさんだ心抜け出す
といったものです。それにより「度を越えたマイナス感情に不合理に心が支配される」ということも、なくなっていくであろうと。
ただしこれはもちろんごく輪郭であり、より具体的に、私たちの生き方姿勢思考法行動法、そして内面感情への向き合い方どう変えていくのかの内容重要になってきます。
それはまさしく、上記のような病んだ心特徴要素が、私たちのどのような生き方姿勢や思考法行動法、そして内面感情への向き合い方の中で生まれるものなのかという心理メカニズム詳しく紐解いていくことにより、浮き彫りになっていきます。
それをの「心が病むまでの心理メカニズムの流れ」で整理します。

心が病むまでの心理メカニズムの流れ 
・心理メカニズムへの視点
健康起きるものである限り、私たちは心が病むメカニズムというものを、健康な心からも多少とも共感できるで、来歴における感情と思考そして「感性」の連鎖的変形として理解できるはずだ、というのが島野考えです。そこに克服への取り組みも、ふんだん示されるであろうと。
事実島野によるこの心理学整理も、高校時代視線恐怖症対人恐怖症始ま自ら心の問題取り組むため、大学院まで心理学を学び、その後長い社会人生活を経て大きな心の健康と成長、そして成熟得た体験をもとに行っているものです。
そこで私が最初取り組んだのがカレン・ホーナイ精神分析学であり、病んだ心構成する感情動きを知り、自己分析によってそれを自身の中で確認していくというものでした。それが程なくして、私の中病んだ心自らに絶望するような崩壊健康な心回復するという、「心の死と再生」を取った最初大きな治癒転機生み出したのが、大学4年時のことでした。そして大学院では「論理療法」「認知療法」から、自ら心の健康へとより積極的方向づけることを学び社会人になってからは心の問題克服超え社会で強く生きるための行動学学び実践することも携え最終的には人生の歩みそのものが、大きな心の豊かさへの成熟生み出す至りました。

そこで結局のところ「治癒」「成長」そして「成熟」生み出すのかという考察の「「心の病み」の克服」にゆずり、ここでは、心が病むまでの過程健康な心からも共感できるものとして理解するならばどのようなものになるかという、心理メカニズムをまとめます。
実はこの健康な心からも共感できるというところに、病んだ心治癒への原理一つ示唆されることを指摘しておきましょう。つまり、病んだ心の特徴要素で述べたように自分自身から遠ざかるマイナス感情度を越えた不合理なものへと膨張したという経緯がある状況において、心が病む過程への学びとそれに基づく自己分析が、自分自身を取り戻し本来の克服力を回復させるための、一つ道筋なり得るということです。そこに、自己分析というものが、単に理屈で追うようなものではあまり意味はなく、健康な心の部分足場にした、置き去りにした自分自身への深い共感というものがいかに伴うものとして成されるか重要になるゆえんがあります。これについて詳しく実践5-2 「自己分析」説明しましょう。

心が病むまでのメカニズムとは、それを最も大きく俯瞰したものが冒頭の「「心の病み」の発現と克服のメカニズム」に記したものであり、手短に言って「幼少期に心に何らかの闇が埋め込まれ、思春期になって不安定な心の状態が表面化する」というようなものです。
どのようなアプローチ取ろうとするのであれ、心の問題取り組もうとする専門家恐らくは全てが、こうした認識には同意するでしょう。ただしそこからさらに詳しい心理メカニズム紐解き、そこに克服への見出そうとする立場取るものは少ないかも知れません。ハイブリッド心理学これ属することになります。
ハイブリッド心理学からの理解ポイントは、「幼少期」を発する心の闇と、「思春期」発動する病んだ心という2つ狭間にあって、一見して「何も起きない」ように見える「学童期」実は起きている感性の歪みや、家庭学校などから文化的にも植えつけられると言える、人生生き方姿勢基礎となる柔軟性を欠いた善悪思考などの心理要素重要視することです。他ならぬそれこそが、実は病んだ心の中で動揺する感情や思考の内容そのものになるのだ、と言えるものとしてです。これは同時に、病んだ心の種が最初に埋め込まれるのが幼少期である一方、その克服への種が最初に埋め込まれ得るのが学童期なのだ、と言えるものになります。そのから茎葉が育ち花開くものが健康と成長への心の基盤実践の学び全体示すようなものに他ならない、そのようなをです。
もう一つポイントは、感情動揺単なる未熟では済まないものになる、「病み」特徴要素が、どの心理要素働きとして起きるのかというテーマになるでしょう。これは同時に、その治癒「心の死と再生」になるとはどういうことかというテーマでもあります。

・3つの初期成長段階の位置づけ
ハイブリッド心理学が考える心が病むまで心理メカニズム流れは、「幼少期」「学童期」そして「思春期」という3つ「初期成長段階」をまたぐものです。
まずこの3つ初期成長段階位置づけとして、押さえておきたい主なポイントまとめると以下のようになります。

成長段階
 (目安の年齢)
位置づけ
 ポイント
説明
幼少期
 (4歳頃まで)
基本情緒傾向の
 発現と刷り込み
生まれ持った性格現れてくると同時に、この幼い時期回りの環境との関係体験した感情が、脳に刻み込まれ染みついたかのように、後の人生でも頻繁流れるものになる、という仕組みが考えられます。マイナス感情染みついたものは「心の闇」位置づけられ、その克服テーマになってきます。
・「心と魂の分離」 出生してからの「意識構造」変化という、少し難解視点です。
私たち人間は、最初「自分」「他人」そして「自分」「外界」という区別不明瞭な、渾然(こんぜん)とした意識状態この世生まれ、やがてもの心がつき「自意識」芽生えることによって、明晰意識かね備わる同時に、大元「命」からはがれた薄っぺらいものとして働くようになる、というのがハイブリッド心理学考えです。それにより私たち人間「心」は、基本的「命」重み見失った浅はかなものとして働くのが宿命である、と。これを「心と魂の分離」と呼び、「幼少期」終わり告げるものになると位置づけています。
私たちが幼少期ことあまり良く思い出せないのも、単に時間経過により記憶が薄れているのみではなく、この「意識構造の違い」によって、もの心ついたの私たちの意識からはそれ以前意識世界「見えない」ものになっているということではないかというのが島野考えです。
恐らくはそのせいか、自ら心の闇由来遡ろうとする自己分析は、それがなぜ、そしてどのように始まったのかが見えない壁のようなものに突き当たることがあります。たとえばそれが回りの人々分厚いガラス隔て孤独感のような場合、「自意識」持ったことで、意識構造レベル周りとの渾然一体失ったことそのものが、実は私たちの孤独感最大由来だったのかも知れません。
これもやはり、ハイブリッド心理学取り組み歩み最後にその答えが示される、克服課題になります。

学童期
 (4歳頃
  〜10歳頃)
・生き方思考の
 基盤の醸成
幼少期情緒基盤醸成時期であるのに対して、学童期思考基盤醸成時期だと言えます。
感情気分でものごとを思考するのではない、論理的思考、そしてなるべく科学的な思考できるようになること、また善悪を決めつけずに柔軟な視点から考える人にどう言われるか自分でどう考えるか、どうしたいか考えられることなどが、思春期からありがち情緒不安定、さらには陥る可能性のある心の病み傾向からの抜け出しへの助けになるでしょう。

思春期
 (10歳頃
  〜18歳頃)
・「人生」への
 意識の始まり
第二次性徴発現中学進学などの契機にも伴いこれから進学交友恋愛、そして「人生」というものへの意識強く芽生え「自意識」強くなる時期です。
・「思春期要請」 思春期においては、「子供から大人への転換期」であることに対応して、いくつか課題テーマ心に強く作用し始めることが考えられます。ハイブリッド心理学ではこれを「思春期要請」と呼び、次の3つが考えられます。
「自信への要請」・・・自分自信持てるようになること
「愛の獲得への要請」・・・「異性の獲得」中核とするようなものとしての「愛」得ること
「人格統合への要請」・・・内部矛盾亀裂抱えない、一貫性のある堅固な自分築くこと
一言でいえば、前2者追い立てるように動かしに説明するような学童期までマイナス要因と、若さによる未熟誰も不可避心の浅はかさによって、その向かい方揺れ惑うという、それから人生における心の惑いと病み主題内容テーマと言えるものになります。一方最後「人格統合への要請」は、心の健康損なわれ病みの傾向現れてくるという、心の器状態関係します。
にて、心理要素流れを詳しくまとめます。

・心が病むまでの心理要素の流れ
幼少期「心の闇」埋め込まれ思春期「病んだ心」発動する。
この流れ詳しく見ると、以下まとめるような心理要素働くハイブリッド心理学では考えます。
心理メカニズムへの視点で述べた通り、健康な心からも共感理解できるものとして、始まり要素からほぼ自動的に連鎖展開していくものであること、病んだ心表面化する学童期段階において起きている感性の変化、そして思春期発動する病み本質決定づける要素、といったものが理解ポイントになります。克服への視点をあわせて記しておきます。
それぞれ心理要素につき、各ページにてさらに詳しく説明します。

成長段階
-問題テーマ-
心理要素 説明 克服への
  視点
幼少期
-「心の闇」の
  埋め込み-
「幼少期の周囲(主に家族)との間での否定的体験によって、脳に染みつくかのように蓄積したマイナス感情の塊」を、ハイブリッド心理学では広く「心の闇」呼んでいます。に以下2つ側面があります。
・「根源的
 自己否定感情」
自分がこの世に生まれ出るにあたって否定拒絶された存在だという、漠然として深い自己否定感情漠然とし強い不安恐怖・不信と怒り・失意悲しみなどを伴います。
「自他未分離の渾然意識」生まれたものであることに対応し、なぜそれが始まり、どう克服できるものか見えない、その分深く広範囲な影落とすものになることが考えられます。その始まり原因一面は実は外部出来事ではなく心と魂の分離」そのものだったのかも知れません。

成長成熟
 の全体
・「感情の膿」 幼少期における否定的体験幼い心そのまま感じ取るのはあまりに惨く精神破綻まねく恐れのあるような破壊的色合いの感情部分は、防衛メカニズムにより意識から切り離され代わりに、まるで脳内潜む毒素のように蓄積残る、というメカニズムが考えられます。思春期以降にそれが「破滅が迫る」という焦りストレス、そして日常的流れ重苦しい感情になる、と。
ハイブリッド心理学では、この「感情の膿」「病み」の要素を決定づけるものになると考えています。ただしそれは単独切り離して考えることはできず、以下に展開する心理過程全体との一体の中で作用するものになります。
「感情の
膿の放出」

 の
治癒
学童期
-歪んでいく
 感性-
「学童期」は、幼少期始まった心の問題思春期表面化するまでの、いわば潜伏待機期間であるような印象も受けます。しかし表面ではあまり目立たないまま、病んだ心動揺する感情方向性は、学童期から形づくられていくとハイブリッド心理学では考えています。そのため学童期は、それに対抗し得る感情動揺病みの傾向克服へのとなる姿勢醸成時期としても重要になります。
・「情動の荒廃化
 の始まり
病んだ心基本的特徴要素である「情動の荒廃化」が、「心の闇」からの直接的連鎖として、もの心ついた時点すでに始まっていることが考えられます。それは「望みの停止」により進行するというメカニズムであり、「何かが妨げられた」という深層感覚による、漠然とした怒りから始まるものとしてです。
情動の荒廃化は、この後心理要素の流れで、雪だるま式膨張悪化する傾向強くなり、「度を超えた悪感情」土壌になります。
・「否定価値感性」
 (「否定価値感覚」)
「否定できることを良しとする」という感覚感性が、学童期段階醸成されると考えられます。
これは心の病み傾向有無超え幅広く、私たち人間「宿命的不合理」と言われる心の業の、正体だとハイブリッド心理学で考えるものであり、置かれた現実状況に比べて不釣合いに不幸でいるという「心の問題」全体で、大きな要因位置づけるものです。
流れとしては、幼少期からのマイナス状況に応じ進行始めている情緒の荒廃化と、人間心の業心理要素結びつく、というものになるでしょう。それにより、すさんだ怒り攻撃の衝動が、ブレーキを働かせるどころかターボエンジンのように加勢を加えて自他に向けられ、情緒の荒廃化膨張させる、大きな土壌になります。
否定価値感覚成り立ちから克服までは、実践-6 「否定価値の放棄」の根本的選択詳しく説明します。
・「受動価値感性」 「受動価値感性」は、「望みの停止」緩やか働いて起きる感性の歪みと言えるものであり、「価値」というものを、自ら自発的感じ取るのではなく、人が自分にどう接してきたかを受けて、つまり「人の目」を通して感じ取るという、価値感じ取り方歪みです。何を望む自分では決められず望むなら自分望めるという依存性人生で目指そうとするものが、外見容姿性格印象地位財産など、「人の目」の中での見栄え体裁基準傾くという人生価値の浅薄化など、私たちの広い影響与えるものになります。
これは「人の目の中で生かされる」という私たち人間「宿命的不完全性」であり、誰もそうした面持つと言える一方、「人の目」空想ストレスの中で意識まとわりつく、そして自分「本当に望むもの」分からなくなる、さらに自分に嘘をついて望む、といった歪み出るにつれ、心の病み結びつくものになってきます。心の病みではなくとも、私たちの心の未熟による惑いとそこからの抜け出しによる成熟という、人生の舞台これなのだと言えるでしょう。
・「なるべき自分」
 と自己処罰感情
幼い心なりに「自意識」働くことで、やがて「なりたい自分」描くという心の動き出てきます。そこにこれまで心理過程投げかけ、歪み生じさせます。根源的自己否定感情抱えた場合、自己理想はそれを塗り消し葬り去るためのものとして、融通きかない「なるべき自分」として自ら課せられるものになります。一方否定価値感性により、理想満たないものを容赦なく攻撃否定する心の動きが生まれ、他人のみならず自分自身へも向けられるようになります。そこに受動価値感性加わると、「人の目」のために別人を演じる薄氷へと強いるものへ陥っていきます。
やがて、病んだ心「病状」になるとも言える感情エンジンが、この人備わります。それが「自己処罰感情」であり、血が逆流するような感覚目まい腹痛頭重頭痛吐き気重石を乗せられたような倦怠感などの体調不良を伴うような自己叱責の感情です。これはまるで、この人出生に際して「獲得」した悪感情全て練り上げた爆弾自ら砲撃するかのようなものだと言えるでしょう。
・「情動の荒廃化
 の進行
自己処罰感情は、さまざま「断念」引き起こしがちです。自己理想断念「取り下げ」や、との関係についての断念です。
これが「望みの停止」による情動の荒廃化一次元深めるものになります。「どうせ自分なんて」という断念いったん静まったかのに、他人の邪魔やアラ探ししたいなど、はっきりすさんだ衝動芽生えてくるでです。これがさらこの人自己認識悪くし、さらなる断念望みの停止起きさら情動の荒廃化深まるという坂道がそこにあります。
思春期
-病んだ心
  の発動-
上記の心理要素は、学童期までは「そんな面もある」程度自他により認識されたとしても、人生を生きる困苦として感じるようなものでもなく、その連鎖展開緩やかであるのが大抵です。
それが思春期となり、一気連鎖展開膨張激しさ増す同時に、人生を生きる困苦としての姿示すようになります。これはまさしく今までは結局スクールバス乗った中でのことのようなものだったのが、これから自分運転して進むことを求められ、事実気づいた時にはすでにそのつたないハンドルさばきによって心もとない場所来ている、というような状況と言えます。
これは思春期要請によって、まず「自信と愛の獲得」という人生課題への号砲心の中打ち鳴らされたことに加え「人格統合への要請」作用によって、今まで切り離してきた心の闇が「意識に組み込まれる」という仕組み動くのだ、とハイブリッド心理学では考えています。同時にそこに、「病んだ心」発動する仕組みがある、と。
・「自己操縦心性」
 と「外化」
「自己操縦心性」とは、ハイブリッド心理学「病んだ心」メカニズムとして考えるものであり、一言「現実と空想の重みの逆転により、根源的自己否定感情を否定し去ろうとして動き、感情の膿の圧迫に応じて現実覚醒レベルが低下した状態で動く人格機能体」定義できるものです。
そこでの思考感情内容は、上記心理過程を受け、「こんな自分だとこう見られる」というものが中心になりますが、空想により引き起こされた感情によって操り人形のように突き動かされ、本当の自分が分からなくなってしまうというのが、「自己操縦」という呼び名を使っているゆえんです。感情の膿圧迫強いほど、夢の中で理不尽な感情に翻弄されているかのような意識状態になるという仕組みが考えられます。
克服にむけて理解きわめて重要になるのが、こうした心理構造で起きる「外化」メカニズムです。自分内部起きていることが外部つまり人の心の中で起きている感じ取られるものです。他人感情ありあり分かるかのように浮かぶほど、この仕組み強くかつ病的働いていることが考えられ、自分で疑うことができるかどうかが治癒克服への分かれ目になると思われます。
・「情動の荒廃化
 の膨張
根源的自己否定感情を受けて始まり、断念により進行している情動の荒廃化は、上記外化によって爆発的膨張向かう危険があります。「残忍な攻撃衝動」「破滅感情」自身内部ではまず抑圧され、それが外化され、他人が自分を残忍に陥れ破滅させようとしてくるという観念になり、爆発的な怒りの膨張へと向かうというメカニズムです。この「妄想」への反撃行動に出ることで、実際破滅的事態引き起こしかねないものになります。そうでなくとも、空想エスカレートした攻撃応酬繰り広げられ、激しい精神的疲弊起こしがちです。

・「現実の否定」という「心の病み」の本質
以上のような心理要素流れ経て、やがて自分というものがよく分からない形で体調不良を伴う自己処罰感情にしばしばおおわれる、あるいは明らか「妄想」呼べるような観念支配されているらしいような姿示すといった状態になった時、はそこに「心の病み」起きていると感じ取る、という流れになるでしょう。
しかしそこに至るまでの心理要素流れ詳しく見た時、ハイブリッド心理学からは、そこに起きる心理要素の連鎖の全体が、基本的には「病み」の問題ではなく「未熟」の問題として起きるのだ、という考えになります。
つまりその克服の全体が、基本的に「治療」の問題ではなく、「未熟」からの「成長」そして「成熟」の問題としてある、ということです。
そこに差しはさまれることのある、健康な心の働きだけでは済まない部分がある。それでもやはりそれは、「未熟」生み出す「病み」であり、「成長」生み出す「治癒」となるのだ、と。

詳しく見ていくと、全て始まりである「幼少期の周囲との間での否定的体験」は、この人自身というよりも多分回りの人間の未熟起因することが多いであろうとして、それを受け幼少期始まる根源的自己否定感情、そしてそこからの連鎖として学童期展開していく否定価値感性」「受動価値感性」、「なるべき自分」と自己処罰感情、そしてその起きている「情動の荒廃化」始まり進行といった流れを、健康な心からも多少とも共感できるものとして理解することができます。人生「未熟」から歩み始める私たち人間にとり、いたしかたないものとしてです。
一方それらとは少し異質なものとしてあるのが、根源的自己否定感情において幼い心許容範囲超え破壊的感情意識から切り離さ脳内毒素のように残るという感情の膿、そしてそれが学童期潜伏期のようにして思春期疼き始めることで発動する、自己操縦心性という「病んだ人格機能体」です。この2つ心理過程要素が、「単なる未熟」では済まない「病み」対応したものになります。

それでもやはり、この病み心理過程についても、ハイブリッド心理学はそれが心自ら未熟ゆえに成した動きであることを、健康な心からもその意味多少とも理解できるものとして、見出します。
それはずばり「現実の否定」です。未熟であるがゆえに、現実を受けとめて克服するというのではなく、現実を否定し切り離すという動き成されるものです。
幼少期においてそれは、自分自身守るために、許容範囲超え破壊的体験への感情意識から切り離すという動きとして。
一方思春期においてそれは、自分の心がこうむった破壊的マイナス感情否定するというのを超えて、歩みだした人生向けて、自分が何か「神」のように特別な存在になれるための空想の世界へと飛翔するという、積極的現実否定として動くというものに思われます。やがてそれが、「空想の世界を基準に、現実の世界の自分を叩く」というものに転じていくのです。これが「病んだ心」正体自己操縦心性だというのがハイブリッド心理学考えです。

こうして私たちは、「病んだ心」動きというものを、健康な心からも意味理解できる形で、十分把握することができます。
それは未熟な心幼少期から思春期にかけて、歩み始め人生での躓き対して、自分自身の心を守ろうとした動きが、やがて自分自身を滅ぼすようなものへと暴走するというような流れのものだと言えます。それはやはり、未熟が生み出した病みであり、その意識内容厳密には「病み」というよりも「未熟」問題だというのがハイブリッド心理学考えです。
しかしそこに最後加えられるのが、感情の膿圧迫に応じて、理性が利かない半夢状の意識状態になるというです。これにより、未熟が生み出した病みが、その病みの中に閉じ込められるという状況起きてきます。ここに、病んだ心治癒困難になる一因があり、これが「病み」本質だと言うことができるかも知れません。

病んだ心からの治癒克服について、大きく2つのことが言えることになります。
その「意識内容」面については、全面的に、未熟からの成長テーマになること。
一方で「意識構造」面について、とにかく理性で自分を律せればいいというような安直なものではない、ということ。
具体的どのようなものになるのか、次の「「心の病み」の克服」にまとめます。

「心の病み」の克服(1) - 「心の病みの治癒」と「心の成長」 
・「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」の治癒メカニズム
ハイブリッド心理学
が考える「心の病み」克服とは一言で、「ありのままの現実を受け入れて生きようとする心」が「現実を否定して生きようとする心」に勝ることで起き得る、病んだ心の治癒メカニズム現象指します。
これは主に2つ形態を取るものになります。「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」です。

「自己操縦心性の崩壊」は、「現実」に向かって歩み出そうとする人生の重要な局面際して、病んだ心正体である自己操縦心性が、自らに絶望するような形で破綻崩壊し、その後に、病んだ空想雑念消えた、すがすがしい健康な心回復するという治癒現象です。
一方「感情の膿の放出」は、幼少期において意識表面から切り離されたまま脳内毒のように蓄積され、自己操縦心性を生み出す圧迫源になっていた感情の膿が、自己破綻感情絶望感などの意識感情、あるいはめまい吐き気のような身体症状として表面化し、ただ何もせずやりすごすことでそれは消え、それに応じて脳内毒減少したと言えるような、ストレス圧迫が根本から消えた軽快な心の状態への変化が起きるという治癒現象です。
この2つおよそ同期して起きる関係にあります。それまで「こんな自分であれば」という薄氷空想の中で生きていた自己操縦心性破綻し、その空想意識によって今まで葬り去られていた、「本当の自分は・・」という根深いマイナス感情が、出てくるわけです。場合によっては自己操縦心性破綻崩壊意識側面あまりないまま、感情の膿の放出側面だけが主に意識されることもあります。いずれにせよ、この治癒現象による心の健康化は、後戻りのないものになります。

・「成長」の一環としての「治癒」
まずはこんなイメージ理解すると良いでしょう。空飛ぶ絨毯のようなものに乗って空想世界生きようとしたが、その操縦破綻落ち地べたでの感情味わう。そのに、をつけた前進生まれる

問題はこの「地に足をつけた前進」とはどのようなものになるか、になるでしょう。
事実それは、この治癒現象そのもの起き方様相違い、たとえばその一過的絶望感情激しさ吐き出され膿のような感情違いなどによってよりも、まずは「人によって」かなり端的に違ってくるというのが、島野自身体験およびメール相談事例を通しての印象です。
まず誰の場合必ず起きるのは、半夢状態の中で不合理に悪感情に翻弄されるという心の不安定さ減少し、多少とも安定生まれてくることです。一方そこからどのようプラス方向の前進に向かう心へと切り替わるかは、どうも人によって違うということです。積極的前進転じる人もいれば、安定感のあるマイナス傾向落ち着くだけもいる。
私たちはさらに、病んだ心自らへの絶望の中で崩壊したに、「心の豊かさ」増大する、つまり「心の成熟」へと一段飛ばしにワープしたかと思われるような飛躍的変化起き得ることも、知っておくと良いでしょう。これは手前味噌ですが他ならぬ島野自身人生を通して体験し、この心理学整理するきっかけになったものです。

これらが示唆することとはつまり、ここで取り上げている「治癒メカニズム」とは、病気治癒のようなものとは異なるものであり、「成長」の一環としてあるもの、たとえるならば「脱皮」のような現象としてあるものだということです。つまり脱皮心身状態切り替わるというのは同じ現象としてあるとして、その前後どのような変化を遂げるものになるのかは、心身本体どのような「成長」に向かう中でそれが起きたのかによる、ということです。
当然、「成長」動きなければ脱皮としての「治癒」起きない、ということになります。

これは実に示唆的になるでしょう。「「現実の否定」という「心の病み」の本質」で述べたように、病んだ心動揺する思考感情というのは、基本的には全面的「未熟」問題なのであり、厳密「病み」となるのは、感情の膿意識から切り離されたままうずくことで半夢状態となり理性コントロール利かなくなる部分なのだと。そのため、絶望感情のようなものが表面化した時、とにかくそれをやりすごすことができれば、半夢状態解消起きるのです。多少とも自分理性コントロールできる程度マイナス状態には落ち着くということです。厳密「病みの治癒」とはこの部分だとも言えるでしょう。
しかしこの心理学など学ぼうとするが、それだけ目標にできればいい、となどは思わないでしょう。「成長」へと大きく転じたい。さらには、「成熟」へと向かいたい。そう思って、心理学学ぼうとするのが当然と思います。

ならばこの、「成長」一環としてある「治癒」起き方要因全体理解すると良いでしょう。
それは「心の死と再生」起きること。
それが「青年期」における、人生大きな節目として起きること。それは「現実を生きる」という生き方モードへの転換として起きること。
単なる「治癒」超え「成熟」起きるのは、吐き出される感情「感情の膿」だけではなく「魂の感情」伴ったものであった場合であること。
この全体俯瞰した時、私たちはそこに人間一つ真実があるのを見ると同時に、単なる「治癒」超え異次元の心の豊かさへと、人生を通して一貫として歩み続けることのできる変化歩み原型が、そこにあるのを知るのです。

・「心の死と再生」
心の病み治癒起き方への要因として、まず理解すると良いのは、それが「心の死と再生」起きるということです。
「心の死と再生」とは、「今の自分の心はもうこの先立ち行かないという自覚感の中で意識が消滅し、その後に、新たな前進力を持った、本人にとり今まで未知であった感情が芽生える現象」などと定義できるでしょう。

そのため心得ておくのが良いこととは、この「心の死と再生」谷間通る時、それが治癒になると知ることでその時一過的な絶望の感情などを和らげる気持ち楽にする、といったことはほとんどできない、ということです。
それができたなら、「今の心」が維持されたまま動揺解消ができたケ−スです。それはそれで良く、それに越したことはありません。「心の死と再生」においては、絶望感の中で果てていく意識は、その後清々しく軽快な心として再生された感情どのようなものかを知ることなく消えていくのです。そしてその後意識感覚としてつながらない形で、新たな感情自分芽生えているのを、知るというになります。
どちらが良いかというではありません。どちらもあるということです。それを知っておくことが重要です。絶望感情和らげることは「ほとんど」できないと述べましたが、「全く」ではない僅かな部分というのが、まさにそれを知っておき、和らぐことのない絶望感情そのまま放置することを受け入れ、たとえば自殺などの行動に移してしまえというような激情化とどめることは、ここで述べていることの理解によって可能になるだろう、と島野としては考えています。
そしてその僅かな差が、その人その後人生決する、極めて大きな差になるのです。この「心の死と再生」通ることで、まさには、新しい自分として生き始めることができるのですから。

一方こうした話聞いて「とにかく絶望できればいいのか」といった反応をされる読者の方も少なくなかった印象です。もちろんそうではないことは、「成長」の一環としての「治癒」で述べた、この治癒現象端的表現分かるかと思います。
それは「脱皮」のような現象としてあるのだと。まずは心身本体「成長」向かう動きありきであり、それなしにいくら「絶望」したからと言って、どのよう新しい自分変化できるかなど、もう何も言えることなくなってきます。
ではその「成長」方向とはどのようなものであり、「絶望」がそこで治癒役割演じるとはどういう意味においてか。
それはこの治癒現象がどのような人生局面主に起きるものであるのかが、如実示すものになります。

・「自己操縦心性の崩壊」から健康な心での「脱皮成長」へ
ハイブリッド心理学が考える心の病み治癒克服は、その「発症」「幼少期」から「思春期」へという、その人人生歩み始めまたがったものであるのを受けて、その「青年期」において、その人人生における最大転換一つとして訪れ得るものと考えるものです。
それは最初起き、それゆえに最も動揺激しく自殺衝動危険最も大きくなるような、自己操縦心性の崩壊です。
なぜならそれが最初起きる時ほど、自己操縦心性による支配度大きく、その「崩壊」によって心が支えを失う度合い大きくなるからです。そして「現実の否定」良しとする自己操縦心性は、自ら崩壊際し断末魔のように「死」を、その人命じようとするのです。決してそれに従わずただ何もせずにやり過ごすことこそが、実は自己操縦心性死んでいき、健康な心を回復させるという勝利になるのです。

「自己操縦心性の崩壊」その後人生においても何度か起き得ますが、その都度健康な心割合大きくなっていき、「病み」治癒というよりも、心の健康度さらに増していく、まさに「心の脱皮成長」のような位置づけになっていきます。動揺度より少なく「死」観念浮かんだりしても、その「誘惑」は何の重みも持たず、「生きること」への確信揺らぎないものになります。
同時にそれは、「自己操縦心性の崩壊」としての姿をあまり持たない健康な心においても起き得る「心の死と再生」姿変化していくという流れでもあります。自分というものが分からないまま自分の感情に操られるという、「病んだ心」崩壊から、ただ、今まで生きていた心が死に、新たな心が再生するという、健康な心での脱皮成長姿へ。それが終生、私たちの起き得るのです。

・「受動価値感性」からの抜け出しと「心の死と再生」
そこにある「脱皮」意味とは、一貫して、私たち人間「宿命的不完全性」として指摘した、受動価値感性からの抜け出しだとハイブリッド心理学では考えます。
つまり「人の目」生かされ「人の目」空想「こんな自分であれば」「こんな自分でなければ」惑う心脱ぎ捨て「人の目」揺らぐことのない新たな自分で、生き始めるのです。

事実「人の目の中で生かされる」という「受動価値感性」が、全ての「心の惑い」の根源にあると言って過言ではないでしょう。
「人は人、自分は自分」といった言葉語られることの多さが、それを物語っているとも言えます。そうした平易言葉ヒント心の惑い捨てることができればそれに越したことはありませんが、そんな言葉だけでは何の役にも立たない、さらには惑い消そうとして「人の目」背を向ける先に、今度「生きることの空虚感、虚無感」といった問題見えてくるなど、人生生き方への惑いなかなか消えないというケース多い多いのが実情でしょう。人の目というのは事実を向けて何の答え出るものでもなく、人生対処しなければならない、常にそこにある道路標識のようなものでもあります。
結局、重要なのは人のこと人の目「気にしない」ことなどではなく、それによって自分を見失わないことです。
そして私たちのあり方が、人の目実際様子や、あるいはその空想によって、大きく左右されるものであることは、私たちの意識努力打ち消せるほど浅いものではなく、私たちの深く根ざす宿命なのです。それはいわば、私たちの拠って立つ大地の、土壌一面なのです。これが結論です。
問題はそうした土壌で、まずは私たちがどのよう歩き方をしようとするか、あるいはどのよう運転技術身につけようとするか、そしてそれによってどんな人生の前進しようとするのかです。

人の目の中で生きようとする私たちのは、自ら瀬戸際追いやります。「人の目の中でこうあれる自分」という「自己像」描き、それに向かって努力することは、飛躍的な成長へとつながる原動力なり得る一方で、そこに自分自身の真実を欠いた、あるいは真実を損なったものがある時、真綿で首を締めつけるかのように、やがて人の心苦しめ見返りを得ることもない心身のストレスと消耗へと追いやるのです。

・「成長」への「真実」へと向かう
そこから抜け出す様子に、「心の死と再生」について述べた通り、2つあり方があるということです。本人自分の姿勢の誤り気づき、軌道修正を図ることができるものと、それができずに「心の死と再生」通る形になるものと。
前者自分気持ち前向きなものに切り替えることができる形であり、後者ではそれができず意識はただ「自分はもう駄目だ、自分の人生はもう終わりだ・・」という失意絶望の中でエネルギー失っていくのです。そこからしばらくして、「無」時間置くようなで、全く違う感情生まれてきている自分気づく、というです。
これはたとえば、前者試験試合結果ばかり気にすることでパフォーマンス落ちていたが、自分姿勢誤り気づき目の前のことに集中することでパフォーマンスあがるようになるといった姿として、そして後者大怪我大病によって大きな挫折人生の絶望味わった人が、やがてに、社会的成功とは全く別のものとしてある人生の輝き感じるようになるといった姿として、イメージできるでしょう。

ハイブリッド心理学がそこで目を向けるのは、自らが自分自身の真実を損なった姿勢や生き方をしていたことに、前者自分気づける一方、後者気づくことができない、さらに言えば気づけるかどうかを問える存在ですらなかったことです。だから前者自分自分切り換えることができたのであり、後者絶望におおわれるしかなかったのです。
その一方で、起きる変化は、ここに書いたイメージ例で言うなら、当然後者の方が大きなものになります。次元が違う言えるようなものとしてです。前者は、一つの存在での軌道修正の変化であり、後者は、存在そのものが別のものになる、生まれ変わりのような変化です。生まれ変わったような自分になってから以前の自分振り返った時、しみじみと、偽りの自分を生きようとしていた別の人間そこにいたことを感じるようなでです。

もちろん、全ての人がこうした自己軌道修正や、次元高い「心の再生」と向かうことができるわけではありません。
まず「人の目の中で生きる」という「受動価値感性」の中で、自分自身の真実を見失って惑うというのが全て悩み惑い根底として共通なのであり、それが「成長」向かうための舞台「成長」へのステップのための踏み台なのです。
そこから実際「成長」向かうかどうかに、によって違い出てくるということです。
それは「真実」どう見出すか、そして「真実」へとどう向かうか違いだと言えます。この「真実」とは、一つ言葉で言うような限定的なものではなく、自身内面感情についてのことであったり、外面行動法についてのことであったり、「価値観」といったテーマ関係することもあるでしょう。そして今述べた2つ前進の仕方について言えば、前者は、「目に見える真実」をうまく視界捉えてそこに向かうことができたケースであり、後者「心の死と再生」に向かうケースとは、「目に見えない真実」あるいは「意識を超えた真実」向かったケースなのだということになります。

・「命の生涯」という「見えない真実」
ではその「目に見えない真実」「意識を超えた真実」とはなのか。どのように向かうことができるものなのか。
それは「自己操縦心性の崩壊」皮切りとした「心の死と再生」何度体験しながら、やがてその人生歩み出しから見るならばまさに「異次元の世界」とも言えるような「心の豊かさ」へと歩む人生・・手前味噌ですがそれが島野人生であり、この心理学整理するきっかけになったものです・・ので、次第おぼろげに、そしてやがて鮮明見えてくるもの、そしてそれを人間について人間歴史を通して見出されたさまざま事実つき合わせた時、これが真実であることへの確信生まれるものです。

それは私たちのに、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、生涯をかけて果たされるべき、ハイブリッド心理学「命の生涯」と呼ぶ変遷変化用意されている、ということです。
これは大自然を生きる全て動物用意された、「命」最大の摂理とも言えるものに他なりません。しかし人間はその高度進化結果、この心の変遷変化から遠ざけられる宿命背負ったのだ、とハイブリッド心理学では考えています。「自意識」出現により、「心」がその大元「命」からはがれた、薄っぺらいものとして動くようになった結果としてです。この始まり幼少期に起きる「心と魂の分離」であり、そこから「受動価値感性」という惑いの土台が、私たちの動かすものになったのです。
この心の変遷変化にこそ、心の惑いからの抜け出し、そして私たちの「幸福」への最大の鍵があるにもかかわらず、です。
どういうことなのか、実際にその心の変遷変化歩む中次第おぼろげに、そしてやがてその歩み最終局面至ることで鮮明に、見えてきます。それは、この変遷変化とは、未熟な「望み」「済んで」、より成熟した「望み」移るごとに、外部から特別に良いものが与えられないと不幸だと感じる「自発的不幸」減少し、外部から特別に良いものが与えられることなく幸福感が内部から湧いてくる「自発的幸福」増大した状態へと心のあり方変化していく変遷なのだ、と。ゆえにこの心の変遷変化こそが、心の惑いからの抜け出し、そして私たちの「幸福」への最大の鍵になるのです。

それが「心の死と再生」経ることで向かい得る見えない真実になるとはどういうことか。
それは自分に絶望することがこうした心の成熟変化生み出すということではなく絶望感がその意識表現になるで、表面浅はかな心打ち破られることで、のその成熟変化から遠ざけられる宿命とりはらわれた通り道が、そこ現れるということだと、ハイブリッド心理学では考えます。「命の生涯」変遷変化に、なにか直結するような通り道がです。
あとはその通り道に、どう踏み込むかだ、ということになります。
そこに、により違い出てくるということです。ある者は、浅はかな心とどまり続け、ただその絶望感流され、巻き込まれてしまうかも知れません。しかしある者は、表面浅はかな心隠されていた、自分の心の真実直視するのです。
変化が、そこに起きます。後戻りすることのない、強さ安定を増す変化がです。

・「心の病み」の治癒と「心の死と再生」
まとめれば、「人の目の中で生きる」という受動価値感性が、私たちの心の惑い土台であり、私たちの心の器(うつわ)そのもの宿命的側面でもあります。そので、「人の目の中でこうあれる自分」という自己舵取りに、自分自身真実損なったものがあった、私たちは自ら瀬戸際追いやるのです。
そこからの抜け出しは、自ら前進のための真実取り戻すことです。内面においてであれ、外面においてであれ。
そうして心の惑い抜け出す様子に、大きく2つがあります。本人意識努力によって、惑いからの抜け出し転換できる形と、それができず「今までの心」絶望感の中で一度死に新たな、安定した心が再生するという「心の死と再生」です。前者は、私たちの心の器保たれている中での向上前進であり、一方後者では、私たちの心の器そのもの一度崩壊し、今までの心からはをされたように見えなかった来歴の中で葬り去られていた真実の感情に向き合う時間を経て、新たな心の器となるという前進向上になります。

それが「心の病み」克服についてはどうなるのかと言うと、後者の、「心の死と再生」によって、になるということです。
これは「心の病み」とは厳密何を指すのかの定義からはっきり言えることです。「「現実の否定」という「心の病み」の本質」で述べた通り、そこで動揺する思考や感情とは、基本的には全面的「未熟」問題なのだが、そこに加え「半夢状」になって意識的理性コントロールが利かなくなるという側面だけが、厳密に言って「心の病み」なのだ、と。意識的理性による克服できない側面部分のことであり、ということは、克服できるのは「心の死と再生」経ることによってということになる側面部分だということです。
「病んだ心」とは、そのようなものとして、「人の目にこう見られる自分」という「受動価値感性」半夢状に動く心の器で、根源的自己否定感情端を発するものとして述べたような心理メカニズム感情思考膨張悪化していく心の状態である。これがハイブリッド心理学からの具体的理解になります。

残る視点テーマは、「人によって」大分違うと述べたものが、それらがどうなるということなのかになるでしょう。
こんな問い出てくるかと思います。意識的理性による自己軌道修正できない人は、「心の死と再生」による克服なるということか、と。
そうではない、というのがハイブリッド心理学考えになります。つまり、意識的理性による自己軌道修正への姿勢と心の技術を究めるほどに、「心の死と再生」による克服も可能になるのだ、と。これがハイブリッド心理学考えです。
「とにかく絶望できればいいのか」という声にはノーだと「心の死と再生」について延べましたが、それどころではなく、かなり逆になってくるということでもあります。自己軌道修正長けるごとに、はそうおいそれ絶望などせずその上で、大きな壁出会った場合絶望超え「心の再生」向かう可能性大きくなる。に、自己軌道修正うまくできない人は、絶望しやすく、「心の再生」にも向かいにくいということになってしまうと思われます。
これは「命の生涯」との関係についてに述べたことからつながってくる話でもあります。「心の死と再生」とは、絶望することがそうした心の変化生み出すということではなく絶望引き金にして、「命の生涯」の心の変遷変化に直結するような心の道が、そこに現れるということなのだと。あとはそこにどう足を踏み込むかになる、と。

・一貫した成長の歩みへ
ならば、そこに踏み込むための心の姿勢、そして実際そこで行う意識作業、さらにはそこにおける意識法技術とはどのようなものかというになってきます。
それは、意識的理性による自己軌道修正できた場合のものと、基本的には同じものなのだ、というのがハイブリッド心理学からの、そして島野自身体験を通しての、結論です。「「成長」への「真実」へと向かう」で述べた通り、一つ言葉でいうような限定的な話ではなく、外面から内面にわたるさまざま側面を通し、自分の成長のための真実に向かうというものとしてです。

つまり、意識的理性による自己軌道修正にせよ、「心の死と再生」にせよ、一つの一貫した歩み方が、そこに向かうためのものとして、あるのです。それに習熟するごとに、私たちは多く問題対処できおいそれとは絶望などしなくなります。心を病むかのように起きている問題に対しても、意識的理性による自己軌道修正によって、解決図られるかも知れない。するとそこではもう「心の病み」という問題そのものがなかったことになります。その上で、自分の力ではどうすることもできない大きな壁出会ったならば、あるいはそれが、異次元の心の豊かさへと向かう道への一歩となる可能性もある、ということです。
こうして、「心の病みはどうすれば治るのか」という問いから始めるハイブリッド心理学考察は、そう問うことをやめるという方向向かうのです。まず、「心の成長」の全体に、取り組むのです。
その具体的内容が、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」姿勢実践携え「望み」に向かって全てを尽くして生きる、というハイブリッド心理学「取り組み実践」の全体に、他なりません。

・歩みの段階に応じた成長への根底テーマ
ただしその内容は、理解する努力重ねるごとに習熟早まる、というようなものではなく意識の表面だけ「そのつもり」と考えるような建前思考捨てて、心底からのものとして、自ら生き方姿勢価値観問い思考法行動法模索し、生活人生における実際経験を通して得る自分変化足場にして、初めて本当の理解得られてくる。そのようなものであり、実践の学びとしてまとめている内容全て習得果たされるのは、早くて人生折り返しとなる「壮年期」になるだろうとハイブリッド心理学では考えるものになります。そして心の惑いというものを本当大方脱し、もう揺らぐこともない心の豊かさ得られるとしたら、それは「老年期」という段階になるであろう、と。
それに対し、「心の病み」という問題起きるのは、基本的に、まさに人生歩み出しとなる「思春期」であり、そこからの抜け出し克服その人人生左右するものになるであろうものとして問われるのは、に、自分の人生を本当に生きるということの右も左もまだわからないであろ「青年期」になるであろうと考えます。
つまり、意識的理性による自己軌道修正習熟するごとに・・というを述べたのですが、こと「心の病み」克服という問題について言うならば、そうした「習熟」を待つことはできない、ということです。これは人生歩み段階としてもそうですし、「心の病み」というのがそもそも理性コントロールできない部分指すという定義からしても、心の仕組みとしてそうなのだと言えるでしょう。

ではどうなるのかと言うと、「心の病み」克服においては、細かい思考法行動法への習熟よりも、真の成長に向かおうとする心の根底の姿勢役割果たす、ということです。
その姿勢とはどのようなものか。そもそも、真の成長とはなのか。
ハイブリッド心理学からは、「心の成長」とは「自ら幸福になる能力の増大」のことだと定義されます。
その真実のものとは、まずは、人の目に「成長した人」と見られるような自分の姿をイメージしてそうなれたと感じるようなものは違うのだ、と言えるでしょう。 それは得てして、そしてほぼ例外なく「やはり自分は・・」逆戻りしてしまうものです。真の心の成長は、決して後戻りすることはありません
そのように「これは違う」というものを理解することは比較的容易ですが、「これがそうだ」というものを理解することは、本質的にかなり困難なことのように思われます。なぜなら、真に心が成長するとは、今までの心とは違う新たな心へと変化するということであり、未だ成長できていない心が、成長できた後の心での感じ方を、実感としては分かりようがないからです。それを、今の心実感として分かるものとして「こう感じるということか・・」イメージして自分当てはめようとするという姿勢に、世の人なかなか心の成長というものに向かうことができない理由があると思われます。これはまるで、寒風吹きすさぶ不毛な地で生きている辛さを、暖かく豊かな楽園に生きる幸福感空想して紛らわせようとするようなものです。もちろんそうするのが好みであればそれも個人自由ですが。
より良いのは、実際にその豊かな心の地向かうための歩き方、そして走らせるための、知識技術身につけることです。そして、未だその豊かな心の地視界捉えることはできないとしても、着実にそこに向かう方角へと、一歩踏み出すことです。
思春期から青年期へという人生歩み出しにおける、そのための心の根底テーマとはどのようなものか、というになるでしょう。「心の病み」からの抜け出し克服も、その方向への、大きな一歩としてある、と言えるようなものとしてです。

「心の病み」の克服(2) - 「心の病みの治癒」と「成長」を決する3つの根本姿勢 
・意識姿勢の3つのテーマ
以上のような流れ踏まえることで、私たちはようやく、「心の病み」克服として起きるのがどんなことなのかについて十分な理解をすることができるように思われます。
それは実は単純なことなのだ、とも言えるようなものとしてです。
つまりそれは、「人の目の中でこうある自分」という空想惑い、やがて立ち行かなくなった心が一度死に健康を取り戻した新たな心が再生するという、「心の死と再生」として起きることなのだ、と。あとはそれを本人どう受け入れ、それを越えて前に進む姿勢持つかだ、と。
単純なのは引き金となる流れです。実際のところ「人生」へと歩み出そうとする思春期から青年期向けて私たちが抱く人生観ときたら、まるで「成長」知らないまま、生い立ち回りの人々、さらには「運命」によって実に都合良くお膳立てされてなれるような自己理想空想、あるいは妄想ばかりです。それが実際「社会」に出て、そう都合良くはいかない「現実」ぶち当たって砕ける。これは実に単純なことです。

もちろんそうは言っても、そうした流れで、によって「心の病み」という問題なぜ起きるのか、そしてその克服治癒どう起きるのかの仕組み複雑であり、それをこのページ詳しく説明してきました。一言まとめるならば、それは幼少期を発する「心の闇」の中で最も破壊的要素感情の膿心の中切り離されていたものが、思春期に至り、心の底うずいて起きる半夢状の意識状態「自己操縦心性によって理性コントロール利かない形で、そうした流れでの動揺起きるものだ、と。
一方治癒克服は、「心の死と再生」取るものとして「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」という特別心理メカニズム現象として起きるものになります。この流れでやがて立ち行かなくなった心根元から崩壊し、「人の目の中で生きる」という心の惑い宿命的根源受動価値感性脱した心の成長成熟契機になる、というものです。
心が打ち破られること自体病み克服治癒になるのではなく、それを脱皮のような位置づけにして心本体がどのような成長へと向かおうとしているかによって、どのような克服治癒向かうか、人によって分かれてくることを、「成長」の一環としての「治癒」指摘しました。安定感のあるマイナス傾向落ち着くプラス方向への前進転じる、さらには一段階成熟し豊かさを増したものへとワープするかのように飛躍的変化する、という3つのパターンがある、というものです。実際にはもう一つ、その最初のものにさえ向かうことができず病みの傾向そのままであるという、合計4つのパターンがあることになります。
「人の目」への意識の中で見失っていた、自分自身の成長のための真実取り戻すことが惑いから成長への転換であり、理性コントロールではそれができず今までの心一度死ぬことでその真実現れる、というのが「心の死と再生」です。
私たちはまさにそこに、私たち自身「意識」を越えた真実があることを、かいま見るのです。それこそ「人間の真実」なのだと言えるものをです。
なぜなら、「自己操縦心性の崩壊」から健康な心での「脱皮成長」へ指摘した通りその後人生歩みにおいても起き続き得る「心の死と再生」が、心の健康度さらに増大させるとに、「異次元の心の豊かさ」へとやがて向かう大きな役割を果たすようになるからです。やがてそれが「心の豊かさ」一つのゴールにさえへも、私たちを導き得る。
それが、島野人生でもありました。

ではその、「意識」を越えた真実とはなのか。その「意識を越えた」なるもの向かうため意識姿勢とはどのようなものか。そしてそれらもたらすものとはか。
心の病み克服治癒段階問えるのは、向かうための意識姿勢です。その背景にある、「意識」を越えた真実、そしてそれがもたらすもの何かはっきり見えるのは、それよりもずっと後人生段階のようです。
この心理学の歩み、つまりは島野人生歩みも、自ら心の病みの傾向取り組むために大学院まで心理学学び、やがて長い社会人生活も経て大きな心の健康得た経験に、41歳にて、まずはカレン・ホーナイ精神分析認知療法基盤とした新しい心理療法理論として整理始めたものでした。それが「向かうための意識姿勢」該当します。そして一貫としたその姿勢でさらに人生歩む先に、そうして向かう先あるもの、そしてそれがもたらすもの全てはっきり見えたのが、この原稿書いているのからそうのことでもない、50代後半になってのことでした。

意識姿勢大きく3つテーマから成るものになります。「現実」を生きること。「プラス志向」であること。そして「魂の感情」に向き合うことです。
この3つが、病みの傾向解消プラス方向への前進への転換、そして心の豊かさへの飛躍的変化という、克服治癒起き方3つのパターン生み出すものに他ならないものになります。
これは病みの傾向克服治癒のみならず、より大きく人生生き方姿勢としての3つ真実だとも言えるでしょう。
要点手短に説明しましょう。

・「青年期」という節目・「現実を生きる」という生き方モードへの転換
心の病みの傾向
克服治癒への向かい方決する意識姿勢1つ目は、「現実を生きる」というものです。
これは一言で、空想による解釈を取り去った「ありのままの現実」に心をさらし、前に向かって生きる自分の心の力を感じ取る姿勢、などと定義できます。
ポイント2つあることになります。まず1つ目にこれが重要ですが、「ありのままの現実」とは何か
よく「理想と現実」という言葉が使われ、とくに社会出ようとする若者においてそれは、華々しい活躍という「理想」の一方、それが果たせず色あせ単調何の魅力もない生活という「現実」、というように描かれるわけですが、まさに「描かれる」と言った通りそこでの「現実」もやはり、「空想による解釈」です。そうした空想解釈をとりはらった「現実」であり、一切評価づけを取り払った「ベタの現実」といった言葉でも言えるかも知れません。それを感じ取りさらす返ってくる、「生きる」という心の素朴な力の声を、感じ取るのです。
そして2つ目微妙違いになりますが、そうしてできるのは「ありのままの現実」感じ取り返ってくる素朴心の力感じ取るまでであり、そこから引き続き「ありのままの現実」「ベタの現実」中で生きる、つまり行動したりするというには、できないということです。「生きる」という素朴心の声感じ取ることができたとして、そこからまた実際生きて行動していく時、私たちは再び「空想による解釈づけをした現実」相手行動していくしかないのです。私たちが行動するとはあくまで、結果の良し悪しの推測においてであり、それは結局「空想による解釈づけ」だからです。

こんな喩え分かりやすいでしょう。をしている時、車内空気が淀んで息苦しさを感じたら、一度をとめ車外新鮮空気吸いリフレッシュするといいでしょう。また直接外の風景見ることで、フロントガラス汚れ歪みがあり、うまく見えていない部分あったことに気づき、多少直せるかも知れません。そして再び乗り込み続ける
つまりこの喩えにおいて、私たちは結局「空想による解釈づけ」というフロントガラス通してしか、進むことはできないわけです。しかしどこか車外にも身を置くという瞬間適宜持つか、それとも車中だけにいることに決め込むかで、決定的違いが出てくることになります。後者は、フロントガラス越し見えるもの本当であり全てなのだと思い込んで進むという姿であり、一方前者は、必ずしもそれは正しくないのだという、「別の目」持ちながら進む姿、と言えるでしょう。
そうして外の世界意識向ける姿勢「現実を生きる」というものであり、それに対し車の中全てなのだと感じて生きる姿勢を、「空想を生きる」という姿勢だと言うことができるでしょう。

この「現実を生きる」という姿勢に、役割として2段階レベル出てくることになります。
まず最初に、迷走暴走し自らを惑わせる自分の空想について、とにかくそれは事実ではないのだと疑いをかけ鎮めるという役割です。もちろんこれが可能かどうかが、「心の病み」傾向治癒克服決するものになるでしょう。
そしてに、基本的には「空想による解釈づけ」羅針盤とする私たちの人生歩みにおいて、別の進み道がある可能性を見る目という役割です。つまり私たちは「こうなれれば幸福だ、そうなれずこうなってしまえば人生は終わりだ」といった空想抱きながら人生歩み出すのですが、それとは全く違う世界あり得るのだ、ということです。
それ何なのかは、今テーマとしている心の病みからの抜け出し、そしてその主な舞台となる「青年期」段階においては、まだ何も見えないでしょう。まずは、「とにかく生きる」「とにかくそこにある道を進む」というものになるでしょう。それを歩む中で、やがてはっきりと、人生には自分が「こうなれれば」と空想するのとは全く違うものがある、と見えてくるためには、さらにあと2つ根本姿勢役割果たすことになるでしょう。

・心の病みの治癒
この「現実を生きる」という生き方モードへの転換が、青年期という節目一つとしてあり、心の病み傾向からの抜け出し克服その上にある、とハイブリッド心理学は考えます。
つまりこんな流れです。思春期誰もが通る自意識過剰空想過剰で、何か一線を越えてしまうような不安定さとして、心の病み傾向本人もしくは他者から自覚されることになります。やがて青年期へと向かい、社会出ようと、そして自分の人生というものを本格的歩み出そうとするで、それが「そんなこともあった」という程度済めばまだしも、深刻な問題抱えていた場合、やがて「こんな自分で」という自意識が何か破綻するようなで、危機訪れるのです。そして残されるのは、この迷える人間に、どのような助けの手差し伸べられるかになるのです。
ハイブリッド心理学から手を差し伸べることのできる助けとは、それが「心の死と再生」という治癒の通り道であることを伝えることです。「破滅」というものが空想の中だけのものであり、「現実」において起きているものではないことを確かめ、あるいはそのために必要なことは済ませた上で、あとはその絶望の感情ただ流しやり過ごすのです。思いっきり泣くのもいい。そしてぐっすり眠るのです。目覚め何か変わっています。

治癒メカニズムは、この流れにおいて、半夢状態で動く人格構造体自己操縦心性崩壊し、それを駆動させていた、幼少期心の底埋め込まれ学童期切り離さ思春期になりうずくようになるという感情の膿表面化し、その毒素のようなものが放出され解消されることによる、というものになります。「膿が出て快癒する」という、まさに身体疾病場合同じ仕組みです。
「膿」解消条件は、「現実を生きる」という姿勢1つ目役割レベル「とにかくそれは事実ではない」空想を疑うことができるというものです。それにより「破滅感情」を、「現実のことではなく内面だけの感情」だと、なんとか「ただ流しやり過ごす」ことができるわけです。これが、「心の病み」本質として指摘した現実の否定という意識根底歯車回し始めるものにもなります。
一方、自分の空想を疑うことができない、空想と現実の区別がつかないという問題があるごとに、この仕組みでの治癒起きにくくなることが考えられます。作り出され続け化膿状態強いものと言えるでしょう。
そうして「空想と現実の区別」できることを最低限条件として、「感情の膿」流れやり過ごた分だけ半夢状態という心の器不安定さ消え心の落ち着き増します。ただしこれだけではまだ「安定感のあるマイナス状態」への治癒というパターンであり、心の内容プラス方向への転換含まれていません

・前進への転換
「現実を生きる」という姿勢2つ目役割レベル「とにかく生きる」「とにかくそこにある道を進む」という前進性加わることで、心の内容そのものプラス方向に転じる、顕著変化起き始めます。
特筆すべきは、ここ起きる「今までの心の死」が、この人の心を縛り、動揺させていた「受動価値感性意識の檻を、一枚打ち崩し脱ぎ捨てる脱皮として機能することです。その結果この人前進力あるのであれば、ここ解き放たれるのです。
これがこの人に、強烈「開放感」として感じ取られます。破滅感情やり過ごし死んだような気分眠り覚め何か変わったような気がしてからまた少し時間置いてになるでしょう。自分の心があまりに軽快に動くことに、軽い驚き感じます。「とにかく生きる」という心持ちでこの危機通ったのですが、その向き合わねばならなかったであろう「ではどう生きればいいのか」という問いそのものが、消えてしまっているのです。まさに一度車の外新鮮空気吸い大きくリフレッシュされた心身という姿で、再び乗り込みそこにある道進むことへと、自然動いていきます。

あとはこの人もともとどのような運転姿勢運転技術、つまり生き方姿勢思考法行動法持ち主であったかです。それが「プラス志向」のものであったならば、解き放たれた心の前進力エンジンとして、今までは動揺によって阻まれていたプラス形行動実際取れるようになり、枝葉伸ばし始めるようになります。
これが「プラス前進への転換」治癒パターンです。
ここでパターン整理としては「とにかく生きる」という「現実を生きる」姿勢前進力ある一方、生き方姿勢思考法行動法マイナス指向であった場合どうかという問い出てくるかも知れませんが、これは実際ケースとしてはない考えていいと思われます。生き方姿勢としてプラス志向であるが・・意識的思考であれ潜在意識的なものであれ、「ありのままの現実」さらした時「とにかく生きる」という素朴な声として返ってくることになるであろうと。に、生き方姿勢思考法行動法からマイナス指向傾くにつれ、「生きる」という心の力生み出されにくくなってしまうように思われます。

ではその「プラス志向」であるとは具体的どんなことかについては、ここで考察を膨らませる必要はないでしょう。人生におけるこの歩み出し段階においては、それは多分稚拙断片的、そして勘違い建前思考含んだものでもあるでしょうが、重要なのは、前向きでプラス指向な自分あることをいかに心底から望んでいるかだと思われます。それがこの流れにおいて、建前思考的部分崩壊し、「ただ生きる」という前進力だけが残り不純物のないガソリンのように機能し始めることにつながるのだろうと。
いずれにせよ、生き方姿勢思考法行動法について細かく問い、具体的に学んでいくべきは、まさにここから歩みでです。ハイブリッド心理学からのその網羅的内容が、「歩み-2 健康と成長への心の基盤」と「実践の学び」の全てです。ですので、ここで「プラス志向」として指摘した根本姿勢についても、「建設的であること」呼び直すとよりその内容方向性分かりやすいかと思います。

・「心の豊かさ」への飛躍的変化
治癒
起き方パターン最後「心の豊かさへの飛躍的変化」というものになるに至り切り替わり変化がまさに劇的なものになります。
そしてそれを生み出す根本姿勢は、「魂の感情」に向き合う、というものです。

まず何が起きるのかから説明しましょう。それはこの心の病みの傾向生まれ出ることになった由来、つまりこの人の心が何か否定的な生い立ちの下にある・・少なくともその人自身にとって・・という事実そのものが、消えていくという変化に他なりません。
つまり、この人生い立ちとは、私たちの「命」それを必要として生まれ出るのであろう「愛」というものを得ることへの大きな躓きと挫折によって、根深いマイナス感情抱えて生き始めたものなのですが、その先心を病み自己像破綻する危機を何とかやりすごす「心の死と再生」治癒経た時この人に、生い立ちにおいてむしろ「愛」を得てきた人のものであるかのような「豊かさ」と安定感生まれ始める、というものです。
「心の豊かさ」とは、外部から特別に良いものを与えられる必要なく心の内部からプラス感情が湧き出ることだとハイブリッド心理学定義するものであり、プラス感情とは「楽しみ」「喜び」「愛」そして「幸福感」といったものです。
外面において何か特別好転あったのでもなしに・・この流れがまさにそんな状況ですが、自分に生まれたその変化によって、「心の豊かさ」とは何か見る目この人芽生え不幸な生い立ちに縛られ続ける自分の心・・という今まで否定的な自己像打ち破られます。
自分あまりの変化感動すら覚えます。自分の心にはもう何の問題もないのでは、と浮かれる気分さえ湧いてくるかも知れません。

心に問題がなくなったというのはもちろん事実ではなく、そうした感動もあくまで今までとの対比において感じ取れた、その瞬間だけのものだと考えるのが正解でしょう。
「成長」必要なのはまさに、「自分の人生」へと歩んでいくこれからです。その歩みで、自らにある、「心の病み」というよりもっと一般的「心の問題」直面しなければならないこともあるでしょう。否、直面することが成長への糧になるでしょう。その過程で、「やはり自分は・・」と、否定的な生い立ちによって深く染みついたマイナス感情が、拭い去れず流れるのを感じることも出てくるかも知れません。
それでも明らかに、この人自分の足力強く自らの人生へと踏み出せる存在へと、大きく変化したのです。

・「魂の愛への望み」の感情への向き合い
実はこの心理学整理を始めた当初・・それは大学院修士卒業後社会人生活17年目41歳頃訪れた、自分心の健康度大幅前進、そして人生の大きな開放への悟りのような体験契機にしたものでした・・、はここで述べた心の病みの治癒前進への転換、そして心の豊かさへの飛躍的変化というものが、一つのセットのように起きるのだと考えていました。それが私自身体験であり、仕組みとしても、幼少期否定的体験を発するマイナス感情の膿と、それによって駆動する病んだ心が、その人否定的な姿勢へと強い心の成熟によって増えていくはず心の豊かさ増大ブロックしている、従って心の病み治癒同時に、そうした否定的な心の縛り解くに、まさにその治癒克服体験にするものとしても、心の成熟と豊かさ生み出していくのではないかと考えたのです。
そうして2002年自己操縦心性心理メカニズムと、その克服向けた、外面における「自己建設型の生き方」内面における「感情分析」実践とする「ハイブリッド心理療法」考え方をまとめ、インターネットでの執筆発信活動開始したのです。(参照:執筆活動初期原稿
しかしそこで「メール相談」なども行い、比較的深刻心の病みの傾向克服手助けをするで、同じように「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」の治癒通った後プラス前進転じるか、それとも安定したマイナス傾向とどまるかがによってかなり明瞭分かれることに気づきながら考察重ね違う考え方へと至ったのです。この病んだ心機構生み出しているのは、空想と現実の重みが逆転した、夢の中で理不尽な論理に翻弄されるのとまさに同じように自分の空想で引き起こされた感情によって操り人形のように翻弄される、起きながらにして夢を見ているような、現実覚醒レベルが低下した半夢状態の意識の器だけなのだ、と。
その意識の中で動揺する悪感情内容そのものは、心の病み作り出したものではなくあくまでその人自身、つまりその人の人生における体験と性格や気質体質、そして生き方姿勢や思考法行動法が作り出したものなのだ、と。これはもうほぼ全面的に、本人がどう取り組み立ち向かうか問われる、日常生活人生問題になってきます。
そうしてはこの結論へと至るのです。自分書こうとしているのは、治療者患者「施す」ような「療法」ではないし、カウンセラークライアント導くための指導法ですらない。あくまで、自らによって成長しようとする個人のための、人生の歩み方と、その先にある道のりなのだ、と。
そうしてこの心理学名前『ハイブリッド人生心理学』決定し、ほどなくして会社早期退職して執筆活動への専念開始したのです。2005年のことでした。

治癒起き方パターン決する根本姿勢を戻しましょう。
「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」の治癒経る中で、半夢状の病んだ意識の器解消治癒生み出すのが現実を生きるという姿勢であり、プラス前進への転換生み出すのが「プラス志向(建設的)」であることでした。
そして「心の豊かさ」への飛躍的変化生み出すのは、「魂の感情」に向き合うという姿勢です。

この3つ目仕組みについて前置きしなければならないのは、まず先に「理屈としての理解納得」など決してできるものではない、ということです。たとえば「怒りの有害性」についてまず医学的に理解納得したり、「原理原則行動法」についてまず「原理原則」そのものの理屈を理解納得し、にそれを着実自分のものとするための実践へと向かうようには。
「魂の感情」への向き合い「心の豊かさ」生み出すということを、私たちは、実際にそれを体験してのみ、知ることができます。これは「魂の感情」というものが、「怒り」感情さまざま「原理原則」問題のように日常的接するものではないからだと言えます。
そしてさらに、それがどのよう法則にあるのかが分かるのは、この体験数年どころではなく数十年という歳月にわたって経ることによってです。これはたとえば食事運動などの生活習慣改善が、数週間もしくは数か月一つの単位にして効果出すような変化仕組みとしてあるであろうのに対して、この「魂の感情」への向き合い「心の豊かさ」生み出すというのは、人間生涯全体一つの単位として効果持つような、極めて長い期間を要する変化仕組みとしてあるのだろうと思われます。

そうした前置きの上で要点まとめると、まず「魂の感情」とは、「自意識の薄れた、命の重みのある感情」とでも定義できるものです。これはに言えば、私たちは「自意識」によって「命の重みのある感情」自ら見失う存在だということだ、とも言えるででしょう。
日常的場面で言えば、雄大大自然にして湧き起きるような感動感情や、生死に際して突き動かすような感情が、まずは「魂の感情」だと言えます。
そうした「魂の感情」の中で、向き合い「心の豊かさ」強くつながっていくらしい特別なもの・・これはつまり、「魂の感情」であればどんなものでも向き合い「心の豊かさ」へと均一つながるのではどうもなさそうだということですが、そうした特別感情がありです。
それがハイブリッド心理学「魂の愛への望み」感情と呼ぶものです。「愛の望みが妨げられた失意の中でなおその望みに向き合い続けた時に心に現れる、魂の感情としての純粋な愛への望みの感情」などと定義できるものです。
これは、その向き合いで、遠く響く鐘の音のように現れます。最初は、小さく静か音色から。やがて朝やか響き大きく包むものへと。
そしてその感情あまりの純粋さに、心自らが、打たれるのです。「美しい悲しみ」とも表現できる、その情緒性にです。同時にその時、で、「心の豊かさ」への成熟歯車目盛りが、気づかれないまま、一つ動くのです。

この「魂の愛への望み」感情にもいくつかバリエーションがありますが、基本的には、血を吐き出すような苦しみ伴うものと、苦しみ伴わずに、遠くから響く哀愁のメロディのような美しい情緒として感じ取られるものという、2つタイプ分かれるというのが島野自身体験からの印象です。
これは前者が、感情の膿伴っているということであり、「感情の膿の放出」の治癒現象として起きているということです。
つまり前進への転換として描写したような流れにおいて、「破滅感情」に、自分がどのように「愛」を望んでいたのか濃い情緒加わり、それをやり過ごし少し時間を置いて現れる、自分の心驚くような軽快さに、「心の豊かさ」への変化、つまり今までに対して肯定的接するためにはまず相手から肯定的接してもらう愛される必要があると感じ、そのためにはこんな自分あらねばと、未熟に描いた自己理想像通りにうまくなれず動揺するという心のあり方が、何もないところから人に肯定的に接することのできる心のあり方へと、変化していることに気づく、というものになります。この心の状態あまりにも心地良いので、もう自分には何の問題もなくなったのでは、と浮かれる気分さえも起き得る、という流れです。
一方苦しみ伴わないものは、その美しい哀愁のメロディーのような感情現れ、やがて消えていくという流れのみであり、見えるような「心の豊かさ」増大切り替わり変化起きませんが、それでもその一つ一つ向き合い等しく心の底「心の豊かさ」準備醸成として作用していると、島野としては考えています。そしてどこかで、この人外面的もしくは内面的にぶつかり「今までの心」破綻したタイミングで、隠されていた真実の感情として、「感情の膿」一緒に、「魂の愛への望み」感情より濃く流れる。そしてそれを過ぎた時準備醸成されていた「心の豊かさ」増大解き放たれる形で、目に見える切り替わり変化になる、という流れのものと考えられます。

こうして、「魂の感情」中でも「魂の愛への望み」感情感じ取れる、向き合うことができるという姿勢が、「心の豊かさ」向かうための基礎になるものとして、焦点あたるものになります。
説明してきた姿勢あわせてこれが、心の成長と豊かさ向かうための、真実の姿勢だと言えます。まず人生進むという基本として、「現実を生きる」こと。外面行動法側面真実として、プラス志向、建設的であること。そして内面姿勢真実として、「魂の感情」向き合うことです。これが、心の惑いからの抜け出しによって違うことについて、「「成長」への「真実」へと向かう」で、「真実」どう見出すか、そして「真実」へとどう向かうか違いだと言ったことの具体的答えです。
ではどうすれば「魂の感情」「魂の愛への望み」感情感じ取れるのか。
それはまず何をおいても、「人の目」に頼ることなくものごとを感じ考えるという姿勢基礎になるでしょう。これは「歩み-2 健康と成長への心の基盤」でまとめている心の依存から自立への転換にあたるものです。その上で、自分が何にどのように感動するか探求する「素養」と言えるものが、「魂の感情」全般感じ取り向き合えることへと、直結すると言えるでしょう。
「魂の愛への望み」感情はさらに独特特殊なものであり、加えて、形ばかりのものではないものとしての「愛」の真実の感情探求しようとする姿勢、それをさらに孤独を受け入れるという姿勢において、愛の望みが妨げられた失意の中でなおその望みに向き合い続けた時、やがてその感情遠くから響く音色のように現れ得る、と言えるでしょう。
そしてそれが過ぎた時に、「豊かさ」への一歩変化起きる。何か神秘的仕組みの存在示唆するような形で・・。
そうした「魂の愛への望み」感情具体的様子『悲しみの彼方への旅』でも描写しており、島野残された執筆でその全て体験書き尽くすことが課題と感じているものでもあります。理解ポイントを「歩み-3 「魂の感情」」でより詳しく説明します。

・「命の生涯」への回帰・「治癒」を超えた歩みへ
以上総括するならば、以下のような流れ理解すると良いでしょう。
まず私たちの心の惑い根源として宿命的な、「人の目の中で生きる」という受動価値感性心の土壌があります。それによって誰もが、程度こそあれ、思春期自意識過剰になり感情混乱したり、その後人生においても、「人の目」意識して自分を見失いかけてしまったりする。そうした惑いと、そこから抜け出し自分を取り戻すことを繰り返しながら、私たちは「成長」していくわけです。
心を病み、それを抜け出し克服するというのも、その流れ基本となり、その起きることだというのがハイブリッド心理学考えです。
つまりその流れに、幼少期否定的体験を発する心の闇から始まる心理メカニズム流れ加わることで、思春期に始まる感情の不安定化が、やはり「人の目にこう見られる自分がいて・・」という意識絶望的な否定破壊性と混乱、そして自己コントロールが不能な病的様相帯びるというものです。 そしてこの場合も、「現実を生きる」「プラス志向(建設的)であること」そして「魂の感情に向き合う」という根本姿勢支えに、「受動価値感性」動く心が一度打ち破られ心の闇からの悪影響度合い一歩減少させた新たな心再生するという「心の死と再生」で、自己コントロールも回復するという治癒克服として、自分を取り戻すことになるわけです。

ハイブリッド心理学から言えるのは、この流れが、私たちの人生で、生涯続くのだということです。終わりのない成長の道としてです。
心の病み治癒によってその流れから消えるのは、まずは病んだ心駆動機構、つまり現実を否定し、空想の世界を主(あるじ)として生きようとして半夢状態動く自己操縦心性です。
それ以外のものは、悪影響度合い減らしながら、全て残ります。「自己操縦心性」動力源になったものでもある、マイナス感情の塊というよりも脳内毒素化した感情の膿は、身体症状での同様表に流された分だけ減少した一方で、その正確な残量分からないままの、悪感情見えない発生源であることを知っておくと良いでしょう。そして「人の目の中でこうあれる自分」という私たちの「自意識の望み」のちょっとした躓きや大きな挫折面した時流れる毒々しい悪感情を、「現実」は必ずしもそこまでの悪感情には値しないという目線保った上ただ流した時、その分だけ再び「感情の膿」残量減りさらに後戻りなく軽快化した心の状態現れることもです。同時にそこで、「自意識の望み」超え「魂の望み」向き合えた時、ワープしたかのようにさらに豊かさを増した心の状態変化するという、さらなる「心の死と再生」好機なり得ることも。

いずれにせよここで心の病みとその治癒として説明したのは、幼少期からを抱え、思春期にそれが表面化し始め、やがて青年期になり、「人生」という「現実」心の危機迎える、という流れのものです。もちろん心の病み全てがその流れ取るものではないでしょうが、それが明らかに、多く人生はまってしまう、人間の心にもともとある轍(わだち)のようなものなのだ、とハイブリッド心理学は考えます。
そうしてあるのと同時に、そこから抜け出る出口と、それを進む力も、私たち人間に、用意されているのだ、と。危機迎える、青年期という節目にです。
それは「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、ハイブリッド心理学「命の生涯」と呼ぶ心の変遷変化における最初転換「依存の愛からの旅立ち」という出口です。
ただしそれをどう意識するかというより、「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解することのみ行う」という「感情と行動の分離」姿勢携え「望み」に向かって全てを尽くして生きるという姿勢において、「真実」を模索する姿勢導く出口だと言えるでしょう。外面において何をすることもできない自分受け入れ「人の目の中で駄目になっていく自分」という幻想ただ流し見つめるという姿になるものとしてです。
そうして心の中だけで起きる「今までの心の死」が、「依存の愛」手放しであり、「依存の愛からの旅立ち」という、「命の生涯」における最初変遷になると同時に、心の病み治癒ともなるのです。

そこから再び「成長」への歩み続けるのです。
いや、ここから始まるのだ、とも言えるでしょう。自分自身感情振り回される度合い減り何とか自己コントロール可能になったで、したがってもはや「病気のせい」とは言えない自分自身課題に向かって、自分で考え、自分で決断する選択問われていく歩みとしてです。思考法行動法、そして価値観選択、さらに、内面感情への向き合い方、それら全てにおいてです。
動揺する感情内容そのものについては、基本的には全面的「未熟」問題なのだ、と述べてきましたが、その通り状況になったとも言えます。もちろん、抱えて生まれ、それをまだ残していることは、その深さに応じてハンディにはなるでしょう。しかしそれにどう向き合うかについても、「未熟」という基本的問題かけ合わされているわけです。一方、ハンディなくてさえ、社会に出てから自分の人生をつかむまでというのは難しい課題です。それはどう達成可能か。そして心に抱えたハンディは、最終的にはどう克服されるのか。

ハイブリッド心理学は、その全て網羅するものです。
ごく輪郭を記しておきますと、心の悩み惑い悪感情感情動揺根源になるものとして、心の病みだけではなくより基本的一般的問題から改めて整理すると、「闇」「病み」、そして「浅はかさ」さらには「業(ごう)」と、そこにはなんびと免れない側面もあるのが実情です。動揺する感情内容そのものもはや病みの問題ではないのだというのも頷けるかと思います。
これら全体を、「人が置かれた現実の状況に対して不釣合いに不幸になる根源」として、そこに「心の問題」がある、とハイブリッド心理学では定義します。
その克服とは一言で、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」姿勢実践携え「望み」に向かって全てを尽くして生きるという「取り組み実践」本当に自らのものとすることに取り組む中で、まず「思考一般における浅はかさ」脱し始めることを皮切りとして、生涯にわたって「取り組み実践」共に歩む人生歩みそのものが心に生み出す、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」対応した変遷変化が、やがて「心の問題」要因一つづつ根本克服へと向かわせ最終的に、全て問題要因克服され、与えられた人生における最大限の幸福へと、その人至らせる、というものになります。

ここから再び、いやここからこそ人間奥深く長い変化仕組み始まります。その最も大枠から見た流れが「全体−1 ハイブリッド人生心理学が目指すもの」でまとめたものとなり、「心の問題」各要因克服流れまとめたものが「歩み1-1 「心の問題」の全体の理解」になります。
ここではそれに向け冒頭の「理解のポイント」や「「成長」の一環としての「治癒」」で、ここで「治癒」仕組みとして述べてきたものがこの後人生の歩みにおいて「未知の異次元の心の豊かさの世界」向かって心の成熟変化原型になると述べたのが、どういうことか説明して締めくくりましょう。
それは今総括として述べた、私たちは「人の目の中で生きる」という受動価値感性自分を見失い惑い、そこから抜け出すのを繰り返す中成長する、それが終わりのない成長の道として生涯続くのだということの、宿命性に他なりません。
つまり私たちの感情動揺させ、心の病みも生み出す心理メカニズムの中で、「受動価値感性」だけは、私たちが生きている限り、働き続けるのです。マイナス要因ほとんど消え去ってもです。
それがもたらすものとは、私たちは基本的に、自らの真実から離れて生きる存在なのだということです。自ら「命」という真実から離れて、ということになるでしょう。
「心の死と再生」が、それを打破するものとしてあります。「人の目の中でこんな自分で」という意識生きようとした一度打ち破られ今までその意識隠されていた、「命」の重みのある感情現れ、それを心の中十分に受けとめることをした、私たちのに、後戻りのない変化生まれる
これを、私たちは生涯を通して体験し続け得るということです。「「自己操縦心性の崩壊」から健康な心での「脱皮成長」へ」で述べたように、「病み」治癒という様相から、健康な心での脱皮成長様相へと姿変えてです。動揺減少という様相から、豊かさ増大へと様相変えて

それを歩むことで、私たちは自らの真実へと回帰するのです。
それは「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」への回帰であり、人間の心の真実への回帰です。
それは私たち自身が真実の存在になる、ということではありません今述べたように、私たちは、生きている限り「受動価値感性」という宿命で、自らの真実から離れて生きる存在なのですから。
「心の死と再生」生きることで知るのは、私たちが普段生きている「自分」というものとは別のものが、私たち自身に、あるということです。そして、「真実」そちら側にあるということです。
だからこそ、私たちは「自分」という惑いを、根本から捨てることができる、ということなのです。
そこに至ってハイブリッド心理学は、そこにある完全な整合性のとれた「真実」と、そのようなものとしてある人間の心という神秘を、見出すのです。


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