入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



2.怒りのない人生へ


「怒り」のダメージ

 さて、このサイトでは沢山の心理学の知識を説明しますが、エッセンスをつき詰めて行くと、向かう方向はかなりシンプルで、「怒りの感情を捨てる」ということになりそうだと思っています。

 人間の感情は古くから「喜怒哀楽」といいます。
 この中で、「怒り」だけが、人の心身に自らダメージを与える感情として存在しています。


 怒りは、動物の進化の中で、身体的攻撃に対する反撃のために生まれました。
 自分の心身や生命がおびやかされる時、まず不安恐怖がおきます。
 それは、「危険を回避せよ」という脳の信号です。

 でも、逃げることもできず、追い詰められたとき、「怒り」の感情が生まれます。
 神経の緊張が高まり、血液が脳に集められ、内臓の機能は停止状態に近づき、痛覚が鈍化します。
 つまり、体が多少の損壊を受けることをもはや仮定して、それでも生きのびる心身状態になれという脳の信号が生み出されたわけです。

 怒りの感情は、かくして両刃の剣となります。
 「怒る」ことによって、心身の痛みが消える反面、実はそれは私たちの心身にダメージを自ら与えているわけです。

 人間においては、この「怒り」が、身体的攻撃だけではなく、精神的攻撃への反撃として起きるようになりました。
 これは精神的攻撃の方が、実は「追い詰められた」と感じやすいということかも知れません。

 精神的攻撃とは、ようは「お前が悪い」と言われることです。これは辛いことです。
 「悪い」と言われるとは、愛や望みが断たれることを意味します。だから、体の機能を損なうときに痛みが起きるように、心の痛みが起きます。

 これに対して、「自分は悪くない。悪いのはお前の方だ。」と怒りの対応をする。
 その時、すでに痛んだ心に対して、自らさらにダメージを与えることになります。その心理状態は、その人自身が気づかないような形で、不幸なものに向かうことになります。

 つまり、人が怒るとき、2重の痛手を負っていることになります。


怒りと悲しみ

 一方、怒りを捨てた場合は、代わりに「悲しみ」が起きます。
 もう反撃する必要はない、つまり安全になった時、傷ついた動物は悲しみの中で自分の体を癒します。

 悲しみは、損なった痛みを修復するために起きる感情です。
 「悲しみ」は、痛みを麻痺させるのではなく、癒し、同じ損失によってはもう痛むことがないよう、心を強くします。
 「悲しみ」は「病」ではありません。

 こうして、人は、精神的な痛みに際して、「怒り」と「悲しみ」のどちらを選ぶかの選択肢を持つようになりました。
 「怒り」を選んだとき、自分はまだ安全ではないと考えたことになります。痛みが麻痺する一方で、心身のダメージとストレスが続きます。
 「悲しみ」を選んだとき、自分はもう安全だという安堵の中で痛みを癒すことになります。やがてすっかり癒えた心身で立ちあがり、再び生き生きと生きはじめることができます。そのとき、心は前より強くなっています。

 「怒り」よりも「悲しみ」の方が望ましい、私たちをより幸福に近づける感情であることは明らかです。
 ところが、人間は素直に悲しむことができず、頻繁に「怒り」を選択するようになってしまいました。
 人間が他の動物よりも不幸な存在というとしたら、このことを指しているのでしょう。


怒りを選ぶ現代人

 なぜ現代人は頻繁に怒りを選ぶようになってしまったのでしょうか。
 これには恐らく5つの意味があるでしょう。

 1つめは、実際のところ「安全ではない」と考えているということです。戦争など外的な危険は減ったとはいえ、精神的な面では、この社会には危険が満ちていると感じているのかも知れません。

 2つめはこれと関係します。それは危険を避けるために怒ること以外の方法を知らないことです。これは、怒るよりももっと良い方法があるという人間の智慧を知らないままで過ごしている状態です。
 怒るとは、ようは「私はお前が嫌いだ」と言うことであり、破壊しようとすることです。
 怒りによって、「怒りが晴れる」としても、残るのは破壊されたものの残骸だけです。それが怒りのそもそもの大元となった不満を解決してくれることはありません。
 怒りによって対応しようとするから、解決できない、安全ではないと感じる、だから怒る、という悪循環があります。

 3つめに、怒りは「自分がおびやかされている」からではなく、他人を思い通りに動かすために使われることがあります。
 怒りを使って他人を動かすのは、ようは「おどす」ということです。
 このようにしろ。さもなくば痛い目に合わせるか、もしくはお前を嫌いになるだろう、というわけです。
 これによって人は命令に従うこともありますが、快く思ってのことではありません。緊張状態が生まれ、潜在的な敵対関係が生まれます。
 これは「自分は安全ではない」という感覚を増やします。これは脅される側だけの話ではなく、脅す側も同じことです。
 怒りによって人を動かす世界には、同時に敵意と不安が満ちるようになります。人は次第に、自分を守るために怒っているのか、思い通りに人を動かすために怒っているのか、区別がつかなくなってしまいます。
 これもやはり怒りと不安の悪循環と言えます。

 4つめは、このように怒りに頼る生き方の中で、悲しみを「弱さ」のしるしのように感じて恥じるという傾向がおきます。人をおどすことに馴染んだため、自分が「強くなければならない」という力が常に内面に加わっているのです。
 これは「安全ではない」というストレスが、外界ではなく内面に固定された状態と言えます。この人は恒常的なストレスの中で生きることになり、自分は安全ではないと感じ、怒ることがますます必要になります。

 最後に、この悪循環とは別の、大きな問題によるものがあります。
 それは、「怒る」ことが、「正しい」ということと勘違いするようになったからです。
 人は、自分が正しいと思うから怒るのではありません。怒る感情によって、自分が正しいと思うのです。

 人は、「正しければ怒るのが当然だ」と考えます。
 でも、「正しい」はずの本人が、怒ることによって、さらに不幸になっていきます。
 怒る人の心の中は、たいてい、「自分は正しく、そして不幸だ」というものになります。

 これは変な話です。
 なぜこんなことになってしまったのでしょうか。


「怒り」と「善悪」

 「正しいのは自分だ」と思いながら怒ることで、正しいはずの自分がさらに苦しい感情になる。

 これは私たちが「正しい」と思うことについて、何か根本的な勘違い、もしくは私たち自身の幸福にとって何かとても下手な考え方をしてしまった結果ではないか、と考えられます。

 そもそも、「怒る」という感情と、「正しい」ということとは、別のことだったはずです。
 分けて考えてみましょう。

 「怒る」のは自分を守りたいからです。
 もしくは人を思い通りに動かそうとして怒ることもあるでしょう。
 そうであれば、そうするために「怒る」ことが役に立つ時だけ、怒ればいのです。
 実際には、これは悪意でもって身体的危害を加えられそうな時です。この場合は多少の怪我を覚悟で、怒りを奮い起こして立ち向かうしかないかも知れません。
 人を思い通りに動かすために怒りが役に立つことはほとんどありません。相手が一時的に服従しても、実際にそこに生まれるのは敵対関係です。

 では「正しい」とは何でしょうか。
 「正しい」「善悪」という観念は、社会を前提にして生まれます。

 1対1の接触しかない動物の世界には、善悪はありません。獲物を騙しておびき寄せて食らう方も、食べられてしまう方も、2つの間に善悪の関係はありません。前者は自分の欲求を満たし、後者はその犠牲になったという、それだけです。

 ある程度の群れで生活する動物になると、特有の「おきて」というものができてきます。
 その「おきて」に従わなかった者は、しばしば仲間から制裁を受けます。
 「おきて」を破る行動は、大抵の者にとって不快で都合の悪いものだからです。

 人間にとっての善悪も、おきてに従う行動は、その群れの中では善であり、おきてを破る行動は、その群れの中では悪になる。その延長で発展してきたものでしょう。
 人間の場合は、善悪の基準となる「群れ」や「おきて」が多種多様なので、善悪の考え方も多種多様になっているわけです。


善は悪を怒る?

 では、「怒り」と「善悪」が結びつく理由を考えたいと思います。
 難しい話ではありません。

 「おきて」を守る者、つまり善い人間は、社会一般から守られ、愛されるようになる。
 「おきて」を破る者、つまり悪い人間は、社会一般から嫌われ、怒りを向けられるようになる。つまり悪は「罪」として「罰」を与えられることになります。

 この構図をまとめると、「善は悪を怒る」という話になります。
 正しければ、間違ったことを怒るのは当り前という話になります。
 「正義の怒り」。怒りによって悪を「正す」。ここから目下の者を正しく導く方法として怒りを用いる、「叱る」という行為が生まれるようになりました。

 この論理には実際何の「間違い」もあるわけではありません。
 実際世の中の人はこの思考の流れによって、子供の躾のために叱るのは正しいことだと考えています。

 ところが、児童虐待をする親は、子供を虐待する時、それを躾だと考え、躾のために叱っているのだと感じています。
 児童虐待はどう考えても正しいことでも、子供を育てる良い方法でもありません。
 でも上の思考の流れだと、正しい叱り方と虐待の違いをうまく説明することができません

 どんなにうまく叱ったところで、結局叱るとは、「お前が嫌いだ。もしくは言うことを聞かないと嫌いになるぞ。」というおどしなのです。
 当然これだけで子供が健康に育つわけはありません。

 何でこんな話になってしまうのでしょうか。単純です。
 それは人を動かすものは怒りだという感情の中だけで考えているからです。

 人を動かすものはもちろん怒りだけではありません。その最も大きなものが「愛」です。
 では「怒りと善悪」に愛を加えると話がどう変わるのかを考えてみましょう。


善は悪を許す?

 怒りに立つ考え方からは、「善は悪を怒る」となります。

 では愛に立つ考え方からは、「善は悪を許す」となるでしょうか。
 これも少し変な話です。罪を犯したのにすぐ許すだけでは、善悪基準そのものがないような話になってしまいます。
 「愛の下では善悪はない」、という考えも出るかもしれません。
 でもこれも少し言葉の綾のようなもので、現実世界にはあまり当てはまらない考えのように思われます。

 この辺から、世の中にさまざまな世界観や哲学思想というものが分かれてきます。
 それをひとつひとつ取り上げて検討評価することは、このサイトの役割ではありません。このサイトとしての結論を説明します。


 罰は本来、怒りによって行われるものではありません。むしろ愛によって行われるものが正しい罰でしょう。
 良く「罪を憎んで人を憎むな」と言いますが、これもかなり言葉足らずですが、まあ似た話でしょう。
 罰は、守るべきルールが破られた時、それを繰り返さないために、本人の反省のための罰、そして他人への抑止のための「見せしめ」のために行われます。
 これは本来社会を守るために、つまり社会と人々への愛の下で行われるのが健全な姿です。
 そして、罰を受ける人間も社会の一員です。

 罰は、決して罪を犯した者への恨みを晴らすためにあるのではないのです。
 恨みや怒りはその人個人の復讐心であって、社会における罰には本来含まれるものではありません。


泣いて馬謖を斬る

 これを説明する話に、「泣いて馬謖を斬る」という、三国志の有名な話があります。
 蜀の将軍孔明は、その才能を高く評価した若き軍師馬謖(ばしょく)に、魏との戦いの重要な指揮を任せる。
 ところが馬謖は、安易な兵法に自惚れ、軍上層の命令に背き、大失敗を演じ、仲間の軍を危機に陥れてしまう。
 この大敗のあと、この有能な青年をおしみ、処刑を思いとどまるよう進言する回りの言葉を断としてはねつけ、孔明は馬謖を処刑します。
 孔明は馬謖のことを自分の後継者と考えて、非常に可愛がっていました。処刑の瞬間、孔明は泣き崩れ、葬儀の参列の中でいつまでも泣いていたと伝えられています。

 孔明は馬謖への怒りや恨みから罰を与えたのではありません。むしろ最後まで馬謖を愛していました。
 しかし馬謖の犯した誤りは、戦乱の中で蜀の国を守るためには絶対に行ってはいけないことだったのです。そのことを国全体に知らしめるために、公の場で馬謖を処刑する必要があったのです。

 孔明は国への愛から、罰を実行したということです。

 もちろん、どのような罰の内容が妥当であるかは、時代や地域、思想によって、人それぞれ考える内容は違います。どれが「正しい」とも言い切れないでしょう。
 結局罰は、私たちが、私たちを守るために、私たち自身の意思によって、愛の下で行うものと考えるのが、最も健全であると考えています。
 別の表現をするならば、罰とは、私たち自身を守るための技術であって、感情の表現ではないのです。


怒りは破壊でしかない

 つまり「悪は怒るべきもの」などでは全くないのです。
 大切なのは、悪と感じるものを現実になくすために最善の方法は何か、ということです。
 怒りを向け、相手を破壊しようとすることがその方法であることは、ほとんどありません。

 このような考え方から、「正しければ怒って当然だ」という感情を再び考えてみましょう。

 怒るのは、自分を守りたいからであり、怒るしかもう方法がないと考えているからです。
 それは弱いからであり、自分にストレスを加えて、相手を逆襲するしかないほど、追い詰められている状態に自らを置いているからです。

 怒ることに頼るようになると、善悪も怒りによって解釈されるようになります。
 善とは、怒りを免れること。怒りの逆、つまり愛を与えられること。
 悪とは、怒りの対象になること。
 怒る者は善の側に立つかのような感覚が広がっていくのです。

 怒ることで、「自分が善の側だ」という感覚の中で、人はやがて、社会が怒る彼彼女の味方になり、皆で一緒に相手を破壊すべきだと感じるようになります。
 この「正義の怒り」が高まるごとに、彼彼女の現実の姿は、本人の意識とは裏腹に、人間性を損なって行きます。

 そんな空想の中で怒るしかないほど、その人は精神的に弱い存在なのです。
 弱いから追い詰められ、また怒りに頼る。心の成長は止まったままで、いつまでも強くなることはできません。
 そして弱いから、いつまでも愛することができません。

 このように、「怒りが固定された」世界観の中で生きていると、人間としての本当の強さとか、愛といった、別の世界は全く見えてきません。
 別に何か間違った論理にとらわれているわけではありません。今の感情の中に閉じこもり、別の世界を見ようとしていないだけです。

 怒りは結局のところ、自らにダメージを与えて、相手を破壊する、現代の人間にとっておおよそ有害無益な感情でしかありません。


愛によって人を動かす

 悪は怒りの対象ではない。怒りは弱さの表れである。同時に、この逆形も成り立つように思います。
 善は愛される対象ではない。愛は強さの表れである。
 つまり、怒ること以外によって、物事を処理する能力がつくにつれて、私たちの心は強くなっています。心が強くなると、自然に気持ちが暖かく、余裕ができ、人を愛することができるようになります。

 悪が怒りの対象だと考えることが正しくないのと同様に、善が愛されると考えることもあまり正しくありません。心の弱い人は、どんな善も愛することができません。心が不安に満ち、余裕がないからです。
 愛は何か善いことをすることによって「保証」されるものではありません。「保証」を必要としない強さへと成長した時に、自然に生まれるものです。

 善悪という「規範」と、愛と怒りといった「感情」は、全く別のことなのです。

 人を怒りによって動かすのと、愛によって動すのとの違いは、「北風と太陽」という童話に示される通りです。
 怒りによって力づくで人を動かすことができたとしても、それは人を傷つけることです。敵対関係を生むものです。
 愛によって人を動かすとは、楽しみや喜びを共有することであり、同じ目標を共にすることです。そこに強制はなく、伸び伸びとした自発的感情が湧き出ることによって、人の心が成長していきます。
 人を愛によって動かすことができるようになると、仲間が増えるという感覚、社会や世界が自分の味方だという感覚が増えてきます。これは幸福感の大きな源泉となるものです。
 また事実そのようにして人は本当の強さを得ます。人はもともと不完全な存在なので、人と協力することで大きな力を得ることができるからです。

 怒りの感情に頼る生き方の中で、人が危険を感じ続けるという悪循環があるように、愛を行動原理にする生き方の中で、人はより強くなり、より多くの愛を感じられるという好循環があります。


怒りと心理障害

 心理障害は、怒りのストレスが外界との関係によって加えられるのではなく、自分自身との関係において怒りのストレスが発生し、蓄積されている状態と理解することができます。

 これは例外なく、幼児期において、何か子供自身が納得できないような怒りを向けられる恐怖の蓄積として始まります。
 この恐怖感から逃れようとして、子供は「怒りを先取り」し、怒られないような性格になろうとします。良い子でいなくちゃ。一番でいなくちゃ。落ちついていなくちゃ。
 やがて、「こんな人間でいなくちゃ」という怒りの基準が自己の内部深くに取り込まれ、自分自身に激しい怒りのストレスを加えるようになるのです。

 このストレスは当然とても不快で苦痛なものなので、人はそれから、つまり自分自身から逃げようとして、自分自身にさらに不自然に手を加えるようになります。
 この結果、「人格」の内部にさまざまな不整合が生まれ、やがて不安や感情不安定が「症状」として表に現われるようになるわけです。

 たとえ症状として診断されることがなくても、このような怒りのストレスの蓄積は、現代人全てに程度の差はあれ共通するものでしょう。

 「普通の人間」と「心理障害者」に根本的な差は全くありません。
 これを踏まえた、現代人全てが目標とできる、「健康な心への道」という知恵が今必要だと思います。



怒りのない人生へ

 弱いから怒ります。そして怒りの中で、本当の強さや愛を知らずに生きてしまいます。
 怒ることをやめるという選択肢を考え、怒ること以外でものごとに対処することを学んだ時に、心の成長が始まります。
 そして心が成長して、十分に強くなれば、もう怒る必要さえもありません。

 心が強くなった時、愛は自然に生まれます。
 愛は怒りからは生まれません。「愛しなさい!」と怒りを込めて命令しても、誰の心の中にも、自分の心の中にも、愛は生まれないのです。
 怒りの感情を捨てること、怒りのない人生が、私たちの目標にできるものです。

 そして実際に怒りの感情が心の奥底からも消え去った時、心は健康になっています。
 以前の自分に比べたら驚くほど、すがすがしい気持ちの中で、楽しみや喜びにあふれ、愛のある生活を送れるようになります。
 しかしこれは「怒るのをやめましょう。愛しましょう。」と言ったところで達成できるほど簡単なことではありません。

 なぜ難しいのか。大きく3つの理由があります。

 1つめに、もともと感情は変えようとして簡単に変えられるものではないことです。
 おそらく私たちが心の持ち方によって変えられるのは、その時の感情全体の1パーセントくらいでしかないかも知れません。
 しかし今感情の1パーセントをきれいにできたら、残りの99パ−セントが次の100パーセントになります。それに対してまた1パーセントをきれいにできます。
 これを何回行えば、99パーセントまでがきれいになるのか、ちょっとこの計算は分りませんが、何百何千というこの蓄積を通して、全く別もののようにきれいになるという形になります。

 これを最初から最終の姿をイメージして、「こうならなくちゃ」と考えることは、自分に怒りのストレスを加える、もとの木阿弥です。
 大切なのは、自分が向かうべき方向を知ることです。なるべき姿や、なるべき自分という基準を作ることではありません。

 2つめに、私たち現代人、特に日本人は、怒りに頼るようなものの見方考え方を、この文化の中で深く身に染み込ませていることです。
 ものの考え方を変えずに、結果の感情だけ変えようとしても、無理な話です。
 ものの見方考え方、人生観や価値観を根底から変えないと、感情も結局もとのままということになる可能性があります。

 3つめは、怒りのストレスが心理障害という形になるまでになる時、もはや知性や理性によってはどうしようもできない、感情の膿の塊のようなものが心の中にできている場合があります。
 これはもはや、ものの見方考え方をいくら根本的に改善しても、そのままでは解消できないストレスの病巣として残り続けてしまいます。
 これに対しては専門的な取り組みが必要です。
 このサイトではこの専門的技術としてカレン・ホーナイの精神分析理論を採用しています。

 このような3つの課題に対応して、3つの「自分の心への取り組み」というものを考えることができます。
 1パーセントの心の改善を確実に導く姿勢根本的な意識変革、そして感情の膿への専門的な対処です。

 このサイトでは、この取り組みを専門的な心理学として説明しています。

 それはだいたいどんなものなのか、ここで引き続き説明をしたいと思います。

2003.11.2


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