入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



3.心の成長と自然治癒力


「自然治癒力」と「成長力」という大原則

 怒りのない人生、そして心理障害から健康な心への回復
 このような目標に向かっての、「心の持ち方」に関する心理学を、このサイトでは提供します。

 まず、「健康な心」になる力の大原則について説明したいと思います。
 それは、身体の医学と同じ考え方であり、「自然治癒力」および「成長力」が大原則になるということです。
 そして重要なのは、これは人工的に作り出すことはできないということです。


 病気や怪我の治療の技術も日々進歩しています。
 しかし当然、人間の自然治癒力や成長力がなければ、どんなに高度な治療技術をほどこしても、それは死体に治療をほどこしたような話で、「変化」は起きません。

 つまり「命」のエネルギーそのものが原動力であって、命は人間が作り出せるものではないということです。
 私たちの技術でできるのは、それをうまく開放し、成長を促すことです。

 このため、病気や怪我の手当てをしたら、あとは静かに回復を待つだけです。
 痛みを嘆いてそれを取り除こうとすることは、あまり役に立ちません。
 健康を回復するためにすべきことと、何もせずじっと我慢するだけにすべきものを、見分ける智慧。それが私たちの医学の姿勢そのものでもあります。


心の成長と自然治癒力

 心の健康についても全く同じ考え方を、このサイトではしています。

 心を健康にするのは、心の成長と自然治癒力であって、それ自体はどんなことをしても人工的に作り出すことはできません。
 私たちにできるのは、心の成長力を開放し、促すことであり、それを阻害している要因を取り除くことです。

 心の成長力は、人工的に作り出すことはできない。これはどんなことでしょうか。
 それはつまり、「心がこうならなくちゃいけない」と自分に強制しても、あまり役に立たないということです。
 心に痛みや悪感情があるとき、それを嘆いて取り除こうと焦っても、あまり役に立たないということです。
 身体の治療と同じように、心に正しい「ほどこし」を行ったら、あとは静かに心の成長変化に任せる必要があります。


心の成長とは何か

 でも、そもそも、心が成長するとはどのようなことでしょうか。
 これが分りやすく説明されることはほとんどありません。
 心の成長の特徴の1つ目は、それは体の成長と同じように、ゆっくりしたものだということです。このため、目の前で今成長するのを感じることはできません。1年前と比べたら大分変わっている、という風に感じることができます。
 2つ目に、それが必ずしも年齢や体の成長とは同じように起きないことです。個人差が大きいということであり、人によって心の成長が得られる時期が違ったり、人によっては心の成長が得られないまま時を経てしまう場合もあります。
 3つ目に、体の成長と違って、外から客観的には見えないことです。これがさらに心の成長とは何かが分りにくくなっている原因です。

 どうなったら心が成長したと言えるのか。それはとても表現が難しいものであり、世の中にはさまざまな考えがあるでしょう。
 このサイトの考えを少し述べますと、最も単刀直入な表現では、「安定した気持ちの中で自分が成長できたと感じることができる」ならば、心が成長したと言えると考えています。

 この表現は当然、同じ言葉の繰り返しのようなものでもありますが、実は深い意味を持っています。

 第1に、それは自分で感じ取れなければ意味がないということです。
 人に「あなたは成長した」と言われても、もし自分ではそうは思えず自分に不満を感じていたとしたら、あまり意味のない話です。

 第2に、「成長できた」と感じるのが一時的なものではなく、安定した永続的なものになるのが目安だということです。
 一時的に「自分は成長できたんじゃ」と感じることは、実際には成長していなくても、何度でも起ることがあるからです。
 これが揺らぐことなく、自分はこう成長できたと感じ、そして何故成長できたかもはっきりと分る。これは難しいことであり、そうなれれば間違いなく心の成長が達成されているのでしょう。

 第3に、上の表現には含まれないある感覚が、そこにあることを漠然と感じると思います。
 それは幸福感です。以前よりも自分が幸福であることを感じるからこそ、「成長できた」と感じるのであり、しかもその幸福は回りから与えられたものではなく、自分自身の成長によって得たものである。
 おそらく「心の成長」の最も重要な本質はここにあるでしょう。
 つまりそれは、「自分自身によって幸福に近づく能力の増大」を示すものです。これがこのサイトでの「心の成長」の定義となります。


心を解き放つ

 では、もう少し具体的に、どうすればこのような心の成長を得ることができるのでしょうか。

 自分の能力の発揮でしょうか。良い人間関係でしょうか。それとも欲に捉われない悟りのようなものでしょうか。神の愛でしょうか。
 どれもそうかも知れません。でもこれではまだまだ細かすぎると考えています。
 そのどれによって心の成長が達成されるとしても、その全てを貫く真実のようなものがあると思います。

 それは「心を解き放つ」ことです。

 私たちは人から教えられたり本などで学んだことから、「こうすれば良くなるんじゃないか」と考えて、自分をコントロールしようと試みることは、それほど難しくありません。人間にはそのような学習能力が備わっているからです。
 しかし、本当の幸福を手に入れた人々の特徴は、人の真似をしたり教わったことをそのままするのではなく、自分自身が唯一の存在として、自分の内面を開放し、その上でこの社会で調和のある存在であるように伸び伸びと生きることができた人々です。
 内面を解き放つことなく、自分をコントロールできても、あまり幸福ではない。これは直感的に理解できると思います。
 それはもう「しかたなく」「不承不承」で生きているようなもので、幸福感も不完全なものにならざるを得ません。

 「心を解き放つ」ことが生み出すパワーは、しばしば映画などで表現されます。
 私の好きな映画で2つ挙げると、アーノルド・シュワルツネッガーの『トータル・リコール』と、キアヌ・リーブスの『マトリックス』があります。前者では、シュワルツネッガー演じるタグが、心を解き放つことによって、消去されたはずの記憶から火星を救うリアクターの所在を蘇らせ、後者ではリーブス演じるネオが、心を解き放つことによって、マトリックスを越える力を得るようになります。
 「心を解き放つ」ということが映画のテーマになるというのも、これが人の心に直感的に何かを訴えるからでしょう。
 逆に見れば、これはごく一部の特別な人の話であって、平凡な普通の人間に及ぶ世界ではないと見られる、ということにもなるかも知れません。


心が成長する「生きる過程」

 実際のところ、心が成長するのは、上にも述べたようにゆっくりであって、「心を解き放つ」ことによって一瞬にして心が成長している、などという話ではありません。
 映画などは、これを一瞬の時間に凝縮したイメージを作ることで、現実にはない劇的なストーリーを作る。だからこそ映画の冥利ということです。

 では実際の、「心の成長」とはどのように起きるものなのでしょうか。

 それは心を解き放った上で、現実の生を生きることの中で起ります。
 そのどちらが欠けても、心の成長は起きないでしょう。
 心をいくら解き放っても、現実の中で生きる過程がないと、たとえば空想の中で心を解き放ったとしても、さらに悪い例では麻薬の恍惚感の中で心を解き放っても、心の成長は起きません。
 また現実の中を幾ら生きていても、心を解き放たないままでは、心の成長は起きません。それはただ時間の流れが過ぎていくだけです。ただ同じ生活を繰り返す中で、生きる意味も分らなくなります。

 心を解き放った上で現実の中で生きる時、内面の感情と、つまり欲求や希望や様々な思いと、「現実」という「壁」との衝突が起きます。

 この「内面と現実との衝突」こそが心の成長の過程とも言えるでしょう。

 これは若い動物が一人前になる様子などで観察することができます。
 一番分りやすいのは草原の肉食獣の狩りの能力の向上でしょう。若い肉食獣は、最初は遊びの中から獲物を追うことを憶えはじめ、やがて実際に獲物を追って、最初は必ず失敗を繰り返して、やがてさまざまな工夫や行動の仕方を憶え、それに習熟するごとに、狩りの成功も増えてきます。
 やがて、行動に熟練して、あれこれ迷わなくなるとき、この肉食獣の姿には「余裕」というものが現れてきます。つまり彼は「自信」を持ったのです。

 つまり内面の自然な欲求にかりたてられて、現実に飛び込んで、実際の失敗と成功の体験を繰り返すことによって、内面の衝動そのものが自然に成功を導くような形で湧き起ってくる、そうでない無駄な衝動はもう起きないよう、内面そのものの熟成変化が起きたわけです。
 これが「心の成長」の自然な姿と言えるでしょう。


心の成長を閉ざすとは

 ところが現代人においては、このような自然な心の成長というものがなくなり、別の現象が起きるようになってしまったようです。

 その違いとは、最初から成功した姿を自らに押し付け、失敗したら許さないという「おどし」の下で、生きるための能力向上をしようとするようになった、ということになると思います。
 つまり、心を解き放っていないのです。心を解き放っていないから、内面の元からの熟成変化は起きていません。

 内面を解き放っていないから、いやいやながら生きているような形になり、内面の熟成変化が起きていないから、いつまでも自信が持てないのです。

 「心の成長を閉ざす」とはどうゆうことかを考えてみましょう。

 それは、心に枠をはめることです。心の自由を奪うことです。
 それは、心がこうでなければならない、という「おどし」によって行われます。
 こうでなきゃいけない、さもなければ皆に嫌われ、怒られるぞ。ひどい目に合い、この世で生きることはできないぞ。
 このように心に枠をはめる態度は、最初は親などの躾によって植え付けられ、やがて自分自身による脅しとして取り込まれます。
 その形は、信条、主義、良心の呵責、正義感、価値観、自己嫌悪、等々実に様々です。
 でもそれら全てが、「自分自身の心に向かう怒り」という「おどし」によって自分をコントロールしようとする態度であることは、同じなのです。


心の成長を閉ざした現代人

 おどしによって心の自由を奪うという方法で、社会に適用できる人間になろうとする生き方ですから、基本的にあまり幸福感がありません
 またこの方法で社会に適用できるようになっても、それは最初から心に枠をはめて自由を奪った結果であって、脅すことなく内面を開放して現実にぶつかることを繰り返して起きる「内面の熟成変化」は全然起きていません。
 だから自信が全く定着しないのです。

 先の若い肉食獣の例と比べて、もうひとつ重要な違いがあります。
 若く未熟で、失敗だらけだとしても、彼にとってはその時の世界が全てであって、その世界の中で伸び伸びと生きている。決して成獣の余裕というゴールに至っていない全ての段階で、彼は生き生きとして、幸福も感じることができるのです。

 一方、心に枠をはめる方法で「成長しよう」とした場合、完成形のゴールに至る前は、その状態を楽しむことが絶対的にできなくなっています
 「こうでなきゃ駄目だ」という脅しの中で生きているわけですから、ゴール前の自分は、不安や恐怖の中で生きることになります。
 しかも人間はもともと神ではなく不完全な存在なので、ゴールに至れる事はほとんどありません。
 結局、ほとんどの時間が幸福ではない生を生きることになります。

 これが現代人の姿です。現代人は明らかに「本来の人間」に比べて不幸な生を送っていると思います。


「未知の自分」があることを受け入れる

 なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。
 これは大きく3つの理由があります。

 1つめに、上に述べた学習能力を使いすぎていることでもあり、前節で述べた「怒りによって人を動かす」という安易な方法に頼った結果でもあります。
 うまく行っている人を見て真似る。それ以外は駄目だ。
 これは実にたやすい方法です。
 これが人間の内面の幸福よりも、社会行動の効率性を重視する現代文化の中で、一人前になるための近道として深く浸透しているのです、
 確かにそれは社会への適用の近道のひとつではあったかもしれませんが、実はそれは「不幸な生」に直接つながる道でもあったわけです。

 2つめに、このような方法に頼った結果、「内面の熟成」「心の成長」というものがそもそもあることを、知らないでいることです。
 このため、ますます「学習と怒りに頼る方法」だけが選択肢になります。

 「心の成長」は実際に起きて体験して、はじめてそのようなものがあることを知ることができます。

 人間とは何か。心と感情とはどんなものか。人が人にさまざまな説明をします。
 しかし人はあくまで、今の自分の心を基準にしてしか頭では「理解」することはできません。
 心を解き放って現実の中を生きた時にどんな心の変化があるのかは、誰も頭で知ることはないのです。

 自殺願望のある人に、「生きていればいいこともありますよ」と言っても決して理解してもらうことはできません。
 彼彼女は現に今は、不幸な生を生きる心なのですから、それとは違う伸び伸びとした心の状態を幾ら説いても、今の心の中で考える彼彼女が新しい心を「理解する」ことはあり得ないのです。
 それはまるで、夢の中で、起きている状態を一生懸命知ろうとしているようなものです。

 このため、実際に心が成長する過程とは、本人には、「こうなりたいと思っていた自分になれた」と感じるのではなく、「こうなりたいと思っていたのさえ無駄なような未知の自分になった」とい感覚の中で体験されます。

 このため、本当の心の成長を望む場合に、知って受け入れるべきことは、こうなれればいいという姿ではありません。
 全く未知の状態に自分が変化し得るという事実を受け入れることです。
 あとは、心を解き放って、現実の中で生きるだけです。


イメージから抜け出す

 これを一歩立ち止って、「こうなれれば」という自分の姿を思い描いた瞬間に、心は解き放たれた状態ではなくなります。
 自分をまるで他人のように、「あの人のように」「こんな自分に」というイメ−ジを持った瞬間、それは解き放った心による成長ではなく、真似をして心に枠をはめるという、別の動きになってしまいます。

 これが、心の成長が閉ざされる、3つ目の原因であり、これが最大の要因かも知れません。
 実はこれは現代人だけの話ではなく、どうやら人間の心の基本メカニズムであり、逃れることはできないことのようです。

 このメカニズムはとても強力なので、すぐにつかまってしまいます。
 今「心を解き放つ」ということを色々と説明しましたが、これに関心して、つまり学習して、「心を解き放とう」と考えたところで、多分できないでしょう。
 できるのは、「心を解き放っているように見える人」の真似をしてみるのがせいぜいという結果に大抵なります。

 つまり、まったく元のままです。
 当然です。今あなたが行っているのは学習であって、心を解き放って生きる体験ではないからです。
 私がいくら心を解き放つことを説明しても、それは学習なのですから、それであなたが心を解き放つことができるようにはならないでしょう。
 心を解き放つとは、学習さえも及ばない心の未知の状態に自分を委ねることなのです。

 これで終わったら、このサイトの意味もありませんね。


心の成長を閉ざす態度をやめる

 上に述べたように、私たちの文化、そして基本的な心のメカニズムの中に、心を解き放つ成長を閉ざす原因が星の数ほどあることになります。

 しかし私たちは、学習によって、心の成長を閉ざす原因を正しく知り、それをやめる努力をすることはできます。
 そして実際、これが「心を解き放つための方法」の正しいものなのです。

 なぜなら、心の成長を閉ざす自らの態度を知り、それをやめるという時、後に何が残り生まれるかは未知とされるからです。
 心を閉ざす態度をやめる努力をして、あとは、ただ、生きることです。
 すると未知の変化が心に起こります。

 この未知を受け入れた時が、心の成長の始まりです。
 そして実際の心の成長は、常に、頭で理解することでは全くない、「体験」として起きます。

 このサイトの心理学は、このような考え方を最も根本にしています。
 心の成長を閉ざす基本的な態度から、価値観世界観、そして心理障害を起こすようになった複雑な内面の混乱まで、心の成長を閉ざす原因を詳しく説明し、それを脱するための「自分への取り組み方法」を提案します。



心理療法の本質

 世にある精神療法や心理療法は全て、なんらかの形で、この心の開放による成長と自然治癒を起こすことをねらったものであることを理解することができます。
 療法の違いは、言葉と着眼点の違いでしかないでしょう。心は目に見えないので、人によって表現の言葉が全く違うものになる場合があります。また多面的で複雑な現象ですので、強調するポイントが違うと、何か対立する思想であるかのように見えることもあるのです。
 でも私は全ての療法に効果があると思っています。
 心を開放した成長と自然治癒に逆行するようなことをしていない範囲であれば、ですが。

 このサイトでは、このような取り組みを、自分の心に真正面から向かい合い、ごまかしを一切せず、理屈としても十分理解しながら進めるための心理学を提供しています。
 上に述べたように特定の療法だけを良しとするものではありませんが、大きな位置付けとして評価しているものとして、認知療法カレン・ホーナイの精神分析を基盤にしています。
 また、このサイトの考えを「ハイブリッド心理療法」とも名付けています。「理論」として「定式化」することによって、個人の薀蓄という位置付けを越えて、広く人々に取り上げて頂くことをねらってのことです。


心の開放による心理障害からの自然治癒

 このトピックの最後に、心理障害が上に述べたような心の成長や自然治癒力によって治癒する姿を、簡潔に説明しておきたいと思います。

 心理障害が起きる状況においては、心の成長が単に閉ざされるよりもさらに込み入った問題が起きています。

 心の自由を奪うような「おどし」が、他人によって行動の自由を奪われるような形で起きるのではなく、自分自身によって感情の自由が奪われるように起きています。
 もちろん、最初のスタートは親などによる「躾という名のおどし」で始まりますが、それが自分自身の内面に、何重にも重なって取り込まれてしまったのです。

 この結果、彼彼女は、まるで自分自身の中に幾重にも折りたたまれたように、心が閉ざされてしまいます。
 「いい子でいなくちゃ」はやがて、「人を好きにならくなちゃ」という自己脅迫となり、自己脅迫が生み出す不安は対人恐怖に映し出され、彼彼女は激しい自己嫌悪を感じてしまいます。そして「自分を好きでいなくちゃ」という自己脅迫から、この自己嫌悪を彼彼女は受け入れることができず、自分自身からさらに逃げようとします。
 こうして「こうでなくちゃ」という自己脅迫の中をあっちに行ったり、こっちに来たりを繰り返し、やがて人格が大混乱に陥ってしまうのです。

 これに対する取り組み方法も、基本的な考え方は同じです。
 つまり、心の開放による自然治癒力が原理になります。
 ただしこれを行う過程はとても独特で、専門的な心理学の助けが必要になります。これを以降の説明、特に最後の「6.取り組み3−人は根本的に変わることができる」で説明したいと思います。

 ひとつだけ最初にお知らせしたいことがあります。
 それは、「心を解き放てるようになって、それから治癒と心の成長が始まる」のではないということです。
 このように考えてしまうと、「心を解き放たなくちゃ」という、この病の大元である自己脅迫につかまるという、同じことの繰り返しになります。

 全て「こうなったら」良くなるんじゃないか、という思考に、この病の大元は型をはめようとします。
 そうではなく、「こうならなくても」何かが起きるのです。
 それは、ただ生きることの中だけに探すことができます。知ることの中にではありません。


 「心を解き放つ」ことは、それだけ難しいとも言えます。「心を解き放つ」ことを探すのが心の成長と自然治癒の過程であり、心の成長と共に、心を解き放てる割合も増えてくるという形になると思います。

 より正確にいえば、それは「難しいこと」と考えることさえ誤りなのです。
 「難しい」とは、理解しようとするから感じることです。理解する、知る対象とは、既に起きたことであり、過去のことです。
 心を解き放つとは、未知のものを開放することです。それが現れるのを知るのは、常に「今」であって、過去ではありません。
 解き放たれた心とは、そもそも「知る」対象ではないのです。

 ですから、このトピックの最後の言葉として、あなたにお伝えするのは、「心を解き放って生きなさい」ではありません。
 心を解き放てなくてもいいから、生きるのです。

2003.11.22


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