入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



5.取り組み2−揺らぐことのない人生観と価値観の確立

5.1 ハイブリッド心理療法入門


ハイブリッド心理療法とは

 「ハイブリッド心理療法」は、このサイトの管理者である島野隆が体系立てを始めている、新しい心理療法です。

 すでに述べているように、心理療法としてはカレン・ホーナイの精神分析と認知療法という、2つの心理療法に基盤を持っています。
 ハイブリッド療法では、この2つの心理療法を単に両方とも行うということではなく、両者の良い面を組合わせた、新しいひとつの取り組み方法を定義します。

 「取り組み1−自分を優しく育てる」では、この心理療法の前提となる人間と心についての考え方を詳しく説明しました。
 以下では、この療法の基本的な「方法」について、大まかな概略を説明したいと思います。


思考と感情に対して全く別のアプローチ

 ハイブリッド心理療法の一番の特徴は、思考(および結果としての行動)と感情について、全く異なるアプローチをすることです。

 感情については、一切の善悪判断をすることなく、ありのまま受け入れること、そしてその感情が何であるかを知ることに重きをおきます。
 思考については、感情によって揺らぐことのない、前向きで建設的な思考を持てるようになることを目指します。

 心理障害では、大抵感情が病んだものになり、それが問題になります。
 しかし病んだ感情をむやみに変えようとするのではなく、それに対してどのような姿勢を取ることが心の健康にとって望ましいのか、学び、実践していく取り組みです。

 感情と思考に対して別々の姿勢を取ることによって、感情と思考との間に食い違いが置きます。
 ハイブリッド療法で重視しているのは、この感情と思考の食い違いです。感情と思考に食い違いが起きることで、そのどちらかが他方に合うよう変化していく、自然の力があります。

 この、感情と思考の食い違いをきっかけにして引き出される自然治癒力を、正しい心理学知識に基づいて導き、心の健康化への効果を発揮することを目指す。
 これがハイブリッド心理療法の方法の基本となる考え方です。


 もちろん思考と感情をばらばらにしただけでは困りますので、思考と感情に臨むアプローチを説明する、実に大量の心理学を用意しています。
 人間の心は複雑であり、幸福のためには実に沢山の課題があります。
 その中で、必要不可欠であり、本質的なことを、漏れなく網羅することを目指しています。


ハイブリッド心理療法の目的

 ハイブリッド心理療法の目的は、2つの面から表現できます。

 まず、本人の生き方および人生という観点で見るならば、自己が唯一無二の存在として成長しようとする、本来の心の自然治癒力と自然成長力を解き放つことです。これによって、自分自身の人生を取り戻し、自己の幸福に向って全力を尽くせるようになることです。

 心理障害の治療という観点で見るならば、まず、この心の病というものを、病気ではなく生き方の問題として扱います。そして、その場で心が和むことを目標とするのではなく、心理障害の土台となっている「人格」の根本的な健康化を目標とします。


本質的に自助努力型の心理療法

 この手段として、ハイブリッド心理療法では、本質的に自助努力を手段として、その実践のガイドを提供します。

 「本質的に」自助努力を手段とするということは、「私があなたの心理障害を治してあげます」とは、本質的に言えないということです。
 なぜなら、その人が自分自身を唯一無二の存在として成長しようとする心を解き放つことが目標なのですから、それを他の人が「こうすればそうなれますよ」と言うことは、あり得ないのです。誰に指示されたものでもないものとして、その人自身の中に湧き出る心の力。それを開放することなのですから。
 ハイブリッド療法が、解き放たれる心を与えてやるのでは決してありません。

 療法が何をするか。心を閉ざし枠をはめる原因を探り、それを克服するための心の実践をガイドすることです。
 これは定型的で、ほぼ決まった内容です。だから療法として定式化できるわけです。
 心を閉ざす要因を捨て、あとはただ生きることです。その結果、その人がどのような人生を送るのか、それをハイブリッド療法では何も規定しません。


「インフォームド・コンセント」

 医療の現場では今、「インフォームド・コンセント」というものがあります。
 現在の病状はどんなものか。どんな治療法が考えられるか。それによる回復の見込みはどんな程度か。逆に考えられるリスクとはどんなものか。
 医療をほどこす側が、受ける側にそれを十分に説明して、医療を受ける本人の意思と責任によりそれを受けるかどうかを判断するというものです。

 私は、心理療法においてもこれがとても重要であると考えています。
 心の病をどんな風に考えているか。どんな治療法であり、「治る」見込みはどうであり、失敗の危険とかはないか。


ハイブリッド心理療法の効果

 病気ではなく生き方の問題と見ていることは既に話しました。
 一方で、幼少期からの心の問題は、脳生理レベルでの変化にまで及んでいるらしい、とこのサイトでは考えています。幼少期からの怒りのストレスが、脳生理レベルで、「感情の膿」となって、何か脳内物質的に圧迫を起こしているようです。

 実は、ハイブリッド療法が狙っているのは、この問題を解決することによる、脳生理レベルでの健康化です。
 生き方に取り組むというのは、その糸口としてであり、手段でしかないと言ってもあまり過言ではありません。

 ハイブリッド心理療法では、特に精神分析の応用である「感情分析」という取り組みで、このレベルに及ぶ治癒効果を期待しています。
 一言でいうと、感情分析を通して、感情の膿を出すような辛い体験を経たあと、生まれて初めて体験するような開放感や、生き生きとした感情が得られるようになることがあります。これはあと戻りしない変化です。
 心の問題として解きほぐして行くのですが、それを経過した後には、全く何の関係もない事柄でも心の機能に向上が感じられたのが、私自身の体験です。その結果の心の改善に、しばしば、特定の心の問題の解決そのものとは論理的なつながりのない広範囲な向上が見られるのです。
 このため、「感情の膿」が取り除かれることで、脳が本来の機能を回復するというようなことが起きるものと考えています。

 これは、心理障害というものがこの取り組みを通して、かなり重度なものであっても、根本的に解決することができるという可能性を感じさせます。
 このような根本的な治癒の仕組については、「取り組み3−人は根本的に変わることができる」で説明します。


ハイブリッド心理療法の限界

 一方、この療法で必ず心理障害が治りますとも言いづらい部分があります。
 それは、心理障害というものが病気ではなく生き方の問題だというのと似た話です。

 それは本人がどう自分の生き方を変えようとするかという意志に依存し、それによる本人の自助努力に依存します。
 さらに、この療法では、治癒というものを心理療法だけの問題とは考えていません。生活そのもの、人生そのものの過程であると考えています。置かれた生活環境や人生の出来事がプラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともあるでしょう。
 心理障害からの回復を、それら全てを通した結果であると考えています。

 この取り組みを通して健康な心を回復できた時、きっとあなたは、「ハイブリッド療法のおかげで心が健康になれた」とは思わないでしょう。
 むしろ、心の健康を取り戻させたのは、自分自身以外の何ものではないことに確信を抱くでしょう。
 ハイブリッド療法とは、むしろ、その力に気づかせるためのものです。その力を選ぶという選択肢をあなたの中に呈示する。療法ができるのはそこまでです。

 ハイブリッド療法の本質とは選択肢を呈示することである。そう私は考えています。


ハイブリッド心理療法のリスク

 一方、この取り組みを本格的に進めようとする場合のリクスは明確です。

 これは主に「精神分析を試みるとかえって悪化することがある」と言われることがあるのに、ほぼ該当する話です。
 ありのままの感情を受け入れていくという時、そこには、今まで何とか感じまいとしていた「もう直せない感情」への出会いもあるでしょう。
 いままで自分は大抵の人とうまくやっていると思っていたのに、心の底に埋もれていた対人恐怖感情に出会うかもしれません。今まで「気にしない」と目を背けていた心の中の悪感情に直面せざるを得ないかも知れません。
 その結果、「気合で」人に明るく接していたのがもうできなくなり、仕事や人付き合いに一時的な困難が起きるかも知れません。

 さらにはっきり言えるのは、この取り組みは、多分に、今までの生き方への絶望体験という通り道があることです。
 なぜなら、心の問題を生み出したのは、本当の自分ではない別の何ものかになろうとする衝動が、心の土台そのものになった状態です。これを脱却するとは、一度、心の土台から今までの生き方に絶望するという通り道があるということに、理屈の上でもなるのです。

 なぜこのように一見悪化するかのような方向にさえ、本人は導かれていくのか。これも明確です。
 そこに真実があるからです。自分に嘘をつくことで何かが楽になることはあっても、何かが同時に失われ、「嘘」というストレスがひとつ加わります。それを脱し、痛みを伴ってさえも真実に戻ろうとする本能が、人間の心にはあります。
 感情分析の原動力は、人間の真実への本能であると言えます。

 心理障害は、こんな療法をするか否かに関わらず、不可避的に本人に苦しみと絶望をもたらすものです。
 そうであれば、心理障害に翻弄される苦しみとしてではなく、自己を取り戻す苦しみとする方が得というものです。
 それは「成長の痛み」です。自分についていた嘘が破綻する痛みであり、今まで地盤としていた、病んだ生き心が取り除かれる痛みです。
 一方、心理障害そのままでの痛みとは、この病んだ心が本当の自分を鞭打ち否定する痛みです。


精神分析の改良

 もっとも、「精神分析をするとかえって悪化することがある」と言われるのも当然の理由がありました。
 それは、「ありのままの感情」に出会うだけで、出会ったあとどうしたらいいのかを、精神分析は何も言っていなかったからです。これではまるで、病巣が見えるようメスで切り開いて、「あとは好きにして下さい」と言ってるようなものです。
 このため、ハイブリッド心理療法では、出会った感情に対してどのような姿勢を取るのが望ましいのかを、先に理解して用意しておくような進め方を考えています。

 もうひとつ、安心(?)して頂きたい点があります。
 この療法では「自己分析」が主要な実践となりますが、純粋に自己分析だけで本人の心に危害が加わることは本質的にありません。これは精神分析における定説のひとつです。

 というわけで、多少は覚悟の上で(^^;)、あまり心配することなく、こんな心理療法も考えてみてはいかがでしょうか。

まず自己建設型の生き方の学習から

 ハイブリッド心理療法の取り組みは、2つの大分異なる実践から成り立ちます。

 まず思考への取り組み。これは「自己建設型の生き方」の学習です。
 人間の生き方には根本的な選択肢があります。そのうちどれを選ぶことが心の健康と幸福のために望ましいのか。
 これをまず頭で理解します。感情はいったん脇において、思考への取り組みをします。

 人は心理障害の中で、基本的に自滅する生き方をします。
 それが「正しい」と思い込んでいるのです。そうではない、別の生き方、別の考え方がある。それを単純に「知らない」うちは、何もしようがありません。
 とにかくまず、知識として別の生き方、別の考え方を持つことです。

 ここで、できるだけ、自分が実際にどうであるとか、どうしたいとかの感情は抜きにできれば、と考えています。
 とことん、とにかく理屈とてしてはどう考えるか、思考への取り組みをしたい。


 その理由は、感情が出てくると、どうしても次のステップである精神分析的な取り組みに関心が流れてしまうからです。
 心の選択肢は、精神分析的な取り組みの中で、出会うことができます。これはとても難しい作業を通してです。
 しかし、選択は出会った時すぐ求められます。そうなってから望ましいのはどっちか、それは何故か、と心理学を勉強しているのでは、ちょっと間に合わない可能性があります。
 だから、先に学んでおくわけです。

 また、心の問題の幾つかは、精神分析的に深く切り込むまでもない、比較的単純な心の姿勢の修正で改善できます。まずこれで可能なことは先に全て行っておきたいと思います。


心の根本的な選択肢

 人間の心には、与えられた境遇や自分自身の状態をどう捉えるか、どう対処するかに、ある根本的な選択肢を持つメカニズムが備わっています。
 それは内面のメカニズムであり、外面には関わりなく選択肢が映し出されます。
 つまり、その選択肢が存在することそのものは、「もし〜であれば」という「条件」には一切影響を受けないということです。
 もちろん、選択の具体的な内容は、状況に応じて色々と変わるでしょう。
 でも、外面がどうだから選択肢もないのだということは、あり得ないということです。内面のメカニズムだからです。脳のメカニズムと言ってもいいでしょう。

 人間の生き方を根本的に変える、このような選択肢が、片手で数えられる程の僅かなものに集約できることを見出しています。

 その最初の選択を、既に説明しました。それは「未知への選択」でした。今の自分の感情で、ものごとを決め付けないことです。自分が変化し得るという可能性を、否定しないことです。
 また、このサイトの価値観人生観を「心理学的幸福主義」として説明しました。これは根本的な一つの選択というよりは、幾つかの考え方から成る、人生を生きて行く上での基本的な考え方です。これを採るかどうかも、選択ということになります。

 「未知への選択」と「心理学的幸福主義」に立った上で、あと3つの選択を説明したいと思います。
 「自己への責任」「イメージから現実へ」「過去から未来へ」という選択です。

 これを3つの側面について検討します。
 自己に対する生き方考え方、他者に対する生き方考え方、人生に対する生き方考え方です。


選択のポイントはどこに現れるのか

 こうした選択肢があるということは、言葉としては比較的ありきたりのことかも知れません。
 問題は、その選択を問うポイントが、果たして人の心のどこに現れるのかということです。特に、病んだ心から健康な心への道という、この取り組みにおいて。

 そこに幅広く深い心理学が必要になります。
 なぜなら、様々な感情や思考が、がんじがらめに絡みあっているので、その中で都合が悪く目立つ一点だけを取り上げて、「選択を変えることで」良くしようとしても、無理だからです。
 選択のポイントは、むしろ、何故その一点が都合悪く感じるのか、なぜそれを良くしたいのかの、あなたの姿勢にあるのかも知れません。


感情は選択できない

 感情は基本的に選択の対象ではありません。

 この感情は嫌だから他の感情を「選択」しようとしても、そうはできないのです。
 感情は、与えられた心身の資質と現在の状態、置かれた環境、そして獲得した来歴や能力と姿勢を反映した上での、生きるエネルギーとして、意識的制御は基本的にできないものとして湧き出てくるものです。
 生きて行く上で、自分がどうありたいかと考える。私たちは湧いてくる感情の結果、そう考えます。それを、「こうなる」ためには「感情がこうなっていなければ」と考え始めた時、人は自己撞着に陥ります。

 選択のポイントは、感情そのものではなく、感情に対する私たちの姿勢の方に現れます。
 なぜなら、私たちの心を病ませたのは、「感情がこうでなければ」と自分自身にストレスを向ける、私たちの感情に対する誤った姿勢にあったからです。
 この取り組みでは、これを逆の方向に戻すわけです。

 自分の感情を無理に変えようとせず、そのまま受け入れた上で、その感情や自分の置かれた現実状況に対してより適切な行動をするよう努める。
 それによって私たちの心に、成長や治癒の作用が起きます。
 感情が良いものに変化して行くのはその後に、心の成長の結果としてです。感情を良くしようとして良くなるのではありません。感情を越えて、私たち自身の心を育てるという智慧が大切になります



感情へのアプローチ

 この取り組みが難しくなる理由は、私たちの感情が、幼少期からの「感情がこうでなければ」という無理な姿勢の中で、あまりにも複雑に錯綜し、さらにその錯綜の上に「発達」が起きていることです。

 「自分はこんな感情でいなければ」というストレスの中で、やがて「自分はこんな人間だ」と本当の自分とは別の自己像を自分に強いる。やがてその自己像に基づいて、対人感情も形づくられて行く。自分はこんな人間なのだから、人は自分にこうしてくれるべきだ。そうでないとは、人が悪だということだ。それとも自分がいかさまの駄目人間だということだ。
 こんな結果として、自分の姿勢の何をどう変えれば良くなるかが分らない状態に陥ります。


 このため、感情に対しては、まず次の2つの実践がアプローチになります。

 第1の実践は、悪感情に対する基本的な対処法を学ぶことです。
 具体的には次のようなものを挙げることができるでしょう。詳しい話は後として、ここではサマリーを述べます。

 ひとつ目に、「痛みを嘆くことにより苦痛になる」「苦痛のない自己をあるべき姿を考えることにより苦悩になる」という膨張を解除すること。苦悩を苦痛に、苦痛を単なる痛みにまで戻すことです。
 ふたつ目。恐怖や苦しみなどの悪感情に対する、誤った意味付けを解除することです。意味の分らない恐怖や苦しみは、幼少期からの「感情の膿」であって、現実がどうであるかを示すものではありません。
 みっつ目に、有意義な心の痛みがあることを心得ることです。悪感情を行動化せず内面に留めると、行き場のない悪感情による心の痛みになります。それから逃げず、それを痛むことそものもが治癒成長の過程であることを知ることです。
 よっつ目。自分を容赦なく追い立てるのをやめることです。これにも2つあり、ひとつは「自己受容」。これが大切であることは各種の心理療法で良く言われることですが、「自己受容しよう」と思ってできるとは限らない限界も理解しておくと良いでしょう。もうひとつは、仕事や家事など日々の生活をストレスなくこなすための技術のようなものがあります。これは心の問題に悩む方が自分では注目していないところで実に共通する話で、結構重要だと思います。


自分の感情を知る

 第2の実践は、自分の感情が何であるかを知ることです。
 これが感情への取り組みの中でも、最も大きいパートになります。

 「自分の感情が何なのかを知る」とはどんなことかを理解するためには、と同時に「自分の感情が自分で分らない」状態がどのように起きているかも理解すると良いでしょう。
 ちょっと抽象的な表現になりますが、起きていることを一言でいえば、「連鎖と蓄積」ということになります。
 これを逆にときほぐすことが必要になります。

 ある人は、「誰よりも良い子で一番でなきゃ」というストレスの中で子供時代を過ごし、大学受験を目指す頃から焦燥感が強くなり、やがて勉強も手につかず家庭内暴力や引きこもりを経て、社会人になってからの全般的な人間関係や人生への悩みから心理療法を考えるかも知れません。
 この時、彼彼女が心のメカニズムを学ぶことで、自分が満たされない愛情と人生への嫉妬から、自らに別の理想的な自己を強い、自分を特別扱いすることへの要求を世界にも向けて怒りの中にいたこと、その結果対人関係が悪化していたことを分ることができるかも知れません。

 だけど、そう「分った」として、彼彼女は自分の対人感情と対人行動を変えることは、恐らくあまりできないでしょう。
 彼彼女の心の中の世界にも、あまり変化はないでしょう。

 なぜなら、そうした来歴の中で抱いた感情は、ほとんどが未解決のまま、「感情の膿」となって心の底に幾重にも蓄積しているからです。
 ひとつの感情の膿の底に埋もれた別の感情の膿は、もう今の感情や思考からは届きません。
 一方で、今の意識からは届かない感情の膿は、その人本来の生き生きとした感情の出口を塞ぎ恒常的なストレス源として作用し続けます。
 見えるところから、ひとつひとつ、解きほぐし、克服していくことが必要になります。

 そのために、「感情分析」という特別な取り組みを行います。
 これは精神分析の一種ですが、主に2点の違いから、別に呼んでおきたいと思います。1点目は、分析結果の感情について、どのような姿勢が望ましいのかという選択肢を先に用意すること。2点目は、カウチに横たわっての自由連想などの形式には一切とらわれず、むしろ生活の中での実践を重視することです。


「感情分析」の取り組み

 ハイブリッド心理療法の2つ目の柱、「感情分析」は、今まで抑圧してきた未消化の自分を探求し、生き直す過程であると言うことができます。
 未知に出会うことへの選択、感情をありのままに受け入れること、そして悪感情への対処を経て、より詳細な心理メカニズム学習と共に、それを進めることができます。

 感情分析によって自己の感情を知るとは、主に2つの側面があります。

 ひとつの側面は、自分の感情の成分を吟味把握することです。
 例えば、恋愛感情の中で不安定になる人は、「愛」と感じていた感情には単に相手への肯定的な感情だけではなく、自分が必要とされ評価されることで自尊心を回復しようとする、自分自身による自己評価の欠如があることを感じ取らなければならないでしょう。あるいは、相手を獲得することで人への優越感を得ようとする衝動が含まれていることも感じ取らなければならないでしょう。

 感情に流されるのでなく、積極的に反芻吟味して、その意味を知る努力をします。
 反芻吟味するのは、今の悪感情そのものではなく、その大元になっている感情成分の方であることにご注意下さい。
 やみくもに反芻吟味すればいいのではありません。ここに感情分析そのものの勉強がちょっと必要になります。

 感情分析で捉えられた感情のある成分は、自己建設的な思考によって意識的に行動化を避けるべきものかも知れません。ある成分は、はっきり意識されることで自動的に放棄されるかも知れません。
 そのような自己分析を通して、感情は意識的な操作で変わるのでなく、感情の湧き出る根元のところから変化が起きてきます。


置き去りにされた感情への出会い

 やがて次の側面として、今まで意識されることのなかった、封印されていたような感情が出てくると思います。
 彼彼女は、訳もなく身も心も誰かに委ねてすがりたいという感情が自分の中にあることをありありと感じるかもしれません。世界の誰もが敵であり、自分は全ての他人を踏みつけて一番にならなければ駄目なのだという感情を、ありありと感じるかも知れません。愛し合い楽しみ合う人々を前に、地面を叩いてくやしがる自分自身を、ありありと感じるかも知れません。まるで得体の知れない野獣に囲まれた雛鳥のように、他人への不信と恐怖を抱く感情が自分の中にあるのをありありと感じるかも知れません。

 そうした感情を感じ取って、どうするかというと、何もしません
 なぜなら、それは置き去りにされていた自分の感情であって、現在の現実世界についてのことではないからです。

 こうして、「未消化」の感情をありのままに感じながら、先の「自己建設型の生き方」で学ぶ思考と行動を保つ時、その人の置き去りにされた未消化の感情と今を生きる姿勢の、最大の食い違いが起きていることになります。
 その衝突こそが、心の自然治癒力と自然成長力が働く最大のポイントになります。



人格治癒のメカニズム

 その時、本人にはただその感情を感じる辛い時間があるだけであることを、心得ておくことが必要です。

 今までは、そうした感情を感じずに済むような行動を取ることが「解決」であるかのように思い込んでいたと思います。そうではなく、その感情の意味を知り、何もせずにただ感じることで、その感情をもう不要にするような、心の成長が起きるのです。
 ただ辛い時間をやりすごすことで、やがてそれは消えて行きます。
 少し落ち着いたら、今度は別の感情が現れてくるでしょう。

 この過程を通して起きる、人格治癒のメカニズムのサマリーをお伝えします。
 これは超サマリーです。説明は「取り組み3−人は根本的に変わることができる」で。

 一貫して基本的に進むのは、自己の重心の回復と、「感情の膿」の減少です。
 自己の重心の回復は、「なるべき自分」の通りだと思い込もうとする自己欺瞞の解除と、対人関係の問題として感じ考えたことを自分の内面の問題として「戻す」ことで成されます。これは内面の力の増大につながります。
 感情の膿は、それを内面の問題として「解かれた」状態で、それを乗り越える潜在的な内面の力が揃った状態で、それを回避せずに直視する形で体験した時に、解消に向かいます。感情の膿は脳生理レベルでのストレス源です。その減少は広範囲なストレス解消につながります。
 人格分断とそれに起因する葛藤は、それを構成する人格傾向や強迫的衝動のそれぞれの強度の減少の総合的結果として、その破壊性を減少させて行きます。


「自己操縦心性」

 もうひとつ、心理障害の核心には特別なメカニズムがあります。

 このサイトではそれに「自己操縦心性」と名付けています。
 これは、思い描いた自己像を主(あるじ)、現実の自己を従(しもべ)として、自分自身の感情を監視操縦しようとする、ひとつの「人格体」です。これが個人本来の自発的感情を生み出す健康な人格体とは別に、人間の人格メカニズムとして備わっているのです。
 空想と現実を逆転させ、空想こそが現実だと錯覚させるような心理トクッリを発揮するメカニズムです。

 これが意識より深い、人格の土台で働きます。
 人が心理障害で揺れ動く感情や思考を「やめよう」と思ってもそうできないのは、この心性が感情の膿をエネルギーにして駆動しているからです。これが心理障害を治しにくいものにしている張本人です。 
 心理障害に良く伴う「人格の多重化」も、このような「別の人格体」があるからに他なりません。
 ハイブリッド療法では、より専門的な感情分析によってこれに取り組みます。

 真実の自己に向かう意志の下で感情分析に取り組むことで、この自己操縦心性も早晩崩れ去らせることができます。
 しかしこの心性は同時に「今までの生き方」を支えていたものです。この心性の崩壊は、それが人格を占めていた割合に応じて、巨大な絶望感として意識表面に現われます。これは「死の願望」をも生み出す可能性があります。
 これを再生の痛みとしてやりすごすことが大切です。

 自己操縦心性が崩壊することで、今までの病んだ人格の一部が消失することになります。
 思考や感情に、連続性のない断絶の時間が過ぎたあと、「病んだ心が消えた」という感覚さえ本人は持たないまま、崩壊した心性の部分を、まっさらな健康な心が埋めていくような心の成長へと向かいます。

 この自己操縦心性の除去が、人格上に維持されていた心理障害の根本的解消となります。
 ハイブリッド心理療法のひとつの本質は「生き方の選択肢を呈示する」ことにあることを述べましたが、もうひとつの本質とは、自己操縦心性への対処技術だと言えます。


心理療法を越えて

 自己操縦心性が人格の中で優勢な状態からこの取り組みを始めた場合、この取り組みへの意欲もおうおうにして、「健康な心になった別人の自分」になろうとする、この心性の衝動に支えられることになります。
 その結果、この心性の崩壊がもたらす絶望感は、同時に、この「治療」によって「治る」ことへの絶望感をも、引き起こすかも知れません。この治療によって「こんな自分」になれるはずではなかったのか、と。

 それでも生き続けることです。
 ここにハイブリッド療法のもうひとつの本質がああります。それは、これは療法ではなく人生の過程だということです。

 「治ってから」心の悩みのない別の人生が始まるのではありません。「治らなくても」人生を前に歩むことに、成長があります。
 「治療」によって真の自信は生まれません。「治療」によって何とか自己の重心を取り戻し、ぎりぎりの中で人生を生きることです。その中で、失敗を重ねながら、よりうまく人生を生きることができるようになるにつれて、真の自信が育ってきます。そして感情の膿を解きほぐし直面する体験を繰り返して、感情の膿は徐々に消失していきます。

 しばらくの間、人格治癒は、目に見える自分の問題がきれいに消えるという形は取りません。
 目に見える問題はあまり変わらないまま、自分の足元がしっかりしてくるという形を取ります。

 かなり心が健康になった後も、残った感情の膿が「ある」ならば、何度でも同じ構図の問題が現れます。その都度、同じ対処をすることで、同じように、足元がさらにしっかりしてきます。

 やがて、問題の強度と頻度が減り、感情基調全体が良くなってくるという形で実を結びます。
 その頃には、全てが好循環の中にあることが分るようになるでしょう。足元がよりしっかりすることで、より少ない動揺で、自分の内面の問題に取り組めるようになります。同時に、問題そのものの破壊力が減少し、より容易に乗り越えられるようになります。


終わることのない向上へ

 では、「どうなったら」ハイブリッド療法による「治療」完了となるのか。
 あえて目安を言うならば、自分自身の成長を揺るぎないものとして感じられる状態ということになるでしょう。それは同時に、何らかの幸福感と、自分の人生を取り戻したという達成感があるでしょう。同時に、自分の感情がどのようにして良くなったり悪くなったりするのか、改善のためにどうすればいいのかも、具体的かつ正確に分っているでしょう。

 しかしそのように「なる」ことは、この取り組みにおいてもはや「目指す」ことではありません。
 誰にでもその可能性があるのは揺るぎない事実です。しかし重要なのは、方向性を知り、そこを歩むということです

 この取り組みにおいては、その途上過程において「どうなったら」どうこうという話はありません。
 どうなろうとも、ハイブリッド療法で成すべきことは最初から最後まで一貫しています。それは選択を知り、自分の心を知り、感情が揃わないところにおいて前を向き、自己の幸福のために全力を尽くすということです。これが、私たちの心を育てる技術なのです。

 生きている限り、私たちの心には自然治癒力と自然成長力があります。
 私たちが私たち自身の心を正しく知ることで、その力を解き放つことができます。
 それによって私たちはいつまでも、未知の自分自身に出会い、成長することができます。

 そこに、生涯終わることのない向上があります。


2004.9.18


inserted by FC2 system