1.ハイブリッド人生心理学とは 2.「取り組み実践」への理解 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) 3.学びの体系 4.メール相談事例集 |
2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』 として無料電子書籍化しました。今後の更新は電子書籍側のみになります^^。 |
1.ハイブリッド人生心理学とは
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ハイブリッド人生心理学は、心の健康と心の成長、そして人生の豊かさのための新しい総合的な心理学です。(説明の中では通常、短く「ハイブリッド心理学」と標記します。) その内容は、大きくは人生成功術(行動学)と心理療法(カレン・ホーナイ精神分析と認知療法)を基盤とし、スピリチュアリズム(精神世界論)が目指すものと同じ、心の清らかさとすがすがしさ、そして豊かさを目指すゴールとするものになります。 |
それが至る心の境地を、このように表現しています。 「揺らぎない自尊心によって支えられ、愛によって満たされ、もはや何も恐れるもののない心」と。 考え方 どのようにして、そうした心の成長と豊かさへと向かうことができるのか、この心理学の考えの概要をここで説明します。 それは一言では、このように言えます。 |
そこで生み出される、「こんな自分になれたら」と自意識であらかじめ想像していたものとは全く異なる、未知の自分への変化として「開放」されるものこそが真の成長であることを感じ取ることを足場に、思考法行動法と価値観をより大きな「開放」に向かって変化させていき、「開放」される心の成長が上述のゴールの境地にまで至る、長い人生の歩みという縦の軸から成るものと言えます。 それはたとえるならば、感情と「人の目」の波にただ流され、根無し草のように漂う海の中から、自分の足でしっかりと大地を踏みしめて歩み始める平原へ、やがて豊かな緑の草木の間からの爽やかな風が吹く山の麓へ、そして世界の全てが輝きの中に見渡せる山の頂きへというように、未知の異次元の心の世界へと成長変化していく道のりを歩むものです。 その歩みのスタート地点は、人により海底の深い闇であったり、あるいは比較的幸運な来歴に恵まれ、すでに自分の足で前に進むことのできる平原であったりするでしょう。しかしそれ以上の人生の道のりの歩み方を教えてくれる者はめったになく、多くの人が当てもなく歩き回っているのが現代だと言えるでしょう。 そこで歩みの位置がどこであっても、なすべきことは誰においても同じです。大地にしっかりと足を踏みしめ、次の一歩を歩むことです。一貫して、内面感情は開放し流し理解し、外面行動は建設的行動のみ行うという、「感情と行動の分離」の姿勢に立った実践としてです。山の頂きというゴールに至るのも、全てがその一歩一歩の積み重ねにすぎないのです。これは横の軸に該当します。 一方、歩みの道のりの全体を把握し、今自分がいるのがどの地点かを理解することは、次に目指すべき場所とその方角を正しく知ると同時に、自分に起きる動揺とその克服について理解し、気分の一時的な昇降に一喜一憂するのを抜け出して、この長い道のりを歩む決意をするために重要です。これは縦の軸に相当します。 「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という取り組み目標 道のりの先にある「永遠の命の感性」という山の頂きは、さまざまな哲学や宗教を始めとして多くの先人が至ったゴールと同じであり、人間の真実は一つであるとハイブリッド心理学では考えています。 しかしその山の頂きに向かう登山ルートは一つではないということになるでしょう。ハイブリッド心理学は、それらとは大分異なる、これからの時代にふさわしいと言えるであろう新しい独自の道を取ります。 それは、道徳善悪の思考を捨て、ごく実直な現実科学的思考と論理的思考の徹底によって、私たち自身の心の幸福と豊かさを捉え直し、それに沿って日常生活および人や社会との関係における思考法行動法を向上させると同時に、それを妨げる内面の動揺や深い闇の感情を精緻に解きほぐしていく先に、私たちの心のあり方を根本的に決する、大きな「選択」を見出し、「選択」を成していくというものです。 中でも「最大の選択」となるものを、「否定価値の放棄」および「不完全性の受容」の選択と呼んでいます。 それは、何か望ましくないもの、劣ったものを否定し、怒りを向けることができることで、自分の価値が高まると感じる、心の根源にある幻想的な信念とも呼べる感覚をしっかりと見据え、心底からそれそれを捨て去ることです。その「否定できる価値」という感覚は、「完全完璧」「絶対なるもの」に惹かれ追い求める心の深層の衝動とも結びついており、さらにその深層には、自分が「価値のある人間」と「価値のない人間」を振り分けることができる「神」を代弁する座にあると感じる、無意識の傲慢が横たわっています。それは他ならぬ自分自身と、自分をとりかこむ世界に向けられ、ものごとの良い面よりも悪い面に積極的に目を向ける思考と感情を恒常的に生み出し続けます。それが、「自分から不幸になっていく」という人間の「心の業」の、正体なのです。 心の根底で回り続けていたその巨大な歯車を捨て去った時、私たちの心の世界が一変します。硬く閉じた暗い感情と、漠然とした「・・でなければならない」という感覚に恒常的に追われ続けていた心が、開放感に溢れ、世界の全てを新鮮なものに感じることができる心へ。自分からものごとの悪い面に目を向ける姿勢が心の根底から消え去り、自分が道徳心のない能天気人間になってしまうかと感じるほどの変化になるかも知れません。 そしてこの後の歩みを決定づける変化として、「望みの感情」が心の根底で開放されます。それは今まで、「こんな自分であれば望める」「こんな自分では望めない」と、いわば「自意識の検閲」を通してのみ意識できたものが、そこから解き放たれ、ありのままの自分が、この世界で何をどのように望んでいるのかを、ありのままに感じることを自分で許せるようになるのです。 「現実の世界」と「魂の世界」という2つの世界における力強い前進の一歩一歩が始まるのは、実はここからです。外面においては、感情の揺れによってぶれることのない、建設的行動法。内面においては、心の根底から湧き出す姿そのままの、純粋な「望み」の感情。この2つを基本的な道しるべとして、最後に自分の行き先を決定するのは、自分が生きることの意味と、重みと、そして喜びをもはや自意識思考の理屈抜きに伝えてくる「魂の感情」になるのです。そうして「魂」に導かれていく歩みが、ここから始まります。 これは海と平原、そして山の麓と頂きという道のりのたとえにおいては、果てもない平原から、山の頂きへの登山道の入り口がある麓にたどり着いたことに相当します。ここまでは、果てしもない平原を試行錯誤の中で自分で考えた方向に向かう形になる一方、山の麓にたどり着くまでは自分の心の状況にあまり変化はありません。ここからは、先にある道を今までと同じ一歩一歩を刻む力で登っていく一方で、自分で考えるよりも山そのものつまり「魂」が自分を導き、一歩一歩を刻むごとに自分の心が変化していくのが分かるようになります。 そのような道のりの流れとして、ハイブリッド心理学ではこの「否定価値の放棄」および「不完全性の受容」という心の大きな選択転換を、「取り組み実践」の「習得達成目標」に位置づけています。 取り組み実践の習得達成によってすぐ心が良くなるのではなく、習得達成された心の姿勢と思考法行動法によってさらに人生を歩むことが、心を未知の異次元の豊かな世界へと変化させていきます。そうして山を登っていく中で自分の心に起きる変化にさらにしっかりと目を向けることで、そこに「命」という全ての根源の力があることが、ありありと感じ取れるようになるのです。この時、山の頂きがもう手に届くところに近づいています。 ハイブリッド心理学を学び始めた方にありがちなのは、建設的な外面行動法と内面向き合いを、ごく浅く表面だけ真似ることで、すぐ心が良くなることを期待して、思考が「選択」にまで深まらないケースと、外面と内面への向かい方が心に定着しないまま、「選択」だけを「心がけて」いれば自分が変わっていけると期待するケースで、どちらもなかなか変化できないケースになりがちです。 そのようなものではなく、外面と内面への向き合いが変化定着していくことと、心の根底にある「選択」に気づき、自分でその「選択」を決するという道筋が、全て辻褄が合い、心の整合性と統一性が整った時、心底からの「選択」として心の大きなの扉が開き、そこからいよいよ変化に導かれる人生が始まるという形になりますので、「取り組み実践」をされるならばぜひ留意して頂ければと思います。 「心」と「魂」と「命」の開放 下に添付する「心の成長の道のり情景図」は、ハイブリッド心理学が考える人生の歩みをイメージ映像化したものです。 それは未熟と病みの大海から、自分の足で立って歩く成長の大地へと向かい、山の麓の「魂」を経て、やがて山の頂きの「命」に至る、というものです。 それは、海から大地へ向かい、山の麓にたどり着き、やがて山の頂きに至るという3つの節目がそれぞれ、「心の開放」「魂の開放」「命の開放」と位置づけられる、私たちの心を構成する「心」と「魂」と「命」という3つの別々の機能体を、「自意識の惑いの檻」から開放していく歩みだと言えます。 ここまで説明した心の成長変化がどのように起き得るのか、その道のりを説明しましょう。 心の成長の道のり情景図 「心の開放」は、まずは未熟と病みの檻から心を開放し、自分の足で立って歩き、自分の考えで自分を方向づけることができるようになることです。 それは思考面においては、心に枠をはめるような既成の道徳善悪観念から思考を開放し、小学校で学ぶような基本的科学知識など本当に確かなことからしっかり積み上げていく論理的思考を、自分を方向づけ自分を変えるための道具として自由に使えるようになること、情緒面においては、気持ちを人に分かってもらうことでどうこうなれると感じる「心の依存」を脱し、自分の気持ちをまず自分自身で受けとめ、自身の成長という目で自分の感情に向き合うことができる「心の自立の姿勢」に立つこと、そしてこの両面にまたがって、自分が「本心」で何を感じているのかに常に真剣に向くことができる、「自分自身への真摯さ」という3面が大きな役割を果たします。情緒面を中核にしたこの全体を、「心の自立」だと言うことができるでしょう。 それがこの歩みの本格的な開始を告げると同時に、この段階で対人恐怖症やうつ病など病んだ心の「症状」と呼ばれるものはほぼ消失するとハイブリッド心理学では考えています。感情動揺がコントロール不能な暴走として起きる「症状」というのは、自分の本心を押さえつけて「こんな気持ちで」と自分に強いるストレスが、あまりの無理によって破綻した混乱が表面化して起きるからです。 この心理学では、「自分への論理的思考」についての詳しい説明(ブログにて継続中)などのアプローチを用意していますが、「自分で考える」ということが基本的にできず、感情を相手にぶつけて相手に考えさせようとする傾向(これは最も感情が悪化しやすくなります)、「どう感じるようにすればいいか」という「気持ちの枠はめ法」を求める思考に終始する傾向、自分の未熟と病みに取り組むというよりもそれを正当化しようとする思考傾向などが、「自分自身への真摯さ」においてもと合わせて、ほとんど前に進めないネックになりがちです。 また「心の依存から自立へ」という転換は、必ず「依存の愛への別れと喪失」というテーマと共にあります。多少とも心を病む傾向からの「心の自立」の最初の一歩は、最大の「心の死と再生」と呼べるものを経るものになるかも知れません。自伝小説『悲しみの彼方への旅』で描写したように、私自身がそうでした。 いずれにせよ、こうした「自分の足で立って歩く」という最初の一歩は、「依存から自立へ」という、全ての固体に定められた「命の最大の摂理」の中にあります。人の心においてそれが「心の自立」として成されるかどうかも、結局は、「こう感じればいい」「こう考えればいい」と知識を自分に当てはめる姿勢によってではなく、この現代社会においてそれをじかに感じることが希薄になりがちな「命」というものからの、自分への「指図」が、心の底にあると感じ取る、いや「感じ取る」という言葉にさえできない深い意識によって、自己の存在をかけて自覚するとでも言えることが、決定づけるものと思われます。 そしてその先に、ここで説明したような未知の心の世界への成長があることを、おぼろげにでも視界に捉えることが、この第一歩にしばしば伴う「心の死と再生」の谷を越えていく勇気を与えるものと、ハイブリッド心理学では信じています。 実はそれは、この先の歩みにおいても同じなのです。 その先にある歩みとは、まさにそうして自分が得始めた、「こう感じればいい」といった自意識による気持ちの枠はめを超えた、自分の足で立って前に進む力を足場に、「アプローチ」として述べた、内面感情とその表現の良し悪しによる「人物印象」によってではなく「現実において生み出す」という結果において自分の価値を高める行動法と、「気持ちを分かりあい認め合う」ことではなく「喜びと楽しみと向上の共有」を人との親愛とする行動法を、自分に問いかけ向かうことです。そしてその定着が視野に入ってくると同時に、それを妨げている最大の根源に気づき捨て去る、「否定価値の放棄」および「不完全性の受容」の選択を成すのです。 これが山の麓への到着である「魂の開放」、そして「心の依存」の中で生まれたものと言える、「自分から不幸になる」という「心の業」の捨て去り克服に位置づけられ、これにより「自意識の検閲」を取り去った、「こんな自分」という自意識の形をあまり取らない、心の根底から湧き出るそのままの、愛する対象にただ向かおうとする「魂の感情」が開放されます。 人生の答え そこまでが「取り組み実践」の「習得目標」のまずは達成であり、そこから、外面における建設的行動法と内面における魂の感情という揺らぎない生き方により、人生が着実に向上前進していくでしょう。 しかし当然ながら、全てが完璧に順調にいくことなどあり得ず、自分ではどうすることもできない不運や、必ず訪れる老いや死などの喪失が人生にはつきものです。むしろそれにどう向き合うかに、ハイブリッド心理学はこの先の「命の開放」という人間の真実への鍵があると考えています。 そしてもう一つ鍵となるのは、「こう見られれば」という自意識の惑いの底に、「ありのままの自分では愛されない」という根深い自己否定感情があった時、それは「否定価値の放棄」「不完全性の受容」の節目の時点ではまだ解消されずに残るということです。それに応じて、自分の心の底にまだ未解決の闇があるという感覚が色濃く残るものとして。 しかし、この節目によって開放される「魂の感情」が、その心の闇の真の正体が何であるのか、そしてそれがどう克服されるのかの答えを、示すようになるのです。その先に、最も深い人間の真実が示されるものとして。 そうした自分の心と人生の状況に向き合う姿勢としては、自分が何を望んでいるのかと、それにどう向かうことができるのかの探求に自分の全てを尽くす姿勢と、「正しい者が幸せになるべき」といった道徳的世界観ではなく、弱肉強食もあれば無償の愛も、幸運もあれば不運もある、ありのままの現実の世界を、あらゆる怒りを捨てて見る目において、望みの結果に自分がどんな感情を味わうのかにありのままに「心を晒す」という姿勢が、鍵になります。それがこの心理学の定義する、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」だと言えるでしょう。 その先に訪れるのは、「こうなれば自分は幸せだろう」あるいは「こうなれば自分はもう駄目だ」と、自意識によってあらかじめ考えるようなもとのは違う方向に、心が次第に変化していくことです。それは一言でいえば、まずは人生の充実感満足感は、望みがどう叶えられるかの結果よりも、望みにどれだけ全力で向き合い向かうことができたかに関係しているということです。この実感を揺らぎなく感じられるようになるのは、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」で人生を生きる歳月をまずは5年、10年と経てからになると、この心理学では考えています。 同時に、そうして生まれ始める人生の充実感満足感とその都度引き換えにするかのように(これはつまりそうした一つ一つの充実感満足感はそう長続きするものではないということです)、自分の「望み」が思ってもいなかったものへと変化する、ということが起き始めることです。しばしば、自分がこんなことを感じるとは・・という驚きの中で。 その変化の方向とは、もしその時自分で振り返るならば、「代わりに」として望んだものから「自分が本当に望んでいたもの」へ、他力本願で与えられる都合の良い幸福から、自分の唯一無二の可能性を試す挑戦のようなものへ、そして与えられる側の人間であることから、与える側の人間としてより大きな存在になろうとする方向への変化などとして、漠然と自覚できるでしょう。あるいはただ不思議な感覚の中で、あるものに惹かれ全力を尽くして向かった人生の時期が過ぎた時、もうそれに惹かれてはいない自分を感じることもあるでしょう。その時自分が、何かに惹きこまれる存在であることから、生きることの全てに、もはや何も特別なものを必要とすることなく、すがすがしさと喜びを感じて向かうことができる存在へと変化してきているのを感じる形で。 いずれにせよこれらの変化は、「こう望めれば」などと自意識で考えること、つまり「自分の心」の、外部から来ているのです。 そうした心の変化を、いわば「触媒」する、つまりそれが流れるごとにそうした心の変化が起きるようになるのが、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」によって開放される「魂の感情」であり、「こんな自分であれば」という自意識が形になる前の、愛する対象にただ向かおうとする一途な感情です。それは「「永遠の命」へ」で述べたように、望みが思い通りにならなかった場合にこそより鮮明になり、その深く大きな悲しみと苦しみ、そして願いの感情を自分自身で受けとめるごとに、「魂に魂が宿る」と感じられる、より豊かな心への変化が起きるのです。 この「魂の感情による触媒効果」とも呼べる心の成熟変化は、極めて大きな感動を感じた映画の後に、日常の些細な惑い煩いの感覚が消えるのと同じことが起きると考えるとイメージしやすいかと思います。映画の場合は再び日常に戻ると惑い煩いが復活するわけですが、「魂の感情」は、そうした変化を与えるものが自分の内部にあることで、惑い煩いが消えた心の境地が、後戻りすることなく永続し増大していくという仕組みが考えられます。 そうした「魂の感情」を経た心の成熟変化が自分に起きていることを自覚するごとに、私たちの「人生」というものへの考え方が、根底から変化するでしょう。それは、今の自分が思い描くことがそのまま都合良く叶えられることが真の幸福であることなどあまりない、何らかの困苦や喪失を通してこそ真の豊かさと幸福に至るものなのだと。 もちろん明らかに「不幸」につながるような「喪失」は避けられることが良いのはいうまでもありません。しかし「喪失」することが私たちにとって真の幸福につながるものがあります。それが、「自意識」による、誤った自己理想なのです。 そう聞いて、「では自己理想など持たない方が良いということか」と考えるならば、完全な誤りであり、「喪失」ですらない自己放棄です。そこから自分を見失う、心の病みが始まっていたのです。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の先に、ここで書いた心の変化があります。私たちにできるのは、開放された「心」と「魂」が抱く「望み」を受けとめ、この現実世界を生きる知恵とノウハウも活かし、幅広い可能性を見渡して自己理想を描き、それに向かって今を最大限に生きることを続けることです。それによって私たちの心と人生の豊かさと幸福は、望みに向かう結果の「現実」がどのような形になるかによる制約を受けなくなっていくのです。ここに、「人生の答え」があります。 それが、基本的な科学知識から積み上げていけるような論理的思考と、自分の気持ちを自分で受けとめる「心の自立」と、「本心」に向き合う「自分自身への真摯さ」によって「心」を開放し、それを足場にして「現実において生み出す」という行動法の体得とともに「否定価値の放棄」「不完全性の受容」の選択を成して「魂」を開放する先にあることを、ここで説明しました。 人間の真実 その歩みのさらに先にあるのが、生きることの全てが輝いて感じられれるようになる、山の頂き、「命の開放」です。 これは「「永遠の命」へ」で述べた、自分というものは大きな命のつながりの中のほんの仮りの姿に過ぎないと感じる「永遠の命の感性」が大きな役割を果たします。ただしその感性を持つことでゴールなのではなく、現実の人生と日々の生活が、心の根底においてその「大きな命のつながり」へとしっかりつながることで、生きることへの惑いなさがそれまでとは異次元のレベルになるとともに、人や社会に対する現実行動における「怖れ」がほぼ完全に消え去ることが、この心理学が考える「命の開放」という山の頂きの基本的な風景だと言うことができます。 「永遠の命の感性」自体はスピリチュアリスムと同じものと思われますが、そこにハイブリッド心理学独自の、山の頂きへのルートがあります。もはや「自分」のものとは思われないような「魂の感情」に導かれる歩みと、「現実において生み出す」という外面の建設的行動法と、自分が本当に望むものは何かを求め続ける「自分自身への真摯さ」をそれぞれ、山の頂きへの前進と、足を踏みしめる力と、手を握る強さとして、最後に、「永遠の命の感性」を鍵として、「命の開放」の扉を開くのです。その先に、この山の頂きがあります。 その時、「魂の感情」が心の成熟変化を「触媒」するのをさらに超えた、異次元の心の世界が訪れます。そこまで「魂の感情」が「触媒」の仲立ちとなり、「心」を「命」に触れさせることで心を変化させていたものが、最後に、「心」が「命」に直接つながり、今度は「心」と「命」が「魂」を守るようになるのです。 「魂の感情」は、山の麓への到達である「否定価値の放棄」の節目の時と同じように、再び劇的な変化をとげます。もはや何かを望むことにおいてではなしに、ただ今を生きていることにおいてすべてが輝いて感じられる、「豊かな無」とこの心理学が呼ぶ感情へ。そして、「命」がそこにあるだけで心が愛に満たされる、「無条件の愛」の感情へ。それは「魂の感情」であると同時に、「命の感情」でもあるでしょう。 「否定価値の放棄」という山の麓から、どのようにしてその頂きに至るのかは、もはや「実践」としてその「習得」を語れるものなどではありません。それは人生そのものの歩みであり、「出会い」が関わるものになります。 それでもその頂きに向かう尾根に、2つの峰があることをいうことができます。 一つは、「命をかけて」向かうものを持つこと、あるいは自身の生き方としてその姿勢を持ち得ることを知ることです。これは私自身の場合この執筆活動が該当していますが、そのように特別な内容のものである必要はありません。愛する者を支えるためのごく普通の仕事であったり、さらには、「生きること」そのものが「命をかけて向かうもの」になることもあるでしょう。これは震災を経た人や、余命宣告をされるような病を克服した人が、誰よりも知っているでしょう。 重要なのはそこに、「こんな自分であればこう見られて・・」といった自意識で感じるものとは全く対極の、自意識の惑いのない、「命」によるストレートな、生きる価値の重みが感じ取られていることです。そしてそれはしばしば、「死」を間近にする体験を経た者だけが得るものでもあります。そこに、この心理学が特に対象とする、心に闇を抱えたスタート地点からの歩みにおける「心の死と再生」が重要な役割を果たすことになります。つまり私たちは、自らの「心の死」を経た真の成長を知ると同時に、生きることの真の重みがどこにあるのかを感じ取る感受性を獲得していくのです。 そうして「命をかけて向かう」ものを持つに至ることが生み出す心の変化とは、生きることへの惑いなさがそれまでとは異次元に揺らぎないものに高まることは当然として、怖れるものがなくなってくること、さらに「自分は人を愛することができる」という確かな感覚が心の底から返ってくることです。 それは自分が人からも愛されるという、もはやそのことを確かめる必要さえ感じないような、自分への自信感を生み出し始めます。それは「人間としての自分への自信」の感覚でもあります。 振り返るならば、「こんな自分であればこう見られて・・」といった自意識の惑いの底に、「人間としての自分に自信が持てない」という、根源的な自己否定感情とも言えるものがあったように思われます。それは、「こんな自分であればこう見られて」といったいかなる自意識の模索によっても克服はされず、「命をかけて向かう」ものを見出すことに、その答えがあったのです。 もちろんそう聞いて「では自分も命をかけて向かうものを」と考えることは、無理があるように思われます。 「命をかけて向かう」とは、開放された「心」と「魂」の望みに向かって生きる先に、「現実の不完全性」に出会う中で、「命」からの指図として感じ取るものなのです。「人生の答え」で述べた「全てを尽くして望みに向かう姿勢」において、現実の不完全に「心を晒す」ことをする中で、曲がりくねる袋小路のような沢山のものの中から、やがて一つだけ真っ直ぐに進む道が見えてくるような形で。 しかしこれは逆に言えば、開放された「心」と「魂」によって生き始めてさえ、人生があまりに順調であると、生きることの価値の重みがどこにあるのかを感じ取る感受性が鈍ってくるということでもあるでしょう。そうして「命」の重みの感覚ではなく「人の目」が自分の行動を支えるものであるように感じるようになった時、自分が「死」に向き合うような体験を経た後に感じたような前進力を、いつしか失っているのを自覚するかも知れません。そうしてそのまま進む先には道がないことを見据えた時、再び「命」が、今何を成すべきかの指図を伝え始めるのです。 これは私たちの日常が順調であるほど、「命」の重みの感覚が薄れやすいという、現代人の宿命のようなものでもあります。そのため、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」と「命」の重みの感覚を促進する一つの方法として、ハンディを克服した人の事例や動物の生きる姿を伝えるTV番組をよく見るようにすることなどをお勧めしています。 山の頂きに向かう尾根にある、もう一つの峰は、本当に愛するものに向かうことへの「魂の怖れ」を克服することです。ここでの「本当に愛するもの」とは、命の重みにおいて愛する、生涯で出会うただ一人の人物のような相手を指します。 何の悩みもないように見える芸能人でさえ、本当に好きな相手を前にした時、まるでティーンの頃に戻ったかのように、気弱になってうまく話せなくなってしまうといった話を、よく見聞きするものです。この心理学が特に焦点をあてる、心に闇を抱えたスタートからの歩みにおいては、「ありのままの自分では愛されないから・・」と、「こんな自分であれば」と「自意識」がさまざまに画策をする心の底にある、ただその相手に近づくことを願う「魂の愛への望みの感情」と、それを阻む宿命のような、「人間としての自分への自信の損ない」の暗い感情が、焦点をあびることになります。 その根源的な自己否定感情は、もはやなぜそうであるのかの理由が自分に分からないものとして、出生の来歴の中で置き去りにされてきました。一方で、望みに向かって全てを尽くして生きることが、「心の死と再生」も経て自分を変化させ、さらに「命をかけて向かう」ことが、人を愛することができる自分と、「人間としての自分への自信」を与え始めています。 この2つの闇と光のベクトルが、拮抗するまま道の先へと浮び、どちらも一つの道を示し得ない時、この人に、未知の自分に向かって踏み出す最後の一歩が訪れることになります。 これは、心の成長変化の流れの最後に位置づけられます。人生の歩みの最後ということではなく、心の変化を生み出す動きが整う順序としてということです。それだけ、これは人間の心の最も深層にあり、その先に人間の真実があると言えるでしょう。 一方で、多くの哲学や宗教が究極の真実として伝えるものと同様に、そこで起きることは難解です。 そこで私たちが目の当たりにするのは、その怖れを乗り越えようとする一歩を踏み出した心にほとばしる、身も心も溶け合うような愛への、命の歓喜のエネルギー。その一方で、毒のような恐怖と自己否定感情とともに消失していく愛の感情・・。これらを心の中でただ流し向き合った時、心はさらに清明性を増し、自分がただ「今を生きている」という「イメージのない意識状態」が現れ増大していきます。 やがて乗り越えるべき最後の一歩を前にした時、「魂の感情」は、人間の心の起源の絵物語とも言えるような、その意味を明らかにし始めます。それは一心同体となって溶け合う愛を望みながら何かによって阻まれ、「こんな自分」という自意識を抱くようになったこと自体が、「魂」にとっては、アダムとイブが自我に目覚めることでエデンの楽園を追われたように、大きな「罪」として抱かれていたということです。「魂」はその罪を乗る超えることはできす、「愛」に向かう力を失うのです。これをハイブリッド心理学では宗教の言葉をそのまま使い、「原罪」と呼んでいます。 そこに人間の最後の選択とも呼べる分岐路が現れ、「原罪」への補いとして自らに愛に向かうことを禁じるのではなく、望みに向かう先に答えが「未知」として現れることを信じ、さらに愛へと向かった時、「原罪」は消え、「一切の論理性を持たない恐怖」の「砂嵐」(村上春樹『少年カフカ』の冒頭の「カラスと呼ばれる少年」の言葉より)が心に訪れます。それをただやりすごして越えた時、全てがただ「記憶」の中だけにとどまるものへと消え、心に全く未知の、「魂」の姿さえも消えた、爽やかな「命」の風が吹く心の世界が訪れます。 私自身の体験をお伝えするならば、そうして「命をかけて向かう」ことを知ることが生み出し始めた「人間としての自分への自身」を支えに、本当に愛するものへと向かい、「原罪」の克服の節目となる「砂嵐」を越える大きな体験を経た後、再び似たような場面で心にかすかに流れる「魂の怖れ」の感情に向き合う体験を持つことになりました。 そしてその時、「命」があることにおいて、「現実」がどのような形になろうとも愛は守られる、そしてもし「命」が消えるとしても、それを「看取る」ことで魂に魂が宿ることにおいて、愛は永遠になると気づいた時、私の目に大きな涙が流れ、「心」と「命」がつながって「魂」を守る瞬間が訪れたようでした。 それを境目にして、「否定価値の放棄」の節目の時に心の状態が一変してプラスの前進に転じたのと匹敵する大きな変化が起きました。心の中で、全ての「怖れ」が消え去り、自分は全ての命を愛することができるという「無条件の愛」の感覚が心を包み、世界の全てに「魂」が宿っているという感覚の中で、「寂しさ」という感情が私の人生においてその存在を終えるのを感じました。 そうして私が「“自分”は大きな命のつながりの中のほんの仮りの姿にすぎない」という「永遠の命の感性」を得るまでの体験を踏まえてまとめたのが、『病んだ心から健康な心への道 第1・2巻』(『入門編』)になります。 「ハイブリッドの道」を歩む そうして至る結論とは、私たちが普段働かせるものとしての「心」は、それを生み出した本来の大元である「命」から「自意識」によって引き剥がされた、薄っぺらいものとして動いており、これを仲立ちするための、いわば「命」からの伝令として「魂」があるという、「心」と「魂」と「命」という3つがそれぞれ別の機能体として働いているというものになります。 ハイブリッド心理学の取り組みは、その「心」と「魂」と「命」という3つをそれぞれ最大限に「開放」するために、「望み」に向かって全てを尽くして生きる過程の中で、「自分」を越えた「魂の感情」によって心が成長変化していくという実際の体験の積み重ねを通して、「心」とは別のものである「魂」と「命」を感じ取り、「心」がそれを生きる役目をする「現実世界」と、「命」へとつながっていく「魂の世界」という、交わることのないまま相互に成長を及ぼし合う2つの世界を生きていく姿勢を確立する、というものです。 それが至る心の境地として、「無条件の愛」のさらに先に訪れるのは、もはや一切の思考も、感情の揺らめきもなく、私たちが「意識する」ものとしての「意識」を全く働かせないまま、この世界が全て輝いて感じ取られる、「豊かな無」とこの心理学で呼ぶものになります。これが間違いなく、真実を見出した哲学や宗教が至ったものと、同一のものになるでしょう。 しかしハイブリッド心理学は、一つの心の境地を、何らかの儀式的意識作業によって固定維持させることを試みるようなアプローチは取りません。この心理学が至った結論とは、「望みに向かって生きる」ことが心の成長への答えであり、真に望むのはこの「自分」ではなく「命」であるというものになる一方で、それを感じ取ることで生まれる「豊かな無」に見入っているだけでいると、いつしか「自分から望む」というそもそもの前進力が薄れ、やがて「豊かな無」も消えてしまうということが、私自身のその後の向き合いにおいても見えてきたことです。 つまり私たちは、最後まで、浅はかに望んでいく必要があるのです。この現実世界を生きる知恵とノウハウを活かし、幅広い可能性を見渡して自己理想を描き、それに向かって今を最大限に生きることとして。それが「命」にとってどれだけ本当の望みであるのか、それとも自意識による誤った自己理想なのかは、私たちが決めることではないのです。私たちにできるのは全力を尽くしそれに向かうことであり、その先に「現実の不完全性」に出会った時、再び「魂」と「命」が現れ、再び未知の心がリロード(再装填)されるでしょう。 いつまでもこの、「現実の世界」と「魂の世界」を歩み続ける。それがこの心理学が「ハイブリッドの道」と呼ぶ、生き方姿勢です。 最終的にそれは、「現実の世界」の力強い歩みと、「魂の世界」の超越的な豊かさが、交互に現れるものから、心の中で同時並行的に働くものになっていくものであるのを、私自身としても感じているところです。 ですから「永遠の命の感性」という同じ山の頂きに至った後にも、そこからさらに天上の世界へと向かう歩みがあるということになりそうです。そしてそこでもやはり、ハイブリッド心理学は哲学宗教やスピリチュアリスムとは別の、独自の道を行くものになると言えるでしょう。 この心理学の最大の理念は、「命に委ねる」ということです。自分の感情を自分で良くしようとして、心に不自然な手を加えないことです。 自分の望みを感じ取り、自分の目で現実世界を見て、それに対する合理的な行動をする。それが「命のプログラム」に沿うものであるならば、「命」は感情を自ずと良いものへと変えていくのです。行動の結果が望み通りであろうとなかろうとです。 「歩みの道のり」で述べた「横の軸」、つまり内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみとするという「感情と行動の分離」の実践が、そうしたものとして、その時その時における「命の力」を引き出すものとしてあります。そしてそれが生み出す自分の変化を感じ取り、より大きな「開放」に向かって思考法行動法を変化させていくという「縦の軸」の底に、「命の生涯」とこの心理学で呼ぶ、生涯にわたる心の変遷があります。それは、命がこの世に生まれ、やがて自分の足で立って歩くようになり、全てを尽くして望みに向かう中で、心の重みは「与えられること」から「自ら与えること」へと変化していき、やがてもはや何も躍起に求めることなく心は充実感に満たされた中で、その生涯を閉じていく。これはその固体の「意識」を越えて、全ての「命」にプログラムされているのです。20年、30年といった歳月を経るものとして。ハイブリッド心理学が行おうとするのは、これをただありのままに開放し、心をそれに委ねることです。 ですからこれは逆に言えば、若くしてこの道のりの先に到達しようとするのは無理があるということにもなるでしょう。「心の自立」による「心の開放」が主テーマになるのが20代、そして否定することに価値を感じる未熟を根本的に脱する「否定価値の放棄」とそれによる「魂の開放」は30代になってそれがいよいよ攻略課題として視野に入り、そして「自分」を越えた生きる価値に向かうことを知ると共に「無条件の愛」を感じ始める「命の開放」はまずは40代以降がターゲットになるであろう等々。 それを先走りするように成熟した心の境地を自分に当てはようとする姿勢に、実は誤りがあるのではないか。しばしばこの問いを自身に向けてみることが、しばしばその時その時の「命の力」を開放させるための鍵になるであろうことを、ここでアドバイスとして添えておきましょう。 ですからこの取り組みは、20年、30年といった歳月によるものです。「一瞬で」「たった一週間で」悩みが消えると謳う、世に多くあるセミナーなどとは根本的に別ものです。これは、人生そのものです。 そうして「豊かな無」が視野に入ってくるのはまずは50代・・ということになるかも知れませんね。そこから恐らくは、心の中を占める「豊かな無」の割合を、次第に増やしながら。そしてそれが心のほぼ全てを占める状態になる中で、私たちはその生涯を終えるのでしょう。そこに再び、哲学宗教が真実として見出したものと同じゴールが再び訪れるのものとして・・。 このようなハイブリッド心理学の取り組みを、どのように学んでいけば良いか。次の「2.ハイブリッド心理学の学びの体系」にて、各種情報へのインデックスと合わせて説明していきます。 過去原稿アーカイブ(今後インデックス整理します^^) ハイブリッド人生心理学とは 2010掲載版 |
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2012.6.12 |