1.ハイブリッド人生心理学とは 2.「取り組み実践」への理解 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) 3.学びの体系 4.メール相談事例集 |
2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』 として無料電子書籍化しました。今後の更新は電子書籍側のみになります^^。 |
2.「取り組み実践」への理解 (1)真の成長へと私たちを向かわせるもの
|
ハイブリッド心理学の学びは、大きくは、 ・学校の授業で言うなら「教養科目」にあたる「心の学び」と、 ・「実技科目」にあたる「取り組み実践」、 ・そして「取り組み実践」の実際例をお伝えする「事例紹介」という、 3つの体系から成るものと言えます。 ここでは、ハイブリッド心理学を実際の日々の生活と人生に役立てる「取り組み実践」について、基本的な考え方と、その真髄への向かい方について簡潔に説明し、各種情報への案内へとつなげていきたいと思います。 「取り組み実践」への理解 ハイブリッド心理学の学びを実際の日々の生活と人生に役立て、自ら心の成長に向かうために、「意識作業」として行うことがらを、「取り組み実践」と呼んでいます。 もちろんそれは、先の「歩みの道のり」で説明したような、心の成長への歩みの結果として得られる心の境地を、「そのように感じるようにしてみる」といった「当てはめ」とは全く違うものであり、一貫して、「感情と行動の分離」の姿勢に立って、外面においては建設的行動法へと向かい、内面においては感情をありのままに流し理解するという、シンプルなものです。 一方その具体的内容は、幅広く奥深いものになります。 幅の広さは外面の行動法にあり、日常生活の工夫から、家庭や交友や恋愛における対人行動法、仕事場面での対人行動法と仕事のスキル向上方法、人からの攻撃や危害への対処法、そして人生における将来設計や人生における重要な決断の仕方などなど、幅広きにわたって、外面行動法における知恵とノウハウを得、その時々の内面の感情を考慮して、最終的に自らの心の成長に向かうための外面行動の選択をするという、ハイブリッド心理学ならではの視点が出てきます。 これについては、まずは「メール相談事例集」などで、主な課題場面ごとのアドバイス例など載せたいと思いますので、それを読んで頂くと手早いかと思います。 一方奥の深さは、内面感情への向き合いの中に現れるでしょう。 これはまずは、自分の心の中にあるマイナス感情をただクローズアップして心の中で反復確認するというようなものよりも、自分が課題とする場面における、ハイブリッド心理学からの建設的行動法についての学びを得て、それについてまず自分がどのように納得理解を感じているかの確認から始めるのが良い進め方になります。それによって、課題場面における外面行動法の課題を把握するのに加えて、心の成長の歩みの全体における自分の立ち位置としての内面課題が、示されるからです。 例えば、「現実において生み出すことで自分の価値を高める」「分かり合い認め合うことではなく喜びと楽しみとして愛に向かう」といった行動法がピンと来ず、それが奇麗事のお題目であるような反発を、「世の中の人間なんてどうせ」といった観念の中で感じるのであれば、それはまだ自分の人生と幸福を自分の足で歩いて運ぶものと感じることができていないことの表れと言えます。いかに他人にちやほやと与えられるか。そのための美貌や性格といったものが自己の理想だという価値観を、自分は持っている。そうした、心の成長の歩みの全体に対する、自分の内面感情をありのままにまず確認するのです。 そしてそんなのではとてもじゃありませんが心の成長になど向かえませんので、現実において生み出すことで自分の価値を高めるという価値観を持つようにしましょう・・といった「説教型」のアプローチもまた、この心理学が採用するものでは全くありません。 重要なのは、外面行動は建設的なもののみとし、内面感情はただ流し理解するという一貫した実践の中に織り込まれている、今の自分にとって決定的な前進の一歩とは何なのかを、感じ取ることです。先の「心の成長の道のり情景図」でイメージ映像化した人生の歩みにおいて、海から大地へと立つ、平原を前進する、そして山の麓にたどり着くというように、一つ一つの前進の一歩の意義は全く異なるものとしてです。一貫して、自分の足で地面を踏みしめて刻む一歩においてです。 何を前進への動機として進むのか それは逆に言えば、今の自分にとって決定的な成長前進の一歩とは何なのかを知り、それに向かいたいという動機によってこそ、私たちは実際にその前進の一歩を踏み出すことができる、ということです。それとは異なるものを動機にして取り組んだところで、心は成長変化に向かうことはできない一方でです。 具体的に言うと、そうした「誤った動機」の典型としてあるのは、この心理学で説明するような成長した豊かな心の持ち主になることで人からの尊敬を得たいといったものです。これはそうした動機そのものが心の未熟さの表れであり、それをどう頭の中で回したところで心は成長には向かわない、意味のないものになってしまいます。 また同じように、自分の幸福のために、この心理学で説明するような心の境地になりたいと望むのはごく自然であり当然でもあるのですが、「ぜひこんな心の境地になりたい」と望んだところで、やはりそれだけで実際にそうした心の境地に向かえるわけでは当然ありません。 さらに、「感情と行動の分離の取り組み実践をすれば心が成長し豊かになれるらしい」と、外面と内面への実践を、言うならばただ機械的に、あるいは受験勉強の算数や英語のドリルのような感覚で、こなそうとしたところで、恐らく心は成長変化に向かわない可能性が高いでしょう。これは先の「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という取り組み目標」で述べた、「建設的な外面行動法と内面向き合いを、ごく浅く表面だけ真似ることで、すぐ心が良くなることを期待して、思考が「選択」にまで深まらないケース」でもあります。 そのようなものではなく、今自分が成すべき前進とは何なのかを感じ取り、それを望み、その前進を歩んだ時、「命」が自ずと、心の境地を人生の道のりにおけるしかるべき風景のものへと、強さと豊かさを増すものへと変化させていくのです。そこで「今自分が成すべき一歩」とは、「命」からの指図のように感じ取られるものとして。 そうした前進の全てが、意識面においては、「感情と行動の分離」の姿勢と、それに立った外面および内面への向き合いによって、気づきを与えられ、それに向かう意志を守られ、そして遂行されるものになるのです。 そのようなものとして、ハイブリッド心理学が考える心の成長の道のりの歩みを前進させ得る動機とはどのようなものかを、大まかに言うことができます。「感情と行動の分離」の姿勢による一貫した外面と内面への実践の中に、どのようにそれに対する答えが示されるのかも含めてです。 それが海から大地へ、そして平原を進み山の麓へ、さらに山の頂きへという、先の「「心」と「魂」と「命」の開放」として節目づけられる3つの段階の主題になるようなものとして、大きく3つ出てきます。 「自分を悪感情の洪水から救い上げる」「真の強さを体得する」そして「自らの魂に向き合う」という3つです。これをそれぞれ簡潔に説明しましょう。 自分を悪感情の洪水から救い上げる 「心の依存から自立へ」の転換を核とする、「心の開放」までの歩みにおいて、自分を本当に変え得る動機の主題になるものと言えるのが、自分を悪感情の洪水から救いあげるということです。悪感情の海に溺れ窒息する状態から、自分を救い上げ、成長の大地を歩み始めるのです。 そのための答えとは、それによって心が満たされるものと期待するであろう「愛」を、「分かってもらう」「認めてもらう」ことによって得られるものと感じる、「依存の愛」に別れを告げ、手放して捨てることです。その代わりに、向かって進み得る「愛」とは、自分が誰であると意識する必要も意識される必要もなく、内面から湧き出る純粋な喜びと楽しみが、そこにいる相手と共鳴し共有されることによって成り立つもの以外にはないことを見据えるのです。 なぜならば、私たちは「愛」を、「分かってもらう」「認めてもらう」ことによって得るものと感じる中で、絵に描いたような美しい内面と、スマートな外面を自己理想として課し、自分の首をしめ始めると同時に、それを演じようとする自分の嘘のストレスと、「分かってくれない」他人の白い目への怒り憎しみに苦しむようになるからです。それが私たち人間の悪感情の洪水の、基本的な形なのです。 私たちは同時に、「怒り憎しみ」「嫉妬」そして「絶望感」といった最も苦しく嫌な、耐え難い悪感情が、自分の幸福を自ら能動的に向かうことで切り開くものではなく、受け身に与えられるものとして期待し、自分から望み自ら前に進むことを良しとしない姿勢の中で主に生まれることを、知っておくのが良いでしょう。自ら望み、自ら前に進むことを知った時、それらは消え去るのです。 そうした感情のさらに根底に、人の心の中で自分がこんな人間だと抱かれる・・という空想の中で生きようとするという、私たち人間に最も根深い心理があります。その空想は、私たちを惹きこみ、いつのまにか悪感情の洪水に溺れさせ、窒息する渦の中へと引き込み、私たちの心を危機におとしいれるものなのです。その空想の世界から身を引き離し、ありのままのこの現実世界をしっかりと見て、自分から何を望みどう向かっていくのかに心を切り替えることとして、自分を救い上げるのです。 「感情と行動の分離」の姿勢に立った実践においては、「愛」に向かう行動姿勢として、「分かり合い認め合う」ことを互いに要求するような閉鎖的な行動姿勢と、「喜びと楽しみの共有」として向かうと同時に、それがない時は孤独を受け入れるという、「心の自立」に立った開放的な「愛」への行動姿勢の違いを知り、前者が心の未熟と病みに向いたものであり、後者が心の健康と成長に向いたものであることを感じ取ること、また「思いが伝わって愛される」といった、こうした文脈で最も心を魅了するであろう願望が、しばしば美徳ではなく病んだ妄想としてあることを感じ取ることなども足場に、自分を悪感情の洪水に引き込む危機が前者によるものであり、そこから自分を救いあげるために手放して捨てなければならないものであることを感じ取るかどうかが、この道を歩み始めることを決定づけるものになるでしょう。 そう感じるようにしましょう、ではありません。そう感じた時、その人は「成長」への大きな「選択」の前にいるということであり、そう感じないのであれば成長に向かう心の状況にはないということです。そしてその選択の先に、この心理学が描くような道があるということです。この心理学で伝えることができるのはそれだけです。 一方その「選択」に向かおうとしているその時の心にとって、「喜びと楽しみの共有」として向かい直せるような感情を自分の中に見出せないまま、「分かり合い認め合う」そして「思いが通じる」という空想的な愛への魅惑が、生きることの重みの全てと化している自分の心をありのままに見つめることが、深い内面側の向き合いになるかも知れません。この時、その「選択」は、願う「愛」に進み得ない自らの心への深い自覚と、「精神の死」とも呼べる深い失意の感情として、心の表面にその姿を現すかも知れません。「「心」と「魂」と「命」の開放」で私自身の体験としても、それが最大の「心の死と再生」になったと触れたように。 それが、自意識の惑いの塊として動く私たちの心を、一度消滅させ、新たに、惑いなく前進することのできるまっさらな心を再生させるという、「命」の力の表れの姿なのです。 また、これがハイブリッド心理学の見出した、未知の異次元の心への成長の変化の、「原型」でもあります。それは「愛」を軸として、「心の依存」から「心の自立」へという転換の中で、「既知の愛」の喪失を経て、「命」が心に「未知の愛」を生み出し、湧き出させていくようになるというものなのだと。 残りの2つの成長変化の形も、やはり同じように、「心の依存から自立への転換の中で既知の愛から未知の愛へと向かう」という、大きな軸の中にあるものになります。「命の生涯」が、それに向かうものだからです。 真の強さを体得する 自分を本当に変える前進を生み出す動機になり得るものの2つ目は、「真の強さを体得する」ということです。 つまり、「強くなりたい!」という気持ちです。それが、私たちの心の成長への基本的なガソリンとエンジンであり、それに答えてくれる、外面と内面への心の叡智がある、ということになります。 その答えとは、外面においては建設的行動法、特にその中で「習得」のために多くの時間と経験をさくものになる「行動学」です。人に自分の人物印象をどのように感じてもらえるかではなく、現実において生み出す結果において自分の価値を高めていく、また喜び楽しみと向上の共有として人との親愛に向かうといった基本的な建設的行動法に加え、利害が対立したり衝突しそうな相手への対処として最強の行動法と言える、「原理原則行動法」「ウインウイン行動法」といったものを、精神論ではなく、相手を説き伏せられるだけの具体的な言葉や知識の習得と合わせて、日々の生活と人生のさまざまな場面において習熟、体得していくことです。 「真の強さ」とは何なのかの理解が、体得の底流として重要になります。 怒りをパワーにして相手を破壊できることを「強さ」だと感じるのは、とても愚かなことです。それは自分の心身に毒を回して捨て身になることが生み出す「強さ」であり、それは実は「弱さ」です。また怒り破壊は必ず、相手から向けられる怒り破壊として自分に返ってきます。それは私たちを着実に弱めていくものです。 怒りのパワーで相手を破壊できるよりも、怒りを感じることなく相手を叩き潰せる方が強いです。さらに言えば、相手を叩き潰す必要さえ感じないのが、最も強いことです。それが必要だと感じるのは相手の存在を脅威に感じるからであり、それは弱さだからです。つまり、「戦わずして勝つ」というのが、最も強いのです。「自ら価値を生み出していく」というのが、最強の行動法です。「行動学」が、そのためにあります。 日常生活における知恵と工夫や、仕事のスキル向上術などは、「動機」を問うまでもなく基本的な自己向上習慣として向かうことができるものですが、上述のような一連の特別な行動法と共に、「強くなりたい!」という気持ちを動機のガソリンとエンジンとして、より力強い歩みを進めるものになるでしょう。 これらの具体的な内容については、「実践項目ガイド」(後でインデックスへのリンク付けます^^)を参照下さい。 外面側の答えがそうした行動法としてある一方、「強くなりたい!」という気持ちへの内面側の答えは明確です。 それは、「自分に嘘をつかない」ということです。私たちは自分に嘘をついた時、「自分自身」という自分への最大の支持者を失い、思考と感情の全てが力強さを失ったひ弱なものになるのです。これはもうプラス思考プラス感情かマイナス思考マイナス感情か以前の問題としてです。 自分に嘘をつくのをやめることが、自分自身を盟友として成長への道を歩み始める、スタートになります。 これは上に述べた、自分を悪感情の洪水から救い上げるために「分かってもらう」「認めてもらう」という「愛」を、そして人の心に自分が抱かれる空想に生きることを、捨てることからつながってくるものでもあります。人の心に自分がこう抱かれるために・・という衝動の中で、私たちは自分を見失い、自分に嘘をつき始め、やがて悪感情の洪水の中で窒息していくからです。まずそれを手放し、別れを告げるのです。それは「既知の愛」の喪失でもあるでしょう。それを通り過ぎ、足元の強さを感じることができ始めた時に、「強くなりたい!」という気持ちが心底から湧いてくるのを感じるでしょう。そこに、ここで述べた「真の強さ」への歩みが始まります。 「否定価値の放棄」「不完全性の受容」への歩み 「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という取り組み目標」として述べた取り組み実践の「習得達成目標」は、そこからの歩みの中で、上述のような「行動学」の体得を中核として、「真の強さ」を実際に得始めた時に、その大きな選択の扉を開くことを、自らに問うことが可能になるものと理解して頂くと良いと思います。 なぜなら、「弱さ」が、「何か絶対的なもの」を求める人間心理と、その「絶対的なもの」から自分や他人、そして世界のものごとを否定できる「神」を代弁する座に自分がいると感じようとする、深層の幻想的な衝動を生み出すからです。 ハイブリッド心理学が取り組み実践の「習得達成目標」とする「否定価値の放棄」「不完全性の受容」の転換は、「心得」というレベルのものではなく、自分の心の奥底から、人間の「心の業」の根源を取り去るという、哲学や宗教で「悟り」と呼ばれるものに匹敵する、大きな内面転換を言うものです。 ありがちなのは、「否定できることに価値を感じることの放棄」や「自分が神になろうとするのをやめる」といった話に感心した先に、それができていないであろう様子の他人に批判や怒りの目を向けるというものです。これはまさに「否定できる価値」と「自分こそが神」という衝動の焼き直しであり、「心得」にさえできていない姿です。 またそれを「正しく」心得にできても、できるのはせいぜい、「否定できる価値の感覚」が心に生み出す怒り批判などの否定衝動を、表に現すのを抑える程度が関の山でしょう。それだけこの感覚と衝動は私たち人間に根深いものであり、それを生み出す源泉が根本的に取り去られない限り、心のエネルギーが供給され続けるからです。そして現実行動場面において最後には怒りの破壊力に頼る「弱さ」が、その最も基本的な源泉なのです。 ですから、「否定価値の放棄」と「不完全性の受容」の大きな転換への向かい方としては、まず「悪感情の洪水から自分を救い上げる」ためであれば、人の心に自分が抱かれるという、自分の心を闇におとしいれる「愛」を手放し捨てて自分を救う(あるいはこれは今までの自分が精神において死ぬことも意味するかも知れません)、そして「真の強さを体得する」ためであれば「行動学」を習得する、という「動機づけ」の流れの後者に、まずは乗って歩む先のものになります。 その先に、外面の建設的行動法への転換を支点もしくは碇(いかり)のような支えにして、再び視点を深い内面へと向け、「悪感情の洪水から自分を救い上げる」ことから先に踏み込んで、悪感情の根源的な源泉となる「自意識の業」の捨て去りを成すのが、「否定価値の放棄」と「不完全性の受容」の大きな転換だと理解頂くと良いと思います。 悪感情の洪水は、人の心に自分が抱かれる「愛」を得ようとして、絵に描いたような自己理想によって自分の首をしめ、自分に嘘をつくストレスによって生まれたものでした。一度それを手放し、空想の中の絶対的な理想を基準にするのではなく、「現実において生み出していく」ことを根幹とする行動法への転換を梃(てこ)に、今度は、「絶対的なものを掲げて否定する」という、心の最も奥底にある、悪感情の根源となる「自意識の業」を、捨て去るのです。 こうした歩みの全体が、「真の強さを体得する」という動機づけの下に前進するものと理解頂くと良いでしょう。 そこにおいて、外面の行動法と内面の感情の動きについての自己分析吟味の進展が全て整った時、その大きな扉が開くという流れになることがまず考えられます。これは話を一度聞いて感銘を受けたようなレベルでは全く到達できるものではなく、長い人生における継続的な取り組みが徐々に内面を変化させていく先に、しかるべき心の成熟段階になった時、この選択を問う集中的な時間を適宜持ってみる、というのがまずは考えられる進み方です。 話を聞いて感銘した時に集中的に検討できればやりやすいでしょうが、そうした進み方はできないのが人生のレベルでの成長というものです。これは学習室の中で知識を理解するような「学び」ではなく、人生の節目と学びが交差する中で前進を成していく「学びと体得」なのです。 そのための「学びの役立て方」について、次の「学びの体系と役立て方」を参考にして頂ければと思います。 鍵は、「空想の中で」「絶対的なものから」「否定する」という心の要素と、「現実の中で」「不完全さを肯定し」「生み出していく」という心の要素の、対極の結びつきのセットです。それを、日常生活の中で動く自分の思考と感情の全てのあり方において、根底において方向づけを決している大きな歯車を突きとめ、切り換えるという大きな道標として、目標にして頂ければと思います。 |
←前へ 次へ→ |
2012.8.23 |