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ハイブリッド人生心理学とは 1.ハイブリッド人生心理学とは
2.「取り組み実践」への理解
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3.学びの体系
4.メール相談事例集

2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』
として無料電子書籍化しました。今後の更新電子書籍側のみになります^^。


2.「取り組み実践」への理解 - 続き
 (3)心の成長のスタートラインに立つ
自分自身に対する論理的思考  心の成長のスタートラインに立つ   「現実を見る目」という全ての始まり

自分自身に対する論理的思考

心の成長始まるまでの流れを、少し詳しく説明しました。
対比として、「変われない人」姿勢を確認しておきましょう。こうした心理学なり他の取り組みなり、長く取り組もうとしていても、変われない人原因は何か。
それは、こうして説明してきた流れの最初に来る「学び」というものを、それが自分の心をすぐ「心が落ち着き気持ちがおさまり前向きに」してくれるものと期待して学ぼうとする姿勢が、典型的なもののように思われます。そのように自分を変えてくれる、人の言葉を期待してです。

今まで私が行ったメ−ル相談では、「「成長変化する人」と「いつまでも変わらない人」」で書いたように、「内面のストレスを減らしながら外面の問題解決に役立つ、なるべく即効的なポイント」からアドバイスします。それはまた、その人にすでに準備されている成長として、私が感じ取ったポイントでもあります。
ですからそうした「最初の一歩」については、多少とも「心が落ち着き気持ちがおさまり前向きに」もなれるのですが、それがその人がこれからの人生で果たすべき成長ゴールにまで達しているものであることなど、当然ありません。
そこですぐに訪れる、次の成長に向かおうとする段階で、姿勢を大きく変える必要があるのです。すぐに心が落ち着き気持ちがおさまるようなものとしてではなしに、自分がこれからそれとのギャップを生きていくための「学び」を、自分で設定していくという姿勢にです。
「変われない人」の姿勢は、です。もしそれがすぐに自分の心を落ち着かせ、気持ちをおさめ、前向きにさせてくれれば、人が言うその言葉を聞き入れることにしようとでもいうかのように・・。

実は、この心理学を学ぼうとする人であれば、それができると期待していたのが以前の私です。これからそれとのギャップを生きるための「学び」を考えるということが、です。これほど難しく、沢山の読書を必要とする心理学を学ぼうとする人であれば、と。
しかし『入門編』を出版し、読者の多くが、読んで感銘を感じてもあまり変わることはできていないと思われる状況を知り、それを踏まえて世の人一般の思考のあり方を見たとき、私はある驚愕の事実に気づきました。

それは、「人の話は論理的に聞くが、自分では論理的には思考しない」という傾向です。

これでは何も始まらないのは言うまでもありません。結局、人の思考に頼って生きていくということになってしまいます。心の成長も何も、あったものではありません。感情動揺場面になると、学んだはずのことが全てに無に記したかのように同じ思考に戻るのも、ここに原因の一つがあるのは明白です。

「自分自身に対する論理的思考」というものが、とても重要になります。人と議論し、相手を言い負かせるためのような論理的思考ではなく、自分が一体何を感じており、それは自分にとってどのように真実のものであるのか、あるいは自分をごまかした偽りのものであるのか、それは自分の人生にとってどのような重みと、意味を持つものか、そしてそれは自分が今進むべき道を示すものなのか、それともそれを見失ったはりぼてのようなものなのか、といったことを見分けるためにです。何でも理屈で行動するようにするためではなく、やがてはいかなる論理も必要とすることなく今前に進むことのできる、命の純粋なエネルギーにたどり着くためにです。最後には、全ての無駄な思考が取り払われ、もはや一切の思考さえも必要としない、「豊かな無」心の境地に向かうためにです。
つまりそれは、自分を成長させるための、自分をより純粋にするための論理的思考です。それは自分の「感情」が絡むものごとについての思考であるほど、重要になってきます。学校で出される物理や算数の問題でどのように論理的思考ができるかなどは、どうでもよろしい。

それが妨げられている思考具体例を、ここで3つほど出しておきましょう。「自分自身に対する論理的思考」とはどのようなものか、取り組んでみる参考にして頂ければと思います。
まず2つは、以前新聞の人生相談欄などのスクラップを取っておいた中で、すぐ思い浮かぶものです。詳しい内容は省略し、「自分自身に対する論理的思考」が妨げられている言葉だけ紹介します。
一つは、息子夫婦の行動に満足できない年配女性の言葉「昔から親の世話は子供がするものと決まっています」。なのに息子夫婦ときたら・・と。「決まっている」とは、どういうことか。そうした法律があるのであれば、そう言うこともできるでしょうが、違いますね。これは自分の願望によってものごとを考えている、非論理的思考です。「行動学」の知恵を借りて息子夫婦をうまく動かすことなど、視野に入りようがなくなってしまいます。
もう一つ若い女性の言葉で、「・・・・と言われ、傷つきました」。これは内容を見れば気持ちは分かると言えるかも知れませんが、自分が人の言葉によって傷つく存在であることを、何とも簡単に自分で決めてしまっている言葉です。自分の短所欠点について、全力を尽くして変えられるものは変える、変えられないものはそれを覚悟する、その先に、もはや人の言葉に動揺することはなくなる、といった心の成長の世界があることを、視野に入れようもなくなってしまいます。
「傷ついた」とはどういうことか。指摘された短所欠点について、自分ではどう考えているのか。その通りだと自分でも思うのであれば、改善の努力を考えるしかない。一方で、「傷ついた」とは、自分の短所欠点さえも美点のように誉められる盲目的な愛を、相手から自分に向けられることを、自分は期待していた、ということか・・。このように、「自分自身に対する論理的思考」は、とにかくただ論理的に考えるというよりも、心の健康と成長に向かう思考と行動についての「学び」と照らし合わせる思考として、また「学び」があってこその「自己分析」を伴うものとして、行うことができるものです。
もう一つ具体例は、ごく最近耳にしたものです。ロンドンオリンピックレスリングの日本選手金メダルをとった時の、アナウンサーの言葉「日本の強さを証明しました!」。私は思わず、「証明したのは、その選手の強さだろう」と。「日本の強さ」とは、日本の何がどう強いということか。
実に些細な話ですが、このように私たちの「感情」が絡む思考について、何がどういうことなのか厳密に考える姿勢が、自分でも理由が分からず気分が沈む「うつ状態」といったものなどにおいても、その原因を解きほぐしていく「自己分析」につながるものであることを、ここでは指摘しておきましょう。

こうして世の人々が語る言葉を再度じっくり眺めてみるら、何のことはありません。強く感情が絡むことがらについては、人は感情にまかせて考えているのです。じっくり客観的に見ると、非論理的な、その人が心の中で決めつけた思考としてです。これでは、良くも悪くも、変わることができないのは当然のように感じられます。
一般に、「・・に決まっている」「どうせ」といった言葉が、そうした「感情で決めつけている思考」を示すものです。「それが常識」「普通」といった言葉も、しばしば、自分の価値観を人に押しつけるために典型的に使われる、非論理的思考です。
「頑張ればなんだってできる」「願えば叶う」といった精神論を、合理的思考に置き換えるのがお勧めです。それで言うならば、「頑張った方が、頑張らないよりはできるようになる可能性が大きくなる」。これは当然ですね。もちろん願っただけでは、それが叶う可能性は一般に低いように私は感じます。あるいは、「叶う」という喜びの感情が、「願う」ことがあってこそのものだと言えます。願っていなければ、別に「叶った」とも感じませんね。「叶う」という人生の喜びの感情を感じ取るためにも、自分の「願い」しっかりと自覚することが重要だということになるでしょう。

「感情で決めつける思考」をすると、それは自分の感情を押し通し、守ろうとする思考である一方で、自分や他人にストレスを加え、緊張状態を生み出し、感情は硬直し、感情の内容そのものが悪化していく傾向があります。
合理的思考は、私たちの内面感情への枠はめを外し、感情が流れ移り変わる自由度を高め、心にリラックス落ち着きを与える作用を持ちます。そして何よりも、自分がこの「現実世界」に対して、歪めることなく正しい対応ができるという、心の最も深い意識における「自信感」「自尊心」を生み出します。
「感情で決めつける思考」が、意識の表面においては、自分の感情を押し通し、自分に自信を持とうと躍起になっている一方で、心の最も深い意識においては、自分が真正面から現実世界に向かうことをしていないという自己否定感情を、裏腹に流し続けることになるであろうのとは、対照的にです。

算数や物理の問題での論理的思考が良くできても、人の行動と感情についての論理的思考ができない人が多いかも知れません。こんな場面ではこうするものだ、そんなことも分からないのか、といった人の言葉を前に、「そうなのか・・」と考えが揺れ惑ったり、逆にそうした「決めつけ」の言葉の応酬の中で、人といさかいを起こしたりと。
行動と感情についての論理的思考として正しいのは、大抵の場合「そうとは限らない」というのが正解になると憶えておくといいでしょう。そうであることもあれば、別であることもある。つまり「選択」だということです。
たとえば相手を動かしたい時に、「怒り」を用いる行動もあれば、「愛」を用いる行動もある。人がそのどっちを取るかは、こんな場面では必ず・・などと「決まっている」ものなどなく、その人が「何を選択するか」なのです。
一方で、もしその「選択」がどっちに転んだ時、人の行動や感情はこう動くという、行動と感情の仕組み、つまり私たちの「心のメカニズム」には、一定の答えが出てきます。たとえば相手を動かそうとして「怒り」を用いた時、たとえ相手が服従したとしても、相手の心には、こっちへの「親しみ」「信頼」といったプラス感情ではなく、「不信」「敵意」などのナイマス感情が、「ほぼ例外のない確率で」生まれるでしょう。「愛」を用いて相手を動かそうとした場合、そうしたマイナス感情が生まれる危険「ほとんどない」でしょう。ただし「愛」だけでは人は動かないという「可能性」も大きいかも知れません。
さらに一方には、私たちが住む社会における、「法律」という、それを守らないと罰せられる厳格なルールや、「慣例」「マナー」などの、罰せられるとまではいかないまでもスムーズな社会行動のために配慮したいルール、また「契約」「役割分担」「作業工程」「品質」といった、社会活動のためのさまざまな「概念」「理念」「原理原則」などがあります。「気持ちの問題」ではなしに、人々はこれを基準にして行動しているのです。自立した個人として行動できるためには、これをしっかりと理解し、これを含めた上での「選択」として社会行動を考えることが大切です。

そのように、人の行動と感情について「選択」と「心の内部メカニズム」として思考できるようになった時、ごく物質的なことがらだけではなく、人の行動と感情といった心の内面、そして社会の仕組みの理解にまでまたがる、「人生を生きるための論理的思考」ができるようになります。それによって私たちは、私たち自身の人生の生き方について、人と無駄な議論をする必要もなく、「唯一無二の自分の人生」の模索の歩みへと、踏み出せるようになるのです。

このような「自分自身に対する論理的思考」が、「目的思考」「現実を見る目」による「学び」を得て、「開放」「自己分析」も携えて「学び」とのギャップを生きるという歩みの過程全てを推し進める、エンジンになります。
「考える」ということを人に頼らず、「自分で考える」ことができるようになるという基本的な取り組みと合わせ、日常生活と人生の中での思考を、このような「自分自身に対する論理的思考」と取りかえていくことがお勧めになります。
「思考の素地 「目的思考」」で言った通り、私たちが生きる上で本当に重要な知識など、ほんの僅かなものなのです。それについて、自分自身にとって本当に確かな思考を、持てるようになればいいのです。それ以外についてはもう人それぞれの趣味嗜好の世界であり、放っておけばいい。人に「頭がいい」と思われるよりも、自分自身に対して「賢く」なることを目指すことです。


心の成長のスタートラインに立つ

では、そのように心の成長のための歩みのエンジンとなる「自分自身に対する論理的思考」において、「感情に流された思考」「合理的な思考」自分自身で見分ける基準は結局何なのか。

それが、「現実を見る目」なのです。私たちの感情による現実の「解釈」のどれでもない、ただありのままの「直(じか)の現実」を見る目です。
「現実」というものには、答えがあります。「現実というものは、どんなものなのか」という問いへの、答えがです。私たちがそれに向かって行動しなければならない、「現実」というものがです。
そこには、より良い情報を探せば、より良い答えが分かり、私たちがよりうまく「現実」に向かって行動できるようになるものもあれば、「正確な答え」探し求めようとすることで、逆に私たちが「現実」に向かって力強く行動することを見失ってしまうものもあるでしょう。たとえば占いで明日の天気を予想するよりも、インタネーットでピンポイント天気予報を検索できることが、私たちの行動能力を高める一方で、「人がどう思うのか」の「正確な答え」を求める姿勢が、自分から人に向かうための感情貧弱にしてしまうように。
「現実を見る目」を持った時、私たちはやがて、人の気持ちは流れ変わるものであり、人の気持ちを推し量ることで自分の行動を決めようとする過度の姿勢が誤りだという「現実」を、感じ取ることになります。そこからさらに、人の気持ちが今どうであろうと、自分から生み出していく行動法によって、人が自分に向ける気持ちより好意的なものに変化していくであろうことに自信を持てるようになる、「行動学」を習得する道も開けるでしょう。これはインタネーットでピンポイント天気予報を検索できるようになるよりも、長い月日と経験による学びが当然必要になるでしょう。

いずれにせよ、「自分自身への論理的思考」ができ、そこに「現実を見る目」からの情報が入ってくることで、私たちは今までの、感情に流されてうまく行かない行動の仕方や姿勢を、変えていくという歩みが可能になります。

もし「自分自身への論理的思考」ができたとしても、、そこに「現実を見る目」からの情報が入ってこなければ、感情に流されてうまく行かない行動の仕方や姿勢を、根本的に変えていくことはできません。
これはいいでしょうか。それは明日の天気を予測するために、星占い花占いのどっちがいいか、という思考になるのです。これでも「論理的思考」展開できるかもしれません。星は天体の動きに、あるいは花こそが天候を示すものだから、とか。むろん実際の天気予測にとっては、どっちもかなり見当外れであるのは、大抵の人は分かると思います。どっちにしても、「現実」の世界というものをうまく見ることができておらず、自分の空想の、虚構の世界で考えているわけです。
しかし「人にこう見られると考えて行動すればいいのか、それともそんなことはないと考えればいいのか」という思考が、どちらも「現実」を見ることができていない、自分の感情の中だけで考えている姿勢であることを、大抵の人は分かりません。「人にそう見られるなんて思わなければいいんですよ」というアドバイスをするカウンセラーも、少なくないでしょう。
それは動揺する感情の中の、どれを選ぼうかという思考です。動揺する感情を克服し、抜け出す思考ではありません一時的「これでいいか・・」と感じられたとしても、似たような動揺が起き始めた時、全てが同じままの「どう考えれば・・」という悩み惑いに戻ってしまいます。

ではどうすれば元に戻らずに、成長できるのか。変わっていけるのか。そのスタートラインを、「意識の素地 「現実を見る目」」で説明しました。
視野を広くすることです。人の価値観行動の仕方には、どんな種類のものがあるのか。似たような場面で、全く動揺しない人もいる。それはなぜなのか。
自分が悩むような状況に置かれても、全く動揺せずに、力強く生きていく人がいる。これを視野に入れることができるかどうかが、まずは基本になると言えるでしょう。その人も内心では自分と同じで、表の演技だけうまくできているのに決まっている・・という、自分の未熟な感情によって解釈できる中だけで考える姿勢ではなく。男の私の場合、大勢の異性を前にして、全く緊張することなく、意識過剰になることもなく親しく振舞うことができる男性の心の中というのが、まるで分かりませんでしたが、それでもそうした男性はいるものだと感じ、幼少期からどんな過程を経るとそうなれるのか、といった心理学テーマも考えた、といった具合に。
そうして、自分の未熟な感情で解釈できる範囲を超えて、健康で成長した心の世界を具体的に視野に入れることで、心のメカニズム、思考法行動法と価値観、心の治癒と成長の過程といった「学び」が、具体的に自分自身の心と照らし合わせながら一つ一つを考えることができるものとして、取り組むことができるようになるのです。
そしてそこから、「開放」「自己分析」も携えることで、「学びとのギャップを生きる」という歩みが始まります。そこに「望ましい行動法へと突き進む」「もはや立ち行かない自分の心を見つめる」「心の健康と成長とは逆を選んでいることをはっきり認める」という3つの道が現れ・・。
こうして、私たちは心の成長への歩みの、スタートラインに立つのです。

そこでさらに、「現実を生きる」「今を生きる」という実際の感情を、自分自身の中に知った時こそが、心の成長への歩みの、真のスタートラインになります。
なぜならそこで初めて、「これこれのためにはこうすればいい」という「目的思考」が、私たち自身の中にある心の分岐路を、視界に捉え始めるからです。頭ごなしの「目的思考を欠いた善悪」「目的思考を欠いた人間評価」が「目的」になり、そうなるための方法の合理性を問うべくもなく、ただ「そうなれなければ駄目」というストレスに向かうのとは、別の道がです。
「真の幸福」を「目的」とした「目的思考」が、ここで機能し始めるからです。「自意識を生きる」「空想を生きる」という心のあり方の中で、「こうなれれば」という完全完璧を求める衝動の中で、自分が「不幸にだけなれる存在」になっていくこと、また「「今までの心の死」を経る」で述べたように、その衝動の中で自分が「不実と傲慢」に陥り、その「罪」から逃れるために再び「こうなれれば」という完全完璧を求める衝動に向かうことになるという、「心の業」を克服することを「目的」とした「目的思考」が、ここで機能し始めるからです。

「現実を生きる」「今を生きる」感情はこの段階ではまだ、自分がこれからどう生きていけばいいのかという具体的な形を、ほとんど取ることはできないかも知れません。それでも、自分は今、生きているのだ、そしてこれからも、生きていくのだ、としか言葉にはできない感情かも知れません。
しかしここから、「自意識を生きる」「空想を生きる」感情とは全く異質その感情において、より揺らぎなさ、より豊かさに向かうためにはどうすればいいのかという、「目的思考」を開始することができるのです。

これが心の成長の歩みの、真のスタ−トラインであり、ハイブリッド心理学の考える「「心」と「魂」と「命」の開放」という心の成長歩みの道のりにおける、「心の開放」に該当します。そこに示した「心の成長の道のり情景図」において、「未熟と病みの大海」から脱し、「成長の大地」へと立つという節目です。
そこでは「心の開放」を、思考面において「本当に確かなことからしっかり積み上げていく論理的思考」情緒面においては「自分の気持ちを自分で受けとめる心の自立」、そしてその両者にまたがって、「自分の本心に常に真剣に向きあう自分自身への真摯さ」という3面大きな役割を果たすと述べましたが、それによって実際に意識面では、ここまでに述べたような歩みになる。そう理解頂ければと思います。
私自身の人生においては、自伝小説『悲しみの彼方への旅』のほぼ全体を占める、大学院進学までの内面過程が、この、心の成長の歩みの真のスタートライン立つまでを記したものです。もちろん当時の私にはこの心の成長の道を知るための情報があまりにも不足していたため、その道を歩みながらの動揺が大きくなってしまった面ありました。そこからの歩みも、道なき道を進む形となりましたが、やがて「否定価値の放棄」という大きな道標と、その先を「魂」が導き、「命」という答えが示されるという道のりを歩んだのです。

「成長変化する人」と「いつまでも変わらない人」違いという話から始め、その隔たり埋めるもの、そして心の成長の歩みの真のスタートライン立つまでを、詳しく説明しました。
実際のところ、ここに立つまでですでにかなりの取り組みの過程があるのであり、この真のスタートラインに立った時、実はもうすでに道の半ばに来ているとも言えるかも知れません。他の心の取り組みにおいては、もうこれでゴール、あるいは「悟りを得た」段階とされるかも知れません。
それだけ、この先の心の成長変化としてハイブリッド心理学が見出したものが、さらにあまりにも大きいということになるでしょう。そのための最初の一区切りが、ここまでの段階です。
心の障害の「症状」として診断されるような、自己制御不可能状態は、とうの昔に消えている形になるでしょう。もちろん悪感情が全て消えるのではなく、自分にとっての意味と、それが示す心の選択肢を問える感情として、ここから、その根本的な、そして完全な消滅を目指す歩みが、始まるのです。

この説明を書き始めた時、「変われない人」の姿勢思い浮かべることは、私にとって、この真のスタートラインがそのかなた先にある、まるでグランドキャニオンの大峡谷を前にするかのような感覚を感じさせるものでした。それを超えるための道筋を、一度に見渡すことは到底できないような。
それでもともかくは、ここで説明したのが、その道筋だということになります。ハイブリッド心理学にできるのは、それを示すことまでです。それを実際に歩むかどうかは、人それぞれに委ねられます。


「現実を見る目」という全ての始まり

それでも、この歩みが、本当に些細な、「現実を見る目」の姿勢の有無の違いによって、開始されるものであるように、私には思えるのです。

それを私に伝えたのが、他ならぬ、「意識の素地 「現実を見る目」」で書いた、私の母日常行動でした。DVDプレーヤーのリモコンの、必要最低限のボタンに、「再生」「停止」などと手書きをした紙を貼り、それで操作していた姿勢。これが、今までの自分の心で解釈した「イメージ」を、「現実」として相手にしていた、母の姿勢象徴しているように、私には思えたのです。今までの人生で、「人の気持ち」として解釈したイメージをまず取り組み相手にして、そこから、何をどう考えればどう感じることができるか、という姿勢で、ハイブリッド心理学も学ぼうとしていた・・。母が亡くなってから、私はそれをはっきりと感じたのです。
それが「正しい」か「正しくない」かの問題ではないのです。これはいいでしょうか。
それが「再生」「停止」のボタンであることで、正しいのです。で、そう紙に書いて貼って、それからは貼った紙の方を見て操作する。これが「今までの心でできた解釈を“現実”として相手にする姿勢」です。それはまず言って、「実際の現実」の、より細かく微妙な情報が入って来なくなるものです。ゴミがはさまって、正しく押しても作動しなくなるかも知れません。もちろん貼った紙をいくら見つめてもそれはわかりません。自分の解釈が間違っていたのか・・それともとにかく自分にはこれは無理なのだ・・とDVDプレーヤーを使うことを諦めてしまうかも知れません。
そうした姿勢で、人や社会に向かっているのが、「変われない人」です。

そうではなく、「今までの心でできた解釈」を取り外して、「生(じか)で直(なま)の現実」に対して直接行動する。それは「再生」「停止」と書いた紙ははがして、その装置のボタンそのものを見て、行動するということです。
もちろんそれが「再生」「停止」のボタンだという「解釈」心に持っています。それがなければどのボタンを押すも何も始まりませんね。その上で、直接それを見て操作するようにすれば、はさまったゴミに気づき、それを取り除いてうまく動作するように直したり、少し形や配列の違う、他のメーカーの装置もすぐに操作できるようになるでしょう。「応用」が利いてくるわけです。
そうした姿勢で、人や社会に向かっているのが、「成長変化する人」です。

「意識の素地 「現実を見る目」」で書いた、「現実世界」に向かう姿勢としての、根本的に異なる2つの姿勢違いが、これでお分かりになってきましたでしょうか。今までの心でできた解釈を「現実」として相手にする姿勢と、ありのままの生(なま)で直(じか)の情報を「現実」として相手にする姿勢と。その違いです。
一つには、前者では圧倒的に情報が不足するというがあります。心に入ってくる情報の量がです。生きるために必要な情報としてです。ちょっとした違いによって対処を変える必要があるものを見たり、応用を利かせられるようになるために。
そしてもう一つ、さらに決定的な話として、脳の構造の使い方というレベルで、意識のあり方が異なってくるのです。前者「自意識を生きる」「空想を生きる」という脳の働かせ方です。後者が、「現実を生きる」「今を生きる」という脳の働かせ方です。
後者に、「現実を生きる」「今を生きる」感情湧き出してくるということも起きてきます。これは全く異質な感情です。もはや何をどう考える必要もなく、今を生きているという「命」のエネルギ−として感じることのできる感情です。
言葉で説明できるのはここまでです。あとは実際に体験して、違いを感じ取ってみて下さい。そしてそれを足場にした時に、心の成長の歩みの真のスタートラインに立つことを、感じ取って頂ければと思います。

こうしてが行っていた些細な行動法を振り返った時、それが心の成長とはまずは関係ない、ごく些細な日常での行動法であったからこそ、むしろ、母の心の中で、「今までの心で解釈したイメージ」を相手に考えるという姿勢広範囲にわたっていたであろうことを、感じるのです。その結果、ごく日常作業的なものごとにおいても、「思いやり」勘違いになりがちだったなあ・・と。それが、思いやりが通じない苛立ち嘆きから抑うつ感情にも流れてしまうといった心の動きにもつながっていたのだろう、と。
「自分自身への論理的思考」「自分自身への真摯さ」をどう持てるかといった課題もあります。しかし母はその全てを、潜在力としては持てていたようにも感じます。ただ、最初の「現実を見る目」だけが、ふさがれていたのです。それはまるで、自動車の運転を習おうとして、教習所の教室の中での学びをいかに完璧にできていても、実地運転に入ろうとした時、運転する車のフロントガラスに、見慣れた自分の家の庭の絵を貼りつけて、自分にはうまく運転できない・・としていたかのように。
それを取りはがすことさえできれば、グランドキャニオンの大峡谷を越えるかのような道筋のほとんどが、もはや自ずと取り組めるようになるものかも知れません。
世の人一般変われない理由となる、「人の話は論理的に聞くが、自分では論理的には思考しない」という問題も、感情が強く絡むことがらについては、同じことが起きているということになります。「生(まな)で直(じか)の現実」を見るのではなく、「自分の感情による解釈イメージ」の方を見て思考してしまうのです。これも、論理的思考の前に、まず「現実を見る目」始まりになるということです。

そんなこととして、が遺したものの中に、「これが理由だったな・・」という感慨と共に見たのが、DVDプレーヤーのリモコンだったという話です。このことを母にも気づかせ、そこからの心の成長変化に向かわせるということはできませんでしたが、それでも私の心理学で多少は役に立った、そして最期にはとりあえず、穏やかな心の中で旅立たせることができた・・という感慨の中で・・。

なお20代前半までの方、また心の障害の傾向が強い方の場合、「「自意識(空想)を生きる」から「現実(今)を生きる」へ」で述べた、脳の発達段階の違いといった大きなレベルで、「自意識を生きる」「空想を生きる」という感情に心がおおわれている状態にあるのが、ほぼ例外のないことです。空想の中で考えて答えを出そうとするのを急がず、自分の心にじっと見入るよりも「現実世界」に幅広く目を向けることに、より多くの時間を向けること、また「空想を生きる」という心の構造から「今を生きる」という心の構造への切り換わりというものがあることを念頭に置いておくことが、そこからより早く抜け出すために役に立つかも知れません。また、私自身も体験したものとして、「現実感の回復」といった治癒の仕組みがあることも知っておくと良いでしょう。これは『悲しみの彼方への旅』「現実への帰還」の章(P.236「現実への帰還」)で描写しています。


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2012.9.23

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