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ハイブリッド人生心理学とは 1.ハイブリッド人生心理学とは
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2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』
として無料電子書籍化しました。今後の更新電子書籍側のみになります^^。


2.「取り組み実践」への理解 - 続き
 (6)心の成長の道のりに向かう
心の成長の道のりに向かう  「心の成長」とは「望みの成熟」  「目的思考」の前進  人生を生きるための基本的思考法  心の癌細胞「望む資格思考」と「生きづらさ」の心理  心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう  「真の望み」へと向かう

心の成長の道のりに向かう

さてここまで、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」による心の成長の道のり意識過程について、特にその最初の大きな節目となる「心の開放」立つまでを中心に、詳しく説明してきました。
それは自分で考え、自分の考えを持つことができるようになることと、自分の内面感情をありのままに感じ取ることができるようになることを、基本的な内容とする節目です。それによって、自分を偽ることなく、これからの自分の人生の生き方を、自ら模索することができるようになる節目です。
それは同時に、自分の気持ちを人に受けとめさせようとする「心の依存」から、自分の気持ちをまず自分で受けとめる「心の自立」への転換という心の発達課題や、「道徳の授業型人生観」からの抜け出しの始まり、さらには「空想」と「現実」の区別「現実を見る目」といった、心の土台の成長と転換が成される節目です。またこれらの総合的な結果として、「心の障害」の「症状」と呼ばれるものはほぼ消え去り克服される節目です。

つまりここから、心が健康で自立した一人の人間として、真の心の成長と人生の豊かさ向かうための歩みが、始まるのです。
この最終章では、そこから「魂の開放」そして「命の開放」という、ハイブリッド心理学が考える心の成長の道のりに向かうために、意識を向けたいことがらについて説明したいと思います。


「心の成長」とは「望みの成熟」

その第1になるのは、そもそも「心の成長」とは何か、という理解を置いて他にないでしょう。
もしそこで「これが心の成長だ」と考えるものが的外れであったならば、「真の心の成長」には向かいようもないものとしてです。そこで「的外れ」であるとは、「これが心の成長だ」と考えるものに向かおうとし、実際そこに向かうことができたような気がしても、いつまでたっても「幸福」に近づいているようには感じられないものを言います。
今これを読んでいるあなたは、「心の成長」とは何だと思いますか

ハイブリッド心理学が考える「心の成長」とは、「望みの成熟」です。「望み」が「成熟」していくことです。
それ以外にはあり得ません。人への「思いやり」が持てるようになることでも、「包容力」がついてくることでもなく。「性格」が良くなることでも、「社会性」が向上することでも、もちろん社会的地位が向上することでもなく。人つき合いがうまくなることでもなければ、物分かりが良くなることでもなく、謙虚になり「人のため」を意識することができるようになることでもなければ、ましては諦めがうまくつくようになることでもありません。「人間性」「人格」高潔高尚になることでもない。
他のいかなることでもなく、「望みの成熟」なのです。「心の成長」とは。「望み」が「成熟」し、その内容が徐々に変化していくことです。それをハイブリッド心理学では「心の成長」だと位置づけています。

それがどのような変化を指しているのかを、「「ハイブリッドの道」を歩む」で述べました。全てを尽くして望みに向かう中で、心の重みは「与えられること」から「自ら与えること」へと変化していき、やがてもはや何も躍起に求めることなく心は充実感に満たされた中で、その生涯を閉じていく、と。
その根底に、「命の生涯」とこの心理学で呼ぶ、私たちの「意識」を超えた摂理があります。それによる「望み」の変化は私たちの意識努力でどうこうなるものではなく、「命」によってつかさどられます。自分の感情を自分で良くしようとして、心に不自然な手を加えようとすることをやめ、「命に委ねる」ということが、この心理学の最大の理念なのだ、と。

ハイブリッド心理学が行おうとしているのは、この「命の生涯」への回帰なのです。つまり、私たちの生き方姿勢生き方思考を、「全てを尽くして望みに向かう」というものへと戻すまでだけなのです。それによって自分の心がどのように変化していくのかは、自らの「意識」によって枠づけ、さらには方向づけをすることさえやめて
その結果が今述べたように、心の重み「与えられること」から「自ら与えること」へ変化し、何も躍起に求めることなく心は充実感に満たされるようになるのであれば、確かにそれは「思いやり」「包容力」「人間性」「人格」といったものの向上でもあるように見えます。しかしこうした「人間印象」の結果の側面だけを取り上げて目標として掲げ、心のあり方の枠はめ、そして「気持ちの枠はめ」を始め、ありのままの自分の感情を押し殺すようにもなった時、それはもはや心の成長とは逆の、心を病む方向への芽にさえもなることはお分かりかと思います。

つまり、「全力を尽くして望みに向かう」という「命の生涯」の歩みが「性格」「人格」の円熟をもたらすことと、最初から「人に好かれる性格」「円熟した人格」になろうとするのとは、私たち自身の意識姿勢は全く異なるものになるのです。
ほとんど逆だと言えるほどにです。それは例えば登校拒否不良に走った生徒を立ち直らせる力量を持つ教師が、人生で最初から人格者を目指したような人物とはまるで逆の、不良の限りも尽くした人生遍歴の先に「愛」を見出したような人物であることがしばしばであることなどからも、想像できるのではと思います。人格者になろうとして人格者になるというのは、ちょっと違うと。
一方で、全力を尽くして望みに向かっていても、心が成長成熟には向かわないような姿もあります。たとえば金儲けの「望み」に向かって生涯を生きている人物。いつまでも「我欲」に駆られ、人のことを思いやる心のゆとりも、最後までない姿。これはなぜか。
それは「命の生涯」から外れた望みだからです。「命の生涯」から外れた望みとは、自分の「本当の望み」に対して何か嘘がある望みです。たとえば沢山のお金を持つことへの望みごく自然ですが、実際のところそのお金で自分がどのように幸福になれるのか、私たちは「現実」の地に足をつけた感覚ではなく、「それがあれば幸せになれるのだろう」という「空想」の中で、そうした望みを抱くのです。しかし昨年の大震災の津波で発見された遺体の中に、ボケットに数100万円の札束、手には多数の宝石の指輪といった姿があったといった報道を見た時、私たちはその「望み」の脆さ感じ取ることになります。
「命の生涯」に沿う「望み」とは、そうした脆さを微塵も持たない「望み」です。それに全力を尽くして向かった時、私たちのは、私たち自身の意識努力を超えて、より豊かなものへと成熟していくものとして。
それはどんな「望み」か。私たちはそれをどのように感じ取ればいいのか。そしてそれにどのように向かえばいいのか。

ここに、「心の開放」から歩みにおける、ハイブリッド心理学の取り組み実践の焦点があります。それは全てこの「望みの成熟」を目標にしたものなのです。「全力を尽くして望みに向かう」という歩みへと、自分を軌道に乗せ、それを妨げるものを取り去っていく、「命の生涯」向かうための歩みです。
「心の開放」からの歩みの全てが、この一点に向けられたものになるのです。

それが私たちの取り組み実践における具体的な意識として、実際何を特に意識すると良いものになるのかを、ざっと説明していきましょう。


「目的思考」の前進

心の成長の歩み向かうために第1に意識したいのが「そもそも心の成長とは何か」であり、その答え「望みの成熟」であるのであれば、に、取り組み実践の具体的な意識作業として第1に意識したいのは何であるのかも、明白です。
それは「何が問題・課題・望みか」という問いから始める「目的思考」を、その最後の「何が望みか」という問いへと推し進めることです。

あるいはその前に、「心の成長とは望みの成熟」だというこの心理学の考えに、異議をとなえる方もおられるかも知れません。そんなものは絵空事である。人間欲と理性の矛盾を抱えた存在だ。我欲を捨てて人のためを思える心尊い。自分はそれを目指したい。最初からそれを自分の心のあるべき姿として、そこに向かうための方法を探りたい。
それはもうはっきりと、この心理学とは別の取り組み方法を探すかどうか問題になってきます。「取り組み実践」具体的な意識の向け方の問題ではなく。

その場合は話を元に戻す必要があります。どこに戻す必要があるかと言うならば、まずは「目的思考を欠いた善悪と人間評価の思考」が「人間の業」であり、心のストレスと病みを生み出すものであるという、「「心を病む傾向」からの抜け出しの第一歩」での説明あたりからになるでしょう。
あるいはこの解説最初から読み直し、最後までを通して、この心理学がどのような考えに立ち、取り組み実践を定め、その先に「魂」「命」とこの心理学が呼ぶものがどのように心を豊かにしていくのかの大よそ感じ取り直し、理解し直すことからになるでしょう。『入門編』も含めてです。
この心理学は、「心の惑いと病み、その治癒克服と心の成長」で述べたように、今の心の中だけで「こうなれれば」と考える自己理想の誤りを脱し、「ハイブリッド心理学のアプローチ」で述べたように、、「こんな気持ちで」といった「気持ちの枠はめ」と自分の心へのストレスに頼る行動法やめることから始まるものであり、『入門編上巻』「はじめに」で書いたように、今まで私たちが教わってきた「あるべき姿」を説く頭ごなしの説教道徳を、「不幸になるための思考法」として別れを告げることを宣言することから始まる心理学です。
一方でその先にある、「動揺する感情を克服したければまず感情を鵜呑みにしない」という「感情と行動の分離」の基本姿勢でまず課す「外面行動は建設的なもののみにする」という原則が、決して道徳が説く行動法に反するものではないこと、さらには「開放」された人間の本性は道徳よりもさらに良識的であるという、ハイブリッド心理学の「性善観」『入門編上巻』P.282、『入門編下巻』P.168など参照)を理解して頂くことも重要になってきます。これは「人生観の学び」一環でもある、「人間観」の学びというテーマです。
繰り返しますが、「そう考えるようにすればいい」ではなく、ハイブリッド心理学の考えこうであり、自分の考えこうであるというものを明確にし、そこにギャップがあるならば、さまざまな人間の人生の事例を知りながら、そうした自分の「人間観」の確認と再検討を適宜行っていくという、「ギャップを生きる」歩みとしてです。

そのような基本的な考え方前提として、「取り組み実践」として最初に始めるのが、「何が問題・課題・望みか」という「目的思考」による、「目的」を明瞭に意識した思考として、「感情と行動の分離」「外面行動は建設的に、内面感情はただ流し理解する」という実践なのです。日常生活および人生の、具体的な材料ベースでです。
まずは「日常生活と社会生活の向上」という、ごく身近な材料からがいいでしょう。まずは心の足場をしっかりとさせるためにです。しっかりとした心の使い方ができるようになるという意味でも。また実際のごく身近な日常生活から安定させていくという意味でも。そして、「目的思考を欠いた善悪と人間評価の思考」に縛られた、心の未熟と病みからの「心の開放」という、心の成長の道のりの最初の大きな節目としてもです。
そうして、しっかりした心の足場ができたら、「目的思考」をさらに、「何が自分の望みなのか」を問うものへと、前進させるのです。


人生を生きるための基本的思考法

そうして「何が問題か」「何が課題か」から先に進み、「何が自分の望みなのか」を問えるようになることで、「人生の心理学」たるこの心理学の、本格的な取り組み実践始まります。
「愛」「自尊心(自分への自信)」そして「唯一無二の自分の人生」という心の成長のメインテーマを、「目的」にした取り組みとしてです。

一般に、「問題」「課題」というものは、私たちの心の外部に起き、生まれます。衣食住の問題家事のこなし方から、対人関係の問題への対処法、そして仕事場面における問題解決スキル向上といった課題に至るまで。
もちろんそこでその「問題」「課題」がどれくらいの大きさ重要さのものなのかは、人それぞれの心の中答えがあるとしてもです。そうだとしても、その「問題」「課題」どんな内容なのかは、心の中ではなく心の外に、自分に「課せられる」ものとしてあります。それがどうすれば解決できるのかの答えもです。
それに対して「望み」は、それがどんな内容のものとしてあるのかの答えは、心の中だけにあるのです。その人自身しか、本当の答え知り得ないものとして。あるいは、その人自身が自らの心に向き合うことによってしか、本当の答え知り得ないものとして。
ですからたとえば仕事の場面であれば、「問題」「課題」はこれこれです、さらにその解決方法はこれこれですと、人それぞれの心の中には踏み入らずに話をすることが可能である一方、それをうまくこなすことで「何を望むのか」は、その人の心の中にしか答えはない形になるわけです。それはとにかく最低限の生活費を稼ぐことであるかも知れないし、こんな結婚をしてこんな家を建ててといった人生設計に見合う収入のためかも知れないし、あるいはその仕事に就くことが生み出す社会的ステータタスを欲する、プライドもしくは見栄のためのものであるかも知れないし、あるいは心の底から純粋にその仕事にやりがい生きがいを感じているからかも知れない。そのどれが本当のその人の「望み」なのかは、その人の心の中にしか、答えはありません。
一方、そのように「望み」が決まれば、次にそれを実際の「現実」の行動にするために、「課題」「問題」見えてくる、ということでもあります。つまり「望み」を明確にすることで、次にそれが「問題」「課題」として展開されるということです。
「望み」に向き合うとは、人生に向き合うということでもあります。仕事をすることで何を望むのかの例のように。
人生とは、望みに向かうということです。人それぞれが、人それぞれの望みに向かった軌跡が、それぞれの人の人生です。

そのように、「望み」から始まって「問題」「課題」へと展開されるものへと揃った「目的思考」が、人生を生きるための、前進力のある、基本的な思考法になるのです。


心の癌細胞「望む資格思考」と「生きづらさ」の心理

一方、そうした「望み」から始まって「問題」「課題」に展開するという「人生を前進させる思考法」が、その最初のものが別のものに置き換わると、得てしてそれは「人生を見失う思考法」になりがちです。
何に置き換わると、か。これはお分かりかと思います。「目的思考を欠いた善悪および人間評価の思考」です。「何が自分の望みか」ではなく、「何が正しいのか」「どんな人間になればいいのか」「どんな人間にならなければいけないのか」から始まる思考

そこではしばしば、その「目的思考を欠いた善悪および人間評価の思考」の中で考えた「こうなるべき人物像」のようになることが、自分の「望み」なのだと感じるかも知れません。
これは「意識の素地 「現実を見る目」」でも述べたことです。「目的思考」を試みても、あるいは思考がそこに戻ってしまう、と。それを「望み」として、そこから「問題」「課題」が展開される・・。それは一見、今述べた「望み」から始まる目的思考と同じように見えますが、得てして、人生の推進力とはの、いわば人生を生きることへのブレーキ、さらには責め苦のようなものを生み出すわけです。
その「目的思考を欠いた善悪と人間評価」において「こんな人間になること」「望み」だとして、そこから展開してに、「自分の問題は・・」と来た時、そこに現れるのは、奈落の底へと突き落とされるかのような、激しい自己否定感情・・。

そうした文脈の中で、人が「自ら望むことへの恐怖」を感じるようになる、という人間心理があります。それが何かの大きな叱責に出会うような事態に、自分から向かうことであるかのように・・。
試合勝ちそうになると、何かを躊躇(ちゅうちょ)するような無気力感が現れ、自ら負けるような流れにいつもなる。恋愛や交友うまく行きそうになると、自分から関係を切る行動に出る。私も、異性との交際の行動に向かおうとした時、「深淵を覗くような不安感」に駆られたことを、『悲しみの彼方への旅』の最後の方の場面で振り返っています(P.339)。
カレン・ホーナイはそうした心理を、「高く登れば登るほど、崖から墜落する恐怖は強まる」のだと説明しています。そのには、自分が見せかけであることが暴露されることへの恐怖必ず控えている、と。
『悲しみの彼方への旅』の最初の方に出てくる、日本で最も著名な人生論著作家の一人の言葉に、「望むとは強靭な精神の持ち主において可能なこと」といったものがあったのを憶えていますが、これもやはり同じ文脈の中にある未熟な思考だと言えるでしょう。それを人生論の言葉にまで格上げしてしまっているのです。それだけ、「道徳の授業型人生観」の中にどっぷりと漬かっているという話になるでしょう。望むとは、緊張した雰囲気の道徳の授業の中で、自分から手を上げることだというような話です。確かにそれは強靭な精神の持ち主という話にはなるかも知れません。
しかしその狭い教室から大きな大自然へと抜け出れば、「望み」は、人にどう見られるかなど関係なく、まずは自分自身の心の中で抱くものになるのです。自由に、ごく自然にです。別に強靭な精神であろうとなかろうと。その代わりに、「望み」の実現のために「現実」へと向かうで、さまざまな障害が現れ、それに向かって全力を尽くして生きる中で、心が自ずと成熟していくのです。要は「道徳の授業型人生観」心が「正しければ与えられる」という受け身依存に傾いているため、そうした視野が欠けているのです。

「望む資格」という思考になると、そこにある問題がさらにはっきりとしてきます。望むことに資格がいるという思考です。こうであれば望んで良い。望むことが許されるこのようでは望んではならない。望むことは許されない、という思考
これが「目的を欠いた善悪と人間評価の思考」結びつきます。良い人間、価値のある人間だけが、望むことが許される。悪しき人間、価値のない人間は、望むことが許されない。友だちを作ることも、恋愛をすることも、そして、生きることそのものも・・。
何のことはありません、これが「いじめ」を作り出す思考です。心の底に、実は自分がそうした「望む資格」を断じられる存在だと見られることへの怖れがあって、それをかき消すための最も強力な方法として、自分から、誰か他人をその断罪の攻撃の対象にできればいい、という感情が生まれるのです。それがを帯びた時、人のは自分で自覚しないまま、毒にまみれたすさんだものになっています。
こうした「望む資格思考」病んだ攻撃的な文章が、ネットの掲示板などで花盛りになるのが昨今だと言えます。そこで自分自身の心の中にもある、同じような思考と感情自覚することもあるかも知れません。
そこに、自らの心に流れる、そのすさんだ思考と感情を、傲慢で病んだ感情だと自覚して苦しむことができるか、それとも、皆そう考えている、誰だって同じだとうそぶいて自分のその思考と感情を正当化させる言い訳を求めるかに、人の心が清らかなものへと回復するか、それともその傲慢な「望む資格」の攻撃的感情が、やがてコントロール不能な形で自分自身を攻撃するものとして返ってくるようになるかの分岐路が現れます。前者において、心はその苦しみの中で浄化されていき、後者の先には、人が自ら「内面の地獄」へと落ち、精神を病んでいく道があります。

「うつ」「嫉妬」といった、人の心を最も深く悩ませる悪感情根底にも、この「望む資格」の観念があります。あんな人に望む資格など・・という感覚を心の底に抱きながら、自分から望み、自分から前に進んで成功を得る他人の姿が、絶え難く許せなくなるのです。
一方そのトゲトゲしい感情自分に向かった場合、人は「うつ」に落ち込みます。自分が何をどう望んではいけないと自分自身で考えているのか、といった論理的思考など意識の外に追いやられたまま、ただ「自分など生きていく資格がない」という悪感情へ・・。

「生きづらさ」という感情もしかり。それはまず言って、「望む資格」という感情自分でかえりみることもできない前提のように心の底に抱きながら、こんな自分で行けば・・いやこんな自分で・・いややはりこんな自分で・・という風に「自己像の描画」によって自分を決めようとすることに日々明け暮れることが生み出す疲労感だと言えます。
これも私の『悲しみの彼方への旅』で、その強度なもの典型的な姿が出てきます。自分の現実場面での行動「自己像の描画」によって決めるという生き方姿勢によって、自分の行動と感情が「自己像の描き直し」によって振り回されることに、とことん疲れたという限界まで達してしまったのです。疲れた・・。生きることに疲れた・・、と(P.244)。
しかしそれが逆に、私に自ずと、それとは違う道を選ばせました。そのような「自己像に生きる」という姿勢から、「現実を生きる」という姿勢へ。それは自分が今現実において抱えた問題課題と、自分が今現実においてできることを、「ありのままの現実」を見る目において捉え、「客観的な現実問題としての大きさによる優先度で、順番に対処、決断していく」という姿勢です。これは「基本的な妨げへの取り組み」で説明した行動法であると同時に、そこで紹介した「現実への帰還」の章の一連の場面でもあります。
それは私にとって、自分がどれだけ弱い人間であるのかを、私が人生の中で初めて、ありのままに認めた、悲嘆の色濃い決断でした。心の底の「望む資格」の観念にとって「何でも望める自分」として抱かれた自己像を、断念することを意味したからです。
そうして得始めた心の基盤を足場に、私は病んだ心巨大な崩壊仕上げへと向かうことになりました。そうして、健康な心への回帰を果たしたのです。

私の心の中から「望む資格」という観念感覚根本的に取り去られたのは、それからおそよ20年を経た、『悲しみの彼方への旅』でのラストの方の場面になってと感じます。それはこの心理学の取り組み実践の「習得達成目標」と位置づけている、「否定価値の放棄」という心の転換が成されたことによる、一連の感情変化一つということになると思います。
その時私は、人生というものへの劇的な感情の変化を経たのです。今ようやく人生というものが分かった気がする。やっと今になって!、と。同時に、自分は何でもできる、何でも望める、という巨大なエネルギー心の底から湧いてきたのです(「見出された人生」P.338)。
何のことはありません。「望む資格」の観念の中で、「どんな自分」であれば望めるようになるのかという思案の中で、人は精神をすり減らし、人生を生きるエネルギーを失い、何も望めなくなっていってしまうのですが、「望む資格」の観念が取り去られた時、逆に何でも望めるようになるのです。

それだけ、「望む資格」という観念は、人の根深く、影響範囲の大きなものだと言えます。私の場合に、それが取り去られるまでに20年の歳月を要したものとして。もちろんそれは当時の私にとって、この心の成長の道にあるものを十分に教えてくれる心理学が不足していたため、少し遠回りをしたようにも感じています。その先に、「魂」と「命」に向かう、さらなる心の成長の歩みがあることを知ることが、何よりもこの「望む資格」という観念克服への援軍になるでしょう。

その克服とは、「否定価値の放棄」という、この心理学の取り組み実践の「習得達成目標」同一です。この「望む資格」の感覚観念根源も、「空想」の中で描いた理想に満たないものを自ら積極的に責め叩くことができることに価値を感じるという、「否定価値の感覚」にあるからです。
それが人間の存在に向けられたものとしてになるのが、「望む資格思考」なのです。その最も端的な表れ「選民思想」となり、人類の歴史の中で最も大きな罪の一つとも言える、ナチスによるユダヤ人虐殺といった悲劇を生み出したものとして。
「望む資格思考」は、いわば心の癌細胞だと言えます。まず「否定できる価値」の感覚病根であり、それによって心の機能全体が「自分から不幸に向かう」というマイナス方向へと傾くことに加えて、「望み」という、本来心の成長成熟と豊かさを生み出すはずの心の細胞が、癌化してしまうのです。それがさまざまな心の部位転移していくことで、激しい自己嫌悪感情、自ら望むことへの恐怖、うつ、嫉妬、そして生きづらさといったさまざまな心の状態悪化が起きる、というようなものとして。
ですから「否定価値の放棄」という目標への歩みは、必ず、「望む資格思考」への大きな取り組み伴うものと理解しておいて頂くと良いでしょう。なお「望む資格思考」心理メカニズムについてより詳しくは、『理論編上巻』などで説明しています。


心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう

そうした問題も含めて、克服への歩みの道のりは今まで述べた通りです。
まずはごく身近な日常生活と社会生活の向上というテーマで、さまざまな具体的な行動場面を材料にして、「自分で考える」ということができるようになること、「自分の考えを持つ」ことができるようになることに取り組むのがいいでしょう。自分にとって嘘のない論理的思考によってです。それができるようになったら、それを心の足場として、「何が問題か」「何が課題か」という「目的思考」を、「何が自分の望みか」と、「望み」を問うものへと前進させていくのです。

重要なのは、自分で論理的に考え、自分の考えを持っていくことによって培われていく「心の自立」によって、私たちの「望み」が変化し始めることです。「命の生涯」という大きな軸にある、「未熟」から「成熟」へと歩み始める変化としてです。

それは逆に言えば、自分で論理的に考えるということができない、自分の考えというものを持つことができないという段階では、まだ「望み」を問う意味があまりないということです。どだいそれはどう人に良く見られ人に良くされるかという未熟な、言ってしまえば幼稚な望みでしかないであろう一方、それを自分で自覚し認めることさえできない心の状態だからです。その代わりに心の表面では、上辺だけの思考の中で、自分はただ相手のためになりたいのだとか、ものごとを良くしたいだけなのだとか、何か別の高尚な望みであるかのように自分を偽りながら。あるいは、自分には望みなどない、自分は望みなど感じることができない、と、「望み」に関連する感情の全般を抑圧しながら。
またそれは、そうした段階では、「愛」と「自尊心」そして「人生」といった心の成長のメインテーマに、まだ取り組めないということでもあります。それは結局、「「人生観」の学び」で述べたように、人に誉められ愛情と賞賛の目が自分に向けられることによって「愛」「自尊心」が得られると感じる、「道徳の授業型人生観」の中での、「人の目」というパッケージのようなものとしてしか感じることしかできない段階です。「人生観」を問われたところで、それこそ道徳の授業で先生に指されて答えるような、上辺だけの思考にしかならない可能性が高い。人生とは自分で切り開くものだと思います、とか。

そこから、自分にとって偽りのない論理的思考によってものごとをしっかりと考えることができようになるとは、まずは自分がそうした未熟で稚拙な望みを抱いているのだということを、自分で認めることができるようになるという変化なのだと、この心理学では考えます。自分はこの場面ではこいう感じた、あの場面ではああ感じた、それはつまり結局のところ、自分はこう人に良く見られ人に良くされるという望みを抱いていたということになる・・と。
そうしてまず自分の「感情」についても、自分にとって偽りのない論理的思考で考えられるようになることが、まずは、自分にとって偽りのない感情を感じ取ること、自分にとって偽りのない感情で生きることにつながるのです。

つまり、論理的に考えるならば自分はこうした望みを抱いているという話になる、という「自己分析」が、やがて、自分は実際にこうした望みの感情を抱いている・・とありありと感じ取る、「感情分析」へと前進します。
私の『悲しみの彼方への旅』でも、「解かれたパズル」の章で、そうした自分の内面感情についての論理的思考が、次々に、頭の中で「自分はこう感じる」と考えたことの偽り自ら暴いていき、自分が本当に感じているありのままの感情さらけ出していく、茨(いばら)の道の描写が満載です。「笑顔で手を振る自分」という空想に、あまりにも似つかわしくない現実の自分の自覚。見かけた男子への激しい軽蔑について、「同じ軽蔑が自分にも返ってくるのではないか」という論理的思考が、衝撃的なひらめきのように私を打ちのめし、やがて今まで心に封印していた見慣れない獣のような感情が現れてくる・・。そうして私は、ありのままの自分の感情を、ありのままに感じ取る心の足場を得て、この自叙伝の本体部分となる、内面の激動の嵐へと船出をするのです。
これは「「心を良くしようとするのをやめる」という第一歩」で触れた、「対人関係を改善しようとする姿勢そのものが誤っていた」ことを自覚し、自分の心を良くしようとする誤った努力を捨てた場面と、やがて自己分析による気づきの瞬間に苦しみが消えるといった劇的な効果が出るようになった場面の、中間段階です。まず自分で自分の心を良くしようとする「心の枠はめ」「気持ちの枠はめ」を捨てる、次に自分の感情について論理的に思考することで、自分の偽りの感情を暴き、ありのままの感情を感じ取れるようになる、そこからさらなる自己分析が、やがて劇的効果をもたらすようになる、という順番であることを理解頂けるかと思います。

そうして自分で考え、自分の考えを持つことができるようになる「心の自立」によって、「望み」や「愛」「自尊心」「人生」の感じ方捉え方が変化し始めるとは、そうした未熟で幼稚な受け身依存のものが、自分から愛し自分から生み出し自分から切り開くといった成熟した自己能動型のものにすぐ変化できるなどと絵に描いた餅のようなものではありません。そうした受け身依存の自分の感じ方捉え方をありのままに認めることができるようになるとともに、その効と罪、甘い蜜の側面と苦い毒の側面の両面を、ありのままに捉える視野を持ち始める、という変化なのです。
それは同時に、この心理学で詳しく展開しているような、「愛」と「自尊心」をめぐる人間の複雑な心理メカニズムが、心の視界に捉えられるようになってくるという変化でもあります。自分自身の心において、それが動くことに向き合うものとしてです。これも「心の依存」の中にいるままでは、他人ごとのようにピンと来ないか、あるいは自分の心に向き合うということが基本的にあまりできないからです。
そうして見えくるものとは、自分を演じることで愛を得ようとした時、私たちは「心の自由」と同時に「自尊心」を失うといった心の摂理です。一方で、「こんな自分」という薄っぺらいプライドを捨てた時初めて、私たちは自分が本当に求める「愛」を知る。そしてこの両面のはざまにある底知れない深淵の恐怖を超えて「愛」に向かった時、そこに「魂」「命」という答えが現れるという、人間の心の奥底の世界・・。ようこそ、ハイブリッド心理学の世界へ。

「目的思考」「何が問題か」「何が課題か」からさらに「何が自分の望みか」へと、「望み」を問うものへと前進させるのは、このように、まずは日常生活でしっかりと論理的思考ができるようになった先に、自分の内面感情についても論理的思考を働かせることができるようになってこそのものです。それによって、自分の偽りの感情を捨て、ありのままの本当の感情を感じ取れる、心の足場持てるからです。
それができたならば、「取り組み実践」としての課題がはっきりしてきます。今まで「目的思考を欠いた善悪と人間評価の思考」として働かせていた思考を、何を望みとしたものなのかを問いていくことです。
するとそれは「愛」と「自尊心(自分への自信)」というテーマになるはずです。
私たちは「愛」「自尊心」得たいから、善い人間、高く評価される人間なりたいと欲し、また何が善いこと、高く評価されることなのかと思案をするのです。
しかし、もしそれが本当に自分が望む「愛」と「自尊心」につながらないのであれば、私たちはその善悪と人間評価の思考を、トータルに捨て去るという選択肢を手にすることになります。
ここに、心の成長の真の源泉が、私たちの目の前に開かれることになります。


「真の望み」へと向かう

ハイブリッド心理学が考える「心と魂と命の開放」という心の成長の歩みの道のりは、それに向かうために私たちが注ぐべき意識努力とは、最も手短に言えば、「目的思考」を前進させることがその全てなのだ、と言うこともできます。
「何のために?」 それを問うことで、私たち自身の具体的な行動法や、生きる姿勢や、人生への向かい方変えていく。その意識作業車輪として前へと走らせていくことが、人生という旅路の道のり前進に応じて、あとは私たちの意識ではどうこうなるものでもないものとして、自ずと、心の境地という風景変えていくのです。「与えられる」ことから「自ら与える」ことへ、さらにはもう何も躍起に求めることなく心が満たさせていくという、「望みの成熟」という心の成長変化として。「命の生涯」、がそれを生み出すものとしてです。
そこで始まる具体的な思考法行動法内容と、それによって私たちの行き先を決めていくのが、「感情と行動の分離」という一貫したハンドルさばきだとして、前進を生み出す最も根源となるのは、「目的思考」という車の車輪なのだということです。「現実」の大地にしっかりと着地させたものとしてです。

そのような、心の成長最も根源になるものとして、「目的思考」前進させていく。
「何が問題か」「何が課題か」という、「問題」「課題」の解決「目的」としたものから、「何が自分の望みか」という、「望み」に向かう目的思考へ。
さらにそれを、「真の望み」向かうものへと前進させていくのです。
それが自ずと、「命の開放」という、この歩みの道のりゴールへとつながるものになります。

「真の望み」とは、私たちが感じ取る「望み」の中で、最も嘘の要素を持たない、偽りの一切ない「望み」の感情のことを指します。
それは私たちに、心の惑い煩い全て捨て去らせ人生を生きることへの最も純粋なエネルギーを生み出します。それは人生の旅路を走る車のための、最も純度の高いガソリンです。
「真の望み」に出会った時、私たちのの中で、「自意識」によって歪んだ感情浄化されていきます。それは、私たちの人間性より清らかなものへと高め、私たちを「愛」「自尊心」という人生の目標へと近づけます。同時に私たちは、「真の望み」によって、生きることの真の意味を知るのです。
「真の望み」出会うことは、人生の賜物です。

ここでは、「取り組み実践」としてどんなことに特に意識を向ければいいかという観点から、そうした「真の望み」に向かうことへと「目的思考」前進させるポイントについてざっと説明し、この『取り組み実践への理解』の解説の締めにかえたいと思います。



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2013.1.16

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