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ハイブリッド人生心理学とは 1.ハイブリッド人生心理学とは
2.「取り組み実践」への理解
 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
 (7) (8) (9) (10) (11) (12)
(13) (14)
3.学びの体系
4.メール相談事例集

2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』
として無料電子書籍化しました。今後の更新電子書籍側のみになります^^。


2.「取り組み実践」への理解 - 続き
 (7)「真の望み」に向かう心の成長の4段階
「真の望み」に向かう心の成長の4段階  「依存から自立へ」の心の転機と「真の望み」  「学び」の人生の期間  「否定価値の放棄」までの「学び」の主な流れ  「否定価値の放棄」を自らに問うためのポイント

「真の望み」に向かう心の成長の4段階

「目的思考」による人生の歩み「真の望み」向かうものへと高めていくのは、心の成長の4つの段階を通して、と理解頂くと良いかと思います。

「真の望み」向かうというのが「心の成長段階」であるとは、それは単なる思考法行動法姿勢の問題ではない、ということです。ましては気持ちの持ちよう、ものは考えようで向かうことができるようなものでは全くない。逆に「気持ちの持ちよう」といった「心の枠はめ」によって見えなくなってしまうのが「真の望み」です。
「開放」へと方向を定められた思考法行動法と姿勢によって人生を生きることの積み重ねが生み出す心の成長が、私たちを「真の望み」へと近づくことができる存在、向かうことができる存在へと、変化させていくのです。

その4段階とはもちろん、「心の成長の道のり情景図」に示したような、「心の開放」「魂の開放」「命の開放」という3つの大きな節目があるという、この心理学が考える心の成長過程そのものに対応します。
この4段階になります。
第1段階は、「未熟と病みの大海」から抜け出て、「心の開放」立つまで段階です。この段階特徴づけるものとしてタイトルをつけるならば、「心の自立へ」です。
第2段階は、「成長の大地」を歩み、山の麓に到達する、「魂の開放」大きな扉開くまで段階です。この段階タイトルは、「学びの人生の時期」です。
ここで「望み」大きく開放されます。成熟変化していくものとしてです。
第3段階は、山の中腹を登っていく段階です。ここでは「望み」自分が引っ張り上げていく形になります。「社会で生きる自信」の獲得中心とした支えによってです。この段階タイトルは、「変化の時期」です。
第4段階は、山の頂き「命」近づく段階です。自分が「望み」を引っ張り上げるのから少しさま変わりし始め、「望み」が逆に自分を導くものになってきます。私たちが「真の望み」知るのはこの段階です。この段階タイトルは、「円熟の時期」です。

この最後の第4段階への変化を思い浮かべた時、私のが浮びます。そこで「自分」が「望み」を導くのではなく、逆に「望み」が「自分」を導くとは、それは「自分の望み」ではないものになる、ということです。生きることへのエネルギーを与え、人生の充実を生み出す「望み」というものがさらに、「自分のもの」としてではない、「自分」の外部から訪れるものになることで、生きることへの揺らぎなさと惑いなさ、そして充実が、究極的なものへと進化するのです。
それは「魂の望み」です。その先に、「命」という、この道のりゴールがあります。


「依存から自立へ」の心の転機と「真の望み」

第1段階「心の開放」立つまでの取り組みは、「成長変化のための心の礎」「基本的な妨げへの取り組み」などので詳しく述べた通りであり、今回のこの『取り組み実践への理解』多くの部分をその説明にあてたものになります。

ポイントは、「目的思考を欠いた善悪と人間評価」の思考の檻の中の心の世界から、抜け出ることです。
その良い悪いどんな人がどう評価されるとは、何の目的のためにはという話なのか。その目的に応じて、必要があればそのための努力をすればいい。そのような着実「目的思考」を、「自分自身に対する論理的思考」によって進めていくことの習得が、「自分の気持ちを自分で受けとめる」という、情緒面における「心の自立」大きな転機支えるものになるでしょう。

一方で、心の動揺があまりにも強いケース、心を病む傾向が強いケースでは、人物印象によって愛され評価されることへの衝動があまりにも強い一方で、ありのままの自分では愛されないという根深い自己否定感情をかき消せるような理想像圧迫ストレスがあまりにも強いのと同時に、偽りの自分を演じることへの嫌悪と罪の感情が、再びそれを霧散させるような絵に描いたような理想像の圧迫に戻るという、がんじがらめの状態が起きているという問題理解が重要になってきます。
そこからの抜け出しは、そうした心理錯綜を自分で解決するような意識的方策があるのではなく、そうした袋小路にある自分の心にありのままに向き合い、むしろ逆に、自分で自分の心を良くしようとする「意識のあがき」を捨て、意識が破綻するような苦しみに身を委ねることが、「心の死と再生」通り道となって、しばらく時間を置く形で、「愛される必要なく人に向かえる」「ありのままの自分でもいい」といった新しい感覚が芽生えてくるという治癒の仕組みがあることを、「心の悪化メカニズムからの抜け出し」「「病んだ心」の膨張と「自己崩壊」の治癒を知っておく」などで説明しました。「人物印象をどう演じる」かではなく、「結果において生み出す」ことや「純粋な楽しみと喜びの共有」に自尊心と愛を目指す視野を持っているほど、その治癒変化大きくなる、と。

このように、「未熟と病みの大海」から抜け出て「成長の大地」に立つという最初の段階は、「愛」と「自尊心」のための行動法への基本的な理解を含めた「人生観の学び」と、「病んだ心の膨張と自己崩壊の治癒」掛け合わせ様相になる、と理解頂くのが良いかと思います。
難解な話かと思いますが、『悲しみの彼方への旅』に描写された、私自身の大学時代から社会人になるまでの心の過程を読んで頂ければ、「依存から自立へ」という命のレベルで定められた変化に向かうその様子が、何となく感じ取って頂けるのではと思います。
年齢が若いほど、そうした「依存から自立へ」心の転機大きな変化として心に準備されている可能性がありますので、自分でそれをブロックしないよう、人生と行動法への視野を広く持つことが大切であることをアドバイスできます。

実はそうした「依存から自立へ」という最初の段階でも、「真の望み」大きな役割を果たすように感じられます。
それは「魂の開放」によって大きく開放される、成熟変化していく「望み」ではなく、心の奥に閉じ込められ、置き去りにされていた「望み」です。それは「出生」に際して「命」において抱かれた、「愛」への望みであり、「愛され、守られる」ことへの願いという、受け身の形ではあるのものの、幼い心に抱いた「真の望み」になるでしょう。恐らくはその後の人生の中で、「目的思考を欠いた善悪と人間評価」の思考の世界によって蓋をされ、封じ込められたものとして・・。
心の視野を広げることと、治癒の仕組みを通る中で、置き去りにされたその「望み」の感情は姿を現します。もしそれが何よりも、自分自身によって受けとめられることを求めている、「魂」の望みの感情であるならば。
それが私の『悲しみの彼方への旅』の、単に「自己分析記録」ではない、文芸書として綴った人生のドラマの側面でもあります。それは心の健康の回復と共に蘇ってくる、初恋の頃の自分であったり、さらにそれを遡り、幼少期においてすでに自分の心は死んでいたという深い悲しみの感情として。「胸から血を吐き出すような涙」の中で・・(P.204)。
「依存から自立へ」という心の転換の中で訪れる、そうした「置き去りにされた魂の愛への望みの感情」の印象的なもう一つの例を、『理論編下巻』最後の章終わりの方の節で、「Y子さん」として取り上げたメール相談の女性からの言葉として読んで頂くことができます。その深い悲しみ自分自身が受けとめると同時に、心に統一性と純粋性が生まれてくる変化の様子も含めてです。「全てが繋がってきました」、と。

「未熟と病みの大海」を抜け出し、「成長の大地」に立つ「心の開放」から次の段階になると、「真の望み」というテーマからいったん離れるというのが、ハイブリッド心理学が考える「心と魂と命の開放」道のりフルバージョンとも言えるものです。「魂の開放」を開ける「否定価値の放棄」のために、「社会で生きる自信」の獲得大きな目標とした、結構な取り組み期間想定しているからです。
そうして「否定価値の放棄」によって「魂の開放」成されることによって、置き去りにされていたもの受けとめるというよりも、人生を大きく前へと前進させるものとして、「望み」の感情が開放される、という流れです。

それでも、「魂の望みの感情」最後まで、「置き去りにされていたもの」として心に現れるようにも、私自身の体験からは感じます。「命」というゴールに至る時まで。いや、「置き去りにされていたもの」としてこそ、「命」へと私たちがつながっていくものとして、ということになるのでしょう。
その点で、「魂の感情」というのは、一貫として同じものが、心の中に生きている。そうも感じます。
変わるのは私たちです。「依存」から「自立」へ。そして依存と自立の区別を超えた「成熟」へ。そうした変化を経ながら、生涯をかけて、「魂」を受けとめ尽くすのです。それが果たされた時、私たち「命」そのものになるのです。
そのために、「依存から自立へ」という最初の節目に、「心の業」捨て去り完全に成す、「否定価値の放棄」節目があるということになります。


「学び」の人生の期間

「心の開放」から「魂の開放」へと至る第2段階は、「心の自立」によって機能し始める「本心」によって、「学び」へと向かい始め、「否定価値の放棄」というハイブリッド心理学の「取り組み実践のひとまずの習得目標」達成するまでの段階です。

この第2段階が、「学び」に取り組む主局面です。
「学びの一覧表」に示したような「学び」全てについてです。心の健康と成長のための基本姿勢思考法と行動法の基本、日常生活と社会生活の向上、悪感情の克服、心の成長のメインテーマ、総合的理解、そしてこれらの「習得達成」仕上げの節目となる、心の深層の決定的歯車についての理解、そしてそのとなる、「否定価値の放棄」を成すまでの段階です。
一言
でいえば、この第2段階「学びの期間」であり、第3段階「変化の期間」です。そして第4段階「円熟の期間」だと言えます。
第1段階は、「学び」への妨げがある段階です。そのために、その状況に応じて「基本的な妨げへの取り組み」焦点を当てます。

この第2段階では、成長変化まだあまり起きません。心の成長変化は、「否定価値の放棄」によって「魂の開放」が成された後に、それによって大きく開放される「望み」に向かって生き始めることで、目に見えて、飛躍的に、訪れるようになります。
「学びの段階」であるこの第2段階ではまだ心の成長変化はあまり起きないとは、いわば自動車の運転であれば教習所の段階だということです。そこではとにかく運転技術を学ぶのです。まだ、思い描いたさまざまな場所旅するのではなく。

こうした流れを理解しておかないと、人生の大きな可能性を見過ごしてしまうかも知れません。つまり教習所の中そこそこ運転ができるようになった段階で、人生とはこんなものかと考えてしまうのです。生き方姿勢行動法をそれ以上極めることへと向かわず人生とはこんなものだと、教習所の中を日々回るだけ人生が終わってしまいます。
それに満足せず、教習所の外の世界に対しても広い視野を持ち、その全ての可能性に対しても対処し得る心の強さと技術を得たいと望む者だけが、さらなる思考法行動法の極意を学び、その習得の先に、「否定価値の放棄」自らに問うという、人生の運転免許試験に臨むことになるのです。
「否定価値の放棄」とは、人生の免許だと言えます。思う存分に、自らの人生を生きるための免許だと。

「「人生観」の学び」で取り上げた「道徳の授業」型人生観、そしてこの学びの段階「教習所」だという表現は、私自身の人生経緯を振り返っても、「比喩」以上の、人生の感覚そのもののように感じます。
「心の自立」「心の開放」以前の段階においては、生きるために人それぞれ人それぞれの行き先へと向かっているという、人による生き方の違いなど目に入らず、「心の惑いと病み、その治癒克服と心の成長」で述べたように、「現実世界」をうまく生きるための知恵とノウハウを学ばないまま、「こんな気持ち」で人や社会に接することができれば、と、今の未熟な心で想像できる範囲の感情と、それが人にどう見えるかの外面印象の空想ばかりで考えるという心の世界の中に。まさに道徳の授業の中のように、自分がイメージする「理想の人物印象」が、誰の目にも賞賛と愛情の目で見られるだろうとだけ感じ、そうした理想像自体が実はかなりの人から見れば勘違いである可能性など思いもつかない、一枚岩の空想の世界の中にいたのです。
それが『悲しみの彼方への旅』に描写したような「心の死と再生」の歩みを経て、なんとか目が覚めたような形で、社会人へ。そこは人それぞれが人それぞれの人生に向かっている世界です。しばしば、それぞれの内面の「気持ち」など見ている余裕もなく。それを冷淡非情な世界と考えるか、それとも健康であるがゆえの薄情とでもいうものに見るかを問うまでもなく、かつて未熟で病んでいた自分が、辛さ苦しみに顕微鏡で見入るような「思いやり」を「愛」と感じ求めていたこと、そして今の自分がもうその甘美な苦しみの泥沼の中にはいないこと、そして自分がこれから向かうのはもうそこに背を向け、目の前に広大に広がる大地を歩むことなのだと感じていた。そう思い出します。
それでもそうして社会人になって行き始めた「会社」というものは、どこか学校の延長のような面もかなりあります。上司や上長先生社長校長先生同僚クラスメート。これも比喩というよりそのものの感覚です。
そんな中で、私も結構仕事ができるようになった頃、これが自分の人生なのだ・・と思い始めていたわけです。かつて心理学を勉強した自分も、もはや遠い昔の他人のように・・(P.328)。

それでもやがて私の中で「否定価値の放棄」大きな扉が開かれ、自分の中に起き始めたあまりの変化に刺激され、再び自らの新しい心理学執筆を開始したのは、自らの心の闇解決を求めて大学院まで心理学を学び、自らの内面に深く向き合う心の土壌を得ながらも、そこに完全な答え見出せないまま、もうそれ以上研究室の中にとどまることに前進はないと判断し、一度は完全に心理学とは別れたと感じるほどに社会人としての能力向上注力する時期を持ち、そこから再び自らの心に向き合うことになったという経緯が生み出した宿命のようなものであったと同時に、そこに答えが示唆されているようにも感じています。
つまり、その両面が必要だということです。心と人生の答え知るためには。内面への深い向き合いと、社会を生きる能力の習得と。そのどちら片方だけを、いかに完璧に習得しようと努力を重ねたところで、心と人生の答え開かれないものとして。
またその答えとは、単に頭で「知って分かる」ようなものでは根本的にない、ということです。
それ自体が心の成長の一部なのだと言えます。心の成長長い歩みの、最初のものとしてということになるでしょう。まず何らかの成長を、自らの身をもって知り、それを足場に、本当の成長に向かうための源泉大きく開放するためのを、開くのです。
それは「望み」です。「否定価値の放棄」を成すことによって、それを開くのです。


「否定価値の放棄」までの「学び」の主な流れ

第2段階における「否定価値の放棄」までの「学び」は、大きく3つ「深さのレベル」のものになる、と理解して頂くと良いかと思います。
「深さのレベル」とは、それがいかに心の深い内面における姿勢の違い、姿勢の選択にかかわっているかの、深さ違いです。
それに応じて、学ぶ姿勢選択を問う姿勢における重要なポイントが違ってきます。

「学びの一覧表」に示したものをより深いものへと並べると、「日常生活と社会生活の向上」「心の成長のメインテーマ」における「愛」「自尊心」、そして「心の深層の決定的歯車」つまり「否定価値の放棄」へと深くなる、というになります。
これらは、当然ながら、つながりがあるものです。基本的には、「前のものの視野を持ち始めることが、より深い後のものを問うための足場となり、後の深いものの選択を成すことが、前のものをより大きく開花させる」表現できるものとして。このつながりについて、ざっと説明していきたいと思います。

「目的思考」「現実を見る目」などの「心の健康と成長のための基本姿勢と基本実践」は、それら全ての基礎土台の位置づけとなり、学びが全般的になかなか前に進まない場合に、心の成長に向かうための「思考の素地」「意識の素地」、そして心の成長に向かう姿勢として、確認理解をしておきたいものになります。そこから、上に述べた深まりの順序で、向き合い直してみるといいでしょう。

「破壊から自衛と建設へ」という「思考法と行動法の基本」は、3つの深さのレベルを通して共通する、マイナス形からプラス形へと思考と行動を変えていくという心の転換を指したものです。
「否定形の文法」での思考を、「肯定形」「望み形」の思考変えてみる、といった思考法テクニック補助輪にして、「日常生活の向上」という比較的シンプルな課題から、「社会生活の向上」さらには「愛と自尊心」という心の成長のメインテーマに至るまで、「破壊から自衛と建設へ」という転換とは具体的にどのようなものであるのかの学びを、深めていくのです。そして上述の通り、その転換広がりと深まり足場に、「否定価値の放棄」大きな選択を、自らに問うのです。
「破壊から自衛と建設へ」という大きな基本的転換が、私たちのにおいて本当に心底から成されるのも、「否定価値の放棄」によってだと言えます。「否定できる価値」心の中に抱かれ続けている限り、思考法テクニックだけでは、具体的な思考法行動法プラス形にすることはなかなかできず、マイナス方向に向いた思考と行動によって心が妨害されてしまうのです。「否定価値の放棄」の転換を成すことで、「破壊から自衛と建設へ」の心の転換が、本当に、心底から成されるとともに、日常生活から社会生活、そして「愛」と「自尊心」というメインテーマに向かうための思考法と行動法も、具体的で豊富な発想として開花するという流れになります。

「悪感情の克服」目に見えて、右肩上がりに前進するようになるのも、そこから、つまり「否定価値の放棄」によって具体的な思考法行動法「自衛と建設」のモードのものとして豊富な発想によって開花するようになってからだという流れを、しっかりと心に入れて頂かなくてはなりません。
ここがまさに、「自分自身に対する論理的思考」で述べた、もしそれが自分の感情を良くしてくれるのであれば信じることにする、という姿勢ではなく、自分自身にとって本当に確かな思考の積み上げによって、この心理学が示す「学び」自分のものにするかどうか問う姿勢重要になるゆえんです。
そうして建設的な思考法行動法より具体的で発想豊かなものになることで、感情プラスのものへと大きく変化していく・・というのも少し違います。建設的な思考法行動法が感情をプラスに変えるのではありません。これを期待するのは、上に述べた誤った姿勢です。そうではなく、、開放された「望み」に向かって、建設的な思考法行動法によって生きる「時間」が、そして「体験」が、思考法行動法の進歩をはるかに超えて、私たちの感情をより豊かで力強いものへと変化させていくのです。「命」作用による、「望みの成熟変化」としてです。
そこでもし自分「望み」通り行動できるのであれば、そして「現実」「望み」通りなるのであれば、それによって無論私たちは「幸福」に近づけるという結果として。あるいは、自分「望み」通りには行動できない「現実」「望み」通りにはならないのであれば、むしろそこにこそ、この心理学が見出した「魂の感情」が現れ、それが私たちの心を浄化し、しばしば「望み」通りになった場合を凌駕する形で心が豊かになっていくという変化さえも起き得るものとしてです。

これは何を言っているのかと言うと、「学び」の主局面第2段階だとして、発想豊かな建設的思考法行動法花開くようになるのは「否定価値の放棄」第3段階であり、さらに感情が幅広くプラス転じるようになるのは、そうした発想豊かな建設的思考法行動法をたずさえて、現実行動場面における悪感情にも向き合っていく過程さらに経た後の、第4段階になってからだということです。
「否定価値の放棄」として山の麓ににたどり着くまでが第2段階、そこから山の中腹を登っていくのが第3段階であり、同じように山を登っていく中で心の風景大分変わり始める第4段階という流れを、そのように理解して頂ければと思います。そこまで経た時、「命」という山の頂きゴールが近づいています。

それが「現実行動場面」における悪感情全体克服です。一方で、「生きること」「生きていること」そのものへの感情は、「否定価値の放棄」を節目に、劇的に良いものへと変化します。「心の癌細胞「望む資格思考」と「生きづらさ」の心理」で述べた、心の機能全体「自分から不幸に向かう」というマイナス方向へと傾く「否定できる価値」の感覚という病根消え去るとともに、「望む資格思考」という心の癌細胞消えるからです。は明瞭に開放感に満たされ、「望み」の感情が心に解き放たれ、日々の生活充実してきます。
「生きること」「生きていること」そのものへのこのプラス感情は、ほどなくして、揺らぎない「生きる喜び」の感情へと前進するでしょう。
「現実行動場面」における動揺や悪感情が、まだかなりある段階でです。それが「否定価値の放棄」から続く第3段階です。
そのようなものです。つまり、「現実行動場面」における動揺や悪感情が消えることで、「生きること」「生きていること」にプラスの感情が感じられるようになる、のではないのです。そのようなものを考えるのは、全くの誤りです。
「否定価値の放棄」過ぎることで、「生きること」「生きていること」は、もう全く何の「こうであれば」という条件を問うことなく、肯定されること、いや肯定するなどとわざわざ意識する必要もなく、自然な、ありのままの姿になるのです。そこからさらに、「現実行動場面」における動揺や悪感情に際して、豊富な発想として花開いてくる建設的な思考法行動法とともに向き合うことで、「現実行動場面」における動揺や悪感情具体的で着実な根本克服へ動き始めます。そしてそれがかなりの範囲に至った時、生きることへのプラスの感情に加え、さまざまな現実行動場面でも自信と安心に満ちた心日々の生活を送れるようになるのです。「否定価値の放棄」至るまでの「習得達成」が成されたのならば、そこから恐らくは数年間程度期間で、そうした段階に至るでしょう。これが第4段階への移行であり、「命」という心の成長ゴール視界に捉えられ始める段階です。


「否定価値の放棄」を自らに問うためのポイント

第2段階「否定価値の放棄」自らに問えるようになるまでのポイントを、ざっと書いてみましょう。
ここで「問えるようになる」までという表現を使ったのは、結構な条件が揃わないと、「問うても意味がない」表現さえできる面も多々ある形で、いくら問いてもその大きな扉は開かない、ということです。かなり真剣に自分に問いてもです。

「問うても意味がない」状況としてまず最初に言えるのは、「否定価値の放棄」というテーマを、「心の枠はめ」「気持ちの枠はめ」で捉えてしまうものです。「それが心の健康と成長にとって正しく良いことなのだから、そう感じるようにしなければならない」という風に捉えるもの。
まずそれを脱することが必須です。つまり第1段階にいるということであり、「心の枠はめ」「気持ちの枠はめ」そのものを脱することとイコールです。
これについては、「「善悪」「評価」「気持ちの枠はめ法」の思考への終始」で、心の健康と成長への基本的な妨げ2つ目のタイプとして説明しました。それがどのような心理メカニズムによって生まれる妨げなのか、そしてそれを脱するための、「「人生観」の学び」などに始まる道のりをです。

そこから「否定価値の放棄」へと向かう道歩むとは、「「学び」とのギャップを生きる」歩みとして向かうということです。
精神論ではなしに、具体的な行動場面において、心の健康と成長に向かい得る行動法の選択肢を学び、そこに盛り込まれている、基本的な思考と行動の姿勢と、「愛」「自尊心」という心の成長のテーマのための、この心理学からの考え方を知るのです。そしてそれを自分がいかに「分かって」「わきまえて」いるかというよりも、実際において自分の心が、さらには体が、どう動いているかという問いとして、向き合うのです。
恐らくはそこで、自分が実は「学び」が示す方向とは別のものを選んでいることを、さらには「分かっているつもり」と感じたことの自分自身に対する嘘を、自分自身に対して暴いた時にこそ、心の根底は逆に「学び」が示す方向へと向かい始める、という逆説的な変化が起きるようなものとしてです。

その点、「否定価値の放棄」というテーマについて、「そんなことは十分分かっている、だが心はなかなかそうは動かないものだ」という程度の認識でいるのは、まさに何も分かっていないことを示すものです。
ハイブリッド心理学の「取り組み実践」が、「分かっている」かどうかを問うようなものとは根本的に異なる心が、そして体がどのように自動的に動くかというレベルを問い、その原因となる心の根底の姿勢を突き詰め、その転換の選択を問う心理学であるということを。また、自分心の底で本当には何を感じているのかを。それがまるで分かっていないのです。
選択をする必要があります。「分かっている」という「意識の高さ」をもって自分の心の品格と感じられるものを目指すのか。それとも実際において心がどのように動くかと、その根底にある自分の本心取り組むのかを。
前者のような取り組みも世に沢山あるでしょう。むしろそれがメインかも知れません。心のあるべき姿とはこんなものですよ、それを体現できた私高貴な存在です。ぜひあなたもそうなりませんか、と。そのようなものとしての心の取り組みをしたいのであれば、それはご自由です。そうしてその人たちの実際の生活を見ると、日々の生活の中でのイライラ憂うつはやはりこの生きづらい世の中、つきものです、なかなかなくせるものではありません、それにどうつき合っていくかが大切です、なんて話を始めるのです。
根本的に違います。そのイライラ憂うつが、根本的に消え去る心の成長と豊かさへの歩みに、ハイブリッド心理学は取り組みます。

「心の枠はめ」「気持ちの枠はめ」にせよ、「心の品格思考」にせよ、要はこれらは、ハイブリッド心理学からは基本的な妨げの2つ目のタイプ「「善悪」「評価」「気持ちの枠はめ法」の思考への終始」該当するものだということです。つまりどちらもが、「目的思考を欠いた善悪と人間評価」の思考として動くものです。
そこで「分かってわきまえる」ことを心の取り組みとして目指すというのは、「「心を病む傾向」からの抜け出しの第一歩」で述べた、「心を病む傾向の思考面への表れ」とはあくまでのものではありますが、表裏一体のものとして極めて結びつきやく、結果として同じ妨げを生み出します。
それは、真の心の成長への視野に完全に蓋をしたまま、心の成長をああでもないこうでもないと思案し続けるという妨げであり、それが生み出すのは、結局のところ、心へのストレスと、自分自身への嘘という、病みの根源なのです。その「目的思考を欠いた善悪と人間評価」の思考、そして「心の品格」の思考の先に、自分が本当には何を望んでいるのかという、「真の望み」に対しての、をです。
それに向き合うことができるようになった時、その「目的思考を欠いた善悪と人間評価」秘められていた「望み」とは、「愛」「自尊心」になるであろうことを、「心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう」で述べました。この視野回復することが、第2段階大きな柱であることは、言うまでもありません。

第2段階における「学び」と、第1段階における基本的な妨げへの取り組み「心の開放」への基本的な思考素地や意識素地への取り組みは、基本的に同時並行的に進めます。
つまり、あくまで「具体的な行動場面における、心の健康と成長に向かい得る行動法の学び」を得て、「感情と行動の分離」の姿勢によって「「学び」とのギャップを生きる」ことができるかどうかに、取り組んでいくのです。それができないようであれば、基本的な妨げに取り組む、第1段階が展開されます。そこから再び、「学び」向き合い直すのです。
これを適宜繰り返します。これが「「学び」の流れチャート図」前半流れです。
一方「ギャップを生きる」ことができるようであれば、学びとのギャップを生きる心の成長の歩みは、3つの「深さのレベル」において、「前のものの視野を持ち始めることが次のものの選択を問う足場になり、後のものの選択を成すことが前のものを大きく開花させる」という流れ進むものになります。



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2013.3.31

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