1.ハイブリッド人生心理学とは 2.「取り組み実践」への理解 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) 3.学びの体系 4.メール相談事例集 |
2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』 として無料電子書籍化しました。今後の更新は電子書籍側のみになります^^。 |
2.「取り組み実践」への理解 - 続き (8)「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う
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「日常生活の向上」にある根底の足場 では引き続き、「「学び」の流れチャート図」の後半となる、「否定価値の放棄」へと進む流れのポイントを書いていきましょう。 「学び」の主局面となる第2段階において、「学び」の「深さのレベル」を深めていく流れになります。 「深さのレベル」が最初のもの、つまり問うのが深い内面での選択ではあまりないのが、「日常生活と社会生活の向上」です。 これは自分の内面にどう向き合えるかというよりも、逆に、いかにしっかりと「外界現実」に目を向け、自らの内面感情に巻き込まれることなく見ることができるかに、ポイントがあります。それが全ての心の成長変化のための、最も基礎の足場になるものとしてです。 「日常生活の向上」において重要なのは、まず何よりも、日常生活の中に、非論理的思考や不確かな情報に頼ることがない、ということです。これがあると、トンネルの中にできた横穴のように、心がいくらでも未熟と病みの世界にそれてしまう可能性があるからです。 たとえば最近の話題では、「マヤ文明が予言した2012年12月人類滅亡」説なんて話が巷をにぎわしていました。これを真に受けて・・というか自らその話を煽るような行動をした人が沢山いたようです。しかし最も確かな、つまり「解釈」を加える前の客観的事実とは、「マヤ暦」の一つに5000年くらいの長い周期のものがあり、その節目がどうやら2012年12月に該当するらしいということです。つまり365日で新しい年になるという話と、あまり違いはないわけです。それが「“マヤ暦が予言する人類滅亡”は本当か」、という喧(かまびす)しい(あれこれ騒がしいこと)議論になる。そもそもマヤ暦自体の中には、「人類の滅亡」どころか「滅亡」という文字すらあったわけでもないであろうに。 これはもちろん心を病んでいる姿というわけではありませんが、「現実を生きる」ことができていない、「空想を生きる」という心の病みの姿と相似形です。 この他よくあるものとしては、「占い」「おまじない」「縁起かつぎ」「運かつぎ」の類からは卒業するのがお勧めです。「心霊現象」や「超常現象」を信じるというのも、かなり似た面がありますので要注意です。 もしこうした話に興味を感じるものがあるならば、頭ごなしに「そんなの駄目だから」という姿勢ではなく、そこにどのように確かな情報があるのか、それともないのかを、一つ一つの情報についてしっかり見ていく姿勢がいいでしょう。あるいは何かの由来があって出てきた話もあるかも知れません。 そこから次に、「自分にとって本当に確かな知識の積み上げ」によって、自分の日常生活の、そして人生の生き方を変えていく、という姿勢を築くのです。その「知識」における、「原因」と「結果」のつながりについては、小学校で習った科学のような、素朴で疑いのない知識からもつながる、「特別な考え方」など求めない、「現実」の地にしっかりと足をつけた、一番素朴で着実な思考の姿勢をです。 そこから、「目的思考」という、心の成長のみならず私たちのあらゆる向上と成長のための、推進力のある思考を始めることです。 これが、まずは「心の成長」以前の、ごく日常生活における向上への基礎であると同時に、「心の成長変化」のための、より「深いレベル」での姿勢の選択に向けて、つながっていく側面が、主に3つあります。 1つ目に、それが「自分で考えることができる」「自分の考えを持つ」「自ら向上に向かう」という「心の自立」の、最も基本的な、思考面における足場になることです。それがやがて「自分の気持ちを自分で受けとめることができる」「本心に帰ることができる」という、「心の自立」の中核面にもつながっていくでしょう。 それがさらに、次の「社会生活の向上」における重要ポイント、さらに「愛」と「自尊心」への姿勢という次の「深さのレベル」における重要ポイントに、つながっていくものになります。 2つ目に、これは特に「病んだ心」の傾向がある場合に、その病根となる心の深層の悪感情の克服のために、極めて重要になります。 これは「心を病ませる4つの心理メカニズムからの抜け出し」で述べたことです。「心の病」「心の障害」また広く深刻な「心の悩み」というのは、表面化すると精神が破綻してしまうかのような深層の悪感情があるために、それに一生懸命蓋をして、その代わりに心の表面で「こんな気持ちで」とストレスをかけることの無理がたたって、心がコントロールできないおかしな動きをするようになってしまったものだ、と。 その根本的な克服のためには、「こんな気持ちでいれば」と自分につくようになった嘘を捨て、ありのままの感情を開放していく内面への向き合いと、そこにあらわになってくる深層の悪感情が、実は対処ができず精神が破綻してしまうようなものではないものとして見ることのできる目と、そして実際にそれに対処する力を持つことが必要である、と。 そしてその目と対処の力を与えるのが、「現実世界」を生きるための建設的な思考法行動法であり、そのための最大の基盤が、上述のような、まずは日常生活のレベルにおいて、確かな情報の積み上げによって「現実世界」の生き方を学んでいく姿勢なのです。 そうして「現実世界」を生きるための建設的な思考法行動法が十分に習得されれば、それが悪感情を霧散させる・・のではないことは、「「否定価値の放棄」までの「学び」の主な流れ」で述べた通りです。 心の外界の、「現実世界」を生きるための建設的な思考法行動法と、心の深い内界の、もはや「現実世界」から離れたものとして心に流れる悪感情という、ギャップを生きる「時間」そして「体験」を通して、心は根底から治癒され、健康ですがすがしい心へと、変化していくのです。 「病んだ心」が根本的に克服されて消滅するのは、実際においては、「「病んだ心」の膨張と「自己崩壊」」というかなり難解な仕組みを経るものであることを説明しました。そこで「憎悪」もしくは「怖れ」のただ餌食になるか、それともそこから未知の健康な心の歩みに向かい始めるかに、意識の表面にあまり違いはないのだと。その大きな違いを分かつのは、「向き合えるか向き合えないか」の、ほんの僅かな違いなのだと。 こうした治癒の仕組みは、「思考法」によって病んだ心が治癒するといった考えがイメージさせるものとは、対極のものです。しかし「病んだ心の膨張と自己崩壊」に際して「向き合えるか向き合えないか」の決定的な、小さな差を生み出すのが、ここで説明したような、一見して心の問題とは無関係な日常生活における、本当に確かな知識の積み上げによって「現実世界」の生き方を学んでいく「思考法」で生きる姿勢なのです。 3つ目に、それは結局のところ、病んだ心の根本克服のみならず、未知の心の世界への成長変化についても、同じことなのです。 「2つの心の世界を持つ」ことがです。未知の心の世界への成長変化は、決して、「このように考えて、このように感じるようにすればいい」という、一枚岩の姿勢の先に生まれるものではありません。もちろんごく細部においてそれが役立つこともあるでしょうが、それは結局「自意識」によって心に枠をはめることであり、良くも悪くも心を固定化させる姿勢なのです。 本当に確かなことの積み上げによって思考する姿勢の先に、私たちは2つの心の世界を持つのです。なぜなら、感情で「現実」を決めつけることなく見ることで、私たちは感情によって歪むことのないことのない外面向けの視野と、それを生きるための知恵を持つ一方で、それだけでは片付けることのできない内面感情を持つことも、明らかに「本当に確かなこと」であるからです。これを無視し、「感情を無視して理屈で行動すればいいのか」といった発想も持つのも、感情に流されて「現実」を曲解するのと同じ、「自分にとって本当に確かなこと」から目をそらす姿勢であり、未知の心へと成長変化するための鍵となる、「真摯さ」を欠いた姿勢でしかありません。 その「真摯さ」の先に、「真の望み」を見出した時、「2つの心の世界」のはざまから、私たちの「意識」を超えた、「命」の力が開放されます。それによって「2つの心の世界」が織り成す、未知の心への成長変化が始まるのです。 「学び」の全ては一貫した指針の下に 最初の「深さのレベル」の前半とも言える「日常生活の向上」における学びは、まずその内容は心の成長には直接は関係しない、ごく日常生活のものごとである一方で、そこで自分にとって本当に確かなことの積み上げによって思考する姿勢が、きたるべき全ての心の成長の歩みのための、最も根底となる心の足場を築くものになる、という重要な位置づけのものだと言えます。 「2つの心の世界を持つ」というものとしてです。感情によってものごとを決めつけて考えることも、逆に感情を無視して理屈だけで行動するなどという観念を持つこともせず。その両面における「真摯さ」が、全ての心の成長への根底の足場です。心の成長を生み出す根源である、「命」につながる足場と言えるでしょう。 対するに、最初の「深さのレベル」の後半となる「社会生活の向上」から、次の「深さのレベル」である「愛」と「自尊心」という心の成長テーマ、そして最後の「深さのレベル」である「否定価値の放棄」まで、「学び」によって内面の選択肢が示される一方、その選択を成させるのは、その「学び」そのものへの姿勢というよりも、上述の「日常生活の向上」の領域で築かれる心の足場なのだ、という関係の理解が重要になります。 つまり、ややこしい話かと思いますが、「学び」で示される「内面の選択」を、とにかく選択できればいい、とにかく選択しなければならない、のではない、ということです。 3つの深さのレベルをまたがるつながりを、もう一度繰り返しましょう。「前のものの視野を持ち始めることが次のものの選択を問う足場になり、後のものの選択を成すことが前のものを大きく開花させる」。 つまり、「前のものの選択を完璧に成すことで次のものの選択が成せる」というようなものでは、ないということです。 3つの深さのレベルの学びは全て、一貫として同じ指針の下にあります。「現実において生み出す」ことです。「空想の中で掲げた理想に満たない現実を否定することに価値を置く」のではなく。 このあと重要なポイントをそれぞれ説明していきますが、「社会生活の向上」は、「気持ち」ではなく「価値」を生み出すことへ。「愛」と「自尊心」は、「喜びと楽しみの共有」と「現実において生み出す」ことへ。そして「否定価値の放棄」として、「空想を基準にして現実を否定することに価値を置く」という心の心底の感覚と姿勢を、根本的に放棄することへ。 そこで「否定価値の放棄」への途上となる「社会生活の向上」や「愛」と「自尊心」における選択を、まずしっかりとできるようになって・・といった発想そのものが、まさに「空想の中で掲げた理想」を基準にものごとを思考するという、「否定できる価値」の感覚の母体から生まれるものなのです。 私たちはまず、絵に描いたように「学び」の選択をできない自分を認めることから、始めなければならないのです。なぜなら実際私たち人間というのは、そんな完璧な存在ではないからです。実際のところ、頭で分かったところで、そうはできていないのです。私たちは。 そのありのままの自分を認めることができず、「学ぶ」となると、「それが正しいのだから、そうしなければならないのか」という受けとめ方をするのが、「目的思考を欠いた善悪と人間評価」の思考に終始するという、基本的な妨げが起きている状態であり、まずその妨げ自体に取り組む必要があります。「学び」の主局面以前の第1段階だということです。そしてそれを何とか越えたならば、「日常生活の向上」の領域から始めるのです。 こうした道のりを経て、見えてくるのです。「分かったつもり」のことを自分にストレスをかけて押しつけるのではなく、ありのままの自分で成長変化していくとは、どういうことなのかが。 おぼろげにです。まだ形はとらないような、漠然とした感覚として。とにかくそれは、今まで「こんな自分であれば」というものを、しっかりと心に抱くことが心の成長につながるのだと考えていたのとは、全く違う。まさにそれが心の成長をふさいでいたのだ、と。 そして今までとは違う行動法への視野が、持てるようになり始めるのです。しかし感情を好転させるまでには行きません。その前に、心の視野を次の深さのレベルへと深めることが、求められるのです。そして感情はまだあまり好転していないまま、最後の「否定価値の放棄」を問う時が訪れるのです。 そして「否定価値の放棄」の扉を開けた時、全てが激変します。生きることそのものへのプラス感情が湧き出し、「学び」に基づく思考法行動法が豊富に開花し、現実行動場面での悪感情も着実に克服できるようになり、行動力もつき始め、「愛」と「自尊心」の感情が右肩上がりに増大し始めます。 ただしそれは「学び」に基づく思考法行動法が完璧なものになってくることによるものでは、ありません。その点では、私たちは結局、最後まで不完全な存在です。「否定価値の放棄」は、実はそれを受け入れる転換でもあるのです。 その代わりに、心の成長の真の源泉が何なのかが、やがて私たちに見えてきます。 それは「真の望み」に向かうことです。それに向かって、不完全な思考法行動法の中でも、全てを尽くして歩んだ時、もはや私たち自身の全ての「意識」を超えて、「命」が私たちを変え始めるのです。このことが見えてきた時、私たちはこの歩みのゴールに近づいています。 そうした流れは、こんな情景にたとえると分かりやすいかと思います。 「学び」とは、つるはしとスコップです。それを使って、生きるエネルギーが開放される、心の泉を掘り進めるのです。つるはしとスコップが何とか使えるようになり始めることで、心の泉の源がどこにありそうかの視野が効くようになってきます。深さのレベルを前進させ、いよいよ心の泉に突き当たるところに来て、最後にそこに大きな石が泉の源をふさいでいます。それはつるはしとスコップではなく、自分の手で持ち上げ、取り除かなければなりません。この最後の「選択」は、もはや「学び」として「分かった」ところでどうすることもできません。生身の自分で、開けられるかどうかを問うのです。まだ十分に石が露出されておらず、問うのが尚早であった場合は、再びつるはしとスコップを手に取って、しばらくは単調に「学び」を続け、掘り進める必要があるでしょう。そして時期を見て、また問うのです。するとその大きな石が、動き、取り除かれるのです。心の泉が大きく開放され、豊かで純粋な水が心から湧き出し始めます。 つるはしとスコップが真価を発揮するのは、実はこれからです。心から湧き出し始めた豊かな水を、自分の人生の土地にうまく流すために使うのです。その土地とは、今まで「家」や「学校」によってローラーで良くも悪くもならされ、芽を摘まれ、何とも味気ないレールが敷かれただけの、殺伐とした土地であったかも知れません。つるはしとスコップで、そんなレールも取り払ってしまうのもいいでしょうが、多少は人生の前進手段として役に立ててからの方がいいでしょう。そうして心から湧き出し始めた豊かな水を、人生の土地の広くにいきわたるよう、つるはしとスコップで水を通してあげるのです。場合によって、「家」や「学校」との関係で生まれた「毒」を消し去るために、一度それを掘り起こしてから、豊かな水を流して浄化することも必要になるかも知れません。これは少し辛い体験になることもあるでしょうが、その後に得られる、すがすがしい心は、人生で何にも増して得がたいものになるでしょう。 心をより豊かで澄み切ったものへと変化させるのが何かは、このたとえでお分かりかと思います。それは開放された心の泉から湧き出る、豊かな水なのですよ。つるはしとスコップではなく。 「学び」を始めようとされる多くの方が、勘違いをします。つるはしとスコップが、人生の土地を豊かにしてくれると思ってしまうのです。その完璧なものが手に入れば、と。金でできたつるはしとスコップが手に入れば、そしてそれを駆使する最高の使い手になれば、自分の心も完璧なものになると、勘違いしてしまうのです。 なぜそんな勘違いをするのかというと、最初の足場がしっかりしていないからです。足場がしっかりしていないまま、つるはしとスコップを闇雲に振っているため、心の泉の場所への視界も利きません。それで、金でできた完璧なつるはしとスコップがあれば・・と考えてしまうのです。 つるはしとスコップに、そんなたいそうな高級品があるわけではありません。飾るためのものではなく、実際に使うためのものである限り。ただししっかりとした、丈夫なものであることが重要です。あとはそれを、しっかりした足場で、振ってみることです。足場がしっかりしていないのであれば、まず足場そのものに取り組まなければなりません。全てが、そこから始まるのです。 このたとえをさらに続けて、こうも言えます。心の泉が開放され、豊富に湧いてきた水を、人生の土地のおおよそに行き渡らせることができた時、つるはしとスコップの役目は、ほぼ終わることになります。しかし真の変化は、ここから始まるのです。豊かな水が、埋もれていた種を芽生えさせ、摘まれかけていた芽を、生き返らせます。緑が育ち始め、蕾がつき始めます。 花はそう簡単には咲き開きません。決定的に重要なものがあるのです。それは湧き出る水そのものの中にあります。それが私たち自身に、次第に分かってきます。それをしっかりと、見分ける必要があるのです。 それが「真の望み」です。それが湧き出した時に、花がさまざまな色へと咲き開くようになるのです。 「学び」への姿勢という最大のポイント そのような流れになりますので、「日常生活の向上」から先の「深さのレベル」に向かうためのポイントは、まずは何よりも、「学び」のどんな内容のどの部分かといったことよりも、「学び」に向かう姿勢にある、と言うことができます。 「分かったつもり」を自分に押しつけるのでも、「自分は分かっている」という「意識の高さ」を「成長」と勘違いするのでもなく、実際に自分の心と体がどう動いているかの問いとして、向き合う姿勢です。それが、まずしっかりとした足場です。 自ら取り組む姿勢によってです。自分の悩みを人に伝え、どう言われるかを待つ姿勢ではなく。また人に言われた言葉で何となく気持ちが楽になり、前向きになれる言葉を捜し求めて、という受け身の姿勢からは卒業して、「心の成長」の探求に真正面から積極的に向かう姿勢でです。 それが、しっかりとした足場でつるはしとスコップを使う、基本姿勢になるのです。 それは「学びを設定する」という姿勢に他なりません。「どう考えればいいか」「どう感じるようにすればいいか」といった、気持ちにおさまりをつける方法を短絡的に求めるのではなく、心の健康と成長のための「学び」にはおおよそどんなものがあり、その中で今の自分にとって必要な「学び」はどんなテーマか、という把握をまず試みる姿勢です。そしてそこに示される、この心理学なり他のものなりからの考え方をおおよそ把握し、それについて自分ではどう考えるのかという、「自分なりの心の成長への考え方」を問いていく姿勢です。当然、場合により「これはノーだ」と、自分の考えをはっきりさせることを含めてです。 「学び」は基本的に、具体的な行動場面を材料にして進めます。心にじっと見入り、何が悪いのか、どんな心になればいいのかという姿勢ではなく。 また、本を読むだけで心が変われるなどという安易な期待は卒業して。もちろん最初は多少そうした面があったとしても、それは人生ですでに用意されていた成長が引き出される、「最初の一歩」であり、人生で私たちが向かい得る心の成長と豊かさにとっては、微々たるものでしかありません。その全体に向かうためには、「「学び」への入り方」で説明したように、「最初の一歩」から「自らによる成長への模索」、そして「終わりなき成長の歩み」と、「学び」の姿勢を前進させるのです。 「自らによる成長への模索」の段階で、「学びを設定する」でも述べた通り、必要な読書の量などが一気に増えることは仕方ありません。すぐにでも気持ちを楽にさせてくれる言葉を求めて・・という姿勢からはなるべく早く抜け出して、どんな考え方や気づきのポイントがあるのか、そのための条件などの前後関係はどんな心の変化の流れの中にあるのか、といったより本格的な「学び」を、日々の具体的な行動場面への取り組みと平行して、懐の引出しを増やすための定常的な読書習慣にするのがお勧めになります。 一度目を通してどう感じられたかを問うようなものではないのは言うまでもありません。重要そうなポイントは、後から思い出せるよう、場合によっては諳んじることができるくらいに「暗記」できるまで読み込むことにも、大いに意義があります。私がカレン・ホーナイやデビット・バーンズの書物によって人生を根底から変化させるような「気づき」を得たのも、そうしたものによってでした。 私としてもより分かりやすく必要な知識を簡潔に網羅する書物を書きたいとは思っていますが、料理の達人になるための参考書となる、さまざまな食材とその多様な加工法、そして最終的なレシピのバリエーションの全てを一冊の本に書き切るなどということはあり得ないのと同じことです。無駄な話は一行も書いておらず、それでも何冊にでもなることです。これは人生そのものの「学び」なのですから。 それぞれの方にベストな時間配分での、継続的な読書の姿勢などをまずお勧めできます。もちろん心の成長は読書の量に比例する・・というものではありませんが、ポイントを確認しながらの読書によって心の懐を肥やしておくほど、実際の行動場面や悪感情への向き合いの場面においても、重要で決定的な「気づき」が劇的な、あるいは堅実なひらめきとして訪れる可能性も増大します。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力 そうして、「自分にとって本当に確かなことの積み上げ」で思考する姿勢を最も根底の足場とし、自分の心と体が実際にどう動いているかの問題として「学びを設定する」という姿勢を、心の泉に向かうためのつるはしとスコップを使う基本姿勢とした上で、さらにもう一つ、決定的な姿勢が必要になります。 掘り進む力です。それを生み出す姿勢です。 それは何だと思いますか。「思考する姿勢」と「学ぶ姿勢」のさらに次に来るものです。それが心の泉の源へと掘り進む力を生み出す、決定的な姿勢になるものとしてです。これを聞かれて、答えることができた時、あなたはハイブリッド心理学の基本的方向性と歩を共にする、ということになります。 それは、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」です。 これはもちろん、「目的思考」の前進としてあります。その究極形と言えるでしょう。 「何が問題か」「何が課題か」という「目的思考」を、さらに「何が自分の望みか」と、自分の「望み」を問うものへと前進させる。 その重要性を、「「心の成長」とは「望みの成熟」」、「「目的思考」の前進」、そして「人生を生きるための基本的思考法」で説明しました。心の成長に向かうために実際に意識したいこととは、まず第1がそもそも「心の成長」とは何かであり、それは「望みの成熟」である。ならば「取り組み実践」の具体的意識作業として第1に意識したいのは、「目的思考」を「望み」を問うものへと前進させることだ、と。「問題」「課題」は主に心の外部に起き、その答えも心の外部にある一方で、「何が望みか」の答えは心の内部にのみある。それに向き合い、明瞭にした「望み」から「問題」「課題」へと展開していく思考が、人生を生きるための、前進力のある基本的思考法になる、と。 ただしそれだけでは、「確かなことの積み上げ」による「思考」と「学び」の姿勢という話と、あまり違いはありません。「目的思考」として、そのように思考し、学ぶということです。「問題」「課題」の先は「望み」があるものとして、「問題」「課題」に答えがあることを、学ぶのです。 そこにさらに、もう一つ加えるものがあるのです。 それは「意志」です。「望みに向かう意志」です。 これが何を生み出すのかは、インターネット上の心の悩み掲示板のある相談に、私がアドバイス投稿したものが分かりやすいと思います。 それは若い女性からのもので、スーパーの駐車場で誰かにつけられているような気がする体験が何度かあり、以前のつき合いで多少身に覚えがある面もあり、怖くなる。停まっている車や歩いている男性が皆グルではないかと疑ってしまい、苛立ちと共に精神的におかしくなりそうだ、どうすればいいか、というものでした。 それは言外に、「どうしたら気にならなくなるか」の方法を求めている相談のようでもありました。この方自身が、「明らかに被害妄想が広がってしまい」という言葉を使っていることも示唆することとして。それで「心理カウンセリング」のコーナーに投稿されてきたのです。 私はそれに対して、そもそもこれは心理相談ではなく、犯罪防止対策を実際に必要とする相談になる可能性があることを告げ、「気にしないこと」ではなく、「全力で戦うべき場面」として対処することが課題だというアドバイスを入れました。まずは「戦士になったつもりで、その場を切り抜ける」ことからだと。服装は目立たないものに、駐車場所は目立つ所に変える、勇気を出して回りを見回して人物確認をしてみる、といった具体的な知恵を添えてです。明らかに同じ人物を見るようであれば、一段階強力な防犯対策行動に移行する必要がある、と。 恐らくはこのアドバイスで目が覚めたようなところもあったでしょう。ご相談者からは「ありがとうございます!!実践してみます」と短く力強い返礼が返ってきました。 この相談は、心の悩み動揺場面において、人が得てして考えつく、典型的に誤った克服方向性の発想の、まさに一つの例です。 それは、「気にしなければいい」というものです。考えすぎだ、と。そんなこと考えず、気にしなければいい、と。そこから、「気にしないでいる方法」を探し求め始める。 完全に、根本的に、間違っています。全力を尽くして向かう必要があるのです。自分は何が気になり、それは実際において自分にとってどんな危険なのか、自分は何を恐れているのか、そしてそれに対処するための、自分にできる最善のことは何かを、模索することにです。どんな些細なことについてであってもです! もちろんその模索のための思考は、「「日常生活の向上」にある根底の足場」で言った通り、非論理的思考や不確かな情報に頼らないものであることが、決定的に重要になります。 そうして着実な知恵も役立てて「全力で向かう」ことが心にもたらす変化とは、上述の相談の女性が、それによってその動揺場面を切り抜けることができた場合を想定するならば、何となく想像できるのではないかと思います。 それは、自分が心の芯に一つの強さを得たという感覚と、同じような場面ではもう同じ動揺を繰り返さないであろうという、後戻りのない前進です。つまり、この人は成長したのです。 この例にも表れているものとして、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が生み出す効果を、2つ言うことができます。 「選択」の惑いなさと、その「選択」へと実際に向かう体験が生み出す、心の成長変化です。 これがただ「問題」「課題」への合理的な「答え」を知るという「基本的な目的思考」だけにとどまっていると、そうはなりません。たとえば「人生を生きるための基本的思考法」でとりあげた「仕事」の話で言えば、自分の内面には深く向かないまま、与えられた仕事場面における「問題」「課題」への「答え」を要領良くつかむことで、仕事をうまくこなすことができるようになれるかもしれません。しかしそれだけでその仕事が自分の人生で本当に大切な、やりがいのある仕事・・なのかどうかは、まだ何も言えないでしょう。 「望み」に向き合う必要があるのです。それは自分の内面にのみ、自分だけに、その「答え」が見えるものとしてあります。 こうして、「目的思考」を何が「問題」「課題」かから何が「望み」かを問うものへと前進させ、そこにさらに「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を加えることの意味を、こう言うことができます。 基本的な「目的思考」によって、「問題」「課題」に対する合理的な「答え」を知る、心底からの納得理解によって、「心」は本当にそのように動くようになります。 それがさらに「全てを尽くして望みに向かう姿勢」になった時、「命」が動くのです。 「命」が動くとは、その人に「心の成長変化」を起こさせ始める、ということです。「望みの成熟」に向かって。「命の生涯」に沿うものへと。 なおそこで、「望み」を問うまではしても、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」は持たない、という中間形も、話としてはあり得るでしょうが、実際にはあまり意味のない話です。 というのも、実は「全てを尽くして望みに向かう姿勢」があってこそ、自分の「望み」が良く見えてくる、というのがどうやら心の仕組みらしいからです。そもそも、「自分の望みを問う姿勢」というもの自体が、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」があってこそ、それが必要な時に自ずとその姿勢になる、というものであるようにも感じます。 逆に言えば、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を失っていると、本来自分の本当の「望み」であるはずのことさえ、往々にして視界の外に放りやられてしまう。もちろん、「自分の望みを問う姿勢」を取らないまま。これはまさに上述の女性の相談例で、「全てを尽くすことが課題ですよ」とアドバイスされるまで、「自分の身の安全」という「命」にかかわる「望み」さえも意識から放りやられていたらしい様子に、示されるのではないかと思います。 これが、心の未熟と病みからの克服成長、そして心の成長へのメインテーマとなる「愛」と「自尊心」、「心の業」の克服といった複雑難解なテーマをまだ絡ませない、「日常生活の向上」の領域でまず問える、心の成長への基本的な足場の話になります。 そこから、そうした複雑なテーマを絡ませる、「学び」のより深い「深さのレベル」に向かう領域になると、どうなるのか。 そこに、ハイブリッド心理学が歩む道のりに向かうとはどういうことかの、最大の本質が示されるように、私には感じられます。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う 心の成長への全ての根底の足場となる「日常生活の向上」の領域においては、基本的な「目的思考」によって「心」が動き、さらに「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって「命」が動く。 これを踏まえて、「社会生活の向上」「愛と自尊心」そして「否定価値の放棄」へと「学び」の「深さのレベル」が深まっていく前進力は、こうなるのだと言えます。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって「選択」が見えるようになり、「選択」に向き合う「時間」と「体験」が生み出す「望みの成熟」である「心の成長」を通して、さらに次の「選択」が成されていくのだ、と。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって、「選択」が見えるようになる。これはどういうことか。 心の健康と成長に向かうための行動法として、最も根幹になるものとして「ハイブリッド心理学のアプローチ」から繰り返し述べてきた、気持ち感情の良し悪しおよびその行動表現の良し悪しによる「人物印象」によってではなく、「現実において生み出す」という結果の向上において自分の価値を高めるという行動法と、「気持ちを分かり合い認め合う」というものではなく「喜びと楽しみと向上を共有する」ことを人との親愛とする行動法という選択肢が、見えるようになってくる、ということです。 「全てを尽くして望みに向かう」という姿勢を持っていないと、この選択肢が、単純に、見えない。自分の人物印象がどう人に良く見られるかに「愛」と「自尊心」が揺れ惑う意識に、ただ駆られ続けるということです。 これは「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が、「「人生観」の学び」から「心を病ませる4つの心理メカニズムからの抜け出し」にかけて説明した、「道徳の授業型人生観」からの抜け出しに、自然とつながっていると説明すれば、頷けるのではないかと思います。対し、その姿勢がないとなると、何とも他力本願の、善人であれば幸せになれるべきといった道徳的人生観、もしくはいかに美貌や才能や性格などの格別さによって人にちやほやされるかという未熟で受け身の人生観にとどまるであろうことを。 ですから、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を持つことが、実はかなりの全てにおいて始まりだとも言えます。 ただし、これを単独に考えると、どうしても「精神論」「気持ち論」という大きな横道につながる懸念を感じます。 私の印象では、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を持てない人というのは、まず先に「精神論」「気持ち論」に、言葉が悪いですが侵されています。「やれば何だってできるはず」「努力すれば必ず夢がかなう」といった、誰もがまず人生で聞かされる言葉によって。そしてそれが木霊のように響き続ける心の部分ができた頃に、同時に「努力への嫌悪」「努力への軽蔑」が心に生えてくるのです。そして次に、「努力すればなんだって」という盲目的な姿勢でいる他人を見下せることに、プライドを感じ始める・・。私に言わせれば、そうした精神論はちょっと「愚か」ですが、精神論への反発を掲げて強がるのは、「さらに愚か」です。自分から檻の中に入って、その檻を叩くことで自分は強いと思っているのですから。 まあこれはかなり乱暴な表現であることをお許し頂ければと思います。それだけ、「精神論」「気持ち論」はまず心して抜け出す必要があるということです。 「自分自身に対する論理的思考」で指摘したように、精神論を合理的思考に置き換えることに加えて、目標とする領域における、多少とも専門的な向上のための知識、いわゆる「方法論」を取り入れることです。勉学であれ、仕事であれ、家事や趣味の領域における向上であれ。この心理学も、そうした「方法論」の一つであるわけです。たとえば「心を強くする」ための。ただ「心を強く持てばいい」なんていう精神論気持ち論ではない、「目的思考」から「望みに向かう姿勢」までの具体的意識過程といった解説をしているものとして。 そこにさらに、人それぞれの素質やハンディの有無による、「努力がどう報われるのか」の、場合によっては「容赦ない」側面もある「現実」というものへの視野も加えることが、決定的に重要です。「全てを尽くして望みに向かう姿勢」とは、まさにこの「努力がどう報われるのか」の「容赦ない現実」にしっかりと「心を晒し」、そこにおける自分のあらゆる可能性を、「命」をかけて模索する姿勢において、まさにこの心理学がその言葉を使う姿勢になるからです。 ですから、順番としては、やはりまずは「自分自身に対する論理的思考」によって、ごく堅実な論理的思考、合理的思考を持てるようになり、精神論からも、精神論への反発にプライドを感じる愚かさからも、抜け出すのが最初です。そしてまず「基本的な目的思考」によって、「向上のための具体的な方法論を学ぶ姿勢」を培うことです。 次に、そこにどのように「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が添えられるかは、思考面だけの問題ではなく、情緒面、「意志」の面の問題になってきます。 これについて私自身の前半生を振り返るならば、もの心ついた時から、「人生」について父に言われたこととして記憶に残っているのは唯一、「やりたいことをとことんやるのが大切だ」ということであった影響もあって、「人生」という長い旅路を意識した頃には、自然とその姿勢を心の根底に持っていたと感じます。「「現実」は必ずしも「感じる」通りのものではない」で振り返ったように、幼い頃からかなり科学的思考に馴染み、道徳的な思考は、今になって振り返ると呆れるほど持たない子供であったという背景もあります。 道徳的な思考を脱することは、「望み」の感情を開放するというこの心理学の根幹指針にとって、基本とも言えるものです。人生をどう生きるかは、基本的に何が「ただしい」かではなく、何が「たのしい」かで決めることです。これを何が「正しい」かで人生の生き方を決めるとは、どんな料理を食べにいくかについて、お釣りを間違えずにくれるお店にいく、という話です。そうではないでしょう。まず、自分はどんな料理が好きか、どんな料理が食べたいかで、お店を決めます。そこで次に、お釣りを正しく払ってくれない店にいくのはやめようという話は出てくるかも知れませんね。 いずれにせよ私の場合は、そうした経緯の先に、「できることをやり尽くす」ことが、その結果いかんに関わらずに心に満足感や充実感という報酬を与えるという心の摂理への視野を、自然と持っていたと感じます。 「後悔する」ということが、「人生」で最も大きな不幸の一つだということへの視野もです。失敗を恐れ、可能性を捨てる安定よりも、忸怩たる失敗に終わるとしても踏み出すことができた一歩というものが、自分は欲しい。そもそも、微塵たりとも「禍根」(「かこん」。災いや悩みの元)を残すのは、「安定」ではないのです。 実際のところ、「後悔」というのは、「嫉妬」と並んで、人生の中で私が見た最も嫌な感情の双璧とも言えるもののように感じています。実際その甚大なる悪感情とも言えるものが、『悲しみの彼方への旅』の中でも、取り逃した過去を探して苦しみの中で押入れの中を這いつくばる場面として2度描写されています。そこで置き去りにされていた「望み」に向き合うことで、それが和らぐ様子も(P.41、P.123)。そして「嫉妬」もやはり、「心の癌細胞「望む資格思考」と「生きづらさ」の心理」で述べた通り、自分から積極的に「望み」に向かう姿勢が妨げられて起きる感情なのです。 そうした心の視野が自ずと、その後の心の探求の歩みの中で、「全てを尽くして望みに向かい続ける」ことの重要さの確信的な自覚へとつながっていったという経緯です。それがやがて、「「学び」の人生の期間」で触れたような宿命的な経緯もあり、ただ「望みに向かい続ける」ことではなく、「魂の望みに向かい続ける」という「人生の答え」につながっていったということになるのでしょう。もはや「現実においてどう叶うか」を超えた、心の豊かさの真実に向かう歩みへと・・。 「望みに向かう姿勢」を問うまでの実践作業 ですから、そうした「望みに向かう姿勢」を培うための「取り組み実践の作業」としては、まずは「自分自身に対する論理的思考」によって「自分の考えを持つ」ことができるということの確認、および「精神論気持ち論」から「合理的思考」へさらに「具体的な方法論の知識習得」へと置き換えていけるかの確認をまず行い、それができるようであれば、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の重要さについて自分がどう感じ考えているのかの確認などをしてみるといいでしょう。 あくまで、「心得として分かっている」というレベルの話ではなく、日々の生活や人生の具体的場面に際して、自分の心と体がどう動いているかの問題としてです。「本心」でどう感じ考えているかの問題としてです。 つまりこれは、「心の自立」を核とする、「心の開放」の節目の、大きな取り組みテーマだということです。「目的思考を欠いた善悪と人間評価」の檻の中での感情動揺にとどまる、「未熟と病みの大海」から何とか抜け出し、「成長の大地」を自分の足で歩くための、自分の足元の強さを確認することとして。 繰り返しますが、まずは「自分自身に対する論理的思考」に取り組むのが先です。もしそこに課題があるようであれば。それを済ませておかないと、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」といったお題目自体が、どうしても内面的なストレスや、合理的な情報への視野を欠いた猪突盲進姿勢にそれてしまう可能性があるからです。 また、「そうでなければ駄目なのか・・」といった「枠はめ法」の受け取り方になってしまうようであれば、「「学び」の流れチャート図」に示したように、「基本的な妨げへの取り組み」にまず取り組む、という道順になります。 具体的な作業としては、日々の生活や人生の問題に際して、まず自分は何についてどのように動揺や悪感情を感じているかを、まずありのままに、「こういうことなんだ」と自分で理解感を感じられるように文章化するのがお勧めになります。日記などとしてです。ただ本を読んだだけでは心は成長変化しないという時、それを越えるための「取り組み実践」とは、そのように「言葉」をしっかりと道具として使う作業を行うということなのです。「基本的な妨げへの取り組み」で、「言葉を使って考える」ことが大切だと述べた通り。 そうしてまず自分の動揺や悪感情をありのままに、「言葉」を使ってうまく整理把握することで、そこにある問題が、自分の考えを論理的思考によって持つことができていないということであったり、精神論気持ち論に振り回されていることであったり、「望みに向かう」ことについての姿勢であったりすることが、見えてくるでしょう。 そしてそのそれぞれについて、ハイブリッド心理学からの「学び」はどんなものになるのかの把握に、向かい直すのがいいでしょう。ここでまた「本を読み返す」ことが大きく役立ってくることとしてです。 一度に取り組むことができるのは、そうした道順における一つの通過点テーマだけです。全部一度に取り組もうとしても、「分かったつもり」を自分に押しつけるという、何も本当には身につくことなく元に戻ってしまう姿勢です。 重要なのは、そうしてしっかりと「足場固め」からしていくことで、「次の選択への視野」というものが、自ずと心に準備されていくということです。しっかりとした論理的思考ができるようになることで、自ずと精神論を脱した心の世界への視野が準備され、知恵のある向上法を知り実践する中で、「全てを尽くして望みに向かう」ことの意味が、自ずと見えてくる、というように。 これはつまり、先の「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う」で述べた、「成長を通して次の選択が成されていく」というものが、ここですでに起きているということです。これはその基礎形と言えるでしょう。 異次元の心の成長の世界へ そうして「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が築かれれば、実はこの心理学による道案内の役目の一つが、すでに果たされたのだとも言えます。 いや、逆に、「否定価値の放棄」といった「習得達成目標」や、その先にあり得る「魂の成長」といった神秘的な心の成長の道などの、この心理学の真髄部分の役目が、必ずしも果たされる必要はない、という表現がより正確でしょう。もし、来歴の中で心の闇と「業」による深い妨げを抱えているのでなければ。 これは人生を生きるための思考法が誤っていただけの、心の基盤はもともとかなり健康であったケースということになるでしょう。そうであれば、あとはもうこの「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって、思うぞんぶんに人生を生きていけばいい。もちろん、具体的な行動場面のための知恵として、さらにさまざまな「行動学」を広く深く学んでいくことも極めて有益なものとして。 これは言わば、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」の中にある、一つの中途下車駅の姿だとも言えます。 一方そうではなく、来歴からの心の闇と「業」による深い妨げを抱えている場合、「心の自立」と「心の開放」という、自分の足でしっかりと「成長の大地」を踏みしめて歩く力とはまた別の、特別の心の扉を開くことが必要になる、という話になります。 それが「否定価値の放棄」です。なぜならこれが成されないと、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」があったとしても、この人の「本当の望み」、「真の望み」が開放されないからです。心のエネルギーが、「望み」を開放することにではなく、「空想の中で掲げた理想に満たない現実を叩く」ことへと常にそれてしまうことによって。「全てを尽くして望みに向かう姿勢」はあるのだが「望み」が開放されず見えてこない、という中途半端な心の状態に置かれることになります。 その場合は、「心の開放」によって得た、自分の足で立って歩く力によって、その「否定できる価値」の感覚の根源の捨て去りという、大きな目標へと歩んでいくのです。その先に、恐らくは、心がもともとそこそこ健康で、こうした向き合いを必要とすることなく生きることができた人をはるかに凌駕するような心の豊かさへと向かう、「魂の開放」そして「命の開放」という歩みと、「魂の成長」という、未知の異次元の心の豊かさへの神秘的な成長の道があるものとして・・。 いすれにせよ、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を持つのがまず順番だという話になります。「否定価値の放棄」へと「学び」の「深さのレベル」を深めていくためにはです。 またいずれにせよそうして「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を築くということが、他にまだ大きな心の妨げがなければ、心に取り組む「学び」の役目の一つが果たされたものになるというのは、言っている内容は世にある多くの心の取り組みと似た話であるようにも聞こえるかも知れません。 それについてまず一つ言えるのは、それが当然である側面です。心の真実は一つであり、心と人生の答えは、まず言って同じゴールへと至るものです。そこに至る道のりに、多少違いがあるだけに過ぎない。そこで「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が、同じ通り道になるということです。 一方で言えるのは、ハイブリッド心理学で言うものと、他の心の取り組み、中でも比較的簡易な内容を謳うものにありがちなものとして、その内容は似て非なるものです。その「非なる」部分をあえて浮き彫りにするならば、そこには真実の道と偽りの道の違いがあるとさえ言えるものとして。 ハイブリッド心理学で重視しているのは、まずは何よりも、「「日常生活の向上」にある根底の足場」などで指摘した、「自分にとって本当に確かなことの積み上げ」で思考する姿勢にある、心の外面と内面に向かう「2面の真摯さ」であり、もう一つに、「病んだ心の膨張と崩壊による治癒」や「自意識の業の膨張と崩壊による心の再生」といった複雑な心理メカニズム過程があります。これが2つの軸だと言えます。 それによって、「空想」の中ではなく「現実」の地にしっかりと心が足をつけた姿勢を培う先に、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を築くのです。 その2つの軸が支えるものとは、「自意識を越えた心の成長」です。 「意識」によって、私たちが私たち自身をどうこう変えようとあがくのをはるかに越えた、変化へと向かうことです。 つまりハイブリッド心理学が向かうのは、「今の心」を突き破るように成される、「今の心」を越えた、「未知の心」への成長変化です。それが「未知の異次元の世界」といった表現をしているものです。 私たちが「意識」で、「こう考えるようにすれば」「こう感じるようにすれば」とあれこれ思案するのは、全てが「自意識」という殻の中でのものです。その中でいくら、どのように思案したところで、それは「今の心」の中で行ったり来たりを繰り返すだけの現状維持、固定された心の中での誤差範囲のような動きでしかありません。 そんな点で、「こう考えるようにすれば」「こう感じるようにすれば」という、一面的な「意識法」を謳う心の取り組み法の限界と誤りに、留意すると良いか思います。そうして世にある心の取り組みをざっと見渡した時、、実はそのほとんど全てがそうした一面的な「意識法」なのかも知れませんが・・。 またこの点で、メール相談などを寄せられてくる方に見られるほぼ共通の課題は、「自分自身に対する論理的思考」という、全ての始まりができていないことにあるという印象を、私は受けています。自分で考えるのが苦手と自認しておられる方のみならず、極めて理知的であったり、論理的な議論を好んでいるような印象の方においてもです。 つまり、自分の思考と感情を見直す余地のある、最も肝心かなめの部分で、思考が感情によって決めつけるものになってしまっているのです。 最もそれが分かりやすいのは、ここで一つあげるならば、「〜のはず」という言葉、もしくはそうした「判断」を述べているような言葉です。なぜ「はず」なのか。それが小学校で習う科学のような、「現実」において確かめられた、疑いのない知識をつなげて積み上げた結果としてという思考の展開の仕方ではなく、感情によってつなげた「〜のはず」という思考になってしまっているのです。その結果、「2つの心を世界を持つ」ことができず、「自分はこう感じる」という一枚岩の心の世界しか持てないでいる。その結果、心は固定維持されただけでいる、というものです。 それを、「これがこうだから、これがこうなる」という一つ一つの「つながり」が、小学校で習う科学からもつながるような、本当に確かなことなのかどうかを見直す姿勢を築くことです。そして感情で決めつけた思考内容について、「そうとは限らない」という「現実」の「多様性」、そして「そうである場合と違う場合がある」のであれば、その差を生み出すのは何か、といった、「事実」そして「真実」を探求する姿勢を築くことです。これが、心の外面と内面にわたる「2面の真摯さ」として、現実世界をうまく生きるための知恵の獲得と、内面において自分を妨げているものの真実を見る目へと、つながっていくのです。 こうした「自分自身に対する論理的思考」というのは、その説明の中でも述べたように、実は世の人の限りなくほとんど全ての人が、「人の話は論理的に聞くが、自分では論理的には思考しない」という傾向にどうやらありそうだというほどの大きな課題です。また自分では「2つの心の世界を持つ」ことができないから、それに対して島野が別の感じ方考え方の世界を示すというのがメール相談だという事情もあります。 ですからこれ自体はもうメール相談などで手軽に「指導」することができるようなものではなく、それぞれの方がまずはごく日常生活の中で、自分の基本的な思考の基礎をじっくりと見直すという、かなり大掛かりな意識作業が必要になると思いますが、ハイブリッド心理学が見出した心の成長の世界も全てその先にあるものとして、ぜひ本腰を入れて取り組んでみて頂ければと思います。 また心の闇と「業」による深い妨げを抱えているのでなければ、必ずしも「否定価値の放棄」に取り組む必要はない、ということにおいてもです。来歴の中で心の闇を持つようになったかどうかはまだしも、「心の業」についてとなると、自然とそれを免れて生き始める人などほとんどいない、程度の差こそあれ現代人の誰もが抱える問題だからです。 ハイブリッド心理学は、その根本的な克服に、取り組みます。 |
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2013.1.22 |