1.ハイブリッド人生心理学とは 2.「取り組み実践」への理解 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) 3.学びの体系 4.メール相談事例集 |
2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』 として無料電子書籍化しました。今後の更新は電子書籍側のみになります^^。 |
2.「取り組み実践」への理解 - 続き (9)「成長の望み」と「真実の望み」の導き
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「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか では引き続き、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という中間途中下車駅からさらに先に続く、ハイブリッド心理学の旅路の行程を見ていきましょう。 その先にあるのは、「否定価値の放棄」という最終下車駅です。それを降りた時、その先に、未知なる心の豊かさへの地平が続くものとして・・。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が中間途中下車駅であり、ここから先に引き続きこの列車に乗る人は、当然そこを通った人であるということは、この人の心のあり方がかなり特有のものに限定されてくるということでもあります。 それは、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を築いてもなお、自分の「望み」を妨げるものが心にあることを感じ取っている人です。そしてそれを克服したいという、強い「望み」を抱いている人です。それを克服したいという、強い「意志」を抱いている人です。 心の外部にあるものごとについて、自分の感情で決めつけることのない思考と、それを生きるための知恵を得ていく姿勢の一方で、心の内部について、自分がそれだけで片づけることのできない感情を持つ存在であることを認める目という、「2面の真摯さ」の先においてです。 なぜならこの「2面の真摯さ」がないと、たとえ「望み」に向かう姿勢があったとしてさえ、心の全体が未熟と病みに閉ざされる危険があるからです。 それは「空想を生きる」「自意識を生きる」という、「自意識の業」に閉ざされた姿です。「現実を見る目」によって心の視野を広く持つことをしないまま、「こう感じるのだから、きっとそうなのだろう」と、感情による「解釈」を「現実」だと思いこんで生きるという、心の檻にです。自分の未熟と病みを、しばしば人や社会の中に映し出し、それが他人と社会なのだと思い込みながら・・。 それが私自身の心の探求の歩みのスタート地点のパターンでもあったわけです。「望みに向かう姿勢」は、「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う」で触れたように、人生の早期から持っていました。しかし「「病んだ心」の膨張と「自己崩壊」の治癒を知っておく」で触れた通り、心の全体が自分の未熟と病みを映し出した他人と社会の「空想」におおわれていたのです。まずそこから抜け出す必要がありました。それは、やはりこれも人生の早期から持っていた、「「現実」は必ずしも「感じる」通りのものではない」という目線によって、「空想と現実を区別する最後の一線」を踏ん張ることによって可能になったわけです。 ですから何度も繰り返しますが、「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う」で述べた通り、順番としてはやはり「自分自身に対する論理的思考」などの方が先だということです。 こうした道順を踏まえることなく「全てを尽くして望みに向かう姿勢」だけ意識したとしても、実はハイブリッド心理学の取り組みの列車には乗ってもおらず、見えたと思えたその中間下車駅は、蜃気楼を見ただけのようなことになってしまう危険に注意して頂ければと思います。しっかりと最初から、通過すべき駅を通過していることの確認が重要です。 それで言うならば、最初の通過駅となるのは、やはり、「自分自身に対する論理的思考」と「現実を見る目」という2つの名前を掲げた駅になるでしょう。そこから、「目的思考」、「学びの姿勢」と来て、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という中間下車駅です。これはそうした全ての通過駅で食べたお弁当を吸収消化した姿勢だということです。 また、こうした各駅をつらぬく2本のレールとして、まさに「2面の真摯さ」があるわけです。「ギャップを生きる」ということや「自己分析」も、この2本のレールのはざまにあるものとして、最初から最後までを貫くものになります。 また、「「善悪」「評価」「気持ちの枠はめ法」の思考への終始」や「強度な「空想に生きる心」」などの妨げ、広く言って病んだ心の傾向を持つケースは、「病んだ心の膨張と崩壊」もしくは「自意識の業の膨張と崩壊」による「心の死と再生」の治癒といった特別な回り道の通過駅があるということになります。もちろん最初の通過駅の後にです。 そして加えれば、「現実(今)を生きる」という心の境地を知る体験が、こうした道のりのそこかしこに何度も通る通過駅としてあるものになります。、小さな駅で見逃してしまいがちなので、しっかりと目をこらして見るのがいいでしょう。そうして視力がついてきたら、実は2本のレールを支える枕木の一つ一つの全てが、「現実(今)を生きる」という心のあり方であり、それが「2面の真摯さ」のレールを支えていることが、よく見えるようになってくるでしょう。 この旅程が、そのような通過駅の順序の中で、またその先に、成そうとしていることは、大きく2つです。 一つは、着実な心の成長と治癒と豊かさのために、前のものが後のもののための前提土台になるという、着実な積み上げを成すことです。前のものを損なったまま、後のものを真剣に努力することが、得てして「逆効果」どころではない、心の健康と成長そして人生を大きく見失う危険があることとしてです。たとえば「現実を見る目」を欠いたまま熱心に学ぼうとする姿勢が、人の人生を破滅にさえ陥れる「洗脳」という行為になり得るように。 ですからまず最初に「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」があって、「学びの姿勢」へと向かい得るのです。 そしてもう一つは、「望み」を開放していくことです。「成熟」の変化に向かい得るものとしてです。 これは「「心の成長」とは「望みの成熟」」で、「心の開放」から先の歩みの全てが「望みの成熟」を目標にしたものになる、と述べた通りです。それによって成そうとしているのは、「命の生涯」に回帰することなのだ、と。 順番としては、まず「成熟」の変化へと向かい得る心の基盤を先に用意してから、「望み」を次第に「開放」していくという流れになります。 これを逆に考えないことが極めて重要です。とにかく望みを開放できればいいという話とは、大違いです。例えれば、ぬか床を先に用意してから、野菜を入れるということです。これをとにかく野菜を容器に入れてから、ぬか床を作ろうと必要なものを探し始めようとしていたのでは、野菜が腐ってしまいます。そうした心の基盤をまず築かないと、「望み」も腐ってしまうのです。心と人生も腐ってしまうのです。 未熟な、あるいは病んだ心の中で抱いた、「現実を見る目」を持たないままの、独り善がりの観念で作り出した「望み」をただ「開放」したところで、心は自らの「病み」と「業」に飲み込まれるだけです。 ですからここでも、「現実を見る目」が最初だという話になります。そして「目的思考」「学ぶ姿勢」「全てを尽くして望みに向かう姿勢」と駅を通過した時、この人はしっかりと自分の「望み」を自分自身で受けとめる心へと成長を遂げているのです。そうであってこそ、「望み」という花が、健全に生育した茎と葉に支えられて、咲くようになるのです。 ただし本当に自分の花を咲きほこらせるためには、果たすべき課題があります。「自分から不幸になろうとする」という、私たち現代人が実に広範囲に、程度の差こそあれ抱えて生きるようになった、「心の業」を、捨て去ることです。なぜならこれが捨て去られないと、心の水つまり心のエネルギーが、「望み」という花に供給されないままだからです。つるはしとスコップで心の泉を掘り進めた先に、心の泉の源をふさいでいる、その大きな石を、取り去るのです。今度は、自分自身の手で。 それが、「否定価値の放棄」という、この列車の旅程の、最終下車駅です。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が中間途中下車駅である時、もしそうした「心の業」の妨げがなければ、その先の「否定価値の放棄」という最終下車駅にまで乗る必要はない。これは「異次元の心の成長の世界へ」で述べました。 では自分がどのどちらに該当するかを、どう判断すればいいか。 これは単純です。この中間途中下車駅まで来たのであれば、自ずと分かります。 「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」から始まる順序で、しっかりと駅を通過して、しっかりとお弁当を食べてきているのであれば、です。この列車に乗りもしないまま、ただ中間下車駅の話を聞きかじって、「分かったつもり」という蜃気楼を見たというのでなければ。 そうでなければ、自ずと分かるのです。自分には、まだ向かわなければならない駅があるのだ、と。 それがどのように見えてくるのかを説明しましょう。 これを5つの視野として説明したいと思います。この列車に本当に乗るのかどうかを決める視野から含めてです。 5つの視野のうちの2つは、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という中間途中下車駅から、「否定価値の放棄」という最終下車駅の間にある通過駅です。 視野その1は、「心と体が実際にどう動くか」です。それを問うのが、この列車に乗るということです。ここから、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の途中下車駅まで進みます。 視野その2は、「成長の望み」です。これがその次の通過駅です。 視野その3は、「真の強さ」です。これがさらに次の通過駅です。 視野その4は、「否定価値の放棄」を問うための心のテーマです。これが3つあります。中間下車駅から先に2つの駅を通過した頃に、3つの望遠鏡を使うと憶えておけばいいでしょう。 「否定価値の放棄」の扉を開ける節目が、ここで訪れます。 そして視野その5は、「否定価値の放棄」が人生にもたらす影響です。 これを知っておくことは、「否定価値の放棄」の扉を開けるためというよりも、逆に自分は「否定できる価値」を放棄している「つもり」でいながら実はそうではないという状況の把握に、役立つでしょう。また、「「目的思考」の前進」で述べたように、この心理学がどのような考えに立ち、どのような取り組み実践の先に、どのような心の豊かさがあると言っているのかを理解する上での、重要な部分になるでしょう。これがその始まりの姿だというものにおいてです。 視野その1・心と体が実際にどう動いているか 最初の視野になる「心と体が実際にどう動いているか」は、「否定価値の放棄」の選択を問うだけではなく、ハイブリッド心理学の取り組み実践を本当に始めるのかどうかを、決めるものになります。 これについては、「「否定価値の放棄」を自らに問うためのポイント」で、「否定価値の放棄」の選択を問いても意味がない状態の筆頭が、「それが心にとって正しいことだから、そう感じなければならないのか・・」といった「枠はめ」で受け取る姿勢であり、また、「そんなことは十分分かっているが心はそうはなかなか動かない」程度の「理解」は、まさに何も分かっていないことを示すものだと述べた通りです。 その場合は「心の枠はめ」「気持ちの枠はめ」姿勢の全体をまず抜け出す必要があること、また、「分かっている」という「意識の高さ」をもって自分の心の品格と感じられるものを目指すのか、それとも実際において心がどのように動くかと、その根底にある自分の本心に取り組むのかを、選択する必要がある、と そこで留意して頂くと良いのは、そのように自らの心の取り組みの姿勢を、「分かっているという意識の高さ」ではなく、「実際に自分の心と体がどう動くのか」を問うものに変えるとは、こうした言葉を聞いて「ではそれにするか・・」などと手軽に「選択」するようなものではなく、自己の存在をかけるとでも表現できる、人生最大の転換になる可能性もある、ということです。往々にして、未熟と病みからの抜け出しとして。 それが私の場合だったわけです。『悲しみの彼方への旅』で描写した激動の全体が、この、後に私自身が「ハイブリッド人生心理学」として体系化することになる道のりの、ほんの入り口に立つ節目であったようなものとして。 そこで私の「意識」は、中学3年も終わる頃、これから始まるであろう「人生」を前に、心の片隅に音を立てるように近づく暗雲を感じながらも、カーネギーの『道は開ける』を読んで人生が分かったような気分と、「こんな自分」で行けばいいという、分厚い「自意識」の鎧で身を固めることから始まりました。 そこから、実際に社会に出て、それまで「気持ちの問題」だと聞かされていたのとは全く違う、この社会で生きる知恵を得るごとに、「分かっているという意識の高さ」などとは根本的に違う「心の成長」があることが、はっきりと心の視界に入ってくるのです。そこに至る変化も無論「成長」であるならば、それは「成熟」への入り口であったと言うことができるでしょう。 その間にあった転換とは、何よりも、「自意識の鎧」が無残にも崩れ落ちていく過程であったわけです。その下にあった生身の自分の、無様な弱い姿を、失意の中で受け入れていくこととして。自分でそれを望んでというよりも、「こう考え、こう感じるようにすればいい」と謳うさまざまな心の取り組み法の全てに絶望し、自分の心の闇を解決しようとして残されたのはただ「精神分析」のみとなり、やがて自分の心の底から聞こえてくる、「自己の真実に向かえ」という声が、最後に残された賭けのようになった先にです(『悲しみの彼方への旅』P.42)。 自分の心と体が実際にどう動いているのかに取り組むことができるようになるとは、そのように、「自意識の鎧」を脱ぎ捨てて、あるいはそれが崩れ落ちて見えてくる、弱くて無様な自分の姿を受け入れながら成していく前進なのだ、と言うことができます。 この短い一文に、これまで説明してきた取り組みの歩みの、全てが表現されている、とも言うことができます。 「自意識の鎧」とは、「自意識を生きる」「空想を生きる」という心のあり方であり、その強度なものです。 それを「脱ぎ捨てる」とは、「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」によって、ありのままの自分と、自分を取り巻く「現実世界」に向き合うという、「2面の真摯さ」として成されることです。 一方「脱ぎ捨てる」ではなく「崩れ落ちる」とは、「病んだ心の膨張と崩壊」もしくは「自意識の業の膨張と崩壊」であり、そこにこそ、心が未知の健康で豊かなものへと浄化されていく、治癒の仕組みがあります。 そして「弱くて無様な自分の姿を受け入れる」ということに、そうした「自意識の業」を乗り越える一歩と、自分の弱さを自分で受けとめるという、「心の自立」の一歩が、示されています。自分の弱さを人に受けとめさせ、人がいかに「正しく」自分に良くしてくれるかの権利を主張する「意識の高さ」を振りかざす傲慢を捨てて。 またそこで「自分の弱さを受け入れる」ということの中には、弱さにおいて抱いた「愛への望み」を、自分自身で受けとめるということもあるでしょう。これが「「依存から自立へ」の心の転機と「真の望み」」で触れた、「心の依存から自立へ」の転換の際に訪れる「真の望み」への出会いでもあります。なによりもこれが、「否定価値の放棄」の最終下車駅を降りた先に始まる、「魂の成長」の歩みのための、心の素地を培ってくれるでしょう。 そしてそこからの「前進」とは、「目的思考」であり、「学びの姿勢」であり、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という駅の通過になるわけです。 つまりこれは、いかに自分が弱い存在であるかを、だからこそいかにこれから成長できる存在であるかを、見据えていく過程なのです。 それが、「分かる」という「意識の高さ」を「成長」と勘違いするのとは逆のところにある、真の心の成長へと、歩むということなのです。 もう一つ、心にとめておいて頂くと良いのは、そうして実際に自分の心と体がどう動いているかに取り組むのであれば、世にある心の取り組みの九割九分が、たとえ一時的断片的には自分の心を楽にしてくれるような気がするものであっても、後に残るものはないことを知ることになるだろうということです。 なぜなら、世にある心の取り組みの九割九分が、「こう考え、こう感じるようにすればいい」という、「枠はめ」の手法に頼ったものだからです。この点で、大学院まで心理学を学び、その先の社会人生活の中でも時折心の取り組み関連、あるいは人の心を扱った小説の類などもさまざまに読む中で、結局私の人生に役立つものとして残ったのは、カレン・ホーナイと、デビッド・バーンズなどの認知・論理療法と、あとは「ハーバード流交渉術」だけだったという、驚くべき状況があります。あと一つ、私がこの心理学を体系化するにあたって「望みに向かう」ことを中心に置くことへのヒントを与えてくれたのが、自らの幼少期の虐待体験の克服をつづった、デイブ・ペルザーの書物でした。この、片手の指で数えても余るようなものしかなかったのです。 その代わりの学びの全てが、ハイブリッド心理学の中にある、のではありません。 実際の「体験」の中で、「体験」を通して、学ぶのです。ハイブリッド心理学は、その姿勢を築くための、ほんの道筋をつけるためのものにすぎません。 視野その2・「成長の望み」 そうして「実際に自分の心と体がどう動くのか」に取り組むことができるようになり、「目的思考」「学びの姿勢」そして「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進を得ることができたならば、そこからどのように「否定価値の放棄」の扉が見えてくるかの道筋は、もうかなり分かりやすくなってくるように思われます。 ただしまずは、自らそれを体験し、その道のりにおける意識過程をこうして整理した私にはです。 振り返るならば、この「否定価値の放棄」の扉がどう見えてくるのかの、最後の決め手になるのが以下のものであることを明確化するまでに、この心理学の体系化を2002年に開始してからの、ほぼ10年を要することになりました。それだけ、この大きな選択を成させる決め手になるものは、その選択の瞬間には、そのものはもう見えなくなる、という形になるものと思われます。 それはつまり、この心理学を学び、この道を歩み、この先の道のりを進むにあたって心得ておいて頂きたいものの話になってきます。 まず一言でそれを言っておきましょう。「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を築いてもさらに、自分の中で「望み」を妨げるものがある。それに取り組むためにさらにこの列車に乗るのであれば、自らの心の成長は、これによって前進し、こう見えてくるのだと。 それは、「成長の望み」だということです。前進を生み出すのは。 そして自らの心の成長の見え方とは、まずこうなるのです。その「成長の望み」において、それに向かい得る自分の姿が見える前に、自分の中でそれを妨げていたものの真実が、見えてくるのです。 その時私たちは、選択の試練に立たされます。何かを選ぶという選択の試練ではありません。そこに見えるものが自分の真実であることを認め入れるか、それともそれを厭(いと)うかの選択です。 なぜならその時、私たちの「意識」にとって、それは望ましくない事態に見えるからです。今までの「意識」は、まさにそれをひた隠しにしていたからです。それが「意識」に触れないことに、自己の平穏無事があるかのように。 つまりこれは、「「自意識の業」の克服とは」で、一貫として根幹となる役割を持つものとして説明した、「自意識の業の膨張と崩壊による心の死と再生」という同じ仕組みの中にある、ということです。私たちは結局「自意識」によって生きる動物であり、「自意識の業」だけは私たち自身の「意識」によって捨て去り克服することはできないのだ、と。「真摯であること」が鍵になり、私たちはこの「自意識の業」に敗れ去り、その時それを凌駕する、「魂」と「命」が姿を現わすのだ、と。 ここではそれが、「膨張による崩壊」というよりは、「自らの前進による崩壊」として起きる、と言うことができるでしょう。「憎悪」や「怖れ」に巻き込まれるという側面は薄れた形で。ですからこれは、「「病んだ心」の膨張と「自己崩壊」の治癒を知っておく」で説明したような心の隘路の仕組みが、その意識内容は大分さま変わりする形で、「学び」の「深さのレベル」が深まっていく前進にも働くということです。 つまり心得はこうです。私たちはそこで「前進」を成す時、それが「前進」にはとても見えないので、背を向け、目を反らし、それが「意識」には触れないようにすることが自分の心にとって「正しい」ことであるかのような思考を抱きがちなのですが、それは全く逆なのだと言える形で、私たちの成長前進が成されるのだということです。 それを心得て、その、「自分を妨げたものの真実」から目をそらさないことです。 その真実を、しっかりと見るのです。 私がこのことに気づいたのは、そのように「意識」の上では自分の心が望ましくない事態に向かっているとしか感じられない体験を何度も経てから・・振り返るならば社会人になって全てがリセットされたかのような「忘却の日々」(『悲しみの彼方への旅』P.326)の先に、再び自分の内面に向き合うようになり、そうした体験が「自己分析」によって促されるようになってから、数年後とも言えるほど後になってのことだったように思えます(P.333あたり)。 私は結局その歩みを、「自己の真実に向かえ」という、それまで私を支え続けてきた声に従うことをやめないことで続けた訳ですが、そうして数年もした時に、自分の心が明らかに変化しているのを確信したのです。心の全体が、明るく、力強く、澄んだものへと、変化している、と。自分の心の行き場のなさに「意識」が死ぬかのように沈んだ後に、心が逆に前進しているのだ、と。 それを意識してからは、変化のスピードが加速度的にアップしました。自分からそのような心の中の行き止まりに積極的に意識を向け、自分で「意識がうまく死ねる」ようになってきたからです。 それは私の中で「否定価値の放棄」が成され、「望み」が大きく開放された後だったようにも思えますが、当時の私にはそうした心の仕組みを教えてくれるものがなかったので、自分で気づくまでは変化のスピードが遅く、「否定価値の放棄」に至る時期もやや間延びしてしまった面があるようにも思えることは、「心の癌細胞「望む資格思考」と「生きづらさ」の心理」で私自身の「望む資格思考」の克服過程を振り返って触れた通りです。 そうしたものとして、「成長の望みにおいて、向かい得る自分の姿ではなく、自分を妨げていたものの真実がまず見える」という歩みがあるのだということです。 ここで、自分の心が望ましくない事態になっていると感じる側面ではなく、「成長の望み」を持っているという側面が重要であるのは、言うまでもありません。「自分の心が望ましくない事態になるのを感じればいいのか」といった「逆の枠はめ」になってしまうと、もう論外です。 「自意識の鎧」を脱ぎ捨てて「実際に自分の心と体がどう動くか」に向き合い、「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」による「目的思考」として日常の思考を根底から変え、「学びの姿勢」を築く中で「全てを尽くして望みに向かう」姿勢も培うことが、自ずと、「望みを妨げているものの真実」を見る目へと、つながっていくのです。この変化の前進の全体が、もはや私たち自身の「意識」によるものではなく、「命」によって準備されるものとしてです。 当然それで終わるのではありません。そこで成長への前進が十分に準備されるならば、「望みを妨げているものの真実」を解くことが、それを越える、未知の自分を開放することへとつながっていくのです。時として同時に。まさに今生まれた雲間から放たれる新しい光のように。 つまりここで起きるのは、成長を望む自己の理想と、その通りには絵に描いた餅のようには動かない自分の心に向き合うという、「ギャップを生きる」歩みによって、行き場のない自分の心を見つめることも、望ましい行動法に合致する自分の感情を見出すことも、そのどちらもが、未知の自分への前進になるという、極めて積極的な形のものになる、ということです。 この「行き場のない心」と「現実行動に向かい得る新たな自分」という2面は、やがて、「心の成長と「魂」と「命」」で説明した、「現実世界における心の成長の歩み」と「魂の世界における心の成長の歩み」という2面に、つながっていくことになります。「否定価値の放棄」を経てです。 こうして「全てを尽くして望みに向かう姿勢」から「成長の望み」への前進は、「望みを妨げるものの真実を見る目」を生み出すことで、実際にこの人がこの人自身の「唯一無二の望み」に向かって歩んでいくという「成長」への力をこの人に準備し始めると共に、もう一つ、決定的なものをこの人に与えることになります。 それは「感情と行動の分離」という、この心理学が一貫として指針としている姿勢の、叡智に他なりません。特にその、「内面感情はただ流し理解のみする」という感情面の指針になるでしょう。 これまで、「感情」は、とにかく良くならけければ、良くしなければという、焦りの姿勢の中にあったかも知れません。あるいはその焦りがもう少しは忍耐へと平坦化はしたとしても、感情がどう良くなるかに、自分の前進の指標があるという感覚は、他のものはない前提のように抱かれていたでしょう。実際、この取り組みは「感情」をより良いものにするためにあるのですから。そのために、この心理学を学び始めたのですから。 しかしここに来て、それとは違うものが、見えてくるのです。「感情」は、自分が望むのとは大分違う道筋を経て、根本的により良いものへと変化していく。つまり心は、「自分の感情」が示すものとは大分違うものとして、根本的により良いものへと変化していく。 これを実際の「体験」によって知ることが、この歩みのゴールである「命」に向かうための、決定的な心の素地になります。 つまり、「自分」とは別のものが、「自分」を超えたものとして、自分の中にある、生きている、という神秘的な心の真実を、超越的な思索によって「悟る」ようなものではなく、「実体」として感じ取ることへと、つながっていくのです。 「成長の望み」とは 「成長の望み」とは、そのように、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を母体として生まれ、「望みを妨げるものの真実を見る目」を次に生み出すと共に、この人の「唯一無二の望み」に向かって歩む力、そして「感情と行動の分離」という姿勢にある叡智への目を準備し始めるという、言わば成長前進のための包括的な中継基地とでも表現できる、大きな心の拠点になるものです。 それは言わば「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という駅の次にある、大きな総合ターミナルです。そこにはさまざまな心の成長の側面を扱うショッピングモールもあれば、鋭気を養ためのホテルもある。望みを妨げるものの真実を見る目という、優れた医者も駐在している、というように。 それが「成長の望み」です。 ここではなぜ、そしてどのようにそうしたものになるのかを、「成長の望み」が「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の先にどう見えてくるのかという視点から説明しておきましょう。 それはこの道のりを実際に歩む場合においても、実際に歩むことなく蜃気楼を見たかのような場合においても、その真偽を見分ける上で役立つと思います。 主に3つの見え方のポイントがあります。まず最初は、「成長の望み」とはそもそも何か、という話そのものです。 それはこのようになります。 「成長の望み」とは、ハイブリッド心理学では、「心の芯の強さの変化についての望み」のことです。 「成長できた自分の姿についての望み」ではなく。 つまりそれは、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって実際に得た「成長体験」を足場にした望みだということです。 たとえばそれは、「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力」で紹介した相談投稿の女性が、私がそこでアドバイスした方向で実際に克服できたならば得るであろう「成長」です。それは、自分がもう同じ場面では同じ惑いを繰り返すことはないであろうと感じられるだけの、心の芯に得た強さの感覚です。 それがさらなる成長に向かうとなれば、その「心の芯の強さ」がどんな内容のものになることを望むか。その「望み」です。 一方、「成長できた自分の姿についての望み」を抱くというのも、もちろん悪いことではありません。 これはこの心理学では、「成長の望み」とは呼ばず、「自己理想の望み」と呼ぶものの一つです。 誰に対しても、明るく積極的に、物怖じすることなく、親しく接することのできる自分。「社会で生きる自信」を獲得し、悩み惑うことなく、人生の目標を持って、充実した日々を送っている自分。豊かな心で、全ての人を愛することができ、もうあまり欲に駆られることもなく、穏やかな日々を送っている自分。 いいでしょう。これらは、内面的なものを含めて、「成長できた自分」を「空想」の中で描いたものへの「望み」です。 「自己理想の望み」には、ごく外面的なものもあります。これこれの学歴や職業、技能、それによって勝ち取る何かの達成目標、これこれの衣食住の生活、健康、美貌と才能、財産や友人の多さ、などなど。 そうしたさまざまな「自己理想の望み」の中に、「成長できた自分の姿についての望み」、つまり「成長の姿の望み」もあるということです。 「成長の望み」は、それとはまた全く別ものになるということです。 違いはこれも、主に3つです。 第1に、「成長の姿の望み」は、表面的な「自分の人物印象」についての望みであるのに対して、「成長の望み」はより深い心の基盤についての望みです。 例えれば、「成長の姿の望み」は家の内装外装という、人および自分から見た外観についての望みであり、「成長の望み」は家の基礎土台についての望みです。この例えが示す通り、両方ともあってしかるべきものです。両方あって、「唯一無二の自分」という家を建てることへの歩みが前進します。 ただし第2に、「成長の望み」は実際に「成長」を体験することで見えてくる望みです。それに対して、「成長の姿の望み」は、実際にはそのようには成長できていないからこそ描く望みなのです。 つまり、「成長の望み」は「成長」が分かってきたからこそ抱く望みであるのに対して、「成長の姿の望み」とは、その望みの内容においては「成長」が分かっていないから抱く望みである面が多分にあるということです。 これが意味するものとは、後者は、前者によって淘汰される面が出てくる、ということです。 これはまさに家の内装外装と基礎土台の例えが当てはまるでしょう。「成長」を実際に体験していないと、私たちは「成長」を、「こんな人になれたら」という、表面的な姿だけの話としてばかり、いつまでも考えてしまうのです。たとえばちょっと近くを車が通るだけで、あるいはごく小さな地震で、家が揺らいでしまう。そこでもっと強い人間になりたいと思うのですが、「本当の強さ」とは何かを知る「成長」を体験していないと、強く見える他人の姿をどう真似られるかという思考しかできないのです。それで、とにかく鉄筋コンクリートで建てなければ駄目なのか・・とか考え始めてしまうのです。 実際に「成長」を「体験」した時、そんなものとは全く別のものが、見えてくるのです。それは家の基礎土台です。それは一体どのようになっているのか。それを見る目がそなわってくるのです。 同時に、家の内装外装の外観が、それによって制約を受けることも。何階もの鉄筋コンクリートの豪邸を立てたければ、それに見合う強度の基礎土台をまず築く必要があります。同時にそこに、ハンディが見えてくるのです。自分の弱さというものが。そこから、自分の家という唯一無二の自己を、どう建設できるのか。 そこに、人が「真の成長」に向かうかどうかの、分岐路が現れることになります。 こうして、ここまでの流れをまとめると、このように言えるわけです。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を携えて生きる「体験」の中で得た「心の芯の成長変化」について、さらなる前進を望むことです。そこで抱くに至る「成長の望み」において、その先に、「成長の姿への望み」通りに向かうことのできる自分が見える前に、それを妨げるものの真実がまず見えるという歩みがあることを、心得ておくのが良い、と。望むような家の内装外装へと向かう前に、基礎土台においてそれを妨げているものの真実が見えるというように。それをしっかりと見るのです。その先に、雲間から、新しい光が現れるだろう、と。 そのように、「実際に成長を体験したからこそ抱く、心の基盤の強さの変化への望み」と「実際に成長できていない面について抱く、表面的な成長イメージへの望み」という違いに加えて、後者の「成長の姿への望み」は「自意識による望み」なのだ、という違いも知っておくといいでしょう。これが違いの第3です。 つまり「成長の望み」は、「自意識を伴わない心の状態」で感じ取る「望み」だということです。 これは「現実を生きる」「今を生きる」という心のあり方に他なりません。先の「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」では、「現実(今)を生きる」という心のあり方は、この旅路において、そこかしこに何度も通る通過駅としてあるものになると述べましたが、この「成長の望み」もそうした種類の駅の大きなものの一つになるということです。 「自意識(空想)を生きる」から「現実(今)を生きる」へ。これはこの歩みにおいて、「「学び」の全ては一貫した指針の下に」述べた「現実において生み出す」という指針と並んで、双璧となる一貫指針だと言えるものです。「生きる喜び」「豊かな無」「無条件の愛」といった、この歩みのゴールで訪れる心の境地も、やはりその心のあり方の中で感じるようになるものとして。 まとめれば、「実際に成長を体験したからこそ抱く、心の基盤の強さの変化への、現実(今)を生きる感情における望み」と「実際に成長できていない面について抱く、自己理想への自意識による望み」という2つの「望み」が、全く異なる性質の感情として感じ取れるのが、この「成長の望み」という大きな駅に来た段階です。 そのどちらの望みも重要です。後者を前者に変えるという話ではありません。それでは基礎土台だけの家というおかしな話になってしまいます。 ですから、自分の抱く成長への望みがどのとちらか良く分からないという場合は、話は単純であり、それは「成長の姿の望み」の方だということです。その場合は、この列車に最初に乗るところから、取り組みを確認してみるのが最も確実です。そこからここに来れば、「成長」へと向かおうとする、全く質の異なる、「成長の望み」と「成長の姿の望み」を共に抱くことのできる自分が、今ここにあることが分かるでしょう。 こうして、成長した自己理想の外面イメージを抱きながらも、そのように絵に描いた餅のようには動かない自分の心というギャップを生きる歩みに、「妨げるものの真実を見る目」が加わる、本格的な局面が始まるという流れになります。 今「どんな成長」を望むのか 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の先に、「成長の望み」という大きな心の拠点に到達した時、そこから「否定価値の放棄」までは、あとはもう同じ「見え方」に沿うものになる、と言うことができます。 つまり、「成長の望み」を抱くことにおいて、そうなれる自分を見出す前に、それを妨げているものの真実が見える、というものです。 「愛」と「自尊心」、そして「否定価値の放棄」へと「学び」が深まる過程を、まずはその大枠の中にあるものと理解頂くことができるでしょう。 「愛」を、「純粋な喜びと楽しみの共有」として向かうことができる自分を望んだ時、その通りになれる自分を見出す前に、それを妨げているものの真実が、見えるのです。それは人の心の中で自分がこう抱かれるという、「自分を悪感情の洪水から救い上げる」で述べた、最も根深い人間心理かも知れませんし、「愛」を、「純粋な喜びと楽しみの共有」としてではなく「相手を所有」することとして求める衝動かも知れません。 「自尊心」を、「現実において生み出す能力」として望んだ時、別のものを自尊心として求める衝動がいかに自らの自尊心を損っているのかの真実が、見えるのです。それは「愛される」ことに自尊心を得ようとする、もはや「愛」ではない衝動にあるのかも知れません。そうして自分が怒りの中で愛されることに駆られる姿において、相手から愛されることはなくなっていき、自尊心を損なわされたという怒りの中でただ破壊へと駆られる衝動が、何よりも自分の「自尊心」を妨げていることを、はっきりとその目の先に捉えるかも知れません。 そうして「妨げるものの真実」を目の前に捉える苦しみから目を反らすことなく向き合う時間を経た時、「命」が、この人の心に変化をもらたし始めるのです。人の心に自分がどう抱かれるかに躍起となった衝動と、それが映し出したさまざまな幻想が消え、騒がしい脳の皮が一枚はがれたかのような、今までの人生で最もすがすがしい心で、前へと進むことができる自分へ。 こうして短く描写した流れが、「「学び」とのギャップを生きる」という歩みが、「成長の望み」という心の拠点を得るに至り、「視野その2・「成長の望み」」で述べた通り、最も積極的な形のものへと前進したものだということになります。 同じように、「否定できることに価値を感じる感覚」という、心の最も根底にある「心の業」の根源を捨て去りたいという「成長の望み」を抱くに至った時、私たちは「否定できる価値」を放棄できた自分の姿を見る前に、「否定できる価値」を生み出した根源的な観念の存在を、自分自身の中に、はっきりと捉えるのです。このための具体的な視野を3つ、この後に説明します。 問題は、私たちは実際のところどのように「成長の望み」を抱くことができるのかです。 「どんな成長」を望むのかの、内容です。それがある程度形を明瞭にした時に、今述べたような積極的な前進が生まれるということです。 まず、これは違うというものを列記しておかなければなりません。 まず、こうした話を聞いて、「成長を望めばいいのか」あるいは「成長を望まなければならないのか」、ではないということです。これは「枠はめ」という基本的な妨げがある段階であり、「「否定価値の放棄」を自らに問うためのポイント」で述べた通り、「第1段階」をまず展開してから「学び」に向き合い直すという道順になります。 「成長を望んでいるつもり」。これはどうか。この心理学を読み始めた方は、まずここからになると思います。 これについて言えるのは、まずそれがこうした心の取り組みを学ぶ最初の動機になるのはいいとして、どんな成長を自分が望み得るのかを、より具体的にしていく必要があるということです。それが、実際に取り組むというです。そのためには、自分の心と体が実際にどう動いているかに向き合うという最初の視野において、あくまで実際の行動場面を材料にした取り組み実践において、自分が「今どんな成長を望むのか」の内容をある程度具体的にイメ−ジできることが、今説明している積極的な前進の段階であることを確認すると良いでしょう。実際のところ、具体的行動場面で、自分はどんな成長を望んでいるのか。 そうして実際に心と体がどう動くかに向き合うことを始めた時、「成長」どころではない、「憎むことに人生の目標を置こうか」なんていう感情が自分の中にあるのを知ったのが、私の場合のスタートラインだった訳です(「「学び」とのギャップを生きる」、「「病んだ心」の膨張と「自己崩壊」」)。 そうして「自意識の鎧」を脱ぎ捨てることから始まるこの列車の旅路を、「目的思考」「全てを尽くして望みに向かう姿勢」と経てくるならば、その先にある「成長の望み」の中で抱く「どんな成長を望むか」の内容が、もはや「望んでいるつもり」として抱かれるような軽いものとは全く違う、何かの重みによって指し示されるものであるのが、もう分かると思います。 それは、「命」が指し示す重みだと言えます。「「心」と「魂」と「命」の開放」で「自分の足で立って歩く」という最初の一歩について述べたように、「感じ取る」という言葉にさえできない深い意識によって、自己の存在をかけて自覚するものとでも言えるように。 いずれにせよ「成長の望み」としてここで取り上げているような、重みのある「望み」の内容は、もはや、人に言われて望むようなものでは、全くないのです。 これは私たちの人生にとって本当に前進力を持つ「望み」の一般に言えることです。「人生を生きるための基本的思考法」で述べた通りです。「問題」「課題」についてはその内容がどんなものかは心に外部に答えがあるとしても、「望み」の内容がどんなものとしてあるのかは、その人自身の心の中だけに答えがあるのだと。人に「これを望めばいい」と言われて望むようなものは、その人自身の唯一無二の人生を生きるためのものでは、ないということです。それは、他人の人生を生きるということです。 ここに、「成長の望み」の見え方の、残り2つのポイントがあります。 1つ目のポイントは、「成長の望み」とは何かという、そのものの話でした。それは実際に成長できた体験を足場にして、心の基盤の強さの変化について、「現実(今)を生きる感情」において感じ取るものだというものでした。その上での残りの2つです。 その一つは、内容を枠はめすることはできない、ということです。今述べた通りです。「このように望むようにしましょう」「次はこんな成長を望むようにしましょう」、ではないのです。人に言われて望むようなものではなく、自分自身の心の中にのみ、自分が今「成長」としてどんなものを望むのかの、答えがある。 そしてもう一つは、それと似た話になりますが、もはやここからは、「思考法」によって導くことはできない、ということです。 ここまでは、つまり「成長の望み」を抱くまでの心の歩みについては、「思考法」として導いてきたものです。「枠はめ」ではなしにです。そこで添えるべき「姿勢」の話も含めて。自分にとって本当に確かなことの積み上げによる思考を基盤にして、「目的思考」から「学びの姿勢」へ、そして「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を重視し、それによって実際に何らかの「成長」を体験できたら、そこで得た心の芯の強さが、さらに増大することを望むのが良い、と。 ここまでは「思考法」として導けます。それが、この心理学がまず提供する「学び」なのです。 しかしここからは、つまり自分の心の芯がさらに強くなることを望むとして、自分はこう成長したい!そう望む「内容」がどんなものになるのかは、もはやそうした規定の「思考法」では導けないものになるのです。こうした内容のものを望むようにすればいい。それでは「枠はめ」です。 ではこの先にある「導き」は、何によって生まれるのか。それをどう心の視界に捉えればいいのか。 それがまさに、この心理学の「学び」の、真髄となるものになるのです。 「真実の望み」の導き 「成長の望み」を感じ取るまでの意識過程を、「思考法」および「姿勢」として導くことはできても、「今望む成長」の内容がどんなものになるのかは、もはや「思考法」および「姿勢」として導くことはできない。 ではそれを導くのは何なのか。 実はその答えは、すでに述べているのです。「「学び」の全ては一貫した指針の下に」の節の最初にです。 心の成長にはまずは直接は関係しない、「日常生活の向上」における「学び」の姿勢において、自分にとって本当に確かなことの積み上げによって思考する姿勢が、きたるべき全ての心の成長の歩みのための、最も根底となる心の足場を築くものになるのだと。 つまりそこにある、「真摯さ」にあるのです。 これは一貫としていることです。「成長の望み」に至る以前の、たとえば「目的思考」にしてもです。そうした「思考法」の実践の中で、何が本当に確かなことなのかという「内容」を導くものとは、ありのままの現実世界と、ありのままの自分の感情を、偽りなしに認識することを心底から願う、「真摯さ」なのだと。 一貫としています。それが最初から、この歩みを始めさせたのです。 これも一つの、私たちの「望み」なのだと言えるでしょう。つまりこれは「真実の望み」です。 私は『入門編上巻』の最後の言葉を、それによってこの歩みが前進するものであることを伝えて締めくくりました。人はなぜ幸福を願いながら、自らそこから遠ざかるのか。なぜ人は真実と愛から遠ざかったのか。そしてどのようにして、再びそこに回帰するのか。その回帰が成されることに、私は確信を持っています、と。「真実」という、人間の最大の本能によって。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって、「命」が動くようになる、と「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力」で述べました。 その同じ「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の中で、「成長の望み」と、「真実の望み」を自分の心に向けた時、「命」が、私たち自身が今成すべき「成長」とは何なのかの、答えを返すのです。 ですから私は、「成長の望み」を感じ取る姿勢を導く言葉に加えて、「今自分が望む成長とは何か」の内容を感じ取る姿勢を導く言葉を、追加することができます。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって得た「成長」による「心の芯の強さ」について、さらなる増大を望むことです。 そこで今だ漠然としか形を取りえない「成長の望み」を、「真実の望み」と共に自らの心に向けた時、心が、「今向かうべき成長」を、返してくるのです。 それは、「魂」と「命」が返してくるものだと言えるでしょう。 ここに至り、「心」を超えた「魂」と「命」に向かうという、ハイブリッド心理学の歩みの主題が現われ始めてくるのです。 「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」に始まり、「目的思考」を経て、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」によって培われる「成長の望み」という意識実践の過程と、この歩みを最初から歩ませた「真実の望み」が、合流することによってです。 冒頭の「考え方」で述べた以下の短文に、この幅広い思考と姿勢の意識過程の全てが、実は含まれていることになります。 「人生成功術による外面の建設的な行動法を支えに、深い心理学による解きほぐしを内面に向ける先に、「自意識」に惑う薄っぺらい「心」を超えた、「魂」と「命」が現れる」。 一体どうすればそうなるのか。「外面の建設的な行動法」とは、具体的な「学び」として各種のものがあるということでいいでしょう。次の、「支えに」という言葉に、実はこうして述べてきたものの全てが整うことが、示されているのです。そしてその上で、解きほぐしの目を自らの心に向けた時、「自意識」に惑う薄っぺらい「心」を超えた、「魂」と「命」が現れる。 これが、ハイブリッド心理学の主題です。それはまず、「成長の望み」を「真実の望み」と共に心に向けた時、「魂」と「命」が、「今向かうべき成長」を返してくる、というものなのだと。 それが「自分の思考」ではなく「魂と命」が返してきたものであるというのは、もうこれは言葉で説明して分かるものというよりも、実際に体験して分かるものという話になりますが、ここで手短に表現しておけば、それは「自分の思考」として思いつけるような陳腐で軽いものではなく、「自分を超えたものから告げられる」とでもまずは表現できるような、新鮮で、場合によっては思いもつかない斬新さとも言える感覚を伴い、かつ自分にとっての重さというものを極めて感じるものとして、心の中に出現する観念もしくは思考もしくは感情として、現れるものだということです。「現実(今)を生きる」という感情について、「何をどのように考える」ことでというよりも、「全存在的瞬間」とも呼べるものが湧き出させるエネルギーを、「思考」が「!」とでも表記できる感覚で捉え、新たな行動につなげるものと述べましたが、ここで書いた流れが、その内容を具体的で豊かなものにしていく過程だと理解頂くと良いでしょう。 その先もここで手短にお伝えしておきましょう。そうして「今向かうべき成長」として「魂」と「命」が返してくるものが、次の視野となる「真の強さ」を経て「否定価値を捨て去ること」へと成熟していった時、私たちは「否定価値の放棄」を成し、「望み」が大きく開放されることになります。さらにその先です。 そこで同じ一貫とした姿勢を、引き続き心に向けるのです。「向かうべき成長」は何か。すると「魂」と「命」は、「開放される望みに向かい続けること」だという答えを、返してくるでしょう。現実においてそれがいかに叶えられるかではなく、いかに望みに向かい続けることに自らを尽くせるかに、心の成長と豊かさがあるのだと。 そしてさらに同じ一貫とした姿勢を、心に向けるのです。「成長の望み」は、「望みに向かい続けることへの望み」になるでしょう。それと共に「真実の望み」を心に向けるのです。すると今度は、「魂」と「命」は、「向かうべき成長」の答えを返してくることからさらに一歩進んで、「魂」と「命」そのものを返してくるようになるのです。 それは「魂の望み」「命の望み」です。それが「魂」と「命」そのものなのです。「魂」と「命」とは、「望み」という名の「エネルギー」なのです。それが「真の望み」です。 これが、「自分を超えたもの」が、その実体の内容としてはっきりと心の視界に捉えられ始める、「「真の望み」に向かう心の成長の4段階」で言うところの「第4段階」になります。 それを伝えておくのと同時に、ここでお伝えしなければならないことがあります。 「成長の望み」という大きな駅にまで至り、この先に「否定価値の放棄」という最終下車駅が待っているのですが、この心理学の道案内は、もうここまでなのだということです。 これは少し怪訝(けげん)に感じられる方もおられるかも知れません。「否定価値の放棄」までは、ハイブリッド心理学が道案内するのではないのか、と。その先は自分の唯一無二の望みを羅針盤に、自分の足で方向を定めて歩いていくのだとしても。 そうではありません。「今自分が望む成長」とは何か、「今自分が成すべき成長」とは何かを問う段階において、もうこの心理学が道案内するのでは、なくなるのです。 それを今説明してきたところです。「望み」の「内容」の答えは、自分自身の心に中にしかないのだと。人に言われてそれを望むようにするというのではないのだと。 ではそれは、「未熟と病みの大海」から「命」という山の頂きに至るまでのこの道のりの、どの段階からか。 最初からなのです。あなたが今もし「未熟と病みの大海」の断崖にあえいでいるのであれば、そこから自分を救うために今自分が成すべき成長とは何かを、こうして述べてきた姿勢によって、自分の足で立って模索することから、始めるのです。あなたには、そうして自分の足で立って歩く力があるのです。少なくとも、自らこの心理学を手に取ったのであれば。 「真実への歩み」の営み こうして話は、「何を前進への動機として進むのか」という最初の話に、つながってくるのです。 今の自分にとって決定的な成長前進の一歩とは何なのかを知り、それに向かいたいという動機によってこそ、私たちは実際にその前進の一歩を踏み出すことができるのだという話へとです。 それとは異なるものを動機にして取り組んだところで、心は成長変化に向かうことはできない。その筆頭と言えるのが、この心理学で説明するような成長した豊かな心の持ち主になることで、人からの尊敬を得たいといったものになるであろうと。 そんなものではなく、「日常生活の向上」という地道な歩みの中でまず培う「目的思考」の先に、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を築き、「成長」を実際に体験する中で、自らの「成長の望み」に向き合い、そこに、「日常生活の向上」の地道な歩みの中で向けたのと同じ「真摯さ」による「真実の望み」を自らの心に向けた時に、「命」が返してくるような重みで感じ取れる、「今自分が望む成長」を動機としてこそ、私たちは実際にその前進の一歩を踏み出すことができるのだということです。 そしてそれは、人に「次はこれを望むようにしましょう」と言われて望むようなものではない。 一方で私は、それに近いようなことを述べてきました。そうした前進への動機となるのは、まずは3つになるであろうと。まずは「自分を悪感情の洪水から救い上げる」ためであれば、「依存の愛」を手放すことであり、次に「真の強さを体得する」ということになるであろうと。そして最後は「自らの魂に向き合う」というものに向かうであろうと。そしてそこから、そうした「前進への動機」を、そもそも人はどのように感じ取り得るのかという、詳しい意識過程の説明を始めたわけです。 そして道案内できるのは「今望む成長」を感じ取る姿勢までであり、その具体的内容から先は、もはやこの心理学で道案内するのではなく、それぞれの人が、それぞれの足で立って歩いて探していくものになる、と述べてきたわけです。 それでもその先に、この心理学は、「否定価値の放棄」という最終下車駅までの道のりと、さらにその先に訪れるであろう未知の異次元の世界への心の成長の道のりまでを、示すのです。 これはどういうことか。 それが、私たち人間の、「真実への歩み」の営みなのです。 それは決して、人に聞かされ分からせてもらうような形で得られるものではなく、それぞれの人が、それぞれの足で立って歩いて、探っていかなければならないものなのです。私たちはどのような生き方をすると、心と人生はどのように移り変化していくのか。どのように行動した時、感情はどのように変化するのか。それをあらかじめ分かって、一つも辛い目や痛い目に遭うことなく行動することができれば完璧だという、まさに成長を知らないからこそ抱く「真実の幻想」を捨て、多少とも手痛い体験も経て「身をもって学ぶ」先に、私たちの心は、本当に自分から「幸福」に向かう道を歩むものへと、根底から変化していくのです。そしてその先に、私たち人間の「真実」が見えてくるのです。人生の幸福は、どこにあるのか。真の心の豊かさとは、どのようなものなのかの、答えがです。 そうしてそれぞれの人が歩むことができた道のりを、「こうだったよ」と人に伝えることはできます。こんな目印があって、正しいのはこっちだった。こう見えるのは誤りだった。こう進むとこんな変わり目があって、それを過ぎると風景がこんな風にがらりと変わった、と。 それはこれから、人生の道のりを歩もうとする人にも、役に立つでしょう。同じように人生の生き方に悩み、模索しようとしている、同じ人間なのですから。そこでそれぞれの人が、それぞれの足で立って歩いていく中で、似たような分岐路にさしかかった時、その見え方についてあらかじめ多少とも知っていたなら、そうでないよりははるかに無駄な惑いをすることなく、早く気づくことが可能になるであろうものして。そこに人生の重要な分岐路があり、正しい道と誤った道はこれなのだ、と。 そしてそのようにして先人の言葉も役立て、自分の足で模索し、自分の目で見ることのできた答えが、まさに先人が語ったものと同じゴールに至るものであることを見出した時、人はそれが「真実」であることを確信し、それをさらに後の人に伝えていくことに、意義を見出すのです。それが自分を救ったものであるほどに、熱い思いの中で・・。 しかしそれは、自分の足で歩くことなく正しい道を行った先にまで運んでもらうというのとは、あるいは自分でしっかりと見ることなく人に手を引かれて正しい道を通っていけるというのとは、全く違うのです。自分の足で歩き、自分の目で見るからこそ、それは見えるものなのです。 それを今度は、「私の通った道こそが真実だ。その通りにしなさい」という言い方をするようになった時、あるいは「その通りにすればいいのか」という受けとめ方をするようになった時、真実はまさに失われるのです。「知識」としての真実の問題ではありません。その人の生き方、心、そして人生のあり方の真実の問題としてです。それは「自分は知っている、分かっている」という表面の「意識の高さ」の感覚とは裏腹に、豊かにはなれていない心という問題です。それはまるで、表面だけ美味そうに見えて中身はまるでできていない料理のように・・。 ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」 そのように、私たちの人生の生き方において、「まず形から真似てみる」ということが十分役立つ意義のあるものを「思考法」「行動法」「意識法」あるいは「姿勢の取り方」などと呼ぶとして、「形として真似てみる」というのでは全く役に立たず、それぞれの人が模索の中で、その真偽を探求し確かめていくことの中で、「形で真似てみる」ものをはるかに超えた大きな「気づき」の役割を与えるものを、「生き方の思想」と呼べるかも知れません。 もちろんそれを「思想」と呼ぶのが良いのか、それとも他の分かりやすい言葉で呼ぶのが良いのかは、どうでもいい話です。重要なのは、それは「形で真似てみる」のではなく、「それぞれの人がそれを自分のものとするかどうかを問う」ものだということです。「その通りにしてみる」などというものではなく、「それぞれの人が自らの生き方の思想を打ち立てる」ものとして、獲得していくものだということです。 ですからそれは、「「学び」とのギャップを生きる」というこの歩みの基本的な取り組みの姿勢の中でも、特に、「「学び」への入り方」で、「最初の一歩」を過ぎたら「自分自身の考えによって成長変化に向かう」のであり、この心理学の考え方には納得せず「ノー」を突きつけるという道もあると述べた側面が、重要になってきます。「「学び」への姿勢という最大のポイント」でも繰り返した通り。 そうしたものとして、この列車の旅路における、「成長の望み」から先の道のりがある、ということになります。 そのための、ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」を、ここでまとめておきましょう。 それは「心の成長」とは何かの基本的な考え、「望み」とは何かの視野、「望みの成熟」への視野、「治癒と豊かさ」への視野、そして歩みを前進させる「成長の動機」への視野。この大きく5つの視野から成るものだと言えます。 まず最も基本的な考えを、「「心の成長」とは「望みの成熟」」で述べました。「心の成長」とは、「望みの成熟変化」である。「命の生涯」とこの心理学で呼ぶ摂理が、それを根底で支配しているものとして。 「全てを尽くして望みに向かう姿勢」で生きることが、「望み」の内容を徐々に「未熟」から「成熟」へと変化させる。それが「心の成長」である。 「変化」することに「成長」があるのですから、「これを望むように」という「枠はめ」によって、「望み」を「未熟な望み」に固定化させてしまわないことが重要になってきます。「望みの成熟変化」に自ら向かうことができるような、広い心の視野を持つことです。また私たちは「心の業」によって、自分の「本当の望み」を見失いがちな存在であり、「心の業」の捨て去り克服が重要になってきます。 それに向かうために私たちが持ちたい心の視野とは、私たちの「望み」とは結局何なのかと、自分がたどるべく「命の生涯」に用意されている「望みの成熟変化」とはどのようなものかになるでしょう。 そこから、それに沿い向かうための、より具体的な思考法行動法や姿勢の取り方という方法論との、着実なつながりがあるということになります。 私たちの「望み」とは結局、最も基本的な言葉で言うならば、次の4つの言葉に表されるものだと私は感じています。 「愛」と「誉れ」、そして「自由」と「平安」です。 もちろん衣食住の豊かさを望むのは自明の前提として、人と社会の中で生きる「人生の望み」としては、という話です。 そこで「愛」と「誉れ」は、「愛」というより大きなくくりの中にあるバリエーションとして理解することができるでしょう。「愛」には、親子の愛、特定の異性への愛、人一般に対する愛という3種類を主に考えることができます。「誉れ」とは、自分が尊敬と祝福を受ける存在になることです。 「自由」と「平安」については、ここではそれ以上の言葉はいらないでしょう。これは「愛」と「誉れ」のように感情の方向性を特定するものではなく、「得たいもの」として望むものというよりも、「失いたくないもの」として望むものと言えるでしょう。また「自由」と「平安」は自分の内面において、いわば「自己完結的」に築くことがあり得るものであるのに対して、「愛」と「誉れ」は必ず、人と社会との関係においてテーマになります。 これを俯瞰し、ハイブリッド心理学では、人と社会の中で生きる私たち人間の「人生の望み」とは、結局、「愛」という単一の軸の下にあるもの、という考えを取っています。 これをすぐ「愛を大切に」といった平易な言葉につなげたところで、それだけでは「心の取り組み」も「心理学」もありません。事実はここで、そんな言葉では済まないほど、すでにかなり複雑なのです。「愛」を望むことはしばしば、「自由」と「平安」を犠牲にするからです。そして「自由」と「平安」が損なわれた時、「愛」も損なわれるのです。少なくともこの複雑さへの視野を持った時に、「心の取り組み」と「心理学」が始まります。 私たちの心と人生の「真実」への視野は、その「愛」という大きなくくりの「望み」が、「命の生涯」においてどのような「成熟変化」をたどるのかへの理解、もしくは考え方によって生まれます。 ハイブリッド心理学では、それは次のようになると考えるのです。これが、ハイブリッド心理学の取り組みの全てを決定づけるとでも言えるほど、重要になってきます。 それは、「依存の愛」から、「自立の自尊心」を経て、「成熟の愛」へと向かう、というものです。 順調で健康な成長においてそれは、親から子への自然な愛によって、愛され守られるという「依存の愛」の望みが満たされることによる素朴な安心感を足場に、自然と「自立」に向かい、「誉れ」の望みに向かう中で得る「自尊心」をいわば手土産にして、異性の獲得へと向かい、やがて子を産み育てる中で、「与えられる側」から「与える側」への転換を果たす先に、人生の望みを十分に果たした充実感の中で、もはや何を躍起に求めることもなく心は豊かな感情に満たされ、その生涯を閉じていく、というものになるでしょう。 親が子への自然な愛を見失った時、この心の成長の流れが、連鎖的に妨げられてしまいます。「依存の愛」は満たされることなく、心に安心感が生まれないまま、「自分は愛されない」という心の闇の感情を心の底に抱え、「自立」へと力強く向かうことができず、「与える側」への転換を成しながら人生の望みを十分に果たすこともままならず、くすぶった心で生きてしまいます。 重要なのは、妨げられたケースにおける解決がどうなるのかについての考え方です。これは「治癒克服の思想」と言えるでしょう。 ハイブリッド心理学では、それは最初に満たされなかった「依存の愛」を、遅ればせながらに「与え直す」ような方策を取ることで回復するという期待的発想は、それ自体が「自立」が妨げられて起きる発想の表現であり誤りであると考えています。そうではなく、たとえ最初の「依存の愛」に躓きを抱えたとしても、健康な成長の場合に必要となるのと同じ、「自立」への視野を培い、向かうのです。それによって単に「健康な成長」を引き出すのを超えた「治癒と豊かさ」の力が、「命」によって引き出されるのです。それは躓きを克服したからこそ生まれる、「豊かさ」なのです。 私たちの意識姿勢において重要になるのは、最初の躓きに自ら固執しないこと、「愛」という大きなくくりの「人生の望み」から目をそらさずにい続けること、そして最初の躓きをどのように抱えていようがいまいが一貫として心の健康と成長に向かい得る思考法行動法を学び、実践していくこと。この3つの柱です。 一貫とした思考法行動法については、これまで詳しく説明してきました。心の外面と内面にわたるものとして。それが、最初の躓きの程度に関わることなく、一貫として心の健康と成長に向かい得るものなのです。 その過程で、果たすべきことがあります。「否定できる価値」という心の根底の感覚を、捨て去ることです。なぜならこれがまさに、最初の躓きに自ら固執し、「愛」という人生の望みから目をそらすものとして、私たち人間の心の底に、強固な「業」として生み出されたものだからです。なぜなら「否定できる価値」とは、「こうであれば尊敬され愛されるべき」という「あるべき姿」の観念が、その大元で抱いていた「愛」への望みの純粋な感情を見失ったまま一人歩きし始め、そこに「依存の愛」が妨げられたことによるすさんだエネルギーが生み出した破壊攻撃性が結びつき、自ら固執する形で、「あるべき姿に満たないもの」を否定できることに価値を感じる衝動として、私たちの心に、巨大に生み出されたものだからです。 その「否定できる価値」という心の根底の感覚を、心底から捨て去る「否定価値の放棄」の転換を成した時、心の底で蓋をされ目をそらされていた、「愛」への「人生の望み」が、その大元の純粋な感情の姿で開放されます。それに向かって、引き続き一貫として心の健康と成長に向かい得る思考法行動法で生きた時、心の成長と、治癒と、豊かさへの「命」の力が開放されるのです。 そしてこの流れの前進の全てを導くのが、私たちの意識実践においては、「成長の望み」と、その内容の変遷になるのです。 その内容の変遷とは、「次にこれを望むようにすれば」と意識で「枠はめ」するものではなく、「命」がつかさどるものです。私たちにできることは、それに心の耳をとぎ澄ませることです。 つまり、心の健康と成長に向かい得る思考法行動法をたずさえて生きる中で、「今自分が望む成長とは何か」「今自分が成すべき成長とは何か」を、自分に押しつけ枠はめするのではなく、「問う」のです。「成長の望み」と、「真実の望み」と、共に。 すると心の方から、その答えが返ってくるのです。それは「命」が返してきたものです。 ハイブリッド心理学では、このように、「愛」というただ一つの「人生の望み」へと回帰し、「望みの成熟」に向かうためのものであることに対応して、私たちの心の成長を導く「成長の動機」つまり「成長の望みの内容」となり得るものを、たった3つだけ示します。「依存の愛を手放すこと」「真の強さに向かうこと」そして「魂の望みに向き合うこと」と。 これがハイブリッド心理学の「心の成長の思想」だと言えます。それぞれの人が、その真偽を、それぞれの人生を通して探求するが良い、と言えるものとして。 |
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2013.3.2 |