1.ハイブリッド人生心理学とは 2.「取り組み実践」への理解 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) 3.学びの体系 4.メール相談事例集 |
2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』 として無料電子書籍化しました。今後の更新は電子書籍側のみになります^^。 |
2.「取り組み実践」への理解 - 続き (11)ハイブリッド人生心理学の「否定価値の放棄と望みの浄化成熟」の思想
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「悪感情」と「良い感情」の根源と「否定価値」 ハイブリッド心理学が「取り組み実践」の「ひとまずの習得達成目標」と位置づける「否定価値の放棄」とは、「望ましくないものを否定できることに積極的な価値を感じる感覚を、心の根底から捨て去ること」だと定義できます。 ここでは、その克服の一助として、「否定できる価値の感覚」(「否定価値」)の位置づけから考える克服へのアプローチをざっと書いておこうと思います。 まず、「否定価値」の悪影響の、最も大まかな理解を書いておきましょう。 私たちの心に生じる「悪感情」は、もちろんその全てが「否定価値」によるもの・・ではありません。私たちの「悪感情」には、大きく、心の外部と心の内部の2つの根源があると理解すると良いでしょう。 「悪感情」は、まず最も基本的な仕組みとしては、心の外部の「外界現実との関係の悪化」によって起きる、と理解することができます。 「外界現実」とは心の外にある、生活環境のものごと、人と社会、そして自分自身の身体と身の回りのものごとと出来事の全てです。そうした「外界現実」との「関係の悪化」とは、たとえば望む衣食住が損なわれることや、人や社会との関係が悪くなること、自分の身体の怪我や病気などがあります。 そうした「外界現実との関係の悪化」によって、「悲哀」「憂うつ」「嘆き」「怖れ不安」「怒り」などの「悪感情」が湧き、私たちの心はその「悪感情」を取り除き消し去るべく「外界現実との関係」を良くするための活動に向かい、それがうまく行くことで「喜び」「楽しみ」「安心感」「充実感」「幸福感」といった「良い感情」が心に湧きます。 これが私たちの心と脳の基本的な機能であるわけです。私たち人間を含めた全ての動物における、心と脳の基本的な機能だと言えるでしょう。 人間の場合、そうした基本的な心の外部が根源の悪感情に加えて、心の内部が根源の悪感情が起きるようになります。これによって、人間の心は他の動物一般よりも、自分から不幸に傾いていく傾向があると言えるでしょう。 ここでは、そうした悪感情の心の内部根源に、2種類のものがあると説明しておきたいと思います。 一つをここでは「心の闇の感情」と呼んでおきます。これは「記憶」に由来する、悪感情の内部根源です。 つまり、来歴における何か悪い体験の記憶を引きずることで、その後の人生において、ものごとに対して不合理に否定的な感情が起きたり、肯定的な態度を取れなくなってしまうというものです。例えば、人に接することを常に怖れたり、心を開くことができず常に身構え、懐疑的に接してしまうというように。「トラウマ」などとも呼ばれる心の仕組みです。 そしてもう一つの根源が、「否定できる価値の感覚」になるわけです。「否定できる」ことに、「積極的な価値」を感じるという心の傾向です。 これが最も平易な表現でそれが表れる姿を言うならば、「アラ探し」の姿勢です。望ましくないものを見つけ出し、積極的に取り上げ、否定して叩くことに価値を感じる姿勢。それが、自分と他人そして世界の全てに向かうのです。 この「否定価値」も、「心の闇の感情」があって生まれたもののようにも思われます。来歴において、何かの満たされない思い、あるいは行き場のない憤懣が、あったのです。しかしそれを「引きずる」ことで否定的な態度を「取ってしまう」のを超えて、もはや「否定できること」に自ら価値を見出す姿勢。まるで来歴の否定的体験を「バネ」にするかのように。 「否定できる価値の感覚」は、あるいは時に、はっきりとした道徳思考、あるいは人生哲学の思考として意識され、主張されることもあるかも知れません。「正しければ怒って当然」とか、あるいは「怒ることが人間の最後の自由権利なのだ」とかの言葉をかつて何かの著書で見かけた記憶があります。そうした言葉の裏に、あるいは、それを言う個人の心の奥底で、それをバネにすることで置き去りにされた、人生の躓きがあるのかも知れません。「愛」を軸にした、「命の生涯」の始まりにおける何かの躓きが・・。 最近TVで、自分に直接関わりはあまりない他人のちょっとした行動を取り上げ、「私はこれこれに怒りを感じます」といった投稿を取り上げる番組があり、司会をしている芸人タレントの言葉の掛け合いが面白くて時折見ていますが、これなども「否定できる価値の感覚」の表れとして分かりやすい日常場面と言えるでしょう。 この「否定価値」は、「悪感情の克服」という私たちの心の基本目標に対して、3つの側面で悪影響をもらたすと言えます。 悪感情の発生を基本的に増大膨張させるという側面と、悪感情の克服方法に2つの形で蓋をするという側面によってです。 悪感情の増大膨張は、「否定価値」がもたらす悪影響として言うまでもないものです。 それはまず、悪感情の基本的な根源である「外界現実との関係の悪化」に、自ら目を向け取り上げる姿勢によってです。まるでそれを歓迎するかのように。それはしばしば、外界現実と自分との間にあるさまざまな良い面の全てを無視し、悪い面だけにまるで顕微鏡で見入るように取り上げる姿勢です。しばしば、ものごとはそんな悪い面だけではなく良い面もあるという人の言葉を、断固として拒否する姿勢も伴いながら。 さらに不可避に加わる悪感情の増大膨張は、そうして自分から積極的に心に起こした悪感情に対して、そんな悪感情を味わうとはあってはならないものだという否定の感情を再び向けるという、「自己循環膨張」のメカニズムによって起きます。 これは心の外部根源の悪感情のみならず、心の内部根源の悪感情に対しても当然働きます。「心の闇の感情」については、「否定価値」はしばしばそれをバネにして動いていることにおいて、多少麻痺が起きるのですが、それでも漏れ出る「心の闇の感情」を、「否定価値」は許すことができません。こんな陰うつな感情などあってはならない、と。さらに、「否定価値」が生み出す否定の感情そのものを、「否定価値」は許すことができないのです。こんなマイナス感情はあってはならない、と。 これらの結果、「否定価値」の下にある心は、ちょっとした悪感情要因を捉え、一気に「何もかもが許せない」「全てが駄目」といった巨大な否定感情へと容易に膨張爆発し、「希死念慮」や「自殺衝動」につながりやすいのです。深刻なものになると、他人への無差別的な攻撃衝動、殺傷衝動にもつながりやすいと言えるでしょう。 「否定価値」は、悪感情の克服への道を、大きく2つの側面で塞ぎます。 一つは、「外界現実との良好な関係を築く」という、最も基本的な克服の道に、ほとんど向かえなくなることとしてです。 ものごとの良い面よりも悪い面に目を向ける結果としてというよりも、悪い面に否定を向けることが、人や社会に対する行動法の基本になることによってです。しばしば、本人はそこにある「意識の高さ」が、相手のためにもなることだという高潔感を抱きながらも、それによってこの人に親しみを感じることができる人はほとんどいないという状況としてです。 そうして人との関係において良好なものがなかなか築けないのが顕著である一方、社会との関係においては、「否定価値」にしばしば伴う完全主義、完璧主義的傾向や、批判眼の高さが、「仕事」などの面で高い業績に結びつき、逆に効を奏するかのように見えることもあります。しかしこの人の仕事の仕方は、概して「敵対的」です。利害が衝突する相手のみならず、利害を共にするはずの、職場の仲間に対しても。 説明を少し追加しておくならば、仕事などで高い業績につながる完全主義、完璧主義は、別に「否定価値」の中でなくとも持つことは可能です。その場合の違いは、必要に応じて完璧でないものも許せることです。「否定価値」に伴って抱く完璧主義は、そうした融通が利かず、「駄目だ」という主張を独善的に続けることで仕事の進行に支障をきたすといったこともありますので、「否定価値」と結びついていない完璧主義の方が望ましいのは言うまでもありません。 「否定価値」によって塞がれる「望みの感情」 「否定価値」は、悪感情の克服への、もう一つの大きな道を塞ぎます。 悪感情の克服のみではなく、「自ら幸福になる能力の増大」である「心の成長」を生み出す、人生の前進の道そのものをです。 つまり、「望みの成熟」の道を、塞ぐのです。「望みの成熟」の根底にある、「命の生涯」を、閉ざすのだと言えます。「望みの感情」を、塞ぐことによってです。 「悪感情」を消し去り、「良い感情」を心に満たす道が、大きく2つあるということです。つまり、「良い感情」の根源にも、やはり心の外部と心の内部があるのです。心の外部の良い感情の根源が、「外界現実との関係の良さ」です。そして心の内部の良い感情の根源が、「望みの感情」の中にあるのです。 心の内部が根源になる良い感情の実現と言うと、何か超越的な悟りによる悦楽の心の境地を説く宗教的な取り組みを思い浮かべる方もおられるかも知れません。あるいは「ランナーズ・ハイ」と呼ばれるような、脳内に幸福感を感じさせる分泌物が放出される現象を思い浮かべる方もおられると思いますが、ここでの分け方としては、自分の身体という心の外部つまり「外界現実との良い関係」による良い感情という分類になります。 ハイブリッド心理学では、そうしたものではなく、「望みの感情」という基本的な心の仕組みの中に、心の内部が根源の良い感情が起きるメカニズムがあるという考えを取っています。 つまり、「望み」が「成熟」していくごとに、あるいは「望み」が「成熟」に向かう変化の際に、外界現実との良い関係が得られるかどうかに制約を受けないものとして、「望み」において良い感情が湧くというメカニズムがあるのだ、と。「望み」が、「与えられる」ことから「自ら与える」あるいは「自ら生み出す」ことへ、やがて何も躍起に求めることなく心が豊かな感情に満たされるものへと変化する、「望みの成熟」の変遷においてです。 それはしばしば、外界現実との良い関係が得られない失意を、凌駕するものとして現れます。たとえばその一つの例が、私自身の『悲しみの彼方への旅』において、恋愛感情が未熟ですさんだ色合いのものから浄化されたものへと変化する最初の場面として描かれています。片思いの下級生が教室に来ない失意の中で、自分の感情を受け入れて前に進もうという意志と共に、私の心に、初恋の時に体験したのと同じ、一人の相手を愛する気持ちに包まれた、穏やかな感情が甦ります。その時、私の中で失意は消えているのです(P.98)。私自身がこの本の中で最も好きな場面の一つです。 その例も示すように、失意を凌駕するように心を包む良い感情になる「望み」とは、「ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」」で「命の生涯」に用意された単一の軸としてあるものと述べた、「愛」への望みであるとハイブリッド心理学では考えています。「愛」と「誉れ」という2つの総称としての、「愛」への望みです。 これが同じ「望み」でも、「金儲けへの望み」となると、失意を超えて心を豊かに満たすようなものには、到底ならない。そこにおいて「外界現実との良い関係」を得られなければ、フラストレーションあるのみでしょう。さらに、同じ「愛」ではあっても、勝ち負け勝負のようなニュアンスを伴う恋愛も、そうした豊かさには向かわないものです。 なぜならそれは、「命」が抱くものである「真の望み」に対して、何か「嘘」がある望みだからです。これは「「心の成長」とは「望みの成熟」」でも述べた通りです。「嘘」がもたらすストレスが、一刻も早く現実にそれが叶う満足以外を受けつけなくなるから、というメカニズムが考えられます。 取り組み実践としては、まずはそれらの「望み」の感情をありのままに心に開放した上で、そこにある「嘘」と「真実」を見極めていくような「自己分析」が役に立つものになります。「金儲け」への「望み」であれば、お金というものが何の役にも立たない人生の場面への視野を広げると共に、金儲けの先に自分が求めているのは何なのかの分析が役に立つでしょう。それは何か、人々を見返す勝利のようなものかも知れません。その底に、人の輪に入れなかった幼少期の悔しさのような、「心の闇の感情」が、あるいは見えてくるかも知れません。勝ち負け勝負のような恋愛においても、「自己分析」は、それが何か本当に求めていたものに愛されなかったことへの「腹いせ」を帯びていたものであることを暴く可能性が高いでしょう。 そうした「自己分析」の先に、やがて心が本当に望んでいたものの琴線に触れ、涙が流れ始めた時、「望み」は浄化され、「命」が抱く「真の望み」へと近づいていくのです。これが「人生の前進と「望み」への向き合い」で説明した、「未知への前進形」の自己分析になります。その中で、その人は少し前のその人とは、別の人間へと変化していくのです。自分自身の中に嘘を持たない、「命」のストレートなエネルギーによって生きていく人間へと・・。 こうした「自己分析」の奥深い効果も含めた、「望みの成熟変化」の全てが、まずは、未熟な望みであれば未熟なりに、ありのままに、「望みの感情」を心に開放し感じ取ることから、始まるのです。 心の中に開放された、「嘘」の要素の少ない「望みの感情」が、それに向かうだけで、「現実に叶う」かどうかを問うことなく心を豊かに満たすというのは、「自ら向かう」という「自己能動」の中にあってこそ起きるものだと、この心理学では考えています。「望みの感情」に自ら向かう時、それが現実においてどのような結果になるかまでの「時間」が必ず生じます。その結果保留の時間において、「自ら向かう」という「自己能動」の、いわば脳の活動モードによって、幸福感が伴ってくるというメカニズムなのであろうと。これが「自ら向かう」のではなく、「人の目」などを通して「与えられる結果」ばかりを待つ、「自己能動」ではない「受け身依存」だと、こうはなりません。 それでも、自分が「与えられる」場面を思いっきり空想して心に描き、「自分はこんな場面を望んでいるんだ・・」と、「望みの結果」ではなく「望みの感情」として十分に感じ取ることができると、そこに「望みの成熟変化」が始まると言えそうです。つまりそもそも、「結果」ばかりを早急に求める焦りを脱して、「望みの感情」として感じ取れること自体が、「自己能動」の始まりであり、「自分の感情を自分で受けとめる」という「心の自立」の始まりなのです。そしてそこに、自己能動の脳の活動モードが始まるという次第です。 いずれにせよ、こうしたさまざまな形の「望みの成熟変化」の全てが、まずは「望みの感情」を、ありのままに心に開放し感じ取ることから始まるのです。 「否定価値」は、これらの全てを、塞ぐのです。 なぜ「否定価値」によって「望みの感情」が塞がれるのかは、極めて単純です。 これは「否定価値」と「望みの感情」のどちらも、「望ましい姿」「理想」から始まることを考えれば分かりやすいと思います。つまり「望ましい姿」「理想」という同じスタートから、「否定価値」はすぐにそれが「そうではない現実を叩く」ことへと向かうのです。そして「理想」というものが、基本的に「現実」がまだそこに達していないものとして描くものであることにおいて、「否定価値」の下にある心においては、「望ましい姿」「理想」から始まる感情はほぼ常に「そうではない現実を叩く」ものとして動くことになります。望み願う感情を体験することはないものへと。これは山の頂点から流れ始めた水が、もし北の斜面に流れ始めたのなら、その水はもう南の斜面を流れることはないのと同じ、極めて単純なことです。 これも説明を追加しておけば、「否定価値」を持つ心においても「望み」が断片的に体験されることはあります。その場合「望み」の内容は、神がかりしたような圧倒的な魅力を他人に感じさせる自分といったものになる傾向があるのが、私自身の体験やさまざまな事例から感じられる印象です。「否定価値」が「自分が神になろうとする衝動」だという話と、実に関係があると言えるでしょう。一時的断片的に体験されるその「望み」は、本人にとっても浮き足立った、不安定な心の状態として感じられるので、概して感じることは危険なものとして飲み込んで蓋をされる傾向があります。 そうして「自己理想」を抱くことがほとんど常に自己嫌悪にしかならない心の状態になった時、自己理想など持たないのが良いのかという観念も起きがちですが、それが完全な誤りであることは言うまでもありません。問題は自己理想の内容にではなく、それをめぐる心の根底の姿勢にあるのです。 なお「望みの感情」を感じ取れない傾向というのは、その全てが「否定価値」によるものではありません。 基本的な心の未熟さや依存性によって、「望みの感情」は感じ取れない状態になるように思われます。まず人にどうこうしてもらうという意識の中にあることによってです。そして未熟とは大よそ、自らの未熟を認めることができないものです。自分の未熟さを認めることができるようになるのが成長です。その結果、自分が望んでいるとは認めることができないまま、そうならないと怒るというのが典型です。そこに「善悪思考」が加わることで、さらに自分の未熟さを認めることできなくなるという問題が起きがちです。 また現代人の基本的な依存性というものもあるように思われます。社会が高度に発達し、さまざまな「情報」や「刺激」が、自分で何を望んでいるかを意識する間もなく飛び交っている時代です。それに流されて生きるという姿にもなりがちでしょう。 それらにとどまることなく、「自らによる成長」への歩みを選択した時、私たちは、心の成長と人生の前進の全てを導くのが「望み」であることと同時に、それを大きく立ち塞いでいる、「否定価値」という心の業の本尊とも言えるものの姿を、知るのです。 「否定価値」を弱めるものと対抗打になるもの そうした「否定価値」の悪影響に対して、ハイブリッド心理学の取り組み実践がどのようなものとしてあるのか、再びおさらいしてみましょう。 「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」でもまとめたように、まず「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」から「望み」を頂点とした「目的思考」という、思考の素地を培うことです。そして、「「善悪」「評価」「気持ちの枠はめ法」の思考への終始」や「強度な「空想に生きる心」」といった基本的な妨げにも取り組みながら、「学びの姿勢」と「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という、人生の前進のための心の足場を築くことです。 そしてそうした思考の素地と心の足場に立って、まずは「人生の前進と「望み」への向き合い」にまとめたような、衣食住の身の回りから対人関係、そして生活のための経済的基盤までの、人生の前進のための、外面における具体的な足がかりを材料にして、「「学び」の一覧表」にまとめた「学び」を得ていくのです。まずは「思考法と行動法の基本」と「日常生活と社会生活の向上」をメインとしたものになるでしょう。 さらにそこに、これも「人生の前進と「望み」への向き合い」でまとめたような、「心の依存から自立へ」の転換による、また「愛」と「自尊心」という心の成長テーマにおける方向性の違いによる、感情の推移変化、さらには行き止まりの自分の心を見つめる苦しみが「心の死と再生」の治癒になるといった心の仕組みなど、内面の足がかりにも目を向けることが、「学び」が示す行動法へと自分を向けること、あるいはそれとの「ギャップを生きる」ことの中で起きる心の成長変化を、着実に導くものになるでしょう。 まずはそこまでの思考の素地と心の足場を培い築き、人生の前進への具体的な外面の足がかりにおける「学び」を得ていくという歩みに、向かうことです。 その歩みに向かうならば、まず言えるのは、そうした「取り組み実践の歩み」が自ずと、「否定価値」を根元から弱らせていくと共に、強力な対抗打を打ち出していくものになるということです。 「否定価値」を根元から弱らせていくのは思考の素地と心の足場であり、対抗打になるのは「学び」の先にある具体的な行動法の内容であることを、しっかりと押さえて下さい。 「学び」の先にある具体的な行動法とは、「「成長変化する人」と「いつまでも変わらない人」」で、メール相談で行うものとして述べたような、「内面のストレスを減らしながら外面の問題解決に効果的に役立つ行動法」であることが重要です。それを、「「学び」への入り方」で述べたように、メ−ル相談で自分がアドバイスする側に立つような感覚で、実際に考えることができるようになることが、まずは目標です。もちろん最初から自分で全て考えてみるというのはちょっと無理無駄がありますので、メール相談事例を読むなり、「ハーバード流交渉術」なりの情報を得て学ぶことを結構行ってからが良いでしょう。 そうして具体的な問題場面での行動法を考えられるようになることと合わせて、「基本的な流れ」で述べたように、心の健康と成長に向かう行動法として幾つかの選択肢として出てくるものの中から、自ら幸福に向かうための行動を自分で選んでいくことができるようになることが、「取り組み実践」の基本的な歩みができるようになった段階として、目標になります。そうして「学び」が導く行動法を自分で考えることができるようになった時、私たちは行動法の達人となり、そこから自分を、今、成長と幸福に向かわせるための行動を自らで選択できるようになった時、私たちは人生の生き方の達人になるのです。 そのように具体的に見出されていく行動法の内容が、私たちの心に潜む「否定価値」への、強力な対抗打になるのです。 それが持つ、もはや疑う余地のない、自分にもたらすであろう利益によってです。自分の成長と幸福という利益によって。 つまりそれによって私たちは自分の心の前に、魅力溢れるニンジンをぶらさげるのです。心は自ずと馬力を持ち始めます。「やる気を持たねば」と自分の心に見入る必要もなく。自分の心に見入るのではなく、心の外に、目を向けるのです。 「否定価値」の対抗打になるのは具体的な行動法の内容であり、思考の素地や心の足場ではないとは、たとえば「プラス思考」が「否定価値」の対抗打になるのではない、ということです。 そもそも「プラス思考」が「ものごとの悪い面ではなく良い面に目を向ける思考法」であれば、それは「「学び」の一覧表」の「思考法と行動法の基本」の中に入れてさえいない、心の健康と成長にとって特にお勧めでさえないものです。特にそれが、ものごとをとにかく良く考えることで感情を良くしようという、短絡的なアプローチである場合は。それは「気持ちの枠はめ」という、むしろ心を病む方向にさえなる可能性があります。 ものごとの良い面と悪い面を、公平に客観的に見ることがお勧めです。それが「現実を見る目」なのです。そしてそれを足場にした「目的思考」によって見出される行動法の答えの内容が、もはや疑う余地なく自分に利益のあるものになった時、「否定価値」に妨げられることなく私たちを前進させるものになるのです。 そうして「学び」の先に見出す行動法が、自分にとって利益のあるものであることを、疑う余地なく確信できるのも、まさに、自分自身をごまかすような「プラス思考」をやめ、良い面も悪い面も公平客観的に見るからこそのことなのです。自分自身へのごまかしを含んだ思考法行動法では、いつまでも私たちは結局揺れ惑い続けます。 そうしたものとして、「目的思考」など思考の姿勢が「否定価値」への対抗打になるのではなく、「目的思考」による「学び」で得る行動法の内容が、「否定価値」への対抗打になるということです。これは説明がくどくなりますが重要な点です。具体的な内容が伴わないまま「姿勢」としてだけ意識しても、効果がなく、「枠はめ」にも戻ってしまいがちですので。 一方、思考の素地と心の足場が「否定価値」を根元から弱らせていくというのは、「学び」の中の「思考法と行動法の基本」における、「破壊から自衛と建設へ」という、最も基本的な行動様式の方向性転換をいかに「本心」から選択するかと、および成長の月日の積み重ねによる心の成熟と強さの増大によってという2面を、まずは基本的なものと理解頂くと良いかと思います。 「破壊から自衛と建設へ」の行動様式の方向性転換は、「否定価値」への対抗打そのものに近いものでもあります。ただそれが具体的な行動場面での知恵のある行動法の内容を伴わないと、対抗打にはなれないということです。場合によっては心の底から「自衛と建設へ」という行動転換ができる自分を望んでも、実際の場面では怒りや怖れに流されて、「否定価値」が生み出す悪感情に呑まれてしまうということにもなりがちです。 同時にそこで問われるのは、「自衛と建設」という行動様式を、本当に「本心」から自分の行動法の基本にしようとしているのかです。 ありがちなのは、こうして読んで納得関心した時は「そのつもり」になっても、実際の行動場面では全く違う方向に心が向いてしまうものです。まず言って、「これが正しいはずなのに」という「善悪の怒り」によって行動をしようとするものへ。つまり、基本的な妨げとして取り上げてきた「目的思考を欠いた善悪と評価の思考」に、戻ってしまうのです。「行動法の知恵」など眼中にないものへ。 こうした「目的思考を欠いた善悪と評価の思考」と「頭と心のちぐはぐさ」が同居する傾向があることは、「「善悪」「評価」「気持ちの枠はめ法」の思考への終始」でも指摘した通りです。そのことに対して、本人は全く無力という様子で、と。 それが基本的な「未熟さ」というものでもあります。「未熟さ」において、人は頭で考えることと実際の行動がばらばらになり、頭ではただ理想を求め、それに満たない現実を怒るという行動傾向に流れます。そして怒りに流された行動において、自分自身が一番理想とは違う様子であることが目に入ってくると、激しい自己嫌悪に駆られるのです。 「未熟」は大よそにして「不寛容」であり、「成熟」は大よそ「寛容」に向かうものです。もちろん「不寛容」が常に「未熟」の生み出すもの、「寛容」が常に「成熟」の生み出すものという訳ではなく、「未熟」が持つ「寛容」も、「成熟」が持つ「不寛容」もあるでしょうが、一人の人間において「未熟から成熟へ」の変遷は、「不寛容から寛容へ」の変遷でもあるということです。まずは「ありのままの現実」「ありのままの自分」をより十分に認め受け入れることができるようになっていくことによって、と言えるでしょう。 「強さ」が何よりも、「否定価値」を根元から弱らせるものになります。 人は「弱さ」の中で、「怒り」によって否定破壊できることに、価値を感じるのです。あるいは、価値を求めざるを得なくなるのです。意識姿勢において「破壊ではなく建設」を「選択」してさえいても。 「強さ」とは何なのかの理解が、重要になってきます。もちろんここで言っているのは、「人生を生きる」ことにおける「強さ」です。 ハイブリッド心理学からは、それは自らを幸福にできる能力の獲得の度合いと、自分を脅かすものに対して動じなくなることの度合いという、主に2面のことだと言えます。 ならばそのために最初に必要になる、重要なものは何かは明らかです。それは自分が人生で何を望んでいるのかを、自分で十分に分かることなのです。次に、その「望み」を頂点とした「目的思考」に長け、実際の行動の知恵と能力を高めていくことが重要になるでしょう。そしてその積み重ねによって自らを幸福に向かわせることができた実績が増えるほど、私たちはものごとに動じなくなっていくと言えるでしょう。 一方「能力の高さ」は必ずしも「強さ」ではなく、自分を脅かすものを察知認識できない「鈍感」が、逆に「強さ」になる場合もあります。「動じなくなる」こととして。その点、「知覚」の能力をほとんど欠いた、風変わりな容体を持つ深海の生物が、実は最強と言えるのかも知れません。そもそも自分を脅かすものなど全く「心」に届かないことにおいて。ただしもちろんそれで実際に脅威となる天敵に食われては元も子もありませんので、「能力の高さ」とのバランスも重要になってきます。 ですからこの2面は、私たちが心の「強さ」、ひいては「幸福」を目指し求める取り組みの大きな方向性についても、かなり重要な示唆を持つものだと言えるのです。 つまり、まずはもちろん自らの「望み」を原点とした行動の能力を高めるのですが、それと共に、私たちはどこかで、「能力の高さ」の中の何かが生み出した、私たちを脅かすものを感じ取る過剰さを、捨て去るべき時が訪れるのだ、ということです。 その「能力の高さ」の中の何かが、他ならぬ「自意識」であり「空想」なのです。それは確かに、人間の脳の高度な発達が生み出した、「能力の高さ」の一面なのですが、それは明らかに同時に、私たちを脅かすものを感じ取る過敏さを生み出しているものなのです。「惑い」というものを生み出すものとして。それを、どこかで、捨て去るのです。 これがまさに、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」の「習得達成目標」に位置づけられる「否定価値の放棄」および「不完全性の受容」への道を、示唆するものだとも言えます。 「否定価値」との向き合いへ そのように、「学び」の先の具体的な行動法の内容が「否定価値」への対抗打となり、「破壊から自衛と建設へ」の「本心」からの意識姿勢と、ありのままの自分とありのままの現実をより広い心の視野から認めることができるようになる心の成熟、そして自分の「望み」を知り自らを幸福にする能力と共に自分を脅かすものに動じなくなる「強さ」が、「否定価値」を根元から弱めるものになる。 そのような方向に向かうものとして、今まとめたハイブリッド心理学の取り組み実践の歩みがあるのであれば、その先には2つの道筋があることを、ここで言うことができます。 「否定価値の放棄」という、心の奥底の特別な扉を開く選択への深い向き合いを、するものと、しないものとです。 あるいは別の言い方をすれば、それを必要とするものと、必要としないものとです。 これは基本的には、「否定価値」の妨げの強さによって決まると考えて良いと思われます。 つまり、「否定価値」の妨げの強さがそれほどでなければ、上述の取り組み実践の歩みが自ずと「否定価値」を弱めると共に対抗打を十分に打ち出すものになり、「否定価値」そのものに向き合うような作業をせずとも、その影響を脱することが考えられます。これが「異次元の心の成長の世界へ」で、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が築かれるところまで来れば、もし来歴の中で心の闇と「業」による深い妨げを抱えているのでなければ、その姿勢で思うぞんぶん人生を生きていけばいいという、「取り組み実践」の中の中途下車駅の話でもあります。 一方、「否定価値」の妨げの強さが一定の度合いを超えた時、対抗打および根元から弱めるというものが、もはや機能しなくなることが考えられるのです。 ここに、「否定価値」の悪影響の核心が見えてきます。まず鮮明なのは、「否定価値」によって「望みの感情」が封じ込められることです。「「否定価値」によって塞がれる「望みの感情」」で詳しく述べた通り。ということは、今「「否定価値」を弱めるものと対抗打になるもの」で述べた、「学び」の先に見出す行動法の内容が自分の成長と幸福にとり利益のあるものになることで対抗打になるという構図が、まず成り立たなくなるのです。 なぜ成り立たなくなるのか。それは「目的思考」の頂点に「望み」がしっかりあってこそ成り立つものだからです。「人生を生きるための基本的思考法」で述べた通り、その人自身の心の中にしか答えがないものとしての、本当の「望み」がです。それが「否定価値」の下においては、「望みの感情」を感じる間もなく、心の中に描かれた「理想」は、それに満たない現実を叩くことへと、マイナスの破壊感情へと流れてしまうのです。これも「「否定価値」によって塞がれる「望みの感情」」で述べた通り。それで、理想など抱かないのが良いのか、といった思考も流れがちになるものとして。 そうして何が自分を幸福と成長に向かわせるのかを実感として感じ取れないこの人は、いつまでたっても弱い人間のままです。そして怒り否定できることに価値がある、怒り否定できることが「強さ」だという感覚に、いつまでもとどまらざるを得なくなるのです。 こうして、「否定価値」がある程度強くなると、それを根元から弱め対抗打を打ち出す歩みに対して、「否定価値」がそれをさらに根元から打ち崩してしまうようになるのです。 ここに、「否定価値」の悪影響の核心があります。 それに対するハイブリッド心理学のアプローチも、「異次元の心の成長の世界へ」で述べた通りです。「心の開放」によって得た、自分の足で立って歩く力によって、その「否定できる価値」の感覚の根源の捨て去りという、大きな目標へと歩んでいくのだ、と。 つまりまずは「自分で考え、自分の考えを持てる」ことを最も基礎的な心の足場にして、自分の気持ちを自分で受けとめるという「心の自立」へと向かい、それによってより確かなものになっていく「本心」において、「人生の前進と「望み」への向き合い」でまとめたような、外面における具体的な足がかりにしっかりと地に足をつけた実践として、内面における足がかりにさらに重点を置いた向き合いへと向かうことです。 それによって、「「否定価値の放棄」までの「学び」の主な流れ」でごくアウトラインだけ述べておいた「学びの深まり」を、「日常生活と社会生活の向上」をベースにしたものから、「愛と自尊心の心の成長テーマ」そして「否定価値の放棄」への領域へと進めるのです。進むごとに、答えは心の外部には示されず、自分の足で立って歩くからこそ働くようになる自分自身の心の目で、たたき台となる「ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」」の地図を片手に探求していく、「自らによる成長の歩み」としてです。 「否定価値」による妨げが強いとは、それだけ、「学びの深まり」の中で、今までの人生で取っていた姿勢をくつがえすものが問われることになるでしょう。その最大のくつがえりが、まさに「否定価値の放棄」になるわけです。 「否定価値」を見極める目へ では、「否定価値」の妨げが強く、それを弱め対抗打になるものさえ無効化させてしまうような状況において、どのような仕組みにおいてそうしたアプローチが意味を持つのか。 まず言えるのは、まさに、そのようなものとして自分の心の中にある「否定価値」とは一体何なのかを問うことをするのだ、ということです。それが上述の、内面における足がかりにさらに重点を置いた向き合いに進むということです。 自分で考え、自分の考えを持つことにおいてです。そのために、まず自分の「唯一無二の望み」などあまり問うにはおよばない、「日常生活と社会生活の向上」の領域から、問題課題に知恵で対処する、ごく着実地道な思考姿勢とその実践を培うのです。 ならばまず言えるのは、「自分の望み」に向き合う以前の「日常生活と社会生活の向上」の領域で、自分で考え、自分の考えを持つことができるようになり、「本心」をしっかりと持ち、「破壊から自衛と建設へ」の転換への視野を持ち始めることが、微々たるものからであっても、やはり「否定価値」を根元から弱め、対抗打を打ち始めるものになるということです。 それによって自ずと「否定価値」の影響から抜け出るにはまだほとんど足りない、微弱な程度にとどまるものではあってもです。しかし、微弱ながらも持ち始めるその心の足場を得ることによって、その先の歩みは、根本的に異なるものへと向かい始めるのです。 つまり、「否定価値」がそれを弱め対抗打になるものをさらに無効化してしまうほど強い状況において、それを根元から少しづつ弱めることと、対抗打を少しづつ打ち出すことに、さらにもう一つのものを加えるという進み方になるのです。 そのもう一つのものとは、「否定価値」の正体と核心を見極める目です。 その正体と核心を見極めることが、それを抜き去るものになるようなものとしてです。細胞のDNAを抜き去るかのように。 ではその目が、「日常生活と社会生活の向上」の地道な領域から開始するこの取り組み実践の歩みにおいて、何が生み出すものであるのかは、「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」で、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を中間途中下車駅とする列車にたとえた旅路の流れを思い出せるならば、もうお分かりかと思います。 それは、その次の大きな駅としてある、「成長の望み」なのです。 「視野その2・「成長の望み」」で述べたように、それによって心の底から望む、成長できた自分を見る前に、まず「妨げていたものの真実」が見えるものとしてです。その痛みの中で、私たちはその成長へと実際に向かっていくのだ、と言えるものとしてです。 その最大のものが、まさに「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という転換になるのです。 ここで「成長の望み」とはどのようなものかをおさらいしておくならば、それは「「成長の望み」とは」で説明したように、「こんな人になりたい・・」という「自分の人物印象」について抱く「自己理想の望み」のことではなく、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」の中で実際に「成長」を体験することで見えてくる、自分の心の芯の強さの変化の内容方向性についての望みのことです。 そして「今「どんな成長」を望むのか」で述べたように、「次はこんな成長を望むように」などと「枠はめ」できるものでもないし、何かの「思考法」で導けるものでもない。今望み得る成長の具体的内容については。「全てを尽くして望みに向かう姿勢」までは思考法および姿勢として培うための実践があったとして(「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う」)、それを母体として「学び」と共に生きる時間がどんな「成長の望み」を順次生み出していくのか内容は、いかなる「思考法」によって導くものでもなく、「命」が決めることなのです。「「真実の望み」の導き」で、今だ漠然としか形を取りえない「成長の望み」を、「真実の望み」と共に自らの心に向けた時、「命」が「今向かうべき成長」を返してくると述べたように。 ハイブリッド心理学の「否定価値の放棄と望みの浄化成熟」の思想 それによって私たちがどのように「否定価値」の正体と核心を見極め、そのDNAを抜き去ることで、その先にどのような心の豊かさの世界に向かい得るのかを、私はここで再び「思想」として示したいと思います。 「ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」」で説明したように、「思考法」「行動法」「意識法」あるいは「姿勢」として、「形として真似てみる」というのでは全く役に立たず、それぞれの人が模索の中で、その真偽を探求し確かめていくことの中で、「形で真似てみる」ものをはるかに超えた大きな「気づき」の役割を与えるものになるものとしての、「思想」としてです。 もちろんこの心理学の取り組み実践においては、「現実を見る目」と「自分自身に対する論理的思考」に始まり、「目的思考」「学びの姿勢」と「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を経て、「真実の望み」が合流して「成長の望み」に向かうというこの列車の旅路として、自分の足で立って歩くからこそ働くようになる心の目によって、探求するものとしてです。 私はそこで、ハイブリッド心理学の思想を、まず「心の成長の思想」として示しました。 これはそれを補完し、完成させるものであると同時に、ハイブリッド心理学が世に伝えたいものの根幹になるものだと言えます。 私はそれを、ハイブリッド心理学の「否定価値の放棄と望みの浄化成熟」の思想と呼びたいと思います。 「心の成長の思想」は、「5つの視野」から成るものでした。 「心の成長」とは何か。「望み」とは何か。「心の成熟」とは、そして「治癒と豊かさ」はどのようなものとしてあるのか。そしてそれを導く「成長の望み」を、私たちはどのように抱き得るのか。 それはこうなるわけです。「心の成長」とは「望みの成熟」であり、「望み」とは「愛」と「誉れ」という、大きくは「愛」という単一の軸の下にあるものである。「心の成熟」は、その「愛」の望みに向かって全てを尽くして生きる中で、「与えられる」ことから「自ら与える」ことへ、やがて何も躍起に求めることなく心が豊かさに満たされる、「無条件の愛」「豊かな無」のゴールへと向かう、「命の生涯」としてあるのだと。 そこで出生の来歴において、親が子への自然な愛を見失った時、私たちの心の底に「ありのままの自分では愛されない」という「闇の感情」が生まれると共に、その後の心の段階的な成長が連鎖的に妨げらてしまう。その克服は、出生の早期に躓きを抱えることになった「依存の愛」を、遅ればせに誰かに与えてもらうことによってなどではなく、そこにおいても順調な成長の場合と同じ、「依存から自立へ」の心の転換と共に「愛」への「望み」に全てを尽くして向かうことで、躓きを抱えることのなかった順調な成長をはるかに越えさえもする、心の豊かさに向かうというものになるのだ、と。これを導く「成長の望み」とは、「依存の愛を手放すことで自分自身を悪感情の洪水から救い上げる」「真の強さに向かう」そして「魂の望みに向き合う」というものになるであろうと。 「否定価値の放棄と望みの浄化成熟」の思想は、そこにおける「治癒と豊かさ」について、補完して完成させるものになると言えます。 それは次の枠内のようになります。少し長い文章になりますが、必要不可欠な理解の全てを最小限度の文章としてまとめたものになりますので、そのまま諳んじられるまでとは言わなくとも、説明項目とその主な内容を、キーワードレベルで思い出せるくらいになるまで、何度でも読み返して憶えて頂ければと思います。 5つの節から成るものになります。私たちの「心に起きる問題」とはどのようなものであり、それは「否定価値の放棄」を経て、「望みの浄化成熟」としてどのように克服されるのか。それに向かうために意識姿勢の上で最も重要なポイントになる「意識を超えたものに向かう」ということと、「歩みの道のり」の最も大局的な流れの理解です。
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2013.4.28 |