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ハイブリッド人生心理学とは 1.ハイブリッド人生心理学とは
2.「取り組み実践」への理解
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3.学びの体系
4.メール相談事例集

2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』
として無料電子書籍化しました。今後の更新電子書籍側のみになります^^。


2.「取り組み実践」への理解 - 続き
 (12)「否定価値の放棄」への道
心の成長の歩みの「スパイラル前進」  スパイラル前進に向かう「常に今からの取り組み」  旅立ちへ  心の成長の歩みのチェックポイント  「学びの深まり」に向かうスパイラル前進  「社会生活の向上」の領域にある大きな転換  島野が通った主な転換の流れ  視野その3・「真の強さ」へ  視野その4・「否定価値の放棄」を問う心のテーマ  テーマその1・「愛がこうあるべき」の怒りを捨てる  テーマその2・自分が神になるのをやめる  ハイブリッド人生心理学の「未知への信仰」  「否定価値の放棄」を自らに問う

心の成長の歩みの「スパイラル前進」

さて、こうして「否定価値の放棄と望みの浄化成熟の思想」までお伝えしたことで、このハイブリッド心理学の「取り組み実践」歩みの道のりに向かうための「学び」、いわば必要装備が、おおよそ整ったことになります。
つまりそれは、「自らによる心の成長の歩み」までの詳しい意識過程と、「人生の前進」のための外面および内面にわたる足がかり、そしてその先にあるであろう心の成長の道のりについての大まかな理解となる「心の成長の思想」および「否定価値の放棄と望みの浄化成熟の思想」。これらをそれぞれ、この列車およびレール装備路線図、そして大地大まかな地図のような役割として、向かうものになるわけです。
それを総合したものが、「心の成長の道のり情景図」イメージ図示される、「心と魂と命の開放」というハイブリッド心理学の主題です。

実はそこにあと一つ持っておくと良い理解があります。それを知っておかないと、まさに心の成長に向かう分岐路において、別の道へとそれてしまう危険があるようなものとしてです。
またそこにこそ、この心理学で言う「未知の異次元への心の成長変化」の、私たちの意識における節目節目の訪れ方がある。そのようなものとしてです。それへの向き合い方があるということです。

それをハイブリッド心理学では、「スパイラル前進」と呼んでいます。
「スパイラル」とは、「螺旋」のことです。「螺旋階段」などがありますね。
つまり、「同じ場所に戻ったかのように、一段階高い次元へと向かう」ことを繰り返していくということです。

それが「心の成長」においてそうであるとは、どういうことか。
つまりこういうことです。私たちは私たち自身心に取り組む中で、何度でも同じような悩み惑いに戻るのです。しかもそれは、同じような悩み惑いに戻るだけでなく、以前それを抜け出せたような克服法では、同じようには抜け出せない、というになるのです。思考法行動法意識法姿勢の取り方などにおいて。それで、私たちは自分の心「後戻り」どころではなく、さらに「後退」してしまったかのような気分にもなるのです。
しかし実はそれは、一段階次元の高い克服の方向に向かうべき時の、訪れなのです。
それを知っておかないと・・というか、まず言って私たちはそれを知らないまま自分の取り組むのですが、その結果しばしば、自分の「心に取り組む」ということ自体が、何か間違ったことであるような気もしてきてしまうのです。こんな「心への取り組み」などやめて、ただ外面のものごとだけに向かうのがいいのか・・と。「考えすぎ」なのか、と。

「心の成長」以外「成長」では、このようなことは起きません。体の単純な成長と衰えは全く別の話として、学び向かうものとしての「成長」としてはです。
知的なものであれ身体運動的なものであれ、「技能」における「成長」は、同じような問題課題であれば同じ対処法解決できることを、より着実なものとすることを「習得」として、易しい問題からより難しい問題へと向上させていく、比較的一直線向上可能です。たとえば算数の問題や英語の読解などの能力において、以前は解けたものが、ある日突然ほとんど解けなくなるようなことは、障害が起きているのでもない限り、まずはないものとして。少なくとも日常において頻繁に接することのある問題であるのならば。
これがさらに高度なスポーツ技能などになると、一直線の向上ではなく谷間が訪れる「スランプ」が起きることもあります。そこで起きているのは、高度な感覚的調整微妙な偏りや狂いと考えられ、心の成長の歩みで起きる上述のような「後戻り後退もどき」とこれは、多少とも似た問題であるようにも見えます。
しかし心の成長の歩みにおいて起きるものは、それとも根本的に、問題の本質が異なります。なぜなら、「スランプ」というものであれば、まずはそれが起きる前の状態戻ることができたならば、ひとまずの「復調」として、まずはそれで良い話になるのですが、心の成長の歩みの中で起きる後戻りのような谷間とは、もう、元に戻ればいいという問題ではなくなっているのです。
つまり、そこにある問題とは、以前ならできた同じ問題同じようにはできないというのではなく、そもそも、起きている問題そのものが全く異なるものになっているのです。実はそこで何よりも問題として起きているのは、私たち自身の「意識」がそのことを認識できないということなのです。
つまり、根本的な問題は、同じ問題だと感じ取る、誤った意識にあるのです。同時に、「こんな場面であれば、自分はこうできる、こうできればいい」という、固定化した意識にです。

どういうことか、お分かりになってきたのではないかと思います。つまり私たちは本来、毎日毎日が、常に、新しい存在なのです。心の成長の歩みにおいて、「こんな場面であれば、こう行動すれば」と、「同じ問題」として扱えることなど、一つもないのです。常に、私たちが出会う問題とは、私たち自身の心の成長の歩みにおいて、唯一無二の問題なのです。
問題は、私たちの「意識」「固定化」にあります。問題課題の意識固定化に。さらに、「こんな自分でいければ・・」といった、「自分」という意識の固定化に。


スパイラル前進に向かう「常に今からの取り組み」

ハイブリッド心理学では、そうした「スパイラル前進」にこそ、私たちの心の成長の歩みの、前進の原理とも言えるものが示される、と考えています。
つまりこういうことです。何度でも同じような場面での惑い動揺に戻ることの中に、常に新しい向上、未知の自分への入り口、そして心の成長の入り口があるのだ、と。
もちろん同じ場面ではもはや動揺することなく新たな行動に向かうという前進もあります。しかしこれは私の経験からは、むしろ心の成長出口だという印象を受けます。これは抽象的な表現ですが、心の成長入り口は、同じような場面での惑い動揺に戻った時、そこに現れるのだ、と。
では惑い動揺いつ、本当に戻ることなく消え去るのか。そこに、「学び」深まりと、心の成長のゴールへの道のりの歩みというものがある、ということです。

私たちに問われるのは、その歩み最後まで続けることを選択するか、です。
そこに分岐路が現れることになります。多くの人選んでしまうのは、同じような場面での惑い動揺に戻ることを嫌い、意識を固定化し、心に蓋をしてしまうことです。
そのやり方に、大きく2つがあるものとして。一つ外面行動固定化であり、もう一つ内面の「気持ち」固定化です。こんな場面であれば、こう行動していればいいんだ、あるいは、こう感じるようにしておけばいいんだ、と。
そうして固定化した外面内面で、自分の心が・・というよりも自分の「魂」が、本当には何を感じているのかを、葬り去る・・。いずれにせよ、惑い動揺向き合うことよりも、惑い動揺から目をそらし、塗り消すことを優先させてしまうのです。それではに、コントロール不能となって「心の病」引き起こすようにもなる可能性があるのは、「「心」と「魂」と「命」の開放」「心を病ませる4つの心理メカニズムからの抜け出し」で述べた通りです。そうでなくとも、心の奥最も大切な何かを、切り捨てて生きていく・・。

それに対するハイブリッド心理学取り組みは、心の外面と内面2面双方において、探求の歩み続けるというものです。
「ハイブリッド心理学のアプローチ」から説明しているように、「動揺する感情を克服したいのであれば、まず感情を鵜呑みに考えない」という最も自明原則を踏まえ、「2つの心の世界」持つという、「2面の真摯さ」に支えられる、「外面においては建設的行動のみ行い、内面感情はありのままに流し理解することのみ行う」という「感情と行動の分離」基本姿勢によって。
それを、「今何を学ぶのか。そして今何を本当に感じているのか」という意識実践として、向き合うこととして行うのです。この言葉を、「まずは「問題の捉え方」から」で詳しく説明し、「「心を病む傾向」からの抜け出しの第一歩」「2つ目の妨げの克服のまとめ」繰り返したように。
それを、「常に今からの取り組み」として、行うのです。私たちはその都度その都度新しい存在なのですから。

前進の基本的な軸は、「目的思考」にあります。
まず、「目的」とする「問題・課題・望み」に応じて、心の健康と成長に向かうための、そして人との無駄ないさかいをなくし、最大限の結果を生み出すための行動法答えが、「基本的な流れ」で述べた通り、比較的即座に出てくるのを知ることからです。ただしそこで述べた通り、かなり異なる行動法選択肢としてです。そこから、自分の幸福に向かうための行動を、自分自身で選んでいくことにこそ、心の成長の歩みがあるものとして。
その、「破壊から自衛と建設へ」という基本的行動様式転換と、「現実において生み出す」という知恵ノウハウの、「行動学」学びへと、進むことです。それは日常生活ごく身の回りのことや、仕事における普遍的なスキルといった、かなり本格的で高度な内容にもわたります。
それによって生活人生うまく行くようになるのであれば、私たちの人生の歩みは、そうした外面における行動法の探求だけで済むものになります。しかしそこに限界、あるいは訪れることになります。「目的思考」による前進は、結局のところ最後には、「望み」行き着き「望み」によって決まるのです。そして私たちは得てして、自分が真に望むものは何かを、知らないのです。

そこに、内面側の探求が出てきます。それは外面側の探求手を取り、互いに支え促し合う中で、「真の望み」へと向かうものになるのです。
「破壊から自衛と建設へ」行動様式転換と、「自ら生み出す」という行動法は、「人にどう見られどう扱われるか」という受け身依存から、「まず自分が何を望むのか」という「自己能動」姿勢手を取るものになり、私たちが自分の心の中「望み」開放する姿勢を、培い促すものになります。そして開放されていく「望み」が、「目的思考」による心の成長と人生の前進歩みを、根底から成り立たせるものになります。
そこで自分の心の中「望み」が妨げられていることを自覚した時、私たちの前に、「自己分析と見通しづけ」と呼んで説明したような、内面における深い探求の道が現れます。そしてそのに、外面の行動法の探求だけで済んでいるかのような、恐らくは出生の来歴において躓きを抱えることのなかった人たちよりも、はるかに豊かな心への成長へと向かう道が、訪れるのです。
それは「否定価値」という、「望み」を妨げる最大の根源向き合い、それを捨て去る道です。それによって開放される「望み」に向かい、その歩みにおいて必然として訪れるであろう、「不完全な現実」に出会う失意の中でさらに「望み」を受けとめた時、そこに「魂」「命」現れるものとして・・。


旅立ちへ

この本では、それに向かうために、まずは必要となる心の装備と、それを携えて踏み出す一歩一歩の歩み方と、そこからどこに向かうのかの、基本的な心得を説明しました。
「目的思考」による人生心の成長歩みのための、基本的「心の礎」。それが妨げられている状況があるのであれば、そこから「目的思考」による前進スタートラインに立つための、「基本的な妨げへの取り組み」があります。そこから、「心の成長の道のりに向かう」とはどういうことであるのかを知りその先には幾つか「成長の段階」があるのを知っておく。そこに、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」「成長の望み」という重要な通過点があることを、心に入れておく。

そこから、「魂」「命」というゴール至るまでに、私たちがどのような内面における「気づき」経るのかを全て詳しく書いていくことは、もはやこの本役割ではありませんし、外面向けの知恵とノウハウ具体的な内容についても同様です。
前者については、まずは『入門編』『理論編』などの著書が、そして後者については『メール相談事例集』や『実践ガイド』役に立つものになるでしょう。また『実践編』が、内面の「気づき」も含めた総合的な歩み代表的な事例を取り上げるものとして参考になるでしょう。

いずれにせよ、そうした「気づき」そして「知恵とノウハウ」全てが、この本で説明した歩みを、歩み始めから、そして歩み始め中で見えてくるもの、得ていくものなのです。決して、見えてから歩む、得てから歩むというものではなく
ですからこの本残りの部分で、私はその主なチェックポイントとなる部分だけを、かいつまんで記しておきたいと思います。


心の成長の歩みのチェックポイント

心の成長の歩み「スパイラル前進」最も最初の頃の様子を、私はよくこのように表現しています。
「目に見える悪感情は変わらないまま、足元がしっかりしてくる」、と。
つまり悪感情解消しようとして、メール相談なり自ら自己分析に取り組んだりするのですが、心に映る悪感情内容ほとんど変わらないまま、それでも、悪感情によって心が揺さぶられ流され、自分を見失う度合い小さくなってくる。平たく言えば、「踏ん張れる」ように、なってくる。
「取り組み始め」段階で、それに加えてどのような前進が得られるかは、によってさまざまです。それは「破壊から自衛と建設へ」という外面の行動法が、心の視野入ってくることであったり、「自己分析と見通しづけ」「基本形」結構できるようになってくることであったりするかも知れません。あるいは、足元が明らかに多少は強くなっても、外面および内面ともに、今までの思考傾向変えることができない人もいるかも知れません。

いずれにせよ、そこから目指したいチェックポイントは、「感情と行動の分離」の真髄の姿勢を、定着させることです。
つまりそれは、「外面行動は建設的なもののみとし、内面感情はただ流し理解する」という「感情と行動の分離」を、まずは形として取れるようになるのをさらに超えて、その2面向き合いのはざまで、自分が「意識」を超えた成長を歩む存在であることを感じ取り、「感情と行動の分離」の2面の向き合いの姿勢を、自分が生涯にわたって歩むものであることを、着実なものとすることです。
これは「「学び」への入り方」で述べた、「最初の一歩」を過ぎ、「自らによる成長への模索」も経て、「終わりなき成長の歩み」段階入ったものを指します。
今までメール相談をされた方の中で、どれだけの方がこの段階進むことができたのかは未知数です。この本の執筆そのものが、私自身の活動としてメール相談いったん閉業させてから書いているものでもあり、多くの方がこの本参考にして本格的な取り組み実践に進むのはこれからだと思っています。またそれにも増して、「自らによる成長への模索」から「終わりなき成長の歩み」へと進む段階は、もはやメ−ル相談で扱うものではありません。これは「「学び」を設定する」で、「否定価値の放棄」までメール相談で導くことはないと説明した通りです。
いずれにせよ、私の方で主導する形のメ−ル相談終えて、あるいは最初から自力で実践するとして、かなり本格的に取り組みを始めてからまずは2、3年程度期間を経て、この段階入るかどうかになると思います。あるいは、この段階、さらにその先目指し続けるか、それとももうこの心理学に沿った取り組みやめてしまうか違いが、明瞭になってくると思います。
いずれにせよ私たちの本格的な成長変化始まるのは、ここからになります。


「学びの深まり」に向かうスパイラル前進

そこから始まる心の本格的な成長変化とは、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」へ、そして「愛と自尊心という心の成長テーマ」さらに「否定価値の放棄」へという、「学び」の深まりに他なりません。

それがどのような「スパイラル前進」様子になるのかは、上述「目に見える悪感情は変わらないまま、足元がしっかりしてくる」という「足元からの変化」が、その後流れにおいてもおおよそ一貫するものと考えると、多少イメージしやすくなると思います。
つまりそれはこのようになるわけです。まず、悪感情が絵に描いたように消え去った自分期待して取り組み始めるのですが、そうではなく、目に見える悪感情ほとんど変わらないまま、踏ん張れるようになってきている分を自覚するのです。ここですでに、「心の成長」が自分の「期待するもの」とは逆の方向にあることを、うすうすと感じ始める方もおられるかも知れません。
それが次の前進を生むでしょう。「感情と行動の分離」に立った実践定着の中で、「気持ちの収まり」求めていた姿勢、またそれを歩みの指標と考えていた姿勢を、やめることです。今まで、自分の心への取り組みは、気持ちどう収まり、楽になれるかにあると思っていた。しかし自分の成長は、それとは全く別のところにある。心の成長は、気持ちが収まり気持ちが楽になることにではなく、気持ちが楽にならないまま、気持ちが収まらなくとも、思考していけるようになること、行動していけるようになることにあるのだ、と。そしてその後にこそ、気持ち真の安定訪れるようになってくるのだ、と。

これは列車の旅路に例えた流れで言えば、「成長の望み」にまで来た段階です。
その過程において、「日常生活の向上」領域における心の成長が、すでに前進しています。具体的に生活の何がどう良くなったというよりも、自分の考えを持つことができるようになり、自分の生活と人生を、自分自身の心の車輪で前進させる存在になることとしてです。
感情でものごとを判断するような思考脱し「占い」「超常現象」のような非論理的思考卒業することも含めて、「本当に確かなこと」積み重ねによる、「自分自身に対する論理的思考」が、あくまでこの心理学の取り組みのための車輪として、選択するものになります。それが同時に、自分のありのままの、本当の気持ちを感じ取り、「心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう」で書いたように、自分の「感情」についても論理的に思考できるようになること、さらには「自己分析と見通しづけ」進歩生み出し始めるでしょう。


「社会生活の向上」の領域にある大きな転換


そうして心の成長が今までの心で期待したのとは違うところにあると感じるというのが一貫として進むとは、 その先「社会生活の向上」領域へと「学び」広げ深める中で、そこに特別な転換はっきりと現れてくるということを意味します。
それがチェックポイントになるでしょう。つまり取り組み最初から見るならば、「足元がしっかりしてくる」「感情と行動の分離の真髄の姿勢」、さらに「社会生活の向上への前進」という、およそ3ステップチェックポイントがあるという形になります。
そしてこの「社会生活の向上」にある大きな転換が見えてきた時、「否定価値の放棄」という「取り組み実践の達成目標」となる大きな扉も、近づいてくるものになります。

その大きな転換とは、「社会行動」つまり他人一般への行動や「仕事」など社会との関係における行動を、「愛」を前提としないものとして行うことです。
この言葉から、「所詮他人と割り切れば」といった、人に背を向ける気持ち連想する方も少なくないと思います。しかしここで言うのは、それとは正反対のものです。自ら積極的に人に向かう気持ちとして、それがさらに「愛」を前提としないものを、見出すのです。
実はこれこそが、心の成長の歩みゴールに訪れる、「無条件の愛」という境地へとつながっていく長い道の、最初の入り口になるようなものとしてです。

人や社会への行動を、その先「愛」が目標になるようなものとして、感じ考える人が多いと思います。また、そうした気持ちで、そうした姿勢で、対人行動社会行動向かうことを説く言葉が、多いと思います。というか、のほとんどの心の取り組み行動訓が、それを言うと思います。対人行動、社会の行動の先に、愛があるべき、と
そうではありません基本的な対人行動と社会行動を、「愛」を問わないものとして、行っていくのです。「愛」を求めないものとして、行っていくのです。
なぜそうなのかは、かなり単純です。まずは実際面現象としては。「愛」目標にして一般的な対人行動や社会行動をすると、まず言ってうまくいかない嘆き怒りによって、さらに「愛」は幅広く、そして深く、壊されていくのです。私たち人間という存在と、私たちの生きるこの社会の、不完全性によって。

その代わりに、「学びの一覧表」項目として掲げた、「原理原則行動法」「ウインウイン行動法」、そして「価値の生み出し」の視点による仕事の能力とスキル向上といった、かなり高度で本格的な行動学を学ぶのが、ハイブリッド心理学実践コースになります。
これはメール相談においても、私自身の社会人体験を踏まえて、ご相談者職業内容にまで踏み込んだ、かなり専門的な内容におよんでいるのを、『メール相談事例集』などで参考にして頂けると思います。なぜ相談者と同じ職業体験していない私がそこまで職業専門的な内容と思われるアドバイスをできるのかと言うと、それがまさに「価値の生み出し」の視点による「仕事の普遍的なスキル」だということです。
社会出ようとした時、まず人から聞くアドバイス「やる気」「心配り」なんて話になるでしょうが、そうした精神論は、実は実際に社会に出る一文の役にも立たない可能性があります。情報収集アンテナを、早めに上記項目のようなものに切り替えるのがお勧めになります。
「仕事」を何か本格的にするのでなくとも、これらの行動法「社会生活の向上」として必須のものとして、全ての方にお勧めするものになります。一歩出れば、否、「家」においても、人との接触に、常に「社会」があるのですから。


島野が通った主な転換の流れ

私自身心の成長の歩み道のりを振り返った時、この、「一般的な対人行動と社会行動を、愛を求めないものとして行う」という指針は、極めて明瞭な分岐路として私自身の前に現れたものであったのを、はっきりと憶えています。
私の場合、この心理学のように内面から外面にわたって網羅的な導きを示す教えは得られませんでしたが、それでも『悲しみの彼方への旅』で書いたような宿命的な来歴背景もあり、社会人になってからも心の探求続ける中で、やがて幾つかの異なる学びが、見えない線のようにつながっていき、その先に、今まで闇の中で何も見えなかった先にある一つの道が、はっきりと私の目に見えることになったのです。
多少とも参考になると思いますで、私に訪れた主な転換と、そのために役立った学び時系列で記しておきましょう。

『悲しみの彼方への旅』で主に描写した大学時代から、大学院を経て社会人になるまでは、私に用意された取り組み実践アプローチは、カレン・ホーナイの精神分析による自己分析一本槍という状況でした。これは「感情と行動の分離」取り組み実践としては、外面向けの建設的行動法学び弱く、また何よりも、自分の心への取り組みに、「否定価値の放棄」という大きな扉と、「魂」「命」という自分の心の問題解決出口、そしてさらなる心の豊かさへの成熟があるという、心の成長の道のり全体についての理解を与えてくれる教えが、決定的に足りませんでした。
それでも、生来から持っていたものとして、「「現実」は必ずしも「感じる」通りのものではない」で触れた、ものごとを客観的科学的に見る、そして「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う」で触れた、道徳思考を持つ代わりに「できることをやり尽くす」ことの重要性への視野などが、自ずと私を、列車の旅路に例えた道のりにおいて「成長の望み」強く抱く地点へと、歩ませていたということになると思います。事実それらこそが、ごく表面行動法自己分析に増して、心の成長への基盤として重要であることを、ここで強調しておくことができます。
そこから私に、「自分を妨げていたものの真実」見えてくることと共にある、幾つかの転換を通っていくが始まったのです。

『悲しみの彼方への旅』に書いたような「病んだ心の巨大な崩壊」を経て、なんとか人生に向かい始めた私がまず歩んだのは、幾つかの自覚の中で、私を苦しめていた「自己嫌悪」を中心とする悪感情が、次第にその強度減らしていく道のりでした。それはまさに、巨大な岩石を落として自分を潰すかのようなものから、のように降り注ぐ弓矢ようなものへ、やがて時折吹きすさぶ強風のようなものへ、と。
その変化最初のものは、大学院から社会に出ようとしていた頃にありました。まだカレン・ホーナイ精神分析しか私にはなかった時期です。日記に書かれたものとして記憶に残っている、印象的な言葉に、こんなものがあります。
「自分は全ての人に愛される必要があった」、と。特に、全ての女性に。
その圧迫的な衝動から、まさに抜け出ようとした時に、その衝動自覚したのです。つまりその前の状態とは、その圧迫的衝動を自覚しないまま、その衝動が生み出す圧迫に、押し潰されている状態なのです。愛されるためにはこんな自分でなければならない、しかし実際はそれとは正反対の、叩き潰されるべき自分という感情によって。それが生み出した状態を示すものとして、これも後で日記で見つけて、自分自身で驚いた言葉があります。「そこにいる人間全てを、殺してしまいたかった」、と。
ここに、無差別殺傷事件などにもつながるような、他人への強い憎しみと破壊攻撃衝動根底に、愛されることへの衝動が、まさにその攻撃衝動によって意識表面上はかき消されたまま横たわっているという、この心理学が目を向けるメカニズムがあります。その衝動求めるものとは、幼子誰からも笑顔を向けられるのと同じように、自分が愛されることなのです。そのために、自分人並み外れた「愛される性質」を何か持っていなければならない。しかし現実の自分は・・。ここまでの歯車無意識下で回り、意識表面憎しみと破壊衝動へと抜け出るのです。この心理メカニズム『理論編上巻』4章などで詳しく説明しています。
それを抜け出る時、私はまさにまじまじと自覚したのです。「愛される必要があった自分」というものを。
それからまた少しした頃と思いますが、私がしみじみと自覚できるようになったことがあります。それは「自己嫌悪」というものが、「とても甘い感情」でもあったということでした。「自分なんて・・」というその悪感情は、まさに愛を求める感情でした。それはまさに、草原で親を失った幼獣が、うずくまり、を求めて鳴き続けるように・・。

それらの流れは、受け身依存に「愛される」ことを求める心の状態の中で、「愛されるためには」という位置づけの自己理想自己嫌悪感情転じること、さらにその自己嫌悪感情そのものが甘い価値を帯びることが、如実に示されていると思います。
そこからの抜け出しが、何を「どう考えるように」「どう感じるように」といった小手先「意識法」「心の持ちよう」などでもなく、「依存から自立へ」という、全ての命にプログラムされた摂理沿うものとして、「ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」」で述べた通り、たとえ最初の「依存の愛」躓きを抱えたとしても、健康な成長の場合必要となるのと同じ、「自立」への視野を培い、向かうことにあるのだということもです。
一方そこで望むべくは、「人と社会に向かう」という、そこにある歩みのために、「やる気」「思いやり」「心配り」といった精神論とは全く異なる、行動学知恵とノウハウを与える教えになるでしょう。何よりも、背中から後押ししてくれる援軍になるものとして。そして「依存から自立へ」抜け出し「気づき」より早く引き出すための心の教えです。こちらは手を取り、引いてくれるものとして。

私の人生にそのような援軍が現われたのは、社会人になって大分月日が経ってからでた。そこでなんとか巨大な岩石から雨のような弓矢程度には強さを減らした自己嫌悪感情が、さらに時折の強風のような程度へと強さを減らす転機となったのが、多くの方に高い評価で知られている、デビッド・バーンズ認知療法の名書『いやな気分よさようなら』に出会ったことです。
私の心の転機促した言葉を、2つ出しておきます。

その一つは、まさに今「社会生活の向上」領域にある大きな転換として述べたものと、方向性同一にする言葉です。
それは「愛を必要としてはいけません」、と。もちろん大切なものと考え願うのは良いことであるが、は、大人が、人が生きるために酸素を必要なものとするように、必要としてはいけないのですよ、と。
私の知る限り、このような言葉を言うカウンセラ−他にいなかったように感じます。私はこの言葉を、人との親愛をうまく作り出せないでいる自分責めるような悪感情の中にいた時に読んだと記憶していますが、その言葉から、問題人との親愛が得られないことにあるのではなく親愛を得られなければならないものと考えている姿勢の方にあるのだ、と目線を正したように記憶しています。

そうして「愛される必要があった自分」「甘かった自己嫌悪感情」自覚、そして「愛を必要としてはいけません」という言葉への感銘という流れ「受け身依存の愛情要求衝動」からの抜け出しとしてある一方、私の転機を促したデビッド・バーンズもう一つの言葉は、「自尊心」感じ捉え方についての根本的な方向転換指し示すものでした。
つまり「ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」」で述べた、
「依存の愛」から、「自立の自尊心」を経て、「成熟の愛」へと向かう。
この道筋に沿った順序に、私の内面転換流れもなっているということです。
「真の自尊心」について述べたバーンズの言葉は、『悲しみの彼方への旅』の中でも引用しています。それがまさに、内面の迷路にあえいでいた私の今までの人生を、心の成長答えが示される新たな道に進むものへと変える転機となった言葉として、今でも胸が熱くなる思いで思い出します。多少私流に言葉を整え、「中庸の目」姿勢としてこう記しています(P.246)。
自らの短所を自己卑下に陥ることなく見据え、ひとつの制約条件として受け入れると同時に、自分の長所を傲慢に陥ることなく認識し、それを役立てることです。そして自分を、長所と短所の差し引き合計の結果として捉えるのではなく、さまざまな側面を持つひとつの本質として、前に進む存在であることを宣言することです。
真の自尊心は、その姿勢によってこそ導かれるものです。それは決して「高い評価」を与えられることによって「獲得」されるものではありません。主体的存在としての自己の可能性に向かって生きていく意志として、自ら選択するものなのです。真の自尊心とは、そのようにして、「勝ち取らねば」ならないものではなく、「勝ち取る」ことができるものでさえないのです。


そうして弓矢の雨のような自己嫌悪感情からも抜け出し始める中で、「真の自尊心」へのも持ち始めた私の背中をさらに後押ししてくれたのは、他ならぬ社会人生活そのものでした。
私が社会人になったのは、社会がまさに「バブル時代」に向かっていた1980年代半ばで、コンピューター産業のインフラとして登場してきた頃です。そんな中で企業のITシステムの構築業務に携わり、社会における「仕事」あり方、進め方が成熟し形づくられていく歩みと共にをすごした年月が、私に、会社の業務成り立ち全体の把握と、そこにおける仕事の進め方知恵とノウハウ体得させたように感じています。
それがまさに、今「「社会生活の向上」の領域にある大きな転換」で触れた、「やる気」「心配り」などというものとは全く別世界の、「原理原則行動法」「ウインウイン行動法」といった本格的な行動学と、「価値の生み出し」の視点による仕事の能力スキル向上であったわけです。
そうして私にはっきりと見えてきたのが、一般的な対人行動と社会行動の向上は、「思いやり」や「相手への好意」など内面の気持ちを重視するところにではなく、それとは全く逆の、内面感情の良し悪しを問わない行動法にあるのだ、ということです。
内面を問うことなく、現実において生み出す行動を行っていくのです。現実において生み出す結果が、やがて内面のさまざまな齟齬(「そご」。物事がうまくかみあわない様子)を、自然と消し去っていきます。内面をどうこうしなければと、「意識」であがく必要もなく。

そうして私が至った心の状態は、「プライベートの内面においては今だに自分の心に欠損を感じながらも、公(おおやけ)の社会人としては多少とも自分に自信が持てるようになってきた段階」とでも表現できるものであったのを感じます。
「外面行動は建設的なもののみとし、内面感情はただ流し理解のみする」という「感情と行動の分離」実践として、外面の行動法習得については、ほぼ完了の段階になってきた状態です。人生における外面行動前進ということではなく、あくまで行動法習得についてはです。
そこでもし内面深い妨げを抱えているのでなければ、あとはそうして習得した建設的な行動法車輪として、思う存分人生前進していけばいい。
これは「異次元の心の成長の世界へ」で、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」が築かれれば、もし来歴の中で心の闇と「業」による深い妨げ抱えているのでなければ、あとはその姿勢思うぞんぶん人生を生きていけばいいという、途中下車駅もあると述べた段階と同じものと言えるでしょう。もちろん、その車両には外面行動法の「学び」荷物をしっかりと積んだものとしてです。
私の場合はもちろん、そこで下車できるケースではありません。行動法の体得によって、人との関係常に良好に保つことができ始め、趣味のスキーを通して、「楽しみの共有」として人との活動に参加することにも慣れてきた。それでもなお、「分厚いガラスのような隔たりの感覚」に妨げられ、人と馴れ合うことはあまりできず、それを引き金に、相変わらず、時折吹きすさぶ強風のような自己嫌悪感情・・。

これは「否定価値の放棄と望みの浄化成熟の思想」で、「心に起きる3つの問題」として示した中の、「怒り憎しみ」ほぼ完全に克服された状態だと言えます。一方で、「心の闇の感情」については、その解決がどうあるのかを今だ知らず、「心と魂の分離」については、その問題存在すら視界に捉えられていない状態です。
それでも私はもちろん、自分の心の問題解決がどこにあるのかに、向き合い続けます。社会人として持ち始めた自分への自信足場に。それを得てもなお自分をさいなむ悪感情根源が、どこにあるのかを。

この流れが、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」「外面行動法の学び」を得て、あとは人生思う存分向かうという途中下車駅からさらに先に向かうケースの、基本的な流れになるものだ、と私は考えています。
つまりそれは、「社会人としての自信を足場に、プライペートの内面の豊かさに取り組む」というものになるであろうと。
あるいはありがちなものとして、「社会人としての自信が持てない代わりに、プライペートの内面は豊かに・・」といった期待でのぞむ姿勢があるかもしれません。これは「依存の愛から自立の自尊心を経て成熟の愛に向かう」という成長の変遷に向かうことができず、愛されるための自己理想自己嫌悪に転じるといった「依存」が生み出す心の災禍脱することができないままのものになるのでは・・と私は感じています。
さらにあるいは、「社会人として自信が持てても、プライベートの生活に不満」といった現代社会人様子も、しばしば目にするものでもあります。それが途中下車ならぬ途中乗車して、この先「否定価値の放棄」その先「魂」「命」に向かい得る段階相当するかと言うと、一言でいえば、どのようにしてその「社会人としての自信」至ったのかの内容による、と言えるでしょう。
結局それは、ここまでの歩みについて、この心理学が言う意識過程とその前進の道のり同等のものを経てきてのことであれば、ということになります。
この心理学から言えるのは、それだけです。この心理学が示す心の成長の道のりは、その一つだけなのです。この心理学から言えることは、それ以外には何もありません。


視野その3・「真の強さ」へ

その先にあるのは、一言で、「真の強さ」vs(対)「否定価値」戦いだ、と言えるでしょう。
「真の強さ」足場にして、「否定価値の放棄」成すのです。
なぜなら、「否定価値」とは、真の強さではないものを、「強さ」だと思い込もうとする、私たち人間の、極めて深い心の歯車であるからです。私たちが実際のところ「弱い」のであるならば、意識表面では何をどう考えようとしても、「否定価値」による囚われにある。ハイブリッド心理学ではそう考えています。
ですから、まず、「強く」なるのです。

これが、「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」で、「5つの視野」として伝えておいた中の、視野その3「真の強さ」になります。
最初の視野からおさらいするならば、視野その1は、「心と体が実際にどう動くか」。それを問うのが、この列車に乗るということだと。そこから「全てを尽くして望みに向かう姿勢」途中下車駅まで進む。そこで下車せずに進むと見えてくるのが、視野その2となる、「成長の望み」という大きな通過駅になる。
「スパイラル前進」歩みも含めてまとめるならば、「成長の望み」通過駅とは、その巨大な駅舎そのものが詳しく見えてくる視野というよりも、その先にあるスパイラルつまり螺旋として上昇していくであることが見えてくる。そのような通過駅だと言えるでしょう。
「スパイラル前進」チェックポイントとしては、「足元がしっかりしてくる」のが始まりであり、それは「成長の望み」少し前にあると考えるとイメージしやすいでしょう。そこに、さらに前進探求し続けるか、それとも多少の安定が得られたことで、自己の成長探求よりも今までの心通用させることに心を向けてしまうかの、分かれ道があるということになります。
自己の成長模索し続けるのであれば、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」築くことが自ずと、その人を「成長の望み」へと至らせるでしょう。それが同時に、「感情と行動の分離の真髄の姿勢」確かなものになってくるという、「スパイラル前進」チェックポイントにもなります。そして「社会生活の向上への前進」チェックポイント進んでいくのです。
「社会生活の向上への前進」は、「依存の愛から自立の自尊心を経て成熟の愛に向かう」という成長の変遷に沿うものとなり、「愛されるための自己理想」「甘い自己嫌悪」変化するといった「依存の愛」災禍を抜け出し、「生み出していく」こととして「愛」を問うことなく人に向かい得る気持ちを、自分自身見出していく。 これがその道筋になるであろうと。
そしてこのに、「真の強さ」という、視野その3へと向かうのです。

事実がそのあと心を赴かせたのは、「強く」なることでした。
どういうことかと言うと、「怖れ」の感情を、どれだけ心の根底から消し去れるかに、興味を持ち始めたのです。
ここに重要な流れがあります。実際その時の私は、この社会を生きる自分外面行動の能力に、自信と安心持ち初めていたわけです。ならば、今まで「弱さ」基づいていたのであろう「怖れ」「恐怖」感情というものを、いかに自分はもうこの人生で持たなくても良い人間になっているのか。
重要なのは、社会を生きる行動の能力自信と安心を持つようになったという内容が、「真の強さを体得する」で最初に説明したように、怒りのパワーで相手を破壊できることを「強さ」と感じるような「愚かさ」を脱した、「現実において生み出す」という行動法の十分な体得であることです。それ抜きにここで説明するような、「怖れの感情をいかに消せるかの試み」などに夢中になることは、全くの「蛮勇」であり、この心理学取り組み道のりとは全く違うものになりますのでご注意下さい。
そしてもう一つ重要なのは、それが「感情と行動の分離」における内面感情側「ただ流し理解のみする」という姿勢および実践として、「現実の安全」として心の芯動じないものとさせることで、「怖れ」ただ流すことが、やがてその「怖れ」心の根底からもう起きないものへと消し去っていくというものになることです。意識思考としては、「基本的な妨げへの取り組み」で述べた通り、感情によってものごとを考える姿勢脱し「現実」について「確かなこと」積み上げで考える姿勢によって、「パニックを感じる。しかし現実には何も起きておらず安全である」という思考ができることを足場に、「もうパニックにならなくていい自分」というものを、見出していくという形になります。

そうしては、自分がいかに「恐怖」感情捨て去れるか興味を抱き始め、自分から敢えて恐怖をかきたてるような映像目を晒し、いかに自分恐怖感持たずにいられるかを試すようなこともやり始め、実際そこで「もう持たなくていい怖れ」というものを感じ始めました。
その詳しい具体的内容はもはやこの取り組みの「実践」本筋ではありませんので省略しますが、誰の場合もせめてこれくらいは、というものの筆頭をあげるならば、「幽霊」「心霊写真」といったものものを「怖がる」感情はせめて捨てたいものです。そのようなものは現実には存在しないという論理的思考、および社会に出回る情報真偽を見ることのできる、視野の広さと確かさとしてもです。「心霊写真」であればまずは作り物であるのかすぐ分かりますし、「幽霊」というものが「電磁波」いたずらのような現象として起きるといった、科学的知識へのアンテナもぜひ持ちたいものです。
いずれにせよそうした「試し」の結果、「この恐怖感情はもういらない」といった、心の根底における、確実な自分の方向転換ができるようになってきている自分感じ始めたのです。
もちろんそれらが現実に存在する主張し、怖がる姿勢良しとするのは人それぞれ自由ですし、その論理的妥当性議論する作業はもうこの心理学範囲外です。言えるのは、「本当に確かなこと」積み上げ思考するならば、それらは現実にはないというのがまずは結論になるという、「実直な現実科学的思考」が、この心理学心の成長の歩み最初の礎として位置づけている「現実を見る目」「自分自身に対する論理的」基本的な素材であるということ、そして「人や社会に対する怖れ」という一次元異なる怖れの感情をやがて根本的に克服することにおいても、一番土台となる心の足場は、「幽霊」「心霊写真」怖がるのをやめるという心の足場全く同一の、同じものなのだということです。

この前進が、極めて重要なステップになります。なぜならここに来て、初めて本当の意味で、自分の心を自分で方向づけること、自分の感情を自分で方向づけることが、可能になったからです。
もちろんその全て意のままに、などというものではありません。私たちのに流れる「感情」というものは、もともと私たち自身の「意識」直接どうこうできるものではあまりありませんし、どうこうしようとはしないのが心の健康良いことです。しかしそんな中で、ごく特定の範囲において、私たち自身の「意識」で、「意志」によって、変えることができる部分、そして変えることが極めて重要な部分が、限定的にある。例えば無駄な「怒り」や「恐れ」「焦り」といった不合理な悪感情を、捨てるといったこととして。
「現実を見る目」「自分自身に対する論理的」による「本当に確かなこと」積み上げ思考の中で築いた、「破壊から自衛と建設へ」基本行動様式の転換と、「現実において生み出す」ための行動法の学び体得が、自分強さ安全生み出し始めている。これもまたやはり「本当に確かなこと」なのだ、という心の根底確信に立ってです。

歩みの道のり振り返るならば、それを実際どうできるかどうか置いといてであっても、まず自分の心を自分で良くしようとする「努力」「あがき」を、一切やめることからスタートするのが、この心理学の見出す道です。「「心を良くしようとするのをやめる」という第一歩」で、私自身の例も出して説明したように。
そこから、「日常生活の向上」地道な領域から、自分思考、さらには意識の過程根本から、見直すのです。「気持ち」がどうなればいいかと心にじっと見入るのではなく、目線心の外に向けて。それがやがて「本当に確かなこと」積み上げ思考として、現実を生きる知恵とノウハウを手にするごとに、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」足場に、自分の心変化起き始めるのを感じるでしょう。そこでもまだ「自分の心」に本当に向き合う段階ではありません。さらに「社会生活の向上」を、自分と人の内面をあまり問わない行動法学びへと前進させるのです。それが自分の進む道であることが次第に確信と共に感じられてくるのと、自分の中「強さ」芽生えてくるのが、重なる形で起きてくるでしょう。人に向かい、社会を生きるための、「強さ」がです。
そこにいよいよ、「自分の心」に本当に向き合うべき時が、訪れるのです。外面の行動法獲得によっても、まだ取り去れない「心の闇の感情」があるのであれば。


視野その4・「否定価値の放棄」を問う心のテーマ

こうして「学び」深まりは、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」へと前進する中で、「真の強さ」視野に捉え、この社会を生きる自信芽生え足場に、「本当に確かなこと」として、「強さ」持ち始めている自分が、今まで「弱さ」に基づく「怖れ」や「怒り」などの悪感情自分捨て去れることを感じ取るという節目と共に、さらにそれらの根源にあるものに向き合う「否定価値の放棄」へと深めることができる段階へと前進します。
さまざまな悪感情根底に、日常生活にそれをはびこらせ人生そのものをそれによる構築物へと仕立て上げてしまうような、心の根底大きな歯車がある。それを突き止め、捨て去るのです。

「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」で、視野その4として、「否定価値の放棄」問うための心のテーマ3つあり、「成長の望み」、さらに「真の強さ」通過したに、3つの望遠鏡を使えばいいと表現した通り、ハイブリッド心理学では「否定価値の放棄」には、私たちの意識上大きく3つの転換側面があると考えています。
それは「気づき」というような軽いものというよりも、私たちの心の中で何かを決する「戦い」なのだと言えます。
今までの人生で、自分の心支配し続けてきた、それによって自分に、「不幸になるための考え」を選ばせていた、その根底にあるものを、見据え、浮き彫りにし、捨て去るのです。
その3つの転換は、どれもが、「依存から自立へ」そして「空想を生きる心から現実を生きる心へ」という2つ転換の軸交差するものだと言えます。
つまりそれは、「依存」の中で、そして「空想」の中で、価値を帯びた、「不幸になるための考え」の結晶のようなものを、捨て去る転換だと位置づけられます。

私の経験上、それは大よそ次のような順序になると考えています。「未熟」から「成熟」への流れとして、また転換のテーマがより幅広いものへという順序として、そのようなものになるのかも知れません。ただしこの順序はあまり厳密なものではなく、多少とも並行して、それらを問う時期訪れると考えておくのが良いと思います。
テーマその1は、「愛がこうあるべきという怒りを捨てる」です。
テーマその2は、「自分が神になるのをやめる」です。
そしてテーマその3は、「空想を不幸になるために使うのをやめる」です。

ここでは、そのそれぞれについて、生き方姿勢としての転換位置づけ、およびその転換問うための意識的視野ポイントについて、ごく要点を説明しておきたいと思います。
それを参考に、「そう感じるようにしてみる」というものではもはや全くないのは言うまでもありません。「そう感じるようにしてみる」という「枠はめ」姿勢は、この取り組み歩みを始める以前の、一番最初の、誤った姿勢段階です。それをまず捨てることから始め、「社会生活の向上」まで、「気持ち」を問わない行動法学ぶこととして前進する。それによって心の根底「真の強さ」足場でき始めることで、その転換問うことが可能になります。
「命」が、転換問うことを可能にする、「成長」生み出すのです。私たちがまず向かうべきは、「成長」です。そのための意識実践を、この本で説明してきました。
これは乳歯から永久歯抜け替わる時に似ています。「成長」によってその時期訪れるまで、無理に抜こうとしても駄目ということにおいて。あるいは望遠鏡に例えた通り、まだあまりにも遠ければ、いくら望遠鏡を覗いたところで見るのは無理でしょう。しかるべき時望遠鏡で覗いた時に、それは見えるのです。ただの場合は成長すれば放っておいても抜け替わりますが、「否定価値の放棄」成長すれば自ず転換が起きるわけでもありませんので、例えとしては望遠鏡の方が良いかも知れませんね。
「成長」「向き合い」が、絶妙なバランスで手を結んだ時、それらの転換が見出され、その開かれると言えるでしょう。


テーマその1・「愛がこうあるべき」の怒りを捨てる

「否定価値の放棄」転換テーマその1となる、「愛がこうあるべきという怒りを捨てる」は、実際場面においは、大よそにして「愛が不足したものへの怒り」として意識される姿勢を捨てるという転換になります。
「破壊から自衛と建設へ」基本行動様式転換、および「現実において生み出す」という行動法学び習熟基盤として、「愛が足りないもの」感じるものに対して、「怒る」こと以外で対処できる行動法視野に入れることを足場に、それに対しただ怒ることにエネルギーを注ぎ込むことを良しとする姿勢を、捨て去るのです。

振り返るならば、私の心の歩みは、広範囲にわたる、この「愛が足りないものへの怒り」の中で、その歩み始めたように感じます。
『悲しみの彼方への旅』での冒頭の方、対人恐怖症を切り捨てた私が高校3年から大学1年にかけて向かった、「躁の時代」と呼んだ頃のことです。社会に対する戦闘的とも言える批判の目を抱き、自分のような苦しむ人間を生み出した社会の欺瞞分析暴露することに、自分のこれからの生業(なりわい)があるようにさえ感じた・・(P.34)。そうして「怒り」自分前進するエネルギーを得ていた時、そこに同時にいたのは、自分の魂を切り捨てた人間でもあった。そう思い返します。目頭が熱くなる感覚の中で・・。
それから十数年もの歳月を経て、内面を問わない行動法を身につけ始めた訪れたのが、その、「愛が足りないものへの怒り」捨てるという転換でした。
それは私にとって、「内面戦争」とでも呼べるものであったのを憶えています。なぜなら、「愛が足りないものへの怒り」心の勢力にとって、その怒りを捨てるということ自体が、あってはならない、許されざることだからです。「愛が足りないもの」への怒りを抱き続けることにこそ、自分の、「愛」への道があると信じるように・・。
従ってこの怒りは、この怒りを捨てようとする心の勢力と見なし、再び怒りを向けるのです。その結果、怒りを捨てようとする心の勢力に生まれた瞬間2つの心の勢力衝突する、「内面戦争」勃発したのです。
ただしその内面戦争は、一瞬にして勝敗が決せらたようにも記憶しています。「愛が足りないもの」への怒りを捨てようとする心の勢力勝ったのです。
その理由比較的単純です。なぜなら怒り続けようとする心の勢力は、怒りを捨てようとする心の勢力に対して、再び怒り攻撃対処するのですが、怒りを捨てようとする心の勢力は、怒り続けようとする心の勢力に対して、怒りをもって攻撃する・・のではないのです。そこにはただ、何に対して怒りを持つこともない、穏やかな世界がありました。私の心は一度その勢力に占められた時、もうその戦いを続けることさえもやめたのです。

生き方姿勢、あるいは生き方「思想」として考えた時、この「愛が足りないものへの怒り」を良しとする姿勢とは、おおよそ4つ心の歯車合体だと言えます。
1つ目に、「まず与えられる」「まず愛される」ことからスタートすることを期待する心の未熟さ
そして2つ目に、それが「心の治癒と成長」にとっても必要なことだと考える「心の成長の思想」としての未熟さ。これは「ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」」で、「妨げられたケースにおける解決」考え方に関連して触れました。そこにある最大の誤りは、というものを、誰もが自分と同じく、自分の足で立って歩く成長しない存在だと決めつけるような思考の中にいることだと、ここで添えておくことができます。その「成長への無知」を、「思いやり」勘違いしてしまっているのです。特に、「愛される」ことへの躓き超えて、なお「自ら愛する」気持ちを守ることの先にある、「魂の成長」への無知を・・。
3つ目に、「破壊から自衛と建設へ」という基本行動様式転換に向かうことなく、「望ましくないもの」駄目出しをすればものごとが良くなると錯覚し、「否定破壊」価値感じるという、基本的行動法未熟さ
そこにさらに4つ目に、「正しさ」観念添えられることで、それらの未熟さ合体が、しっかりと接着剤に固められたように、人の心固定化され維持されるのです。
そうして、硬直した「愛」「思いやり」イメージをただ頭の中に掲げ、それに満たない「現実」怒りを向けるという、私たちの心の姿の、典型的なものの一つがあります。それが「正しい」ことだという意識の中で・・。

一方それを捨て去らせるものとは、受け身与えられ愛されることへの願望自制するわきまえでもなければ、「心の成長の思想」をどう考え理解するかといった小難しいことでもなく、「破壊から自衛と建設へ」転換と、「現実において生み出す」という行動法向かうことをいかに心底から望むかなのだ、と言えるでしょう。それが自ずと、「命」がつかさどる「成長」その人向かわせるものとしてです。
それによって、「愛が足りないもの」への怒り抱き続けることに、実際には「愛」への道ないことが、見えてくるのです。むしろに、それを捨てることにこそ、「愛」への道可能性が、見えてくる。怒ることを良しとする姿勢を捨てた、穏やか心の世界の中に・・。
あとは「望ましくないもの」否定破壊できることにが添えさせた「価値」と「正しさ」の感覚を、いかに心の根底から捨て去るかになるでしょう。それが果たされなければ、本当の「愛」への道がどこにあるのかの有無をいわさず、理想通りの愛足りないもの叩くことに価値があるという心の根底感覚へと、再びがいくらでも引き込まれる可能性があるからです。
それがの、「自分が神になるのをやめる」というテーマになります。


テーマその2・自分が神になるのをやめる

「愛がこうあるべき」という怒りを捨てるという転換テーマその1は、「愛」における「未熟」から「成熟」への転換節目だと言うことができます。「愛」を、「与えられる」「与え合う」というものだけで捉える姿勢から、「自ら愛する」というものへのを持ち始める節目としてです。
一方、「自分が神になるのをやめる」という転換テーマその2は、「自尊心」における「未熟」から「成熟」への転換節目だと言えます。「神」に威を借りる未熟な自尊心から抜け出る節目として、と言えるでしょう。
またそれが「望ましくないものに否定を向けることに積極的な価値を感じる」という「否定価値」そのものに直接意識の焦点を当て、その捨て去り成すものであることにおいて、ハイブリッド心理学では、この「自分が神になるのをやめる」という転換が、「否定価値の放棄」最も大きな核心になるものだと考えています。
それによって、自らにマイナス感情、悪感情をはびこらせる心が、全く別の心へと切り替わる、大きな転換節目になるものとしてです。

一方でそれが「自分が神になるのをやめる」という意識表現になるとは、多少とも難解なことでもあります。
事実、自らそれを体験し、それを中核に据えた新しい心理学執筆人生をそそぐことを決意した私自身にさえ、どのような心の変化の流れによって、そしてなぜその意識表現によって、「否定価値の放棄」という大きな転換があるのかは、体系立てて説明するのが極めて難かしいことでした。そのための詳しい意識過程この本で整理し、その決め手「成長の望み」であることを明確化するまでに、この心理学体系化を開始してからのほぼ10年を要することになったと、「視野その2・「成長の望み」」で述べたように。それは「成長の望み」において、それに向かい得る自分の姿が見えるに、自分の中でそれを妨げていたものの真実が、見えてくるという形になるのだと。
つまり、「否定価値の放棄」の最大の核心は、否定できることに価値を感じるという未熟さ、そして心の業を、心底から脱することを願う「成長の望み」において、それを妨げているものが、「自分が神になろうとする姿勢」であるという真実が、見えるということなのだ、と。

ですからこの転換テーマについてまず理解しておいて頂くと良いのは、決して、「神になろうとする姿勢をやめれば否定価値を放棄できる」といった、短絡的なものではないということです。
「否定価値」放棄する原動力は、あくまで、「破壊から自衛と建設へ」という基本的行動様式転換と、「現実において生み出す」という行動法への転換を、いかに心底から望むか、そしていかにその具体的内容学び、習得を積み重ねるかです。今「テーマその1・「愛がこうあるべき」の怒りを捨てる」においても、それが基盤だと述べた通り。
それをまず自らの成長として望み、精神論にとどまらず具体的内容においてそれを学び、習得し始めることで、「真の強さの視野」得始めた時、それでも自分をマイナス感情へと強制的に向かわせるものがある。来歴の中にあった躓き妨げ引きずるようなものとして。その妨げ真実見えてくるものとして、「自分が神になろうとする姿勢」がはっきりと自覚され、その捨て去り成す時が訪れるのだ、ということです。
「自分が神になろうとするのをやめる」という「否定価値の放棄」核心は、あくまでそのような「学びの深まり」として、あるのだということです。

その上で、次に理解頂くと良いのが、「神」観念位置づけそのものの話です。
2つの側面があります。
一つに、その情緒的な役割大きさ
そしてもう一つに、知的思考による「神」捉え方バリエーション
この2つ組み合わせが、私たちの心の根底の、「意識」よりも深いところにおける、情緒エネルギー湧き出方を、大きく支配すると言えるものとしてです。

「神」観念がどのように私たちの情緒エネルギー大きく支配するのかというと、ここにまた2面があります。
一つは、私たちが生きていく上で、「既知」のことがらとして対処することのできないさまざま「未知」そして「不完全性」に対して、私たちが最後に頼る、情緒的なよりどころを、方向づけるということです。「神頼み」という言葉に、如実にそれが示される通り。病気自然災害のみならず、試験事業の行く末、さらには異性に告白した結果に至るまで、私たちの人生は、「既知」のことがらとして対処することのできない、さまざまな「未知」「不完全性」溢れています。それに対して、人生を生き始めた私たちのは、「不安」「怖れ」といったマイナス感情を、まず返すのです。それをどう収めるか。
多くの人は、そこで「神」を、何か形あるものとして捉え、その下において、「こうすればいい」という「既知」へとものごとを収めることで、心を鎮めるという方法を取ります。「これがあるべき姿」という観念と共に。それをしっかりと守れば完璧だ、という情緒の中で。
その際たるものが、「宗教」になるでしょう。またさまざまな「占い」も、この姿勢典型的なものと言えます。そこで「神」という観念が次第に明瞭さ失うとしても、私たちが幼い頃から本能的に抱いた「神さまが・・」という情緒が、そこに受け継がれているのを感じ取ることは、そう困難なことではないと思います。「あるべき姿」があるという情緒と共に・・。

そこで「神」観念の下にものごと「既知」へと収め、「あるべき姿」守るというその内容が、ごく謙虚敬虔なものであれば、問題少ないでしょう。
しかしそれはに、容赦ない否定と破壊の衝動に、なり得るのです。「あるべき姿」を何か損なった、不完全な、私たち自身もしくは他人への、容赦ない否定と破壊の衝動に。「神」名の下において。
ここに、人間の悲劇があります。人間が、人間自身を、破壊し始めるという悲劇です。それが「正しい」ことだという感覚の下に・・。
それが「否定価値」この心理学で呼んでいる、「否定できることに価値がある」が感じる感覚の、最も破壊的有害側面です。「否定価値」悪影響として、悪感情基本的増大膨張というものをまず「「悪感情」と「良い感情」の根源と「否定価値」」で説明しましたが、この「自他という人間そのものへの否定感情」というものに至り、「否定価値」は、現在現実におけるものであれ、過去の記憶を引きづるものであれ、「外界との関係の悪化」による比較的「自然」悪感情増大膨張のみでなく、「人間による人間自身への否定破壊感情」という、最も有害な悪感情根源発生源になるのです。
私たち人間の、最も程度深刻悪感情、そして心の動揺悩み、さらに「心の障害」「心の病」の、全て根底に、これがある、とこの心理学では考えています。「神」名の下における、「あるべき姿を損なった存在への否定」感情衝動が。「「心を病む傾向」からの抜け出しの第一歩」で、「深刻な心の悩み、心の病、心の障害というものは、例外なく、道徳の授業型人生観の心の中での悪感情の膨張として起きる」と述べたものもしかり。「心の癌細胞」だと表現した「望む資格思考」しかり。悪感情基本的増大膨張についても、その容赦ない硬直的なありさまは、その根底に、「神の名の下に」と表現できる「正しさ」感覚伴っているからこそ起きる、と言えるでしょう。


ハイブリッド人生心理学の「未知への信仰」

こうして、ハイブリッド心理学「学び」深まりは、「信仰」領域へと足を踏み入れることになります。
つまりそれは、「日常生活の向上」という最も地道着実なものから歩みを始めた先に、「社会生活の向上」という行動学の領域における転換足場にして、「愛と自尊心」という心理学のテーマ視野に入れながら、最後に、「信仰」領域テーマとしての「否定価値の放棄」へと向かうのだ、ということです。

もちろん、「信仰」そのものの全般について詳しい考察を行うことは、もはやこの心理学の「取り組み実践」ではありません。
それでも、心の成長と健康そして幸福にとって必要重要なことを体系的に網羅することを目指すこの心理学に、「信仰」についてのテーマ不在になることは、あり得ないと私は思っています。

ハイブリッド心理学から言えるのは、次の2つです。
1つ目に、「信仰」役割そしては課題は、「未知」なるもの、そして「不完全」なるものに対する、私たち人間の、最後の心のより所にできる情緒提供すること、そして「不完全なもの」への、そして人間の人間に対する否定破壊の感情を、いかに捨て去らせるかの2点にあるのだということです。この役割果たせない「信仰」は、私たち人間心の健康と幸福を、損なうのだ、と。

そして2つ目に、そうした「信仰」領域において、ハイブリッド心理学は、極めて限定された、一本の道を取る、ということです。
今述べた「信仰」役割課題については、ハイブリッド心理学は、「未知」と「不完全さ」を許さず、「分かる」ものとできること、そしてその完全完璧さによって心を収めようとする姿勢とはに、「未知」と「不完全性」をそのまま受け入れ、さらにはそこに心を委ねる先にこそある「未知への成長」こそを、最後のより所にするという情緒的方向性、そして「不完全なもの」と人間の人間に対する否定破壊の感情については、むろん心の根底から根本的に捨て去るという方向性を取ります。
歩み道のりとしては、後者つまり否定破壊感情根本的捨て去りが、「否定価値の放棄」該当します。一方前者つまり「未知の成長」への「委ねの感情」が本当に獲得されるのは、「否定価値の放棄」によって大きく開放される「望み」に向かう歩みの中で、さらに「真の望み」見出され、それに向かうことが自分未知へと成長させていることを、実際体得した時です。
これは「「真の望み」に向かう心の成長の4段階」としては、「情景図」に示されるような道のりにおいて、山の麓到達するまでが第2段階、そのに、を登りに近づいていく第3段階第4段階がある。そこで「否定価値の放棄」がその完了節目となる第2段階しめくくりにおいて、「信仰」領域大きなテーマになり、さらにその第3、第4段階においては、「取り組み実践」として新たな前進導くものは、もっぱらこの「信仰」領域ベクトルになるのだ、とさえ言うことができるものだということです。「不完全なもの」への怒りを根本的に捨てた心の姿勢によって、実際人生を生きる体験積み重ねに向かい、そこに現われる「未知への成長」に、やがて自分の心を委ねるという心の境地見出すことへと、向かうものとしてです。そのに、あらゆる惑い悩みが、やがて「豊かな無」の中に消えていくものとして・・。

そこで重要になってくるのが、「信仰」知的側面です。つまり、知的思考による「神」捉え方バリエーションです。
なぜなら、この取り組みは、知的思考による「本当に確かなこと」積み上げ足場に、内面外面に向き合う取り組みであり、知的思考による心底からの「本当に確かなこと」という納得を経ないまま、「信仰」情緒的な側面だけつまみ食いするような取り組みでは、ないからです。
「そう感じるようにすればいい」という取り組みでは、ないのです。まず「日常生活の向上」において始めた、実直な論理的思考からの積み上げとして、「神」どう考えるのかが、問われるのです。それは果たして、今述べた、「未知への委ね」情緒と、相容れるものなのか。そしてそもそも、「否定価値の放棄」をそれはどう支え得るのか。

実は、実直科学的かつ論理的思考にこそ、「未知への委ね」「否定価値の放棄」につながり得る、「神」捉え方バージョンがあり得る、とハイブリッド心理学では考えています。
「神」どう考えるか詳しい内容はもはや「取り組み実践」範囲外になりますので、ごくポイントを記しておきましょう。

「神」をいかなる形においても知り得ない、「未知なるもの」とし、かつ、否定しない。
これがそのバージョンです。
まあ「いかなる形においても知り得ない」という考え方ですから、詳しく説明するような内容あまりないという話にはなってきます。それでもポイントになるのは、まずは「神」を、人間頂点君臨現実世界あらものごと支配する全知全能精神体、あるいは巨大な人間のようなものとして捉える考え方を、取らないということです。これでほとんどの宗教精神世界論とは袂を分かつことになります。
実際この心理学採用するのは、「「心」と「魂」と「命」の開放」でも言った通り、「小学校で学ぶような基本的科学知識など本当に確かなことからしっかり積み上げていく論理的思考」です。小学校で習う科学の中に、「神」についての確かな情報など何も出てきませんね。
一方でこの「神」捉え方バージョンは、「神」「存在」否定しない
ここで話が少し難しくなってきます。一言でいえば、この現実世界に、「人知を超えたもの」あることを認めるということです。私たち人間何をどのように知り得ないのかについての、論理的思考としてです。科学的思考をすると言っても、全て科学で説明できるとは考えない。まさに科学思考するに、科学でも分からない、彼方の世界があることを認める
ここでその具体的内容はどんなものかというテーマ幾つか出てくることになりますが、まず私の基本的な考え方を書いておくならば、それは超常現象を認めるというような話ではなく、科学というのは人間「意識」観察できるものごとについて法則探求するものである一方、「意識」そのものがどう成り立つかは何も言えない。「意識によって捉えられる以前の世界」どんなものであるのかは、「意識」では当然知り得ない。そこにあるのが「神」の領域だ、といった考え方です。

再び私の心の歩みを振り返るならば、30代後半社会人としての自分自信を持ち始め、「視野その3・「真の強さ」へ」で触れたように、「怖れ」の感情をどう捨てることができるか興味を持ち始めたのと同時期関心を向けたのが、そうした「科学のへり」「科学の彼方」領域でした。
具体的には、「量子宇宙論」「量子力学」などです。もちろん専門書を読むようなものではなく、一般人向けの教養書雑誌をよく眺めては、そうした「物質と意識のへり」世界イメージを走らせたりしました。『入門編上巻』にこれについてのごく短いまとめのようなものを書いており(P.206-)、またその前後の数ページで、「神をいかなる形においても知り得ない未知なるものとし、かつ、否定しない」考え方の説明をしていますので、参考頂けるかと思います。
なお量子宇宙論量子力学について読んでみることは、もちろんこの心理学「取り組み実践」「実践項目」に入るものではなく、人それぞれ趣味嗜好によってという話になります。
また「信仰」そのものについても、あまり「実践項目」として項目立てるようなものではなく、「自分自身に対する論理的思考」という基礎的実践一環と考えていいでしょう。

いずれにせよポイントは、まず人間頂点に君臨する全知全能精神体意識体のようなものとして「神」現実には存在などしないという思考、もしくはそうした観念使わない思考になること。日常生活において。これはよろしいでしょうか。
ただしその一方で、「無神論」にもならないでいること。「神は存在しない」「断言」する「無神論」も、結局は「神」「全治全能の存在」として思い描く中でそれを否定するという、未熟な思考の世界の中にあるように思われます。それによって、その人はやはり「自分は神を知っている」という姿勢の中で、やはり「未知」「不完全なもの」を受け入れることなく、「現実なんて、人生なんて、こんなもの」と、「空しいもの」という「既知」へと決めつけるという心の轍を行くことになる危険があります。現代の日本人の多くが、あるいはこれに該当するかも知れません。そうした「無神論」をも脱するような思考を、いかに持つかという話になります。
つまり、「神とはこれこれで」と、「神」について何かを知っているという思考一切せず、かつ「神」否定する思考しない一言でいえば、「私は神については知らない」という思考です。
はそのような思考をしています。皆さんの思考がどのようなものになるか、ぜひ確認してみて頂ければと思います。

そうした「信仰」知的側面、つまり知的思考による「神」捉え方が、私たちの感情を大きく左右している・・のではありません。
全く逆であり、まずはそうした「信仰」そして「神」についての思考感情におよぼす影響を、まずはほぼゼロにまで減らすのが、少なくともここまでの、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」までの「学び」前進です。それは「小学校で学ぶような基本的科学知識など本当に確かなことからしっかり積み上げていく論理的思考」によってまず日常生活向上させ、社会生活向上も、そこからの積み上げとして「行動学」学ぶことで前進するといった内容ですので、そうでないおかしな話になってしまいますね。
そうしてまずは「神」的な観念、感覚、思考から卒業するような生き方姿勢生き方思考築く、その最後の締めのようなものとして、ほぼゼロのように何も見えない先にある、一つを、開けるのです。
そこに、実は何よりも大きな感情の源泉が、解き放たれるのです。


「否定価値の放棄」を自らに問う

こうして、ハイブリッド心理学「取り組み実践」「ひとまずの習得達成目標」と位置づける「否定価値の放棄」転換のための、準備が全て整ったことになります。
つまりそれは、「現実を見る目」「目的思考」に始まる、外面内面双方「本当に確かなこと」見る目によって歩む「感情と行動の分離」姿勢と、その日常生活および人生における実践積み重ねの先に、「愛と自尊心の心の成長テーマ」視野に入れながら、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」へと前進し、社会人としての自分自信持ち始めること共にあることとして、「真の強さ」視野捉えることに、まさにその歩みによっていったんほぼゼロにまで役割を減らした「信仰」つまり「神」への知的思考が、「いかなる形においても知り得ないものとして、むしろ肯定する」という「未知への信仰」という極めて限定された形のものになることが、合流してくるというものになる、ということです。

そこまで整えば、あとは、いつ、「自分が神になるのをやめる」という心の奥底にある大きな扉取っ手に、手をかけるかです。
「そのつもり」と、空想の中でむなしく宙をつかむようなものとしてではなく、本当にその扉の実体しっかり手をかけるものとして。
そして実際にそれにをかけたに、その大きな扉開くことができるだけの強さが、そのそなわった時において。

それはここまで振り返ってきた私の心の歩みが、「自己嫌悪」感情強度減らす過程であったことの延長として考えるのが、分かりやすいと思います。
つまりそれは、「自己嫌悪」「自分で自分を嫌う」「自分自身に向ける否定破壊感情」という、「自ら不幸になる」ことの最も典型的心の動き根本的な捨て去りとして、自分自身に問うものになるというのが、まずは考えられることです。
それ以外、たとえばに対する、あるいはこの世界のさまざまな不完全なものに対する、積極的なあら探しの否定破壊感情が動く際に、それを心の底から捨て去ることとして「否定価値の放棄」自らに問うというのは、ちょっと考えにくい
まず直感的な表現をするならば、それはになる。「自」への積極的嫌悪感情ではなく、「他」への積極的否定感情というのは、言ってしまえば多少とも自分にとってだと感じるがあり得る。そんな甘っちょろいものではなく、「自」への積極的嫌悪感情という、得るものの何もない、苦しみだけを生み出す心の動き起きた時にこそ、それを生み出した心の歯車を、心の根底から捨て去る選択を、問うことができる。
に言えば、ここまでの歩みとは、「自」への積極的嫌悪感情によって得るものを、その「甘い」側面から抜け出すことを始めとして、「破壊から自衛と建設へ」行動様式転換「現実において生み出す」行動法習得によって自分自信得始めることとして、もはや得るものが何もないことの、外堀埋めていく過程としてある、と言うことができるわけです。
そうして、「自分で自分に積極的否定の感情を向ける」という心の動きが、今までの心をひきづるようなものとして、再び強い疾風として吹きすさんだ時、他にもはや何も得るものがないその心の動きにおいてさえ、自分強制的向けさせていたもの「真実」が、ありありと見えてくるのです。
「これは自分が神になろうとしていたということなのだ!」と。

「自分が神になろうとするのをやめる」という、「心の教え」としては実にありきたりとさえ言えるテーマの、ハイブリッド心理学が考える、その本当の、完全なる成し遂げが、そこにあります。
それは単に特定「思考法」でも「姿勢」でもなく、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」に含まれるその全て、さらに「行動法」学びと、その実際「体験」積み重ねによる「心の成長」が生み出す節目としての、一つ「心の抜け替わり」なのだと表現できます。
その本質は、最初の方の「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」への歩み」で触れたように、、「空想の中で」「絶対的なものから」「否定する」という心の要素と、「現実の中で」「不完全さを肯定し」「生み出していく」という心の要素の、対極結びつきのセットです。いや、それは「結びつきのセット」という言葉ではまだ表現が弱いような、私たちの心の中の、強力な、一つ根核なのです。前者は、自分から不幸になるという生き方の、そして後者は、自分から幸福に向かうという生き方の。
それが「自分が神になるのをやめる」という意識表現になる大元に、私たちの幼少期からの、「神」という観念位置づけがあると言えます。それは「絶対なるもの」象徴として、空想の中で、「絶対的なもの」を基準に、「現実において生み出す」ことなく、「現実」を見下し否定することに自分の価値を感じようとした心の、だったのです。それを抱きながら、「不完全なもの」をにして未熟「癇癪」(「かんしゃく」ちょっとしたことにも感情を抑えきれないで激しく怒り出すこと)を起こすが、それを捨て去った心へと、抜け替わるのです。

ですから「否定価値の放棄」への準備となる心の変化として、もう一つ「真の強さ」視野捉えることと生まれてくる、ある変化を押さえておくと、そうした流れがより理解できると思います。破壊できることを「強さ」感じることを、「愚かさ」だと分かってくるといった変化に、生まれてくる変化です。
それは、優れた他人の姿について、「天才」、そしてまさに「神」と感じる感覚が、減ってくることです。
皆全て同じ人間であることが、感じ取れるようになってくるのです。「天才」「神」と感じられたような優れた他人とは、どのような資質と、どのような向上の歩みと、そこにおけるどのような困苦と、さらにそれを乗り越えるための条件といったもの、そうした「要因」全てが、具体的分かってくるからです。もちろん、自ら「日常生活の向上」から「社会生活の向上」への人生の歩みを積み重ねた経験通してです。
そこにおいて、「天才」「神」呼ばれる人と、そうでない人違いが、ほんの小さな違い積み重ねのようなものであることが、実感として見えてくる。
実際「成長」を通して、そうした「真の強さ」視野に入ってくることを準備段階として、繰り返しますが最後の決め手になるのは結局、否定破壊することに価値を感じる心を自分が脱することをいかに本当に願うかによって・・・上述の通り、神になろうするのをやめることで否定価値が捨てられるのではなく、否定価値を捨てることを心の底から願う「成長の望み」によって、それを妨げているものの真実見えるということなのですから・・・、一つの大きな「心の抜け替わり」となる、「否定価値の放棄」が、開かれるのです。

私自身人生でその開かれた時の様子は、『入門編下巻』(P.179)と『理論編下巻』(5章)で詳しく述べています。「こんな自分は何の役にも立たない人間だ」という自己否定感情強風が吹きすさんだ時、自分に向き合い、そのを開かせたのが、カレン・ホーナイのこの言葉であったことも。
人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない。(『神経症と人間の成長』誠心書房、P.196)
その言葉が私に否定価値を捨てさせた、のではなく、否定価値捨てることを心底から願う「成長の望み」において、私はその言葉を一つの手がかりにして、「否定価値の放棄」成したのだと言えます。その言葉は、「否定価値の放棄」取っ手をつかむための視野レンズ役割を果たしたのであり、否定価値捨てることを心底から願う「成長の望み」が、それをしっかりとつかみ、引いて開ける、腕の力になったものとして。
そしてそれを引き開ける方向とは、「絶対なるもの」という観念捨て去ることです。
「否定価値」捨て去る心の準備は、できていたのです。「真の強さ」手にし始めることとして。そして何よりも、「否定価値」捨てることを心底から願う「成長の望み」として。それでも「否定価値」生き続けていたのは、「否定すべきものがある」という感情に伴う、「絶対なものがある」という、一見して小さな留め金のような感覚があったからなのです。
その小さな留め金を取り去った時、「否定価値」そのものが、ぐらついて、「命」エネルギーそのものによって、流され、消え去っていく。

こうして、ハイブリッド心理学「ひとまずの習得達成目標」と位置づける「否定価値の放棄」は、それ自体としてはさまざまな心の取り組みから見てもごく基本的目標でしょうし、その決め手となる「自分が神になろうとするのをやめる」というテーマも、心の教えとしてごくありきたりなものと言える一方で、ハイブリッド心理学は、そこに至る歩みに、一切の抜け道のない、極めて限定された道のりによって、一切の矛盾のない、統一された心として、その本当の完全な成しとげを行うことに、ハイブリッド心理学独自性があると私は考えています。
だからこそ、それによって起きるものとして見出した心の変化は、もはや全くありきたりではない、異次元のものになるのであろうと。

ありがちなのは、そうして起きる心の変化という「結果」にまず関心を抱くのはいいとして、「否定価値の放棄」そして「自分が神になるのをやめる」といったテーマを、自分十分「分かっている」、さらには「選択している」では考えながら、日常生活での具体的行動場面における思考言動が全く異なるものになっているというものです。つまり、抜け道に行ってしまっているのです。それは結局、否定できることに価値を感じているものであったり、「読んで感銘」することと実際の場面での思考と行動全く「別の話」のようになってしまっているもの、また自分では「学びの設定」ができず流されるだけになってしまうものなどが主なものになるでしょう。
いずれにせよ、「変化できた結果」という、この旅路終わりの方から自分当てはめてみる、という向き合い方ではなく、この本で説明した詳しい意識過程最初から、地道に、自分日々の思考がどのようになっているのかをつき合わせ確認し、自分は今この部分が課題だというものを自己把握していくような向き合い方こそが、最短の歩み方になります。「「成長の望み」とは」で、この列車最初に乗るところから取り組み確認してみるのが最も確実だと述べたように。そこでまずしっかりに捉えるべき最初の視野とは、「心と体が実際にどう動いているか」なのだ、と。
同時に、そこでもしわき道を行っているならば、ハイブリッド心理学「学び」を、「心の健康と成長のためにはこうしなければ」と意識するよりも、自分ハイブリッド心理学とは違う道を行っているのだと覚悟するような意識の仕方が、むしろ逆説的に、心の根底この心理学向かう道近づけるであろうことを、お伝えしておきます。見えない「命」が、そのように動き始めるというものとして。これは「「学び」とのギャップを生きる」および「「学び」への入り方」で説明した通りです。



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2013.6.19

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