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ハイブリッド人生心理学とは 1.ハイブリッド人生心理学とは
2.「取り組み実践」への理解
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 (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
(14)
3.学びの体系
4.メール相談事例集

2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』
として無料電子書籍化しました。今後の更新電子書籍側のみになります^^。


2.「取り組み実践」への理解 - 続き
 (13)「否定価値の放棄」が人生にもたらす影響
「否定価値の放棄」から先の歩み  心が進む道  視野その5・「否定価値の放棄」が人生にもたらす影響  「否定価値のない心」の別世界  生きるエネルギーの解放  テーマその3・「空想」を不幸になるために使うのをやめる

「否定価値の放棄」から先の歩み

「否定価値の放棄」によってに起きる変化は、3つの転換テーマの中でも、「自分が神になるのをやめる」という中核テーマによるものが最も大きくなるであろうことを、私自身経験からも言うことができます。
それは「愛がこうあるべきという怒りを捨てる」という転換テーマその1が、心が向く方向180度変わることによって、見えるもの全て変わってくるという、これも大きな変化であるのに対して、「自分が神になるのをやめる」という中核テーマは、心が置かれた場所全く異なる世界切り替わる変化だと言えるものとしてです。一方、転換テーマその3「空想を不幸になるために使うのをやめる」という転換は、歩む先に出会う分岐路一つ一つにおいて、今までと違う道良く見えるようになるという変化だと言えます。

「自分が神になるのをやめる」という中核テーマによって、心が置かれた場所がどのように全く異なる世界切り替わるのかと言うと、例えるならば、裁判所の中から、大自然の草原へ、という表現があてはまるでしょう。
今までの心において、「人生」そのもの、そして自分の存在そのものが「裁かれる」ものとしてあった、ということになります。裁判所の中で。「否定すべきものがある」というストレスの下に、恒久的にあったものとして。
それはなく、はただ、今を生きる自分と、向かう世界がある。その開放された世界に、置かれるのです。

一方でこの表現同時に、この時点がどれだけプラスの感情満たされるかについては、まだ全く不確定であることも示しています。
それはこれからの問題なのです。開放されていく「望み」を携え、不完全なこの「現実」という世界に、いかに向かうか。それによって「外界現実との良い関係」をいかに築くかに、良い感情悪い感情がどのように湧き出るかがかかってくるのです。「「悪感情」と「良い感情」の根源と「否定価値」」で、それが基本的な機能だと説明したように。
しかしその前提となるが、全く違う世界になるのです。裁判所と、大自然の草原違いと言えるほどに。
もしこの歩み来歴の中での躓きと妨げを抱えた心によって開始された場合、いったんこの段階で、全ての問題が消えてしまったかと感じる可能性もあります。それだけ、多くの問題「否定価値」による悪感情の増大膨張として起きていたのです。「「悪感情」と「良い感情」の根源と「否定価値」」で詳しく説明したように。
この開放感はあまりにも大きく、最初の「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という取り組み目標」でも、「自分からものごとの悪い面に目を向ける姿勢が心の根底から消え去り自分道徳心のない能天気人間になってしまうかと感じるほどの変化」になるかも知れない、と述べた通りです。

もちろん全ての問題消えたのではなく、「否定価値の放棄と望みの浄化成熟の思想」の中で「心に起きる問題」として整理した3つにおいては、「怒り憎しみ」完全捨て去られ「心の闇の感情」多少その残骸が、その人来歴における躓きと妨げ大きさにやはり相応する形で、残っている状態と考えるのが妥当でしょう。「心と魂の分離」という万人に共通問題についても、まだ手つかずです。
その3つの問題が合わさった結果としての「否定価値」がまさに捨て去られた一方で、意識が最初から「心の闇の感情」反映し変形したものとして、「人との隔たりの感覚」などがやはり残っていることが考えられます。私の場合がそうでした。
それでも、それらはもはや、この人人生の前進、そして心の成長歩みに立ちふさがる、壁ではなくなります。それはもはや、完璧なものなどない、不完全な存在としての私たち人間が持つさまざまな「制約」の中の、一つにすぎなくなるのです。たとえば経済的制約身体的制約と同じように・・。
もちろんそれは正真正銘、のさまざまな「制約」と同じもの・・なのではありません。来歴において抱えた、つまり恐らくは「依存の愛」十分に満たされる願いにおいて抱えた躓き妨げによる「心の闇の感情」に、さらに向き合うことにこそ、「心と魂の分離」という、万人に共通問題真実が見え、その先に、順調な成長を重ねることができた人たちよりも、はるかに豊かな未知の心へと変化していく、神秘なる道が現われるのです。


心が進む道

いずれにせよ、「否定価値の放棄」によって、「望み」の感情大きく開放されます。それが、「否定価値の放棄」の、悪感情の増大膨張消え去ることと並ぶ、大きな位置づけなのです。この仕組みについては「「否定価値」によって塞がれる「望みの感情」」で説明した通りです。

そこから、開放される「望み」に向かって、進み得る道3つある、と覚えておいて頂くと良いでしょう。
一つは、「望み」叶うことへと近づいていくです。この方向前進できれば、無論それに越したことはありません。これが1つ目の道です。
しかし現実世界は、そして私たち人間というものは、不完全です。そこにもう一つの道が現われます。
それは、「望み」叶わないことを断念し受け入れる道です。これが2つ目の道です。
これも重要です。これがないと、私たちのは、まず言っていつまでも「平安」を得ることができません。また「断念」「受け入れ」心の足場になる「覚悟」というのは、「2つの心の世界を持つ」でも触れた通り、私たちの基本的な成長にとっても重要です。私たちの人生でのその最初の体験が、たとえば注射怖がるのをやめるといったことであろうように。それによって、私たちはちょっとしたものごとに「動じない」という「強さ」身につけていくのです。
まずはこの2つの道が、「今の心」でのものになります。「今の心」で、「望み」だと感じるもの近づければ無論それは良いことであり、一方そうでないものを断念受け入れるというもある。

それとは全く別の道が、進み得るものとして、もう一つあります。
それは、「望み」がその通りには叶わない失意超えて、なお「望み」向き合う先に、「魂の望みの感情」が現われ、「魂との対話」をする中で、私たちが別の人間へと変化していくです。
これが、第3の道になります。

この3つの道どれも重要なものであり、特にどれを重視すればいいというものではありません。そう考え始めるとバランスを失い、3つの道ともうまく進めなくなってしまいます。
まずは「望み」叶えるために全てを尽くすのが基本姿勢であり、「望み」通りにならない不完全さ受け入れることも不可避必須であり、あくまでこの2つの道跳躍台のようにして、第3の道も現われるのです。
ですから「取り組み実践」つまり意識実践として必要となる残り学びとは、まずは「魂の望みの感情」「魂との対話」とはどのようなものであるのかを、知っておくことになるでしょう。それが現われた時、積極的耳を澄ませ目を向けることができるためにです。知らぬがために見捨ててしまわないために。

そしてもう一つは、それらが前提とする「否定価値の放棄」について、自分その扉開けることを本当に成しているのか確認を、今後適宜できるようになるための視点です。この本でそこに至るまでの詳しい意識過程を説明しましたが、当然、読んだ納得感銘によってすぐ成すものではありません。これからの人生長い道のりの中で、いずれその扉本当に開けることを、自らに問う時が来る。それについて、読んで学んでいる段階のとしては、どんな視点心の懐装着しておけばいいか。
「否定価値の放棄」転換テーマの残りその3と合わせ、それを説明しておきましょう。


視野その5・「否定価値の放棄」が人生にもたらす影響

まずは、「否定価値の放棄」成した心成していない心大きな違い知っておくと良いでしょう。
「否定価値の放棄」は、最初の方の「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」への歩み」でも述べたように、「心得」というレベルのものではなく、人間「心の業」根源取り去るという哲学宗教的「悟り」匹敵するものであり、先の「「否定価値の放棄」を自らに問う」で述べたように、「心の抜け替わり」だと言えるものです。それを決定づけるとハイブリッド心理学が考える「自分が神になろうとするのをやめる」という意識転換も、意識の表面思考問題よりも、それを取っ手として、心の奥底大きな扉開け放たれることに、大きな位置づけがあります。
それが成された心と、成されていない心の、大きな違い知っておくことです。

これが「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」で、「否定できる価値」放棄している「つもり」でいながら実はそうではないという状況把握役立つと述べた、視野その5「否定価値の放棄が人生にもたらす影響」の話になります。
「否定価値の放棄」による大きな違い知っておくことで、日常生活の中で悪感情を体験した時に、自分が「否定価値」の支配下にあることを、次第自覚できるようになるでしょう。その理不尽さ実感を、次第に強めながら。
ただし「「心」と「魂」と「命」の開放」「最も感情が悪化しやすくなる」ものと述べた、「自分で考えるということが基本的にできず感情相手にぶつけて相手に考えさせようとする傾向」や、「注射」なり「幽霊」なり日常生活「怖がろうとする姿勢」抜け出すといった、「強さ」向かう歩みがまずあっての話です。でないと「否定価値」は、理不尽どころではなく、いつまでも手放せない魅力あるもののままですので。

そうして視野その5「否定価値の放棄が人生にもたらす影響」補助にしながら、視野その1「心と体が実際にどう動くか」からの流れがある、と理解して頂くと良いでしょう。
面倒でしょうが、終わりの方から当てはめてみるというのではなく、最初の方から確認してみることこそが、最短の道になるものとして。最初の方抜け道があるほど、「否定価値の放棄」という先の目標からは、当然より大きく離れてしまいます。
そうして視野その2「成長の望み」にも向き合う歩みから、視野その3「真の強さ」見えてきた頃に、視野その4「否定価値の放棄を問うための心のテーマ」によって、その大きな扉自分に見えるかに向き合う。どうもピンと来ないようであれば、まだそれだけの準備成されていないということです。再び視線自分の心内部ではなくに向け、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」への歩み地道に続ける。そしてまた何か機が訪れた感覚を持ったら、再び自分の心奥底問いてみるのがいいでしょう。
これが、「「学び」の流れチャート図」で、「大よその習熟体得」の先に「否定価値の放棄」成されると示した流れになります。


「否定価値のない心」の別世界

「否定価値の放棄」成した心に訪れる、計り知れないほどの大きな変化として、3つトピックをお話ししておきたいと思います。
変化基本的な軸参考となる人間事例、そして変化の軸としてもう一つ、「人生」感覚変化です。

変化基本的な軸は、「怒り」消えることです。「喜怒哀楽」という、私たちの基本的な感情における、「怒」が、私たちの人生から、消え去ります。
私自身について言えば、「怒りに駆られる」という体験は、2004年にあったものが最後でした。仕事場面での他人の様子怒りを感じたのですが、その頃には私はすでに、人との対立場面でも怒りを全く使わない行動法を身につけていたにもかかわらず湧き起こるその怒り自己分析し、それが「ニセを生きている他人」への怒りであり、その怒りによって自分「ニセを生きている人間」ではない証明をしようとしている衝動の中にあることを自覚した時、その怒り消えたのです。それが人生で、「怒りに駆られる」という状態になった、最後の体験でした。

私自身は、もう残りの人生「怒り」感情体験することはないように思っています。「怒り」という脳の機能そのものを、失ってしまったように。
なぜなら、「怒り」というのは、もともと相手との戦い怪我をしてもダメージ少なくなるよう、血液に集め身体代謝機能停止に近づけるという、その発動自体が身体的ダメージのある、原始的な「捨て身」の生理的反応としての感情だからです。この、「怒りの有害性」の話から、まさにハイブリッド心理学の話始まるように。『入門編上巻』です(P.17)。
私はごく最近まで、「否定価値の放棄」を成しても、そうした「怒り」という脳の機能そのものは残るのであり、怒ることが役に立つ時大いに怒ればいい。それはクマに出くわした時か、暴漢に襲われた時くらいのものだ、としばしば述べていましたが、では、そうした脳の機能そのものが消える感覚を持っています。なぜなら、万一そうした場面外面においては怒り反撃行動を取るとして、内面において怒りの生理的反応が特に役に立たなければ、起こす必要もないからです。「怒り」は結局「原始的生理反応」であり、脳のレベルでその役割停止できるのだ、と・・。
実際上述の2004年というのは、私自身の心に起きたあまりの変化触発されて執筆活動を開始した2002年から2年が経った時で、取り組み方法についての考えもかなりまとまってきて、その自らの実践によって心の変化加速度的に進んだ時でした。その中で、日常生活の中でのちょっとした憤りの思考が起きた場面、また人との接触でちょっとした恥ずかしさを感じた場面で、以前ならあったような「血が騒ぐ」「血が逆流する」というような生理的変調感覚が起きず、「あれっ?」と自分で驚いたことがあるのが印象的記憶に残っています。「体質は変わらない」としばしば言われる、その「体質」属していると思えたようなことさえも、変化してきたのです。

なお私の中「否定価値の放棄」成されたのは1997年36歳の時のことで、それから上述の「怒りが消えた」まで7年を経た43歳と、結構時間がかかっていますが、一つは、執筆開始2002年までは、自分の心変化行き先を意識できておらず、やはり間延びがあったのと、もう一つは、「否定価値の放棄」心の根底における変化であり、具体的行動場面での悪感情克服は、あくまで具体的行動場面それぞれにおいてそこから本格的始まるという流れに、沿ったものです。これは最初の「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という取り組み目標」で、「習得達成された心の姿勢と思考法行動法によってさらに人生を歩むことが、未知の異次元豊かな世界へと変化させていく」と、また「「否定価値の放棄」までの「学び」の主な流れ」で、「悪感情の克服が目に見えて、右肩上がり前進するようになるのも、否定価値の放棄経ることで建設的な思考法行動法豊富な発想によって開花するようになってから」と述べた通りです。
それが「具体的行動場面での悪感情克服」であり、「生きること」「生きていること」そのものへの感情は、「否定価値の放棄」を節目に劇的に良いものへと変化します。これも、「「否定価値の放棄」までの「学び」の主な流れ」で述べた通りです。
事実、「否定価値の放棄」成した時、私の心あまりにも軽くなりました。それで、日常姿勢としていた日記に向かうこともせず、後日「早くこうなっていなかったのが悔しい」などと日記に書いたことを、『入門編下巻』で触れた通りです(P.180)。

「生きること」への感情という、私たちが普段生活している中で最も底流として流れる感情悪いものであるとは、結局のところ、「自分自身」という決して離れることができない相手への、「怒り」感情最大の根源になるでしょう。それが消え去るのです。
に見るならば、日常生活の中で動く、「否定できることに価値を感じる」という一見小さな心の動きが、心の根底で、実は巨大なる「生きづらさ」の感情へとつながっていく、ということです。
それを踏まえて、「否定価値の放棄」という、この心理学の「習得達成目標」を、自らの目標定めるかから、検討して頂くと良いでしょう。「「否定価値の放棄」を自らに問う」で言ったように、抜け道のない、統一された心として、その本当の完全な成しとげを行うこととしてです。「それとこれとは話が別」という自己分裂の姿勢を抱えたままでは、成すことはできないものとして。
否定できることに価値を感じる信念維持しながら、生きずらさなくしたいと思っても、そうは問屋が卸さないということです。どちらかを選ばなければなりません。
もしその選択困難を感じるとしたら、「「人生観」の学び」から再び始めてみるといいかも知れませんね。「否定価値」根底にあるのが、やはり「道徳の授業型人生観」だからです。これは「「学び」の流れチャート図」で、「理解納得の前進」うまく行かない場合に、「基本的な妨げへの取り組み」を経てまた戻るという流れです。
全ての根底に、そうした「人生観」の違いがあります。「人生観」への取り組みが生み出す心の変化が、見えない形で、私たちの思考を、根底から変えていきます。その変化を生み出すのは、もちろん「命」です。

「否定価値のない心」という別世界を、より直感的イメージできるであろう、一人人物事例紹介したいと思います。
ハイブリッド心理学の取り組み実践によって「否定価値の放棄」成した人の話ではなく、脳の怪我によって「悩む機能」を失った人の話です。
その人は確か30歳前後女性でしたが、自転車転倒し、頭部生死の境をさまようほどの大きな怪我を負った後奇跡的回復し、学習記憶の面や、ろれつが少したどたどしくなるなどの後遺障害を残しました。その人が極めて特異だったのは、情緒面の障害はほとんどなかった中で、「悩む機能」だけが損なわれるという、極めて珍しい、限定的な情緒障害が現われたことでした。その人の日常生活が映されていましたが、料理失敗するたびに、面白い笑っている様子。撮影スタッフとのインタビューの中で、「今の方がいい。だって楽しいから」と答えていたのが印象的でした。リバビリ医師「悩めるということも大切です」という言葉に、「そうですか・・」神妙な様子でいたのもまた印象的でした。
ハイブリッド心理学における「否定価値の放棄」は、もちろんそこまで過激なものではないでしょうが、それでも、直感的にはそれに類するものと、私は感じています。
「否定価値の放棄」によって大きく開放される「望み」に向かう歩みによって、特にその中で「魂の望みの感情」に出会い、「魂との対話」をする中で、別の人間へと変化していく、と「心が進む道」で触れておきました。
そのように、「否定価値の放棄」に、私たちが「望み」に向かう中で別の人間へと終わることなく変化していくがあるのですが、「否定価値の放棄」そのものについて言えば、次元が一つ異なり、「動物として別の種類になった」というような感覚を、私は持っているのです。

そうした根本的心の変化「ひとまずの習得達成目標」とするこの心理学を、自ら取り組み指針にするかどうかの「選択」から、始めるといいという話になります。
一言でいえば、日常生活の中で「怒りに駆られる」「いらいらする」また物事人物について何かにつけて否定的な感情湧くようなことがあるのであれば、まず言って「否定価値」にあるものと考えて良いように思います。もちろん、まずは犯罪に巻き込まれるなど特殊状況ではない通常の日常生活における心のあり方取り組む上でです。そこから上述のように、終わりの方から当てはめてみるのではない、最初の方から確認していく、地道な歩みへと、向かうのです。


生きるエネルギーの解放

「怒り」根本的に消えることと並んで、「否定価値の放棄」がもたらす変化は、「人生」への感覚への変化です。
一言でいえば、それは「生きること」への不明感の消失と、生きるエネルギーの開放と湧き出しです。これも、「気持ちの持ちよう」「考えよう」とは、異次元変化として。「生きづらさ」とは、対極世界へ。

これについて、今回この本執筆を進めながら、私自身の変化を振り返って、これは一体どういうことか考えたものがありました。
「「人生の望み」への向き合い」でも少し触れた、『悲しみの彼方への旅』ラストの方で描写した「人生の見出し体験」です。かつてとは全く別人のように行動的になれている自分自覚した私が、まさにそれによって、自分自身「失われた青春」をまざまざと自覚した時です。自分の人生一体何だったのか・・。その悲嘆にくれる中で、同じ言葉をインターネット検索した時、そこに現われたのは、あまりも悲嘆な人生を抱えた人々でした。そこにあるのは、何億何万というの中で、幸せな人生を送るか、それとも、あまりにばかげた損な一生を送るか、何の必然性もない、「容赦ない現実」でした。
その時、私の中で、何か解き放たれたのです。自分の人生特別なものだという、幼い頃から抱いていた感覚は、完全に間違っていた。ここにあるのは、ただ“ちっぽけな人生”なのだ。僕は今ようやく人生というものが分かった気がする。やっと今になって!と(P.338)。
これをに、私の生活無気力や空虚とは縁のない、いつも充実した状態でいるようになりました。そこから間もなく、私はこの心理学執筆開始したのです。

私はこの変化を、「否定価値の放棄」が生み出す一連の変化一つと考えていますが、その時の意識内容と、それよって心の根底で起きた大きな変化とのつながりについては、どうも不明瞭感覚がありました。
「自分の人生が特別なものだという、幼い頃から抱いていた感覚」が、完全に間違いだったという自覚として、その変化解き放たれたのです。自分よりはるかに不幸な人姿を見て、自分恵まれていることを感謝する、というのとは、かなり違う。これは一体どういうことか・・。
そして今回この本の執筆をしながら、それを考えてみて、かなり明瞭なものを感じました。
つまり、その時私の中で、「これがあれば絶対だ」というものが人生にある、という感覚が、崩壊したのです。それを獲得したならば、自分の人生特別なものになる。自分その道に置かれた、特別な人間はずだったという感覚です。に言えば、それがなければ駄目だ、という感覚の中で、私は生きていたのです。不完全私の現実は、後者傾いていたものとして。その感覚が、完全に崩壊したのです。
「これがあれば絶対」という具体的内容問題ではありません。「人生」というものが、「これがあれば絶対」という何かの下支配されるものとしてあるという、より深い感覚が、崩壊したのです。ならばこの変化は、不思議なものではありませんね。
これも、表面的な意識法思考法として試してみるというものではなく、先に「視野その5・「否定価値の放棄」が人生にもたらす影響」で言ったように、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」への歩み地道に続ける中で、何か機が訪れた感覚などを目安に、自分心の奥底問いてみるのがいい視点になります。


テーマその3・「空想」を不幸になるために使うのをやめる

「否定価値の放棄」構成する3つの転換最後となる転換テーマその3は、「空想を不幸になるために使うのをやめる」です。
これは、自分自身に対して自ら、悪感情、マイナス感情を煽るような空想を、もう行うのをやめる、という心の根底における姿勢です。

これについてまず理解しておいて頂くと良いのは、これは決して、にある安易な心の取り組みでしばしば言われる、「気にしなければいい」「考えなければいい」という、実際に湧いてくる空想観念かき消し蓋をすることを良しとする姿勢とは、根本的に違うものだということです。
実際に湧いてくる空想観念があるのであれば、まずはそれについて全力で取り組むのが、この心理学からの指針です。「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力」で、「気にしなければいい」という克服法誤りの典型だと指摘して説明した通り。
もし実際に湧いてきてしまう空想観念があるのであれば、それについて全力で取り組むのです。もちろん「学び」を得ることを基本的な足場としてです。
現実において私たちに起こり得る危険と、病んだ空想もしくはありふれた杞憂である可能性の、両方視野に入れ、それぞれの場合対処行動法への学び用意した上で、自分の人生をかける気持ちで、実際その場面にのぞむのがいいでしょう。何よりもその姿勢が、それが現実に起きている危険であるのか、それとも病んだ空想杞憂なのかを見分ける判断力も、与えてくれるでしょう。
そうしてこの「現実世界」に向かって生きる「学び」「体験」を通して培っていく「強さ」をまさに足場にして、自分で、もはや「不幸になるための空想」としてしか動いていない心の使い方実感し、それをもう捨てるという、心の根底の姿勢の転換を、私たちは持ち得るのです。

その点、この転換テーマその3は、先の2つ転換テーマ「愛がこうあるべきという怒りを捨てる」および「自分が神になるのをやめる」が、「依存から自立へ」という、生涯を通して成す一つの転換軸における、それぞれが生涯一度ある通過点であるのに対して、この「空想を不幸になるために使うのをやめる」は、ある程度まとまって前進した成長転換仕上げのようなものとして、何度か持ち得るものという印象を、私は持っています。
私の場合は、「視野その3・「真の強さ」へ」で触れたように、まず「怖れ」感情どれだけ消し去れるか興味を持ち始め、敢えて恐怖かきたてるようなものに向き合ってみる試みなどをした時期があった後、「自分が神になるのをやめる」という中核テーマによる「否定価値の放棄」を成し、それからまたしばらくした時期だったと思います。今度はに、怖れを煽るような空想に見入ることの全体が、もう無駄なように感じたのです。「空想」という自分の心の機能を、もうこうしたこと使う必要はない、と。

その自覚焦点は、その時に浮かんだ空想の内容よりも、成長した自分においてもはや「備え」としてさえ必要のない、不要な空想をする、自分心の底の姿勢に向けられています。
ですから、それを捨て去るという転換は、その時点での心の風景が大きく切り替わるというよりも、この先の人生において、もはや心を惑わす「空想」というものが、心の根底からもう起きなくなるという、極めて幅広い影響をおよぼすものと考えられます。
もちろん、この後「気になる」ものがに現われれば、全力で取り組むことを基本としてです。そのに、この「空想を不幸になるために使うのをやめる」という姿勢素地にして、心の成長に応じて、心を惑わすものはもう最初から心に湧かなくなってきます。さらには、以前の自分にとっては心を惑わすような他人の言動実際にあったとしてさえ、その重みゼロになり、もはや存在しないのと同じものへと響かなくなくなってくる、心の平安動じなさへと向かっていきます。もちろんさまざまな心の紆余曲折はあるでしょうが、は次第に、自分自身をを幸福する感情だけを、湧き出させるようになっていくのです。

なお「否定価値」妨げ強さがもともとそれほどでない場合は、比較的短期間建設的行動法学びの先に、この「空想を不幸になるために使うのをやめる」という転換テーマ中核とする形で、「否定価値の放棄」簡易版とも言えるような変化成すことも可能、というのがメール相談事例からの象です。
そのような例として、『実践編上巻』で取り上げた「A子さん」が、2か月弱でそのような変化へと至った事例として参考になるかと思います。また、の多くの心の取り組みが、心の惑い煩いからの脱出として狙うものの本質も、この「空想を不幸になるために使うのをやめる」という転換になるのではないかと感じられます。
ただしそれだけによって開放される度合いは、あくまでその人心の根底がいかに「開放」へと方向づけられているかに依存することが考えられます。そうした根底における、根本的転換成長を成すのが、こうして説明してきた、「自分が神になろうとするのをやめる」という中核テーマに取り組むまでの、ハイブリッド心理学取り組み実践流れになります。



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2013.7.6

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