1.ハイブリッド人生心理学とは 2.「取り組み実践」への理解 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) 3.学びの体系 4.メール相談事例集 |
2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』 として無料電子書籍化しました。今後の更新は電子書籍側のみになります^^。 |
「真の望み」への道 さて、以上で、ハイブリッド心理学の取り組み実践において、「意識実践」となることがらについての説明が、全て終わりました。 もちろん、やるべきことがこれから沢山あります。「「学び」の全ては一貫した指針の下に」で例えとして描いた情景で言うならば、つるはしとスコップで掘り進む先に、大きな石を自分の手で取り除いて、心の泉が大きく開放されたのです。そこから豊かに湧き出てくる水を、これから、自分の人生の土地へと行き渡らせるのです。再び、つるはしとスコップで。「望み」という名の、豊かな水をです。 「意識実践」として行うことは、一貫としています。「感情と行動の分離」の2輪を携え、「スパイラル前進に向かう「常に今からの取り組み」として、「今何を学ぶのか。そして今何を本当に感じているのか」という意識実践を、心の外面と内面において行うのです。これが、最後まで一貫しています。 一方で、その情景はもはや全く異なるものになっています。「否定価値の放棄」までは、暗い井戸の中を掘り進むようなものから、これからは、開けた大地の上に立ち、自分の人生の土地がどこへと続くのかに思いを馳せながら、心の泉から湧き出る「望み」の水をつるはしとスコップで行き渡らせて行く中で、さまざまな草木と花が咲いていくものへ。「人生の前進」がしっかりと車輪がかみ合うものとして前進し、外面と内面の双方において、自分の右肩上がりの成長を感じ取れるのもこれからになるでしょう。今まで自分が経てきたさまざまな心の変化の全てが、実はそれによって「準備が成された」という位置づけのものであったことが分かるようなものとして。ここから始まる、終わりのない変化のために。 そこには、今までにはあまりなかった、生きることへの「楽しさ」という感覚が伴うでしょうし、「人生」というものが、押しつけられた重荷のような感覚も消え、なにか想像もつかないことも待っているという予感の中で、「面白いもの」という感覚さえも生まれてくるかも知れません。 これが、「心の成長の道のり情景図」のように示されるものとしてある心の成長の歩みにおいて、山の麓からいよいよその中腹を登っていく、見える風景も刻一刻と変化していく、充実した段階になります。 「「真の望み」に向かう心の成長の4段階」で、「第3段階」として触れておいた段階です。そこでは「望み」を自分が引っ張り上げていく形になる、と。「否定価値の放棄」を過ぎ、「望み」が大きく開放されると共に、もはや悪感情の増大膨張に妨げられることもなく、建設的な行動法と、社会を生きる知恵とノウハウの活用が幅広く開花することで、まずは外面における自分の前進成長が、「望み」をさらにより高いものへと引っ張り上げていく、というものになるでしょう。 そんな中で、私たちに最後に残されたことがあります。 「望み」の水を、自分の人生の土地へとおおよそ行き渡らせることができ始めてきた頃になるでしょう。心の泉から湧き出る「望み」の水に、2種類があることが分かってくるのです。一つは、川に流れているような、普通の水。少しにごって透明度は低いですが、草木を育てるために十分に役立つものです。そしてもう一つは、完全に澄み切った透明で、光を放つかのように輝く水です。 やがてその違いがはっきりと分かってきます。普通の水の方は、草木を育て花を咲かせることもできるのですが、水が少なくなってやがて途絶えてしまうと、草木も枯れてしまいます。しかし透明に輝く水を得た草木と花は、永遠に枯れないのです。 私たちに残されたこととは、この透明に耀く水によって生まれる「豊かさ」の先にこそある、「人生の答え」とは、さらには「人間の真実」とは何なのかを、探求する歩みになるでしょう。 それが、「心の成長の道のり情景図」において、山の中腹から頂へと近づいていく段階であり、「望み」を自分で引っ張り上げる段階から少しさま変わりして、逆に「望み」によって自分が導かれていく、この心の成長の道のりにおける第4段階になります。 それが、「真の望み」への道です。 「魂の望みの感情」 私たちを「真の望み」へと導くもの。 ハイブリッド心理学でそう位置づけているものを、「魂の望みの感情」と呼んでいます。 心理学からはそれは、一言で「自意識が薄れた望みの感情」と定義できるでしょう。 「望み」の感情は元来、「自意識」を基盤にして生まれます。「こんな自分になれたら」と、「空想」の中で自分の理想の姿を思い描き、それを望む感情として心に起きるものです。「過去」の記憶と、「未来」の空想も足場にして。 「自意識」を持たない動物は「望み」の感情を持たない、と言えそうです。ただしこれが実際動物の進化のどんな段階を境目にすることなのかは、恐らく私たちの常識的感覚よりも、かなり下の方に修正するのが正解かも知れません。つまり私たちが親しく接する動物は、大抵が「望み」の感情を持つらしい、ということです。「自意識」のごく根源的な機能が、恐らくそこに働いていることが推測されるものとして。 私の好きなテレビ番組に『志村どうぶつ園』というものがあり、そこに出てくる「動物と話せる女性ハイジ」のコーナーが大好きで必ず録画しているのですが、そこで例えばペットの犬が、怪我や病気などで動けなくなったあと、大好きな公園で遊びたいという「望み」や、ただ家族の笑顔を望んでいるという「望み」の気持ちが伝えられ、私たちの感動を誘います。その純粋で一途な、「望み」の感情に触れてです。 それに引き換え・・という表現が自ずと出てしまうように、人間の「望み」の感情は、愚かな惑いの中で歪み、あらぬ方向へと向かいがちです。「お金」への「望み」がその際たるものであることを、「「心の成長」とは「望みの成熟」」で触れたように。「自意識の業」によって、「望み」がそのように「煩悩」と「惑い」にまみれたものへと歪んでしまうのです。 一方そんな私たち人間にも、「自意識」による惑いと歪みのない、澄んだ感情があります。 ハイブリッド心理学では、それを幅広く「魂の感情」と呼んでいます。 それは頭であれこれ考えて湧き出る感情ではなく、体の奥から湧き出るような感情です。ふわーっ、ゴゴーッ、ワクワク、キラキラと、擬音の表現が似合うようなものとして。例えば、雄大な大自然を目の前にした時の感動や、スポーツの大切な試合で勝利を得た時の、動物的な歓喜の感情のように。そして初恋の、胸がキュンとするような切ない感情のように。これらはもちろん、「心の豊かさ」の素材になるものと言える感情です。 一方、マイナス感情、さらには心を病んで起きる悪感情の中にも、「魂の感情」があります。「悲しみ」は大よそにして「魂の感情」として湧き出ます。漠然としたもの悲しさから、激しい悲哀まで。心の病みに伴う「空虚感」「抑うつ」も「魂の感情」であり、自分自身の情動の核となるものを失っていること、そして「望み」の全体が圧迫されていることへの、「魂」の反応だと言えます。 そうした「魂の感情」に向き合うことの位置づけは、こうです。 もちろん「感情と行動の分離」の「外面行動は建設的なもののみとし、内面感情はただ流し理解のみする」というものにおける内面側の向き合い、そして「今何を学ぶのか、そして今何を本当に感じているのか」という一貫した意識実践における、「何を本当に感じているのか」の側の取り組みとしてです。 それは、そうした「魂の感情」こそが、私たちの本当の心の「事実」、心の「現実」、そして心の「真実」を示すものだということです。 ここに至り、ハイブリッド心理学の「感情と行動の分離」の取り組みが、「感情を無視して理屈で行動する」といったありがちな誤解とは、まさに対極にあるものであることが、明瞭になってくるでしょう。 「「現実」は必ずしも「感じる」通りのものではない」で、「感情と行動の分離」について、誤解にも触れて述べた通りです。それは何でも理屈で行動するなどというものではなく、むしろ逆に「感情」というものを最大限に配慮する姿勢だと。ありのままの感情をです。それは頭であれこれ考えて出てくる「自意識の感情」よりも、理屈抜きに体の底から湧いてくるような「魂の感情」にこそ、真実があるということです。 「否定価値の放棄」への道のりの、最初の視野となる「心と体が実際にどう動いているか」もしかり。頭の中で練り上げた、「こんな自分で」という「自意識の鎧」を脱ぎ捨てて、あるいはそれが崩れ落ちて見えてくる、弱くて無様な自分の姿を受け入れてこそ成す前進が、そこにある。体の奥から湧き出るような「魂の感情」として、私たちはそうしたありのままの自分に向き合うのです。 「魂の感情」に向き合うことが、私たちの心の成長に強く結びつくことの理由もしくは意義は、大きく2つあります。 一つは、私たちが身体の感覚にていねいに向き合えることが、身体の健康と成長に役立つのと同じ、基礎的な意義です。身体の痛みや快不快の感覚にていねいに向き合えることで、病気や怪我の防止や早期発見もでき、健康と成長に役立つ習慣も増やせるように。そうして私たちが自分の体を自分でコントロールできるようになるのと同じように、私たちは自分の心について、頭で考えることよりも体から湧いてくるような「魂の感情」にしっかりと向き合うことの先に、自分の心を自分でコントロールできるようにもなるのです。 「自己分析」はまさに、そのようなものとしてあることに、意義があります。何の感情なのかまだ自分でも良くわからない心の声に耳をすませ、それを「言葉」を使って、より明瞭なものへと浮き彫りにしていきます。「「自己分析」と「見通しづけ」の導き」で、「感情の細かい違いを、言葉の違いでしっかりと把握する」と述べたように。そこから、「学びの一覧表」の「悪感情の克服」のような具体的な学びへとつなげていく、という流れになります。 そしてもう一つ、そうした「魂の感情」への向き合いが、さらにその意義を飛躍的に高めるのが、他ならぬ、「望み」に向き合うことにおける向き合いです。 つまり体から湧き出るような、まだ自分でも何の感情なのか分からないようなその情動のうねりに向き合い、そこで自分が何を望んでいるのかに、向き合うのです。心の世界を映し出す、水晶の玉を覗き込むように、という表現が多少とも似合う姿勢で。 するとそこに、「魂の望み」が描かれるのです。そうして感じ取る感情が、「魂の望みの感情」です。 それは私たちが日常生活の中で、上述のように元来「自意識」によって描かれるものとしての「望み」の感情とは、少し趣きが異なる面を持っています。 一つは、「望み」として、自分自身に対する嘘が少ないことです。どう叶え得るのかは別として。特に、「人の目」を意識した空想の中であらぬ方向へと描かれるような「望み」に比べて。 ですからもし現実行動へとつなげることができるものであるならば、「望み」を頂点として「問題」「課題」へと展開する「人生を生きるための基本的思考法」としても、この「魂の望みの感情」と手を組んだものが最も前進力あるものになると言えます。これが最初の「心の成長と「魂」と「命」」で、「感情と行動の分離」における「現実において生み出す」という前進の姿勢と良くなじみ、「自分」という囚われを超えて喜びと楽しみ、そして向上を生み出していく姿勢を生み出し、「何によっても惑うことのない、豊かな人生の生き方」につながるものと述べたものに他なりません。 一方、どう叶え得るかは別という面が、もう一つの趣きにもつながってくるでしょう。「魂の望みの感情」は、しばしば、「現実とは別の世界」のものとして私たちの心に描かれるということです。「人生の前進と「望み」への向き合い」で、多くの文芸や芸術、音楽が、それを形にしたものだと述べたように。「現実」に壁があり行動できないものについて、それが満たされた自分の姿の空想を描く中に、時に、「現実の満足の形」を凌駕し得る豊かさの輝きが現われるものとして。 そうして、「望み」として自分自身への嘘が少ないという面と、「現実とは別の世界」のものであるかのようにも現われるという面の先に、実は「心が進む道」で述べた「第3の道」がつながってくる可能性がある。そう言えるでしょう。 現実において望み通りになれるのとも、そうなれないのを諦め断念するのともまた違う、「魂の望みの感情」が現われ、「魂との対話」をする中で、私たちが別の人間へと変化していく道です。 なぜなら、「現実」というのは、結局のところ私たちが「今の心」で「それが現実だ」と感じるものを、指すものでしかないからです。 心が「魂の望みの感情」に触れることで感性が変化した時、「現実」の全体が、入れ替わるのです。 そこに、私たちが別の人間へと変化していくメカニズムがあります。 「魂の望みの感情」と歩みの道のり こうして、ハイブリッド心理学の取り組みの歩みは、「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」などで列車の旅路の構図としてまとめた通り、「目的思考」と「現実を見る目」から始まり、心の外面と内面の双方に対する「2面の真摯さ」を両輪とする一貫した歩みの先に、「成長の望み」と「真実の望み」を前進への最大の原動力として、心の成長と豊かさを妨げるものの真実を見極める節目からさらに進んで、心の成長と豊かさを生み出すものの真実の探求へと向かうのだ、と言うことができます。 そこにおいて、妨げるものの真実を見極め、それを捨て去る節目が、これまで詳しくその意識過程を説明してきた「否定価値の放棄」であり、一方、心の成長と豊かさを生み出すものの真実は、「魂の望みの感情」にある、ということになります。 「心の成長」とは「望みの成熟」だ、と「「心の成長」とは「望みの成熟」」で述べました。それ以外にはあり得ない、と。他のいかなること、例えば性格が良くなることでも、ものごとのわきまえが良くなることでも、社会的地位が向上することでもなければ、人格者になることでもない。 「望み」が「成熟」するということなのだ、と。「望み」が「成熟」し、その内容が徐々に変化していくこと。それが「心の成長」なのだ、と。 それは序章の「「ハイブリッドの道」を歩む」でも述べたように、全てを尽くして望みに向かう中で、心の重みは「与えられる」ことから「自ら与える」ことへと変化していき、やがてもはや何も躍起に求めることなく心は充実感に満たされた中で、その生涯を閉じていくという、「命の生涯」の下にあるものだと。それによる「望み」の変化は、私たちの意識努力でどうこうなるものではなく、「命」によってつかさどられる。自分の感情を自分で良くしようとして、心に不自然な手を加えようとすることをやめ、「命に委ねる」ということが、この心理学の最大の理念なのだ、と。 そのような「望みの成熟」に向かうものとしてあるのが、まさに「魂の望みの感情」だということです。「自意識の望みの感情」ではなく。 「魂の望みの感情」の成熟変化は、意識努力を超えたものとして私たちに訪れます。だからこそ、私たちはそこに、「自分」の「心」を超えた「魂」と「命」があることを、感じ取れるのです。そこに、「自分」の「心」の惑いやすさと揺らぎやすさを凌駕する、「魂」と「命」に軸を置いた生き方という、心の姿勢のゴールが生まれ得るのです。 これが、ハイブリッド心理学からの答えなのです。 一方で私は今「「魂の望みの感情」」で、「望み」の感情は元来、「自意識」を基盤にして生まれる、と書きました。「こんな自分になれたら」と、「空想」の中で自分の理想の姿を思い描き、それを望む感情として心に起きる。 それでいいのです。そこから始めるしかありません。 そこから始めて、どのように私たちは「自分」の中に生き続ける、「自分」の「心」とは別の「魂」と「命」を見出すのか。その輪郭となるエッセンスを、この本の締めくくりとして説明しようと思います。 「望みの成熟」の2つの道 「望みの成熟」には、大きく2つの道筋があると考えるのが良いでしょう。 もちろんこれは「望みの成熟」がたどり得る道筋の様子を、厳密に、その全てを網羅して分類整理したようなものではなく、ハイブリッド心理学による人間理解として、まずこの2つの形を考えるというものです。 一つは「一般形」であり、ハイブリッド心理学の取り組みに関わりなく、広く、人の人生を眺め、「望みの成熟」によって心の豊かさに至る人の心がたどっていると思われる、基本的な道筋です。 もう一つは「浄化成熟形」であり、ハイブリッド心理学が特に着目する、出生の来歴の中で躓きと妨げを抱えた心が、やがてまっさらに澄んだ豊かな心へと成長成熟する、特別な道筋です。 「一般形」を、こう言えるでしょう。 「望み」への「開放の姿勢」と「真摯さ」と「感受性」と、「ありのままの現実」を見る目と受け入れる姿勢を足場に、建設的な行動法と社会を生きる知恵とノウハウを着実に獲得しながら、全てを尽くして「望み」に向かう人生の歳月の中で、「自意識」で描いた通りにはならない「失意」と、「命」に触れることを重要なきっかけとして、「失意」を超えて「自分が生み出すことができる価値」を探求する歩みの中で、「望み」は、未熟に「与えられる」ものを求めるものから、「自ら生み出し与える」ものへと成熟していく。 「命」が、その変化をつかさどるものとして、と。 ここに出した言葉のそれぞれを、再び詳しく説明する必要はないでしょう。若干補足するならば、「望みの開放の姿勢」とは、いかに日常的にものごとを「善悪」「評価」ではなく「目的思考」で考えているかと、「人生の生き方」の意識的思考として「望みに向かう」ことを重視しているか、そしてそれによってこそ私たち人間が成熟した心に成長するという人間観を持つかになるでしょう。 「望みの感受性」については「「自己分析」と「見通しづけ」の導き」と「「否定価値」によって塞がれる「望みの感情」」で、まずそれが損なわれた状態について説明しました。「意識」の全体が、人にどう見られるかに過度に重みを帯びたものに変形してしまっているもの。また現代人にありがちな、受け身に与えられる情報の刺激に流されるもの。それをスタートラインとして、他人がどうであるかよりも、まず自分がどのような生き方、どのような思考法行動法をするかに取り組むのが、この心理学だ、と。 「ありのままの現実を見る目と受け入れる姿勢」としては、「「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を培う」で述べた、「努力がどう報われるのか」の、場合によっては「容赦ない」側面もある「現実」というものへの視野というものが重要になります。「夢は必ず実現する」といった非論理的精神論ではなく、「競争」という側面もある現実世界における自分の立ち位置を、ごまかしのない客観的な目で見ることができることが、とても重要です。なぜならそこにごまかしがあると、「意識」の底で、「命」は、自分が「望み」に向かい、全てを尽くして「現実」に向かっていくことをまだしていない、と判断するからです。つまり「望みの成熟変化」を保留したままにするのです。 そうして「望み」をとにかく開放すればいいのではなく、まず建設的な行動法と社会を生きる知恵とノウハウを手にするのが先であることは、「「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか」と「「自己分析」と「見通しづけ」の導き」で説明した通りです。でないと、「望み」は成熟などしようもない方向へと暴走するだけです。 「命に触れる」とは、その多くが、「死」に触れる、「死」に向き合うというものになります。恐らくはそれが、私たちが「自意識」と「空想」による愚かな望みの惑いと煩いを捨て去る、最大のきっかけになるものとして。「「心の成長」とは「望みの成熟」」で、2011年の震災の折に私たちが目にした、「自意識」による脆い「望み」の姿に触れたように。 そうして「望み」に向かい、外面の行動法も培いながら、全てを尽くして望みに向かう歳月の中で、「自意識」で描いた通りにはならない失意と、「命」に触れるきっかけを通して、失意を越えて自分が生み出すことができる「価値」を探求して生きている人が、長い生涯の歩みの中で、「望みの成熟」による心の成熟へと向かっていく、ということです。 話は単純であり、同時に、頭ではあらかじめ理解しようもない面があります。 つまり上述のような「望みの成熟」こそ自己の成長だという人生観で多少とも、つまりそれを「人生観」としてはっきり意識しているかはさておいても、そうした姿勢で生きているであろう人が、実際に「望みの成熟」に向かうということです。 一方で、だからと言って自分の「望み」がどんな内容のものへと、そしていつ成熟変化するのかは、本人にとって全く未知であり、意識しようもないことになる、ということです。 例えばそうした姿の例を、「「今までの心の死」を経る」で、「人生のドラマ」の典型例として書いてみました。出世にためにがむしゃらになって働いた矢先に大きな挫折を体験し、やがて何気ない人との触れ合いの生活に、心の平安と喜びを見出す。死に直面する体験を経て、今を精一杯に生きることの輝きを知る、等々。 私たちにできるのは、開放された「望み」に向かって、建設的な行動法を携えて、全てを尽くして生き続けることだけです。それによる心の成長成熟の変化は、「「ハイブリッドの道」を歩む」で述べたように、私たちの「意識」を超えて、「命」にプログラムされているのです。 それについて私は、固形の花火にたとえられるような印象を持っています。燃えるごとに色と姿を変えていく、棒の形の花火をイメージするといいでしょう。今燃えている未熟な色と姿の火花の下に、全く違った色と姿の火花が用意されています。その、成熟した色と姿の火花を燃え開かせるためには、まず今の未熟な色の火花を、燃やし尽くさなければならないのです。どこまでいけば燃やし尽くしたことになるのかは、私たち自身には分かりません。そしてそれが燃やし尽くされ、新たな色と姿の「望み」の火花が燃え始めた時、それは私たちにとって、常に「未知」のものとして訪れるのです。 そうして人を心の成熟へと向かわせる「人生の望み」とは、結局のところ「愛」を単一の軸とするものなのだ、というのが、ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」です。それは人との間での、愛の感情の直接的な交流を求める、文字通りの「愛」への望みと、自分が尊敬と祝福を受ける存在になるという、「誉れ」への望みから成る、と。 そこで人の心がたどる道筋の、ごくアウトラインを書くならば、人はこの世に生まれ、まずは身近な人々との「愛」への望みの充足に支えられ、「誉れ」への望みを原動力に、社会で生きる能力の獲得努力へとまい進し、そこで得た自分への自信をいわば手土産にするように、一人の異性との「愛」への望み、そして自分の家族への「愛」への望みを生き、それと平行して、全ての「人」への「愛」、そして引き続きの「誉れ」への望みに向かう中で、思い通りにはなかなかいかない困苦も糧に、他人との比較競争意識や、社会での評価といった「自意識」の惑いを次第に脱し、ただ自分にできることを精一杯に行っていく、そこに社会における自分の位置があるという「誉れ」への望みのゴ−ルへと次第に近づいていく。その頃には同時に、人との間での直接的な、濃い愛情を求める「愛」の望みからの卒業が心に見え始め、全ての人への穏やかな「人間愛」へと向かい、やがてその生涯を閉じていく。そのようなものになるであろうと感じます。 そうした「一般形」の「望みの成熟」への道を前に、私たち人間に基本的に立ちはだかる壁を3つ、ハイブリッド心理学の「否定価値の放棄と望みの浄化成熟の思想」で述べています。 一つの大きな問題は、「心と魂の分離」という、この文脈においてはまだ手つかずの問題です。つまり人間の心は、大元の「命」から少しはがれた、薄っぺらいものとして動いているということです。 その結果、今述べたような「人生の望み」を、体から湧き上がるような「魂の望みの感情」として感じ取り向かうことにおいて「望みの成熟」へと向かうことができるのですが、なかなかそうはいかないのが人間だという話になってきます。自らの「魂の望みの感情」として感じ取るよりも、回りに流され、社会の枠に自分を当てはめるという意識モードになるにつれて、外面だけで人生の駒を進めても、心は未成熟のままでいるということが起きてきます。これが現代社会になると、さらに輪をかけて、「困苦を糧にする」という言葉など流行らない、物質的な豊かさと、受け身の情報の刺激で生きる姿が顕著になってきます。 「一般形」の望みの成熟とは言っても、現代人において一般的ではなく、実際そのように「望みの成熟」へと向かう人というのは、むしろ稀な存在であるかも知れません。 そしてもう一つの大きな問題が、出生の来歴の中で心に抱える躓きと妨げであり、それによって心の奥深くに流れるようになる、「心の闇の感情」です。 それによって私たちの「望み」の感情は閉ざされ、あるいは心の奥深くに置き去りにされ、そこにさらに躓きと妨げが生み出すものとしてのもう一つの問題、「怒り憎しみ」が加わった時、「望み」は、心の豊かさへと成熟しようもない、すさんだものへと変形していってしまいます。 こうした状況において、心に特に躓きと妨げを抱えてはいないケ−スにおいても、たとえば「心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう」で述べたように、自分の感情についても自分にとって偽りのない論理的思考で考える、その先に自分が「愛」と「自尊心」をどのように求めているのかの「自己分析」といったものとして、ハイブリッド心理学の取り組みの役割が生まれ始めるように感じます。 ハイブリッド心理学が、さらに自らの役割として目を向けるのは、躓きと妨げを抱えた心において、どうなるのかです。 「否定価値の放棄」へと至る歩みの道のりは、「怒り」の根本的な捨て去りと、「望み」の開放の転換のさらなる先に、心に躓きと妨げを抱えたからこそ見出す、あまりにも独特な「魂の望みの感情」と、それによってこそ示される、「魂」と「命」という答えを、見出します。 「浄化成熟」の道 心に深く躓きと妨げ、つまり「心の闇の感情」を深く抱えたケースにおいて、「望みの成熟」は、この心理学で「浄化成熟」と呼ぶ、特別な道筋を通るものになります。 「一般形」で述べたことは、ここでもその全てが引き継がれます。 つまり内面において「望み」を解放し向き合う姿勢と、外面において「現実」を見る目と受け入れる姿勢を持ち、建設的な行動法を学び実践し、「望みの成熟」を自己の成長とする人生観によって生きる中で、「自意識」で思い描いた通りにはならない失意を超えて、「命」に触れ合うきっかけも支えにして、広い視野の中で自分の「望み」に向き合い、そこに「魂の望みの感情」を見出す。 その全てが、「一般形」の場合の話と何も変わるものはありません。 そもそも、心に抱えた躓きと妨げというもの自体が、ただ、今までの人生が「自意識」で思い描いた通りではなかっただけのことなのかも知れないのです。その「不完全性」を受け、前を向いた時、「ありのままの現実」と「ありのままの今の自分」を生きる、「命」のエネルギーが解き放たれます。そこから、毎日毎日を常に新しい自分として、生きていくのです。 それでももし、来歴における心の躓きと妨げが、もはや自身では乗り越えることのできない「心の闇の感情」、もしくは「望み」という心の原動力における歪みを生み出していたならば、そこに、「浄化成熟」という、心の特別な成長変化の道が現れることになります。 「外部依存形」の浄化成熟 そこで起きることが何かを理解するために、そこにさらに2つのタイプがあるのを考えると良いでしょう。 ここではそれを、「外部依存形」の浄化成熟と、「自己浄化形」の浄化成熟と呼んでおきます。 「自身では乗り越えることができない心の荒廃を乗り越える成熟変化」。これが、それら「浄化成熟」の基本定義です。 そこにおいて、「自身では乗り越えることができないもの」を乗り越える力が、自分の外部から与えられる、もしくは働きかけられるものが「外部依存形」の浄化成熟です。自身では乗り越えることができないのですから、外部からの働きかけの力によって、乗り越えることができる。これは自然、というか流れとしては分かりやすい話です。 一方、「自己浄化形」の浄化成熟では、「自身では乗り越えることができないもの」を乗り越える力が、自己の内部に生まれ、それが自らを浄化していく形になります。 何が起きるのかというと、これがつまり、「自分を超えるもの」が自分の中に現れるということなのです。もはや「自分」ではないようなものとして。「自分」では乗り越えることができないものを、乗り越えるものなのですから。 それが、この心理学で「魂」および「命」と呼ぶものになります。 これらのエッセンスとなる輪郭を、ここで示しましょう。 「外部依存形」の浄化成熟は、ハイブリッド心理学の取り組みの中でというよりも、これもやはり人の生き方を広く見渡した時に、さらに稀ながらも見出されるものです。すさんだ心が、純粋な心へと浄化されるものとして。そしてそこから、豊かな心へと成熟していく、「命の生涯」としての成長が続き得るものとして。 そこにおいて、「自身では乗り越えることができない心の荒廃」とは、端的に言って4つの方向性です。「傲慢」「消極」「浅薄」そして「空虚」と。 「傲慢」は、自己中心的に他を蹴落とそうとする攻撃性が生まれるものであり、「消極」は臆病や卑屈により前に進めなくなるものです。「浅薄」は、命の重みを損なった衝動たとえば「金儲け」や「体面」の追求に、人生が明け暮れるようになるものであり、「空虚」は「〜なんて」と、ものごと全般の、そして「人生」そのものの価値、「生きる」ことの価値を、感じ取らなくなるものです。これら4つのベクトルは、もちろんさまざまに掛け合わされ、人格像のバリエーションを生み出すことになります。たとえば「傲慢」と「消極」が「わがまま」な人格像を作り出すように。 そこにおいて、「外部依存形」の浄化成熟として起きることのエッセンスは、このようなものだと言えます。 「命の重みのある純粋な愛に、今までの自分の心の鎧をつき崩され、打ち破られる形で出会う」というものだ、と。 そのような心の変化事例が、私たちの身の回りで実際どれだけあり得るのかは、なんとも言えません。たとえば「引きこもり」を克服させようと回りが働きかけて、実際に克服された時、そこではそのようなことが起きているのだと言えるかも知れません。しかし実際の多くの場面においては、回りが「自分の純粋な愛でこの子を立ち直らせよう」などと考えたところで、その人も実は惑いだらけの心でうまく行かないのが大抵であるのが実情かも知れません。 私は「外部依存形」の浄化成熟を、そうした日常的に見かけるようなレベルのものよりも、歴史の中に残るような人間事例あるいは物語に、その端的なものがあると考えています。 たとえば、人類が生み出した「小説」の最高傑作の一つであろう、ドストエフスキー『罪と罰』の主人公「ラスコーリニコフ」、また実在の人物として、世界の犯罪史の中で特異な事例として知られる、『理論編』5章で私がその物語を編集してみた「マリー・ヒリー」の事例があります。 そうした端的な事例において、「浄化成熟」で心に起きることのエッセンスが、示されます。 つまりそれは、今までの心の殻を突き崩され、打ち破られることで、その人間の心に、純粋な「愛への望み」の感情が呼び覚まされ、人間性が回復すると同時に、その人間自身の内部で、自らの「罪」への向き合いが起き、それが心を浄化させるのだということです。 ここで理解しておきたい、重要なことが2つあります。一つは、「その人間自身の内部における罪への向き合い」が、それ以前の心における、自意識の「硬い善悪思考」による自省などとは全く別世界のものになることです。 これは『罪と罰』でラスコーリニコフが抱いていた「善悪思考」が、「選ばれた人間には社会の役にならない人間を殺すことが許される」といった傲慢な思考であったものが、「ソーニャ」に出会ってから次第にその自意識が崩れていき、やがて自らの罪を償う生活に向かうという流れに、端的に示されます。 そこでもう一つ留意しなければならないのは、この「浄化」の中で起きる「自らの罪への向き合い」において、その人間が自身の「罪」を乗り越えることができるかどうかの断崖が現われる、ということです。そして現実においてその人間が成したその「罪」があまりにも重い場合、それを乗り越えることができない危機が訪れることもあるということです。 これは特に「傲慢形」において起きてくることです。ラスコーリニコフとマリー・ヒリーがまさにそのケースであったものとして。そこでラスコーリニコフは贖罪の先にやがて乗り越えることが暗示された一方、マリー・ヒリーのケースは、本人の心が乗る超えることを選ぶことができなかったものと言えるでしょう。 「自己浄化形」の浄化成熟で起きることのエッセンスも、これと同じものなのです。 もちろん、同じものだけが起きるのではなく、それを超えるものもです。 「自己浄化形」の浄化成熟 「自己浄化形」の浄化成熟は、「自身では超えることができない心の荒廃を乗り越える心の成熟変化」であるところの「浄化成熟」が、外部からの働きかけの力によってよりも、心の内部にある何かの仕組みの発動によって起きる形になるものです。 「外部依存形」と「自己浄化形」の違いは、「一般形」として述べたような「望みの成熟」に向かうための、「壁」の違いにあります。 「外部依存形」は、本人の「姿勢」に「壁」があるものです。「自らの自意識の鎧にとどまろうとする姿勢の強さ」と言えるでしょう。それが、来歴における躓きと妨げが生み出した「傲慢」「消極」「浅薄」「空虚」といった心の荒廃を固定化させているものとして。だから、「浄化成熟」が起きることは、自分にとって価値が大きな相手の純粋な愛に出会うことによって、今までの自意識の鎧が突き崩され、打ち破られることに、依存するのです。ラスコーリニコフにとってソーニャが、そしてマリー・ヒリーにとってジョン・ホーマンがそのような人物であったように。 一方、「自己浄化形」での「壁」は「姿勢」にあるのではなく、本人自身としての前を向こうとする意識では克服できない、心の根底における「望みの妨げ」と「意識の変形」にあるものになります。つまり、本人の意識姿勢としては、「望みの成熟」に向かうものを十分に持ちながらも、来歴における躓きと妨げが生み出した「心の闇の感情」と、それによる「人との隔たりの感覚」などの「意識の変形」に阻まれ、「望み」に向かうための前進力のある感情を自分の中に見出せない状態が「壁」になものです。 それでもなお、「望みの成熟」を自己の成長とする人生観によって、自らの「望み」に向かおうとする強い「意志」に立ち、「望み」がそこにあるであろう「現実」へと向かった時、その人間に、「自己浄化」と呼べるような、心の奥底の仕組みが発動することになります。 その「望み」とは、「愛」と「誉れ」という、大きくは一つの軸となる、「愛」という「人生の望み」へと、より純粋に向き合うものとなった場合にです。 つまりこれは、「望みに向かう」ことを人生の歩みとする、この心理学の主題において、この本でそのための「意識過程」を詳しく説明したものの全てが揃っても、なお「意識」の底に硬いバリアのように現われる限界が突破される様子を、説明するものになるのです。 「取り組み実践を超えた世界」へ そこでまず起きてくることとは、自身の「純粋な愛への望み」が先導する形で、「自意識の鎧の崩壊」が内面で進行するようになることです。その引き金は、比較的些細な「自意識通りにいかない現実」の知覚によって可能になるものとして。 そしてそこにおいて、今まで「自意識の鎧」に封じ込められていた「純粋な愛への望みの感情」が回復し湧き出ると同時に、自身の「罪」への向き合いが起きるのです。 これは「外部依存形」の浄化成熟で起きることのエッセンスとして説明したものと、その本質は同一です。 しかしそれが外部からの働きかけによってよりも、自身の内部で起きるようになることは、そこで起きることの様相が異なるものになることをもたらしてきます。 ただこれが自身の内部で起きるとは言っても、外面の出来事とは無関係に、いわば真空の中で自分の心にじっと見入るような意識作業の中で起きるものとは、この心理学では考えていません。あくまで日常生活と、人生に向かう具体的な場面において、「自意識通りにはいかない現実」の知覚を引き金に起きることとして考えています。特に、「望みに向かおうとする現実場面」においてです。 そしてそのように自己の生活と人生に向かう前進の歩みは、今までこの本で説明した意識過程の全てを通して、培われるものという位置づけにおいてです。 その結果、ここで起きることは、引き金となる外部の出来事が、やはり本人にとってより価値が大きな相手への「出会い」であるほど、また心の成長段階が前進する中で起きるほど、その様相を鮮明なものにするようになる、と理解しておいて頂くと良いでしょう。 たとえば『悲しみの彼方への旅』で描写した私の心の激変も、「あの下級生の子」と呼んだ女性との出会いとして、心の外部における「自身にとり価値の高い純粋な愛への出会い」を引き金に起きた、鮮明な自己浄化の過程だと言えます。『悲しみの彼方への旅』の「13章 自己の受け入れに向かって」のラスト場面で、そうした「自分にとって価値の高い純粋な愛」への出会いによってもたらされる「自分自身の望みに対して自分が成した罪への向き合い」の最も鮮明な場面が描写されていますのでご参考頂けるかと思います(P.300)。 ですから、ここから起きることとは、もはや「取り組み実践」の「習得」という範囲に収まるものではなく、人生における「出会い」と、人生の歳月の中で「命」によって定められた成長成熟の歩みという、「意識実践」を超えた人生の歩みとして起きることだということです。 先の「「望みの成熟」の2つの道」で、私たちの心の成長成熟の変化は、燃えるごとに色と姿を変えていく花火のように、「命」にプログラムされているようだと述べたことも同じです。つまりこれは、「取り組み実践を超えた世界」なのです。ハイブリッド心理学の「取り組み実践」とは、まさにその世界に向かうための、準備を成すことなのです。 「自身の愛への望みに対して自らが成した罪」への向き合い 「自己浄化形」の浄化成熟で起きることのエッセンスの一つの側面、自身の「罪」への向き合いは、外部に対して成した自分の「罪」にも増して、「自らの望みに対して自身が成した罪」という様相へと、変化していきます。 つまりそれは、「自分自身の純粋な愛への望みに対して自らが成した罪」ということになるでしょう。 もちろんこの「自己浄化形」の浄化成熟においても、「自意識通りにはいかない現実」の知覚によって、自意識の鎧が自ら崩れていく中で、自分が不用意な行動の仕方によって人に不快を与えたことをありありと自覚するといった、外部に対して成した自分の「罪」への向き合いも起き得ます。そこにおける自身の未熟さと稚拙さという「罪」へと。 しかしこれが「感情と行動の分離」の基本姿勢などによって、外面においては建設的な行動法を心がけている中で起きる範囲であれば、まずは大きな問題であることはないでしょう。そのあまりの行動の稚拙さによって、実際に相手からの非難を招くことがあったような場合においてもです。実際この歩みは、「未熟」から始めているのですから。 これは『入門編下巻』でも取り上げている状況です(P.306)。これについては、外面において人にかけた迷惑や不快に対しも、建設的に対処する行動法のノウハウを学んで実践することが重要になります。 そうして外面における「罪」への対処もうまく、合理的にできるようになるごとに、逆に、「自分自身の望みに対して自らが成した罪」への向き合いは、外面のことがらによって心を動揺することなく、可能になってくると言えます。もはやそれは外部の誰との関係における問題でもなく、自分自身との関係における問題としてです。 自分自身の、「魂」との関係における問題としてです。 それがどんな姿のバリエーションになるのか、そしてその「自らの望みに対して自身が成した罪」とは何かの詳しい整理と描写は、やはりこの本の中でできることではありません。それは私がこれからの生涯をかけて、私が生涯の中で見たその姿を書き伝えていく中で、より浮き彫りにしていくことだと思っています。特に、私自身の人生の中で起きた、全ての出来事を伝えていく中で。 それでも、はっきりと言えるものが2つほどあるように感じます。「自分自身の純粋な愛への望みに対して自らが成した罪」には、この2つが間違いなくある、と。 その2つが、心の根底で、手を結んで、問題を生み出していたものとして。 一つは、「自分自身への嘘」です。こう感じればいいんだ、こう考えればいいんだ。その自意識の思考の中で、自分が心の底で本当に感じていたことに蓋をして、ありのままの自分とは別の自分を装おうとするようになった。それが人生の歩みそのものになっていた。そしてそれがうまく行かない理由を自分の外部になすりつけ、「憎しみ」を抱くようになっていた。全ての問題は、そこから始まっていたのです。 もう一つは、「憎しみ」です。「愛」に、「憎しみ」が結びついてしまっていたのです。「憎しみ」を晴らす表現のように、「愛」を求めるようになっていた。その時、「愛」は答えの出ない難解なものへと、心を満たすものではなく、心をただ苛むものへと変貌し、全ての心の平安が失われ始めた・・。 この「自分自身の望みに対して自分が成していた罪」の自覚の中で、私たちの心は、苦しみと涙の中で、より清明なものへと、変化していくのです。自分自身の「純粋な愛への望み」を、もはや偽ることなく感じ取ることのできる人間へと。そしてそれに向かってよりストレートに、自分の全てを尽くして向かうことができるようになっていく人間へと。 実は、取り組み実践の過程としてこの本で説明してきた中の、「「今までの心の死」を経る」ということ、そして「「学び」とのギャップを生きる」中で、立ち行かなくなる自分の心への向き合い、「病んだ心の膨張と自己崩壊の治癒」、「自意識の業の膨張と自己崩壊」、さらには「成長の望み」において「まず自分を妨げていたものの真実が見える」といった、「一見後退であるかのように見える前進」の形を取るものの全てが、このエッセンスを成すためにあるものだ、ということができます。 「純粋な愛への望み」に向かおうとする自らの姿勢が主導する形で、今までの自意識の鎧が打ち崩され、その自らの「望み」に対して自分が成した「罪」への向き合いが起きるものである、と。 それによって私たちの心はより清明さを増し、「純粋な愛への望み」へとよりストレートに向かうことができる人間へと、変化していく過程なのだ、と。 そうして、様相を変えながらも、「自らが成した罪への向き合い」という側面は、「外部依存形」の浄化成熟と、ほぼ同じ位置づけのものになります。 「自分」の中で、「自分」のあり方としての変化という位置づけにおいてです。 次の「純粋な愛への望みの回復と湧き出し」というもう一つの側面に至り、「自己浄化形」で起きるものは、「自分」の中にある、「自分」とは別の何かによって、「自分」を超えて起きるものへと変貌します。 そこに、私たちの心の、究極の神秘の世界があります。 「純粋な愛への望み」の感情は「自分」と「現実」を超えたものへ 今までの自意識の鎧が打ち破られ、「純粋な愛への望み」の感情が回復すると同時に、自身の「罪」への向き合いが内面において成される。 この「浄化成熟」のエッセンスにおいて、「自己浄化形」における「純粋な愛への望み」の感情の回復は、「罪への向き合い」が「外部への罪」への向き合いから「自身の望みに対する自らの罪」への向き合いへと変化するのにも増して、「外部依存形」と様相を異なるものを示すようになります。 それは「望み」が、「自分」を超えたもの、「現実」を超えたものとして、「自分の心」の中に現われるようになる、というものです。 そうなる理由は、「自己浄化形」における「壁」が、「望みの感情」として前進力のあるものを自分の心に見出すことが妨げられることにあります。「心の闇の感情」や、「分厚いガラスのような隔たりの感覚」などの「意識の変形」に妨げられて。 それでもこの人間が、自己の成長を「望みの成熟」にあるものとする人生観に立ち、自己の「望み」を見出すことへの強い姿勢と強い望みによって自らの心に向き合うことを続けた時、心の仕組みは、そこにある最後の壁を突破する、神秘的な扉を用意するのです。 これは理屈の合う話です。自身では乗り越えることができない心の荒廃が生み出す「壁」が、「自分」として「現実」に向かうための前進力のある「望み」の感情を「自分」の中に見出すことができないというものになるのですから、それを乗り越えるものとは、もはや「自分のもの」とは思えないような「望み」の感情、そして「現実」とは別の世界、「現実」の彼方へと向けられたものであるかのような「望みの感情」が、「自分」の中に湧き出すことを突破口とするものになるのです。 それはもちろん、「現実とは別の世界」と言っても、「現実逃避」の色合いを減らした、「命」の重みのあるものにおいてです。 こうした、「自分」を超えた、そして「現実」を超えた「望み」の感情が心に現われるという仕組みは、実は私たちが日常的に接するものとしても存在します。 「夢」です。「目標」や「望み」を意識することとして抱く「夢」ではなく、睡眠時の「夢」です。 「夢」はさまざまな心理療法の流派で取り上げられます。「夢」がやはりそうした、「自身では乗り越えることができない心の闇」を乗り越えるための、何かの手がかりを示すものだという認識が共通していることを示すものでしょう。「潜在意識」への手がかりとして、と言えるでしょう。 私の『悲しみの彼方への旅』でも、「夢」がしばしば、重要な役割を示すものとして登場しています。一言でいえば、それはおうおうにして、心の変化を先取りするようなものとして現われるものとしてです。たとえば「夢の声」の節(P.94)や「神秘の道」の節(P.330)などのように。 ただしハイブリッド心理学では、そうした「夢」そのものを、「取り組み実践」の意識作業の入り口の材料にすることはしていません。あくまで日常生活と人生の具体的場面を取り組み材料として、「外面行動は建設的なもののみに、内面感情はありのままに流し理解する」という「感情と行動の分離」の真摯な向き合いの中で、「夢」もさらに、心の底に埋もれた、あるいは葬り去られた「潜在意識」への手がかりを示すものとしての性質を強めるようになる、と言えるように私は感じています。 これもやはり「取り組み実践を超えた世界」の歩みになるでしょう。「夢」は事実、私にとって「もう一つの世界」と言えるような印象的なものであったのを感じます。 何度も同じような、連続しているような夢が現われ、それが私の「もう一つの人生」であったかのように、私の人生の歩みと平行して変化していったのです。これもこれからの人生を通して、その実際の体験を書き伝えていきたいと思っています。 取り組み実践の歩みにおいては、「自己浄化形」の「純粋な愛への望み」の感情の回復と湧き出しは、心に深い躓きと妨げを抱え、それでもなお「望み」へと強く向こうとする姿勢のあるケースにおいて、「望みへの感受性」も大きく関わりながら、ごく初期の段階から起き得ます。 そのバリエーションの十分な分類整理はやはりこの本の役割ではありませんが、バリエーションを把握するための最初の視点として、3つほどの変化の軸があると理解すると良いでしょう。 「自分」のもの、「現実」のものと感じられるものと、「自分」のもの「現実」のものという感覚の薄れた、「彼方」へと向かうものであるように感じられるもの、という違いの軸。 苦しみを伴うものと、伴わないもの、という違いの軸。 そして回復し湧き出す「純粋な愛への望み」の感情に対して、本人が向き合う姿勢の変化の軸があります。これは大きく「自らの魂の望みの感情に打たれる」というものと、「置き去りにされた魂の望みを果たすために現実へと向かう」というものになります。 振り返るならば、私の人生は、中学校を過ぎ、「自意識の鎧」を硬く身にまとう中で、過去の自分を意識の底に深く葬り去りながらも、それでも消えることなく心の奥底から時に漏れ出てくる、「別の世界を生きた自分の記憶」と共に始まったように感じます。『悲しみの彼方への旅』の冒頭で書いた部分です。小学校6年の頃に流行った歌謡曲のメロディを思い出すと、何かがふわ〜っと自分の体に蘇ってくる。それはもはや初恋の少女自身の記憶ではなく、憧れと安心に満ちた、別の世界の空気の記憶・・(P.22)。その断片的な記憶の底に、自分がどれだけの「望み」と、心の闇の感情を封印したのかも自覚しないまま。 そうして「人生」へと歩みだして間もなく、私の自己は破綻し、自分自身の心に取り組むために心理学を学び始める生活が始まります。そこから、私の「純粋な愛への望みの感情」は、「苦しみ」を伴うものとして、本格的に回復と湧き出しを開始します。その最初においては、自分の体を借りた別の存在が、まるでエビのピストン運動のように激しい嗚咽を起こしているかのような体験として(P.54)。 それはやがて、「自分」の感情である一方、「現実」の何に向けられたものであるのかも自覚できない、「命」の重みのある「悲しみ」の感情として。「胸から血を吐き出すような涙」へと・・(P.204)。この場面は「「依存から自立へ」の心の転機と「真の望み」」でも触れました。そこには、深い躓きと妨げを抱えた心が、「真の望み」へと回帰していく、一つの姿があると言えます。 「魂の成長」の過程へ ハイブリッド心理学では、そうした「自己浄化」の先にこそ、「命の開放」とこの心理学が呼ぶ、心の成長と豊かさのゴールが見出されるのではないかと考えています。 3つの、特別な、そして神秘的な過程を通してです。「魂の成長」と「魂との対話」そして「命の開放」というものを通して。 まずそこにあるのは、「魂に魂が宿る」と表現できるようなものとしてある、「魂の成長」の過程です。 最初の「「永遠の命」へ」で説明したように、「愛を願い果たされない魂の深い悲しみを自分自身で受けとめるごとに、その後に逆に、自分の心はむしろ来歴の中で愛が叶えられた人のものであるかのように、もはや愛を人から与えられるものとして躍起や不安に駆られることもなく、むしろ自分から人に与えていけるものと感じる、心の豊かさを増していく」というものです。 「自己浄化形」において「純粋な愛への望み」の感情の回復に伴う「苦しみ」には、そこに「「自身の愛への望みに対して自らが成した罪」への向き合い」が起きていること、そしてより「根源的」に、愛を失うことへの悲しみと苦しみが起きていることを理解するといいでしょう。それをこの取り組みの歩みにおいては、「感情と行動の分離」の姿勢とその実践に立ち、それが今実際に起きている他人との関係でのことであろうと、来歴の中で葬り去られていた感情の蘇りであろうと、外面において自分が今成すべき建設的行動法の対処を確保したならば、あとはただそれらの感情を、自分の中で受け止め、自分の中でただ流し、そして見つめるのです。その果てを見届ける姿勢で。 すると、「自身の望みに対して自らが成した罪への向き合い」を経て、自分自身の「純粋な愛への望み」を偽ることなく感じ取れ、よりストレートにそれに向かうことができる心へと変化するのにも増して、不思議な変化が心に起き始めるのです。愛を失う悲しみと苦しみを深く自分自身で受けとめるごとに、自分の心はむしろ逆に、来歴の中で愛に満たされた人のものであるかのような、豊かさの感覚を獲得し始めるのです。これが「魂に魂が宿る」とこの心理学で表現している変化です。 なお「外部依存形」においては、「自分の罪への向き合い」において、それを乗り越えることができないケースもあり得る、と述べました。実はそれが「自己浄化形」においても起き得ます。「愛を失う苦しみ」を、また「自身の望みに対して自らが成した罪」を、それに向き合う「心」が、乗り越えることができないことが、起き得ます。 他なりません。それが「心の死と再生」になるのです。人の心はその時、『悲しみの彼方への旅』の「12章 現実への帰還」のラストで描写したような、深い「精神の死」の状態を体験します(P.266)。しかしそれを経た時、今までの心とは「意識」が連続していないと言えるような、新しい心が再生し、活動を始めるのです。しばしば、睡眠と覚醒によって隔てられる形でです。 こうした「魂に魂が宿る」と表現できる変化が起きる仕組みについては、『入門編下巻』でも取り上げています。それは人が人の命を看取る「臨終」で起きることに似ているようだ、と。「看取った側」に、「看取られた側」の「魂」が宿る。「魂の感情」というのは「自分」と「他人」の区別が元々あまりないので、「看取られた側」が自分自身であった時も、同じことが起きるという仕組みのようだ、と(P.312)。 一方で、愛を失う悲しみと苦しみを経れば、必ず誰でも心が豊かになるかというと、必ずしもそうではないような姿も見るのが現実と言えそうです。その違いについてここで詳しい考察をするものではありませんが、一言でいえば、「受け入れる姿勢」の有無および違いによる、ということになるでしょう。「人間」と「現実」の不完全性を受け入れる姿勢、そして「命の生涯」からそれらを見る姿勢が鍵になると言えるでしょう。 さらに言えば、「姿勢」を超えて、「愛を失う悲しみと苦しみ」を自分自身の中で受けとめることで心が豊かになる心の状態と、そうはならない心の状態の違いがあるように感じます。それが一言で、自分の感情を自分自身で受けとめる「心の自立」に立つ心と、自分の感情をまず人に受けとめてもらおうとする「心の依存」に立つ心の、違いなのです。 「魂との対話」 自分の心の中に「魂の成長」の過程が起きていることを感じ取った時、私たちの心と人生への向き合いは、今までとは異次元の深さのものへと、内面および外面の双方において前進するようになります。 内面においては、自分の中に、「自分」とは別の、「自分」を超えたものが生きている、と感じる姿勢と感性を持ち、それとの対話と共に、「望み」を頂点とする「目的思考」によって人生を舵取りする姿勢へ。 その、「自分」とは別の、「自分」を超えたものが望む「望み」こそが自分の「真の望み」なのだと感じ、それを模索し、向き合おうとする姿勢でです。 これが、この心理学で「魂との対話」と呼ぶ姿勢およびその実践になります。 取り組み実践の意識的作業としては、「自意識通りにいかない現実」を知覚することで自意識の鎧が打ち壊され、「魂の感情」が湧き出ることに先手を打つような形で、「望み」に向き合う意識的作業において、自ら、「自意識通りにいかない現実」を想定し、そこに「心を晒す」という向き合い作業の中で、打ち壊れる自意識の底に見えてくる「魂の感情」を自ら引き出すような向き合いが可能になる、と理解しておくと良いでしょう。 こう行動してうまく行けば、自分はこう感じるだろう。しかしそうは行かなければ、自分はどう感じるのか・・、と。「魂の望みの感情」の感じ取り方について、自分でも何の感情なのかまだ分からないような、体から湧き出る情動のうねりに、水晶の玉を覗き込むようにと表現したように。 すると「魂の感情」が、饒舌に語り始めるのです。今までの「こんな自分であればこう見られて・・」といった「自意識の望み」に蓋をされて置き去りにされていた、「自意識」が形を取る前の、「根源的」な「愛への望みの感情」が、どんな気持ちであったのかを。そしてそこにある妨げと、自らがその「望み」に対して成した「罪」が何であったのかを。 「自意識」によってかき消されていた、全ての感情を添えて。憧れと、悲しみと、苦しみ、あるいは、もはやこの人間の「現実行動」にとってはその役割を完全に捨てた一方で、置き去りにされた怒りと、憎しみも・・。 すると心に不思議な変化が起き始めます。それらの「魂との対話」は、もはや「現実場面」からは切り離された、心の中だけで起きるものであり、しかもそれはおおよそにして「現実場面」の問題に対して特に「答え」を出すものではない形で心の中で消えていくのですが、その後再び「現実場面」に向かった時、「現実場面」に向かう感覚の全てが変化し始めているのです。 その最初のものとして間違いなく言えるのは、「人の目」の圧迫感、重みの感覚が消えることです。本人が「あれっ?」と少し驚くような形で。人を前にする不安や緊張感、さらに怖れや怒りなどのマイナス感情も減少します。それらがどのように解決したかという意味のある変化というより、マイナス感情全ての根源エネルギーが減少しているような感じで、と言えるでしょう。 対人緊張などが妨げになっている場合・・私も多少そうでしたが、この変化は、今までの「自意識の望み」にとっては、思ってもいないチャンス到来のようにも見えます。不安や緊張がなくなりさえすれば・・と想像していた自分に、なれるかも知れない、と。しかし同時に、改めて自分の心を確認した時、そうした「自意識の望み」さえも消え去り始めているのを感じるのです。「こう見られたい」という衝動そのものが、ない・・。 なぜそのようなことが起きるのかと言うと、「こんな自分でこう見られて」といった「自意識の望み」も、人への緊張や不安も、どちらもが、より大元の「愛の望み」が妨げられていることの表現であることを理解すると良いでしょう。前者は特に、心の底の「ありのままの自分では駄目」といった深い自己否定感情の上にあるものである場合です。 そうした状況において、意識表面の「自意識の望み」をどう満たそうにも心は安定しない、ということが起きてきます。「自意識の望み」そのものが自己否定の焼き直しになってしまっているからです。 一方で、自意識が打ち破られ、「魂の愛への望みの感情」が湧き出し、その悲しみと苦しみを自分自身で受けとめることが起きた時、そこに、「真の望みを生きる」ことが生み出す「望みの成熟」が起きる。つまり大元の「望み」における「卒業」が一歩起きる。その結果、人への緊張不安が消えると同時に「こう見られたい」という「自意識の望み」も消えている、ということが起きる仕組みと考えられます。 ただし、こう聞いて「自分も緊張不安を消すために魂の愛への望みの感情を感じ取ろう」と考えることは、自分の心を自分で良くしようとする「気持ちの枠はめ」という、取り組みの最初の入り口における方向違いになる可能性がありますので注意が必要です。 私たちにできるのは、まず人への緊張や不安にあまり左右されることのない建設的対人行動法や「行動学」を学び、人にどう見られたいという自意識の望みであろうと、心の底から湧き出る魂の望みであろうと、目の前の日常生活と人生の問題課題において、「現実において生み出す」ことのできる行動へと向かっていくことです。自分の心にじっと見入るのではなく。 「感情と行動の分離」という心の叡智と、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という、「成長」への王道の姿勢を携えてです。その姿勢の先にこそ、全てが、自ずと、開かれるのです。望み通りに自分を変えていく道も、そうはいかない失意を超えて、なお「望み」に向き合うことで現われる「魂との対話」の道も。 取り組みの道のりと「魂との対話」 取り組み全体の観点から言えば、「魂との対話」が大きな役割を果たすのは、「心の成長の道のり情景図」で言うなら、「未熟と病みの大海」から「成長の大地」へと立つ節目、および山の中腹から頂へと向かう段階であり、「「真の望み」に向かう心の成長の4段階」で言えば第1段階および第4段階と、道のりの最初および最後の段階になる。これが私の考えであり、また私自身の体験です。 最初の段階のものは、深刻に病んだ心からの抜け出しとして。 一言でいえば、あまりにも強い「愛への望み」と、それが妨げられた悲しみと絶望の感情を心の底に置き去りにしながら、心の表面で「どうなれれば」という自意識の衝動によって、上の空のように焦りと不安に追い立てられている状態が、深刻に病んだ心の母体です。 それに対し、取り組み実践としては、「2つ目の妨げの克服のまとめ」でもサマリーしたように、「「善悪」「評価」「気持ちの枠はめ法」の思考への終始」などの基本的な妨げの認識を入り口とし、「「人生観」の学び」を根本として、「人物印象によって愛され自信を持つ」ではなく「結果において生み出すことによる自尊心」と「純粋な喜びと楽しみの共有としての愛」という心の健康と成長への行動法への視野を持つことで、もしその方向に一歩も踏み出せない自分の心があるのであれば、ありのままにそれに向き合うことができることに、自ずと、「病んだ心の膨張と自己崩壊」あるいは「自意識の業の膨張と自己崩壊」を経た「治癒」がある、というのがこの心理学の考えです。 それは「魂との対話」が出口になる、ということになります。「自意識の鎧が突き破られ、純粋な愛への望みの感情が回復する」という「浄化成熟」の出口としてです。それがどの程度「外部依存形」かそれとも「自己浄化形」かはさておいても。例えば私の体験における、「「取り組み実践を超えた世界」へ」で触れた『悲しみの彼方への旅』「13章 自己の受け入れに向かって」のラスト場面、また「「依存から自立へ」の心の転機と「真の望み」」で触れた、『理論編下巻』の最後の章の「Y子さん」のように。 「Y子さん」のケースでは、「崩壊の治癒」を過ぎて少し落ち着きを取り戻した時に訪れた「魂との対話」を、印象深く私に綴ってきてくれた言葉があります。それをここで記しておきましょう。
一方、これも「「依存から自立へ」の心の転機と「真の望み」」で触れたように、「未熟と病みの大海」を抜け出し「成長の大地」に立ってからは、「真の望み」というテーマからいったん離れる、つまり「魂との対話」はしばらく表舞台の役割ではなくなる、というのがこの道のりのフルバージョンです。 つまり「第2段階」は、「真の強さ」を経て「否定価値の放棄」という「習得達成目標」を成す段階であり、次の「第3段階」は、それによって大きく開放される「望み」をエンジンにして、それまでに学んだ建設的行動法を大きく開花させる段階です。ここでもまだ「魂との対話」は表舞台の役割を保留したままです。 そしてもしその歩みによって人生が順調に前進するのであれば、最後まで「魂との対話」は表舞台に登場しないこともあり得ます。人生が順調に前進し、「望み」通りの方向へと向かうのであれば、それはそれで無論「幸福」に向かうこととして。 つまり、「魂との対話」は、「自身では超えることのできない心の荒廃」を超えるものとして、自身の内部に現われるものであり、それは来歴において深い躓きと妨げを抱えたケースです。 一方でハイブリッド心理学のアプローチは、「道のりは誰の場合も同じ」でも説明したように、深い躓きと妨げを抱えていようといまいと、まず必ず、心の内面よりも、心の外部に目を向けて、心の健康と成長に向かい得るための行動法の学びから取り組みます。「魂との対話」がいずれ可能にもなる、「心の自立」の姿勢を培うためにもです。 そして実際そのように、まずは外面向けの行動法に取り組んでみないと、内面における躓きと妨げが本当にどのように深くあるのかも、分からないのです。それは実は、外面向け行動法の知恵とノウハウ不足が引き起こしただけのものだったかも知れない。 自ら前に進む行動法と、自分の感情を自分で受けとめる「心の自立」の姿勢を獲得した時にこそ、実際にこの社会を「望み」に向かって生きていく力と同時に、内面に深く存在する躓きと妨げを自ら明らかにし、それを超える「魂との対話」に向き合うことも、可能になるのです。 そのようなものとしてある「魂との対話」が、道のりの最初と最後の段階で、表舞台になり得る。 これは、「心の成長の思想」として述べた、「依存の愛から、自立の自尊心を経て、成熟の愛へと向かう」という「命の生涯」にプログラムされたものだと、私は考えています。 つまり最初の段階のものとは、その歩みにおいて、「依存の愛」から「自立の自尊心」に向かう段階で一歩も前に進めない自分の心に向き合うものとして現われるものであり、最後の段階は、「自立の自尊心」を経て、つまり「自立の自尊心」を十分に獲得して、それを足場に「成熟の愛」へと向かおうとする時に現われる壁を越えるものとしてあるのだ、と。 この点で、ハイブリッド心理学を学び始めた段階で、比較的すぐに現われ得る最初の段階の「魂との対話」を体験した時、最後の段階のものと勘違いしないよう少し注意する必要があると言えそうです。これは内面の「気持ちのあり方」を重視する傾向がある方に、やや見受けられる印象を受けます。外面の行動法の学びがおろそかなまま、心の成長の歩みへとあまり向かわないままになってしまう恐れがあります。 繰り返しますが、ハイブリッド心理学の取り組み実践は、必ず、外面の行動法の学びを支えとして、実際の日常生活と人生の具体的行動場面における前進を足場にしながら、内面に向き合という形で進めます。 「真の強さ」を経て「否定価値の放棄」を成すことで、大きく開放される「望み」に向かうことにおいても、まずは「真の望み」「唯一無二の望み」を問うまでもなく、社会のレールの中で自分が置かれた場から、いかに前進できるかにまい進するのがまず道順です。でないと、まずそこで得られる人生の財産がどのようなものであるのか分かりません。それでは社会を生きる知恵とノウハウといった話もあったものではありません。 まずは置かれた場所から、社会に用意されたレールの上で、自分がどう前進でき、そこにどのように自分の人生の開花があるのかを、見極めるのです。それが「第3段階」です。 しかしもし心に深い躓きと妨げを残しているのならば、そこにやがて、再び壁が現われます。 社会に用意されたレールの上では、自分は満足できない、という感覚として・・ではないでしょう。私自身の体験から言えば、ただ、自分の中に残された闇がある、と感じるのです。外面における前進に向かうことでは解決しないような、何かの闇が。その闇が本当に解決したのならば、今向かっている外面における前進が本当に開花するのかも知れないし、別の道が現われるのかも知れない。その闇が解決しない限り、それも分からない、と思えるような闇が。 こうして、取り組みの歩みは、「第3段階」では終わらずに、「第4段階」へと向かうことになります。 建設的行動法の熟練による、外面におけるほぼ完璧な安全を支えにして、自らの内面の闇への切り込みの自己分析は、精緻さを飛躍的に増していきます。「「自己分析」と「見通しづけ」の導き」で述べた「未知への前進形」の自己分析が進むようになるのも、この頃からと考えるのが良いでしょう。『悲しみの彼方への旅』の終わりの方で「この頃の自己分析が、精神分析としては最も質の高いものになった」と書いているのは、この段階を指していると言えます(P.332)。 「魂」が饒舌に「心」に語り始め、「魂に魂が宿る」という「魂の成長」と同時に、心に不思議な変化が起きてきます。「魂の世界」における成長前進と、「現実の世界」における成長前進が、互いに切り離されたまま、互いを促し合い生み出し合っているものとして、交互に現われるのです。まるで村上春樹の小説のパラレル・ワールドのように。私はそれを「パラレル・スパイラル前進」などと命名しています。 心の成長変化は加速度を増し、自分の心に「豊かさ」が生まれてきていることを、はっきりと感じ取ります。もはやこのまま同じことが続くのではなく、ゴールと言える何かの節目があるという感覚が明瞭になってきます。 そこに、「命」という、この山の頂きが訪れるのです。 「命の開放」 「命の開放」とは、最も短い言葉で言えば、「心が命につながること」だと言えます。 「心」が「命」そのものになって、生きることへの惑いなさと充実感が、一点の曇りもない動じなさになることです。その人の人生の生き方として、あと戻りのない形において。 それはまた「思想」的に言えば、「自意識の業」が消え去る節目です。「自意識の業」の克服の、大きな節目として。 「「自意識の業」の克服とは」で、「業」を3つとして説明しました。「目的思考を欠いた善悪と評価の思考を振りかざす」という「人間の業」。「自分から不幸になる」という「心の業」。そして「自分というものをしっかり持とうとして、逆に自分を見失う」という「自意識の業」。 ハイブリッド心理学では、そこで説明したように、「目的思考」の実践が「人間の業」の克服となり、「否定価値の放棄」が「心の業」の克服に該当すると考えています。 一方、「自意識の業」の克服は、その2つの克服を串刺しのように支えるものとして、「串」という文字に表されるように、最初から最後まで一貫して前進するものだ、と説明しました。そこでは、「自意識の業」の克服は、「自分の思考」によって成されるのではない、という説明として。「膨張と崩壊」を経て、心が次第に「自意識の業」を減らした新たな心へと再生されるという仕組みによってだ、と。「命」が、それを生み出すものとして。 「命の開放」とは、そうした「自意識の業」ひいては「業」全体の克服を締めくくるものとして、自ら、「自意識の業」を捨て去る節目だと言えます。もはや「膨張と崩壊」による「受け身」の形の克服ではなく、自ら、積極的に成すものとして。 なぜなら、「心」が「命」につながり、「心」が「命」そのものになるのですから、それが可能になるものとしてです。 「命の開放」とはまた、この心理学において、「心の豊かさ」の、ゴールの領域を指すものです。 「無条件の愛」と「豊かな無」とこの心理学が呼んでいる、2つの特徴的な感情に、心が満たされるものとして。 それが、山の頂きに登る道のりに例えられる、この歩みのゴールになります。 「命の開放」への道 そのような「命の開放」へと、私たちはどのようにして至り得るのか。 それは間違いなく、心と人生を探求しようとする、全ての取り組みや哲学宗教が求めるゴールと同じものであり、序章の「「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という取り組み目標」で述べたように、その山の頂きに向かう登山ルートは一つではないということになるでしょう。 ハイブリッド心理学からは、それを引き続き、「望みの成熟」として説明した2つの道の延長で考えることができます。 これも序章の「人間の真実」で、3つのキーポイントを出しておきました。 「命をかけて向かうもの」を持つこと。自分の命と人生を注ぐことができるもの、捧げることができるものを見出すことです。これは文字通り、「心」が「命」につながる、「心」が「命」そのものになることの、一つの形と言えるでしょう。 本当に愛する相手に向かうこと。もしそこに「怖れ」が立ちはだかるのであれば、それを克服すること。これは、「命」が目指すものが「命」をつなぐことであるのならば、「命をまっとうする」ことにおいて、一つの宿題であるもののように感じられます。 この2つが、「命」という山の頂きに向かう尾根にある、2つの峰のようなものとしてある、と表現しました。 そこには、自分が本当に愛するもののために命をかけて生きる、人生と命を捧げて生きるという、惑いを完全に捨て去った、そして比類のない人生の充実を生きるための、一つの姿があるように感じられます。 そしてもう一つが、「永遠の命の感性」です。「自分」というものは、大きな「命のつながり」の中の、ほんの断片、ほんの仮りの姿のようなものでしかない。そう感じ取る感性です。 この「永遠の命の感性」が、「命の開放」を完成させるもののようにも感じられます。なぜならこの感性によってこそ、私たちは「自分」というこだわり、そして惑いを、心の底から、ほぼ完全に、捨て去るからです。「自分」はほんの断片、ほんの仮りの姿なのですから、極端な表現をするならば、「自分」がどうなったところで、大した問題ではない。「自分」などというものは、どうだっていい。 それが生み出すのは、何よりも、あらゆる「怖れ」の消滅と言えるでしょう。「人」や「社会」に向かう際の「怖れ」は言うまでもなく、もはや自らの「死」さえも、怖いとは感じないものへと・・。 この感性の下に、「本当に愛するもののために命と人生を捧げて生きる」という比類なき惑いなさと充実の姿は、さらにそこから「気負い」さえも消え、「平安」も加わったものになると言えます。「自分」などというものは、大したものではない。自分のできることが、大した結果でなくても構わないのです。それでも、本当に愛するもののために、今できる精一杯のことを尽くして生きる。 そこに間違いなく、「心の成長と豊かさ」のゴールの姿があると言えるでしょう。 「永遠の命の感性」とは、「命」という山の頂きへの、最後の尾根そのものだと表現できます。 「望みの成熟」の「一般形」から考えた時、こうした「命の開放」は、何かの節目境目としてあるものというよりも、「望み」がそのようなものへと徐々に変化していくことが「成熟」なのだ、と言うことができるように思われます。 そこで説明したように、本人自らがそうした「望みの成熟」が自己の成長だという人生観を多少とも持った上で、全てを尽くして望みに向かう人生の歳月が、燃やし尽くすたびに未知のものへと変化していく花火のように、もはや意識努力を超えて「望み」を変化させていくものとしてです。「傲慢」「消極」「浅薄」「空虚」といった心の荒廃の影響を免れていたならば。 何よりも重要となる「成熟」への鍵は、「命」に触れることにあると思われます。「命」に触れるとは、多くの形において、「死」に向き合うことです。 その点、現代社会人の最も広範囲に見られる妨げは、「浅薄」であるように感じられます。受け身に得られる情報の刺激の強さによって、ものごとの舵を切ろうとする姿勢。それを、自分にとっての本当の「望み」は何かを、そして自分にとって本当に「価値」と思えるものは何かに向き合う姿勢へ。その先に「「人生の望み」への向き合い」で説明したように視野の広さを培い、「命」に触れる、「死」に向き合うこと。これがハイブリッド心理学からの基本指針だと言えます。 一方、「永遠の命の感性」は、「望みの成熟」の「一般形」の中では、あまり語ることができないもののようにも感じられます。 少なくともハイブリッド心理学の取り組み実践が採用する思考法と姿勢においてはです。特に、「小学校で学ぶ科学のように本当に確かなこと」からしっかり積み上げていく、「自分自身に対する論理的思考」としてです。そこで何をもって、「自分とはほんの仮りのもの」と考えることができるのか。 世の人はしばしば、「永遠の命の感性」を、非科学的な、「霊的」思考の中で持とうとします。例えば「前世」とか。あるいははっきり何か特定の宗教的思考の中で。それらはもちろんハイブリッド心理学が向かう道とは違うものです。 実は私自身は、「霊魂」や「前世」の存在を否定する思考は取っていません。「視野その3・「真の強さ」へ」で触れたように、「幽霊」が「電磁波」のいたずらとして人に感じ取られると理解しており、さらに言えば、その「電磁波」が、実は人の「霊魂」であるところの「浮遊電磁波塊」かも知れないという可能性を、否定しません。しかし、もしそうだとしても、そんなものは私には知覚できないのです。「神」というものを知覚できないのと同じように。 だから、自分自身の心の外面と内面の双方への向き合いにおいて、それに拠って立つところの「本当に確かなこと」の積み上げの中に、そうした不確かなことは組み入れず、「ハイブリッド人生心理学の「未知への信仰」」で述べたように、そうした「信仰」的な思考の重みをまずほぼゼロにまで減らすことを一つの重要な柱にして、「日常生活の向上」から「社会生活の向上」までの前進もあったのです。それによって、日常生活と社会生活のほとんどの場面における「怖れ」を克服するものへと。 それでも、「未知」なるものを否定しない「未知への信仰」の姿勢と、「自分は神ではない」という「否定価値の放棄」、そしてその先に培った「望み」への前進力が、「魂との対話」の最終局面において、内面に残された最後の壁となる「魂の怖れ」の救済へと終結した時、そこに「永遠の命の感性」が開かれるのです。 ハイブリッド心理学の「原罪の克服と永遠の命の感性」の思想 ハイブリッド心理学が向かう道において、「永遠の命の感性」は、「自己浄化形」の成熟変化の中で獲得されるものと位置づけられます。 そこに起きる、「純粋な愛への望みの回復」と「自身の望みに対して自らが成した罪への向き合い」の舞台としての、「魂との対話」の先にです。 それによって、「否定価値の放棄」を過ぎ、大きく開放される「望み」に向かって建設的行動を開花させる「第3段階」を経てもなお残る心の底の闇が、完全に消え去り、同時に、「魂との対話」が終結します。 「命の開放」として、その節目があるということになります。 これは説明で理解するにはかなり難解なものになると思いますので、長い説明をするのとは逆に、できるだけ短い文章へと凝縮させた「思想文」として記しておきたいと思います。 大きく、「永遠の命の感性」が獲得される様子と、その後の「望みの成熟」の「完成形」への流れを述べたものになります。
エピローグ・学びの深まりは「心と魂と命」の生き方へ ここで述べた流れは、「ハイブリッド心理学が見出した」ものと言うよりも、まずはそれが私の体験したものでした。 そしてそこから見出した「永遠の命の感性」、そして心が「心と魂と命」という3つの分立したものから成るという考え、さらにそこにある「原罪」といったテーマが、人間の歴史を通して多くの哲学や宗教で述べられたテーマとあまりにも符合しているため、私はこれをハイブリッド心理学の一環として組み入れたのです。 こうして「自分の中にある自分とは別のもの」として「魂」と「命」を感じるというのは、「魂の望みの感情」の「神秘性」「超越性」にあるのを、私は感じています。「とても自分のものとは思えない・・」という実感としてです。 私たちの人生の大きな原動力となる、そのような感情が生まれる仕組みが、私たちの心にはあるということになります。 私はそれを、多くの宗教や神秘思想そしてスピリチュアリズムが語るのとほぼ同等の「神秘感」の中で感じています。「神秘思考」によってではなく、「感情の実体験」によって。 だからこそ、全ての惑いを捨て去るものとして、最後にこの目線を見出すものとしてです。 真に望むのは「自分」ではないのだ、と。「真の望み」は、自分の中にある「自分」とは別のものが持っている。その上で、自分は、自分が望めるものに向かうのだ、と。 こうした「神秘性」「超越性」については、理屈の説明より分かりやすいであろうものとして、私自身の日記から、一つの場面を紹介しておきたいと思います。 2011年の初冬の頃のものです。少し話が膨らみますが、その頃から2013年晩夏の今に至るまでの、私の心の流れを書いておきましょう。 その頃私は、自分の執筆の価値、そして私自身の内面の豊かさが今後どのようにあり得るのかについて、向き合い直す日々を送っていました。2009年末に『入門編』の出版を果たしたものの、商業的には全くの不成功に終わることが明瞭になってきており、「生計を立てられなければ潔く辞める」という覚悟で2002年から始めた執筆活動が一区切りの時を迎えたものとして、群馬の実家の古い持ち家の一つに移り住み、地元での再就職も考え始めたのです。「生きることそのものが生きる目的」だというのが、自分が得た「命」からの声だと感じながら・・。 それでも、幾つか応募した会社からの不採用の通知を見る時間の中で、私の中ではっきりと、私にはこの執筆以外に、自分がやってこそ意味あるものはないという自覚が深まったのです。ここに再び、思い通りにならないことで逆に自分の道を見出すという、神の手が働いたかのように・・。 そうして見えてきたことの一つが、「取り組み実践」の意識過程を、より精緻に説明する必要がある、ということでした。『入門編下巻』までの、「実践の先にこうなれます」という話の仕方では、まだ不足している、と。 それがこの本へと結実することになります。「「自己分析」と「見通しづけ」の導き」で、「もし外面的成功を得ていたら、私は自分の執筆の価値を見極めないまま、内容が粗いままの執筆ばかり続けていた」と書いたのは、この顛末を指しています。 そこで再び長い向き合いを必要としたのが、私自身の中の「魂」、そして「自分を超えたもの」と感じられるような「魂の望みの感情」の役割についてでした。 『入門編下巻』を書き上げた段階で、私はそれが自分の心を豊かにし続けるのだと考えていました。「原罪の克服」に際して「魂」が湧き上げた、そのあまりにも純粋で大きな「愛への望み」の感情と、「永遠の命の感性」の下に救われた「魂」がほとばしらせた、生きることへの感動の感情によって。もはや「現実世界」がどうあるかに、一切左右されることのない超越性によって・・。 しかしそれは必ずしもそのようなものではなかったのです。これは結局私がそれだけ凡人俗人だということでもあるでしょうが、長い線としてあった心の健康化と成熟はもちろん全く後戻りするものではない一方、やはり「今」において満足できるものを、しっかりと「現実世界」において見出せなければ、心は停滞と下降に向かいます。「魂」の姿も、見えなくなります。 そうして実家の地に再び戻った2011年の頃、私の心は、ごく私的な内面においても、少し停滞の中にありました。もし出版が成功したら・・という一抹の期待の中で抱いたものの全てが消え去ったこと、そして私が戻るのを待っていたかのように訪れた、母の死・・。 そんな流れの中で、私にとって絆と言えるのは実家にいる父一人だけのように感じられた頃に書いた日記です。心の絆となる相手を父に求める気持ちの一方、幼少期から青年期にかけての反発を経て、ごくそっけなくも適度な距離でいるようになった今、それを形にする現実行動というものも存在しないというような、ちょっとした心の隙間に、再び「魂の愛への望み」の感情が姿を現します。 それは今まで体験した「魂の望みの感情」のどれにも増して、「これは自分の感情ではない・・」という感覚が鮮明なものでした。それは私の記憶において実際にあった場面でもなければ、私がこの人生で一度も感じたこともない感情だったからです。私はその神秘に心を打たれ、ごく短く日記に記しました。
このあと私の心は、再び、初恋女性の存在に導かれる時間も持つことになりました。『悲しみの彼方への旅』からの、いまだ終わらない長い続きがあることになります。自分の心の中にある、「自分」を超えた「魂」の世界という神秘の色をやはり強めて・・。私はこれを、これから始める予定の『日記ブログ』の中にまずは書き記していきたいと思っています。 こうして再び自分の心に向き合う日々を経て、私の中に、はっきりと、「魂」とは何かへの答えが見えてきました。 それを私は、「「真実の望み」の導き」で述べた、「成長の望みと真実の望みを自分の心に向けた時、命が、今成すべき成長とは何なのかの答えを返す」という表現の延長で、こう書くことができます。 「自分」では望み得ない心を、望み続けることによる「成長への望み」と「真実の望み」と共に「命」に委ねた時、「命」が「心」に、「魂」を遣わしてくるのだ、と。 そして「心」が「魂」を受けとめ尽くした時、「命」が開放される。そして役割を果たした「魂」は去っていくのだ、と。 最終的な「心の豊かさ」は、あくまで「望みの成熟」がその縦の線のベースを決定づけることになります。それをつかさどるのは「命」であり、「命」へとしっかりつながった「心」が主役になるものとして。「魂の望みの感情」は、そこに織り交ぜられる横の線となり、時に「心」を超える彩りを添えながら、「望みの成熟」の大元にある「命の生涯」へと、私たちを引き戻すために現れるのです。 これで全ての辻褄が合うのを感じています。私に「命」を取り戻させてくれた「魂」への、大きな感謝とともに・・。 もう一つ、私が向き合う必要があったのが、他ならぬ私自身が、私の執筆の意義をどう感じるかでした。 この執筆活動が、一切の収入につながらず、また社会で取り上げられることもないまま、さらにはほとんどの人に見向きもされないままであっても、この執筆を続けることで私の生涯が終わることに、心からの満足を感じる。そうあれるだけの意義とは、どこにあるのか。この心理学を手にした読者にとって。また、私自身にとって。 「人生の生き方」の答えを伝えることが目的であるのは、言うまでもありません。 しかし私はそれを、「こう実践すればこうなれますよ」というようなものとして風呂敷を広げる気にはなれません。また短い時間で高い料金をもらうようなカウンセリングやセミナーとして展開する気にもなれません。 なぜなら、この心理学が「教える」ことができる「取り組み実践」とは、あくまで「真の成長」への「準備」を成すものであり、「真の成長」そのものは、「取り組み実践を超えた世界」として、そこから人生を生きることそのものの中にあるからです。それはもちろん、それぞれの人に「唯一無二の人生」です。 その結果がどのような「心の豊かさ」へと至り得るのか、その具体的な「事例」は、それぞれの人が、それぞれの生涯をどう生きたかの報告として、一人の人が一つだけを語ることができる、ということになるでしょう。 その私自身の事例を、私はこれからの残りの人生で書こうとしています。そして私以外の人からの事例は、今から20年あるいは30年といった後に、あるいは出てくるかも知れない。そのようなスパンのものとして、私はこの執筆を考えています。 そこで私自身については、「こうなれましたよ」などと心の指導者然と誇らしく語れるものなど、何もないのを感じています。 それでも、これだけは確実であるのを感じるのです。自分は一度「命」を失った人間であり、そこから再び「命」を取り戻すまでの歩みが、あったのだと。 そうして「命」を取り戻した今の私自身は、さして大した人間でもないのを感じます。それでも、その歩みは、自らの心の問題への答えを求めて膨大な書籍を読んだりした中にも、一つの似たもののない、あまりにも独特な、心の神秘の世界も歩むものでした。だから私は、それがこのあと誰にも見向きもされないものになったとしても、それをこの世界に書き残しておく義務感のようなものを感じているのです。そしてそれに残りの生涯を捧げることに、今、惑いのない充実感を感じています。 もちろんそれ以前に、世にある心の教えのほぼ9割9分が、「こう感じるようにしてみれば」といった、「心の枠はめ」の誤りを伴ったものになっているという、何とも困窮した状況が社会にあるようであり、手助けとしでできることが沢山あるかも知れませんね。 これについては、ハイブリッド心理学が手助けしてできる「最初の一歩」の事例を、できるだけ豊富に提供することが私の役割だと思っています。そのためまずは、今までのメール相談の事例を一通り整理し、『事例集』をまとめてから、さらにどのような活動が可能かを模索できればと思っています。 こうして、「目的思考」と「現実を見る目」、そして「自分自身に対する論理的思考」を礎として、「全てを尽くして望みに向かう姿勢」を歩みの力とし、心の内面と外面の双方における「本当に確かなこと」によって、着実に「現実の世界」を生きる歩みの先に、「魂の世界」の神秘があります。 私が知り得た、そして実際に体験したこの2つの世界を、私に残された「命」と引き換えに、私は書き尽くしていきたいと思っています。 |
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2013.9.9 |