3 治るとどんな気分?

普段の生活について
 普通の安定した日常の話しになりますが、「治った」後の感情というのは、おしなべて、良好な感情つまり楽しいとか充実しているとかの気分を基調にして、かなりフラットで起伏のないものになります。また、そうした自分の感情をあまり意識しないのも特徴です。
 本人の立場から言うと、治癒に至る道には内面世界で劇的なドラマが往々にあり、その中には人に伝える意義を見出すものも少なくありません。一方、治った後というのは、内面についていえば「取り立てた話はない」ものです。日々の生活を楽しく充実して過ごしている、というそれだけのものです。
 当然、その生活の中で外面的に激動の出来事、例えば災害の危機から劇的な生還をするとか、仕事を戦略的に進めて大成功を収めるとかあれば、ドラマはあるでしょうけど。。

基調感情の変化について
 心理障害からの治癒は、特定の症状、たとえばパニックとか不安とか破壊的怒りとかが起こらなくなるという側面と、基調感情が良くなるという2つの側面があります。このうち症状がなくなるというのは、完全なゼロというのは言いようがなく、強さと頻度の両面でいつまでもゼロに近づく減少があるとしか言えません。
 一方、基調感情の方は、やはり次第に良くなる形ですが、徐々に連続的に上昇するというより、ある時期に「新しい状態に切り替る」という不連続的な変化が何度か起きたのが私の経験です。そしてその切り替りの前後では特に感情的な動揺の中での治癒的体験が頻繁に起こるという形です。何となく大きな地震の余震と本震の中で地層が変化するようなイメージです。
 私の経験ではその中でも、「自己人格の不全感が消えた」体験を境にした基調感情の変化があまりに明瞭でした。これは私の症歴概要の最後の頃の前後で、まるで自分をそれ以前と別人のように感じる境目になっています。文字通り「心の悩みを抱える人間」が「ただの人間」になったという感じです。

治った状態は「こうなれれば」と思ったものとは全く別
 ここでとても重要なのは、治ったあとの状態というのは、心の悩みを抱えていた時に「こうなれれば」と想像したものとは全く違うということです。
 心の病の中にある時に考える良い状態というのは、どう考えても心の病の中で考えたものです。

 アニメのちびまるこちゃんで、まるこちゃんが足をしびらせたあと、血がまわってくるのを快感に感じて、しきりに足をしびらせようとする話がありましたが、心の病の最中に考える「良くなった状態」もそんなものです。愛も自信も自由も、病んでいる前提で特別の良さを帯びた別物で、健康な心でのそれとは違います。それを知るのは治ったあとです。心が健康になったあとというのは、しびれてない足で歩いたり走ったりするのと同じで、人との交流も仕事も自然にそうしているだけで、それで楽しいし充実してるのです(本当にどれだけ楽しいかは外的条件にもよりますが)。
 そこには「生きる意味がある」という感覚はありません。それ以前に「なぜ生きる」と問う気持ちそのものが全くありません。それが人間の素の姿だったのだと思います。

 良く、「生きる意味となる大きな目標」という言葉を聞きますが、私はこれがあまり好きではありません。それは生きる意味が分からない空虚感を打ち消す手段として、私自身、心を病んでる時に取った手段だからです。現在私にとって、このサイトとか著作とかで、自分の持つものを書き尽くすことは後半生の大きな課題です。だがこれは「生きる理由」などではありません。むしろ「死ねない理由」です。

基本性格も変化し得る?
 再び自身の話をすると、そのようになった後でも、不安とか緊張とかが皆無なわけではなく、それまでと同様に自己分析的取り組みを行うことが発生します。それはもし自己分析取り組みをしなければ、単に性格と割り切れる問題のような部類ですが、同じように取り組めるならそうするに越したことはありません。
 その結果最近感じているのは、以前は心理障害が治っても、自分でも満足している程度の性格傾向、私の場合はひとりでいるのが好きとかの基本傾向そのものは変わらないと思っていましたが、あるいは基本性格そのものが変わってくるかもしれないということです。
 
2002.12.17

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