まえがき 1.はじめに・4つの話の領域 2.心の問題とその克服ゴール 3.取り組み実践 4.心の成長変化 (1) (2) (3) (4) 5.歩みの道のり (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) |
4.心の成長変化 (2)「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
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「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進 ハイブリッド心理学の取り組み実践と共に歩む人生は、 ・ほぼ完全に習得された「感情と行動の分離」の両輪を携えて、 ・「命の生涯」に向かうような、純粋で力強い「望み」の感情を解放し向かう という段階に至り、加速度的に心の成長を前進させるものになります。 これはまずは、「感情と行動の分離」の両輪の実践においては、 1)外面においては、心の健康と成長に向かい得る行動法を心底から理解納得し、自分自身でその正しい内容を考えることができ、心底からそれを「選択」さらに「実行」できるようになる。 2)内面において、それを妨げる感情があれば、それをありのままに流し、「「学び」の主要テーマ - 5.悪感情への対処」のような精緻な心理学的理解に基づいた自己分析が、自分自身でできるようになる。 という習熟レベルに至った段階です。 一方、「命の生涯に向かうような、純粋で力強い望みの感情を解放し向かう」ということが可能になるためには、さらにあと2つの条件が必要である、とハイブリッド心理学では考えています。 まさにそこに、ハイブリッド心理学が見出す「人間の心の成長」の真髄、そして真実がある。そのようなものとしてです。 それは「心の業の捨て去り」と「魂の望み」の感情です。要点を簡潔に下に示しましょう。 ・「心の業」の捨て去り 「否定価値の放棄」
これが、「「学び」の主要テーマ - 6.「否定価値の放棄」の根本的選択」であり、取り組み実践の「ひとまずの習得達成目標」に位置づけているものです。 それによって、私たちの心の中で、人生を通して流れ続けていたような「暗い否定的な気分」は消え去り、心は開放感と前進感に満ちたものへと一変します。 人生を生きることへの「望み」の感情は大きく開放されるようになり、格段に力強さを増します。それに向かって、そこまでに培った「感情と行動の分離」の両輪で、引き続き前進していくのです。 外面における建設的行動や、内面における深い自己分析が花開くのも、実はここからです。「成長」と「治癒」が加速度的に前進するとともに、「浄化」「成熟」そして「超越」という、心の成長変化の真髄と言えるものへと、心が方向づけられます。 この、「否定価値の放棄」による「心の業の捨て去り」の通過線を、「心の成長変化の概要図」の中にも記していますので、確認頂ければと思います。 ・「魂の望み」による心の成長の真髄
理解のポイントを簡潔に記しておきましょう。 ・「魂の望み」の感情の異質性 まずは「自意識の望み」と「魂の望み」の異質性です。それは私たち自身に、全く別世界のもののように感じ取られるものだということです。 それはたとえば、「恋」というものさえ知らない幼い心に抱いた初恋の感情と、やがて「恋愛」を「勝ち組」「負け組」といった勝負ごとのように意識するようになり、「モテる方法」といった情報を読み漁ろうとする気持ちの、違いです。あるいは、出世と金儲けの虜になり、ビジネスライバルとの戦いに明け暮れた挙句、大病を患い、生死の淵をさまよった後生還し、やがて人のために自分にできるささやかなことに力を尽くして生きる残りの人生の日々に、心からの充実と満足を感じるようになる。そうした違いです。前の例では後者、後の例では前者が「自意識の望み」であり、前の例では前者、後の例では後者が「魂の望み」になります。 こうした「自意識の望み」と「魂の望み」の感情、また「魂の感情」と呼べるもの全般についての違いや特徴については、ハイブリッド心理学のさまざまな本(*)で詳しい説明をしていますのでそちらに譲り、ここでは、私たちの心がどのようにして「魂の望み」の感情を感じ取ることができるのかについて、ハイブリッド心理学の考えを簡潔に記しておきます。 (*)『入門編』『理論編』の各下巻、『実践詳説』、『ブログ記事書籍No.5』など |
こうした仕組みにおいて、私たちの「心」が「魂」の感情を感じ取るためには、3つの条件が揃う必要があることになります。 1)「魂」と「命」に向き合おうとする基本姿勢 これは、人生を「正しければ幸せに」といった道徳思考ではなく、「望みに向かって生きることによる成熟」だと考える価値観の上で、「望み」に向き合う「真摯さ」と「誠実さ」だと言えます。「魂」とは「望み」の純粋なエネルギーそのものであり、「善悪思考」というのは主に「自意識」が生み出すものだからです。「命」の誕生と死など、善悪を超えたものごとに目を向ける姿勢も、もちろん極めて重要になります。 2)「心の業の捨て去り」つまり「否定価値の放棄」が成された度合い 「否定価値」があると、心のエネルギーが基本的に「自ら望みに向かう」ことではなく、「理想に満たないものを否定攻撃する」ことに向かってしまいます。また「否定価値」を生み出す心の土壌においては、「望み」自体が、ありのままの不完全な自分を受け入れるものではなく、ありのままの自分を葬り去って神のように完璧な自分になろうとするような、不実で傲慢なものへと歪んでしまいます。 このため、澄んで清らかな「望み」の感情を開放するために、「否定価値の放棄」の扉を通ることが、極めて重要になってくるのです。 「「心」と「魂」の意識の仕組み図」で見るならば、「魂」と「命」に向き合おうとする基本姿勢は、意識の働きの主体である「自我」が、「魂」と「命」の方へ向かっていく様子、また「否定価値の放棄」は「心」と「魂」の間のコンクリートが取り去られる様子としてイメージして頂けると思います。 しかしそれだけではまだ「魂の望み」の感情を感じ取ることはできません。「心」と「魂」の間の仕切りは、どんなに健康で成長した心においても、最後まであり続けるのが人間の宿命だとハイブリッド心理学では考えています。 3)「望み」に向かう困難困苦 そうして「魂」と「命」に向く姿勢と、「否定価値の放棄」が成された度合いを前提条件として、最後に、「望み」に向かう上での困難困苦こそが、私たちの心にある「魂」への仕切りを、ハンマーで打つかのように打ち揺らし、突き破ることで、私たちの心に「魂の望み」の感情を湧き上がらせます。 失意を超えてなお前に向き、自らの「望み」に向き合った時、そこに、浅はかな自意識で抱いた、惑いと邪念だらけの「自意識の望み」とは全く別世界の、澄んで清らかな、そして心を豊かに満たす「魂の望み」の感情が、現れるのです。 たとえばその印象的な場面を、私の『悲しみの彼方への旅』の中で、思いを寄せた下級生の子が教室に来ない失意を超えて前を向いた時、惑いと邪念におおわれていた私の心が別世界へと切り替わり、遠く置き去りにした初恋の感情が蘇り始める場面として読んで頂けます(P.98)。これは私がまだ「否定価値の放棄」を完全には成していない若い時期のエピソードですが、「魂」に向く姿勢と、「望み」が安易には叶えられない失意を超えて前に向く姿勢が心を別世界へと切り替えるという仕組みが、分かりやすいのではないかと思います。私自身がこの本の中で一番好きな場面の一つです。 ・「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進 こうした心の仕組みから言えることは、「望みに向かう」ことが生み出す心の成長と豊かさとは、望む通りになれるよう、そのための行動能力が向上増大する、ということである一方、望む通りになれるばかりであっても、心は必ずしもあまり豊かにはならない、ということです。 つまりそれは、どちらも「自意識」の世界の中の話だということです。私たちの「心」は、基本的に「自意識」を働かせて機能するものであり、まずはその中で、建設的な行動法を学び、「行動学」を習得することで、「望み」に近づく能力を獲得向上し、実際に「望み」通りにもなれることとして、「外面の豊かさ」を目指し導かれるものとして、内面的精神的にも次第に豊かになることができます。 この点では、ハイブリッド心理学は「外面の豊かさ vs 内面の豊かさ」という対立構図などは毛頭考えていません。道を誤ることなく外面の豊かさに向かえるものとして、内面の豊かさもあるのです。 しかしそれだけでは、「豊かさ」の次元そのものが、かなり低いのです。 逆に言えば、「自意識」の中にとどまらず、それを超えた「魂の世界」に心が向かった時の「豊かさ」が、あまりにも異次元のものになるということです。それに向かうためには、私たちは、ものごとが「自意識」で描いた通りにはならない失意と絶望の谷を通ることを、受け入れなければならない、ということです。 だからと言って、最初からただものごとが望み通りにならない失意と絶望をいくら嘆いたところで、そこには「魂の望み」の感情は現れもしません。それではそもそもの、「望みに向かう」という姿勢を損なっているからです。 ハイブリッド心理学の「感情と行動の分離」の姿勢と実践は、そうした2つの世界に向かうための王道だ、と私は感じています。 まずは外面の軸を主輪として、まずは今望むものに向かうための、建設的行動法と行動学を学び実践するのです。それがまずは、私たちが望むものに近づくための能力を向上させると同時に、「望み」の内容を惑いと邪心に満ちたものから、より洗練されたものへと「鍛え上げて」もくれるでしょう。 それによって、全てがうまく望み通りになって、「魂の望み」の感情を感じ取れなくなってしまわないか、と心配する必要もありません。どこかで必ず、外面の不運不遇や条件不足、あるいは自身の限界による壁や行き詰まり、停滞が訪れるでしょう。それをありのままに、そして客観的に、ごまかすことなく認める目を持つことも、「感情と行動の分離」の外面および内面双方の軸にまたがる基礎的姿勢であり実践です。 そしてそこにさらに、自分がそこで感じる失意と絶望という湖の表面の波の下で、自分が人生を通して何を望んでいたのかを見つめる深い目を、加えるのです。するとそこに、悲しみの青い色に彩られた、深く豊かな湖水が、見えてくるでしょう。それが「魂の望み」の感情です。 叙情的な比喩で表現もしましたが、それは「魂の望み」の感情というものが、決して「このようにすれば感じ取ることができる」などと言えるものではないからでもあります。算数や英語のドリルのように、とにかくこれをこなせばできるようになる、というものではないのです。 「否定価値」という心の業を捨て去り、「望み」に向き合う真摯さと誠実さによって、「自意識」で描いた望み通りにはならない失意と絶望を受け入れて、なお前に向く姿勢の中で、心の表面の嘆きの底に、自分が人生を通して望んでいたものは何であったのかを見つめる。そうした姿勢を持てること自体がそうだと言えるかも知れませんが、そのための「心の素養」とも言えるものがあるように、私には感じられます。 それがまさに、表面的で安易なものしか見えないという「心の浅はかさ」との対照としてある、安易な表面の底にあるものを感じ取り見るための、私たち人間の「感受性」と「情緒性」という賜物の軸だと言えるでしょう。これはもはやハイブリッド心理学の「取り組み実践」だけで培えるものではなく、人生を通して、そうした「感受性」「情緒性」を培い育むことが、決め手になるように感じます。 ハイブリッド心理学の「感情と行動の分離」の姿勢と実践は、そうした「深い情緒性」を守り、最大限に引き出し、さらにそれを異次元の心の世界へとつなげていく、ターボエンジンのようなものだと、私は感じているのです。 ・「心と魂と命」の3次元的成長変化と最終ゴール 「魂の望み」の感情は、安易な表面に惑わされる浅はかな自意識の感情とは全く異質な、澄んで清らかな、深い情緒によって私たちの心を満たします。私たちが生きることの真の重みが、どこにあるのか、「命」の重みを添えて。 ただし、そうした「魂の望み」の感情が心を満たし続けるようになることが、さらなる心の成長変化になる、というのでは必ずしもないようです。 それはこのようになるようです。
「命の感情」は、「魂の感情」とも大分違うものです。 一言でいえば、「魂の感情」とは、「自分が何を望んでいるのかについての、自意識の惑いが薄れた感情」であり、「命の感情」は、「自分が生きていることについての、自意識の惑いが完全に消えた感情」だと言えると私は考えています。 「魂の感情」は、多分にウェットであり、少しか弱く、そして純粋で一途です。対照的に、「命の感情」は、力強く、揺らぎなく、多少ドライでもあります。それで私は、この2つを全く別のものと感じています。 |
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2014.3.21 |