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ハイブリッド人生心理学 概説 まえがき
1.はじめに・4つの話の領域
2.心の問題とその克服ゴール
3.取り組み実践
4.心の成長変化
 (1) (2) (3) (4)
5.歩みの道のり
 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

4.心の成長変化
 (3)「浄化」「成熟」そして「超越」という心の成長の真髄

「浄化」「成熟」そして「超越」という心の成長の真髄「浄化」 「成熟」 「心の成熟」の法則 取り組み実践による「心の成熟」への歩み 「超越」 「永遠の命の感性」への歩みと「原罪の克服」 「心の成熟」のゴール 「魂」による最後の導き ハイブリッド心理学からの答え)  「心の成長課題」と「成長の望み」の鍵 一覧表

「浄化」「成熟」そして「超越」という心の成長の真髄

そうして始まる、心の成長真髄の段階となる「浄化」「成熟」そして「超越」ベクトルについて、心の成長変化流れと、それに向かうためのポイントを簡潔に記しておきましょう。

・心の成長変化のベクトル 3 「浄化」
「浄化」 ・・・ すさんだ心の残骸「魂の望み」の感情と交わることで、「苦しみ」の中で、根底から、根本的に清らかな心へと消え去る
心の問題深刻化させる「自他への破壊衝動」という「荒廃」は、「治癒」に関連して述べたように、外面において建設的行動法心底から選択し習熟していく「成長」、そして内面において悪感情ストレス解きほぐし解消していく「治癒」によって、同時にその大部分克服解消されます。「否定価値の放棄」が、「怒り」という心の機能根本から捨て去ることとして、その仕上げになるようなものとしてです。

それでも残る「すさんだ心の残骸」とは、一言で言って、「利己的」「自己中心的」「浅ましさ」「傲慢」「自意識過剰」「見せかけ」など、来歴において「望む」ことが帯びた、この人自身にとっての「精神的な醜さ」と感じたものへの「自己嫌悪」と「罪」の感情だと言えます。
心の問題始まり「幼少期に始まる「自己否定感情」と「孤独感」」にあると最初に述べましたが、本当の心の問題は、そうした「始まり」にあるのではなく、それによってその人すさんだ感情が生まれ、「望む」ことがすさんだ色合い帯びてしまったことに対してこの人自身が抱くようになった、「自己嫌悪」「罪」こそにあるように、私には感じられます。
なぜならそれは、この人を、この人自身にとって、心の底で「許されざる存在」にしてしまうからです。自分は望むことが許されないというすさんだ感情が生まれ、それでも捨て去ることなどできるものではない「望む」という心の働きが、さらにすさんだ性質を帯び、さらに心の底で「自己嫌悪」「罪」感情を深める。そこには、出口のない泥沼のような悪循環があります。

その根本的な解決克服は、このようにあるということです。まず基本的「成長」「治癒」を経て、「否定価値の放棄」によって、「望み」大きく開放されます。それに向かって、明るく開放的な感情で、社会向かうことができるようになるでしょう。
それでも、来歴で抱えた心の問題が上述のように深かった時、この人にとって本当に重要な「愛」向かうほどに、「怖れ」が、として現れるのです。「精神的に醜かった」自分が、自分にとって本当に重要な「愛」から、拒絶を向けられるという「怖れ」だと言えるでしょう。
そうして開放された「望み」に向かい、自分自身の内部にある阻まれるという困難困苦が、まさに上に述べた「「魂の望み」の感情を感じ取る条件」になり、そこに「魂の望み」が現れ、残された心の闇の、完全なる克服へと、この人導くのです。

それは「苦しみ」という名の「導き」です。「自分にとって最も大切な愛」から自分に向けられる拒絶という幻想心の中に現れ、それを、引き続き「感情と行動の分離」内面側の軸により、何もせず「ただ流す」のです。頭ではもう何も考えられない状態になり、意識が消えていくかのように・・。
しばらく時間を経た時、この人自分が、以前の自分とは別の存在になっていることに気がつきます。「この感情をどうすれば」という問いへの答えが出ることはないまま、その問いの大元にあった問題が、消え去っているのです。「精神的に醜かった自分の記憶」さえも薄れてきているかのように。
つまりここに、「豊かな無」という「命の感情」生まれ始めているのです。これはこの後述べる「心の死と再生」起きているということでもあります。
はさらなる開放感安定感と、そしてすがすがしさ増大の一歩を刻みます。そして再び、「望み」に向かう新たな歩みを始めるのです。「自分にとって最も大切な愛」向かうための足元の強さを、一歩増した形で・・。

こうした「浄化」変化は、「成長」「治癒」しっかりと土台にしてのみ起きるものであることを理解しておいて頂ければと思います。
たとえば自分「自意識過剰」「治したい」と思って、人に拒絶される空想にいくら耽ったところで、それは解消しないということです。まず「成長」として、「感情と行動の分離」外面の軸によって、内面の自意識過剰の有無に影響を受けない行動法習得するのが大分先であり、そうした「成長」をしっかりと足場して、さらに「否定価値の放棄」成すことで、自分他人自意識過剰についての嫌悪感情なども解消されるでしょう。それでもなお残る問題を克服する最終段階として、ここで説明した「浄化」過程があるということです。

・心の成長変化のベクトル 4 「成熟」
「成熟」 ・・・ 「望み」の内容が、「与えられる」ことから「自ら生み出し与える」ことへ、やがて何も躍起に求めることなく心が充実と満足に満たされるものへと、質的に変化していく
この「望みの成熟」が、「心の成長」根幹になるものとハイブリッド心理学で考えるものになります。
つまりまず「心の成長」とは、『入門編上巻』でも定義した通り、「自らによって幸福になる能力の増大」のことです(P.47)。
それが5つのベクトルによってどのように達成されるのかを考えるならば、「望みに向かう」という人生の歩みにおいて、「成長」「現実世界を生きる能力の向上増大」であり、「治癒」「浄化」はそれを妨げていた内面状態解決克服です。
それによる私たちの「幸福度」向上増大は、まずは心の内部からの妨げや悪感情取り去られ外部の出来事への惑い動揺減少していくこと、そして私たちが生きるこの「現実世界」に向かって、のびのびと生きることができる開放感力強さの上で、あとは実際日常生活社会生活、そして人生の問題課題に次第によりうまく対処できるようになること、そして「望み」へといかに実際に近づけるかによる満足充実という、まずは「自己の外面との良い関係」が生み出すプラス感情によるものだと言えるでしょう。
つまりこの段階ではまだ、最終的「幸福度」多分に、この人自身にとっての外面的な豊かさに、依存する面多々あるというものです。

それに対し、この「成熟」ベクトルとは、「望み」性質そのものが、外面においてどう叶えられるか問わないまま、豊かな充実と満足のプラス感情生み出すものに、変化していくということです。 「望み」内容性質が、「与えられる」ことから「自ら生み出し与える」ことへ、やがて何も躍起に求めることなく充実満足満たされるものへと変化するというものとして。ここにこそ、「自らによって幸福になる能力」訪れが、あるのです。
これに向かわない手はない、向かわなければ損だ、と私はしみじみ感じます。「治癒」「浄化」によって心の内部からの悪感情動揺減り「成長」によって現実世界を生きる能力増すとして、私たちの「幸福」は、最終的には、現実において「望むもの」にどう近づけるかによることになります。そこにはどうしても限界があり、そこで私たちのにはどうしても、「不幸」を感じる余地があることになります。
それさえも、消えていくということなのですから。

ではどうすればそのような「成熟」向かうことができるのか。より具体的に、どのようなものとしてそれはあるのか。
上記の表現延長で、こんな風に言えるでしょう。限界越えられないことを受け入れられるようになり、壁の手前でも満足できるようになる・・という表現では足りないでしょう。むしろ、その方向に向かおうとした自分「命」の原点へと一度立ち戻り、そこから再び、その壁も一つとしてある進み先の全方位を、見据え直すことです。するとそこに、ずっと先に続く別の進み先があることを見出すかも知れません。あるいは壁の手前に、今まで気づかなかった輝きがあり、壁の向こうにあると思っていた輝きが実は貧弱なイミテーションだったかのように、もうあまり惹かれていない自分に、気づくかも知れません。さらには、全ての壁超越して天空に向かうためのを、見出すかも知れません。

そのために私たちが取るべき姿勢とは、一言でいえば、「望みに向かい続ける」ことです。変わることのない、一貫とした、「感情と行動の分離」両輪によって。そしてそこで出会う全て限界に際して、「魂の望み」に向き合い、その感情自分自身で受けとめ続けることです。
「心」「魂の望み」受けとめ尽くした時に起きる変化を、「心と魂と命の3次元的成長変化」として先に述べました。「成熟」とは、生涯を通してそれに向かい続けることで、「命の感情」に起きる変化のことを指しているのです。

・「心の成熟」の法則
そのような「成熟」において、「命の感情」がどのような法則の下に変化するのかを知っておくことは、何よりも、それに向かうための私たち自身の姿勢培ってくれるでしょう。
3つ「法則」、もしくは「摂理」とも言える、変化の方向性があると考えています。
私たちの人生の歩みを通して一貫として作用する、底流と言えるような変化の流れ2つ。そして私たちの人生の歩み内容変化決するものとして作用する、本流と言えるものが1つです。

1)「本性」と「宿命」の受け入れ
底流として働く作用一つが、「本性と宿命の受け入れ」です。
「本性と宿命」とは、私たちがこの現実世界を生きる上で与えられた、良いもの悪いものも含めた「条件」の全てです。ニュアンス的に、「本性」は私たちが持って生まれた条件という自己内部側のもの、そして「宿命」外部環境側のものを主に指しますが、実際には両者の相乗作用の中で生み出されるものになるでしょう。容姿才能財産といったごく外面のことだけでなく、その人がどのように生きることができるのかについて、運命のように与えられた、深く大きな条件を指すものと考えるのが良いでしょう。たとえば自分はどのように人と一緒にいるのが好きな人間なのか、それとも一人でいることを好む人間なのか。自分社会何ができる人間なのか。
それによって、私たちが実際どのような人生送ることができるのかが、大きく左右されることになります。

「成熟」とは、自分の「本性と宿命」に目覚め、受け入れていく過程である。それが一つの側面だということです。「心」が、「魂の望み」を受けとめ尽くした時、「命の感情」は、自己の「本性と宿命」に一つ目覚め、それを受け入れた、より惑いのないものへと変化するのです。この変化入り口が、いかなる「絶望」であったとしても。「命」は、それを超えて前に進む力を持っているのです。
人生の中で、心の未熟さの中で抱いた思考や観念固執した時、こうした成熟変化ブロックされて起きなくなってしまうことが考えられます。次の法則が、その原因として関係するでしょう。

2)「自発的不幸」から「自発的幸福」へ
「成熟」とは、「自発的不幸」から「自発的幸福」への変化進行していく過程である。それが底流と言えるもう一つの側面です。
死ぬ瞬間苦痛を和らげるための強力な「幸福物質」脳内分泌されるという話をよく聞きます。それと似たメカニズムが、人生という大きなスパンにおいても働くというイメージを、私は多少感じています。
つまりは生まれて間もない「未熟」であるほど、「幸福」を、外部から「与えられる」ものと感じるようにできています。際たるものとして、赤ん坊外部からの刺激ないままでは、自分の内部から発する感情はまず「私は不幸だ」というものになるわけです。だから泣いてそれをに知らせることで、全ての世話をしてくれ、それで生きることができるわけです。
もの心ついて「人生」について漠然と考え始めると、大抵こうした「未熟」による「自発的不幸」ベースに考えてしまいます。「幸福」は外部から与えられるものであり、これこれとこれこれが揃うのが幸福なのだ、と。
そしてしばしば、「善悪」の思考をそこに結びつけてしまいます。こうであれば、幸福たとえば人からの愛情や尊敬が与えられるべきだ、と。そうならないとすれば、自分か他人のどちらかがが「悪い」のだ、と。
そうして、まず自分から自発的に湧くのは「不幸」感情という心の土台の上で、自分他人のどちらか「悪い」ものに向ける「怒り」を、人生を生きる思考基本的原動力にする。それが「否定価値」とこの心理学で呼ぶ、「心の業」につながることは想像に難くありません。「自分から不幸を感じる能力」を、それによって自分神の代理人の座にある高貴な存在だと感じるための(あかし)であるかのように、重要視し、固執するようになってしまうのです。

それに対するハイブリッド心理学取り組みは、この章で説明してきた心の成長変化流れをまとめれば、
1)まず「感情を鵜呑みに考えない」というスタートから始め、
2)基本的「成長」「治癒」への取り組みに向かい、その前進力がついてきた段階で、「否定価値の放棄」という習得達成目標成すことで、明るく開放的なものへと一変し、「望み」大きく開放される。
3)開放される「望み」に向かって、引き続き「感情と行動の分離」姿勢実践によって歩むことで、「成長」「治癒」加速度的前進するようになるのと同時に、限界に際して「魂の望み」向き合うことで、心の成長真髄の段階となる「浄化」「成熟」も始まるようになる、
というものです。
この流れは要は、人の心における「成熟」歩みにおいて、「未熟」による「自発的不幸」への固執さらには執着を、その取り組み手順によって解除し、止まったままであった「成熟」「自発的幸福」への流れ動かし始めることなのだ、と理解することができるでしょう。

そしてその先がどのように進むことができるかは、本流と言える次の「成熟」法則に、いかに私たちが向かうことができるかによると言えるでしょう。

3)「愛」を単一軸とした「心の成熟」
「成熟」法則本流になるのは、私たちの心の成熟変化が、次のような、「愛」を単一軸にした流れの中にある、というものです。
「依存の愛」から旅立ち、「自立の自尊心」を経て、「成熟の愛」に向かう。
これが、ハイブリッド心理学根幹思想とも言えるものになります。それが人間の心の、「成熟」流れ支配しているのだ、と。

「望み」に向かって全てを尽くして生きることで、「望み」自ずと、「与えられる」ことから「自ら生み出し与える」ことへ、やがて何も躍起に求めることなく心が充実と満足に満たされるものへと変化する、「成熟」流れをたどる。
それが「命の生涯」と呼ぶ、この心理学根本思想だと述べました。それはこの、「愛」という単一軸の「望み」に向かうことの下において、あるということです。
それは大自然を生きる一匹の獣生涯と、何ら変わるものではありません。この世を受け、親の愛に守られて育ち、やがてそれに別れを告げ旅立ち自分の力でこの大自然を生きる力を得て、異性を得て子供を設け、自らの愛家族へと注ぎ、そしてその生涯閉じていく。その中では、「望み」に向かって全力を尽くして向かう中で、「望み」が、この固体意識する必要もなく、「命」によって定められたその流れのものへと変化していく、「成熟」歩みたどるのです。
それと同じ変化が、私たち人間の心にも、「命」によってプログラムされているということです。

私たち人間に、選択問われることになります。その「成熟」へのへと、向かうか否かです。
向かったならば、底流となる2つの法則と次のようにつながる形で、「心の成熟」とは、このようなものになるのだと言うことができるでしょう。
「依存の愛」への別れ受け入れ旅立った時、そこに「本性と宿命の自覚と受け入れ」始まっていると同時に、「自発的不幸」減少し始める。
「自立の自尊心」向かう中で、「本性と宿命の自覚と受け入れ」本格的模索と、「自発的不幸」から「自発的幸福」への移行次第に前進する。
そして「成熟の愛」向かった時、「本性と宿命の自覚と受け入れ」ゴールへと近づき、「自発的幸福」大きく開花し始める。

注目すべきは、この「成熟」節目節目を経た時の人の心変化とは、「感じ方が変わる」「感情が良くなる」といった次元のものである以前に、「別の人間になる」「人間として別の存在になる」という次元のものであることです。何よりも、人生において向かっているものが、もはや異なることにおいて。
私たちは、こうした変化こそを念頭に、心の取り組みに向かうべきです。感情がどう良くなる、気持ちがどう楽になるといった尺度で取り組みを考えるのではなく。感情の揺れというものは、比較的最後の方まで、あるものです。私が良く使う表現で言えば、スパイラルつまり螺旋階段状に。困苦に出会えば感情悪いものに傾き、それをうまく乗り越えれば感情良いものへと向上します。その変化に一喜一憂するのではなく、自分が螺旋階段を着実に上へと上っている、その位置と方向を感じ取り、目指すことです。

・取り組み実践による「心の成熟」への歩み
ではより具体的に、そのような「望みの成熟」へと、私たちはどのようにして向かえばいいのか。向かうことができるのか。私たち自身意識面において。
3つのポイントがあるように思われます。

1)人生観
一つ目のポイント単純です。そうした「望みの成熟」に向かうことが人生だという人生観を持って生きるほどに、人は実際にそれによる「心の成熟」に向かう、ということです。
つまり「望み」に向かって全てを尽くして生きることで、「望み」が自ずとより「成熟」したものへと変わる。それが自分幸福にしてくれるのだ、という人生観生きるならば、実際に私たちはそうした方向へと向かうということです。もちろん上辺だけの思考ではなく、心底からの自分の考えとして。
それに対して、ここで述べている「心の成熟」へと向かうことのない人生観とは、一つ「体面」や「評価」などの下で人生を生きる人生観です。から立派な人間と見られ、羨まれもする、「格が上」人間になること。それが人生の成功だという人生観の中で生きる。
またそれとつながるでしょうが、人生というものを、ごく外面の成功と豊かさだけで考える人生観です。最も端的なものは「お金」でしょう。お金持ちになることが、人生豊かさ。あるいは、良い学歴良い就職、良い結婚、沢山の友達といったものを得られれば良い人生だという人生観の中で生きる。
これらは、心があまり成熟しないまま、一つの心の状態の中で一生を生きるというパターンになります。
もちろん、「望みの成熟に向かうことが人生」だという人生観持ち主も、まずは「望み」内容として、やはりそうしたごく外面的な成功目標として向かうことになるかも知れません。しかしそこで重要なのは、外面の結果よりも、いかに自分が自分にできることを尽くすかにあるのだ、必ずしも結果が重要なのではない、と考えるところが違ってくるでしょう。

ですので、こうした「成熟」についての考え方自体も、「「取り組み実践」の3ステップ」で説明した「向き合い」にぜひ入れていただきたいテーマの一つになります。人の心がこのように「成熟」するというを、どう感じるか。心底から納得するか。それとも絵空事だと感じるか。自分人生向かうべきものと感じるか。それともピンと来ないか。
「望みの成熟」向かうことこそが人生だという人生観を持ったならば、あとはそれをバックボーン(背骨)として、「感情と行動の分離」両輪によって、日常生活人生問題課題そして「望み」に対して、向かい続けるだけです。一貫として、変わらない姿勢として。
それによって何が変わってくるのかと言うと、一言で言って、「「取り組み実践」の3ステップ」で、3ステップの後に続くものとして記した、「心の惑い動揺からの抜け出し」方向違ってくるのです。
どのように違ってくるのか。あと2つポイントがそれにつながってきます。

2)年齢に応じた「心の成長課題」と「成長の望み」
2つ目のポイントは、私たちのには、年齢に応じた「心の成長課題」準備され、一つの成長課題を達成するごとに、より成熟した心に向かうための次の成長課題に向き合えるようになる、という道筋があることです。
それが、「成熟」の法則として述べた3つ目の、「愛」単一軸としてあるものとしての、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」というものに他なりません。
つまりまず、今までその中で守られた、また守られようとした、「依存の愛」というから旅立ち、外に出るのです。そして目の前に広がる大自然自分で生きる力を得ることによる、「自尊心」築くのです。そして最後に、しっかりとそれを足場にして、「成熟の愛」つまり今度は自らが新たな「命」を守り育てる存在になることへと、向かうのです。

ハイブリッド心理学が持つ、極めて重要な視点が、これとの関連で、次のように示されます。
私たちの心の問題の根源は、「幼少期に始まる「自己否定感情」と「孤独感」」で述べたように、最初「依存の愛」において抱えた躓き闇の感情にあるのだが、その最終的な解決克服は、最後「成熟の愛」向かう中訪れる
というものです。
これがどんなことなのかは、時に耳にするであろうこんな言葉から、多少は理解できるのではないかと思います。「子供の頃親に反発を感じたけれど、自分が子供を持って、親の気持ちがよく分かるようになった」と。しばしばそれは、自分は愛されていないと思っていたのだけど、それは間違いであり、自分は愛されていたのが今になって分かった、というものとして。
それと同じ流れのものとして、というよりも、そうした人の心の歩みもその中で生み出されるものとして、私たちのに、「依存の愛」において抱えた躓きが、「成熟の愛」向かう中根本的な解決克服へと至るという、深く大きな心の変遷用意されている、ということになります。
それが、私たち自身の意識面においては、ある程度年齢に応じた「心の成長課題」として、向かうもの、訪れるものになる、ということです。

それが同時に意味するのは、私たちの心の惑い動揺解決克服あり方についての、次の重要な、一つの結論とも言えるものです。
心の惑い動揺解決克服は、心の成長歩みの道のりの途上においては、「感情が良くなる」「気持ちが楽になる」といった一時的改善よりも、「今向かうべき成長」が心に自覚され、それに向かう意志である「成長の望み」の感情が、心の惑い動揺を凌駕するというものとして現れる
つまりこの「今向かうべき成長」そしてそれに向かうという「成長の望み」とは、「年齢に応じて準備された心の成長課題」への、「気づき」だと言えるでしょう。それが心の惑い動揺凌駕するというのが、心の成長歩み途上における姿だということです。
その時、はその「気づき」とは、一歩別の存在へと変化しています。心の動揺が消えて気持ちが楽になったことにおいてよりも、新たに進む方向を得た存在としてです。まだ惑い動揺完全に消えたわけではない。しかし自分は、新たに進む道見出したのだ。その感動力強さ感覚こそが、この人に、今自分が進んでいる方向が正しいのだということを、確信させるものとしてです。

そのような「年齢に応じて準備される心の成長課題」と、それへの「気づき」が生み出す「成長の望み」について、大まかな目安をまとめたのが下の「「心の成長課題」と「成長の望み」の鍵 一覧表」になります。
そこで意識面における「成長の望み」の鍵として記したのは、今自分が向かうべき成長とは何か、そのために何に向かうべきかへの答えとして意識されるであろうものです。
心の成長課題3段階に対応して、「成長の望み」となるものが、3種類ある。それがハイブリッド心理学の考えです。
「依存の愛」から旅立つために、今までしがみつこうとした「依存の愛」を、手放すという姿勢そして行動に、向かう
「自立の自尊心」向かうために、「真の強さ」とは何か学び、それを実践する。
「成熟の愛」向かうために、自分にとってそれがどのようなものであるのかの答え告げるものとして、「魂の望み」向き合う

  「心の成長課題」と「成長の望み」の鍵 一覧表
目安となる年齢 心の成長課題 意識面における
「成長の望み」の鍵
心の成長への段階
10代後半以降 「依存の愛」
 からの旅立ち
「依存の愛」
 手放す
第一歩
 踏み出し
20代以降 「自立の自尊心」
 に向かう
「真の強さ」
 向かう
「成長」「治癒」
 の始まり
30代以降    建設的行動法習得ほぼ完成
   「否定価値の放棄」成す
「成熟の愛」
 に向かう
「魂の望み」
 向き合う
「浄化」「成熟」「超越」

「目安となる年齢」は、私たちの心身成長、そして学び実践必要とする歳月を考慮した時、「成長課題」と「成長の望み」に向き合うことが可能になるのは、恐らくは早くてもそれ以降になるであろうという、ごく大まか目安です。
「自らによる成長」というこの心理学取り組み始められるのは、まずは10代後半以降だと考えています。それ以前心の取り組みは、やはり大人による青少年の教育指導援助でという形になるでしょう。

20歳前後といった若い段階で取り組み始めた場合、先に進んだ段階取り組みテーマたとえば「否定価値の放棄」選択や、「永遠の命の感性」といったものに取り組もうとしても、その足場となる心の成長課題そもそもまだ年齢的に準備されていないことも考えられます。
その場合は、成長した心を自分に当てはめようとするのではなく、心の成長のための基本的な意識姿勢や思考法行動法などの礎を築くことにまず注力し、心の変化の結果を性急に求めることなく、日々自分が成長していることを実感できるような、日常生活と人生における歩み方を築くことが、まずは目標になります。
心の惑い動揺克服は、そこにおいては、全ての動揺を脱した円熟した心の境地を得るという形においてではなく、年齢に応じた人生の課題に向かっている、そこで自分は成長しているという前進の力強さの感覚こそが、心の惑い動揺凌駕するという形での克服になるのです。つまりそこで問題が解決した姿とは、何か特別な内面状態を得ることではなく、年齢に応じた人生の外面課題に、惑いなく向かえるようになることです。とえば進学就職交友恋愛結婚などなど。
より先成熟した心あり方については、無論、算数や英語のドリルのように、頑張ってこなすほど先に進めるというものではありません。今の自分には実感できないけれども、人間の心にはこうした成熟境地がある、そのためのテーマとしてこうしたものがある、程度に心の懐に入れておくような学び方をしておき、いったん人生の外面的な前進集中する年月を持つ一方で、自分の心の新たな変化への機会早めに感じ取り関連するこの心理学のテーマについて再び集中的な学びを行うといった、生涯の学びとして進めて頂ければと思います。

それに対し、30代後半以降など、多少とも年齢を重ねてから取り組み始める場合は、ある程度、心の成長課題早回しして通るような歩みも可能になるかもしれません。ただしその場合も、最終的な解決克服の姿を性急に自分に当てはめてみるというやり方ではなく、心の成長のための基本的な意識姿勢や思考法行動法などの礎の確認から始め、心の成長課題最初のものから、自分がどのようにそれを足場にすることができているか確認から、じっくり進めていくことが何よりも近道になる着実な進め方になります。不足している心の足場については、その学び実践はやはり年単位での取り組みとなり、生涯の学びになることに変わりはありません。

3)「魂の望み」への向き合い
まとめれば、「心の成熟」向かうためのポイントは、
 1)「望みの成熟」向かうことこそ人生だという人生観を持つ
 2)心の惑い動揺克服つながるものとして、「年齢に応じた心の成長課題」対応する「成長の望み」へと意識を向ける
というものです。
そしてその「成長の望み」とは、「魂の望み」感情として、感じ取るものになります。これが3つ目のポイントです。

ここにハイブリッド心理学の「取り組み実践」意識過程フルバージョンとも言えるものが、完成するように思われます。
つまりそれはこういうものです。まず上に述べたように「望みの成熟」向かうことが人生だという人生観を持った上で、「感情と行動の分離」両輪によって、日常生活人生における「問題」「課題」そして「望み」に、向かい続けるのです。そこで「問題」克服するために私たちは「課題」というものを持つのですが、何のためにそうした「課題」を持つのかと言えば、人生で何か大きな「望み」があるからであり、それは結局のところ「愛」というたった一つの軸にある、という視野を持つのです。それによって私たちの意識自我は、「「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図」で示した「魂」「命」へと、より近づく形で働くようになります。

そうした歩みで、「魂の望み」感情が、私たちを「成熟」へと、2つの側面導くものになります。
一つは、「魂の望み」感情が持つ「成熟作用」そのものと言えるものです。
それはあたかも何かの仕掛け花火のように、その感情自分自身の心で受けとめ、燃やし尽くすごとに、その別のものへと変えていくのです。「望みの成熟」として、その変化をここで説明した方向へと。
それがいつ、どれだけ「魂の望み」感情を心で燃やせば、次の色へと変化するのかは、私たちの「意識」には分かりません。それは私たちの「意識」を超えて、「命」プログラムされたものなのです。私たちにできるのは、そこに「命」作用があるのを感じ取ることまでです。

そしてもう一つが、「成長の望み」もやはり、「魂の望み」感情として感じ取るものだということです。
「魂の望み」感情は、「「魂の望み」の感情を感じ取る条件」で説明した通り、「望み」に向かって全てを尽くして生きる中で、思い通りにならない失意を超えてなお前に向き、人生における「望み」に向き合った時、訪れるものになります。それは「愛」「誉れ」という、大きくは「愛」という単一軸の下にあるものであり、思い通りにならない失意にこそ感じ取れるものであることにおいて、それは主に、深い悲しみ、時には苦しみを伴う感情になります。しかしそこに、私たちの人生で最も豊かな情緒が現れると共に、それを十分に受けとめた時、その後に「魂」は、自身が今何に向かうべきかを告げる感情を、湧き上がらせるのです。今は、その「愛」から離れなさい、と。そして「真の強さ」向かいなさい、と。やがて訪れる、「成熟の愛」向かうべき時のために。

そうして、歩みの中で「魂の望み」感情を受けとめ尽くした時、「心と魂と命の3次元的成長変化」が起き、私たちはその都度、それまでとは別の存在と言えるかのように、次第に「成熟」した人間へと変化していく、という流れになります。
『取り組み実践詳説』が、こうした「取り組み実践」意識過程について細部にわたり詳しく解説したものになりますので、実際取り組み実践を進める上で参考にして頂ければと思います。

・心の成長変化のベクトル 5 「超越」
ハイブリッド心理学が考える心の成長変化ベクトル最後のものが、「超越」です。
これは位置づけとしては、心の悩み動揺克服力として、心の成長途上のものが上述のように「成長の望み」である一方、最終段階のものがそれだというものになります。
心の成長途上段階においては、まだ悩み動揺完全には消えていないけれども、自分には今、自らの心の成長のために向かうべき道がある。その力強さ感覚として。
そして心の成長最終段階においては、「自分」という惑い根本的に超越するものを、見出すこととして。

これはハイブリッド心理学が考える心の悩み動揺克服あり方について、ある特徴鮮明にするものと言えます。
それは、心の悩み動揺克服は、「こうした悩みはこうすれば解決できる」、と、「悩み」への答えが出るというのものではなく、そもそも自分が悩みを抱えていた存在であるという事実が、薄れていくというのものだということです。
それこそが真の克服の姿だというのは、多少とも理屈の通る話です。はよく「こうした悩みはこれで解決できる!」という答えを求め、あるいはそれが分かったと考えるのですが、それは実はまだ「こうした悩みがある」という意識を持つ状態であることにおいて、真の克服には至っていないのだと言えます。それに対し、ハイブリッド心理学が考える克服は、「こうした悩みがある」という意識そのものが薄れ、やがて消え去ることを指しているのですから。

心の成長歩みにおいて、悩み動揺のそうした克服力最終形になるものと言える、「超越」この心理学が呼ぶ心の変化があります。
それは次のように、「永遠の命の感性」獲得するという、大きな節目つまり通過点です。
「超越」 ・・・「自分」というものは、「命」という大きなつながりの中のほんの一つの断片、仮りの姿のものにすぎないと感じ取る「永遠の命の感性」の獲得によって、「自分」というこだわり惑いが完全に消え去り、「幼少期からの根深い自己否定感情」といった心の闇最終的解決が訪れると同時に、心の成長はゴールの領域へと入る。
「無条件の愛」「豊かな無」といった、「自意識」の惑いが完全に消え去った揺らぎない豊かな感情が、「命の感情」として現れるようになる。

・「永遠の命の感性」への歩みと「原罪の克服」
この「永遠の命の感性」は、私たち人間心の惑い捨て去りへの最終的な答えとして、古くから語られてきたものと同一です。ハイブリッド心理学は、そこに一つの真実があると考えています。
それはいわば、私たち人間心の成熟における、山の頂きのようなものと言えるでしょう。ただしそこに至るための登山ルートは、一つではないだろうと。
ハイブリッド心理学が見出した登山ルートとは、「魂の望みの感情」導かれ至るというものに、他なりません。
それは次のように要約することができます。
「永遠の命の感性」は、
「心と魂と命の3次元的成長変化」体験積み重ねによって、自分の中「自分」を超えた「魂」「命」という別の存在があることを感じ取ることを足場に、
命の重みのある「魂の愛への望み」へと向かう体験の中で、自分最も大切な「愛」近づくことを妨げるものが「魂の怖れ」であり、それが「命のつながり」によって救われるものであることを感じ取った時
獲得される。

これがどのような流れで起きるのかと言うと、「取り組み実践による「心の成熟」への歩み」「年齢に応じて準備される心の成長課題」に関連して述べた、「幼少期に始まる心の闇が、成熟の愛に向かうという最後の課題の中で最終的に克服される」という流れとしてです。
それは同時に、「浄化」最終局面として起きるものでもあります。つまり、来歴の中ですさんだ心を抱えた自分が、人生で最も大切な「愛」近づくことができないという内面の壁向き合った先に、それを超えるものとして、訪れるということです。

その時、内面の壁が生み出す失意越えて、なお「望み」に向き合う姿勢によって、「魂の愛への望み」感情は、もはや「自分」のものとは思えない大きな情緒のうねりを湧き上がらせ、「心」打ち、感動させ、「心」はその「魂の愛への望み」守るという「愛への意志」によって「現実」行動へと向かうのです。
それは同時に、この心理学「原罪の克服」と、宗教の言葉を使って呼ぶ節目でもあります。
「原罪」は、来歴の中で「心」に抱えた躓きと妨げによって生まれた、「人生で最も大切な愛」自分は近づくことが許されないという根源的自己否定感情である。
「原罪の克服」は、
「愛」に向かう力獲得増大足場に、「人生で最も大切な愛」向かう歩みが成される中で、
「原罪」本質「憎しみ」きっかけにして「自意識」というものを抱くようになったという、自己の存在のけがれへの感情であることが自覚される一方、
それまでに培った建設的行動法による「自立の自尊心」足場に、「望まないのが正しい」とするのは誤りであり、「魂の望み」向かい続けることに未知の答えがあるとする選択する、
という心の動きとして成される

その時、「あらゆる論理性を失った恐怖の砂嵐」とも呼べる状態を通り抜け、そのに、全ての心の闇が消え去った、まっさらな、すがすがしい、新しい意識状態心に生まれる、という流れになる。
この流れ「心」「魂」「命」別のものとして働くことが最も鮮明になることにおいて、「永遠の命の感性」の獲得へと直結するものとなる。

これはとしては極めて難解であり、長い社会人生活を経て大きな心の健康を得た体験をもとにこの心理学執筆を始めた2002年の段階でも、私自身見えてはいないものでした。それでもこの心理学整理を通して、私自身心の健康化と成長がさらに加速度的に起き、それを足場に、私自身にとって人生で最も大切な「愛」向かうという体験の中で、上に述べたことが起きたのです。
そしてその少し後に、自分が「愛」に近づくことを妨げた壁「魂の怖れ」感情であり、それが「命の大きなつながり」によって救われるものだという大きな自覚が起き、私の人生の歩みの中で、「否定価値の放棄」を成した時に匹敵する大きな心の変化起きたのです。これを境目に、私の心の中「寂しさ」「怖れ」というものが根底から消え去り「無条件の愛」そして「豊かな無」と呼んでいる、「意識」が働くことなく心が豊かな感情に満たされる状態生まれ始めました。
そうして至った「永遠の命の感性」、そして私たちの「心」と「魂」と「命」という3つの別のものから成り立っているという考えが、人間の歴史を通して古くから語られているものとあまりにも符合したため、私はこれを真実と感じ、この心理学一環として組み入れたのです。
こうした心の変化流れは、『入門編下巻』において詳しく描写していますので参照頂ければと思います。また、私自身のこの歩みにおいて体験した、「自分」というものを超えた「魂の感情」の神秘の世界というものの、より具体的なありさまを、『日記ブログ』などを通して、私に残されたこれからの人生の中で書き尽くしていきたいと思っています。

・「心の成熟」のゴール
ハイブリッド心理学では、「永遠の命の感性」獲得が、心の成長成熟最終的な段階訪れ得るものだとしても、必ずしもそれが心の成長ゴールイコールではない、と考えています。
最終的なゴールは、あくまで、「望み」内容が、「与えられる」ことから「自ら生み出し与える」ことへ、やがてもはや何も躍起に求めることなく心が豊かな感情に満たされるようになるという、「望みの成熟」一本の線の、最終点にあります。

「望みの成熟」仕組み自体は、かなり単純なもののように私には思われます。「望み」に向かって全てを尽くして生き「望み」燃やし尽くすごとに、「望み」自ずと、「命」によってプログラムされたその変化をたどるのです。私たちは、自分「望み」いつどのように成熟変化すればいいのかなどと意識する必要もなく、ただ「望み」に向かって全てを尽くして生き、あとは「命」に、自己がどう変化するか委ねればいいのです。

一方で、私たち人間の心には、そうした「望みの成熟」自然な流れに向かうことを根本的に妨げる、「業」があります。
「否定価値の放棄」「永遠の命の感性の獲得」という、ハイブリッド心理学が見出す2つの大きな転換節目は、そうした「心の業」の、大きな2つの面克服にそれぞれ対応するものだと言えるでしょう。
一つは、「否定価値」とこの心理学が呼ぶ、「空想」で描いた理想に足りないものを積極的に否定し責め叩くことに価値を感じるという、「心の業」正体とも言えるものの捨て去り克服です。
そしてもう一つは、もはや「業」と呼ぶにはふさわしくないほど基本的仕組みとして、私たち人間の「心」が、大元「命」から引き剥がされ、薄っぺらいものとして動くという宿命です。「永遠の命の感性の獲得」によって、私たちはその「業」よりも深い宿命からも、開放されるのです。

・「魂」による最後の導き
その歩みを、「魂の望み」感情が、3つの側面を経て、導くと言えそうです。
それは同時に、「「心の成熟」の法則」「本流」として述べた、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「愛」単一軸とした、「命」によって定められた摂理へと、「心」導くものとしてです。

2つの側面について、すでに「取り組み実践による「心の成熟」への歩み」「3)「魂の望み」への向き合い」で述べました。「魂の望み」感情が持つ成熟作用そのものと、「魂の望み」感情において感じ取る、「成長の望み」です。
「魂の望み」感情感じ取れること、それを自分自身で受けとめ、心の中で燃やすことが、「望みの成熟」基本要件です。
これは「否定価値の放棄」前から要件です。思春期の中で「自意識」が旺盛になり、やがて「人生」視野に入る頃、私たちは生き方に悩み、動揺に惑い始めるようになります。歩みがそこで始まります。「魂の望み」感情感じ取る姿勢によって、「成熟」への胎動が始まり、「魂」この人に、自分がもう「依存の愛」から旅立つべき時が来ていることを、「成長の望み」として告げるでしょう。
そうして「社会」という大自然に出て、「自立の自尊心」築いていく中で、「望み」「与えられる」ものから「自ら生み出し与える」ものへと、徐々に変化していきます。そこで何かの妨げや壁による動揺に出会った時、「魂」は再び「成長の望み」として、「真の強さ」向かえ、と告げるでしょう。そして「真の強さ」を得た時、この人のは、「自尊心」という「自分」のための心の成長課題から、「成熟の愛」へと、人生で本当に愛するものに「命」をそそぐためのものへと移っていくのです。

「否定価値の放棄」はそこで、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心に向かう」という転換対応したものです。
なぜなら「否定価値」とは、理想通りになれれば愛され与えられるという「依存」の心の世界で、「自発的不幸」という未熟が生み出す「怒り」を、理想に満たないものに向け、責め叩くことで、自分神の代理人のような高貴な座にあると感じようとする、「弱さ」に基づく、偽りの自尊心だからです。「依存の愛」から旅立ち「真の強さ」への視野を足場にして、それを捨て去り「自立」の心の世界の、真の自尊心向かうのです。
これが歩み最初からの、「魂の望み」感情に導かれ至る転換であるのと同時に、この転換によって、「愛」単一軸とした「魂の望み」感情が、大きく開放されます。そのに、「成熟の愛」に向かうがあります。

「永遠の命の感性の獲得」は、「成熟の愛に向かう」という最後の段階において、訪れ得る節目対応します。
ハイブリッド心理学が見出すのは、これが訪れる、さらに言えば訪れる必要があるのは、「否定価値の放棄」を成し、堅固「自立の自尊心」築くことができ、それでもなお、「成熟の愛」向かう段階で、心の闇の残骸残され、その最終的な解決克服へのとなるような「命の重みのある愛」向かおうとした時です。
これが具体的どのようなことを指すのかは、私としてはあまり定型的には考えたくないように思います。それは家族愛関連したものかも知れないし、恋愛関連したものかも知れない。友情関連したものかも知れないし、さらにはそうしたものとも異なる、何か来歴の中で置き去りにされた体験関連するものかも知れない。たとえばしばしば耳にすることもある、戦争をまたいだドラマのように・・。私の場合は結局、『悲しみの彼方への旅』でも短く含み書きしたように、初恋女性の存在がそれを導くものになりました。
いずれにせよそこで起きるのは、その「命の重みのある愛」が、まさに心に残された闇最終解決へのになるようなものであることにおいて、他の場面であればそれまでに培った「自立の自尊心」建設的行動法によって容易に向かうことができるであろうこの人にとっても、その「愛」に近づくことは、内面が現れるものになる、ということです。
そこに再び、「魂の望み」感情姿を現します。絵に描いたような望みの成就得られないとしても、否、絵に描いたような成就の形安易には得られないからこそ、自分自身「魂の望み」感情を受けとめる歳月が、この人の心をさらに成熟させ、安定させていきます。それによってこの人は、一つの答え知り始めるのです。「魂の望み」に向かい続けることに、答えがあるのだ、と。

それはこの人「魂」この人に伝える、最後「成長の望み」でもあります。出会い失意超え「望み」向き合った時、そこに「魂の望み」感情が現れ、一歩成熟させるとともに、「魂」はこの人に、次の成長段階のために何に向かうべきであるかを告げる。そしてこの人実際にそれに向かった時、やがて「魂」「命」は、再び次への答え示す。この一貫した歩みにおいてです。
「依存の愛から旅立つ」という段階においては、「依存の愛を手放せ」という「成長の望み」として。そしてそれに向かった時、「自立の自尊心」という成長課題が示され、「真の強さに向かえ」という「成長の望み」が示されます。それに向かう中で「否定価値の放棄」という大きな通過点達成され、「成熟の愛」という成長課題が示されるようになります。そしてそこでなお越えるために、「魂」は、「魂の望みに向かい続けなさい」というを、「成長の望み」として「心」伝えるのです。今はまだ見えない、自分にとっての「成熟の愛」とは何かへの答えを、やがて示すであろうものとして。そしてそれに向かった時、「魂」「命」が再び、その先にあるもの示す

それは一体何を示すということなのか。「魂」が、「魂の望みに向かえ」と告げ、その先「魂」示すものとは。
それは、「魂」「命」の、ありのままの姿そのものなのです。今まで、この人人生において、「自意識」という(かすみ)におおわれ、見えないままでいた、「魂」「命」の、ありのままの姿です。
その時「魂」は、もはや「心」導くためではなく、「魂」自身のために、「魂の望み」向かう姿を、「心」晒すのです。そしてそのその先にある、「命の大きなつながり」姿を。
「心」は、そのあまりの大きさに打たれ、はっきりと悟るのです。「自分」というものは、ほんの断片、ほんの仮りの姿のものに過ぎないのだ、と。
ここに、「魂の望み」感情「心」導く様子の、3つ目の、最後の側面が示されます。「成熟作用」「成長の望み」、そして3つ目「魂と命のありのままの姿の示し」とでも呼べるでしょう。
こうして、「永遠の命の感性」獲得されます。

・ハイブリッド心理学からの答え
これがハイブリッド心理学からの答えです。の通り言えるように。
私たち人間心の問題における「幼少期に始まる自己否定感情と孤独感」という根源最終克服は、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「命」によって定められた心の変遷の、最後の段階において訪れる
その意味とは大きく、
1)心の成長と成熟への歩みに得る心の強さと豊かさによって、置き去りにされた自ら「魂」「愛への望み」自ら受けとめ、十分に守れるようになること、
2)その歩みにおいて自分を変化させたのが、まさに自分にある「魂」「命」という、自分「心」とは別の存在であることを自覚することにおいて、「自分」という惑い心の根底から捨て去ること、
この2つにあるものとして。

これらをより短く、一般的な言葉で言えば、心の問題の根源にある「自分は愛されない」という心の躓きと闇は、「自分から愛することができる」「自分という惑いを捨てる」という大きく2面によって克服される、ということになるでしょう。そこまで言葉短くすると、言っていること本質は、この心理学にせよ他の心の取り組みにせよ、同じものになってくるというのがお分かりかと思います。
それでも、「ではどうすればそうなれるのか」という問いへの答えが、かなりさまざまなものになってくるという話になります。ここでは、ハイブリッド心理学が考えるその詳しい道筋を説明しました。

あるいは、「そこまで待たされるのか」感じる方もおられるかも知れません。幼少期に始まった問題最終的解決が、30代40代以降といった、心の成長歩み最終段階になって、ようやく訪れるというのですから。
それは同じことのように思われます。私たちがこの世に生まれた時、「愛」が、長い歳月を経て一生をかけて遂げる課題になるものであるのと、同じことだということです。
それが、「命の生涯」なのです。「愛」というたった一つの課題のために、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という変遷をたどる。「命」とは、そのただ一つの目的にあるものなのです。その大きな視野を見失った時、はたとえ人生の早期においてあまり妨げのない幸運な環境で生まれたとしても、しばしば生きる道を誤り、身を滅ぼすのです。
もちろん、その早期において体験することになった躓きは、人生における困苦一つを生み出すでしょう。しかしそれは、は誰もが不完全な存在として、時にハンディを持った存在として生まれることと、何ら変わりない話であるように思われます。そしてこの歩み道のりにおいては、「浅はかな心」という万人に共通の、真の幸福への最大の妨げ克服するのは、むしろ人生の早期において深い躓きを抱えたケースなのです。ここに、人は困苦を経てこそ真の幸福を見出すという、真実表れがあります。
その歩みにおいて、「待たされる」ものはありません。見える「望み」に向かって全てを尽くして生き、その中でさまざまな喜び楽しみ、時には悲しみ苦しみ体験する中で、「学び」得て「成長」知っていく。そして自身内部外部にあるに出会うことで、「魂の望み」にも向き合い、そこで体験する「未知の自分」への変化と、「今向かうべき成長」見出すことの力強さ充実が、惑い凌駕していく。全てが、その積み重ねに、自ず訪れるものなのです。それは人生の来歴の中でどのような躓きがあろうがなかろうが、全て同じことなのです。

「永遠の命の感性の獲得」によって、私たちの心の内部にある妨げは、ほぼ全て克服されることになります。
ただしそれはあくまで妨げの取り去りであり、それはまさにこれからその人「成熟の愛」に向かって、自己の全て開放して向かう日々始まることを、意味するように思われます。その点で、「永遠の命の感性の獲得」そのものは、心の成熟ゴールよりもかなり手前位置づけられるかも知れない。今は私自身そう感じています。
そしてまた言えるのは、「永遠の命の感性の獲得」によっても、「心」「魂」「命」それぞれ別のものとして働くという心の仕組みには、変わりはないことです。つまり最後まで、まずは自分の「心」で、浅はかに望んでいくのです。それに向かって全てを尽くして生き、に出会うことで、再び「魂」が姿を現すでしょう。
それはもはや、「愛」に向かうことへの「怖れ」を微塵も持たない「魂」です。そしてこの人に再び、新たに向かうべき道示すのです。

その先に、「揺らぎない自尊心によって支えられ、愛によって満たされ、もはや何も恐れるもののない心」この心理学表現する心の成長の、ゴールがあります。


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2014.5.30

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