まえがき 1.はじめに・4つの話の領域 2.心の問題とその克服ゴール 3.取り組み実践 4.心の成長変化 (1) (2) (3) (4) 5.歩みの道のり (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) |
「旅立ち前」から「学び」までの段階-2 ・感情テーマにおける「選択思考」とは ではそこでどのように「選択」を成していけばいいのか。成していくことができるのか。 「2つの心の基盤」の上でです。その一つを「自分自身への論理的思考」として、そこから始まる基本的な姿勢の「選択」の積み上げの流れを、説明してきました。 まずは「自分にとって本当に確かなこと」を、「これがこうだからこれはこう」と、感情で決めつけるのではない、小学校で習う科学のような現実的確かさにおいて、しっかりと論理的に考える。まずはこれを日常生活において確かなものにすることからになるでしょう。 そこから引き続き、人生の生き方姿勢についても、論理的な確かさと正しさに基づいて「選択」していく・・のではありません。 「感情を鵜呑みにしない思考」とは決して「感情を無視した思考」ではないと、「自分自身への論理的思考」の説明で繰り返し述べた通りです。それは「自分にとって本当に確かなものを選ぶことが生み出す、内面の強さと前進の感覚、感情」を芯とした思考なのだと。 それによって実際考えるテーマがごく即物的、たとえば明日の天気を知るために「占い」ではなく「気圧配置による予報」を見るといった話であれば、それは「論理的な確かさ正しさ」に基づく「選択」だと言えるでしょう。 しかしテーマが「幸福」「愛」「自尊心」といった「人生の生き方」になるにつれ、その「選択」を決するのは、もはや「論理的な確かさ正しさ」などというものでは、なくなってきます。 なぜなら、そうしたテーマにおいて「選択」を決するのは、そしてその「選択」が実際に「正しい」ものだったという最終的な判断を下すのは、結局、私たち自身の「幸福」を自ら望む気持ちと、「選択」の結果自分が実際どう「幸福」になれたと感じるかという、つまり「感情」だからです。 そこにおける「選択」とは、つまるところ、あるテーマについて、私たち自身が私たち自身の心の中に、ある考えを抱かせるような感情と、それとは違う考えを抱かせる感情を目に捉え、「自分自身への論理的思考」によって築いた「自分にとって本当に確かなこと」を選ぶ視力、さらに「意志」によって、そのどちらかの感情を選択するということなのだ、と言えるでしょう。 これはたとえば「麻薬を吸ってはいけない」という話で分かりやすいでしょう。「なぜなら・・」という、その先の思考をする姿勢の違いです。 「それは悪いことだから」というのが、「自分自身への論理的思考」を欠いた、「前に進めないケースの特徴一覧表」の中で「善悪・評価・枠はめ」」に該当するものです。 それをこの取り組みにおいては、「麻薬によって得られる幸福感こそが最高のもの」といった考えに誘惑を感じる感情と、「現実」において麻薬によって一瞬の至福が得られたとしても、身体はボロボロになり、その後には長い苦しみが訪れるものだという「現実を見る目」にも立った上での、一瞬の至福感ではなく、揺らぐことのない、恒久的な幸福感とは何かを模索したいという感情が自分の中にあるのを見つめ、後者を、「自分にとって本当に確かなもの」と感じ、「麻薬」など手を出さないことを「意志」によって「選択」する。これがこの取り組みにおける「選択思考」のあり方になります。 恐らく言えるのは、もしこの人が実際に麻薬を手に入れられる誘惑に出会った時、前者の「悪いことだから」といった浅い思考だけでいた場合に比べ、後者の「選択思考」をしていたならば、その誘惑に負ける危険は遥かに少なくなってくるであろう、ということです。 あるいはそこである人は、一瞬の悦楽感でいいから欲しい、と考えるかも知れません。その人に上のような説明をしても、後のことなんて分からない、「自分にとって本当に確かなもの」なんて感じることができない、と言うかも知れません。 ですから言っているように、この「選択」は「論理的な正しさ」による「選択」ではないのです。自分の中に、ある考えを抱かせる感情と、別の考えを抱かせる感情がある。その2つを、さらに一次元高い感情から、「選択」するということなのです。 この「選択」を可能にするのが、一つは「自分自身への論理的思考」であり、これによってまず思考と感情を「論理的」に解きほぐし整理し、「選択」を対峙させるための堅固な心の基盤になります。 そしてもう一つ、最後にその「選択」を決するのは、あくまで「感情」としての「自分にとって本当に確かなもの」です。そのための、つまり、ある考えを抱かせる今までの感情とは別の考えを抱かせるための、新たなる感情のための心の潮流が必要だということになります。 ・「心の依存から自立への転換」 そこに、もう一つの心の基盤の役割が登場します。「心の依存から自立への転換」です。 それによって、私たちの心の中で、「感情」のあり方の流れが変わるのです。 そしてそれが示す先にあるものこそが真の「幸福」であることを、「自分にとって本当に確かなこと」と感じることにおいて、私たちは「選択」を成すのです。 「心の依存から自立への転換」について、まず最初に何よりも理解しておいて頂きたいのは、それはあくまで外面的な、つまり生活基盤や経済基盤における「自立」とは、別の話だということです。あくまで「心の基盤」の話をしていますので。 ならば、「心の依存から自立への転換」として、私たち自身の意識において実際何をどうすることなのかを言うならば、まずは他ならぬ、「人の言うこと」から「自分自身で考えること」へと、心の重心を移すことでしょう。「自分で考える」ことであり「自分の考えを持つ」ことです。 ここまでは誰でも分かる、単純な話だと思います。その先が少し深遠になってきます。それは「自分の考えを持つ」ことを皮切りとして生まれる、自分の「本心」を持つことであり、「意志」を持つことです。これによって私たちの心の風景が、次第に別のものへと変化していきます。「愛」と「自尊心」そして「怖れの克服」といった心の成長のメインテーマについても、今までと違う感じ方ができる心が芽を出します。プラス感情とマイナス感情の湧き出し方、そしてそれの捉え方受け取り方にも変化が芽生えます。 つまり、心の全体が変化していくのです。 ハイブリッド心理学の膨大な説明と事例紹介の全体が、実はこの「心の依存から自立への転換」がさまざまな感情テーマと交差して現われる心と感情のヒダを、詳細仔細に展開しているものだと言えます。 ここでは、そうした膨大な仔細の展開へと至る、「心の依存から自立への転換」が心におよぼす影響の、最も根本的な要素と言えるものを表にしてみましたので参考下さい。 「心の依存と自立」の根本影響 対比表
「心の依存と自立」の根本影響を総括するならば、上の表の中にも記した通り、こう言えます。 「自分から不幸になる」という「心の業」は、「心の依存」の中にある罠のようなものとして、私たちの心の中にあります。 「心の依存」の中で、「愛」と「自尊心」といった人生のテーマへの答えを求めても、そこに答えはありません。 「心の自立」の先に、「愛」と「自尊心」といった人生のテーマへの答えがあります。「魂」と「命」とこの心理学が呼ぶ、答えがです。 ・「実践」に盛り込まれている「心の依存から自立への転換」 「心の依存から自立への転換」とさまざまな感情テーマの交差の詳細な展開はハイブリッド心理学の他の書籍に譲り、ではどうすればいいのかへと話を移しましょう。 こうした話を聞いて、しばしば返ってくる言葉は、「心の自立をしなければ駄目なのですね」といった言葉です。言外に、「島野さんに言われた通りに」と。 それがまさに「人の言うこと」で考えるという、「心の依存」の繰り返し、焼き直しであるのはお分かりかと思います。 答えはすでに述べてあります。「学び」と「向き合い」という取り組み実践の手順に、全てが盛り込まれているということです。 「「取り組み実践」の3ステップ」のそれぞれについて言うと、次のようになります。 1)基本的な「学び」 教養科目に該当し、この『概説』でまとめたような内容をさらに詳しく、各種書籍で説明しています。その全体に、この「心の依存から自立へ」というテーマが関係しています。日常的な読書により、まず「知識」として得ることで、心の懐を肥やすものとして取り組みます。 2)具体的場面での応用の「学び」 具体的な場面状況での「心の成長と健康に向かい得る行動法」の「選択肢」について、またそれをより効果的に進めるための知恵とノウハウなどのポイントを学びます。 重要なのは、この「心の成長と健康に向かい得る行動法」は、「心の自立」を前提としたものだということです。ですから、外面においては行動をこの選択肢において真剣に検討することが、「心の自立」を促し、その先にある心の豊かさへと人を導くということです。逆に、「心の依存」への固執が強いほど、この「心の成長と健康に向かい得る行動法」がピンと来ず「選択」もできないという状態になりがちです。 3)「向き合い」 示される「選択肢」について、自分は「本心」からどう理解納得するか、および自分の中にそれらに合う感情がどうあるかを問う、2つの「向き合い」から成ります。 「最初の一歩」は、この「向き合い」にあまり手間をかけない段階です。「本心」からすぐ納得できているにせよ、自身への建前思考としてその「つもり」程度にせよ、今までの人生ですでに準備されている成長変化が、そこで引き出されるでしょう。 しかしそれは早晩壁に行き当たります。ハイブリッド心理学が言う通りにはスムーズに進めない自分・・。その時、この「向き合い」のステップを丹念に行う、「自らによる成長への歩み」の進め方に、ぜひ取り組んで下さい。それが、まずは自分という船を自ら舵を回し動かすこと全てに先立つものとして、キーを回してエンジンを始動させることに相当するでしょう。 全ての「学び」の中に、「心の依存から自立への転換」の視点が盛り込まれており、それについて、「本心」からの自分の納得理解、そして「自分の考え」を問うことが、何よりも「心の依存から自立への転換」の第一歩になる、ということです。 ・「自分の考え」をはっきりさせる そこで「選択肢」への心底からの納得が進み、内面感情への自己分析向き合いもできるようになってくると、取り組みの歩みは本格的な前進を示すようになるでしょう。 問題はそこまでの中途段階になるでしょう。 「自分自身への論理的思考」ができるようになることは、必須前提です。まずは感情テーマが絡まない、ごく日常生活レベルで。でないと、思考はただ感情に流される、川面の木の葉のようなものでしかありません。ただ流されるだけではない、自ら進むことのできる「本心」のエンジンと、「本当に確かなことのつながり」による思考の舵を持つ、船になることです。 そこから、感情が絡むテーマで、自らによる取り組みを始めます。そこで、「これは話としては理解できる。しかし自分の本心からの感情はそうは納得できていない」というのが見えてきます。 たとえば、「行動の基本様式の転換」として「破壊」から「自衛」そして「建設」へという話は納得できる。しかし今この場面で、「怒り」をパワーに代えること以外に、自分の心は前進を見出すことはできない、と。 それでいいのです。それが「自分の考えを持つ」「自分の考えをはっきりさせる」そして「本心」を持つということなのですから。 ただし、その「怒り」を行動にすることは、押しとどめます。それが「外面行動は建設的なもののみとし、内面感情はただ流し理解する」という「感情と行動の分離」の実践です。 この人はただ「怒り」を抑えることで疲労困憊し、ハイブリッド心理学への取り組みで自分は変われてなどいない、と嘆くかも知れません。 しかし似たことを繰り返す中で、徐々に心に変化が起きてきます。怒りに完全に呑み込まれそうになるのをなんとかこらえることで精一杯だったのが、怒りの中でも十分に踏ん張れるようになってきている自分。思考に多少の余裕が出てきて、そこで初めて、「こんな時にさえ建設、もしくは自衛の行動などあるのか?」という疑問を、真剣に抱くのです。実はハイブリッド心理学の言うことに心の底では納得などしていなかった自分が明らかになるのです。 そこから静かに、「あらゆる場面で建設的行動法はどう可能か」の探求が始まるでしょう。「基本行動様式としては自衛と建設を100パーセントにまで高める」という話を、理屈としては、本当に本心から納得してたならば。 この人がその答えを大方見出せるようになるのは、いったん取り組みテーマが日常生活や交友、仕事、恋愛、趣味といった幅広きに渡り、「具体的対処法の知恵とノウハウ」の材料がかなり豊富になってくる、数年以上先のことになる可能性が高いでしょう。その時に至り、どんな場面でも、自分の心の引き出しを探すと何かしら使えるものが出てくるようになってくるのです。その時同時に、「生きる自信」が堅固なものとして芽生え始めている自分に、気づくでしょう。そして引き続き自分を妨げるさまざまな悪感情について、本格的な「自己分析」が可能になり効果を出すようになるのも、まさにその頃からになるでしょう。 ・「パラドックス前進」 上の描写は、この歩みに見られる、ある特別な前進の様子を表現したものでもあります。 それを私は、「パラドックス前進」などと呼んでいます。 『理論編下巻 まえがき』で述べた言葉を借りれば、それは「未来を見据え現在に取り組む」という進み方であり、実際の意識姿勢においては、遠く先に見据えるものとはむしろ逆の方向へと向かっていき、その結果その変化へと近づくというような、極めてパラドックス的なものになる、と。 つまり自分の成長と未来を見据え、前進できぬ自分にもがき苦しむほどに、「命」は心をその方向へと変化させるのです。 これは実際の様子としては、「実践」のその際は、「自分はこうとしか感じられない」と、「望む成長」とのギャップを感じて、「意識」はそこで果てるとでも言えるような流れになります。 それでも少し時間が経つと、自分に変化が起きていることに気づきます。「こうとしか感じられない」と思ったのとは、違う感覚が生まれていることに気づくのです。そして「待てよ、これはこう考えられないか・・?」と、今までとは全く違う思考が可能になってきます。およそこのような流れです。 これはすでに説明した、心の成長変化の特別な形に話が似ている、と気づいた方もおられると思います。「心の死と再生」です。 結局、仕組みは全て同じわけです。私たち自身の「意識」では前進できず、「意識」が散って果てた後に、新しい心が生まれる。取り組み実践の進み方としてそれが「パラドックス前進」となり、そこで起きる心の劇的な変化が「心の死と再生」になる。 なぜそのようなことが起きるのか。それは当然のことであるように、今私には感じられます。なぜなら私たちの心を成長変化させるのは、私たち自身の「意識」ではなく、「命」だからです。そして私たちの「意識」は、しょせん「命」から少しはがれた、別のものだからです。そしてこの2つの関係において、「意識」が「自分が到達し得ぬ成長」を明瞭に認めれば認めるほど、それは「今成すべき成長」として「命」へと伝わり、「命」がその「成長」への「変化」を発動する。そのような仕組みのように思われます。 ですので、まずは「今感じること」で思考を固定化させないことが何よりも大切です。また、「新しい感覚の現われ」に積極的に意識を向ける姿勢や習慣が、とても役に立つものになるでしょう。 先の描写はまた、この歩みにかかる時間の長さを表現しているものでもあります。つまり一言でいえば、それは10年、20年といった人生の長い時間を要して、前進するものだということです。 もちろん「行動法の習得」や「内面の解きほぐし」がうまく行って動揺が減少し、心に「安定感が増す」といった変化であれば、比較的短期間に可能であり、その変化は基本的には永続的なものです。まあ似た場面で再び動揺を感じたとしても、前よりも踏ん張りがきくといった程度の「変化」ですが。 それを超えて、自分がもはや以前とは別の人間へと、未知の心へと変化していくと感じるような、感情の起き方の内容そのものの変化、つまり上の「「心の依存と自立」の根本影響対比表」にまとめたような感情の質的内容の変化は、年齢的な状況なども背景にしながら、「命」が用意するものであり、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」が行うこととは、その、「命」が用意する、生涯に渡る心の成長変化の変遷を開放し、それに向かうことなのだ、ということです。 この変遷を、最も大きく俯瞰したものが「「心の成長課題」と「成長の望み」の鍵一覧表」だということになります。そこで「10代後半以降」「20代以降」「30代以降」として記したのは、「早くて」、「命」がそれを準備する可能性があるであろうと思われる最も若い年齢的目安であり、実際私たちが取り組み実践を経てそれを引き出すことが実際にできる年代とは、30代、40代、50代といったものになることも十分に考えられます。 そのように、長い歩みになるものだということです。 ・「実践」とは何をするものなのか 以上を踏まえて、「実践」とは何をするものなのかについて、押さえておいて頂きたい最も重要なポイントを2つ書いておきましよう。 1)「学び」への「自分の考え」をはっきりさせる ハイブリッド心理学からの「学び」をできるだけ正確に、たとえば「感情に流されない」を「理屈だけで行動する」ことかといった曲解誤読をすることなく正確に把握し、それについて「言われた通りに」ではなく、「自分の考え」ではどうかをはっきりさせることに取り組みます。 「これについて自分はそうは思えない」というのが明確になることは、むしろ前進につながります。「パラドックス前進」として。 ただし「基本行動様式」として「破壊から自衛と建設へ」という最初の基本テーマについては、心底からの納得ができることが、全ての前進の始まりの前提になるでしょう。もしこれに納得できない、つまり「破壊こそ力」「怒りこそ力」といった考えが本心からのものであるならば、つまり先の描写のようにそんな感情があるというレベルでなく、「生き方思想の主張」としてはっきりそう考えるような場合、それはもうハイブリッド心理学全体に納得できないという話であり、ハイブリッド心理学が言う心の成長の道のりに向かうこともないという形になります。これはもう仕方のないことですが、それが「自分の考えをはっきりさせる」ことだったのであれば、全てがそこから始まる、ハイブリッド心理学の入り口の選択になるとも言えるでしょう。 2)実践では「心」を変えることはしない 私たちが「実践」によって、私たち自身の「心」を変えるということはしません。「感情」の湧き方起き方ということでの「心」は。だから「内面感情はただ流し理解する」、と「感情と行動の分離」で言っています。 この点が、「実践」を誤った姿勢で進めようとする最も典型的なものに関係しますでぜひ注意して下さい。 つまり「実践」によって「心」がどう変わるか、という意識で取り組んでしまうものです。結局これが自分の「本心」への向き合いを妨げ、結果、取り組み実践の全体が進まないというのがかなり見受けられます。 その誤った取り組み姿勢を抜け出すために、「実践」のその都度その都度のゴール目標を何に置くかについて、次のことを意識すると良いでしょう。 「実践」のその都度その都度のゴール目標は、「心」がどうこう良くなることではありません。自分が今立っている人生の立ち位置において、自らの成長と幸福に向かうために、そしてその前進に向かうために、今成すべき外面行動の答えを見出すことです。これがその都度その都度の、「実践」のゴールもしくは出口の目標にできるものです。 ・「自分を超えたもの」が心を変化させる歩み そうして「自分で心を変えようとはしない」ということにこそ、そこから始まる真の心の成長への、鍵があると言えるでしょう。 つまり「自分で心を変える」のではなく、「自分を超えたもの」が心を変化させる。そこにこそ、本当の心の「成長」と、それによる「変化」への、この心理学が「未知の異次元の世界」という言葉をよく使って表現している大きな変化への、歩みがあるということです。 「自分で心を変える」というのは、結局は所詮、「今の心」の現状維持の中での、微調整程度のものでしかありません。「自分で変える」とは、結局、「今の自分で想像できる」ものとしての、「今とは違う自分」にどう自分を当てはめられるかという話でしかありませんから。 「自分を超えたもの」が自分の心を変化させるという体験においてこそ、その「変化」は、もはや「自分で想像できるもの」を遥かに超えた、「未知の自分」へと自分が変わっていく。そんな体験になるということです。 その時人は初めて、「これが成長なのだ!」と分かるでしょう。そして自分がこれからどこに向かって歩めばいいのかを、確信するのです。それは「自分を超えたもの」が自分を変化させる。それが起き得る方向に向かって、歩むということです。 そうした「成長の体験」を最初につかむまでが、難しいものになるでしょう。自分はどの方向に向かうことで、どのように成長変化できるのか。そのための、本当に心の底から頼みにできる羅針盤を、まだ持っていないということなのですから。 ヒントを言うことができます。その羅針盤は、「自分自身への論理的思考」と「依存から自立への転換」という、「前進を成すための2つの心の基盤」の上に、次第に形作られてくるものだということです。 引き続き「自分という船」の喩えで説明しましょう。私たちが波にただ流される木の葉であることをやめた時、自分で前に進む推進力のエンジンと、自分で進む方向を決める舵、そしてこれから船出をする「人生」にどんな地平があるのか示す海図が必要になります。 まずは「依存から自立への転換」において自分から前に進みたいという気持ちがエンジンになり、「自分自身への論理的思考」が舵になると考えて良いでしょう。またこの本で「心の成長変化」についてざっとまとめた内容が、海図に該当することになります。 しかし私たちがこの「自分」という船を走らせ始めようとした時、周りの海を見渡しても、そこには同じ波が果てしなく続いているだけです。島や大地など、目印になるものは何も見えません。どの方向に行けば、海図の上のどこに向かうのかが、全く分からないのです。これがもし都市の道を車で走るということであれば、そこかしこに立っているであろう標識と、地図を照らし合わせることで、ほとんど間違うことなく進めるであろうに。しかし海の上となるとそうはいきません。それが、「人生」という大海原を進むということなのです。 つまり私たちはこの「自分」という船を走らせていく中で、実際に自分の目で見、自分の肌で感じるものによって、自分のいる位置と、そこからの移動の大きさと、その方向の正しさを、感じ取るしかないのです。 ・歩みの道のり それはこのようなものになるでしょう。「自分」という船を「人生」の大海原に自分で走らせ始めようとした時、そこにあるのは暗雲に覆われた空と、吹きすさぶ風と叩きつける大雨の中の荒れた海のようなものでしょう。それが未熟な心で人生を歩み始めた時、私たちに待ち受けるものであるのがしばしばです。私の場合がそうでしたし、この心理学を学ぼうとされる方であれば、やはりそうではないかと思います。 歩みがそこから始まります。心の外面と内面への向き合いの積み重ねによって、実際に自分の目で見、自分の肌で感じる光景に、変化が起き始めるのです。 吹きすさぶ風が収まり、雨がやむと同時に、空が明るくなってきます。波は小さくなり、もはや自分の「意志」を妨げることなく、進みたい方向に向かうことができるようになっている自分を自覚します。今まで荒波の中で「意志」などどう働かせられるのかも分からないようにもがいていたとしても、その中で進んできた方向は正しかったのです。 やがて海の水が澄んできて、底が見えてくると同時に、その先に陸地が見えてきます。この人ははっきりと自覚します。そこに、自分が向かうべき場所がある、と。 |
それは「社会」という大自然が広がる大地です。この人はしばらく、その広大な地平を、よりうまく進むために多くの「学び」を重ねながら歩まねばならないでしょう。 しかしやがて、決定的な節目が訪れます。ただ果てしなく広がるかと思えた地平の先に、輝く頂を抱えた大きな山があり、それを登っていくための麓の入り口に到達するのです。これがこの心理学で「否定価値の放棄」と呼んでいる節目です。 山を登り始めると、今までの比ではない速さと大きさで、心の風景が刻一刻と変化していきます。緑の木々を吹き抜けてくる爽やかな風は、やがて「無条件の愛」「豊かな無」とこの心理学が呼ぶ、豊かな空気へと変化していきます。そして「永遠の命の感性」という山の頂に至った時、そこに、生きることの全てが輝く心の境地が訪れます。 これが、この心理学が考えるおおよその歩みの道のりです。 |
・「成長の望み」という羅針盤 そうした歩みにおいて、エンジンと、舵と、海図を手にしたら、最後に、羅針盤が必要になります。 それは自分が進むべき方向を、進もうとする私たち自身の実際の意識において、導くものです。 それはまさに「羅針盤」に喩えられるように、ごく僅かな手がかりとして成り立つものです。しかしそれが最後に、自己の命運を決するものになるような、僅かな手がかりとして。 実際の羅針盤であれば、それは「東西南北」の「方位」という、たった一つの情報です。エンジンがあり、舵があり、海図があり、それが本当にしっかりしたものと信頼できた上においても、最後に頼みになるのは、このたった一つの手がかりになるのです。自分はどの方向に向かえばいいいのか。次に到達すべき、大地に、山の麓に、そして山の頂に、向かうために。そこに向かおうとする今においては、未だ見ることのできないその目標に向かうために。 そうした羅針盤が、この歩みにおいては何になるのか。その答えを言いましょう。 それは「自分自身への論理的思考」から始まり、「前の意識過程が足場となって次の意識過程が可能になる」という展開の流れとして先にまとめた、「前進への基盤となる意識過程 一覧表」の最後のもの、「成長の望み」です。 そこではこう記しておきました。上記全てを通して実際の「成長」を体験することを足場に、動揺場面において「自分が今向かうべき成長」を感じ取り、それを望む姿勢、だと。 実際の「取り組み実践」においては、このようなものになるでしょう。 まず最初は右も左も分からないような状況で始めるとして、まずは見よう見まねでも、例えば『メール相談事例集』や『読者広場』での相談返答などを参考に、「「取り組み実践」の3ステップ」で説明した実践に、日常生活と人生の全ての具体的場面で取り組むのです。 「「前に進めないケース」の特徴 一覧表」で「心理学的理解と取り組みアプローチの主な誤り」の中に記した、「内面感情への取り組みばかりに偏る」という姿勢と傾向に注意し、「「実践」とは何をするものなのか」で最も重要なポイントの2つ目として指摘した、実践では「心」を変えることはしないという指針が、最初の段階で特に重要です。自分の「心」への、そして内面感情への向き合いは、当然それを行うのがこの心理学の実践ですが、それを根底から変化させる原動力は、内面向き合いにではなく、心の外部に展開する世界のものごとの見方、そしてそこにおいて実際に具体的に出会う場面における、思考法行動法と価値観の転換だからです。 ・最初の「成長の望み」へ そこに、この心理学の「感情と行動の分離」と呼ぶ、2面的取り組みが始まります。 たとえ心は動揺する感情に呑み尽くされ、その感情こそが問題であり、それをどうにかしなければ自分の生きるすべはないと感じたとしても、「感情はただ流し理解する」のみとし、一方で、自分が直面している具体的場面における「行動法」について、ハイブリッド心理学の「行動学」からの「学び」はどのようなものになるのかを、まず正確に把握して下さい。そしてそれを支える「価値観」について、理解を進めて下さい。 そしてそれらについて「言われた通りに」ではなく、「「自分の考え」をはっきりさせる」ことに、まず取り組むのです。同時に、「前進への基盤となる意識過程 一覧表」にまとめたような思考の仕方を、自分はしているか、それをこれからの自分のものとするのかの「選択」にも取り組みながら。その「選択」の足場として、「心の依存から自立への転換」があるということへの理解にも取り組みながら。 「「自分の考え」をはっきりさせる」でも書いたように、そこでまず起きる「成長変化」とは、まずは「十分に踏ん張れるようになる」といった「変化」です。それは期待していた、「もう悩まない自分」でも「プラス感情に溢れた自分」でもなく、ちょっと物足りないものを感じるかも知れません。 それでも、それが本当に、もう後戻りすることのない、「成長変化」の始まりなのです。 それは心に「芯」ができるという、「成長変化」の始まりだと言えるでしょう。 そこに、最初の羅針盤となる「成長の望み」を手にするための、最初の心の素地が整うのです。実際の「成長」を体験することを足場に、「自分が今向かうべき成長」を感じ取るための、心の素地がです。 それをまず自分で考え、感じ取ってみて下さい、という話ではありません。もっとはっきりと、それはこれになるだろう、それを自身で確かめてみるが良い。本当にそれが自身の成長を導く羅針盤でありそうかどうかを。「自分自身への論理的思考」と、それが自ずと含む「依存から自立への転換」を足場にした、「自分にとって本当に確かなもの」を見極める目において。 そう言える、真の「成長の望み」となり得るであろうごく僅かなものを、ハイブリッド心理学から提示します。 なぜそれはごく僅かなものしかないのか。理由は明確です。私たちの心の成長は、「「心の成熟」の法則」の3つ目、「本流」として述べた、「愛」という単一軸の「望み」に向かうことの下において、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「命」にプログラムされた心の変遷に向かうこととしてあるからだと、ハイブリッド心理学では考えます。 だからそれは、年齢的背景もあった上で、たった3つになるのだ、と。 まず、今までその中に居続けようとした、「依存の愛」を手放すこと。 「真の強さ」に向かうこと。 「魂の望み」に向き合うこと。 この3つがそれぞれ、「依存の愛からの旅立ち」「自立の自尊心」「成熟の愛」に向かうための、方位なのだと。 これをまとめたのが、「「心の成長課題」と「成長の望み」の鍵 一覧」だったわけです。 「取り組み実践」として行うことは、最初から最後まで一貫しています。「感情と行動の分離」として、「外面行動は建設的なもののみ、内面感情はただ流し理解することのみ」行い、その両輪を携え、「望み」に向かって全てを尽くして生きる。そこで「「取り組み実践」の3ステップ」によって向き合う「学び」に、必要な検討事項は全て盛り込まれています。思考法行動法や価値観の学びも、前進のための意識過程も。それらの根底にある「心の依存から自立への転換」も。それらは、「自分」という船の、操縦法の細かいバリエーションになるでしょう。 しかしそれらの「学びと向き合い」を経て、最後に今自分が向かうべき方角はどれか。その答えは、私たち自身の成長段階に応じて、大分異なります。そこにおいて、もう「言われた通りに」はないのです。 最後に、「成長の望み」という羅針盤が、それを示すのです。 ・全ての始まり 「自己の真実と統合」への望み 私はここで、今述べた3つの「成長の望み」にさらに先立ち、私自身の歩みの全ての始まりとなった、ゼロ原点におけるものと言える、「成長の望み」があったことを伝えたいと思います。私が私自身の歩みを振り返った時、そう思い返されるものとして。 それは心に「芯」ができるという、「成長変化」の最初の始まりへと向いた、羅針盤だと言えるでしょう。 その羅針盤が示す方向へと向かうことで、事実、心に「芯」ができ、そこから、今も述べた「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という長い人生の歩みが始まったのだと。 その、ゼロ原点の「成長の望み」とは、「自己の真実と統合」への望みです。 自分の真実に向かう。自分に嘘をついて生きる存在であることをやめ、真実の自分で生きたい。その強い気持ちが、「自己の真実」への望みです。 それは同時に、自分に嘘をついて得ようとしたものを、捨てるという意志でもあります。時と場合によって感じ方考え方が食い違ってしまうという、自己の内部の分裂と矛盾を克服したい。それによって、嘘のない、一つの、統合された人間として生きたい。その強い気持ちが、「自己の統合」への望みです。 それが全ての前進の始まりであることは、たとえば私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』では、次のような言葉に、描写されています。 私の最も大きな関心は、精神分析になりました。「自己の真実に向かえ」。心の底から聞こえるその声だけが、最後の賭けのように私に残されたのです。(P.42) 自分の全ての現実行動がそうやって自分自身に挫かれてしまう…。とにかく強くなりたい。これが自分自身なのだという確信をもって行動できるようになりたい。そうでないものは捨ててしまってもいい。(P.85) 「自己の真実」への望みと「自己の統合」への望みは、この心理学が大きく基盤とするカレン・ホーナイの著書の一つのタイトルでもある『心の葛藤』への直面を、人に課します。たとえばそれは、人に愛されたい気持ちと、人に拒絶されることへの怖れの気持ちとの、葛藤。人に愛されるために嘘の自分を演じようとする衝動と、自己の真実と心の自由のために、人と離れていようとする気持ちとの、葛藤。それでも捨て去ることなどできない、人に近づきたい気持ちとの、葛藤。そして再び、自己の内部に隠された「不実と傲慢」が見抜かれ、糾弾され、人に拒絶されることへの怖れの気持ちとの、葛藤。 その答えは、どこにあるのか。その答えは、私たちの「意識」が出すのではなく、私たちの「命」が、私たちの人生の全てを通して、出すのです。その答えを探す歩みが、そこから始まります。 私にできる道案内は、ここまでです。歩みの全ての始まりに必要なものを、お伝えすることまででです。どうすれば前進できるでしょうかと、ご相談を受け、最後にできるのは、最初に必要になるのはこれですというアドバイスです。 それを自身に問うことから、この歩みが、始まるでしょう。 それは誰かが、例えば私が、手を引いてあげて歩む歩みではありません。それぞれの方が、それぞれの方自身によって、歩む歩みです。 |
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2014.6.25 |