まえがき 1.はじめに・4つの話の領域 2.心の問題とその克服ゴール 3.取り組み実践 4.心の成長変化 (1) (2) (3) (4) 5.歩みの道のり (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) |
5.歩みの道のり (5)実践の歩みの深まりと心の成長の前進
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「旅立ち前」から「学び」までの段階-5 ・実践の歩みの深まりと心の成長の前進 以上説明してきたような、取り組み実践の前進のための心の基盤の整い方に対応して、私たちが歩むことのできる心の成長の歩みの、前進のパターンというものを言うことができるように思われます。 それは私たちの、この心理学を活用した歩みが、3つのレベルで深さを増す、というものです。 その3つの深さのレベルを経て、私たちは最終的に、心の豊かさのゴールに向かい得る可能性がある、と言えるものとして。 自らの前進のために、心の足場として何が必要かを、この「歩みの深さ」のレベルの順序で把握すると良いでしょう。 まずポイントをキーワードでまとめたものが下の表になります。要点を説明していきましょう。 「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表
・「基礎形」 最初の深さレベルは「基礎形」であり、その主題は「建設的行動法の学び」です。これが歩みの3つの深さレベル全ての基礎になります。 まずはとにかく、目の前の問題課題場面について合理的な建設的行動法を取ることに向かうことです。感情に流されることからの基本的な抜け出しと、建設的行動法や悪感情への対処についての基本的な学びを得て、目線が自他の内面感情ばかりに向くことに注意しつつ、心の健康と成長に向かうことのできる、外面行動法の答えを知るという、「実践の根幹」へと向かいます。心の病みの傾向や根深い悪感情など大きな妨げが内面にあるのであれば、それにも取り組みます。 「自分自身への論理的思考」という最初の基盤が、まず何よりも重要になってくるでしょう。それを足場に、さらに「心の依存から自立への転換」という基盤が、悪感情や動揺からの抜け出しの足場になります。 これによる心の成長の前進は、まずは日々の目の前の問題課題場面における動揺と悪感情の減少です。前章で説明した心の成長変化の5つのベクトルでは、「成長」と「治癒」の基礎的な前進が、この歩みのレベルで可能になるでしょう。 メール相談や掲示板の相談投稿も、このレベルをカバーするものと言えます。 ・「前進形」 次の歩みの深さレベルは「前進形」であり、主題は「望みに向かう成長」です。 上述の「外面行動の答えを見出す」という「実践の根幹」が、「望み」に向かう歩みとして成されていくものです。 これによって、動揺と悪感情などマイナスの減少という消極的前進は、喜びと楽しみ、感動や充実感などプラスの増大という、積極的前進へと移行します。 「心の成長」とは、まずはこれを指すものです。つまり「心の成長」とは、「望み」に向かって自ら建設的行動法によって歩む力の増大を言うのです。それが『入門編上巻』で、「成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であると定義したものへの、基本的な答えになるものです。 「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解のみする」という「感情と行動の分離」の姿勢と実践を携え、自らの「望み」に向き合い、「望み」に向かって全てを尽くして生きる。 「ハイブリッド人生心理学の「取り組み実践」とは」でそう定義した「取り組み実践」は、この深さレベルにおいて成り立つものになります。 心の成長変化のベクトルとして、「成長」と「治癒」が共に本格的な前進に向かうのも、この深さレベルにおいてです。心の病みの傾向や根深い悪感情も、結局「望み」との関係においてこそ、深い解きほぐしと克服が可能だからです。 そのための心の足場として何が必要か、先の「「魂の望み」への歩みの中にある「実践」」で指摘した、外面行動法の学びが一見しっかりできているように見えてもなかなか前進が進まない、というケースをとりあげると分かりやすいでしょう。 そこでは「望み」というものが分からない、見えないという「望みの不明」という問題が大抵起きているのですが、そこには、向き合うべき壁とも呼べる課題が、2つあるように思われます。 一つは「心の依存」です。そこでは「意識」が、「まず自分は何を望むのか」ではなく「まず人はどうしてくれるのか」という受け身から始まっているのが特徴であることを述べましたが、それを脱するとは、「そんな受け身では駄目だ」と自分を叱責することではありません。 むしろ逆に、自分が人から受け身にどうされることを、いかに望んでいるのかという、来歴の中で押し殺し葬り去ったかのような幼い「望み」の気持ちを、回復させ、自分自身で受けとめる、といったものにあるのです。もし、それがあるのであれば。それがまずは「心の自立」です。 ・「望み」への感受性 ではそんな「望み」が本当に自分の心にあるのか。それに向き合えるために、もう一つ、「望みへの感受性」という課題を言えるように思われます。 これについて一つヒントを言うならば、「「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進」で「魂の望み」の感情について、算数や英語のドリルのようにこなすものではないと述べましたが、「国語のエクササイズ」のようにと、言うのであれば多少当てはまる面があるということです。 つまり、「望み」とは感じられない感情についても、それはどんな望みの表現か、という「感情の意味」を考え、まずは国語のエクササイズのように、とにかく「言葉」を選び出し文章を作って自分に投げてみるのです。 たとえば人から好意的でない扱いを受け、苦い感情が心に湧いた時、「これは自分がこれこれを望んでいたということか?」という「問い」を自らに発するのです。たとえば「愛されること」を望んでいたのか?それとも「評価され認められること」を望んでいたのか?と。そしてそれが多少とも心にヒットしそうであれば、さらに、「何によって、どのように?」と「感情の意味」を「言葉」によって詳細化する問いを、自分に発するのです。 そうした「言葉」の中に、心の琴線に響くものがあった時、しばしば、置き去られていたかのような「望み」の感情そのものが、森の出口で見えてくる遠くの風景の映像のように、心に現われるかも知れません。 もちろんその先に、実際にいかに細やかさや奥深さをもって「望み」の感情を感じ取れるかという「感受性」「情緒性」そのものは、こうした「実践法」を超えて、人生の歩みの中で培われる「素養」のようなものになってくるであろうことも述べましたが、私たちが感じ取り得る感情を最大限に感じ取り、向き合い、解きほぐしたりするための方法は、結局そのような「言葉」の活用によるものになるのです。「言葉」が、私たち自身が心に取り組むための、基本的な道具だからです。 ・「言葉」による実践の推進 こうした「望みの明瞭化」のみならず、「学びと向き合い」という「実践」の全体が、こうした「国語のエクササイズ」的な意識作業によって推進できるものであることを、ここで申し添えておきましょう。 日常生活場面で動揺を感じた時、まず「これは応用の学びとしてはどんな場面テーマになるか?」。たとえば「仕事場における対人行動の悩み」であれば、「ではここでの学びのテーマは何か。仕事のスキルか、それとも親愛の行動法か」。「スキル面では自信ができてきている。でも人と馴れ合えない」。「それについてハイブリッド心理学から示される学びとはどんなものか?」。こうして、まず「取り組みテーマ」を明瞭化していきます。 具体的問題に対してハイブリッド心理学から示す応用の学びは、『メール相談事例集』などの実例解説をより多く読み、心の懐を肥やすことで、次第に自分で方向をつかむことができるようになってくるでしょう。あるいは、『読者広場』掲示板などに質問投稿してヒントを得ても良いでしょう。 まあその話のアドバイスであれば、「仕事場でどう人と馴れ合うかは二義的問題であり、あくまで仕事内容のやりがいや収入といった目的でまず向かう。人との馴れ合いは仕事場の問題としてではなく、人生の場面全体として取り組む」といったものになるでしょう。 そうした「学び」の正確な理解もまた、「国語のエクサザイズ」的な課題でもあります。 たとえばそうしたアドバイスの言葉で、「仕事場において馴れ合いは一切必要でなく背を向け、業務に徹するという意識でいけばいいということか」と考えるとしたら、それは誤りです。もしそれが正解であれば、私ははっきりと「背を向けるのが良い」という言葉を使います。そうは言ってはいないですね。 「言葉」の正確な使い方と活用こそが、「実践」の前進のための最大の武器だと言えます。 アドバイスの先に目をやるならば、「人との馴れ合いは人生の場面全体として取り組む」とはどういうことか。「愛」を、「「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法」で述べたように、より純粋な「喜びと楽しみの共有」として目指すことです。そのために、まず自身自身として嘘のない楽しみと喜び、そして向上を見出すという姿勢を、確立するのです。 そうした「学び」について、自身の理解納得を問うために、「本当にそれに納得しているのか?」という「言葉」を自分に投げる。さらに、読んでどう感じるかだけではなく、日々の生活場面で起きるちょっとした感情の流れに着目し、「これは自分は人との親愛をどのように望んでいたということか?」という「言葉」で問う。 これがまた、意識の表面では覆い隠されたような細かい感情のヒダを探る、精緻な「自己分析」につながるものでもあります。それによって私たちは、私たち自身の心への名外科医になっていく、と言えるでしょう。 このように、「実践」の全体が「言葉」の正確な活用と自身への投げかけによって前進するものであり、それが常に、最後には自身の「望み」を問うものになるのが、この「前進形」の歩みの深さレベルだと理解頂くと良いでしょう。 「成長」と「治癒」は、この深さレベルにおいて本格的に前進するようになる、と。 ・「真髄形」 3つ目の、最後の歩みの深さレベルは「真髄形」であり、その主題は「魂の望みと共に歩む成熟」です。 ここにおける、先の「前進形」からの歩みの深まりとは、「望み」の深まりに他なりません。「自意識の望み」から、「魂の望み」への深まりです。 先の「「取り組み実践」と「魂の望み」」で説明したように、「実践」が「魂の望み」に接することで、「今成すべき外面行動の答え」を見出すという取り組み実践の出口が、「魂の望み」の成熟変化を伴うようになる、というものです。 それによって、この本で説明してきた、心の成長変化の5つのベクトル、「成長」と「治癒」の完結的な前進、そして「浄化」、「成熟」、「超越」という、未知の心への変化が生み出される、というものになります。 「成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」である。この定義に対する基本的な答えが、まずは「前進形」として示される、「望みに向かって自ら建設的行動法によって歩む力の増大」だと述べました。 一方でその最終的な答えは、「「心の成熟」の法則」として述べた中の「自発的不幸から自発的幸福へ」というもののの中にある、と私は感じています。そこにおいて、私たちがこの歩みの目的とする「幸福感」は、もはや「望み」が「外面において叶えられる」ことを必要とさえすることなく、自分の内部から湧いてくるのですから。 ただし私たちは、そうした実に好都合な心の状態が、この歩みの中で次第に増大するのが分かって進めるというような順風な歩みになるのではないことを、理解しておく必要があります。 「自発的幸福」というものが本当にあることを感じ取るのは、私の経験から言えば・・これはまあ私がそのような煩悩の凡人であったということかも知れませんが、この歩みの本当に最後になってからです。 それ以前に、「本性と宿命の受け入れ」という、苦悩を伴う道も通るでしょう。そして何よりも、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「命」にプログラムされた変遷を、歩むのです。 その歩みを、私たちの目の前にあり続けるものとして導くのが、「望み」であり、「魂の望み」です。 ・「望むこと」そのものにある豊かさへ では、そうした歩みに向かうための心の足場とは、どのようなものか。 この本で、「魂の望み」を感じ取るための条件や姿勢、そして心の基盤について、押さえておきたい視点を一通り説明してきました。 「「魂の望み」の感情を感じ取る条件」としては、1)人生観による「魂と命に向き合う姿勢」、2)「否定価値の放棄」が成される度合い、3)「望み」に向かう困難困苦、といったものがあることを述べました。それによって、ものごとが「自意識」で描いた通りにはならない失意と絶望を乗り越えて、自分が人生を通して何を望んでいたのかを見つめる深い目を向ける、といった姿勢を、「「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進」で述べました。 そしてそのための心の基盤とは「自分自身への論理的思考」と「心の依存から自立への転換」における、「ありのままの現実に向き合う」そして「自分の感情を自分で受けとめる」という姿勢であり、それは結局「実践」の足場そのものであることを、「「実践」の足場から「魂の感情」へ」で述べました。 また、最終的には「望み」を感じ取るための「感受性」「情緒性」という、「実践」を越えて人生で培う素養のようなものが、重要になるであろう、と。 まあそれが理屈の面での整理として、もっと日常意識的に言って、私たちのどういう姿勢が「魂の望み」につながるかを、2つほど言うことができるように思われます。 それが「感受性」「情緒性」といった「素養」でもあるだろう、と言えるものとしてです。 1つ目は、自分の「望み」への正直さ、ストレートさです。人にどう見られ何と言われるかの懸念や動揺があるとしても、少なくとも自分自身の心の中においては、自分から何かを望む気持ちを、自分に対して隠したり歪めたりすることなく、心の中で開放し感じ取るという正直さ、ストレートさです。 たとえば恋愛では、「こんな自分だから・・」と恋心を捨て去ろうとしたり、相手から好きだと言われたことで、本心ではあまり好きではない相手を「この人を好きになれば・・」と自分に納得させようとする。これは自分の「望み」に正直ではない姿です。そうではなく、外面の行動はどうできるか分からないとしても、自分はこの人が好き、という気持ちをありのままに感じ取れるのが、自分の「望み」への正直さ、ストレートさです。 そうして感じ取る、自分への嘘のない「望み」の感情によって、やがて「魂の望みの成熟」につながる、2つ目の心の土壌が生まれます。 それは、「望みが叶った結果」がなくとも、「望みに向かうこと」そのものが心に豊かさを生む、というものです。 たとえばごく最近の私の体験では、山登りの趣味に、今年になって本格的に火がついたという出来事など紹介できます。 今年の6月初、好天が予想されたものの「黄砂」「スキーシーズンの疲れの残り」などを理由に、父と計画する北アルプス登山をやめたことがあったのです。しかし後日インターネットで山では黄砂の影響は少なかったのを見た時、私の中に忸怩(じくじ)たる感情が湧き起こりました。絶好の機会を逃した!と。思わず机を叩いたような悔しさとして・・。 実はそれまで、自分の山登りの趣味は、自分としてはそれほど熱の入ったものではないと「自意識では感じて」おり、もっぱら父の計画に任せ、お供で行く形だったのですが、これを機に、私は自分がいかに山登りが好きかと、「魂で感じた」わけです。それから私は打って変わって、自分で色々と地図を眺め山行の案を考えるようになり、一人で北アルプスにも出かけるようになりました。また山登りを舞台にした小説なども読むようになりました。 そうしてこの夏から秋へと入る今日この頃、天候はかなり不順であり、また量を増やした近所の山登りトレーニングの疲労回復リズムとうまく合わなかったりと、実際に北アルプス登山に出かけられるタイミングがなかなか見つからないのですが、それでも感じるのは、こうして山登りの「望み」を心に開放して、思いっ切りそれに向かう意識行動をしていると、実際に山に登れたという「望みが叶った結果」がなくとも、それだけで楽しいし、山に登って快晴に出会えていた人をネットで見ても、もう悔しさの感情は湧かない。つまり「望みが叶った結果」ではなく「望みを開放し向かうことそのもの」が、「望み」をすでに多少とも満たしているのを感じるのです。 これはまだ人生における「望み」の本流とまでいかない、「傍流の望み」での例と言えますが、本流の「望み」において私たちの心に起きる現象の本質を、十分に示しています。 つまり、自分の「望み」への正直さとストレートさを欠いた姿勢において、「望み」は、得てしてあらぬ形で表面化し私たちを苦しめる一方で、正直さとストレートさにおいて感じ取られた「望み」は、心がそれに向かうこと自体において、やがて心を穏やかに満たすようになる、というものです。 ・「愛」という本流の「望み」への妨げ 問題は、では私たち人間の、人生における本流の「望み」とは何なのか、そしてそれを感じ取ることにおいて、私たち人間とはどのような存在なのか、ということになるでしょう。 ハイブリッド心理学の考えは、こうなります。 私たち人間の人生における「望み」の本流とは、「「心の成熟」の法則」がその単一軸の下にあることを述べたように、「愛」であり、私たち人間はそれを感じ取ることにおいて、自身の「望み」への正直さとストレートさを、意識構造のレベルで妨げられた存在なのだ、と。 何によって妨げられるのかと言うと、この本の最初で述べた、「幼少期に始まる「自己否定感情」」と「心の浅はかさ」という、根源的な問題によってです。そこれによって私たちの心は、「「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図」に示すような、「心」と「魂」と「命」がそれぞれ別れて働くような意識構造というレベルにおいて、「愛」という人生の本流の「望み」を、自身への正直さとストレートさにおいて感じ取ることを妨げられた存在なのだ、と。 それが意味するのは、私たちが人生における「愛」という本流の「望み」に向き合うとは、基本的に、まずは自身への正直さとストレートさを損ない、すでに歪んでいた「愛への望み」が表面化する苦しみから始まるのが必然的となる、ということです。あるいは、すでに歪んでいた「愛への望み」が表面化する苦しみを経てこそ、やがて向かうこと自体において心を豊かに満たすようになる「愛への望み」に、出会えるということです。 ・「困苦の受け入れ」の心の足場 かくして、「望みに向かう成長」である「前進形」から「魂の望みと共に歩む成熟」である「真髄形」への深まりとは、「自意識の望み」から「魂の望み」への深まりであり、そのために加わるべき心の足場とは、「困苦の受け入れ」です。 この「困苦の受け入れ」の姿勢にはやはり、心の外面向けおよび内面向けの両面があります。そして「「成長」と「治癒」の相互依存関係」で「主輪と補助輪」という言葉を使った通り、外面向けのものが先んじます。 それはまずは、社会生活と対人関係に起こり得る不可抗力の、あるいは自らの失敗による不運不遇と災難、さらには自身に起こり得る自然災害といった可能性を客観的に、つまり「なんで自分だけこんな目に」「何も悪いことしていないのに」といった非論理的思考でなしに認め、それに対処できることにこそ「成長」があるという世界観人間観であり、さらには、全ての人が何らかのハンディを持った存在であり、ハンディを克服した先にこそ真の人生の豊かさがあるといった人間観人生観になるでしょう。 一方内面向けにおいては、実際に困苦に出会った時に、いやおうなく心に湧く悪感情によって、なんとか足元をすくわれず踏ん張れるという我慢強さ、「悪感情への耐性」としばしば呼んでいる心の足場が重要になってきます。 私たちの心が成長し、芯から強くなるとは、この「困苦の受け入れ」の外面と内面の掛け合わせ的事態を経てこそのものであることを、ぜひ理解しておいて頂ければと思います。 つまり実際に困苦に出会い、それを自らの成長の糧として建設的行動法を学び処法し、そしてその際にいやおうなく心に湧く恐怖などの悪感情を、外面の建設的行動を船の碇として安全を図りながら、内面において「ただ流す」ことの中で、心の芯は、やがて同じ事態が起きても以前のようには動じないものへと、成長変化するのです。 ハンディを受け入れる人生観を持てば、実際の不運不遇に際して気楽になれるのでも、建設的行動法が分かれば恐怖が消えるのでも、ないということです。建設的な人生観と行動法を持ってしても、困苦に際して、やはり失意と絶望、そして恐怖が、流れるのです。それを、心底からの納得によって「ただ流す」ことをする中で、私たちの「意識」を超えて、「命」が、私たち自身の「心」を、芯から強いものへと変化させるのです。時に、「心の死と再生」の様相も経ながら。 そうではなく「分かれば気楽になれる」ようなものを求めるのは、結局は全てが感情に流されている姿勢のままであり、成長へと向くことがないものになりますのでご注意下さい。 ・「魂の愛への望み」 そうして自身の「望み」への正直さストレートさを基礎的な足場、さらに「困苦の受け入れ」を前進への足場として、「自意識の望み」から「魂の望み」への転換を決定づけるのが、実際に「望み」に向かい、自己の外部もしくは内部にある壁に阻まれる困苦という、「出会い」であることを、「「魂の望み」の感情を感じ取る条件」の中で説明しました。 そこで、失意を超えてなお前に向き、自らの「望み」に向き合った時、そこに浅はかな自意識で抱いた惑いと邪念だらけの「自意識の望み」とは全く別世界の、澄んで清らかな、そして心を豊かに満たす「魂の望み」の感情が、現れるのだ、と。 ハイブリッド心理学は、そこにさらに、私たち人間の心の最大の神秘とも言うべき世界へとやがてつながる、「自意識の望み」から「魂の望み」への転換の、2つの様態を認めるのです。 それを先の「「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表」でも記しています。「真髄形」をさらに、2つの行で記したものです。 違いは、「望み」に向かうことを阻む壁が、自分の心の外部外面にあるものと、自分の心の内部内面にあるものとの違いです。 前者は、壁が心の外部に現われます。たとえば「「魂の望み」の感情の異質性」で、ビジネスライバルとの戦いに明け暮れた挙句の大病といった例を書いてみたように。それによって、表面的なものばかりに虜になった「自意識の望み」が打ち砕かれ、自分にできるささやかなことを尽くす毎日に喜びを見出す、といった「魂の望み」に移り変わる、と。 一方後者は、「望み」に向かうための壁が、心の内部に現われます。 他なりません。それはこの心理学が心の問題の始まりとして位置づけた「幼少期に始まる自己否定感情」が、ある程度以上深刻な場合に起きることです。 そこに、この心理学が、人間の心の最大の神秘とも位置づける、心の世界が現われることになります。 鍵は、「魂の望み」への転換の、そのどちらの様態においても、本人の意識において「望み」が、真正面から「愛」をとらえることです。 前者においては、心の外部の壁を越えるものとして、表面的なものばかりに惑わされる未熟な「望み」が、「自ら生み出し与える」ことに喜びを見出す、「成熟の愛の望み」へと変化する、というものとして。これは「自分の望み」として感じ取られるものが、そのように変化するというものです。 一方後者においては、
ハイブリッド心理学では、この、「もはや自分ではないものが抱く」かのように感じ取られる「愛」への「望み」の感情を、「魂の愛への望み」の感情と呼んでいます。 なぜならそこにおける「心の内部の壁」とは、一言で表現するならば、「幼少期から始まる自己否定感情」によって、自分から「愛」に真正面から向かうことが阻まれ、「愛」への望みが歪み、変形した、この人自身にとっての、自身の「望み」の醜さにあるからです。だから、自分が人生で本当に愛するものへと向かおうとした時、この人は、「自分の望み」によっては、その相手に向かうことができなくなるのです。それは何よりも、「幼少期から始まる自己否定感情」を刺激し、人生で本当に愛するものから自分が拒否されることへの怖れを、かきたてるからです。 そこに、ここで説明してきた心の基盤が最後に生み出すものとして、「もはや自分ではないもの」が自分自身の中で抱くかのような、「魂の愛への望み」の感情が現われるのです。 この人は、自分自身の中に現われた、そのあまりに澄んで大きな感情に、自ら打たれます。 「超越」は、この「魂の愛への望み」の感情の流れの先にこそあるものです。 それが最終的に、「原罪」とこの心理学が呼ぶ自己否定感情の根源の、神秘的な克服の過程を通して、「永遠の命の感性」へと至る道があることを、「「永遠の命の感性」への歩みと「原罪の克服」」で説明しました。 つまりこの心理学が、心の成長成熟のゴールの一つの節目と位置づける「永遠の命の感性」は、この流れの先にこそ、あるということでます。「自分を超えたもの」がこうして自分の中にあるという、実際の意識体験を足場にしてこそ、「自分」というものは、「命」という大きなつながりの中の、ほんの仮りの姿、ほんの断片に過ぎないと感じ取る、「永遠の命の感性」に至り得る。それがこの心理学の考えです。 ということはつまり、出生の来歴において心に躓きを抱えたケースこそが、そうでないケースに比べ、心の成長成熟のゴールに至り得る、ということなのです。 それが、この心理学の考えなのです。 ・「ハイブリッドの道」 「魂の愛への望み」への向き合いは、「ハイブリッドの道」もしくは「パラレル・スパイラル前進」と私が名づけた、神秘的な心の成長の歩みの道のりを生み出す。それが私の人生で体験したことでした。 つまりそれは、
「もはや自分ではないもの」が抱くかのような「魂の愛への望み」とは、「自分を超えたもの」「現実を超えたもの」そして「現実とは別の世界のもの」と感じられるものでもあります。 そしてそれが吐き出す深い「悲しみ」を自分自身で受けとめた時、私たちの心に、不思議なことが起き始めます。 その深い「悲しみ」は、「幼少期に始まる自己否定感情」という、心の問題の始まりの、さらに根源であったであろう、それを願ってこの世に生まれた「愛」への望みが叶えられない悲しみであるように思われるのですが、逆に、
そうして、「現実世界」における歩みが行き当たる壁と共に、「魂の世界」が現われる。それはもはや「現実世界」における歩みとは切り離され、「現実世界」における壁への答えを出すものではないように見えても、私たちはこの道を通るごとに、別の人間へと変化していくのです。より心の穏やかさと豊かさを増した存在として。 そしてそのように「現実世界」とは別の「魂の世界」があるという思いが、「現実世界」を、より輝きに満ちたものに、感じさせるのです。そして再び、より力強い歩みとして、「現実世界」へと・・。 これが、「ハイブリッドの道」です。 こうした「自分を超えたもの」が自らの心の中に現われるという神秘的な心の仕組み、そしてそれが生み出す成長変化の流れについては、『入門編下巻』の後半(7章以降)および『取り組み実践詳説』の「終章 「真の望み」への道」で詳しく説明していますので参考頂ければと思います。 |
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2014.10.1 |