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ハイブリッド人生心理学 概説 まえがき
1.はじめに・4つの話の領域
2.心の問題とその克服ゴール
3.取り組み実践
4.心の成長変化
 (1) (2) (3) (4)
5.歩みの道のり
 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

5.歩みの道のり
 (5)実践の歩みの深まりと心の成長の前進

「旅立ち前」から「学び」までの段階-5実践の歩みの深まりと心の成長の前進 「基礎形」 「前進形」 「望み」への感受性 「言葉」による実践の推進 「真髄形」 「望むこと」そのものにある豊かさへ 「愛」という本流の「望み」への妨げ 「困苦の受け入れ」の心の足場 「魂の愛への望み」 「ハイブリッドの道」)  「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表

「旅立ち前」から「学び」までの段階-5

・実践の歩みの深まりと心の成長の前進
以上説明してきたような、取り組み実践前進のための心の基盤整い方に対応して、私たちが歩むことのできる心の成長歩みの、前進のパターンというものを言うことができるように思われます。

それは私たちの、この心理学を活用した歩みが、3つのレベル深さ増す、というものです。
その3つ深さのレベル経て、私たちは最終的に、心の豊かさゴール向かい得る可能性がある、と言えるものとして。
自らの前進のために、心の足場として何が必要かを、この「歩みの深さ」レベル順序把握すると良いでしょう。
まずポイントキーワードでまとめたものがになります。要点を説明していきましょう。

 「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表
歩みの深まり 前進の足場状況 成長の前進の姿
1 【基礎形】
建設的行動法
 の学び
外面の建設的行動法
 の学びと実践
 *感情に流されることの抜け出し
心の動揺の減少
基礎的な「成長」「治癒」
2 【前進形】
望みに
 向かう成長
主に外面目標による
 「望み」に向かう歩み

*「望みの不明」への取り組み
人生における
 「成長」の前進
3a
【真髄形】
魂の望みと
 共に歩む成熟
「魂の望み」に向かう歩み
 *外面的な壁への向き合い
「命の生涯」における
 「成長」「成熟」

「否定価値の放棄」
3b 「魂の愛への望み」
 への向き合い

 *内面の深い壁への向き合い
「浄化」「超越」
 と共にある「成熟」

→最終的な心の豊かさゴール
  はこのルートにこそある?

・「基礎形」
最初深さレベル「基礎形」であり、その主題「建設的行動法の学び」です。これが歩み3つ深さレベル全て基礎になります。
まずはとにかく、目の前問題課題場面について合理的な建設的行動法取ることに向かうことです。感情に流されることからの基本的抜け出しと、建設的行動法悪感情への対処についての基本的な学びを得て、目線が自他の内面感情ばかりに向くことに注意しつつ、心の健康と成長に向かうことのできる、外面行動法の答えを知るという、「実践の根幹」へと向かいます。心の病みの傾向根深い悪感情など大きな妨げ内面にあるのであれば、それにも取り組みます。
「自分自身への論理的思考」という最初の基盤が、まず何よりも重要になってくるでしょう。それを足場に、さらに「心の依存から自立への転換」という基盤が、悪感情動揺からの抜け出し足場になります。

これによる心の成長前進は、まずは日々目の前問題課題場面における動揺悪感情減少です。前章で説明した心の成長変化5つのベクトルでは、「成長」「治癒」基礎的前進が、この歩みのレベル可能になるでしょう。
メール相談掲示板相談投稿も、このレベルカバーするものと言えます。

・「前進形」
歩みの深さレベル「前進形」であり、主題「望みに向かう成長」です。
上述「外面行動の答えを見出す」という「実践の根幹」が、「望み」向かう歩みとして成されていくものです。
これによって、動揺悪感情などマイナス減少という消極的前進は、喜び楽しみ感動充実感などプラスの増大という、積極的前進へと移行します。
「心の成長」とは、まずはこれ指すものです。つまり「心の成長」とは、「望み」に向かって自ら建設的行動法によって歩む力の増大を言うのです。それが『入門編上巻』で、「成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であると定義したものへの、基本的答えになるものです。
「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解のみする」という「感情と行動の分離」の姿勢と実践を携え、自らの「望み」に向き合い、「望み」に向かって全てを尽くして生きる。
「ハイブリッド人生心理学の「取り組み実践」とは」でそう定義した「取り組み実践」は、この深さレベルにおいて成り立つものになります。
心の成長変化ベクトルとして、「成長」「治癒」が共に本格的前進に向かうのも、この深さレベルにおいてです。心の病みの傾向や根深い悪感情も、結局「望み」との関係においてこそ、深い解きほぐしと克服が可能だからです。

そのための心の足場として必要か、「「魂の望み」への歩みの中にある「実践」」指摘した、外面行動法学び一見しっかりできているように見えてもなかなか前進が進まない、というケースをとりあげると分かりやすいでしょう。
そこでは「望み」というものが分からない、見えないという「望みの不明」という問題大抵起きているのですが、そこには、向き合うべき壁とも呼べる課題が、2つあるように思われます。

一つは「心の依存」です。そこでは「意識」が、「まず自分は何を望むのか」ではなく「まず人はどうしてくれるのか」という受け身から始まっているのが特徴であることを述べましたが、それを脱するとは、「そんな受け身では駄目だ」と自分を叱責することではありません。
むしろに、自分が人から受け身にどうされることを、いかに望んでいるのかという、来歴の中で押し殺し葬り去ったかのような幼い「望み」気持ちを、回復させ、自分自身で受けとめる、といったものにあるのです。もし、それがあるのであれば。それがまず「心の自立」です。

・「望み」への感受性
ではそんな「望み」本当自分にあるのか。それに向き合えるために、もう一つ「望みへの感受性」という課題を言えるように思われます。
これについて一つヒントを言うならば、「「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進」「魂の望み」感情について、算数英語ドリルのようにこなすものではないと述べましたが、「国語のエクササイズ」のようにと、言うのであれば多少当てはまる面があるということです。
つまり、「望み」とは感じられない感情についても、それはどんな望みの表現か、という「感情の意味」考え、まずは国語のエクササイズのように、とにかく「言葉」選び出し文章を作って自分に投げてみるのです。
たとえばから好意的でない扱いを受け、苦い感情に湧いた時、「これは自分がこれこれを望んでいたということか?」という「問い」自ら発するのです。たとえば「愛されること」を望んでいたのか?それとも「評価され認められること」を望んでいたのか?と。そしてそれが多少ともヒットしそうであれば、さらに、「何によって、どのように?」「感情の意味」「言葉」によって詳細化する問いを、自分発するのです。
そうした「言葉」の中に、心の琴線響くものがあった時、しばしば、置き去られていたかのような「望み」感情そのものが、森の出口で見えてくる遠くの風景映像のように、現われるかも知れません。

もちろんその先に、実際にいかに細やかさ奥深さをもって「望み」感情感じ取れるかという「感受性」「情緒性」そのものは、こうした「実践法」を超えて、人生の歩みの中で培われる「素養」のようなものになってくるであろうことも述べましたが、私たちが感じ取り得る感情を最大限に感じ取り、向き合い、解きほぐしたりするための方法は、結局そのような「言葉」活用によるものになるのです。「言葉」が、私たち自身心に取り組むための、基本的道具だからです。

・「言葉」による実践の推進
こうした「望みの明瞭化」のみならず、「学びと向き合い」という「実践」全体が、こうした「国語のエクササイズ」的意識作業によって推進できるものであることを、ここで申し添えておきましょう。

日常生活場面動揺を感じた時、まず「これは応用の学びとしてはどんな場面テーマになるか?」。たとえば「仕事場における対人行動の悩み」であれば、「ではここでの学びのテーマは何か。仕事のスキルか、それとも親愛の行動法か」「スキル面では自信ができてきている。でも人と馴れ合えない」「それについてハイブリッド心理学から示される学びとはどんなものか?」。こうして、まず「取り組みテーマ」明瞭化していきます。
具体的問題に対してハイブリッド心理学から示す応用の学びは、『メール相談事例集』などの実例解説より多く読み心の懐肥やすことで、次第に自分で方向をつかむことができるようになってくるでしょう。あるいは、『読者広場』掲示板などに質問投稿してヒントを得ても良いでしょう。
まあその話アドバイスであれば、「仕事場でどう人と馴れ合うかは二義的問題であり、あくまで仕事内容のやりがいや収入といった目的でまず向かう。人との馴れ合いは仕事場の問題としてではなく、人生の場面全体として取り組む」といったものになるでしょう。

そうした「学び」の正確な理解もまた、「国語のエクサザイズ」的課題でもあります。
たとえばそうしたアドバイス言葉で、「仕事場において馴れ合いは一切必要でなく背を向け、業務に徹するという意識でいけばいいということか」と考えるとしたら、それは誤りです。もしそれが正解であれば、私ははっきり「背を向けるのが良い」という言葉を使います。そうは言ってはいないですね。
「言葉」の正確な使い方と活用こそが、「実践」前進のための最大の武器だと言えます。
アドバイス
に目をやるならば、「人との馴れ合いは人生の場面全体として取り組む」とはどういうことか。「愛」を、「「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法」で述べたように、より純粋な「喜びと楽しみの共有」として目指すことです。そのために、まず自身自身として嘘のない楽しみと喜び、そして向上を見出すという姿勢を、確立するのです。
そうした「学び」について、自身理解納得問うために、「本当にそれに納得しているのか?」という「言葉」自分投げる。さらに、読んでどう感じるかだけではなく、日々の生活場面で起きるちょっとした感情の流れ着目し、「これは自分は人との親愛をどのように望んでいたということか?」という「言葉」問う
これがまた、意識の表面では覆い隠されたような細かい感情ヒダを探る、精緻「自己分析」つながるものでもあります。それによって私たちは、私たち自身への名外科医になっていく、と言えるでしょう。

このように、「実践」の全体が「言葉」の正確な活用と自身への投げかけによって前進するものであり、それが常に、最後には自身の「望み」を問うものになるのが、この「前進形」歩みの深さレベルだと理解頂くと良いでしょう。
「成長」「治癒」は、この深さレベルにおいて本格的前進するようになる、と。

・「真髄形」
3つ目の、最後歩みの深さレベル「真髄形」であり、その主題「魂の望みと共に歩む成熟」です。
ここにおける、「前進形」からの歩み深まりとは、「望み」深まりに他なりません。「自意識の望み」から、「魂の望み」への深まりです。
先の「「取り組み実践」と「魂の望み」」説明したように、「実践」「魂の望み」接することで、「今成すべき外面行動の答え」見出すという取り組み実践出口が、「魂の望み」の成熟変化伴うようになる、というものです。
それによって、この本で説明してきた、心の成長変化5つのベクトル「成長」「治癒」完結的前進、そして「浄化」「成熟」「超越」という、未知の心への変化生み出される、というものになります。

「成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」である。この定義に対する基本的な答えが、まずは「前進形」として示される、「望みに向かって自ら建設的行動法によって歩む力の増大」だと述べました。
一方でその最終的な答えは、「「心の成熟」の法則」として述べた中の「自発的不幸から自発的幸福へ」というものののにある、と私は感じています。そこにおいて、私たちがこの歩み目的とする「幸福感」は、もはや「望み」「外面において叶えられる」ことを必要とさえすることなく、自分内部から湧いてくるのですから。

ただし私たちは、そうした実に好都合な心の状態が、この歩みの中で次第に増大するのが分かって進めるというような順風な歩みになるのではないことを、理解しておく必要があります。
「自発的幸福」というものが本当にあることを感じ取るのは、私の経験から言えば・・これはまあがそのような煩悩の凡人であったということかも知れませんが、この歩み本当最後になってからです。
それ以前に、「本性と宿命の受け入れ」という、苦悩を伴うも通るでしょう。そして何よりも、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「命」プログラムされた変遷を、歩むのです。
その歩みを、私たちのあり続けるものとして導くのが、「望み」であり、「魂の望み」です。

・「望むこと」そのものにある豊かさへ
では、そうした歩み向かうための心の足場とは、どのようなものか。

この本で、「魂の望み」感じ取るための条件姿勢、そして心の基盤について、押さえておきたい視点を一通り説明してきました。
「「魂の望み」の感情を感じ取る条件」としては、1)人生観による「魂と命に向き合う姿勢」2)「否定価値の放棄」が成される度合い3)「望み」に向かう困難困苦、といったものがあることを述べました。それによって、ものごとが「自意識」で描いた通りにはならない失意絶望を乗り越えて、自分人生を通して何を望んでいたのかを見つめる深い目を向ける、といった姿勢を、「「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進」で述べました。
そしてそのための心の基盤とは「自分自身への論理的思考」「心の依存から自立への転換」における、「ありのままの現実に向き合う」そして「自分の感情を自分で受けとめる」という姿勢であり、それは結局「実践」足場そのものであることを、「「実践」の足場から「魂の感情」へ」で述べました。
また、最終的には「望み」感じ取るための「感受性」「情緒性」という、「実践」を越えて人生で培う素養のようなものが、重要になるであろう、と。

まあそれが理屈の面での整理として、もっと日常意識的に言って、私たちのどういう姿勢「魂の望み」つながるかを、2つほど言うことができるように思われます。
それが「感受性」「情緒性」といった「素養」でもあるだろう、と言えるものとしてです。

1つ目は、自分「望み」への正直さ、ストレートさです。にどう見られ何と言われるかの懸念動揺があるとしても、少なくとも自分自身心の中においては、自分から何かを望む気持ちを、自分に対して隠したり歪めたりすることなく、心の中開放感じ取るという正直さ、ストレートさです。
たとえば恋愛では、「こんな自分だから・・」恋心捨て去ろうとしたり、相手から好きだと言われたことで、本心ではあまり好きではない相手「この人を好きになれば・・」自分に納得させようとする。これは自分「望み」正直ではない姿です。そうではなく、外面の行動はどうできるか分からないとしても、自分はこの人が好き、という気持ちありのまま感じ取れるのが、自分「望み」への正直さ、ストレートさです。

そうして感じ取る自分への嘘のない「望み」の感情によって、やがて「魂の望みの成熟」につながる、2つ目心の土壌が生まれます。
それは、「望みが叶った結果」がなくとも、「望みに向かうこと」そのもの豊かさ生む、というものです。

たとえばごく最近私の体験では、山登り趣味に、今年になって本格的火がついたという出来事など紹介できます。
今年6月初好天予想されたものの「黄砂」「スキーシーズンの疲れの残り」などを理由に、計画する北アルプス登山やめたことがあったのです。しかし後日インターネットででは黄砂影響は少なかったのを見た時、私の中忸怩(じくじ)たる感情湧き起こりました。絶好の機会を逃した!と。思わず叩いたような悔しさとして・・。
実はそれまで、自分山登り趣味は、自分としてはそれほど熱の入ったものではない「自意識では感じて」おり、もっぱら計画に任せ、お供で行く形だったのですが、これをに、私は自分がいかに山登りが好きかと、「魂で感じた」わけです。それから私は打って変わって自分で色々と地図を眺め山行を考えるようになり、一人北アルプスにも出かけるようになりました。また山登り舞台にした小説なども読むようになりました。
そうしてこの夏からへと入る今日この頃、天候はかなり不順であり、またを増やした近所山登りトレーニング疲労回復リズムとうまく合わなかったりと、実際北アルプス登山に出かけられるタイミングがなかなか見つからないのですが、それでも感じるのは、こうして山登り「望み」心に開放して、思いっ切りそれに向かう意識行動をしていると、実際山に登れたという「望みが叶った結果」なくともそれだけで楽しいし、に登って快晴に出会えていたネットで見ても、もう悔しさの感情湧かない。つまり「望みが叶った結果」ではなく「望みを開放し向かうことそのもの」が、「望み」をすでに多少とも満たしているのを感じるのです。

これはまだ人生における「望み」本流とまでいかない、「傍流の望み」でのと言えますが、本流「望み」において私たちのに起きる現象本質を、十分に示しています。
つまり、自分の「望み」への正直さとストレートさを欠いた姿勢において、「望み」は、得てしてあらぬ形で表面化し私たちを苦しめる一方で、正直さとストレートさにおいて感じ取られた「望み」は、心がそれに向かうこと自体において、やがて心を穏やかに満たすようになる、というものです。

・「愛」という本流の「望み」への妨げ
問題は、では私たち人間の、人生における本流「望み」とはなのか、そしてそれを感じ取ることにおいて、私たち人間とはどのような存在なのか、ということになるでしょう。

ハイブリッド心理学考えは、こうなります。
私たち人間人生における「望み」本流とは、「「心の成熟」の法則」がその単一軸の下にあることを述べたように、「愛」であり、私たち人間はそれを感じ取ることにおいて、自身の「望み」への正直さとストレートさを、意識構造のレベルで妨げられた存在なのだ、と。
によって妨げられるのかと言うと、この本最初で述べた、「幼少期に始まる「自己否定感情」」「心の浅はかさ」という、根源的問題によってです。そこれによって私たちのは、「「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図」に示すような、「心」「魂」「命」がそれぞれ別れて働くような意識構造というレベルにおいて、「愛」という人生本流「望み」を、自身への正直さとストレートさにおいて感じ取ることを妨げられた存在なのだ、と。

それが意味するのは、私たちが人生における「愛」という本流「望み」向き合うとは、基本的に、まずは自身への正直さとストレートさを損ない、すでに歪んでいた「愛への望み」が表面化する苦しみから始まるのが必然的となる、ということです。あるいは、すでに歪んでいた「愛への望み」が表面化する苦しみを経てこそ、やがて向かうこと自体において心を豊かに満たすようになる「愛への望み」に、出会えるということです。

・「困苦の受け入れ」の心の足場
かくして、「望みに向かう成長」である「前進形」から「魂の望みと共に歩む成熟」である「真髄形」への深まりとは、「自意識の望み」から「魂の望み」への深まりであり、そのために加わるべき心の足場とは、「困苦の受け入れ」です。

この「困苦の受け入れ」姿勢にはやはり、外面向けおよび内面向け両面があります。そして「「成長」と「治癒」の相互依存関係」「主輪と補助輪」という言葉を使った通り、外面向けのものが先んじます。
それはまずは、社会生活対人関係に起こり得る不可抗力の、あるいは自らの失敗による不運不遇と災難、さらには自身に起こり得る自然災害といった可能性客観的に、つまり「なんで自分だけこんな目に」「何も悪いことしていないのに」といった非論理的思考でなしに認めそれに対処できることにこそ「成長」があるという世界観人間観であり、さらには、全ての人が何らかのハンディを持った存在であり、ハンディを克服した先にこそ真の人生の豊かさがあるといった人間観人生観になるでしょう。
一方内面向けにおいては、実際困苦出会った時に、いやおうなく心に湧く悪感情によって、なんとか足元をすくわれず踏ん張れるという我慢強さ「悪感情への耐性」としばしば呼んでいる心の足場重要になってきます。

私たちの成長し、芯から強くなるとは、この「困苦の受け入れ」外面内面掛け合わせ的事態経てこそのものであることを、ぜひ理解しておいて頂ければと思います。
つまり実際困苦出会い、それを自らの成長の糧として建設的行動法学び処法し、そしてその際にいやおうなくに湧く恐怖などの悪感情を、外面建設的行動として安全を図りながら、内面において「ただ流す」ことの中で、は、やがて同じ事態が起きても以前のようには動じないものへと、成長変化するのです。
ハンディを受け入れる人生観を持てば、実際の不運不遇に際して気楽になれるのでも、建設的行動法が分かれば恐怖が消えるのでも、ないということです。建設的な人生観と行動法を持ってしても、困苦に際して、やはり失意絶望、そして恐怖が、流れるのです。それを、心底からの納得によって「ただ流す」ことをする中で、私たちの「意識」を超えて、「命」が、私たち自身「心」を、芯から強いものへと変化させるのです。に、「心の死と再生」様相も経ながら。
そうではなく「分かれば気楽になれる」ようなものを求めるのは、結局全て感情に流されている姿勢のままであり、成長へと向くことがないものになりますのでご注意下さい。

・「魂の愛への望み」
そうして自身の「望み」への正直さストレートさ基礎的足場、さらに「困苦の受け入れ」前進への足場として、「自意識の望み」から「魂の望み」への転換決定づけるのが、実際「望み」に向かい、自己外部もしくは内部にあるに阻まれる困苦という、「出会い」であることを、「「魂の望み」の感情を感じ取る条件」の中で説明しました。
そこで、失意を超えてなお前に向き、自らの「望み」に向き合った時、そこに浅はかな自意識で抱いた惑いと邪念だらけの「自意識の望み」とは全く別世界の、澄んで清らかな、そして心を豊かに満たす「魂の望み」の感情が、現れるのだ、と。

ハイブリッド心理学は、そこにさらに、私たち人間最大の神秘とも言うべき世界へとやがてつながる、「自意識の望み」から「魂の望み」への転換の、2つの様態を認めるのです。
それを「「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表」でも記しています。「真髄形」をさらに、2つの行で記したものです。
違いは、「望み」に向かうことを阻む壁が、自分外部外面にあるものと、自分内部内面にあるものとの違いです。
前者は、心の外部現われます。たとえば「「魂の望み」の感情の異質性」で、ビジネスライバルとの戦いに明け暮れた挙句の大病といったを書いてみたように。それによって、表面的なものばかりに虜になった「自意識の望み」打ち砕かれ自分にできるささやかなことを尽くす毎日喜びを見出す、といった「魂の望み」移り変わる、と。
一方後者は、「望み」に向かうためのが、心の内部に現われます。
他なりません。それはこの心理学心の問題始まりとして位置づけた「幼少期に始まる自己否定感情」が、ある程度以上深刻な場合起きることです。
そこに、この心理学が、人間最大の神秘とも位置づける、心の世界現われることになります。

は、「魂の望み」への転換の、そのどちら様態においても、本人の意識において「望み」が、真正面から「愛」とらえることです。
前者においては、心の外部越えるものとして、表面的なものばかりに惑わされる未熟な「望み」が、「自ら生み出し与える」ことに喜びを見出す、「成熟の愛の望み」へと変化する、というものとして。これは「自分の望み」として感じ取られるものが、そのように変化するというものです。
一方後者においては、
自分の心の内部の壁越えるものとして、「望み」そのものが、もはは「自分の望み」ではない、「自分を超えたものの望み」と感じ取られるものが現われる
という変化になるのです。

ハイブリッド心理学では、この、「もはや自分ではないものが抱く」かのように感じ取られる「愛」への「望み」感情を、「魂の愛への望み」感情と呼んでいます。
なぜならそこにおける「心の内部の壁」とは、一言表現するならば、「幼少期から始まる自己否定感情」によって、自分から「愛」に真正面から向かうことが阻まれ、「愛」への望みが歪み、変形した、この人自身にとっての、自身の「望み」の醜さにあるからです。だから、自分人生で本当に愛するものへと向かおうとした時、この人は、「自分の望み」によっては、その相手向かうことができなくなるのです。それは何よりも、「幼少期から始まる自己否定感情」刺激し、人生で本当に愛するものから自分が拒否されることへの怖れを、かきたてるからです。
そこに、ここで説明してきた心の基盤最後生み出すものとして、「もはや自分ではないもの」自分自身抱くかのような、「魂の愛への望み」感情現われるのです。
この人は、自分自身に現われた、そのあまりに澄んで大きな感情に、自ら打たれます。

「超越」は、この「魂の愛への望み」感情流れ先にこそあるものです。
それが最終的に、「原罪」この心理学が呼ぶ自己否定感情根源の、神秘的克服過程を通して、「永遠の命の感性」へと至る道があることを、「「永遠の命の感性」への歩みと「原罪の克服」」で説明しました。
つまりこの心理学が、心の成長成熟ゴール一つの節目と位置づける「永遠の命の感性」は、この流れにこそ、あるということでます。「自分を超えたもの」がこうして自分にあるという、実際の意識体験足場にしてこそ、「自分」というものは、「命」という大きなつながりの中の、ほんの仮りの姿、ほんの断片に過ぎないと感じ取る、「永遠の命の感性」至り得る。それがこの心理学考えです。
ということはつまり、出生の来歴において心に躓きを抱えたケースこそが、そうでないケースに比べ、心の成長成熟ゴール至り得る、ということなのです。
それが、この心理学考えなのです。

・「ハイブリッドの道」
「魂の愛への望み」への向き合いは、「ハイブリッドの道」もしくは「パラレル・スパイラル前進」と私が名づけた、神秘的心の成長歩み道のりを生み出す。それが私の人生体験したことでした。
つまりそれは、
「現実世界」「魂の世界」というつながりのない2つの世界が、相互前進生み出し合っているかのように、「パラレル(平行)」前進変化していく歩み
です。それはたとえば最近人気作家で言うと、村上春樹パラレル・ワールドを思わせるかのように。
「もはや自分ではないもの」抱くかのような「魂の愛への望み」とは、「自分を超えたもの」「現実を超えたもの」そして「現実とは別の世界のもの」感じられるものでもあります。
そしてそれが吐き出す深い「悲しみ」自分自身受けとめた時、私たちのに、不思議なことが起き始めます。
その深い「悲しみ」は、「幼少期に始まる自己否定感情」という、心の問題始まりの、さらに根源であったであろう、それを願ってこの世に生まれた「愛」への望み叶えられない悲しみであるように思われるのですが、に、
「魂の愛への望み」が抱く深い「悲しみ」自分自身受けとめ尽くすほどに、自分は、むしろ来歴において「愛」への願いが叶えられた人のものであるかのように、「自分から愛することができる」という穏やかな豊かさを、獲得し始め、そして増していく
というものです。これをハイブリッド心理学では、「魂に魂が宿る」表現できる心の仕組み起きているもの、と考えています。
そうして、「現実世界」における歩みが行き当たるに、「魂の世界」現われる。それはもはや「現実世界」における歩みとは切り離され「現実世界」におけるへの答え出すものではないように見えても、私たちはこの道通るごとに、別の人間へと変化していくのです。より心の穏やかさと豊かさ増した存在として。
そしてそのように「現実世界」とは別の「魂の世界」があるという思いが、「現実世界」を、より輝き満ちたものに、感じさせるのです。そして再び、より力強い歩みとして、「現実世界」へと・・。
これが、「ハイブリッドの道」です。

こうした「自分を超えたもの」自ら心の中現われるという神秘的心の仕組み、そしてそれが生み出す成長変化流れについては、『入門編下巻』後半(7章以降)および『取り組み実践詳説』「終章 「真の望み」への道」詳しく説明していますので参考頂ければと思います。


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2014.10.1

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