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メール件名『「現実において生み出す」という大指針』
とりあえずこれが今回期間の最後のアドバイスメールということで、今までの話も踏まえて、さらに大局的な視点などお話ししようかと思います。
■「正しいか」ではなく「現実において生み出す」という指針
それで言いますと、ずばり、「正しいか」ではなく、「現実において生み出す」という目を持っていくということだと言えると思います。
前回のメール(6回目アドバイスメール)で、それまでの話もおさいらいしてエッセンスを以下の通りお伝えしましたが、
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1.幸福と人生...何を幸福と考え、それを目指すのを人生と考えるか
A)「既成の幸福のレール」の上で「良い目に遇う」(受身の人生価値)
B)「命の燃焼」(能動の人生価値)
2.愛と結婚
A)「分かり合える」「心が重なる」充足を愛と考え、結婚を人生の器と考える
B)「現実世界」と「魂の世界」という2元世界の中にあり、結婚は明確な目標利益の下の共同事業と考える
3.友達と人づき合い
A)暗黙もしくは明示の「親しさ度の合意」を枠として、一緒に過ごすこと
B)はっきした楽しみ目標へのオープンな活動の中で自然にできるもの
「自分の命はこのため」といった芯のある生き方への向い方
・「受身から始まり能動へ」が現実的中間段階
・受身の果実を拾う
・自分を「外側から見る」から「内側から見る」へ
・答えを出す時と出さない時
・命のリアルさと燃焼リズムを感じ取る
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これら全てが、結局、頭の中でどう「自分が正しいと思えるか」ではなく、「現実において生み出す」という大指針の下にあります。
ですからそれはご両親の話についても同じです。
>離れていたら素直にいたわりたいと思えるのですが、電話や会うとなると憎しみとまでいきませんが怒りや嘆き、悲しみのようなものが湧いてくるのを感じます。いつもではなく、自分の体調や話の内容にもよって。母は助けてくれなかった、私は何も母に相談したことはない・・と子供のような思いが出てきます。そして、母に似ている自分を感じては自己否定したようです。
これも、「どうあるのが正しいか」という基本命題の中に、やはりあるのを感じます。
でもそれでは、答えは出ないです。
なぜなら、人間は過ちを犯す動物だからです。「正しいか」で問うなら、まず間違っているんです^^; でそれで命題が問い終わったら、あとは怒り嘆きの中で互いに自分から不幸になっていくだけです。
「どうすれば現実において生み出すか」という大命題に変えないと。
それで言うなら、実は、「素直にいたわりたいと思えるのですが」という気持ちを、捨てる必要があるように感じます。
「素直に」は問題にはならないということです。それはNo.001さん自身の自己像の問題です。
素直にであろうと、したたかにであろうと、自分自身を追い込むことなく、どうすれば「いたわる」行動になるか。
気持ちの問題ではなく、戦略の問題なんですね。
まあ「気持ちが大切」の放棄をどこまでする気になれるかという問題があるかと思いますが。
特に、やはり女性は、「自分の気持ち」ばかりに見入ってしまい。外のこと相手のことが視界から消えていってしまう傾向が多々あるのがまだ現代社会です。この辺は意識変革をお勧めする領域ですね。
「気持ちが大切」よりも、「現実において生み出す」とはどういうことか、と。
お父さんのことについても、気持ちが揺れるのは、やはり「どうあるのが正しいか」という意識の下で思考しているからのように察します。
ですからそれについて、僕からもまだあまり言葉をかけられない状況があります。その形で問うことは、ハイブリッド心理学の中にはないので。
そして実際、「正しいか」と問うなら、人間は間違いを犯す動物なのだ、という話になります。それを、どう変えていきたいのか、になります。
ですからまずは、これからNo.001さん自身の生活の中で、「現実において生み出す」とはどういうことか、ということをぜひ考えながら、日々の問題に向き合って頂ければと思います。
■「正しいか」という問いの根底にある「自己像」という無駄
「どうあるのが正しいか」から「現実において生み出す」という命題への転換に際して、一つ考慮しておくと良い、深層心理のようなものがあります。
それは「自己像」です。
「こんな自分」という、明瞭に意識されるものではない、漠然とした意識があります。それを守ろうとする衝動の中で、人は「正しいか」という問いを繰り返します。
しかしそれは根本的な無駄をかなり含んでいます。
なぜなら、成長とは変化することだからです。「こんな自分」というものを前提にして、それを守るためのような感覚の中で、「どうあるのが正しいか」と思考することは、むしろ成長を自ら閉ざすことになります。
今お父さんのことについてNo.001さんが語る言葉にも、やはりそれがあるように感じるんですね。
「こんな自分」でありたかったという願望において、お父さんがどうだったかという思考が、多分まだ回ると思います。
それでは答えは出ないです。
出るのは、過ちだけをクローズアップするような記憶だろうし、またそれに怒りを抱く自分への罪悪感だけになるような気がします。
>今も亡くなった父を悪く言いたくはないし、今なら叩いてしまう父の苦しい気持ちも少し分かる、分かりたいと思うのですが、当時の私の気持ちは、恐怖と不信、強い憎しみへと移り、父が亡くなってからは、自分自身を激しく責めるようになりました。
というように。
ですから、そういった問題について、今性急に答えを出そうとするのではなく、まずNo.001さん自身が、自分の生活の中で、「正しいか」ではなく「現実において生み出す」ということを体得していく、というのがこれからになると思います。
そうしたら、きっとお父さんのことも分るようになると思いますヨ。多分間違いなく、受け入れることができる形で^^。
とりあえずそんなことを、これからの大指針として考えていって頂ければと。
>その時には、自分の気持ちがちゃんと落ち着く方法を、何か良い方法を考えられるようになっていられればと思います。
まずはやはり「自分の気持ちがちゃんと落ち着く」ことがなくても、「現実において生み出す」ことを思考してみるというのがお勧め^^。
実はそれは逆に、「気持ちが落ち着かなくなる」ことがかなりあります。未知の行動法に向うからです。「こんな自分」という自己像の殻を捨てて、命綱を切って大海に飛び出すような場面も出るでしょう。まあこうしたオーバーな表現が当てはまるのは、もっと深刻な心の障害傾向からの取り組みの場合ですが。
まあ「自己像」があまりにも強い意識焦点になる感情動揺がある場合は、さらに期間設けて取り組むのもいいかも知れませんが、まずは日々の生活の中で、「現実において生み出す」という命題を意識して頂いて、しばらく自分に向き合う時間を取っていただくのもいいですね。
「現実において生み出す」ためには、「建設的な思考法行動法」というのがあります。これは今回あまり具体的には扱いませんでしたが、『実践編』原稿など引続き参考にして頂ければ。
もしくはそれをテ−マにまた次の期間を持つなり、お好きなぺースで考えて頂ければ^^。 |