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はじめに・「取り組み実践」とメール相談 掲載方法について 島野のメール相談活動 代表的事例 テーマ別事例 |
No.003 ネット恋愛葛藤を超えた「魂の愛への望み」を見つめる |
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カテゴリー: 「魂の感情」への向き合い |
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相談期間: 2008年8月(約1か月間) | |||||||||||||
概略 ご相談内容とアプローチの考え方 ・「愛への望みに向かう」という生きることへの根源原動力 ・「魂の感情」への向き合い ・「現実世界における前進」と「魂の世界における前進」 ・アドバイスの考え方 1回目アドバイス: 「現実の世界」と「魂の世界」を分けそれぞれを守る 2008.9.7(日) 概略 これまで紹介した2つの事例と同様、「期間メール相談」としてのものですが、「魂の感情」への向き合いを最初からアドバイスした、稀な事例です。 このような例は、記憶する限りこれが唯一のものかも知れません。つまり他の事例でも、「魂の感情」への向き合いをやがてアドバイスするというものは少なくありませんでしたが、まずは外面の現実問題への建設的な向かい方について大方「けりが付いて」から、あるいは「けりが付いて」いく中で、「魂の感情」が垣間見えるようであればそれに目を向けさせる、というアドバイスになったのが通例です。 この事例ではなぜそうなったのか。単純です。ご相談者の状況に私自身が心を置いてみた時、すぐそこに「魂の世界」があったからだ、とでも言えるでしよう。 それだけ、外面問題の前にある壁と、その壁を超えた先にある「望み」が「愛」であることが、明瞭であった事例と言えるでしょう。 悩みの状況は、既婚ながらもネット上で出会った相手との恋愛がやがて心の支えとなり、まさにその重みゆえに、相手との現実関係をどうすべきかという葛藤が始まったという女性です。 なおこの「代表的事例」への掲載としては、「魂の感情」とはどのようなものか、そのさわりの紹介という主旨にて、まずは最初のアドバイスをここで紹介し、引き続いての期間相談部分は別途「テーマ別事例」の方で続編として掲載したいと思います。 ご相談内容およびアプローチの考え方 この事例については、ご相談者の外面的状況についてはあまり触れず、それがどのような感情の揺らぎの流れにあるものであるのかを、端的に伝える言葉を中心に紹介しておきたいと思います。
そんなNo.003さんをまずは救ったのが、ネット上でのある男性との出会いだったという経緯です。
・「愛への望みに向かう」という生きることへの根源原動力 ご相談状況紹介の途中ですが、まずここでNo.003さんがなぜうつ状態や対人恐怖になり、そしてネット上での「淳さん」との恋への出会いによりそれが解消したのかについて、私の考えを簡潔に記しておきたいと思います。 それはずばり、「生きる」ということへの根源的な原動力を見失った時、起きることであり、それを取り戻した時、消えるものなのだ、と。 これは私たちの身体健康において、日常生活の中で「常在菌」にさらされていても、体に活力と抵抗力がある健康状態においては特に何の問題にもならないが、何かのきっかけで体が弱り抵抗力が失われた時、通常は何でもないような「常在菌」によって身体が冒され、致命的にもなる、という状況を思い浮かべると分かりやすいと思います。 「うつ」や「対人恐怖」も、そのようなものだと思うわけです。「生きる」ということへの根源的な原動力を失ったならば、誰もがうつや対人恐怖になってしまうような、細かいストレスやマイナス要因に、私たちの生活は満ちている。しかし心が生きることへの原動力が生み出す活力と抵抗力を持っている時、それはほとんど問題にならないものに、なり得るのだと。 そのようなものとしての、私たち人間が生きることへの根源的な原動力とは、自らの「望み」に向かって生きるということであり、そこに真の活力と抵抗力を与えるのは、「愛」という「望み」に向かうことなのだ、というのが私の考えです。 それを見失った時、人は容易に「うつ状態」や「対人恐怖」に陥り得るし、それを取り戻した時、それだけで「うつ状態」や「対人恐怖」も消え得るのだ、と。解消のための特別な取り組みなど特に何もせずともです。 No.003さんがネット上での「淳さん」との恋に出会ったことで救われたという、ここまでの話の流れも、そのようなものとしてあったのだとう、と。 ただしもちろん、この話を短絡的に一般化しないのがお勧めです。自分のうつや対人恐怖を治すためには恋をすればいいのか・・といった発想など。 そうした「自意識思考」によってまた、この生きることへの真の原動力が見失われるのが、私たち人間です。実際のところ、正真正銘の恋に出合っても、逆に、やがてそれが「自意識」によって歪められれば、心が不安定になり、やがてうつや対人恐怖になってしうまうというケースもあるでしょう。 ・「魂の感情」への向き合い まさにそこに心の取り組みが始まります。心の仕組みを知り、それを守り育てるための糸口として、さまざまな「感情」の種類と、それを役立てるための対処姿勢と行動法を学び、実践するのです。 この心理学においては、「外面行動は建設的なもののみ、内面感情はただ流し理解することのみ行う」という「感情と行動の分離」の基本姿勢と実践を携え、「望み」に向かって全てを尽くして生きるという生き方姿勢の実践として。 そこに「魂の感情」と呼ぶ、特別なものが姿を現します。「愛」への「望み」に向かう歩みの中で、自分の感情を自分自身で受けとめる姿勢と、自己の真実の感情を見る目を足場にして、その「愛」に近づくことへの現実における壁を前にし、それでもなおその「愛」への「望み」を自分自身で受けとめることをした時、そこに「自意識思考」による歪みが消えた、純粋で一途な、そして「命」の重みのある感情が、私たちの心に訪れるのです。 これを「魂の愛への望み」の感情と呼んでいます。 ハイブリッド心理学は、その先に、私たち人間の心の神秘を見出します。ポイントは3つあります。 1つは、そうして現われる「魂の愛への望みの感情」は、現実における壁を越えて心に湧くものであることに対応して、もはや「現実の世界」のものではないような感情になること。 2つ目に、その「魂の愛への望みの感情」を自分の心の中で十分に受けめ尽くした時、私たちの心から、それ以前の「自意識」で揺らぐ惑いや苦しみが消え、すがすがしく爽やかな心の状態が訪れること。同時に、自分が以前とは違う存在に変化したかのような、心の変化の感覚が訪れること。 この新たな感情を「命の感情」と呼んでいます。 ただし一度のこうした体験で起きる変化は、人生の全体から見ると微量な変化です。しばしば、以前と似たような「自意識で揺らぐ惑いや苦しみ」がぶり返すかのようなことも起きるでしょう。 しかし生涯にわたり「魂の愛への望み」の感情を自分自身の心の中で受けとめる体験を積み重ねると、その都度都度に現われる、新しい「命の感情」が、一つの大きな変遷へと向かうのです。 これが3つ目のポイントです。それは「未熟の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、この心理学が「命の生涯」と呼ぶ変遷です。そしてこの変遷をたどるごとに、私たちの心は豊かさ、つまり人に与えられるものとしてではなく自分自身の内側から湧いてくるものとしての「幸福感」を、増大させるのです。人生の答えは、実はここにあったのです。 ・「現実世界における前進」と「魂の世界における前進」 これが先の「「魂の感情」の事例について」で述べた、心を変化させる原動力としての「基本的な次元」と「別の次元」という2つの組み合わせです。 つまり「基本的な次元」として、「感情と行動の分離」の姿勢と実践で、まずは「自分」という「自意識」も働かせた通常の「心」で、「現実世界における前進」を目指して進みます。そこで何かの壁に出会い、さらに壁を越えて「望み」に向き合った時、そこに「自意識」が薄れた「魂の感情」が現われ、自分自身の心の中で受けとめ尽くした時、心が変化する。これはもはや「現実世界」で起きることではない、「魂の世界における前進」と言えるものになります。 そして心の変化は、この「魂の世界における前進」でのものの方が、大きく深いようなのです。そこには、まさに「自分」という意識が崩された先にある心の変化として、「“自分”というものは仮りのものにすぎない」と感じ取る「永遠の命の感性」という、心の成熟のゴール領域を特徴づけるものも訪れるものとして。 こうした「魂の世界における前進」として「浄化」「成熟」「超越」といったものがあることを、『概説』でまとめていますので参照頂ければと思います。 そうした「魂の世界における前進」に向かうためにも、私たちはまず「現実世界における前進」へと全力で向かわなければなりません。基礎となる心の足場の全体が、そこで築かれるからです。 しかしそこで何とも一筋縄でいかない状況が始まります。「現実世界における前進」に向かい、うまく行っている間は、外面的な満足が得られるのでいいとして、「魂の世界」は訪れず、心の豊かさは実はあまり増大しないままでいたりします。そう聞いて最初から現実世界でうまく行かないのがいいのかなどと考え始めると、もはや全ての前進ができなくなるでしょう。基礎的な心の足場が失われるからです。 つまり私たちは「自分」という「自意識」を働かせる「現実世界」の「心」で、常に精一杯生きるしかないのです。そしてそれとは別に、「魂の世界における前進」というものがあるということも、心の懐に持つ至玉の知恵として、持っておくことです。 それは訪れる時、「自分」という意識の外側から訪れます。私たちにできることは、その時にしっかりと目をそちらに、つまり「現実の世界」ではない「魂の世界」に向けることです。すると「自分」を超えたものが、自分の心を最も深く大きく変化させるのが分かるでしょう。だからこそ、自分の中にある、自分とは別のものを感じ取るという、「永遠の命の感性」へもつながっていくわけです。 このように、「自分」の努力では向かうことができないものが、最終的に「自分」を変化させる。これは結局、人間の「心」がその大元の「命」からはがれた薄っぺらいものになったという意識構造において、仕方のないことなのだというのがハイブリッド心理学の考えです。 ・アドバイスの考え方 さて、「魂の感情」の位置づけについて少し詳しい説明を入れましたが、「取り組み実践」としては、まずはもちろん、「感情と行動の分離」の姿勢と実践において、「ただ流し理解する」という内面感情側の取り組みになります。 その指針を、一言でこのように言えるでしょう。 もしその深く純粋で「命」の重みさえある「愛への望み」の感情が、現実行動に移し得ないものであるのならば、むしろそれこそが心をより豊かさに変化させるものであること知り、「現実世界」のものではなく、「魂の世界」のものとして、深く、しみじみと、自分自身の心の中で受けとめるが良い、と。 この至玉の知恵を心に入れることができずに、深く純粋な「愛」への望みで始まった心が、やがて「憎しみと破壊」という、至玉の知恵の先にある「心の豊かさ」とは真逆の道にそれてしまう姿を、私たちは嫌というほど目にします。 始まりにおいては「純粋な愛情」もあったであろうものが、「現実」におけるちょっとした妨げに出会うごとに、自分はこんなに相手を思っているのだから、相手を手に入れなければならない、それができなければ自分は終わりだという邪心に、心が乗っ取られてしまうのです。そしてそれを阻む、愛していたはずの相手に、「憎しみ」を抱いてしまう。その最も悲劇的な結末が、「ストーカー殺人」だと言えるかも知れません。 「気持ち」を伝え合い、分かり合い受けとめ合うことを偏重するのが、現代日本の文化だと言えるかも知れません。小説やドラマで目にするのは、「魂の感情」で始まったであろう出会いが、いかに「現実関係」、しばしば性的関係として成就するかに躍起するばかりのストーリー。時代が違えば、自分の内面感情を表に出すことを良しとせず、自分自身の中で受けとめる忍耐の先にある心の豊かさを説教するものもあったであろうに・・。 そのどちらが、つまり気持ちを伝え合い受けとめ合う、それとも感情を表に出さずに自分自身で受けとめるだけにする、そのどちらが良いのかという択一論は、私はしません。 重要なのは、その両者の価値を知り、人生の重要な場面において、今自分が成長するために成すことのできる最善の行動を、その両方の選択肢を持った上で、自分で選べるということです。それができたならば、そのどちらの行動法においても、「成長」がまた一歩成されることに間違いないでしょう。 さて、No.003さんのケースも、そうした心の知恵を持たないまま、道を踏み外しかけて相談を寄せられたものと言えます。ご相談内容の紹介を続けましょう。
私はこの、No.003さんの「この世に心から愛する人と愛し合い触れ合って生きていくということがあるなら、そういう人生を生きたい。そう夢見ることが、私の心の安定になっています」という言葉に、私自身をも人生において一貫として導いた、「魂の愛の世界」への「真実の望み」があるのを見ます。 同時に、だからと言ってそうした「真実の望み」を心に呼び覚ましてくれた相手とこそ、「現実生活」をも共にすべきだという考えを無理に押し進めた時、その先にあるのは、互いの「豊かさ」ではなく、真逆の、「現実生活の破壊」ですらあり得ることも。 そこには、人間という存在の宿命があるようにも感じられます。私たちの「魂」が、No.001さん事例の中で「特別補足解説:「愛の成り立ちと自己操縦心性」の理論」でもまとめたように、愛する相手と同じ感情を感じ、同じところにいて、ひとつになるという「一体化」を望んでこの世に生まれた存在である一方、それを「現実」において阻む最大の妨げとは、私たち人間が「自意識」を持ち、自己の独自性と自由を失うことを良しとしない、それぞれが別個の人格を持つ存在にもなることにあるように思われます。 ハイブリッド心理学は、その相容れない2面の両方をしっかりと見据える先にこそ、答えがあると考えます。 どちらかを取り他方を捨てなければならないものなどとしてではなく、そもそもそれは「どちらを」と対比させることなど不可能な、別の世界のこととして、見据えるのです。そしてそこにおいて、「現実の世界」ではない「魂の世界」における「愛への望み」を自分自身の中で受けとめ尽くした時、私たちの中で「心の豊かさ」が一歩増大し、私たちは別の存在になるという、至玉の知恵を持つのでです。 それによって私たちは、相容れない2面に葛藤する存在であることを脱した、別の存在へと変化するのです。 No.003さんの場合、「現実の世界」と「魂の世界」が、対立する2面であるかのように、すでに目の前にあると言える状態です。 アドバイスは、その2つが「別の世界」のことであり、そもそもどちらを取るべきかという問題そのものが存在するものではないのだ、ということを伝えることが主旨のものになりました。 1回目アドバイス 2008.9.7(日)
ということで、アドバイスの骨子としては、「現実世界」と「魂の世界」というものが別々にあり、まずはそのそれぞれを支えてくれるご主人と淳さんの両者に感謝するのが良い、淳さんとの関係については、当面は何かを変えようとしなくとも良いだろう、というものになります。 なぜそれが結論になるかの補足をここで書いておくならば、「現実世界」での関係は、あくまで「魂の感情」は除外視して考えなければならないということです。あくまで現実的で具体的な「喜びと楽しみの共有」さらには「生活の共有」として考えなければならない。そうしたものとして、No.003さんにとって淳さんは、今は現実関係を検討する相手ではないということになります。 こうして最初から「魂の感情」への向き合いをアドバイスした、稀な事例と言えますが、「はじめに・「取り組み実践」とメール相談」の中で、メール相談でまず優先的にアドバイスするものとして、「「取り組み実践」の歩みの「深さ」はどこにあるのか」で「内面ストレスを減少させながら外面問題をうまく解決できるような、なるべく即効的なポイント」と述べたものが、実はこの事例でも同じであることを理解頂くと良いでしょう。 心の外面にある現実問題について、しっかりと答えを出すこともしているわけです。まずは今のままでいい、と。 そうした「外面の答え」と合わせて、それだけだと収まりがつかないことにもなり得る内面感情について、心の内部の壁を越えた先にある、内面感情のための全く別の行き先へも目を向けさせた、ということです。 「魂の感情」によって私たちの心がすがすがしく洗われると言っても、外面の現実問題が片付かないまま心がさっぱりするというものではないことにご注意下さい。 もっとも、本当に深い「魂の感情」に出会うとは、同時に、外面問題については何もしなくていい、そもそも、今まで動揺していた外面問題が、もはやこの「魂の感情」に出会った自分には、問題として存在しなくなったのだという答えを告げるものに大抵なります。 そして実際No.003さんも、この答えに、私のアドバイスを足場に、一歩踏み出すことで至ることができる位置にいたということになります。 No.003さんからは、大きく切り替わった心境が伝えられてきました。 ご相談者返信(抜粋編集) 2008.6.8(日)
こうしてNo.003さんのご相談における当面の差し迫った問題は、1か月間の「期間相談」での最初のアドバイスメールで大方一段落し、残りの期間で、ご相談の中にあった「自分の性格が災い」して人間関係がうまくいかずといった問題、そして性格を好ましいものに改善したいといった、幅広いテーマについてやり取りするものになりました。 これは最初にご紹介した「No.001 パートナー不信危機を乗り越え、生き方の全体に向き合う」の事例と似た流れだということになるでしょう。「生き方の全体」については、また似た話も出てきます。 そうした残りの部分にについては、また別途「テーマ別事例」の方で、続編として紹介できればと思います。 ここでは、No.003さんの返信の中で、引き続き自身の課題について感じるものを伝えてきた部分を紹介しておきましょう。
2015.6.10 |