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No.004 「魂の感情」の湧出体験(読者報告) | ||||
カテゴリー: 魂の感情への向き合い |
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概略 お便り内容 考察( 「人間の成長の歩み」 ) 概略 「代表的事例」の最後に、もう一つ「魂の感情」への向き合いの事例を紹介したいと思います。 これは「メール相談」ではなく、私の本のご購入者からの体験報告メールです。まずはその分、 ・「魂の感情」が、No.003さん事例のように私がアドバイスして積極的に目を向けさせ、その結果「自分の中」にある感情として体験されているのとは違い、用意することなく、突然に、いわば「自分の外部から」訪れたものであるかのように体験されている。 ということが良く分かる例だと言えます。 No.003さん事例の補足解説「「現実世界における前進」と「魂の世界における前進」」で、「それは訪れる時、自分という意識の外側から訪れる」と書いたものの、鮮明な例がここにあると言えるものです。 また次のような点にも着目して頂くと良いでしょう。 ・No.003さん事例での「魂の感情」は「愛を望む気持ち」という色合いのものであるのに対して、このNo.004さん事例での「魂の感情」は「愛を得られなかった嘆き悲しみ」という色合いのものであること。 「魂の愛への望みの感情」は、およそこの2種類の方向の色合いになると言えるでしょう。 そして「魂の感情」は、「自意識の望み」が叶えられない場面においてこそ現われることにおいて、後者の方がより濃く、それを流し尽くした後に心に起きる変化が大きいと言えるかも知れないものになります。 この事例はその大きな流れを報告するものではありませんが、それは最終的に、「愛を得られなかった魂の悲しみを自分自身で受けとめ尽くすごとに、心はむしろ逆に、来歴において愛を十分に得た人のものであるかのように、自分から愛することができるという豊かさを増してくる」という、私たち人間の心の神秘を示すものになるのです。 そのように、用意することなく「自分」の外部から訪れる「魂の悲しみ」に出会い、それを受けとめることで心が変化する。それが分かりやすい例ということで、まずはその報告メールをご覧頂きましょう。 お便り内容(抜粋) 2012.2.29(水)
No.004さんの場合、この「魂の世界での前進」が、「現実の世界での前進」のための大きな足場にもなったようです。 およそ1年後、引き続きのお便りを頂きましたので、合わせて紹介しておきましょう。 お便り内容(抜粋) 2013.1.8(火)
考察 No.004さんの心の変化の流れで興味深いのは、彼女を得るという外面的満足よりも、「愛が得られなかった」という「魂の悲しみ」の湧出体験の方が、心の安定と豊かさの方向へと変化させているらしい様子です。 もちろんこれを「恋愛が成就しない方が心が豊かになる」「外面的満足が得られない方が心が豊かになる」などと短絡的に一般化などすべき話などではないことは言うまでもありません。そんな観念の下で、「現実世界」と「魂の世界」における前進の足場の全体が損なわれてしまうことは、No.003さん事例中の解説「「現実世界における前進」と「魂の世界における前進」」で述べた通りです。 No.004さんの心の変化の流れも、まずはメール相談ではない自己前進力を背景にしたものであり、だからこそ体験し得た、濃い「魂の悲しみ」の感情であったと言えるかも知れません。これと似たものを、私の『悲しみの彼方への旅』でも、「胸から血を吐き出すような涙」と描写したように(P.204)。 いすれにせよ私たちにできるのは、まずは「自意識」も働かせる通常の「心」で、外面行動は建設的に、内面感情は開放して流し理解するという「感情と行動の分離」の姿勢と実践で、目の前に見える「望み」に向かって、まずは全力を尽くして生きることです。そしてその歩みにおいて、「自意識」で描いた「望み」が壁に突き当たった時にこそ、そこに「魂の感情」という真実の感情が現われ、それを受けとめ尽くすことにこそ、私たちの心の豊かさへの変化があるという、至玉の知恵を持っておくことです。 その歩みの先に、大きく深い「魂の感情」は、私たちが意識的にそれを感じようとして感じるというよりも、何らかの人生の節目において、「自分という意識の外側から」やってくるように、訪れるでしょう。その片鱗が心の視界に入った時、しっかりとそれを見つめるのです。 私たちはそこでまた、「魂の感情」というものが、往々にして「今までの心の崩壊」の中で感じ取られるものであることへの理解を、このNo.004さん事例をその一例として持つことができるのではないかと思います。 No.004さんの2つ目のお便りメール中に「よりによって車の運転中に心の崩壊が起き」とあるように。どういうことかと言うと、そこで体験したあまりにも濃い「悲しみ」などないことを装っていた、はりぼての心が、崩壊したわけです。もちろん人に対して装っていたのではなく、自分自身に対して、そんな悲しみなどないと装っていた心が、崩壊したのです。そして「魂の感情」という真実の感情が現れ、心が別のものへと変化します。「心の死と再生」というテーマが、ここにあります。 ・「人間の成長の歩み」 そこで起きる変化は、これもNo.003さん事例中の解説「「魂の感情」への向き合い」で、「命の生涯」の変遷として述べた、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という流れに、沿ったものになります。 No.004さん報告にあったそれとは、「自意識」によって愛が勝ち負け勝負であるかのように歪み、相手を得ても心は満たされることなく、自分自身の心に向き合う時間の中で、やがて真実の感情が現われる、というものだと言えるでしょう。これが「未熟な愛」から旅立ち、その先に向かうという流れの一こまであることを、感じ取ることができるのではないかと思います。そこにまさに、「人間の歩み」がある、と。 すでに紹介した3つの事例も、同じようにです。No.001さんとNo.003さんは、全て分かり合える相手を求めるのではなく、互いが別個の人格であることを認めた「愛」へと、「現実世界における前進」として、あるいは「魂の世界における前進」として進む先を見出し、No.002さんは「仕事のスキル」という主戦場を制して「自尊心」の確立へ。 引き続き向かうべき、「成熟の愛」のために・・。 その歩みは、最も大きな視点から、こう言えるのです。 現実世界における前進を基本的な足場として、そこで壁に突き当たることで、時に「心の死と再生」を伴いながら、「魂の感情」に出会うことで「魂の世界における前進」をも歩む。これを繰り返しながら、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」の変遷を歩む。 これが、「人間の成長の歩み」なのだ、と。 2015.6.17 |