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はじめに・「取り組み実践」とメール相談 掲載方法について 島野のメール相談活動 代表的事例 テーマ別事例 |
No.005 不安障害の底にあった「怖がる価値」 考察 |
1-2回目アドバイス:仕事の外面的調整からのアプローチ 3回目アドバイス:内面側の糸口探し-1:対人不安と対人思考 4回目アドバイス:内面側の糸口探し-2:「感情依存」と「価値観」 5回目アドバイス:「自分を変える」とは 6回目アドバイス:「感情と行動の分離」の基本へ 考察:自己変化への心の芯と「自己分析の技術」 自己変化への心の芯 「自己分析の技術」 こうして、No.005さんのメール相談は、「恐怖心を感じてはマズい、感じなければ行動できる」という表の意識の裏腹で、「恐怖を感じる価値」が無意識深層で抱かれていたこと、そして「今は恐怖からまた逃げ出すことを自分に許すことが答えになるかも知れない。僕もそうした決断を何度もして今に至った」という私の言葉にぐっと来るものを感じたという、主に2点の気づきをとりあえずの「収穫」として、約1か月間の期間を終えることになりました。 相談の主テーマであった「パニック不安」はどうなったのか。軽減されたのか。 言えることが2つあります。一つは、このメール相談内においては、それは成されてはいないということです。これは最初のごく数回のメールやり取りで「視線恐怖」が消失したNo.002さん事例で、はっきり本人から「そうしたものを感じなくなった」という言葉が伝えられている、といった兆候が、No.005さんのメールにはなかったことから言えることです。 それでももう一つ言えることとして、No.005さんの中で、パニック不安がこれから徐々に減少していくであろう歩みが、多少とも準備されたのを、私は感じるのです。実際にそれがこの後どのような期間を要してどの程度の軽減克服に至るような話なのかは、かなり未知数だとしても。 ・自己変化への心の芯 克服の歩みのために準備されたものとは、一言で、「自己変化のための心の芯」に、No.005さんが、つながったと言えるようなことです。 それが上述の、このメール相談における2つの「収穫」に、表現されているということです。 その一つは、「自分を知る」ということです。今まで気づかなかった、自分の中の「怖がる価値」という深層感覚に気づく。 もう一つが、その本質が何であるのかが深く、そして重要なものです。「怖さからまた逃げることを自分に許すことが答えになるかも知れない」という私の言葉に、「ぐっと来る」ものを感じた。私はこれが、「自分を知る」という準備に増して、重要なものだと感じます。 それは一言で、自分の「本心」に立って、あるいは立ち帰って、自分の気持ちを感じ取るということです。 逆に言えば、この時までNo.005さんは、自分の「本心」に立って感じることをしないまま、自分を変えることができないかと、思案を空回ししていたということです。この恐怖心を消せれば行動できるのに、と。それを、自分がどのように、何を怖がっているのか、怖くて行動できないでいるのかを、ありのままに感じ取り、自分を許すことから始める。 6回目アドバイスでも触れたように、それが『入門編上巻』で「弱った草木を育てる」と表現した姿勢であり(P.66)、『入門編下巻』ではその対照となる姿勢を、「植物の種を彫刻刀で削って、何か形の良いものを作ろうとすること」だと表現したものです。植物を育てるとは、それとは根本的に違うことであり、種が育つための条件を準備したならば、あとは種をその中に放置することだ、と(P.203)。No.005さんはこれまで、自分という種を、彫刻刀で削って形の良いものを作ろうとする姿勢の方にいた、ということです。 実際No.005さんがこの後どのようにパニック不安の克服に向かうことができるか。 そのためには、「5回目アドバイス」の「特別補足解説:自分を変える要ポイントと「感情と行動の分離」」で述べた、「現実を見る目」と「意志」という心の基盤を、より強めることが課題になってくるでしょう。その辺がこの後実際どう前進できるか、未知数になってくる部分でもあります。 「現実を見る目」と「意志」は、どちらかと言うと心の外部に向ける心の基盤であり、「自分を知ること」や「本心」は、心の内面に向いた心の基盤です。もちろんこれら全てが整った時、前進への力が生まれます。 いずれにせよこのNo.005さん事例は、行動法や価値観、内面感情分析といった取り組み実践の表舞台テーマがすぐには突破口糸口にならず、それよりも「自分を変える」という根本姿勢について取り上げることになった、数少ない事例です。その話題の中で、「怖がる価値」という深層感覚に気づくという、細かい内面感情分析での前進、「ぐっと来た」という「本心」への立ち帰りという、心の基盤そのものにおける前進が得られたものとして。 他のメール相談事例では、心の基盤が元から揃っているような場合は、取り組みの表舞台テーマがそのまま功を奏する、あるいは心の基盤が整っていないと表舞台テーマが功を奏さないで終わる、というどちらかに分かれてしまう傾向があります。その点で、このNo.005さん事例は、代表的事例に順ずる参考例と言えるのではないかと思います。 ・「自己分析の技術」 以上を踏まえて、「自己分析の技術」とは何なのかという問いについても、私から今言えることをまとめておきましょう。 1-2回目アドバイスへの返信の中で、No.005さんが「やはり私は「精神分析」できる技術を身につけたいです」という言葉を出しておられたことへの、答えといえるものです。 私の考えはこうです。それは結局、メール相談で私がやっていることを、それぞれの方自身で行うということ、そのものなのだ、と。 メール相談でやることとは、「はじめに・「取り組み実践」とメール相談」の「人の言葉で変われるのは「すでに準備されている潜在的成長力」の引き出し」で言った通りです。つまりメール相談で行うのは、その人にすでに準備されている成長を、引き出すということを行うのだ、と。 「自己分析」で行うのも、それと同じことなのだ、ということです。つまり、自分に準備されている成長を、自分自身の言葉で、引き出すのです。 そしてそれが「自己分析」によるものという言葉でわざわざ言うだけのものになるというのは、その「自分に準備されている成長」というものが、その時のその人自身の表面の意識からは見えず、「自己分析」によるその引き出しが、その時のその人自身の意識にとっても、予想だにしない、期待だにしない結果を生み出すことにおいて、その作業を「自己分析」と呼ぶのです。 そうではなく、ある程度あらかじめ予想、そして期待される方向で問題解消が図られる流れで行われる自己向き合いもありますが、これはあまり複雑なものではなく、「自己把握」程度の言葉で指すのが良いかと思います。No.002さん事例で視線恐怖が消える際の、自分自身の姿勢についての振り返り把握などがこれに該当します。 それよりもかなり複雑な、今まで見えてなかったものが見えてくる、そして予想だにしない答えが出てくる。そうしたものを「自己分析」と呼ぶのが良いかと。 それを「技術」と呼べるようなものとして身につけるとはどういうことか。 大きく2つ言えることがあります。 一つは、「自己分析の技術」の中身を占める大部分は、「自己分析」そのもの以外にあるのだ、ということです。 それは一言で、「成長」に向く姿勢、そしてそれによって人生を生きる歳月そのものです。それが「準備されていく成長」を、その人に生み出します。それがあってこそ、「自己分析」の作業が、「自己分析による成果」と呼べるような変化を、その人の心に生み出します。 それは結局、「はじめに・「取り組み実践」とメール相談」で、「学び」としてまとめた中の、まずは「実践の学び」の最初の5テーマ、「感情と行動の分離」「破壊から自衛と建設へ」「行動学」「価値観」「悪感情への対処」といった実践的内容、またその支えとなる、「歩みの学び」の2番目の「心の基盤」といったものについて、日々の生活と人生の中で向き合い、納得理解を得て向かう歩みの、全体だということになります。 それなくして、悪感情や感情動揺について、何か鋭いメスで分析して見えない原因を突き当て解消させるというような、単独のテクニックとして「自己分析」はあるのではない、ということです。 そうした歩みの中で、「準備されている成長」が表の意識に見えないまま、悪感情や感情動揺にはまりもがくような場面こそ、「自己分析」の出番になります。 そこで行うこととは、一言で、表面の悪感情や感情動揺の下で動いている心の歯車を見極めることです。 No.002さん事例で「心の細かい掛け違いの解消」として触れたもの、そしてこのNo.005さん事例では「心の大きな掛け違い」と述べたような、「心の掛け違い」のようなものに気づくことが、決定的に重要になります。それが、悪感情から抜け出ようにも身動きが取れないような、見えないつっかえ棒のようなものだからです。 そこで起きることとは、そうした「心の掛け違い」が「自らを欺いた心の状態」とも言えるものを生み出すのですが、私たちが感情動揺から抜け出そうと「自己分析」を開始する時、私たちはまだ「自らを欺いた心の状態」にいるのですから、「自己分析の成果」への期待も、やはり自らを欺いた期待になるわけです。No.005さんが、とにかく恐怖心が消えればいいと考えたように。 その結果、精緻な「自己分析」は、自己分析への自らの期待をも、覆すような結果へと向かうことになる、ということです。ここに、「予想だに、そして期待だにしない結果」が生まれるというゆえんがあります。 それを「自己分析」という特別な作業の「技術」として行うとは、その一つは、述べた通り、「自己分析」の作業そのもの以外の、成長への姿勢と実践、それを携えて人生を生きる積み重ねを、いかに持てるかということです。自分自身の成長を、準備するために。 そしてもう一つ、「自己分析」を「技術化」する、重要なものがあります。 それはずばり、自分の感情を「言葉」で精緻に書く、という作業です。まずは日記のような形になるでしょう。 その作業によって、「技術」として行われる、高度な「自己分析」が可能になります。 どいうことかと言うと、日常生活では良く見えないまま歯車が回って流れていく心の動きの、細かいヒダをしっかりと確認し、その一つ一つの要素内容を、「しっかりと心に刻む」という特別な意識作業を経て、再び上述の、成長への営みに向かう。それによって、「心の掛け違い」のように自分を欺いていたもの、また人生で置き去りにされていた感情、そうしたもろもろを心に刻んだ上で、自分が何にどのように動揺しており、そこから成長に向かうために自分は何を成すべきかと問うた結果というのは、通常の生活で私たちが持つ自己判断とは別種の、いわば自分自身への医学的対処をほどこしたような特別なものになるのだ、ということです。 そうしたものとして、いかに「言葉」というものを、自分の感情の解きほぐしのために使えるか、書けるかが、「自己分析」の「技術」の核になるものだと、私は感じています。 実はこの「自己分析の技術とは」というテーマを書くのとちょうど重なる形で、私はこの一週間ほど、自分が人生で感じてきた感情と、自分のこの心理学の執筆への姿勢について向き合う時間を、偶然持っていました。毎日数時間、日記に向かう時間を持ち、自分の感情を細かく、感情のこの部分は一体どういうことか、と時間をかけて「言葉」を探り、それを山岳クライミングで岩に打ち込んだ一つ一つの杭のように、それを足場にしてさらに次へと進み、新たなものが見えてくる。そして最後に、自分が向かうべき新たな姿勢を、確信の中で見出し、それが出口になります。 それは「成長」の一こまであることにおいて、今までの私自身の心からも見えなかった、予想だにしなかったものです。 そのように、時間をかける作業になります。そうして「自己分析」とはこういうことなんだ、と感じた考えを、以上まとめた次第です。 その一つ一つが、私たちの心のドラマにななり得るものだと感じます。その豊富な事例を、まずは私自身のものとして、今後展開予定の『日記ブログ』で紹介していこうと思っています。 最後に、このNo.005さん事例をまとめるに当たって、私自身が抱いた一つの問いに触れておきましょう。 No.005さんの場合、今まで気づかなかった「怖がる価値」に気づいたのが一つの前進として、これはNo.005さんに、その「怖がる価値」については脱することに向かい得る潜在的成長が準備されていたことにおいて、その話がヒットしたのだと言えるでしょう。 そうした前進ポイントを、No.005さんは自分では見出せなかったわけです。私のメール相談に依存した形です。 ならばやはりこうしたメール相談のような、手前味噌ですが経験豊富な援助者の手助けが、それぞれの方が自らに準備されている成長を引き出すポイントが分かるために必要なのではないか。 少なくとも今の私自身では、そうは考えていません。それは単に、自己分析などを含めた取り組み実践のために役立つ実践的な情報が、必要な時にすぐ参照できるよう整理された形にはなっていないのが、あまりにも大きなネックだと感じています。沢山の書籍を読むことで、自己分析に必要な事前知識をうまく心の懐に全て整理しておくというのも、あまりにも至難です。 そのため私は、これからの執筆作業の最大の取り組みとして、ハイブリッド心理学の全ての知識を、キーワードなどから手早く参照できるものを、『ハイブリッド心理学辞典』(詳細情報インデックス集)として整備していきたいと思っています。 2015.9.28 |