付 感情の科学論
(2)科学における「客観性と主観性」
次に問題になるのが、「どう観察したか」で、科学においては「客観的」であることが求められます。
客観的であることの反対は「主観的」ということであり、その人だけ勝手に思いこんでいるということです。
たとえば「海に人魚がいる」という知識が、実際に見たということであったとしても、海獣を見た結果であったりします。
それはその人が勝手に思い込んだだけで、全人が間違いなくそのように観察できるという情報をきちんと揃えていないということです。
客観的観察ということは、人の5感(視・聴・臭・味・触)、中でも視覚を最も重要な基盤として用いています。
ところが、これをさらに突き詰めると、「視覚は主観現象ではないのか」という問題が出てきます。
客観的ということを、「人間の主観を超えた自然法則」とまで言うと、論理の破綻が起きます。
なぜなら、人間そのものを取り去ると、人間の視覚によって捉えられた自然界の姿そのものがなくなるからです。
どこまで行っても、「人間の頭の中で」、知る対象と知る主体という2極が存在して、自然科学が生まれているということです。
「完璧な客観性」を求めて、「人間の視覚をも超えた客観的な物の姿形」などと言っても、言葉そのものがもう矛盾しています。
もう何の意味もありません。
つまり自然科学は、人間が視覚などで見る行為という主観を前提にして、そこに映された物事について作られたものです。
この辺の話で良く言われる例として、「私の見る赤とあなたが見る赤が同じ赤であることを証明できない」というのがあります。
確かに赤色物体の放つ波長を測定して、同じだと言うことができるかもしれません。
しかしそれをどのような色として見たのかは、それぞれの主観に閉じているので比較しようがありません。
実際、色弱という視覚障害があると、見え方が違ってくるのが知られています。
ただこれは理由があって見え方が違っているので、基本的には万人の見る世界は同じ世界であるという暗黙の了解があるわけです。
主観性と客観性は、必ずしも厳格に切り離せるものではなく、多分に相対的だということになってきます。
ほとんどの自然科学では、こんなことは忘れても問題はありません。理論そのものには「主観」は含まれていません。
ここまでは主に哲学の話ということになります。
しかしながら、「ほとんどの」と付け足したのは、そうでない科学の領域があるからです。
科学理論そのものの中に「人間の主観(観察)行為」が組み込まれてくるのです。
物質の究極の姿、それが人間の意識によって捉えられるという、その接点そのものを扱おうとするかのような科学、それが量子物理学(量子力学)です。
2003.7.20