付 感情の科学論
(4)意識はどこにあるのか−島野の仮説−
自然科学、つまり物質科学は、私たち人間の意識、特に視覚により映しだされた世界像に関する知識体系です。
物質の究極の姿を突き詰めると、位置と運動量が未分化な「ある状態」が波動関数として存在し、人間の意識という観察行為により、位置や運動量の物理量が発生します。
これが、「意識から物質を見る」方法の縁(へり)です。
では今度は、「物質から意識が生まれる」時のへりの在りかを見たいと思います。
私たちは、物質の複雑な構造化現象として、生物や人間の意識活動を理解することができます。
原子から分子が構成され、有機化合物ができる。
有機物とは、「燃えるもの」であり、炭素を主な土台にして、空気中の酸素とエネルギー反応を起こす物質です。
これが特有の構造化によって、代謝機能と自己増殖機能を備えたものが「生命」として誕生したわけです。
生命体は、単細胞生物から多細胞生物へと、そして植物系と動物系が生まれ、後者から神経系による高度な活動を行なう生物が生まれました。その頂点が人間になります。
人間の意識現象は脳神経によることが確実な事実として知られています。
同じように脳神経を発達させた動物には、その発達度合いに応じて意識が存在することを想像できます。
もちろん、人間以外の動物にも意識があることを「実証」しようがなく、そう「推察」するだけですが。
では、脳神経では何が起きているかを、物質科学の目で突き詰めます。
詳細は省きますが、脳神経(ニューロン)の活動は、電気的興奮です。
ニューロンのネットワ−クの中で電気的興奮が駆け巡っているのが、意識現象なのです。
ここまでが物質科学の目から見た「意識の姿」です。これはもう科学常識と言えると思います。
さて問題は、そのどこに意識があるのか、ということです。
今述べた中には、「意識が起きる場所」の話はあっても、意識そのものの話は全く出てきません。
このことを下のような絵にしてみました。
左側が正真正銘の人間で、目から入った光信号が脳に伝達され、脳の視覚野で電気興奮が起き、見たものが映し出されます。
ところが、そのとき外界のものを「意識として見ている」ことそのものについては、やはり何の説明もしていません。
もし、精緻な技術で、人間と全く同じような神経機構を備えたロボットを作るとしましょう。絵の右側です。
脳も人間そっくり、ニューロンのひとつひとつまで、それを電気興奮が伝わる仕組みまでそっくり作ります。
このとき、ロボットは目から入った光信号を「意識として見ている」と言えるでしょうか?
恐らく、この問いにどう答えるかに、意識論そして生命論の本質が現れるでしょう。
いくつかの答が出ると思いますが、はっきり言えることが一つだけあります。
物質科学からはその答えは出ない、ということです。
これは多少「弁証法」的に考えても証明できるでしょう。
そもそも物質科学は、人間の視覚意識を前提とした後に作られたものであって、前提そのものを説明するものは全くありません。
従って、物質科学が意識を説明することはあり得ません。
では科学は意識について何も言えないのかというと、そうではなく、「物質の地平を越えた科学」がその役を持つでしょう。
先に説明した量子物理学です。
量子的現象は、電子や光といった現象において、人間の意識との接点を持ちます。
上の絵でも、脳神経で電気興奮が起きていることは人間もロボットも一緒です。
電気興奮の源である電子は、人間の意識により「物体」になります。人間の意識がなければそれは「不確定」です。
人間の場合も、ロボットの場合も、この絵には書かれていない「観察者」がいるから、このように見ることができるのです。
ここまでは一緒です。
だが、人間の方には意識はあるだろうし、ロボットには多分ないでしょう。「いや、そこまで行ったらロボットにも意識が生まれる」と考える人もいるでしょう。
いずれにせよ、「物質」ではない「意識」というものがある。この違いに対応した、もうひとつの現象が実は既にこれまでの説明でも「仮定」されていました。
それは「生命」です。
脳神経における電気興奮伝達が意識現象として起きるか、それとも単なる電気伝達として起きるか。
この違いは、それが「生きていること」として起きているのかどうかを考えることに、ほぼ対応するでしょう。
これは、より単純な神経を持つ生物、たとえば蟻などを想像するともっと実感が湧いてきます。
蟻をつかまえようとすると、一目散に逃げます。あたかも「恐怖」に駆られているようであり、単なる電気仕掛けとはやはりどうも根本的に何かが違うような気がするのです。
やはり、「目からの信号が処理されて運動が起きている」だけとは見えず、「生きていて、敵に驚いて逃げようとしている」と見えるわけです。
そして、「生命」「生きている」とは何かについても、物質科学をおさらいすると、やはり根本的な説明が存在しないのです。
代謝現象、自己増幅..それも結局、この現象の「物質的特徴」を説明しただけのものであって、私たちがそれを「生きている」ものと何故見るのかの説明になっていません。
ここで多少答えに近いものが見えてきたと思います。
「生命」があるとは、それをそのように見る「意識」があることと、ほぼ等価であるということです。
こうなると、生命はもはや「物質科学」の地平にはなく、「意識主体」側にお引越しです。
ですから、生命を物質科学が解明することはあり得ないでしょう。これが私の考えです。
同様に、物質科学の範囲内で生命を作り出すことは不可能です。もし出来たとしても、そこには別のものが加わっています。
ある表現を使うならば、「神の手」です。
ちょっと宗教がかった思想と、実はこの辺で交わりが出てきます。
完全に人間知を超えた世界観の問題です。
現代科学は、この「神」の領域にも踏み込んでいます。それが量子宇宙論であり、次で取り上げます。
さて、物質科学では説明できない「意識」と「生命」。
「意識がどこにあるのか」への結論を、物質の地平を越えた量子力学の観点から考えましょう。
意識は脳神経の電気興奮伝達である。電気興奮は、「意識」により「物質現象」として捉えられる量子的現象である。
それが生命現象として起きている時、その電気興奮そのものが意識である。
その電気興奮から物質現象の側面を除いたものが意識そのものである。
つまり、生命活動をつかさどる電気興奮における、「量子論的ゆらぎ」が意識である。これが私の考えです。
「ゆらぎ」とは不確定性における「確定」と「未確定」の差の動きとでも定義できるでしょう。
この考えより、意識現象は非常に広範囲にあるものと考えています。
蟻程度はもちろん、プラナリア程度でも、神経型の電気現象があれば、そこに意識があると考えています。
もちろん人間同等の意識などではありません。
電子ひとつに「意識の素」ひとつがあるようなイメージで、その量と構造が進化するに従って、意識の清明性が増す、という考えです。
電子レベルで見るならば、意識は宇宙における星と星間物質のように散在していることになります。
世界の全てに意識が漂っている、人間を超えた意識というものがあるかもしれない。そんな神秘論との接点が見えてくるように思います。
2003.7.20