島野の心理構造理論
付 感情の科学論

(7)感情の科学

 では最後に、人間心理への科学的アプローチというテーマについて考察をまとめたいと思います。
 あくまで「内面の心理の研究」であって、「の研究」でもないし、「観察可能な行動の研究」でもない、人間心理の研究方法です。

研究対象を履き違えた行動主義心理学?

 まず最初に、現在正式に「心理学」と呼ばれているもの、つまり大学で「心理学」として教えているものについて。

 現在の心理学は、主に「行動主義」と呼ばれる考え方で作られているものです。
 そこでは、人間の感情などは客観的観察ができないので、観察できる行動を研究対象とすべきである。
 そして実験によって、行動の表れ方を統計的に研究することで、心理の法則の推測をする、という立場です。

 たとえば有名な実験に、「吊り橋を渡ると恋愛が始まる」というのがあります。
 男性が吊り橋を渡えたところで、女性が実験とは関係のないアンケートを行い、電話番号入りの名刺を渡す。
 これで、男性が女性に電話をかけるかどうかを、統計的に見る。
 その結果、吊り橋の揺れが大きいほうが、そうでないものに比べ、電話をした男性が多かったとのことです。
 この結果、生理的興奮(ドキドキ)が先にあることで、同じ相手に対しても好意が生まれやすくなるという。
 これは情動二要因理論といって、相手を見た印象と、本人の生理的興奮の2つを「感情の要因」とする「説」です。
 この他、とにかく接触頻度が多いと好きになるという「単純接触効果」の「理論」も有名です。

 これらが科学としてもったいぶって扱われるのは、実験による統計的実証を行なっているからです。
 問題は、これが分かってどんな意味があるかでしょう。

 心理学者による「人間行動の研究」の中には、人間の大衆行動の法則性に関するもので、ノーベル賞を受賞した行動理論などもあります。これは研究対象を最初から大衆行動とマーケティング手法の関係のように、統計手法が妥当であり、研究の意義も明確なケースです。

 このような統計手法で分かることで、「大衆」ではない「個々の人間」の心理を説明しようとしても、それは科学手法の履き違えというものです。
 「単純接触効果の理論」からは、「好かれるためにはとにかく相手の目に触れるところにいることだ」という「結論」が「導き出される」そうです。
 これが分かったところで、私たちの実際の恋愛体験における複雑な葛藤などを理解するために、どんな役に立つでしょうか。

 そもそも、「人間の内面感情などというものは観察できないから、外から見える行動を実験によって統計的に研究するしかない」が、現在の行動主義心理学のスタート地点です。
 これでは、最初から研究対象から目をそらして、別のものを研究しょう、ということです。
 別のものを研究した結果でもって、当てはめる
 その「当てはめ」そのものは、もう科学ではありません。

主観的体験が科学の対象になる

 では、前節までの科学考察の延長で、改めて人間の内面感情の科学がどうあり得るのかを考えたいと思います。

 まず言えるのは、科学の対象はもともと人間の主観により観察し描かれた出来事に関するものであって、「客観性」は絶対条件ではないということです。
 科学の条件は、最初に述べた、「直接観察した事実」に基づくということを考えています。

 先に「海に人魚がいる」という判断ミスの例を出しましたが、これは「主観的だから間違い」なのではなく、単に考えた事の内容が間違っていただけの話です。

 従って、人間の感情は、その人が主観的に体験したことにおいて、直接観察した事実であり、科学の対象になると考えます。

 これが他の自然科学と異なるのは、万人が見る世界が同じ世界、という暗黙の前提がほとんど使えないことです。
 ただこの前提そのものは、もともと絶対なものではなく、仮定に過ぎません。
 「万人が見るものが同じ」なのは、視覚によって捉えたものについてはそう考えよう、という、理屈ではなく姿勢である、とも言えます。
 人間の感情については、「万人が同じように観察できる」という条件はあまり整いません。

 言葉による描写をどう読み取るか、それらが言う感情をどう認識するか、つまり「共感する」か。
 それは結局、研究者自身がどんな内面世界を持つかに、大きく依存するでしょう。
 しかしその内面世界にもし分析科学的な姿勢が向けられれば、そこに力学のような法則性が見出される。これを否定することはできないでしょう。

 学問領域としては、精神分析学が、この人間心理への分析科学的手法による研究の成果であると考えています。
 それは、物質の化学変化を追うのとほとんど変わりのない論理思考によって作られるものです。
 つまり、感情の要素と相互作用を分析し、ある感情から別の感情への変化を、要素と相互作用によって説明する。
 この仮説の作り方については「感情分析」技法による人格改善治療の「4.無意識を知るとは」を参照下さい。
 重要なのは、これは「人の心を読む」ような作業ではなく、時間的経過の中での感情変化を通しての法則性を仮説立てる作業であることです。
 仮説からは、次の現象の予測ができる。
 実際にそれを観察し検証する。つまり実証する。
 すべてそれが個人の内面において、主観的体験として行なわれます。

 このため、しばしば言われるのが、「精神分析の理論は実証は可能であるが、実証の事実を蓄積できない」ということです。
 ある人間が精神分析理論を作る。それはその人間の中では実証されたものであるのかも知れない。だがそれだけです。
 それが他の人にとっても実証された理論になるかどうかは、その新しい人間がどのような内面世界を持つかに依存します。

 精神分析理論の実証の場となるような内面世界を持たない人が、それを「科学ではない」と言うのはあまり意味がない話です。
 精神分析は、人間の感情の中でも、心理障害に関連する感情に、独特のメカニズムがあることを説明するものです。
 そこから、このサイトのような心理療法理論も生まれます。
 あくまで、人の心の中の病んだ部分に、法則性のある感情が見出されています。その結果、独特の対処法も導き出されます。
 法則性が見出されるということは、多様な現実世界に影響を受けずに動いている感情がある、その要素と相互作用を抽出できる、ということです。
 「現実理性」の影響を受けない、修正できない。そんなものがあるから心理障害でもあるわけです。

 一方、健康な心での感情は、多様な現実世界における、まさにマス現象です。
 健康な心で生きる感情や行動に、科学的法則性を見出そうとするなら、統計的手法による研究で「大衆の傾向」は分かるでしょう。
 だが果たしてそれがどれほど興味のある話かどうか。
 それを個人に当てはめることは無用です。それは科学ではありません。

 そして健康な心で生きる行動や感情は、科学的法則によって言えることなど何もないでしょう。
 人間はあまりに複雑なもの、内外の膨大な要素と相互作用の中で「生きる」存在だからです。
 「心を読む」というのも全く誤った心理科学のイメージです。
 あとはどう感じるか、どう行動するか。
 それは常に、法則、理屈の問題などではありません。
 生きる主体としての私たちの、人生そのものの問題です。

あらゆる心理学を否定せず

 世の中には様々な「心理学」があります。
 これまでに説明した考え方からは、その「どれが正しいか」の議論を戦わせることはあまり意味がない、ということが言えそうです。
 何故ならば、それが「人それぞれの内面」の科学だとした場合、それぞれの内面はその人本人しか見ることができないので、結局どれを正しいと思うかも、その人の内面世界において、その人自身がどう実証体験するかに依存するわけです。

 心という微妙な現象。それをどのような言葉で表現するかも人それぞれでしょう。
 その時、自分が使う言葉が正しく、それと異なる言葉で表現されたものは間違いだ、というための基盤は、科学にはありません。

 心理学とは、感情という主観的現象を対象とする科学である。
 その実証は、それぞれの各自の内面において主観的体験として実証されれば良い。

 私は心理学をそのように考えています。

 従って、心理学理論は誰もが独自の理論を作りえる。
 人それぞれ、それが自分の心理理解に役立つと思えば採用すればいいし、そう感じなければ放っておけばいい。

 それでは「学会」というものが成り立たない、と言われる研究者もおられるかもしれませんね。
 私は学会には関心はありませんので、その辺の議論はお任せしておきましょう。


2003.7.20
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