7.普遍的行動学を学ぶ
(1)怒りへの対処
(2)ハーバード流交渉術
善悪と「べき」で生きる姿勢から生まれるのがマイナス思考であり、新しい思考体系として、自由な欲求満足と心理医学的健康への姿勢、それを推し進めるのが中庸の思考であることを説明しました。
同じように、人間関係における新しい指針を説明します。
善悪評価の中で生きる人の対人行動指針は、まさに「べき」です。
自分はそうすべきだからそうした。あなたもそうすべきだ。いや、そっちこそこうすべきだ。
「べき」は強制であり、反抗と敵意を生みます。
異なる「べき」の出会いはまさに衝突であり、勝って「いい目」に合う「資格」を得るか、それを失い屈辱に甘んじるかの戦いになります。
ごく些細な人の行動にも、怒りが生じます。
なぜならば、そうすべきなのにそうしていないからです。
会社で部下の仕事がのろまだと怒りが生じます。ビジネスは能率的に作業す「べき」だからです。
店員が少しぞんざいな口調をすると怒りが生じます。客は大切にす「べき」だからです。
道理としては間違ってはいません。
問題は、「そうすべき」行動を他人が取らなかったことによって、彼彼女がどんな損害をこうむったのか、そして相手はどれだけの「罪」を犯したのか、そして彼彼女が「怒り」から得るものは何か。
そうしたもの全体のアンパランスさ、非現実性でしょう。
彼彼女は現実に生きるのでなく、善悪評価の中に生きるのですから、それが彼彼女の生き方ということです。
子供がぐずると彼彼女は怒りを覚えます。子供は可愛いものであるべきだからです。
当然そんな怒りを感じる自分に嫌悪感を感じます。親はいつも子供に優しくすべきだからです。
今の日本人には善悪評価の中で生きる生き方が蔓延しているので、育児ノイローゼになる人が多いのも無理はありません。
自由な欲求において生きる姿勢では、人がそれぞれの願いを持つ点では全く平等なので、「たい」が対人行動の原理になります。
つまり願い出であり、それに対する応諾や約束(契約)です。
それが成立するためには、「共通利益」が原則になります。
つまり、一緒にこれこれすると、私もあなたもこんないい事がありますよ、ということです。
そうすべきだから相手もそうするという保証など全くないので、望むならば、自ら行動を起こして、相手がそうするように工夫する(雑な表現で言うと「操縦する」)のが原則です。
嫌なことをされたくないのであれば、そうすべきではないと相手を非難するのではなく、そうしないように先回りして手を打つ、自衛するのが原則です。
善悪評価の中で生きていると、それは難しいと感じるかも知れません。無理はありません。
行動に善悪があるので、使える手が元から狭まっているからです。
信念があるので、ワンパターンの行動しか選択肢が最初からないのです。
自由な欲求に生きる姿勢で、上のような先導型行動がそれほど困難でもなく可能になるのは、元から行動の善悪のタガを外しているからとも言えます。
まあ現実世界において建設的な結果が出るのであれば、何でもありということです。
害のない嘘も場合によっては有用でしょう。
もちろん思わぬ結果を招いてしまったり、意図せず人を傷つけてしまうこともあるでしょう。
そのように柔軟な行動と現実における結果からの学習を通じて、より確実でバランスの取れた建設的な行動力を身につけていくことが、この生き方での成長そのものであり、自己への自信の源泉になります。
善悪評価に生きる姿勢には、このような人間成長への道はありません。
最初から定められた姿があり、自由な成長への扉は最初から閉まっています。
あくまで、基本的な生きる姿勢、そして基本的な思考体系と合わせて、このような対人行動指針というものを考えて下さい。
自分の信念だけ変えずに、人を変えようとするのは無理というものです。
人を変えたいならば、自分がまず変わることです。
部下が少しでものろまな時、厳しく叱責すべきという会社の規則がありますか。
それにより起きた作業の遅れは実際にはどんなものでしょうか。
怒りのために精神を消耗するに値するものでしょうか。
のろまでないことを望むのであれば、どうすれば手早くできるかを教えるのが先決というものです。
子供がぐずるのであれば、その理由があるはずです。
もしかしたら、疲れたあなたの不機嫌さが原因かもしれません。
そうであれば、子供や自分を責めるのでなく、手助けを探すのが先決というものです。
善悪評価で生きる姿勢と、自由欲求の中で生きる姿勢の、対人行動の原則の違いは分りましたでしょうか。
より具体的な話として、心理療法や社会行動学の世界で良く語られる2つの話題を説明しておきます。
「怒りへの対処」と「ハーバード流交渉術」です。
(1)怒りへの対処
(2)ハーバード流交渉術
2003.5.20