「自己建設型」の生き方へ

8.真の愛と偽の愛

 愛は、私たちの人生を最も豊かにする感情の最大のものだと思います。
 一方で、愛は、その中で人が自分を見失い、傷つけあい、破滅する心の罠のようなものにも見えます。

 この違いはどこから来るのでしょうか。

 心理学の観点から、「真の愛」と「偽の愛」が区別できることを見出しています。
 ここで言う偽の愛とは、恋愛詐欺や結婚詐欺のことではありません。
 本来愛ではないものを本人自身が愛として知覚する現象、それを心理学的な意味で偽の愛として定義しています。
 人を破綻に向かわせるのは、もちろん偽の愛の方です。

 まず、真の愛とは、「人に近づくような感情で、それ自体を目的にしたもの」の全てです。
 恋愛のみでなく、家族、友達、同郷、生活で出会う人々、そういった広範囲な意味での愛をここでは考えています。
 なお性愛には生理的欲求も含まれ、またちょっと複雑な心理学がありますがここでは省略します。

 真の愛は裏切らない、永遠である、と言った「結果」面は問いません。高尚な情緒論も考えません。
 純粋にそれ自体を目的とした人と人との交流、それは真の愛だと考えています。

 一方、偽の愛は、別の目的機能が「愛」として知覚される現象です。
 代表的な形態と、それがもたらす否定的心理作用を説明します。

1)賞賛の代用としての愛

 感情外化の主な特徴と形態で説明しましたが、自分は駄目な人間だという感覚が外化され、対人関係全般が否定的になった状況で典型的に起きます。
 孤独感と不安感が心の背景になり、人からの賞賛、愛される、認められる、必要とされるということが、不安と孤独感を減少させ暖かい気持ちにしてくれます。
 それは「自分にも価値がある」という喉から手が出るほど欲しかった感覚を与えてくれます。
 さらに、相手を得ることが他の同姓に対する勝利の意味合いを持つという要素が、大抵加わります。
 このような賞賛をもたらす相手への欲求が愛や友情として知覚されるものです。

 この愛は、「所有する」という感覚が特徴です。
 それは自分を守るための大切なものになります。
 このため嫉妬に悩むことが多くなり、しばしば相手を拘束しがちなため、かえって嫌われ、相手が去るケースが非常に多くなります。
 本人はこれを「裏切り」として感じ、しばしば「人間不信」になり、対人関係がさらに否定的になります。

2)ナルシズムの愛

 ナルシズムとは、自分で自分の理想像を思い描き、かつ現実の自分がその通りだと信じ、その自己像を愛するという心理傾向です。
 それは生き生きとして、「皆を愛している」自己像です。
 自己像への愛が、そのまま発散されるように相手へ向けられ、本人も相手もそれをしばしば正真正銘の愛だと思い込みます。

 これはあまり害のあるものではありません、
 ただ心の土台が不安定な上で作られた砂上の楼閣のような感情なだけに、本人の心理状況が少しでも変わったりすると突然見事なまでに消えてしまいます。
 本人や相手にも、別人格のように見えますので、結局関係は崩壊するのが大抵です。

3)自己忘我の愛

 これは神秘な現象です。
 心理障害においては、背景的に「心の苦しみ」が生まれるため、何か大きなものに自分の身を委ね、自己を忘却する心理状況への誘因が強くなっています。
 この心理自体は異常ではなく、健康な人でも、笑いや悲しみに自分を忘れるとか、ランニング・ハイといった忘我状態により、脳内麻薬物質が伝達され大きな癒しが生まれるというメカニズムがあります。
 心理障害での継続的な苦しみを背景に、強大なものへの愛の中での忘我への欲求が生まれ、相手は人間としての普通の存在を超えたもののように感じられる現象が起きます。
 相手が神や聖母のように感じられる心理です。逆にこの心理から神の概念が生まれたのかも知れません。

 これ自体も有害な感情ではありません。
 むしろ文芸や芸術などの中で表現され、人が心理障害に落ちることで初めて見ることのできる世界、それによって人間としての感情の豊かさを増す、そんな世界がここにあるように感じています。

 ただしこの愛にも大きな罠があります。
 この愛は、プライドが吹き飛ばされる形で始まるのが本質的特徴です。
 彼彼女が内心で求めるプライドは、相手がその実現役を担います。
 相手が全世界の全てになります。自分の目で世界を見ることをやめ、相手を通して生きる生き方です。
 このためこの愛に落ちると、自分自身については極めて強烈な空虚感が起きるが特徴で、よっぽどうまく行かない限り、自分が駄目になっていくという葛藤が起きます。
 自分自身へのプライドはこの愛と完全に対立するため、プライドのバランスの揺れにより極めて不安定な感情の姿を示し、しばしばドラマになります。

 心の中にとどまり文芸などに表現されている内はいいのですが、現実の相手にむすびつくと、もちろん相手は不完全な現実の人間ですから、悲惨な結果になることも少なくありません。
 次の形態と組合わせになることが多いからです。

4)サディズムの愛

 他人だけが良いものを得る、自分はのけ者になる、という人生全般における嫉妬の感情が生まれると、「そんなもの!」と良いものを叩き潰す衝動が起きてきます。
 自分が駄目な人間だという屈辱感があると、人をくじく、駄目にしてやる、といった復讐的憎悪の感情が生まれます。
 人の心の痛みを知る優しさが麻痺する一方で、攻撃性を発散させ相手を服従させる能力に長けてきます。
 この状況で、相手を奴隷のように所有し、破壊的に搾取する、「サディズム」という人間心理が生まれます。
 本人自身の内面感情は貧弱で空虚なため、相手をおもちゃのように操り、そこで表現される喜怒哀楽を眺めて楽しむという生き方です。
 ストーカーの心理は、基本的にこれと考えています。

 サディズム傾向があると、人の期待やプライドをくじく行動に長けてきます。
 一方で、上記の「忘我の愛」においては、まさに「より強い者の前でプライドを捨てる」ことへの欲求があるため、サディズム傾向の人間の攻撃的行動がこの「プライドの放棄」のきっかけとして捉えられやすいのです。
 サディストの攻撃行動にひれ伏す、マゾヒズムの心理です。
 家庭内暴力を繰り返す夫、でも離れられない妻、といった事例に良く見ることがあります。
 後者の側の苦痛と不満がどんどん大きくなり、破綻するのが大抵です。


 実際には、ひとつの「愛」が上のどれかに分けられる、というものではありません。
 一人の人間の心の中に、幾つかの愛の要素があり、同じ相手というベクトルによって合成された結果だけが意識の表面に現われます。
 人の愛が複雑なものになるのはそのためです。(参考コラム

 そしてどの愛の中にも、恐らく一片の真の愛の要素も含まれるでしょう。
 実際の愛の感情の中にいる時に、どの部分が真で、どの部分が偽かと切り分けられるものではありません。
 それが分るのは、人が成長し、偽の愛を必要としなくなった時に、偽の愛が消えた分だけ、それが偽のものであったことを知るだけです。
 つまり私たちは、理性によって真の愛を知ることはできません。
 恐れることなく愛の感情の中に身を置き、その不実な部分を身をもって味わい、放棄していく過程だけが、私たちが自らを導けるものです

 どうしたら真の愛を得ることができるか、とても重大な心理学をお知らせします。

 真の愛は、心理的安全の上に自然に生まれるものです。
 つまり「遊び」と同じ生態学的進化の産物です。
 生理的要求と安全が満足され、さらに高度な生命活動となる手段として、「遊び」や「愛」が生まれました。

 偽の愛は、心理的不安を背景にして生まれます。それは安全を確保するための手段です。
 そして重大なことに、人はこの偽の愛に走ることによって、自己の比重を失う、つまり自分の足で立って歩く力を自ら放棄するのです。
 それは基本的に、自分自身の目ではなく、相手の目を通して自分を、そして世界を見る生き方です。
 このため、偽の愛に捕われた人間は、しばしば身を削るような強烈な内面の空虚を感じます。
 これは当然、彼彼女の自己への自信を低下させます。それが不安という背景を強化し、やがて愛にすがりつくという悪循環過程に陥ります。
 つまり、人は愛を「必要とした」とき、愛を得ることができなくなるのです。

 従って、私たちの行動指針は、むしろ「愛がないところにおいて人と交流する」ことにあると考えています。
 多くの人は、人と接するためには、まず愛情なり友情なりが自分の心の中に湧き起こらなければ、と考え、それが芽を出すのをじっと待っているかも知れません。
 それが彼彼女の、「既知の」行動方法なのです。

 本当の答えは、「未知」の中にあります。
 愛情がないところでも人に接していく、その行動の蓄積が恐らく何よりもこの社会で生きる上での自己への自信をもたらすでしょう。
 自己への自信は心理的安心をもたらします。
 真の愛はそこに現われ、それがもはや、相手が去ることへの不安など意識することなく、安定した心の中で開放し身を任せることのできるものであることを知るでしょう。
 人は、愛を必要としなくなった時に初めて、本当の愛を知ることができるのです。


2003.5.24
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