「自己建設型」の生き方へ

9.自分への真の自信の確立

 自分に対する自信がついてくると、生活の中で不安を感じることが少なくなり、行動もより積極的になり、人々との交流や好きな活動の中で喜びや楽しみを得る機会が増えてきます。
 つまりより幸福の方向へと向かいます。
 やがて、「それを必要とはしない」形で人への愛情を持てる自分を感じた時、ほとんど完全にと言えるほど健康な心になっている自分を見出すでしょう。
 心理障害の克服の目標といえる姿はそのようなものと言えます。

 ここではそのような自分への自信を獲得するための方法についてお知らせします。

 まず「自己への自信とは何か」を正しく知ることが大切です。
 自分への自信とは、自分が幸せになるために必要な事柄を成す能力が自分にあると感じることです。
 これが心理学的な定義です。

 これを見てどう感じますでしょうか。
 私がこのような定義を知ったのはバーンズの『いやな気分よさようなら』でしたが、読んだとき、何か重要なことが分ったという気持ちと同時に、どうも曖昧な気がしたのを憶えています。
 多分、「どうなれればいいか」という「基準」がぽっかり消えているからでしょう。

 上の定義が正解として、心理障害の中にいる人、そして世の中の大半の人が、完全に勘違いしている別の解釈があります。
 それは自信とは「自分を高く評価する」ことだという勘違いです。


 これも、善悪評価の中で生きる姿勢においては正解です。
 善いものと評価されることは「幸福になる権利」がある、つまり世の中が自分を幸せにしてくれるという他力本願の論理ですから、高く評価されることは幸福になれることであり、自信だというわけです。
 そもそもこうした生き方から心理障害が生まれたので、もうこのような話には耳をかさないのがこのサイトのお勧めです。

 そもそも自信とは何かを正確に見て見ましょう。
 「自分は自転車に乗れる」という単純な自信を例にします。
 実際に自転車に乗れる人は、皆「乗れる」という自信を持っています。
 あとは、乗れるようになった運動能力で、目的地へ行くだけです。
 ここで重要なのは、「乗れる自分の姿」を思い描くことで乗るのではないということです。

 一方自転車に乗る練習過程にある人は、「乗れる姿」を見て、真似て、試すという過程にあります。
 その段階で、乗れる自分の姿を思い描いて、「乗れるはずだ!」と「自信」を感じるかもしれません。
 しれはまだ仮の段階です。
 実際にできるか、現実の中で試さなくてはなりません。不安も起きるでしょう。

 お分かりでしょうか。
 「できる自分を思い描く」のでなく、それを意識せずに成功するようになったのが自信です。
 自信とは文字通り、自分を信頼できることであり、信頼できるといことは、あれこれ意識せず任せられるということです。
 自分を意識評価するのでなく、意識せず自分の心が赴くままに任せられるという、自分への信頼感が、自信の本当の姿です。

 こう考えると、「自分を高く評価する」というのは全然自信などではないのです。それは別物です。
 これは主に「プライド」と呼ばれます。
 自分を他人のように、静止画で捉えて、他の人や「理想像」と比較評価することです。

 重大なことに、自己を評価するということは、見ているのはどんなに「今の」自分だと思ったところで、結果であって、過去でしかありません。
 そうして自分の評価だけを追い求めると、人は今を生き未来に向かって生きる力を失うのです。
 当然、本人の意に反して、映る自分の姿は次第に貧弱になって行きます。

 心理障害においては、このプライドを自信と勘違いして、とても重要なものであるように追求する姿勢が、実は心理状態の決定的な悪化をもたらしています。

 まずプライドを持てないときに、逆の自己評価、自分は駄目だという自己嫌悪が起きます。
 それを引き起こしたのが他人だと感じると、「屈辱」感が起き、相手への怒りや憎悪が起きます。
 人間関係が広く否定的になるため、「助け合うこと」でなく「他人に勝つ」ことだけが重要に見えてきます。
 そしてこのプライドというのは、相手を叩き潰すことによって回復するという攻撃的論理を持っています。
 本来は自分が自分を悪く評価した自己嫌悪。
 それを他人が引き起こしたように感じ、憎悪にかられ、復讐に出る。
 当然相手も黙っていません。再現のない復讐合戦が、しばしば破滅的事態をまねきます。
 怒りの中で心身共に消耗し、苦しみが増し、苦しみを与えた相手への憎悪が極限に達します。
 自殺することで相手に罪を植え付けることが最終復讐手段になることがとても多いのです。

 全てが、「人間として善か悪か」という生き方、その中で自分にダメ出しをしたのが始まりです。

 まず、生きる姿勢を、善悪評価の中で「べき」により生きる生き方から、自由な人間としての欲求により、現実の中で建設的に生きる姿勢に、根本的に変えることです。

 そんな中できっと、自分の欲求である行動をしようとした時、自分がある自己像を抱いているのに気づくと思います。
 人に接する時に、「明るく喋っている自分の姿」を思い描く。
 恋人に会いたいという気持ちの中に、「その人を愛している自分の姿」がある。
 それは、理性より深いところで、「自己を評価して生きる」姿勢が塊のように存在しているものです。

 実はこれが心理障害の核でもあり、感情分析によって取り組みます。
 まずは、心の感情が、それを追い求めるべきもののように映し出したとしても、実はそれは自己への自信に導くものではないという自覚を持って下さい。
 逆にそれが、自己嫌悪を始めとする破壊的感情を生み出した大元だと。


 そうして静止画のような「姿」を追い求める気持ちが減るにつれて、「本当に自分がしたいこと」が見えてきます。
 ある自分に「なる」のではなく、今なにを「する」かです。
 あとはそれに向かって突き進み、うまく成功するような努力をするだけです。

 恐らく今までは、「駄目な自分には何をする資格もない」という論理の中で生きてきたと思います。
 だがそれは今までの来歴から植付けられた論理であり、現実においては人間は自由です。
 欲求することを行う権利は平等であり、あとは様々な利害の混在する社会の中でどう行動するかです。

 まず凝り固まった論理の生き方で身につけて来た鎧を脱いで下さい。
 自分が何者かは分らないとしても、軽くなった心に開放感を感じるでしょう。
 その後に初めて、今まで感じることのなかった「自発的欲求」が自分の中に芽生えるのを感じるでしょう。
 それに向かって行くことです。
 人を真の自信に導くのは、この「自発的欲求」に従った行動です。
 「あるべき姿」を意識したものでない、つまり演技のように意識したものではない、「自分を意識せず」に行動できる状態につながるからです。

 新しい生き方が身につくにつれて、「こうあれれば」という「自分の姿」が砂上の楼閣のような土台のないものであることが、実感を持って感じられてくると思います。
 実際それは、「誰よりも優れた」イメージであり、実際そうなれる人間などそういるものではありません。
 「幸福」について、仕事の成功とか、結婚とか、友達に囲まれた暮らしとか、「イメージ」で考えるのも同様に無益です。
 「こうあれれば」という硬直した姿を捨てた時、人間の多様性は愕然とするほどのものであることを感じると思います。
 生まれた環境も、持って生まれた才能も容貌も、家柄の有利不利も。
 その中で、何10万人に一人という恵まれた星の下で生まれたアイドルのような人と自分を比較するのは全くの無意味というものです。
 人それぞれ条件が全く違う中で、各自が自分の欲求を見極めて、それを満足するように努力すればいいのです。

 人間を外から評価した偏差値は、その人自身の幸福とは全く関係ありません。
 人も羨むような才能や美貌の持ち主が自殺した例を幾つも知っていると思います。
 一方で、体に障害を持ち生活の制限があるにもかかわらず幸せに生きている人も沢山いるのをご存知でしょう。
 理由は単純です。
 自分の理想像を思い描き、完全で欠点のない神になろうとした人間と、自分を評価するのでなくただ生きることに心を向けた人の違いです。

 歪んだ育成過程から、歪んだ性格になってしまったと嘆く方も多いと思います。
 まずは「自分の性格」という第3者の目で自分を見ることをやめることです。
 今は人に好かれるような行動は取れないかもしれません。
 しかしそれはあなたの「幸福になる資格」について何を言うものでもありません。
 自分の性格がいやなら、それをひとつの制約として、その中で建設的に生きることです。
 どだい性格などというものは、結果でしかありません。
 建設的に生きる中で、根本的に変化し得るものなのです。


2003.5.24
inserted by FC2 system