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過去ログ
2004.1


伊東市の成人式の話 / しまの

謝罪に来たが、「謝っても許されない」と市長が告訴したとのこと。
サイトの自由主義から見ると、ちょっと興味ある話でした。

成人式で騒いだことが、どんな罪になるか。
これがB'zのコンサートなら、騒いだことが罪になることなどありえんだろぅ。
「垂れ幕を引きずり降ろした」のが器物損壊罪に当たる可能性はある。

実際の社会では、明瞭な刑事罰に当たること以外は、その集会の主催者と参加者の間の契約つまり約束事の内容によって、どんな行動が罰に当たるかが決まってきます。
「〜すればこの集会に参加していいですよ」という約束。
これは別の言い方をすれば、集会に参加することによって何かの利益を得る。その代わりに守らなければならないことがある。
権利と義務は常にセットです。

先日、会社全体の盛大なキックオフ会議に出ましたが、暴れる人などいません。こりゃ当然だわな。
会社で仕事して給料をもらっている。その代わりに会社で誠意働く。一方的に押し付けられているわけではない。
先代の、世界に名の知れた会長のスピーチが最後。
印象的な話に、僕を含め皆が目を輝かして聞き入っていました。

集会で暴れたことに、刑事犯罪が含まれない場合、主催者が司法に訴えるなら、民事裁判になる。
どんな約束があったか、どっちが約束違反をしたのか、調停しましょうと。
株主総会とかで暴れたりすると、「業務妨害」として刑事になるのかな。

で、成人式って一体誰が何のためにやっていることなのか。全く不明瞭ですねえ。
こうした儀式は、子供のうちは、「愛情の押し付け」の下で従わせるというバランスが何とか存在する。
しかし成人式とはまさに、それが通用しなくなる境目のような感じで、興味ある位置付けと感じるわけです。
大人になったということで、大人の社会のルールで行けばいいと思うのだが。「成人式としてこんなことをします。参加条件はこれこれです。」と。

社会の代弁者である司法が何と言うか、興味あるところ。

No.132 2004/01/21(Wed) 17:17

赤ちゃんリンガル登場 / しまの

昨日日付の3つめの話題は、バウリンガルやニャウリンガルに続いて、ついに赤ちゃんの泣き声分析器が登場というニュース。

まず感じたのは「あれまあ、これまで」の感。
赤ちゃんが泣いているのがどうしてなのか、感じ取って世話してあげるのが、赤ちゃん育ての醍醐味(^^;?)だろに。。と。

そう言えば「子育てのストレス」とは変な話だ、と思い浮かびました。
これは、子育てがストレスになるのではなく、ストレスがまずあって、それが子育てに現れているということではないかと。

「仕事のストレス」というのは分かります。嫌でもしなけりゃならない。だからストレスにもなる。
これは、「楽しく幸せな生活」を目的として、その手段として「仕事」がある、という関係としましょう。
生活のために仕事するのであって、仕事のために生活するのではない、という話。

これが「子育てのストレス」ということは、子育てがその意味での仕事に近くなっているということかも知れませんね。
本来、子育てはどっちかというと目的の方にあると感じますが、そうではなくなった世界がある。
何か、人生そのものがいやいやながらの義務になった世界のような。。

まあ、良く読むとこの製品はスペイン製とのこと。
あくまで玩具。
「やっぱお腹空いてんだよー♪」とか、おもしろ楽しむためのものですね。
それに頼って赤ちゃんが泣いた理由を知るためのものじゃーもちろんないですな。

No.131 2004/01/17(Sat) 20:13

怒りが消えた.. / しまの

2つ目は、自分の人格状態の変化について、ふと気づいたことをご参考まで。

サイトで説明するものは、「生涯続く終わりのない成長の過程」と位置付けており、心がより健康になる、後戻りのない向上の過程である。
すると、どこまで変われるものかという興味も多少出てくる。
僕の場合は、この考え方をまとめることで方向がとても明確になったこともあり、ここ最近の精神状態の変化が今までになく目に見えるものになっていました。

で、先日「おやっ?」と気づいたことがあり、それは「怒りが消えていた」こと。
「怒りが無駄」であることは主題テーマでもある。だが、実践上は、怒りが起きてから、この怒りは無駄ではないかという問いかけを自分にするような形態でした。

大した内容ではありませんが、新聞を読んでいて「これは..」と軽い怒りを感じるような場面。
その程度は多少であれ、「怒り」には、血流の変化とか頭に血が昇る感じとか、生理的感覚が伴う。
どころが、意識内容的には、今までかすかにでもそんな生理感覚が伴うようなことと同じ意識が動いている。これはまずいんでないの?とか。
ところが、生理的変化感覚が全くなく、あれっ?と思った次第。

似たことが会社でもあり、先日の祖母葬儀の休暇のお土産を配るとき、秘書さんとちょっと会話。
内容省略しますが、「あっこの言い方はいまいちだなっ」と内心ちょっと恥ずかしい感じがあった時、これも心臓の動機とか生理的感覚としての「動揺感」が起きないのを感じて、おやっと思った。

これに関するあれこれの感想は省略しといて、これは僕の自己分析過程で、「感情の膿」がもう完全に消え尽くしたのに近いように感じている状態に対応しているような気がしています。
つまり、怒りや精神的動揺に伴う、血流とか発汗、赤面、動悸とかの生理的動揺感は、感情の膿が背景になって起きるものではないかという考察。

これがどうゆう話かの含みが沢山あるのだが、うまくまとまらん。省略(^^;)

No.130 2004/01/17(Sat) 19:26

芥川賞、最年少更新 / しまの

今日じゅうにカキコできるかわからんが、3つほど話題が。

1つ目は、芥川賞の史上最年少となる2人の女性の受賞の話題。
綿矢りささん(19)の「蹴りたい背中」金原ひとみさん(20)の「蛇にピアス」
以前、「ハイティーンの感性が活字で表現されれば.. 」と書きましたが(12/5カキコ参照)、この観点からは、まずは良いニュースだと思います。

両方とも心理的なテーマでもある。
それで、小説書き勉強がてら読んでみようかな、とも一瞬考えましたが、正直、あまり読む気になんないんだよなー。
読みたくても時間がなくて積んだままのもの、他に結構ある。

新聞によると、綿矢さんの方は、「生活の感じを書きたい」とのこと。クラスのグループに入らずマイペースで孤立と向き合う姿。異性との微妙な距離感を清新な感覚で描く。
微妙な距離感はその年代なら誰でもそうだろう。日常生活の表現、あまり興味なし。

金原さんの方は、若い少女がピアスや入れ墨などの身体改造を通じて、世界に踏み出す過程を強烈なイメージで描き出している、とのこと。主人公ルイは「陽の光が届かない世界を欲し、とことん、暗い世界で身を燃やしたい」と言う。金原さん「私自身、普段の生活の中でふいに、そんな暗い思いにとらわれるんです」。小学校での不登校、中学校でのリスカを体験された方。「ルイの身体改造も、私の小説書きも、それによって救われるわけではないけれど..」と。
心の闇の世界の描写、もう沢山。それだけならいらない。そこから陽の光の世界に通じる過程を聞きたい。

「世界に踏み出す過程」というところにはちょっと関心があるが、どうも文脈からはあまり読んで気分の良くなるものでないような気がして、食指がそそられない。
どうも「芥川賞」というもの自体についてどうも良くない印象が僕の中に残っているようだ。去年の「ハリガネムシ」はホントひどかったぁ。。
グロ、興味なし。(8/15カキコ参照)

感動が欲しい。心の闇から光のさす明るい世界へ通じる、神秘な世界を表現したい。自分が体験したのはそれだから。
映像的にも神秘なものだった。夢に現れた、闇の中で、神秘な光に満ちた通り道と、そこを歩いて行く子供の僕。PCのグラフィックソフトで描いて、小説の扉絵のひとつとしてに使う予定(かなり後の章)。それがまさに「健康な心へ通じる神秘の道」の僕の映像イメージなのだぁ。
他にこの世界を表現したもの、まだ見出せず。だから自分が書くまで絶対死ねない。芥川賞、目になし。な〜〜んてね。

No.129 2004/01/16(Fri) 09:53

皮の手袋の片方拾った / しまの

今朝、電車の中で皮の手袋の片方を拾いました。
朝の超込み京葉線、新木場に着くとどっと人が降りて、目の前の席が一つ空き、座ろうとした時に気づいた。
隣に立っていた男性に「落としましたヨ」と言おうかとして、その人が両手とも素手で、違いそうな様子。

席に座って、目の前の皮手袋を眺めながら、どうしようかな〜。
回りの人も気づいているでしょうが、全く知らんぷり。
ちょっと思案のあと、手袋を拾いあげ、預かって届ける等することにしました。

この手の話はよく、「良いことをするのは勇気がいる」などと語られることがありますが、それとは全く違った僕の思考内容をちょっとご紹介します。

そもそも、「良いことをするには勇気がいる」というのは変な話です。
「良いことをする」とは何を、何故したいと思った話でしょうか。
「勇気がいる」とは不安があるということです。その不安とは何でしょうか。
まあ、痴漢の犯人捕獲への協力といった、自分の身の危険も考えられる事態ならそうだろうが。
精神分析では、こうした言葉では終わらせずに、その裏に潜む、自己否定感情の膿や、自己理想化への衝動に取り組むことになるわけです。

僕自身はこうした場面を自己分析対象にすることはほとんどありませんでしたが、自分の心の問題が片付くにつれて、こうした場面での行動は、「良いことをする勇気」なんて込み入った話はなく、その場でしようと思ったことをそのままするだけの何のこともない感じになっています。
たとえば、席を譲る方がいいかどうかは、「〜の人には譲るべきだ」といった思考はせず、その場の状況で譲りたいと思ったらそうするだけ。年寄りだから譲るとは限らないですね。自分がどれだけ座っていたいかという状況にもよる。断られても「あっそう」で何も感じない。

要は、「道徳的思考」は、徹底的に思考体系を解体して組み立て直す過程で、全くなくなっているわけです。
「入門 健康な心への道」では、このような思考法を選択して生きることを、ひとつの人生の選択肢として紹介していることになります。こうした思考の解体・再構築と合せて、幾つかの心への取り組みを通して、人格に何が起きるかを説明の上で。

で、今朝の皮手袋が落とし主に届くよう協力しようという気になったのは、それが結構高級そうだったからです。安物そうだったら無視ですね。
でも届けるのに時間取られるのは嫌だなー、諦めてもらうか、とも考えた後、時間を取られない方法が何かあるだろうと考え、預かった次第。
この後の処置については省略。

No.128 2004/01/15(Thu) 09:58

「心を開放する方法」のよもやま話 / しまの

チュウ太さん、どうも!レスになりますが、適当な区切りということで新規カキコで♪
97歳で昇天した祖母の葬儀に出たためちょっと亀レスになりました。

>心の解放。今の自分には、どうやったら良いのか、今ひとつ解っていないのが本当のところです。

心を開放することは難しいことですね。一筋縄では行かないと思います。
このサイトは、僕が自分なりに確立できた「心を開放する方法」を具体的に説明するものと位置付けています。

今執筆中の「入門 健康な心への道」の全部を通して、ようやく説明できるほど、沢山の「姿勢」と「知恵」が揃って初めてひとつの方向がつかめるような感じになると思いますので、説明もまだまだですね。

人類の歴史に登場した「生き方の教え」として、まとまっているのは主に「宗教」があります。あとは何があるのだろう。「論語」とかもそうかな?
僕はその科学的心理学的なバージョンとしての「生き方の教え」を作りたいと思っています。
ちなみに今の日本の「道徳」は、儒教から安易に宗教の真摯さを取り除いてしまった型崩れです。これを脱することが、これからの日本の課題のひとつだと思うなぁ。。

>いまやっていることは、できるだけ自分が嫌な事は、放棄していることです。
>しかし、これにも嫌と言える場面と言えない場面があり、その度に立ち止まってしまう自分がいます。


「放棄したい」の一方で、「絶対放棄したくない」という心の声も出ると思います。
「こうでなければ」という偏った善悪価値観を捨て、全てを許されたものと考えることができた時、「自分にとって本当に重要なもの」は何なのかという「真実を見る目」が生まれてきます。
これも心の開放に向かわせる大きな因子だと思います。

その時放棄するのがいいのか、放棄しないのがいいのかは、もう誰にも分からないし、チュウ太さん自身にも分からないという段階がやってくると思います。
その時、ただ内面に従って、未知の中に飛び込んでいく。そんなのが「心を開放する」ひとつの場面なのだろうなぁ。
まあサイトの方でもう少し説明書きますので。

>すごいです!僕もそのような心の状態になりたいです!
>僕にでも、そのような状態まで行き着くことは出来るのでしょうか?


「このような状態」を想像して「こうなりたい」と思うのは、心に枠をはめる方の思考バージョンかもしれませんね(^^;)。まあこれは本当に最後の方まで残るものです。
体験談的に言えば、「自分はこんな風になれるのだろうか」という思考そのものをしなくなったのが先、という感じかなぁ。。
本当に、「こんな人間に」というイメージを捨てる方向性になりますので、「自分はこんな風になれるのだろうか?」という問いそのものが消える世界に向かう、という話になります。

それでも客観的に言って、自分の心に悩む・ストレスがある等の「心理疲弊度」がどれだけ変わり得るものかという精神医学的な話があり、全く内攻的悩みやストレスがない健康な心という到達レベルというのが考えられることは否定できない話。

僕自身はごく最近になって、そのレベルに達した感を得ています。大分長い道のりの最後になってという感じですね。
でもそれは自分でも分からないまま来たからで、これで「心を開放する方法」がはっきり分かったから、それを伝えて、分かって進められればもっと早くそのレベルにいけるかも知れない。
とにかくこの「心を開放する方法」の臨床例が自分ひとりしかないので、他の人の場合どうなるかは分からないなぁ。。まあなれるんじゃないの。。と無責任なコメント。アハハ。
とにかく「治りません。つきあうものです。」などという話ではない、根本的に変化し得るものだということを知っておくのは良いと思います。

No.125 2004/01/08(Thu) 15:06

 
Re: 「心を開放する方法」のよもやま話 / チュウ太

こんにちは、しまのさん。

ご祖母様がご逝去なされたこと、ただただ、お悔やみ申し上げます。
どうぞ、お疲れが出ませんように・・・

こんな大事な時に、僕みたいな者に対してご返信下さいまして、
本当にすみませんでした。


これは、ちょっと話が変るんですが、先にお話ししておきたい事が・・・
HNが、「中田」から「チュウ太」にいつのまにか変っているので、
ちょっとビックリしてたのですが(しまのさんも思いました?)、
僕はネットではチュウ太というHNでしてたのですが、
チュウ太=ちょっと怪しいヤツ?軽いヤツ? みたいな印象を持たれたく
ないので、中田(ちゅうた)と名乗らせていただいてました。

もしかしたら、どうでもいい話かもしれないのですが、変なヤツって
思われたくないので、ちょっと言い訳をしてしまいました。
ご気分を悪くされてましたら、本当にすみませんでした。

>「入門 健康な心への道」

僕が一番楽しみに読ませていただいている所です。
他の文章も好きですが、僕みたいな世間で言う「飲み込みの悪い人間」に
とっては、本当にありがたい文章です。
文章が完結するのが、とても楽しみです。

>とにかく「治りません。つきあうものです。」などという話ではない、
>根本的に変化し得るものだということを知っておくのは良いと思います。

それだけ言って下されば、僕は十分です!
可能性が少しでもあると思えるだけで、今の苦しい時期を過ごせます。
もし、この先の僕がそこまで到達できなくても、未来があるのと
無いのでは、全く話しが変ってきますから・・・。

いつも丁寧なご返信すみません。
僕も、もっと自分の思ったことを、もっとスラスラと書けたら良いのですが、
やはり少年期の勉強不足が、ここにきて出てしまってます(汗)。
でも、ご返信していただいています文章は、何回も何回も読ませていただいて
いますので、お許しください。

No.126 2004/01/08(Thu) 21:56

 
Re: 「心を開放する方法」のよもやま話 / しまの

>どうぞ、お疲れが出ませんように

いやいや、疲れるどころかこれ幸いと特別休暇3日取りましたので。
実は明日も中途半端ということで休みいれてます。まだ正月モードです。ガハ。
休み取る名人です。

>ご気分を悪くされてましたら、本当にすみませんでした。

いや特に何も感じませんでしたヨ。
姓が「中田」、名が「チュウ太」かと思いました。アハハ。それじゃチュータチュータになっちゃいますね。

ちょっと先の「感情分析」の話になりますが、「相手が気分を害したと感じる」ことなども、分析取り組みの対象になることの多いものですね。
まあじっくり取り組む中で、またいつか出る話かと。


こうして感想や相談や意見をもらうことで、僕としても自分の考えを整理する糸口を得ています。
つまり、僕にとって「はげみ」以上の、「表現のつて」になりますので、何でも大歓迎です。

No.127 2004/01/08(Thu) 22:25

あけましておめでとうございます / 中田

しまのさん、はじめまして中田と申します。

こちらのHPには、去年からいつも読ませて頂いております。
僕は、6年前ほどから、パニック障害という病になってしまって、
その間、鬱や様々な心身症に悩まされてきました。
一度は、自分を辞めようかと思いましたが、やはり辞めれない自分がいまして
なんとか生きています。

しまのさんの文章を読んでいますと、自分の中でモヤモヤしていた
感覚が文字として現れているような気がして、とても嬉しかったです。
僕は、頭がそんなに良くないので、何回も読ませて頂き、しまのさんの
言葉の意味を脳みそに叩き込んでいます。

しまのさんの言葉に、人生(精神)の再構築みたいな言葉が書かれていましたが、
僕も、全くそのとうりだと感じていました。
僕が、パニック障害になったのは、脳障害では無いような気がしていました。
それより、人生を一歩一歩、ゆっくり地に足をつけて歩いてこなかった結果の一部の
ような気がしています。

今は神経症のお陰で、行動面や思考面では、規制がありますが、なにかここが
自分の休息、そして再出発のような気がしています。
今、僕が一番してみたいことが、「おもいっきり心から大笑いしてみたい」と
いうことです。
自分の身体とココロに気を使うことなく、大笑いしてみたいのです。
だから心が引かれる、しまのさんのHPは、とても楽しみに読んでいます。

それでも他人まかせだけではイケないと思ってますので、自分も出来るだけ
この自然の流れの中で、吸収できる良い考えは、ココロの中に入れようと思っています。

新春から、ちょっと暗い僕の話をお聞かせしてしまって、すみませんでした。
どうぞ、これからも しまのさんのお話を読ませてください。
こんな自分ですが、これからも宜しくお願いします。

乱文、どうぞお許しくださいませ。 中田。

No.122 2004/01/02(Fri) 21:33

 
Re: あけましておめでとうございます / しまの

中田さん、ども!

あけましておめでとうございます。今年もよろしく。
1日から帰省して今日(もう昨日か)帰って来たところです。

全然暗い話などでなく、とっても前向きで明るい話じゃありませんか。
新春早々、嬉しいカキコです。

>人生(精神)の再構築みたいな

そうですね..
最近考えている表現で言うと、「人間はこうでなきゃ」と枠をはめることを、とことんやめることを考えています。
すると、自分が自分の心に悩んでいたとしても、全く同じ生育暦で、全く同じ状況にある人などいないのだから、自分はまさに唯一無二の存在になる。これからどう生きるのがいいのかは、答えのない未知の世界になる。

この未知に向かって、心を解き放つのみ。
もちろん、心を解き放つにしても、建設的な思考法行動法というものがありますので、これは先人の知恵を学ぶことが役に立つ。

そして今感じるのは、これが「変わることなく続く」成長の過程ではなく、「変わってゆく」成長の過程だということです。
僕自身はもう、自分の心に悩まなくなりました。どうしてそうなったかも分かるほどはっきりとした変化があったということです。

この辺が一般的なカウンセラーと僕との違いだと思います。
「皆同じです」「私も悩みます」という話でなく、「私はこうしてこうなれました」というはっきりした話を伝えて行きたいと思います。
サイトを訪れた人それぞれのペースで、役に立ててもらえれば。

今年も頑張るぞー\(^ ^)/

No.123 2004/01/04(Sun) 00:54

 
Re: あけましておめでとうございます / チュウ太

ご返信、ありがとうございます。

僕のお話を聞いてくださった上に、嬉しいカキコって言って下さいまして
本当に、書き込みをして良かったなぁって思っています。

僕は、これまで「人間とは、男とは、大人とは・・・こうしなければ!」
みたいな、一種の強迫観念に押されて生きてきたと思います。
まだ健康なうちは、そんなことにも耐えれていたのですが、いざ心身に異常が
出ると、「自分で自分を苦しめていたんだなぁ」と反省してしまいます。

心の解放。今の自分には、どうやったら良いのか、今ひとつ解っていないのが
本当のところです。
いまやっていることは、できるだけ自分が嫌な事は、放棄していることです。
しかし、これにも嫌と言える場面と言えない場面があり、その度に立ち止まって
しまう自分がいます。

>僕自身はもう、自分の心に悩まなくなりました。
>どうしてそうなったかも分かるほどはっきりとした
>変化があったということです。

すごいです!僕もそのような心の状態になりたいです!
僕にでも、そのような状態まで行き着くことは出来るのでしょうか?

しまのさんが、頑張るぞーって書き込みをされたのを見て、
なんでか解らないけど、僕も「頑張るぞー!」って気持ちになりました!

No.124 2004/01/06(Tue) 13:12

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