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過去ログ
2004.5


どうすれば怒りを捨てられるのか / しまの

ハイブリッドの基本理念:
 「心理障害は病気ではなく、ある生き方の表れにすぎない。
 その解決は治療ではなく、成長である。
 それはごく少ない、人間としてのある「選択」に行き着く。」

ということで、どうすればより多くの人を解決の方向に導けるのだろう、という検討は、
「その選択ができない人」をどう導きえるか、とふと考えます。


これはその代表例ではないかと。
「怒りを捨てよ」「憎しみを捨てよ」。そんなことは分かっている。でも捨てられない。そんな自分はどうせ駄目な人間なのだ。

これについてちょっと考えたのですが、やはり他で言っていることと同じなんですね。
「憎しみを捨てよ。そのためには憎しみを捨てようと思うな。」となる。例によってちょっと禅問答の世界。

で、これで終わっちゃうのは言葉足らずというもので、どうゆうことなのかというと、
「憎しみを捨てよう」と考える姿勢というのは、大抵、憎しみを生み出した姿勢と同じものなのですね。
大抵というか、最初はほぼ間違いなくそうなるという話。

そこで「憎しみを捨てようと思うな」というのは、「捨てることではなく、知ることに注げ」というような話。
憎しみとは何か。どのような状況で起きたのか。それはどんな意味があるのか。どう役立つのか。
全身全霊の努力を、知ることに向ける。
その結果、どうするのかは、もはや意識的に考えることではなく、心の底の核が決めるに任せるが良い。

根本的に善悪観念を脱したところから始まる取り組みなので、
怒りを捨てることが正しいからそうするというのではないわけです。
「怒りを捨てることが正しい。だから怒りを捨てなければいけない。」という今までの姿勢をまさに、変えてみることをご提案する次第。

No.199 2004/05/31(Mon) 13:41

「“It”と呼ばれた子」3部作読了 / しまの

本を読んで学ぶということはもうほとんどないのだけど(ほとんど自分の心理学から事例を見る目で読むだけ..あまり聞こえの良い話ではないかも)、久々に読んで学ぶことのあった「“It”と呼ばれた子」。(10/11カキコ参照)
この3部作を先日読み終わり、この自叙伝を踏まえて作者が心のメッセージをまとめた「指南編」というのを今読み始めたところ。

この3部作について言えば、何よりも、壮絶な否定と虐待を乗り越えて人生の幸福を達成した作者の姿が、人生の真実というものを力強く伝えている、ということに尽きると思います。
ここで言う人生の真実とは、いまや世界のベストセラーとなり経済的成功を含む、社会での名声、そしてそれに優先する本人の心の幸福という、現代人の人生のひとつの大成功の姿でありながら、実はそれを生み出したのは身の毛もよだつほどの不遇であったことです。
彼はこの成功を目指して生きたのではなく、ただ、生きたのです。そうお伝えできます。

その結果として自分が得た大きなものがある。それを人に伝えたいと思う。それは成功伝ではなく、人間の姿と言えると思います。
そしてそれが多くの人に読まれ、多くの人に影響を与えることになる。そのことに確信を抱く彼の姿が感じられました。

これは実は、僕自身が自分の著作について結構似たものを感じることでもあるのを感じているという話。
前半生で、自分自身の心の中に幾重にも折りたたまれた迷路の中から、明るい光のさす今の世界にたどりついた経験を得た。それは人に伝える意味があるものだと思う。同じものが世界にさえ見出せない。だからなおさら自分が伝えなければという感じがしてくる。それまで自分は死んではまずいとさえ感じる。だから飛行機には乗らないのがポリシー(?)。

ただこれは大した情熱とか使命感とかでは実はないのですね。
何か、たまたま貴重なものを拾ったような感じがしているのです。荒野でたまたま、珍しい隕石のようなものを見つけた。科学的に貴重なものかも知れない。自分としてはそんなものなくても構わないんだけど、このままにしておくのはちょっとまずい感じがする。とにかく知らせなければ。

自分の前半生の小説化を、そんな感じでしています。それだけ、もはや、その小説書きに入れ込む時間以外には、思い出すことさえできないほど、別人になってしまいました。というか、記憶の中にある、自分の心に悩むある別人の物語を書いている感じになってます。

で、結構それが売れるんでないかとか期待もしちょる。能天気な夢としては、英訳本が出て世界でベストセラーなど。ハハ。
でそうなれればと期待するのは、とりあえずマンションのローンを完済して、一杯余裕ができたら、超気にいっている今のマンション集合の中でさらに大きな部屋を買う。
まあそこまでだなぁ。それ以上金があってもあんま意味はないですな。
能天気な空想。

俗人です。
件名の著者は、虐待の問題の解決に全身全霊を精力的に注ぐ偉大な活動家になっているけど、僕の場合は、「自分の心に悩む人間が、自分の人生をまっとうするただの俗人に戻った」過程なのですね。
それ以上でも、それ以下でもなく、それを伝えたいと思っているわけです。
そんなものが他にないから。また、そこに至る道に現れた、神秘な光。。。

あともう一つ言うならば、自分がそうなれた後で、世の中を見ると、何と自らの幸福について都合の悪いものの見方考え方をするのが、今の社会では主流となって浸透していることか。
これがホント呆れるほどなので、ちょっとそんなのでないですヨ、と言いたくなる。
心の問題にたずさわる方が良く言っているような、「分かってあげたい。心の重荷をここに降ろしてもらえたら。」とかの感じ、ほとんどなし。あんたの問題でしょ。が基本スタンスになっておりますデス。
まあ実際のかかわりで、それなりに心を動かされるとは思うけど、「島野」としての活動姿勢には入れてないです。

メンタルサイトにしてこんなこと言う人間、他にないような気がするのだけど、心の苦しみを抱える方への共感というものさえ、なんか消えてしまっている今日この頃。
去年の前半あたりまでは、そんなのあったかなぁ。要は「病み上がり」で、病気の時の苦しみがまだ感覚に残っているから、そんな様子の人を自分から見ようとする感じがある。
それがさらに元気を回復すると、もう自分の楽しみの方に気が向いてしまうので、病気で苦しい人の苦しみは分かるんだけど、あんまり感情に響いてこなくなっちゃうんですね。

体調崩して苦しい時、この苦しみを共感してくれる人の姿は大きなものだし、自分も不調な時、苦しむ人への共感もひとしおになる。
それが完全に体調を回復すると、もうサッカーしたくてうずうずする男の子のように、不調で苦しむ人を見ると、かわいそうだとは思うんですが、もう自分が生きることに夢中で、視野から離れて行ってしまうのですね。
僕がお伝えしたいのは、そこまで心の健康を回復する方法です。などど言ってどうなることやら..ハハハ^^;


さて余談が長くなりましたが(この後もまだちょっと長くなりそうだけど)、この「“It”と呼ばれた子」を、自分の心の中の心理障害の解決に参考になるものとしてお勧めするかというと、そうは言えないように感じています。

この本は、あくまで「虐待の克服」の記録であって、「心理障害の克服」の記録ではないんですね。


この点、純粋に心理学的な関心の持てるものでもあります。
「カルフォルニア州史上最悪の虐待」(*)と呼ばれるほどの逆境にありがなら、彼は明瞭な心理障害にはなっていなかったのです。
これは、彼の虐待主である母親が、彼の4歳頃までは理想の母親を演じ、愛情のある家庭が彼の出生初期に存在したことに関係します。
つまり彼の中で、「基本的安心感」が比較的損傷を免れたと思われます。その後、母親が理想の母親を演じることに破綻し、一転して鬼畜の姿へ。心の底の基本的安心感は損なわれない一方で、人生を生きる外面の能力が大きく阻害されて行く。これを後に克服する過程となります。

*思わずゾッとしたのは、作者が虐待解決のための活動を始め、かつての小学校に行った時の話です。
彼に勇気を与えてくれた、当時の尊敬できる教師に会う。何故かこの教師は、しばらく彼に目を合わせることを避けるような、不自然な態度を示す。作者に、ある伝え辛いことを伝えようと思っていたからでした。
それは、彼ら教師が、虐待児を保護するための法律がない当時にあって、警察に通報し彼を保護させようと決断するに至った理由でした。
作者自身が、それを少し謎に感じていたのです。何故あの日、自分が救い出されることになったのかと。。。
教師がそれを静かに話し出します。「あの日、君は..」と。。そして作者は手にしていたフォークを落とし、呆然として、忘れていた当時の自分を思い出します。「そうだ。あの日、僕は..」と。。
それは人間とはあるまじき姿でした。この内容はぜひ3部作を通して読んで頂きたいと思います。


一方、僕とかの例は、3歳児頃までに培われることが望ましい基本的安心感を失いながら、その後の人生の外面では比較的恵まれた生い立ちとなる、という逆の構図が少しあります。
外面の問題ではない、心の内面の迷路の世界に踏み込んだ。そんな経緯があります。
これはむしろ現代日本人にとって良く起き得るケースではないかと。

その結果、彼の著作の方は、この人生という戦場に出陣するにあたっての、基本的な心得と勇気を扱うような内容になっていますね。
僕の方は、もっと特殊で、その戦場の中で出会う、心理障害という毒のある爆弾を処理するための、衝撃防御のための緩衝の方法、起爆装置の複雑な配線の1本1本にいたる解きほぐし方と解除の仕方、その専門的な科学を伝えるのが自分の役目だと思っています。

そんな違いはあるにせよ、人生の本質というものが、彼の著作においても僕のものにおいても、全く同じものへと至っていることに大きな印象を感じています。
それは実に単純なことで、問題を真正面に見据え、最善の努力をし続けることです。そして、憎しみを捨てることです。

そうしさえすれば、解決に至れる。この人生を自分のものにすることができる。このことに確信を持っています。それは実に単純なことなのです。

一方で、そうできずに、自ら自分の人生を棒に振るような生き方をする人が何と多いことか。
それも皆実に単純な話です。問題を真正面から見据えることを避け、そのことにはもう疑いを抱くこともせず、起きる問題に「どうすれば」と、問題をよりよく回避する方法を探している人々です。
また、憎しみをまず選んで、憎しむ自分自身を変えることを考えるのではなく、憎しむ相手がどう自分の思い通りに変えられるのかと悩む人々です。
そしてまた、不安の回避方法として「嘘をつく」ことに一度頼った結果、「自己の真実を知る」ことを原動力とするこの取り組みへのスタートラインから、最初から逆方向に向かっている人々がいます。

その辺の「選択」を最大ポイントとして、今後とも書いていきたい次第。
当掲示板最長カコキかと。ふーっ。

No.198 2004/05/30(Sun) 00:14

愛の源泉 / しまの

これも紙切れメモの控えがてら。
このような項立てとしては感情メカニズム論の「愛の喪失と回復」で論じたい話でアル。

1)強さ 生み出す強さ。怒る、破壊する強さではない。
2)理性 これは主に強さの補助。感情だけではない理性の杖を持つことが強さを意味する。
3)意志 「人を好きになる」「フィーリングが合う」といった「愛」を越えさせるものである。世の恋愛論にしばしば抜けてるもの。
4)統合 最も深淵な話。自己受容とは対象としての自己を愛することではなく、対象としての自己という分離のない状態に還ることである。それへの力がどこにあるのかというと、本性であるという話になる。これは実は万物が未分離から分離したものであるという命題につながってくる。宇宙の意志とか神といった概念とここでつながってくるのだー。
これ気づいたときはマジで「悟ったり」と思っちゃったんだよなー。いつか本書くゾー!
メモ:合わせることではない、還ること。万物の源泉へ。万物は一体未分離から生まれる。分けて見ることで、分解的に捉えることができ、一方で何かが失われている。万物はそこに還る志向性を持つ。=愛における宇宙輻射
まあこれが島野の科学を越えた領域への思想ということになる。

No.197 2004/05/26(Wed) 13:50

根本にある「選択」 / しまの

以前「選択→実践→変化」だと書きましたが、要は、「こうすればこうなりますよ」という話はあれやこれやあるとして、実際のところその実践変化を決定づけるのは、ある根本的な「選択」なのだという話。

そしてこれから入門編などで説明して行きたいのは、その選択は如何なる条件にもかかわらず人間の心の内面に現れるものであるということです。
だからハイブリッドでは「こうして下さい」とか「こうすれば良くなりますよ」とは言わない。人間には根本的な選択があるのだということを詳しい心理学と共に説明する。最終的な選択は本人の問題である。選択は自由である。というわけナノダ。
どっちが「正しい」はありません。ただ、選択があります。

人は良く「社会がこんなだから」とか「恵まれていれば」そんなことも可能だという思考の中で、現状維持にとどまります。
だが実際にはそうではない。その選択はあらゆる所に現れる。なぜならそれは人間の心の外にあるものではなく、心の内側にある基本的なメカニズムだからです。
いずれ詳しく書く予定だが、紙切れにメモしたものを記しがてらかいときますと、今のところその「選択」には次のようなものがある。

1)既知を取るか未知を取るか
2)空想を取るか現実を取るか
3)過去へ向くか未来へ向くか
4)怒りを取るか愛を取るか。
これは一番いい古されたものであり、最終的な感情の分かれ目となる。しかしその本質は上記3つの選択があって意味が出る。そうでないものは結局怒りの姿勢の中で愛を強制することにしかならない。

後者が、心の健康、そして自己の幸福へ向かってまっさらな全力を尽くして生きる世界。

これが如何なる所にもある選択として、前者しか見れなくするものがある。
ひとつが、情緒道徳的な思考体系。これにまず思考の問題として変革をする。
もうひとつが心理障害の病巣である、感情の膿と自己操縦心性。これに感情分析で対処する。
これがハイブリッドの超簡潔なまとめ。

No.192 2004/05/20(Thu) 09:41

 
追加 / しまの

書いてから今日さらにこれもそうかと思いついたのがあと2つ..
ひとつは「現状維持か変化か」だったか。もう忘れかけ..まあこれは既知か未知かに含まれる。
あとは「ごまかしか真実か」。これは上のとは違って「どっちが正しい」という議論には乗り得るが、やはり常に選択が目の前に現れ得るもの。

No.193 2004/05/20(Thu) 21:49

 
追加その2 / しまの

自宅で仕事中の合間。
「感情に流されるか理性でとどまるか」も、ありふれた話だけど重要ですね。
ありふれた話だけど、ハイブリッドにおいては、これは単純は話ではなく、微妙な感情分析の中で現れる極めて重大な事柄になるんですね。

たとえば「怒りに流されない」という言葉から、世の一般の思考では「許しの心が大切」とか「笑って生きよう」とかの安直な皮相人生論に流れてしまうのだけど、そんな単純な話ではない。
自分の怒りの度合いが現実に起きたことと比較してどれだけ妥当であり、どの部分が現実に比して非合理的なのか、その中で自分が自ら引き起こした部分はどこなのか、その背景にある自分の思考形態の不合理性とは何なのか。
それを「感情を味わう」ことにおいて見分けていくことなのです。
ワインのソムリエの世界。

また、峠となる変換点で現れるような自殺衝動については、「最後の理性に託す」ことで踏みとどまるようなことも必要になります。
「こんな良いこともある」とかの安易な情緒論を一切越えて、心のメカニズムとして自分が前進の中にいる一過点なのだという医学的な最後の理性を保つ必要があります。

この辺、最近のメール返答で「感情と理性で一枚岩で行くのではなく、二枚岩で行く、という感じ」とか表現しましたが、この辺も感情分析の話あたりでもう少し詳しく説明をそのうち書きたいと思います。

No.196 2004/05/26(Wed) 11:39

感情分析の具体的進め方-5 / しまの

2)抑圧された感情が流れ出す時-2

このあたり、僕自身が実際どんな感じだったのかという話を書きましょう。
サイトのIntroductioniに、いずれ小説のダイジェスト版のようなものも掲載を考えていると書きましたが、まあまずはこんな所で代用かと..本格的なものは大変なので。。エヘヘ。

小説の章の話を5/6ペーターさんへの返答文にちょっと書きましたが、
第7章「内面の狂気」
第8章「心の旅へ」 一切の行動をやめ、自分の内面を知るために精神分析を学び始める。
そしてより本格的に心理学の道に進むため、心理学科のある大学に編入学します。
第12章「新しい大学生活の始まり」
新しい大学に通学するようになったのと同時に、僕はホーナイを知りました。そこで実質的な自己への精神分析が始まったのです。また、この後の劇的な分析過程を導くことになった、ある女性との出会い。そんなことになるとはつゆ知らず。
第13章「皮相な自己分析の果てに」 ここで僕の最初の分析になっていない分析の期間を描写しています。

「自己分析の徒労感」という節。文章は全面的に見直すつもりですが引用します。
新しい環境によって対人関係もリセットされ、ホーナイの精神分析という道具立ても揃い、自己分析をするのに理想的な条件が整っていたと言える。
しかし知的な自己理解は何も自分を変えるものではなく、1か月を過ぎようとする頃、僕の中にはこの自己分析の取り組みへの徒労感のようなものが生まれてきていた。ひと通りの自己理解をした後、その先に何も見えないという不明感の方が次第に明瞭になってきた。

..(略)..
僕は自分が感じているのが、まさに自分自身を抹殺したいという衝動であり、同時に強い劣等感におおい尽くされているのを感じた。

破壊的な自己嫌悪を直接感じた、最初の場面だった。
だが僕はまだそんな自分を何か他人事のように日記に書いていた。まだ真の自己から乖離して、自分の人格を人工的に練り上げようとする衝動の中にいた。

だがそんな状態も維持されるのが終わりに近づいてきた。
次の日、自己嫌悪感情が消失した状態で、人の中でかなり積極的に行動した。だがそれは快いものではなかった。どこに振れようとも、自分の心には安住の場所はないのだ、そんな実感が生まれていたのかも知れない。
自己分析を通して皮相な自己の人格を練り上げようとする衝動の中にあった、そんな日々の最後とも言えるものだ。

..(略)..
新しい大学での生活も1か月を過ぎた頃、自分に対する僕の視線に微妙な変化が起きてきた。
知性の中で表面的な自己の人格を作り上げようとする雰囲気が減り、自分の内面の感情をストレートに感じる表現に変化してきたのだ。

思えばその生き方は、高校時代に内面の独立を果たして以来、僕がその中で生きたものだった。自己の内面に破綻し、..(略)..心理学研究会サークル生活の中でひと時の安堵を得たあと、再び内面の独立から(略)大学編入を選んだ後でも、僕は自分の知性による統制の先に自己の解決があるかのように、ひとつの方向を向いて歩き続けていたのだ。
ホーナイの精神分析を得たことは、手にした地図でその歩みの道の確認をすることでもあった。

しかしその地図をよく見る程に、僕が歩いていた道の先に、道はもはや消失していた。
この方向に道はなかったのだ。

僕はいままで求めていたものへの諦めの感情を感じ始めていた。
進むべき方向感覚を失いつつあった。
ただひとつ自分に方向を得させようとするのは、「自己の真実に向かえ」という僕自身の内面の声だけだった。

..(略)..
自己分析への徒労感は、自分の「人格の成長」についての絶望感としても現われて始めていた。
「絶望」は僕の心の旅の中で大きな鍵となるものだった。それは破滅と再生を紙一重に隣り合わせた変換点だった。ただこの頃の僕は、そこに再生の側面があることを知らなかった。ホーナイの理論からだけでは読み取れなかったのだ。


次に「迫り来る自我の分裂と混乱」という節。この辺の心理学説明的な言葉は使わないよう全面的に書き直す予定。
皮相的な自己分析への気力が薄れ、自己の内面をストレートに感じるようになった時、隠されていた自己の真実も近づいて来たと言える。
薄れた気力が精神分析そのものの放棄を囁いたとしても、もはや自己の内面そのものが、それを許さないものであることを彼に教えるような形で姿を見せ始めるはずである。

ホーナイの「神経症と人間の成長」でも、分析過程の進行について、最初の方ではまず知的な自己理解が進み、しばしば過度に「聞き分けの良い」優秀な患者でいるような期間があることが書かれている。そしてその知的な自己理解が深層への直面に変わっていく時、患者は知的理解を超えた何物かが自分の中にあることを感じるようになる。
そこからが本格的な分析の始まりである。
彼は自分が一体何者なのかと、心から疑問を感じるようになる。

僕もその段階に来た。自分が何なのか分らなくなってきたのだ。


いくつか節があり、

81.6.8(月)

..(略)..
いろいろなことがあって、いろいろな洞察を得たつもりでいたのだが、結局僕は大した変化をとげていないような気がする。

当然である。まだ何も始まってはいなかったのだ。


やがて、僕の中に、高校時代の対人恐怖を独立の哲学によって振り切って以来、思い出すことさえなかったような、「僕は悪い子だ」という深い感情がありありと湧き出すようになる。
第14章「悲しみの原型・流れ始めた深層の感情」
深い感情を再体験すると共に、自己への不明感もより強烈になってきます。
この章の最後。

81.7.19(日)

..(略)..
自分の中には一体何があるのだ。
このところは、以前のような苦悩的な体験が全く影をひそめているが..
自分の中に、何か分らないものがある。今現在の自分からそれを見ようとしても、まるで通信が途絶えてしまっている、分離された自己があるのを感じる。

自分が果たして向上しているのかどうか、良く分らない。頭では自分のことを理解していながら、何かそれが頭の中だけで終わってしまっているような、あくまで対象的に自分のことを考えて色々なことが分っているのだけれども、見ている側の主体的な自分自身については何も見えていない気がする。
と言って何も向上していないとも思えないが。。


この後、僕の中で、分析の前にまず生活があるという態度ができてきて、やがてある出来事の中で「心を開放する」ことを知ります。
そして、切り離されていた自己をさかのぼる、大きな心の旅が始まったわけです。

No.195 2004/05/23(Sun) 16:00

感情分析の具体的進め方-4 / しまの

ちょっと間があいたが、感情分析の実践方法について。
具体的実践方法というか、結局内面の話になってしまうのだけど。。。

先日、「1)本当の感情分析が始まるまで」(5/8)として、思考体系の変革を通して、内面の全てを許すようになって、感情に深さが加わるという変化が起きてくる、と書きました。
それで、分析のための生活でなく、生活があって分析があるようになって、スタートすると。

だが、ここでもうひとつ、ある峠を越えなければならないんですね。
善悪思考を脱したとしても、「こうならなければ」という緊迫感までは解除できるものではありませんので、結局、自分の人格を何とか練り上げようとする圧力の中にいるんですね。
とにかくこの、がんじがらめの自己拘束を脱ぎ捨てないと、自分の本当の感情が湧き出すことを妨げられている状態が続いてしまうのです。


2)抑圧された感情が流れ出す時-1

これがどのような過程を経て前に進むのかを説明しましょう。
というのは、これは定型パターンを持っており、ホーナイが分析過程の初期として説明したものであり、また僕自身がそうであったので、恐らくメカニズムとして確実な話だと思っているのです。

基本的には、自己理解を進める過程が、まあそれなりに進むと思います。
これは海面の上から眺めて、中の様子を知ろうとするようなことに例えられます。
今まで分からなかった、水面の下の様子が分かってくる。多少、自分の今までの問題点が分かってきて、「こうすれば」と考えることができたりもする。そのまま、より深いところまで理解が進めば、そこに何か決定的なものが分かってくるだろう。

ところが、自己理解がさらに進むとともに、ちょっと様子が変わってきます。
何か、それどころではないものがあるという感覚が芽生えてきます。次第に、「自分が分からない」「どうしたらいいのか分からない」「どうしようもない」というのが増えてきます。
海面近いところに見えたものが、そのまま深いところまで続いていると思っていたのに、次第に深いところが見えてきたら、全然別の色模様が複雑に織り成されているかのように、おぼろげに見えてくるという感じです。

同時に、今まで絶対に認めたくなかった自分の内面の感情が、分析してもどうしようもないものとして存在することを認めるようになってきます。この内容は人により千差万別でしょう。
そして、分析によって自分の人格が改善されると感じていたことへの、ちょっとした絶望感のようなものが起きてくると思います。

これはそれでいいんです。それが通らなければならない道です。
「絶望」が「変化」へのポイントとして現れるということを前々から言っていますが、これがその最初になると思います。
これが、知って自分をそのように導けるような話なのかどうかは何とも言えませんが、知っておいたほうが良いでしょう。この病の元と取り組んでいる限り、絶望感に飲み込まれてしまう危険はいつでもあります。
絶望感に飲み込まれてしまうことなく、自分が前進していることを、理性で知っておく必要があります。

同時に、そんな中で、何か自分が小さな頃に体験したような感情が芽をのぞかせた時、それから逃げずに、それに着目してみると良いでしょう。
やがてそれが深さを持って感じられてきます。感情分析の実物は、これです。


なおサイトではこの辺を「演技心性の放棄」として説明しています。
http://tspsycho.k-server.org/ana/ana06-0203.html

No.194 2004/05/23(Sun) 14:39

雅子さまの休養の話に思う / しまの 引用

GW明け早々仕事が超あわただしかったが、一段落。
雅子妃の休養について皇太子殿下が「人格の否定もあった」とのこと。

雅子妃に何が起きたのかは想像に難い話ではないですな。精神的問題が起きている模様。それを何と呼ぶかは別として。
どうしたのかというと、要は役割を演じるために自分を殺してしまったということだろう。そして本人は「それが正しいこと」という思考に陥ったのだろう。

皇太子は真の愛の人だと思うので、それがこの問題を癒すことを期待します。
同時に、別の人間になろうとすることは、「それが正しいかどうか」などということでなく、いやそんな思考をするかどうかも含めて、人間の本来の姿に反したものであるという認識が社会に普及することを期待するものです。

No.191 2004/05/12(Wed) 09:22

「記憶を消す事ができるか」 / しまの

先日ある心理療法関連のサイトに、そんなタイトルの記事が転載されていました。
掲載元は、ニューヨークタイムズマガジンの最近の号。

ちょっと意味深げなタイトルに引かれて読んでみる。
ある女性が軽い交通事故に合い、道路に倒れている間、彼女の心に流れたことの描写で始まる。
最初は、何で今日スカートにしたのか、と。皆に下着を見られたかも知れない。
2つめ。このまま倒れていては車にひかれるのではないか。
3つめ。「3つ目は8年前の出来事を思い出した。ある晩車で帰宅中、交通信号で停止していた時に麻薬中毒の男が銃をかざしてドアーを開けて押し入って来た。そのまま車を走らせある廃屋に向かわせて、そこで彼女に強姦をしようとした。」

彼女はこの8年前の事件をフラッシュバックして思い出すことに悩まされる。生活全般がフラッシュバックを恐れることに妨げられるようになる。「朝起きるときは頭にピストルを突きつけられて起きる、そんな感じでした」と言う。
PTSD症状と呼ばれる状態です。

記事は続け、「この場合、彼女は精神科医に長いこと通院すべきか、強姦されそうになったあの悪夢の交差点を避けた方が良いのか、そしてできるならそのトロウマの記憶を全て消し去った方が良いのかが今回のテーマである。この回答は至って簡単であり、もし彼女が悪夢の記憶を消して苦しみを和らげる事ができるなら、それをすべきなのである。」

記事はそれから、記憶と強い情動との関係、そして幾人かの精神医学者が行っている、ストレスホルモンを抑制する薬の投与で、記憶の固定を制御しようとする実験について延々とレポートするものでした。
結局記事の方は、最初にそのタイトルに引かれたような深い視点がすっかりと消えているのを感じ、途中で読むのをやめました。

記事では他に、ベトナム戦争退役軍人のPTSDなども取り上げ、いろんな議論に触れていましたが、結局僕の問題意識に近そうなものは全く見られなかったのですね。
誰にでもあるであろう、思い出すだけで悔恨と恥ずかしさで胸が締め付けられる苦しさを感じる記憶。そこに出てくる言葉は、「どうすれば忘れ去ることができるのか。思い出す苦しみを放棄しないことに価値があるのか。」

僕はこの問題について言えば、どうすれば忘れ去れるかなどとは毛頭考えないですね。
なぜなら、「この悪夢の記憶が消えて苦しみが消えるのならそうすべきなのである」と考えたところで、記憶は実際のところ消えないからです。

むしろ僕は「そうすべき」という思考の方に注目します。「そうすべき」とは一体何のことでしょうか。
実際、その女性もその思考の中にいるように思われます。「自分はそんな体験などするべきではなかった」のです。

あまり細かい説明は省き多少短絡に聞こえるかもしれませんが、この女性には特有の性的純白性への理想化感情が背景にあることが、最初の記述から窺えます。
これに対する取り組みは、「この理想化を捨てる」と言った安易な言葉だけでは表現してはいけない、総合的なものです。
ここではこれ以上の説明はおおごとなので省きますが、入門編全体を通して、このレベルの問題への解答とも言えるものになることを書いて行きたいと思います。

No.188 2004/05/08(Sat) 19:31

 
つけたし / しまの

寝酒飲みながら(^^; 寝酒寝酒..^^;)自分のカキコ読み返して、
この事例の女性の思考体系のある基本的特徴がもうひとつあるのに気づきました。

「何で今日スカートにしたのか」。
彼女は今日交通事故に遭って、道路に投げ出されしばらくは体の自由が利かない状態になるのです。
そうであれば、今日はスカートでなくジーンスをはくべきだったのです。

この微妙で些細な思考が、実はこの事例の中で最も根本的で重大な彼女の思考形態を示しているかも知れません。
この先の人生でも、こうした思考の中で生きるのか、全く違う思考の中で生きるのか、彼女には根本的な選択の余地があります。
恐らくこの事例の女性は、そんな選択があるということさえ、恐らく知らずに過ごすでしょうが。。

「では全く違う思考の選択肢」とは何か。書いていてやはりこの声が出るのが浮かび。
抽象的に言えば、「宇宙に意志はない」ということです。彼女が今日スカートにしたことと、交通事故にあったことには、何の関係もないのです。
宇宙に意志があるのであれば、全ての出来事は「必然」であり、彼女はその必然に沿うことをしくっじったことになります。だから彼女は「何で今日スカートにしたのか」と考える。宇宙の意志を彼女がもっと正しく察知できていれば、彼女はジーンズをはいたのです。

「宇宙に意志はない」と考えたとき、全ては「必然」ではなく「偶然」になります。
ハイブリッドの思考体系がそう考えるのは、「従うべきもの」という拘束感を嫌うためではありません。
自己の選択能力を高めたいからです。そして実際のところ宇宙に意志があったとしても、私たち人間はそれを知るほど大それた存在ではないと考えるからです。だからせいぜい自分の選択能力を高めることに努力します。いや、そう考えることで自分にブレーキをかけることなく自分の能力を高めることに努力できるのです。


ここでいう「宇宙」は「神」その他もろもろと同じことです。

No.189 2004/05/08(Sat) 23:44

 
つけたし2 / しまの

「宇宙の意志」っていうのは現代人のものの考え方にとってキーと思っており、
ちょっとヤフーで検索ところ、ブッダはこれについては沈黙を理としたらしい。http://www2.justnet.ne.jp/~zerospace/cosmos.html
東洋宗教、深し。「ブツダは宇宙の意志について気付かれていた」とかの記述はちょっと偶像崇拝っぽいけど。。

その他、「宇宙の意志」でヒットしたサイト見ると、情緒論的なもの、宇宙起源論的なもの、玉石混交の雰囲気。
心理を離れて、面白いッチャ。
読んで寝よ。

No.190 2004/05/09(Sun) 00:09

感情分析の具体的進め方-3 / しまの

1)本当の感情分析が始まるまで

■感情分析以前

まず、最初は感情分析をしようとしたところで感情分析にはならないことを心得ておくのが良いと思います。
これは必ずと言ってよいほどの、感情分析のメカニズムの本質から起きる現象です。僕の場合もそうでした。

なぜなら、感情分析をする気になる原動力は「自分の人格を改善したい」「こんな自分を変えたい」とかの動機だからです。
そして感情分析は、内面の全てを許すことによって、今まで抑圧されていた感情が流れ出すことを持って実質的にスタートします。
ところが、最初の「自分の人格を何とか」という動機の根本にあるものがまさに、自分の内面の全てを許さずに、自分を何とかしようとするあがきなのですね。
従って、最初は、「自分を分析すると何かが良くなる」かのような期待の中で、学習したことを自分にいろいろ当てはめて、自分はこうでないのか、この感情はこのことではないか、と考える時期となります。

これは、隠されていた感情が流れ出す糸口に近づくためにも、必要な時期です。
同時に、自己の内面の全てを許すようになる、思考体系の変革が必要になります。これを、感情分析以前の自己理解の中で進めるのです。

この思考体系の変革は、入門辺でこれから力を入れて書こうとしているところです。
ひとことで言えば、一切の善悪観念を捨て去る思考体系です。
この思考体系の変革が起きるまえに、感情分析というのはできないと思っていますし、この思考体系に「移行」しない方には、感情分析はあまりお勧めの作業ではありません。自己嫌悪の材料を探すだけの作業になってしまう恐れがあります。

同時に、心理障害の感情には中立の、「自己建設的な姿勢」の理解もぜひ進めておいて欲しいものです。
どんな悪感情が自分の中から湧き出したとしても、自分は生きて前に進むことを許された存在である。それは何故か。これを自分自身で納得できる、筋の通った話として言えるような、人生観世界観が必要です。
ちなみに僕自身の場合は、思考体系の変革はできてたので精神分析ができたのですが、認知療法とかとの出会いがまだだったので、自己建設姿勢が不十分な状態で進めたため、症暦(Introduction)にも書きましたがちょっとヤバイ状態になったのですね^^;


■分析があって生活があるのではなく、生活があって分析がある

自己の内面の全てを許すようになるにつれて、生活の中で感じる感情に、少し変化が起きると思います。
ひとことで言えば、深さが増してきます。今まで感じなかった、でもそれは自分が来歴の中で抱えてきた、自分本来の感情です。
この段階で初めて、感情分析の幕開けと言える変化が起きると思います。またそう自分を導くのが良いと思います。

それは、分析があって生活があるのではなく、生活があって分析があるということです。
それまでは、分析によって自分がどうこうなれて..というフィルターを通して自分の生活をイメージするような感じだと思いますが、そうである内は何も進んでないのですね。
また、上のような理解が進むことで、このままでは何も進まないという実感から、内面に変化が起きると想定しています。
何の前提もなく、ただ自分の生活を生きることへの動きのようなものです。

分析があって、自分が変わって、生活があるのでなはい。
まだ何も進んではいない中で、自分は生活を進めて、その中に分析がある。
これが、自分の人生を取り戻す過程のスタートであり、感情分析のスタートです。

No.187 2004/05/08(Sat) 14:58

感情分析の具体的進め方-2 / しまの

具体的な方法の話になりますが、先に書いた目的が達せられるならば、具体的手段は何でもいいということになります。
つまり感情の反芻と吟味を補佐する作業です。

色々あり得るのでしょうが、「書き記す」ことに勝る方法はないように思いますねぇ。
言葉にする、微妙な感情の違いを言葉の違いで明瞭にする、等。
僕の場合は結局日記という形になりますが、やはり大抵の人はこれで良いのではと思います。

以前僕の日記のつけ方を紹介したのは去年8/23の「島野の第1日記の話 」ですね。過去ログに収録。
話のついでに、実際どんなものかと写真撮ってみました...一度掲載したけどちょっと話が身近すぎるのでやめー^^;

ただこんな外面は大した話でもなく、もっと中身の方法みたいのを知りたいと思われる方が多いと思うんだけど、特にこれといったものがあるわけでもないとも言えそうなんですね。
思考体系の変革、生活の中で生きる過程、自己の内面への探求、この全体をまず理解することが大切であって、具体的作業がどんな感じになるかは、その理解の結果として現れるとも言える。


それでもごく基本的な心得みたいのがあると思います。
どうせ書くなら一通り頭の中ダンプしてみようと(IT業界用語?)、シリーズものに発展!

No.186 2004/05/08(Sat) 11:24

感情分析の具体的進め方-1 / しまの

ペーターさんへの回答の続きなのですけど、
質問への答えだけでなく自分の考えを言葉で整理していて、例によって膨らみそうで^^;、ここに前段。
(いずれ章立てられた解説になるはずの原稿がてらというワケだ)
残りをまた明日(今日)以降。

感情分析とは、自己の感情に対して、自ら日常で体験する深さと範囲を越えて突入する試みであると定義できます。
つまり、日常の生活の起きる感情の流れに、さらに人為的な操作を加えることで、生活体験そのものの限界を超えた情動的変化が人の人格に生じるという原理を使った心理療法技法です。
(例によって堅苦しい言葉を並べましたが、これが現時点の単刀直入の定義です)

この人為的操作とは、反芻吟味です。
その感情の意味は何なのか、他の感情とはどう違うのか、他の感情とどんな関連があるのか。
これは感情の仕組みを頭で理解するのではなく、それを味わうこととして体験することです。

これはワインのソムリエにたとえられます。
ソムリエはワインの知識をまず頭で持ちますが、それだけでは何の上達にもなっていません。
実際にワインを味わい、微妙な違いが分かるように味覚をとぎすませていく。知識つまり学習と、実際の体験の両方が必要です。
感情分析も、行うことは「真実に向かうこと」だとして、そのガイドとなる学習が先に必要です。自分に嘘をつくとはどう起きるのか、人間の心の真実とは何か。
あとは実際の生活体験の中で、自分の感情の真実に近づく努力をするだけです。自分の感情を何度も吟味していく中で、学習した「自己欺瞞」とか「自己の受容」とかが実際どの感情のことなのかが見えてきます。やがてそれが愕然とするほどの「気づき」につながっていきます。

さて、本質がそんなこととして、実際の進め方のテクニックとしてはあまり大した話ではありません。
というか、これは正に心の内面に切り込む作業を言っているので、行動の外面の技法ではそもそもないのですね。

まずはこの学習をすることです。外面ではなく、内面を見ることです。

それでも多少のテクニック的なものが出てきます。2つあります。

まず、内面に切り込む作業のテクニック
これはどんどん感情が流れていくなかで、単に流れて消えて行かないように、反芻と吟味に乗せる作業です。
具体的には言葉にして書くのが最適です。
次に説明をします。

もうひとつのテクニックは、さらにその作業の方向を自分から導くことです。
感情のもつれの根底が頭で先に捉えられることはありません。愕然とするほどの気づきとして向こうからやって来ます。
原則として、そこにどう近づけるのかは、意識では制御できません。
しかしこの過程に馴れてくると、全く見えない何ものかに向かって自分を導く感じになり得ます。
これは説明して分かる話ではありません。やがてそんなこともあり得ると聞いといて頂ければ。多分に僕自身の考えの整理で書いています。
ケーススタディ02はそんな状況まで進んで起きた事例です。感情分析のメカニズムを典型的に示していますが、逆にそれほど典型的な変化が起きることは、これから感情分析を進めるという段階ではおき得ない、コンパクトに効率的変化が起きた事例です。

ですから、行おうとしている内容が重要なのであって、外面行動テクニックが重要なのではないのですが、
とにかくまずは前者の、内面に切り込む作業とは実際のところどんな風に進めるものなのかという心得があると思いますので、
それを次に説明します。

No.185 2004/05/07(Fri) 01:36

ありがとうございました / ペーター

3回にわたるとても丁寧なご回答、ありがとうございました。
じっくり読みながら療法に取り組む決意を固めた次第です。

はじめは「善悪判断をしない」というのが難しいのでは…と
感じていたのですが、ここ数日テレビニュースなどを観ても
「正しい・正しくない」ではなく、「好き・嫌い」、
「美しい・美しくない」といった趣味や美醜の問題として
自然と受け止めることできつつあるようです。もちろん、
まだ恣意的にそう感じようしている意識も残っているのですが
それとて、自分に「べき」を押し付けないのが肝要ですね。

心理障害の原点(萌芽)は、ほぼ例外なく思春期以前の
幼児期にあるとのことですが、私の場合、最近問題に上る
親からの虐待経験などはなく特に愛情に対する飢えや欠乏も
意識しないまま育ち、現在も両親との関係は良好です。
だからこそ私は、自分が「心理障害もどき」なのではと
自分には「建設的絶望体験」など起こらないのではないかと
いぶかしく感じていたわけですが、実は今になって、
自分が小学校に上がる直前に母親が会社勤めを始めたことを
思い出したんですね。いわゆる「カギっ子」というやつです。
今となってはそのときの感情など知る由もありませんが、
きっと私は寂しい思いをしていたんでしょう。
もっと母と一緒に過ごしたいと思っていたんでしょう。
そんな自分の来歴を私はすっかり忘れていたのでした。

いささか陳腐な表現ですが、「ハイブリッド心理療法」は
なんというか「心の旅」という感じがしてきました。
その道のりは決して平坦ではなく、過酷な体験も待っている。
このサイトを頼もしいガイドに、旅立とうと思います。
どうもありがとうございました。
明日(今日?)のカキコ、楽しみにしています。

No.183 2004/05/06(Thu) 01:26

 
Re: ありがとうございました / しまの

「心の旅」はまさにそうですね。
そんな感じになるかどうかは結果論なので、ハイブリッドの記述の中では使っていない言葉ですが、僕自身の体験ではそうでしたし、その言葉があまりに大きな響きを持って感慨を感じることでもあります。

自分の前半生を小説化するのですが、それは「自分の心の奥深くに迷い込んだ僕が、今のこの世界に戻ってくるまでの、とても長い物語なんだ」という言葉で幕を開けます。
第7章が「内面の狂気」。思いのままに行動する奔放が、ある出来事をきっかけに破綻し、狂気不安へ。いっさいの行動をやめ、内面に向かう生活が始まる第8章「心の旅へ」。
それから大学4年当時の最大の峠までを書いたものが第一部と第二部あたりかと。これは2、3年後あたりには刊行したいという目論見です。

自己操縦心性の巨大な崩壊までをたどるのですが、感情分析の実際というのは実はこうしたものまで読んで頂かないと良く分からないかも知れないという状況があります。それだけ、やっている本人には何が起きているのか分からない部分がある。

一方で、そこまで実体験の詳細に入ると、人それぞれの背景の違いも明瞭になってきますので、「そんな条件でそうなったとしても、自分の場合はどうせ..」という感想を持たれる危惧も少し感じる。
そうではなく、まさに「こうであれば」という枠をはずし、自分が唯一無二の存在であることを許したあとに始まる、その人だけの心の旅になると思います。

感情分析はホント難しいです。
サイトでの説明も増やして行きますが、まあ10年後位には僕以外にも、「終わったこと」としてこの歩みを振り返る人が多数おられることを期待。まあ焦らず進めましょう。

なお小説の終わりの方の章はまさに「心の旅の終わり」の予定。後日談の章もあると思いますが。第何章になることやら。100章以前だとは思うけど、越えたりして..
ここまで刊行できるのはもうかなり先のことだろうなぁ。。

感情分析の具体的進め方については今日夜か、明日にずれこむかも知れませんが、よろしくー。

No.184 2004/05/06(Thu) 13:03

ペーターさんへの回答3:感情分析の心得 / しまの

感情分析についてのできるだけ分かりやすい説明は入門編でいずれ書きたいと思いますが、進める上での心得として最も要になりそうなポイントを書いておきたいと思います。
3点あると思います。

まず、感情分析は闇雲に自由連想の中を漂って行くような形ではない、明確な進行過程があるということです。
その進行過程に乗るようなものでないと効果は少ない。またその進行過程に自らを導くような姿勢が必要になります。
一方で、実際にどのような進行にあるのかは、表の意識によって知ることはできません。進行は意識下で起きており、意識の表面はかなりとも混沌としたものになります。

そんな中で自分を導くとは、それが「真実に向かう過程」であることを意識することです。意識的な努力でできるのは、真実に向かうことです。分析の進行そのものは意識で制御することはできません。
真実に向かうとは、ひとつは自分についていた嘘をやめるということであり、もうひとつは人間の心の真実を知るということです。本当の自信とは、愛とは何か。

ふたつめの心得。
それが「建設的絶望」に向かう過程であるということです。
ペーターさんの質問、「建設的絶望体験は起こるのか?」への答えです。必ず起きます。真実に向かう過程とは、この建設的絶望へとやがて飛び込む方向へ向かうことと、ほぼイコールです。

これは別の表現をするならば、自己操縦心性はもともと自己破滅する力を内在させています。それは自分に嘘をつくことと、心の真実から離れる感情の塊だからです。一方で人間の心は自己欺瞞を消去し、真実に向かおうとする本能を備えています。
ちょっと難解な言葉を並べましたが、自己操縦心性は崩壊に向かう。これが心の自然治癒力とも言えます。

一方で、その崩壊をまぬがれようとして、自己操縦心性を温存し維持させるために、人の思考体系に偏りが生まれ、ストレスとしてエネルギーが浪費され続けていたわけです。
感情分析はその不自然な心のバリアを取りのぞく作業と言えます。自己操縦心性を見つけて取り除く作業ではありません。自然な心の流れが開放される中で、自己操縦心性はそれ自身の崩壊への力によって崩壊します。

心得の3つめ。やはりこれが「人生の過程」として起きる、いやその形でしか起きない、ということです。
人生に対する今までの態度はそのままに、頭の中で何かの訓練のようなものをして、うくま行くようになる、という話ではありません。
人生に対する態度を根底からを問い直すことであり、問い直して初めて起きる変化のことを言っています。
従ってもうひとつの質問、これによって何か支障が起きるようなことはないか、について言えば、「人生に対する態度を根底からを問い直す」ことで起きる問題、と表現されるもろもろのこと、と言えると思います。

これが現実の生活の中でどんな話になるのかは、あまりに広い世界の話になります。
まあレールの上で得る安定というものが崩される可能性がある。これが最も起きる可能性があるでしょうね。

ただ、こうした「自己操縦心性の崩壊」が起きるのは、分析の本当に最後になってからです。
その前に、抑圧の解除による開放感の増大などがまず起きますので、それ以前に心配しなくても良いと思います。
そうしたことを通して、内面の開放への確信が強固になった後でないと、自己操縦心性の崩壊も起きないんです。

むしろ、自己操縦心性は維持されたまま人を自滅に向かわせるものなので、取り組まないままで過ごすことで起きている人生の損失のリスクの方が大きいと思いますねぇ。

感情分析の実践方法については、あともう一つカキコしときましょう。明日になると思いますが。

No.182 2004/05/05(Wed) 23:55

ペーターさんへの回答2:心の歪みの治療 / しまの

サイトを読むだけでも感情の改善があったということは、「正しい姿勢」に治したということでしょうね。
心の歪みを治すにせよ、まずは今現在の、いつも取る姿勢を正しく健康的なものにしないと、圧迫が加わり続けますので。

でもいちど骨格に歪みが生じていると、もう姿勢を治すだけでは解決にはならないですね。
それを正しく知り、無理に歪みを元に戻そうとするようなことではなく、医学的な正しい知識で、これを矯正して健康な状態に戻すことが必要になります。


余談ですが、僕は今文字とおり2種類の骨格矯正に取り組んでいます。
ひとつは歯の矯正治療。
もうひとつは、趣味のスキーで、左右の骨格の違いで苦手な方のターンというのがどうしても出てくるので、この骨格矯正。具体的には左右同じように横座りができるように、生活の色んな場面で曲がらない方の横座りをするようにしています。この効果は極めて除々ですが、確実に出ています。
骨格というのは、一見変わらないように見えて、生きている物体なので、ゆっくりと変形することができます。
この時、「弱い力をかけることによって変形させることができる」のが医学的ポイントらしいです。それを超える力を加えると、細胞が死んでしまって凝固が起き、もう変形しなくなってしまいます。

心の歪みの矯正も、実に似たメカニズムで起きるように感じています。
まあ凝固というのはないとしても、無理に心を変えようとすると、悪化するようなことが起きると。

適切な弱い力というのは、心の歪みと健康な心の姿勢のぶつかり合いと言えます。
すでに起きた歪みから悪感情が起きてしまうのはしかたのないことです。
これを一気に消し去るような魔法を求めるのではなく、既に学んだ健康な心の姿勢でそれに当たる。その弱い力が、じわじわと、心の歪みを消して健康な状態に戻すような作用をします。
逆に、このような作用になるような健康な心の姿勢を学ぶことが非常に重要になってきます。これは結構沢山の思考変革と訓練が必要な、独自の思考体系の習得です。安易なプラス思考ではないことに注意して下さい。これから入門編で説明して行きます。

それを通して、まず何が起きるかというと、心の歪みが歪みとして見えてくるということです。
「こんな場合はこう感じて当然なのだ」という思考の中になると、歪みが歪みに見えず、そのままです。
歪みを正しく感知できるまでには、人間とは何か、善悪とは何か、自分が人生で求めるものは何か、そう言ったことを自分は本当はどう思っているのかをはっきりと捉え、日々生活の中で起きる感情がその通りかと吟味していく過程が介在します。

するとどこかにおかしな所が見えてきます。
あんなこと楽しくないと思いながら、誘われないと苦々しく感じるとか、人を見下す気分の一方で、びくびく卑下する気分があったりとか。

感情分析とは、そんな感じで自分を分析する過程です。自分の思考内容と感情内容のずれを発見していく過程。
漠然とした感情については、「この感情の本当の意味は何なのだろう」と吟味する。つまり感情を心の中で何度も反芻してその意味を考えます。

この辺から、進め方の良し悪しが出てきます。
何よりも、自己嫌悪の材料を探す姿勢にならないよう注意が必要です。そうならないように、上に言った思考体系の健全化が先に重要になります。
あとは、感情の矛盾をあたまで解決しようとしないこと。矛盾した感情は、解決の出口がないものとして現れます。またそう現れたことを感じる時が、心の自然治癒力が働き始める時です。
心の土台から変化が起こり始め、前には見えなかったものの先に、感情分析をする度に、1センチづつ近づいていくようなことが起きはじめます。
起きてくる感情の様相も次第に変わってきます。この先でかなり迷走が起きることになりますので、その心得を簡潔にまとめておきましょう。

No.181 2004/05/05(Wed) 16:32

ペーターさんへの回答1:障害と一般感情の差 / しまの

どーもー。こんにちは。
3日で全部読んじゃったとはすごいですねえ。
質問へのお答えをまとめてみました。
いくつかポイントがありますので、レスでなく分けて載せます。3つくらいになるかな。

ハイブリッド療法の取り組みとは、「心の健康法」だと言えます。
「体の健康法」と基本は一緒で、適切な食生活、睡眠、適度な運動。
心の場合は、偏りのないものの見方考え方現実と自己の受容、そして生活の中で心を開放して生きる過程

これを心理療法としても位置付けるのは、心理障害という特別な状況を克服解消するところまでを扱っているから。
で、心理障害とは何かという考え方で、色んなものが世にあるわけですが、
ハイブリッドでは、心理障害を病気とは全く考えていません。
「病気」とは、あくまで健康な身体機能とは別物の侵入もしくは形態異常による症状を言います。
心理障害は病気ではありません。健康な心身機能メカニズムの中で起きているものです。

身体症状のケースでは、悪い姿勢をずっとしていると骨格に歪みが生じて症状が出るというのがあります。
心理障害はこれと同じからくりだと考えています。

悪い姿勢を取りつづけると、骨が曲がってしまって常に痛みが起きるようになってしまうことがあります。
心も、悪い姿勢を取りつづけると、心が曲がってしまって常に痛みが起きたり、外界の出来事に対して望ましくない反応を起こすようになる。

骨格の歪みというのはもう全ての人に当てはまる話で、肩こりや頭痛、疲労とかの原因であることが知られています。
その程度も人それぞれなので、どこまでを「障害」と感じて、なんとかしようと思うかは人それぞれです。
ペーターさんの場合の見下し応酬感や復讐心、楽しめないなどはやはり、治療してすっきりできればそれに越したことのない問題だと思います。
それらが取り去られると、生まれて初めてといっていいほどの、すがすがしい感情の中で生活を送れるようになるかも知れませんものね。

ですから、「心理障害なのかそれとも許容範囲のネガティブ思考の持ち主なのか」については、
本人がそれを許容できると感じるかどうかによる、という話になります。

自分で何とかしたいと思うから、姿勢を良くして骨格の歪みを治す方向への動きが起きるわけで、
何か外から見た基準で病気と診断され治療対象になるという話ではないわけです。

逆に言えば、それがしごく自然なことであり、それに満足している、という人の場合は、別に療法など考えないでしょうし、それでいい話ですね。まあ得てして、本当は不満があり自分をごまかしているというのも多いと思いますので、頻繁なマイナス感情や思考は取り組むに越したことはないと思います。

なお、このように本人の「心の問題」ではなく、病気であるとして、何かの基準から「診断」して、薬を出す。
この現在の普通の精神医療のアプローチは、これ自体が「レッテル貼り」であり「心の問題からの逃避」だと考えています。

そんなことをしてるので、本来治るはずのものが悪化するようなことになってしまっています。
これ自体が、「現代社会」という人格の「心の歪み」のひとつであり、治療対象とするのがいいと思っています(ニタ^^)。

No.180 2004/05/05(Wed) 15:29

こんばんは / ペーター

しまのさん、はじめまして。
3日間かけて、ノートを取りながらサイトの全ページを読ませていただきました。
目からウロコが落ちるところあり、「そうだそうだ」と納得するところありで、
簡単なメモのつもりがノートは22ページにも及びました。
さて、2点ほど質問があります。

@「私は実際、“心理障害”なのか?」
おそらく以前のしまのさんと同様、私は普段ごくごく一般的な生活を送っており、
精神科医にかかったことも、精神薬の類を服用したこともありません。
が、基本的に情緒は低位安定、時としてひどく気分が落ち込み、
無力感、劣等感、自己嫌悪、他者への羨望・嫉妬にさいなまれることがあります。

とはいえ、そんな時でも本気で自殺までは考えたことはなく、せいぜい、
「今核ミサイルが飛んできて一瞬で蒸発してもいいかなあ」と思う程度です。
問題は、気分の落ち込みに対する明確な「原因」を私自身が把握している、
と感じている点です。
それは、仕事や経済状態、恋愛や人間関係がうまくいかないといった
自分の心の中ではなく「外的な」要因です。
自分の中には「良い事があれば気分が弾み、悪い事が起こると気分が沈む」
といった人間一般の感情の因果があるだけなのではないか?
という疑念があるわけです。
要は、すべてが「外的要因」に依拠しているのでは、という思い(込み)。
下種な話で恐縮ですが、たとえば
「宝くじで3億当たれば、問題はすべて解決するはず…」とか。

ただ、普段の自分を振り返ると、愛想が良くて気さくな人間という
周囲からの評価を感じながらもその実、彼らを見下しているようなところがある。
必要以上に自分を客観化し逆に特定の人々からは見下されているような気がする。
純粋に人々の幸福を喜べずに、「今に見返してやる」といった復讐心を覚える。
幼い頃の自分を映像として思い出し、「こんな人間ではなかったはずなのに…」と
ベッドの中で眠れぬまま涙を流す…。
楽しめない、喜べない、心から笑えない、世界を愛せない。
なんかこう書いていくと、そしてこのサイトを読んだ後では
自分が典型的な「心理障害」とも思えてきます。
「感情の膿」はともかく、確かに「自己操縦心性」を自分の中に感じます。
そして現在、明らかに他者からの「離反」を志向しているようです。

私は心理障害なのか、それとも許容範囲のネガティブ思考の持ち主なのか、
そこのところがわからないのです。
そして、そんな私が「ハイブリッド心理療法」に取り組んだ場合、
(劇的な?)「建設的絶望体験」は起こるのか? 私が心理障害ではないとして
それが起こった場合、なんらかの悪影響、とりかえしのつかない副作用のような
ものがあるのかどうか、教えていただければ幸いです。

A感情分析の実践方法について
「ハイブリッド心理療法」を実践することになる場合、
日々の感情の揺れ動きに関する日記を書こうと思ったのですが、
特に否定的な感情が起こらない場合も記述するほうが良いのでしょうか?
ちょっとした気分の落ち込みがあり、このサイトにたどりついたのですが、
読んでいくうちに、ずいぶん回復したように思えます。
もちろん、それは一過性の対処療養に過ぎないのでしょうが、
“元気ハツラツ”な時の感情にも、心の病の要因は隠れているのでしょうか?
サイトのどこかに
「小さなメモを常に携帯し、走り書きした内容をノートに書き写す」
というような、記述があったと記憶していますが、
しまのさんが取り組まれた感情分析の実践方法について
より具体的な手法を教えてもらえればうれしいです。

はじめてなのに長々とすみませんでした。

No.179 2004/05/05(Wed) 04:20

「原因」と「選択」 / しまの

帰省から戻り、例によって大分酒が進んだ中で書いているのですが、
(一応誤解なきよう書いときますと、アル中ではありません。あはは..普段の平日は酒は飲まず青汁飲んでる健康生活です。)
レンタルにて、ようやっと「マトリックス・リローデッド」を見る。
日々の生活の中で、映画を見るのに向ける時間が大分優先度を下げている状況もあり。

作品自体はまあ完結編の前段という感じでしたが、その中である言葉が何とも大きく迫ってきているのを感じました。
預言者の言葉に導かれ、ネロ達が「キーメーカー」を探しに行く。

「キーメーカー」の居所を知り、しかしネロ達をくじくこうとする男が言う。
「知るべきことは理由だ。それで全てが決まる。作用と反作用。原因..そして結果だ。」
モーフィアス、「あるのは選択だ。」


この辺の会話、何を表現しようとしているのかと、作者自身や評論家が捉えてるのか知りませんが、
あまりに大きな人間としての本質をテーマにしているように感じました。


それはサイトがテーマにしている最大のものと同じなのですね。
心理メカニズムとして膨大な「原因と結果」「作用と反作用」がある。
しかしそれを導いた根本にあるのは、それではなく、「選択」だったのだ、と。

心の病に悩む人の言葉は、たいてい、「原因と結果」になってしまっています。
ああだから、こうなってしまったのだ。
こうだから、そうなのだ。

その根本には「選択」がある。
「原因と結果」という世界を作ったことでさえ、選択の結果なのだ。
その選択そのものに立ち帰った時、何が見えるのか。

まあそれが「未知」ではあるのだろうが、映画がそこまでを表現しようとするのかどうかは興味深いところだ。
なぜなら見た瞬間、それは既知になってしまうからだ...

No.178 2004/05/05(Wed) 01:55

こんにちは。 / のの

島野さん、初めまして。
私はずっと心理障害で苦しんできた者です。今もですが。
ここのページ、たくさんプリントアウトして読んでいます。
読み物としてもとても面白いですし、自分の問題をなんと
かする手助けにもなっていくと思っています。
これからも期待しています。
どうもありがとうございました。

No.176 2004/05/02(Sun) 02:01

 
Re: こんにちは。 / しまの

始めまして。どーもー。
お酒が進んで意識が切れる寸前なのですけど、素朴なカキコがうれしー。

まだまだですので、今後ともよろしくー。

No.177 2004/05/02(Sun) 02:20

孤独感のない一人身の中で考えたこと / しまの

酒が入り始めほろ酔いの中で書いてるんだけど..
酔いの中で考えた話でなく、その前に考えて書こうかと思った話。

今度のGWは数年振りにスキーに行かない感じで、明日から3日ほど帰省する以外は、11連休取ったにもかかわらず自宅で過ごすことに大体決めている。
一人でする作業を主とした生活をしてて、改めて、仕事(あとスキーも)を離れると何と人との接触のない生活かと。

少し以前までは、こうした時何となく空しさや、自分が「友達のいない人間」のような苦さを感じがちだったのだけど、それがもうほぼ消えているのを感じ、改めて考える。
詳しい解説は省かせてもらいますが、自分が進む方向がなく停滞の中の空しさを消すための「友だちに囲まれた自分」というイメージがあって、そんな状態が起きていたのだろうなと。

無論(どう無論かという話がまたあるのだけど)、この、人との接触のない生活にこもるつもりはない。
空しさから逃げるための何か、ではなく、人生において自分が「一人でなく生きる」方向があるから、一人でいる今が空しいものに感じない、という感じに思います。

これは、ハイブリッドでは全ての善悪観や「人のあるべき姿」を解体し、完全にゼロから本当に自己の求めるものが何なのかを探ることを行いますが、その中で、やはり人間に課せられた「幸福の条件」があるのかというテーマになってきます。
それはまるで、来歴の中で自分を弾劾した世界に、成長した自分として再び戻って行くようなことであるのかも知れないという感覚をふと憶えます。

あまりに普遍的で、「そうできるように」としばしば心を縛るものになっていた。もう縛られたくない。でも人間とはやはりそれを必要とするものなのだ。というもの。
縛りたくないから「これが必要です」とは言いたくないもの。でもそれで終わらせることはできないもの。

ホーナイもそんなこととして、3つのことを述べていました。
ホーナイはこれを「幸福の条件」と言ったかな..「自己実現の条件」と言ったかな..
「良好な人間関係」。
「創造的な活動」。
「自分自身への責任を持つこと」。
やはりこの3つが本質のように感じます。

実はここまでが前置きで、僕が今感じている「一人でなく生きる方向」とは、今年の新入社員歓迎式でうちの会社の社長が、進入社員かからの質問コーナーで言っていたのがまさにそうだと感じる話。
まあそこそこ大きい会社で、社長は大企業トップとの親交も多く人望も厚い人。常に前向きで生産的で、人間の成長の姿というものを考えるのにいい例とも言える人物。

新入社員からの「仕事とプライベートのバランスについて、どのようにお考えか教えて下さい」
社長、ひと呼吸おくと、質問をひとまず置いて、自分の心の奥へ向かうかのように、しみじみと、こんな話をする。

お会いしたお客様から印象的な話を聞いたことがあるんです。
イタリアに赴任した企業の社員の方なのだけど、そこで寝る間も惜しむかのように働いていた。
ある日、住まわせてもらっていた宿のお上さんに、こんなことを言われた。人間には3つの仕事があるんですよ、と。
ひとつは普通言っている仕事、つまり職業。もうひとつは家庭。そしてもうひとつは社会。
生活のために職業が必要として、残りの2つを免除される職業というものが、この世には2つあります、と。
ひとつは、軍隊。
もうひとつは、囚人。
さて、お前さんは、そのどちらだい。


この後社長がどう言葉を閉じたのかは忘れましたが、明らかに、家庭を十分省みる時間はないと思われるこの社長のこの話には感銘を受けました。
僕自身が今、人生の転機を感じていることと重なる話でもあり。
家庭を作って子供を育てたい。あと社会とは、僕にとってはこの著作活動を社会に出すこと。
そうした人生の活動が先にあるのであって、「友だちに囲まれた自分」は結果でしかないという感覚を感じつつある今日この頃。
この重みを感じるほどに、自分の人生が既に敷いたレールの上を走るところから、レールのない大きな世界に向かっているかのような感覚を感じる今日この頃です。

自分の心に枠をはめることをやめた後にでも、いやその後でこそ導きとなるものが、あるように思います。


1時間以上もかけてこれ書いている間、お酒のみっぱなし..今日はそこそこでやめとこうと思ったのだけど..
底なしに強いもので..
お酒には「中庸」はなし。なんてね。アハハ..

No.175 2004/05/02(Sun) 00:07

「昼休みが長すぎる女子社員を正したい」 / しまの

先週金曜(4/23)に「面白い記事が2つ」と書いたもうひとつ。
書こうと思ってそのページとっといた。

「職場BBS」というカラムで、投稿とそれへの意見を読者から掲載するもの。
昼休みが長すぎる女子社員」。
同じ課の女子社員が、昼休みのあと時間通りに戻ってこない。上司への取り繕い方が上手で、以前注意したところ、上司に逆に、「そんな細かいことばかり気にしていると嫌われるぞ」と怒られてしまった。どうしたら彼女の姿勢を正せるのでしょうか。


これに対する読者の意見は3つあったけど、どれも「〜という一言を!」とか「机を撤収して戻るところをなくせば」とかの頭ごしの叱責戦法、もしくは「女性社員仲間のリーダー格に率先役をさせる。戻りが後れたらジュース1本とか。」との懐柔戦法
いずれにせよ、「この女性社員をどうにかしたい」わけです。

なぜこれが面白い記事なのかというと、「怒りで対処する」思考体系の典型だからです。
そしてどんな面で典型的かと言うと、その怒りが妥当であることを疑いもしない、典型的ケースです。
これが友人や恋人とのデートの話なら、怒る以外のことをきっと考えるでしょうね。
仕事については、「限りなく生産し続けることが正しい」という感覚を、私たち現代人は疑いもしないものとして持っているようです。

サイトで説明する自己受容とか、自己欲求を基盤にする生き方とは、こんなことさえも一度根本から見直し、「なぜそうしなければならないのか」という思考を解体して、矛盾のない(つまり現実的理由を欠いた絶対道徳を脱した)思考体系を作り直すことでもあります。

なぜこの女子社員を正さなければならないのでしょうか。
昼休みは午後1時までというルールは、なぜあって、どの程度厳格に守る必要のある話なのか、守らないとどんな問題が起きるのか。

仕事における「べき」は、契約により発生します。
会社がこれを守れば給料を支払うという契約関係。
会社が、これはあくまで目安という程度と扱うなら、多少の逸脱は許されるということになります。
このケースでは、この会社におけるこのルールの扱いを「解釈」し、それを守らせる責任と権限は、この登場人物の中では上司が最も大きく持ちます。だから上司が「まあいい」ならそれで済む問題です。

もちろん、会社がいいと言っても、社会倫理的ルールというものもあります。これも大切。
「昼休みを守る」ことがどれだけ大切な社会倫理かというと、さてどんなもんでしょ。

ちなみにこの手の怒りは心理学的には、「尊敬要求が無視された怒り」とかに分類されます。
自分は真面目に一生懸命にやっている。そうでない人に比べて、より多くの尊敬や愛情が自分に向けられるべきである。

まあ、この手の憤りはあまりに当然と感じられるものなので、僕自身も、こうしたことまで苛立たずに受け流すようになったのは、結構最近のことです。
これ以上の考察は省略しときますが、だいたいそれは、僕自身の性格がお気楽になって、生活の中で「楽しい」という感情が主流になり、内向的性格が外向的性格に変化し始めた時期と重なります。
こんなことを疑うことにも、いいことがあると言えそうです。

まあ硬いこと言わず、ものは試しに自分の思考を疑ってみなはれ。アハハ..

No.174 2004/05/01(Sat) 11:42


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